原発再稼働事前了解の協定に、北茨城市と高萩市、いわき市も進んで参加するべきだ。
いうまでもないが、これらの自治体は原発災害で致命傷を受ける(受けてきた)のに、普段から何の保障も受けていない。今後も同じだろう。北茨城市が身を挺し被災者の代表として、東海第二原発を止めることなしに、茨城県が子育て支援をしているなどと述べる事はできようがない。いつ大事故が起きるか分からない場所で、進んで子育てしようとおもう母親がこの宇宙のどこにいるというのだろう? 人が怖がる施設、いや命を奪う施設の最たるものである原発が、魅力度を下げる要因の一つなのはまちがいない。
2018年3月29日
2018年3月26日
茨城県研究所集積策と、北茨城美術品控除税制案
茨城県が1位のことは沢山あるが、我々が悟るべきなのは、この既に1位の分野をますます圧倒的に傑出させるよう力を使い、かつ力が余ったら(その機会は圧倒的な集中に対してはるか少ないが)現時点で2位の為もう少しの努力で1位になれる分野をも1位にし、この「圧倒的な1位」を茨城県の単位でますますふやす方が、欠点の克服より戦略的に望ましいということだ。
鹿島アントラーズの小笠原満男選手が「1位以外は2位も最下位も一緒」という王者のアイデンティティで士気を鼓舞しているのは、勝負の本質を示している。と同時に、茨城は実際には孤独ではなく、他46都道府県と同じ国に属しており、茨城が世界1を取ったということは、同時にそれが日本が世界1を取ったことでもあるのだ。つまりチームプレーとは互いの傑出した長所をかけあわせて最も優れた協調性を発揮するものなのであり、国という単位に属する観点からは、個性に他ならない欠点を自ら補うより、他都道府県の長所で我々の欠点をカバーしてもらう様にした方が総合力を発揮し易い。例えば既に京都(あるいは北海道、沖縄、東京)といった自己の魅力を喧伝する事について傑出した自治体が国内にはあり、わざわざ赤い海としての観光集客的な自己宣伝を我々までが行ってみたところで、既に有名なブランド価値をもっている自治体を茨城がのりこえるのに要する費用は莫大となる。費用対効果が低い。そして欠点のない自治体はどこにもなく、それどころか茨城県がもっている欠点はどちらかといえば少ない方に属する。全般的に長所が多い分、はっきりした欠点が極めて目立つというわけなのだ。
嘗て分析されてきたよう、ここでいう欠点として県民がここ最近の共通課題としているブランド総研の魅力度調査は、生活先としてより観光地としての魅力度をつよく反映している傾向があり、実際にくらしている県民である我々自身は県内の優良観光地をしっているにせよ、それ自体が県外人の趣味嗜好と異なっていると同時に、資本を投下して宣伝したりますます有名にしていく傾向について日本で最も欠けている、と県外日本人の一部から評価されているのである。例えば偕楽園、水戸弘道館、西山荘、例えばネモフィラの丘、例えば筑波山、例えば霞ヶ浦、例えば五浦、磯原海岸、雨情記念館と生家、例えば鹿島神宮、例えば日立駅、例えば大洗水族館、大洗海岸、例えば花貫渓谷、例えば久慈川の渓流、例えば水戸線の田園風景、例えば見渡す限り地平線まで黄金の稲穂の稲敷市、例えば袋田の滝、例えば利根川、例えば古河の桃まつり、例えば大津の御船祭り、例えば水郷潮来のあやめ祭り、例えば水戸芸術館、例えば鵜の岬、例えば牛久大仏、例えば常陸風土記の丘、例えば虎塚古墳、例えば那珂湊反射炉跡、例えば日立の工場、例えば佐竹寺、例えば板谷波山記念館、例えば茨城県庁の展望台、例えば美浦トレーニングセンター、例えば筑波サーキット、例えば筑波学園都市、例えば奥久慈しゃも、例えばあんこう鍋、例えば吉原殿中、例えばローズポーク、例えば雨情の里牛、例えば竜ケ崎コロッケ、例えば天心焼、例えば結城紬、等々、これら県民にとっての有名どころでさえ数え上げればきりがなく、北茨城市民のみならず、茨城県民自身が身近に愛好し、極めて高い歴史的価値、魅力を感じている観光資産はほとんど無限にあるのだが、県外の人々は我々について日本で最もなにもしらない。そしてそのことについて、県外の人々は関心をもとうともせず、却って無知を合理化するべく何もないと差別的に我々の名誉を侮辱し、我々自身はこの不条理な県外日本人らの態度にがっかりし、内心軽蔑感を感じつつも、自足している。なぜなら我々は県内外の観光を共に充実して行えるし、実際に行ってきたのに、県外の人々は我々の観光資源について余りに無知すぎ、その事を恥じたり反省する気配すらないので、茨城人と県外日本人の間のすれ違いは終わらないからだ。こうしてみると、茨城県という地域は不思議な運命に導かれている、ある種の聖域といってもいいだろう。首都圏の情報が直接入るので自前の民放テレビ局を持つ必要がなかった、という条件は、栃木や埼玉、千葉、神奈川についても同様だったはずだが、儒教を経由した水戸学上の謙遜の美徳の為か、それとも茨城放送の経営基盤の脆弱さの為か、茨城の情報についてひとりでに県外に対して隠密化させた。前知事橋本氏がいばキラTVを作って以来、多少なりとも県内情報が発信される様にはなったが、これを除けば日本で最も自己発信しない、日本で最も謙虚な自治体が茨城であり、その目立たない地味さを好むわが県の処世態度が、魅力度が最低であるという偏見を県外の愚民に持たせる原因になったと洞察できる。そしてこの自己謙遜という美徳は、今日の世界でみればむしろ嘗ての封建領主や貴族が多かれ少なかれ上品さとしてもっていた特殊な思慮深さに由来しているのであり、インスタグラムとかツイッター、ユーチューブ等の情報発信を気軽にできる媒体が増え全人類がその自己宣伝に感けている今日、ますます希少になりつつある。もし如何に県外の無知な日本国民、ブランド総研の田中章雄を含む衆愚から、我々茨城県民が侮辱され、誤解され、わが県が不当に辱められていたとしても、これに心ある者なら全人類のだれでも感じるだろう怒りを抑え、愚かな日本人を相手にしてもできるだけ寛容に接しつつ、県内の良所について謙虚に述べる事ができたなら、それはわが県民が功徳の結晶によって聖なる人々な証拠である。尤も、多少なり知性がある人物ならわが県についても好奇心に基づいて既知の筈だから、この種の無意味な差別や偏見を喧伝している、田中章雄や今日の虚報に満ちた都内マスメディアの衆愚性へ何らかの仕方で憂慮を表明してくるであろうし、最低でも知らない相手について侮辱するとか、田園地帯を訳もなく都心中華思想で差別するといった明らかな愚劣さを示す事はない。
ところでわが県に既存の長所のうち、現時点で研究機関数の人口比が圧倒的に1位である事が、今後も世界1をとりつづけていく一つの有効な戦略であろう。すなわち、全世界から研究機関を茨城県域へ集積させる様、この点に集中した誘致・起業活動を行うべきである。IT事業といってもその中で、シンクタンク、研究所という情報分析・戦略的な研究分野の起業や誘致をはかり、制度的に鼓舞するのがおそらく最も、わが県が世界史に重要な貢献をする為に有効である。四六駢儷体の民俗学的地誌『常陸風土記』からはじまり全編漢文による正史『大日本史』、筑波大における3つのノーベル賞受賞者等の伝統的傾向にみられるよう、常陸と下総の一部を含む茨城県民は知性を発揮する事にかなりの実績をあげてきたのであり、より上位概念としては、知識集約的な産業集積をはかるのに好適な環境条件が揃っているのだろうと考えられる。例えば年間を通して穏やかな気候や、分散型の都市構造をもつために大都市の喧騒から離れ研究に集中し易い事、また広大な土地は研究機関を立地させるのに好ましいのだろう。県民の平均学力という点でみても比較的上位に位置する状態だが、更に知的労働者を集めた結果として、県民の知性の中央値をひきあげる結果をもたらす事が、一般知能や学歴と正に相関しやすい生涯年収または所得、そして所得の対数に比例する主観的幸福度へと県規模でつながっていくだろう。
他にもメロンや栗といった17品目以上の農作物の出荷高とか卸売市場での青果物シェアや、真珠の産出量とか、平野、川、工場、耕地、住宅の広さ、等々についても1位であり、公園や湖の広さ、小中学生体力テスト成績、五輪選手の金メダル数等々についても2位が多数あるわけだが、これらについては別のところで考察する事にする。
最後に北茨城市の現状に上述のことをあてはめると、伝統の傾向から美術家を集めようと考える事は、美術一般もそうだが、特にそのうち特に純粋芸術は知識集約的なしごとだから、同様に茨城県の未来を拓く基本戦略と合致し得る。既に県内取手市には東京芸大のキャンパスが存在するわけだが、そもそも芸術系大学という制度はその創始たるフランスのエコール・デ・ボザール教育にみられるとおり、古典の模倣をさせる傾向をもち、歴史的には前衛性に対する反動として機能した。芸術の本質が独創にあるからには、芸術は学習しえず、むしろ教育し得るのは単なる学習可能な知識の体系としての美術史や芸術史、或いは個別の素材についての材料工学くらいのものである。これらは科学に属し、多かれ少なかれ、学生が前例をまねることができるからだ。したがって最も知識集約的な美術分野とは、これら美術史の教養を背景に、材料工学の応用として表現される、前衛的な純粋芸術そのものだといえる。ところで、この種の前衛作家が市内に多数集積する為には、彼らの作品が市内でできるだけ高額で盛んに購買される需要がなければならない。特に世界最大のシェアをもつ競売会社が未来のいずれかの時点で市内にでき、ここが世界の投機美術市場を牽引する事で、世界中からわが市に最先端の美術家を必然にあつめる事を企図しよう。また同時に、そもそも市民がより知的な負荷の高い、理解しがたい前衛芸術を好んで高額で購買する様な条件づけが必要なわけだが、アメリカに倣い、投機商品として前衛性のある作品の先物買いや、その種の潜在的才能をもつ作家への先行投資が、この市にて世界で最も活発におこなわれるようにならなくてはいけない。これは絵画を中心とした美術を嚆矢とし、彫塑、建築、音楽、文芸といった純粋芸術一般、或いは応用芸術としての陶芸や民芸、その他のサブカルチャーといった商業芸術一般についても同様になり得るが、選択と集中が投資収益率や市場シェア占有率の乗数としてより効果的であるかぎり、特に五浦派の前例がある絵について、模範的な役割を示すべきであろう。
そもそも、これらの美術を装飾品として買うに足る資産家が、市内に多数存在している必要があり、それには金融教育を通じ、できるだけ稼いだ額について些細な消費に回さず、投資を行う習慣をつけるべきである。個人投資家・与沢翼の説では、圧倒的な富裕層になる筋道は2つしかなく、1つは経営者になる事、もう1つは投資家になる事である。このうち、経営者は起業または出世・相続によって自らの事業をもち、その純利益を高める必要がある。投資家になるには証券口座を開いたり、仮想通貨を含む為替取引業者に送金し金融商品を売買すればよい。すなわち、北茨城市内に既にある会社か、それ以外に自ら起業し、組織か個人で事業の採算性を高めていくという筋道か、合理的な投資知識、金融工学に基づいて利益の上がる金融商品を保有する、どちらかの道を辿り、このうち経済的には投機・投資商品の一種とみなせる美術品を市内において活発に取引する文化を形成していくしかない。市内に作家が糊口をしのぐ以上に多数集積する為には、潜在的構造として、この経営・投資的な経済人が美術史的教養をもって、存在していなければならない。またこの経済人は金融資産の一部または全体を使い、市内作家の前衛芸術、前衛美術を買う必要があり、できればこの美術品の購入にかかる消費税を市内で無税または減税措置とするか、購入した美術品を市内・県内の公的美術館へ寄付しそれが美術館側へ受け入れられた場合、または市内で取引した場合に、作品の市場査定額を税控除する制度が有効である。そうすれば寄付を目的に進んで購入した先物的な前衛作品を、市内にこの経済人が寝かせておく条件をつけられるし、作品売却代で市内に作家が生活でき、またこの経済人の寄付後は市内・県内の美術館は査定額の高い作品を実質的に無償で寄贈される事ができ、行政にとっても民間の経済人にとっても相利的になる。美術館が既に市場査定額の高くなった、美術史上、または美術いちばの評価が定まった作品を購入する税負担より、先物買いのリスクを民間人が進んでとってくれる、この北茨城市・茨城県美術品寄付控除税制の方がたやすく傑作を手に入れやすく、美術館のみならず市県の名声を高めるのである。
鹿島アントラーズの小笠原満男選手が「1位以外は2位も最下位も一緒」という王者のアイデンティティで士気を鼓舞しているのは、勝負の本質を示している。と同時に、茨城は実際には孤独ではなく、他46都道府県と同じ国に属しており、茨城が世界1を取ったということは、同時にそれが日本が世界1を取ったことでもあるのだ。つまりチームプレーとは互いの傑出した長所をかけあわせて最も優れた協調性を発揮するものなのであり、国という単位に属する観点からは、個性に他ならない欠点を自ら補うより、他都道府県の長所で我々の欠点をカバーしてもらう様にした方が総合力を発揮し易い。例えば既に京都(あるいは北海道、沖縄、東京)といった自己の魅力を喧伝する事について傑出した自治体が国内にはあり、わざわざ赤い海としての観光集客的な自己宣伝を我々までが行ってみたところで、既に有名なブランド価値をもっている自治体を茨城がのりこえるのに要する費用は莫大となる。費用対効果が低い。そして欠点のない自治体はどこにもなく、それどころか茨城県がもっている欠点はどちらかといえば少ない方に属する。全般的に長所が多い分、はっきりした欠点が極めて目立つというわけなのだ。
嘗て分析されてきたよう、ここでいう欠点として県民がここ最近の共通課題としているブランド総研の魅力度調査は、生活先としてより観光地としての魅力度をつよく反映している傾向があり、実際にくらしている県民である我々自身は県内の優良観光地をしっているにせよ、それ自体が県外人の趣味嗜好と異なっていると同時に、資本を投下して宣伝したりますます有名にしていく傾向について日本で最も欠けている、と県外日本人の一部から評価されているのである。例えば偕楽園、水戸弘道館、西山荘、例えばネモフィラの丘、例えば筑波山、例えば霞ヶ浦、例えば五浦、磯原海岸、雨情記念館と生家、例えば鹿島神宮、例えば日立駅、例えば大洗水族館、大洗海岸、例えば花貫渓谷、例えば久慈川の渓流、例えば水戸線の田園風景、例えば見渡す限り地平線まで黄金の稲穂の稲敷市、例えば袋田の滝、例えば利根川、例えば古河の桃まつり、例えば大津の御船祭り、例えば水郷潮来のあやめ祭り、例えば水戸芸術館、例えば鵜の岬、例えば牛久大仏、例えば常陸風土記の丘、例えば虎塚古墳、例えば那珂湊反射炉跡、例えば日立の工場、例えば佐竹寺、例えば板谷波山記念館、例えば茨城県庁の展望台、例えば美浦トレーニングセンター、例えば筑波サーキット、例えば筑波学園都市、例えば奥久慈しゃも、例えばあんこう鍋、例えば吉原殿中、例えばローズポーク、例えば雨情の里牛、例えば竜ケ崎コロッケ、例えば天心焼、例えば結城紬、等々、これら県民にとっての有名どころでさえ数え上げればきりがなく、北茨城市民のみならず、茨城県民自身が身近に愛好し、極めて高い歴史的価値、魅力を感じている観光資産はほとんど無限にあるのだが、県外の人々は我々について日本で最もなにもしらない。そしてそのことについて、県外の人々は関心をもとうともせず、却って無知を合理化するべく何もないと差別的に我々の名誉を侮辱し、我々自身はこの不条理な県外日本人らの態度にがっかりし、内心軽蔑感を感じつつも、自足している。なぜなら我々は県内外の観光を共に充実して行えるし、実際に行ってきたのに、県外の人々は我々の観光資源について余りに無知すぎ、その事を恥じたり反省する気配すらないので、茨城人と県外日本人の間のすれ違いは終わらないからだ。こうしてみると、茨城県という地域は不思議な運命に導かれている、ある種の聖域といってもいいだろう。首都圏の情報が直接入るので自前の民放テレビ局を持つ必要がなかった、という条件は、栃木や埼玉、千葉、神奈川についても同様だったはずだが、儒教を経由した水戸学上の謙遜の美徳の為か、それとも茨城放送の経営基盤の脆弱さの為か、茨城の情報についてひとりでに県外に対して隠密化させた。前知事橋本氏がいばキラTVを作って以来、多少なりとも県内情報が発信される様にはなったが、これを除けば日本で最も自己発信しない、日本で最も謙虚な自治体が茨城であり、その目立たない地味さを好むわが県の処世態度が、魅力度が最低であるという偏見を県外の愚民に持たせる原因になったと洞察できる。そしてこの自己謙遜という美徳は、今日の世界でみればむしろ嘗ての封建領主や貴族が多かれ少なかれ上品さとしてもっていた特殊な思慮深さに由来しているのであり、インスタグラムとかツイッター、ユーチューブ等の情報発信を気軽にできる媒体が増え全人類がその自己宣伝に感けている今日、ますます希少になりつつある。もし如何に県外の無知な日本国民、ブランド総研の田中章雄を含む衆愚から、我々茨城県民が侮辱され、誤解され、わが県が不当に辱められていたとしても、これに心ある者なら全人類のだれでも感じるだろう怒りを抑え、愚かな日本人を相手にしてもできるだけ寛容に接しつつ、県内の良所について謙虚に述べる事ができたなら、それはわが県民が功徳の結晶によって聖なる人々な証拠である。尤も、多少なり知性がある人物ならわが県についても好奇心に基づいて既知の筈だから、この種の無意味な差別や偏見を喧伝している、田中章雄や今日の虚報に満ちた都内マスメディアの衆愚性へ何らかの仕方で憂慮を表明してくるであろうし、最低でも知らない相手について侮辱するとか、田園地帯を訳もなく都心中華思想で差別するといった明らかな愚劣さを示す事はない。
ところでわが県に既存の長所のうち、現時点で研究機関数の人口比が圧倒的に1位である事が、今後も世界1をとりつづけていく一つの有効な戦略であろう。すなわち、全世界から研究機関を茨城県域へ集積させる様、この点に集中した誘致・起業活動を行うべきである。IT事業といってもその中で、シンクタンク、研究所という情報分析・戦略的な研究分野の起業や誘致をはかり、制度的に鼓舞するのがおそらく最も、わが県が世界史に重要な貢献をする為に有効である。四六駢儷体の民俗学的地誌『常陸風土記』からはじまり全編漢文による正史『大日本史』、筑波大における3つのノーベル賞受賞者等の伝統的傾向にみられるよう、常陸と下総の一部を含む茨城県民は知性を発揮する事にかなりの実績をあげてきたのであり、より上位概念としては、知識集約的な産業集積をはかるのに好適な環境条件が揃っているのだろうと考えられる。例えば年間を通して穏やかな気候や、分散型の都市構造をもつために大都市の喧騒から離れ研究に集中し易い事、また広大な土地は研究機関を立地させるのに好ましいのだろう。県民の平均学力という点でみても比較的上位に位置する状態だが、更に知的労働者を集めた結果として、県民の知性の中央値をひきあげる結果をもたらす事が、一般知能や学歴と正に相関しやすい生涯年収または所得、そして所得の対数に比例する主観的幸福度へと県規模でつながっていくだろう。
他にもメロンや栗といった17品目以上の農作物の出荷高とか卸売市場での青果物シェアや、真珠の産出量とか、平野、川、工場、耕地、住宅の広さ、等々についても1位であり、公園や湖の広さ、小中学生体力テスト成績、五輪選手の金メダル数等々についても2位が多数あるわけだが、これらについては別のところで考察する事にする。
最後に北茨城市の現状に上述のことをあてはめると、伝統の傾向から美術家を集めようと考える事は、美術一般もそうだが、特にそのうち特に純粋芸術は知識集約的なしごとだから、同様に茨城県の未来を拓く基本戦略と合致し得る。既に県内取手市には東京芸大のキャンパスが存在するわけだが、そもそも芸術系大学という制度はその創始たるフランスのエコール・デ・ボザール教育にみられるとおり、古典の模倣をさせる傾向をもち、歴史的には前衛性に対する反動として機能した。芸術の本質が独創にあるからには、芸術は学習しえず、むしろ教育し得るのは単なる学習可能な知識の体系としての美術史や芸術史、或いは個別の素材についての材料工学くらいのものである。これらは科学に属し、多かれ少なかれ、学生が前例をまねることができるからだ。したがって最も知識集約的な美術分野とは、これら美術史の教養を背景に、材料工学の応用として表現される、前衛的な純粋芸術そのものだといえる。ところで、この種の前衛作家が市内に多数集積する為には、彼らの作品が市内でできるだけ高額で盛んに購買される需要がなければならない。特に世界最大のシェアをもつ競売会社が未来のいずれかの時点で市内にでき、ここが世界の投機美術市場を牽引する事で、世界中からわが市に最先端の美術家を必然にあつめる事を企図しよう。また同時に、そもそも市民がより知的な負荷の高い、理解しがたい前衛芸術を好んで高額で購買する様な条件づけが必要なわけだが、アメリカに倣い、投機商品として前衛性のある作品の先物買いや、その種の潜在的才能をもつ作家への先行投資が、この市にて世界で最も活発におこなわれるようにならなくてはいけない。これは絵画を中心とした美術を嚆矢とし、彫塑、建築、音楽、文芸といった純粋芸術一般、或いは応用芸術としての陶芸や民芸、その他のサブカルチャーといった商業芸術一般についても同様になり得るが、選択と集中が投資収益率や市場シェア占有率の乗数としてより効果的であるかぎり、特に五浦派の前例がある絵について、模範的な役割を示すべきであろう。
そもそも、これらの美術を装飾品として買うに足る資産家が、市内に多数存在している必要があり、それには金融教育を通じ、できるだけ稼いだ額について些細な消費に回さず、投資を行う習慣をつけるべきである。個人投資家・与沢翼の説では、圧倒的な富裕層になる筋道は2つしかなく、1つは経営者になる事、もう1つは投資家になる事である。このうち、経営者は起業または出世・相続によって自らの事業をもち、その純利益を高める必要がある。投資家になるには証券口座を開いたり、仮想通貨を含む為替取引業者に送金し金融商品を売買すればよい。すなわち、北茨城市内に既にある会社か、それ以外に自ら起業し、組織か個人で事業の採算性を高めていくという筋道か、合理的な投資知識、金融工学に基づいて利益の上がる金融商品を保有する、どちらかの道を辿り、このうち経済的には投機・投資商品の一種とみなせる美術品を市内において活発に取引する文化を形成していくしかない。市内に作家が糊口をしのぐ以上に多数集積する為には、潜在的構造として、この経営・投資的な経済人が美術史的教養をもって、存在していなければならない。またこの経済人は金融資産の一部または全体を使い、市内作家の前衛芸術、前衛美術を買う必要があり、できればこの美術品の購入にかかる消費税を市内で無税または減税措置とするか、購入した美術品を市内・県内の公的美術館へ寄付しそれが美術館側へ受け入れられた場合、または市内で取引した場合に、作品の市場査定額を税控除する制度が有効である。そうすれば寄付を目的に進んで購入した先物的な前衛作品を、市内にこの経済人が寝かせておく条件をつけられるし、作品売却代で市内に作家が生活でき、またこの経済人の寄付後は市内・県内の美術館は査定額の高い作品を実質的に無償で寄贈される事ができ、行政にとっても民間の経済人にとっても相利的になる。美術館が既に市場査定額の高くなった、美術史上、または美術いちばの評価が定まった作品を購入する税負担より、先物買いのリスクを民間人が進んでとってくれる、この北茨城市・茨城県美術品寄付控除税制の方がたやすく傑作を手に入れやすく、美術館のみならず市県の名声を高めるのである。
茨城どうぶつの家の構想と、茨城県動物愛護条例改正案
茨城の犬の飼い方や制度改革についていえるのは、先ずドイツのベルリンにあるティア・ハイム(ドイツ語で動物の・家)とよばれる民間施設へ北茨城市と茨城県の動物福祉の関係者(そもそもこのような職種がないなら、保健所の職員)を留学させ、またアルシャー・京子氏という啓蒙活動をしているドイツの日系獣医師と連絡をとって、市県の現状について相談しつつ、ドイツの法制度と犬を町中の殆どあらゆる場所でほぼ放し飼いで飼っている地域もあるそのペット共存社会の文化の在り方を根底から学びまねる事からはじめるべきである。この後、フランス、イギリス、その他の西洋、またそれ以外の国々の現状をつぶさに視察研究し、茨城とその他の自治体の長短を見比べて、動物の幸福度も人間同様に可能な限り図るという動物倫理学に基づいて、市県の条例や飼育文化のありかたを見直し、つくりかえねばならない。
具体的には、次の点が模倣されるべきである。
・ 動物の5つの自由(イギリス動物福祉法2006第9条)が尊重されねばならない。即ち
参考3、ベルリンのティアハイム(出典1、2、3)
・県犬税、市犬税を、上述の動物愛護団体を除き、飼い犬または販売店における売り犬の頭数あたり取り(頭あたり年額1万円以上数万程度か)、この税金を犬のしつけを行う専門家としてのブリーダー教育をおもとした動物愛護団体への投資(上述のどうぶつの家の主要株主になる事を主として、市県の動物愛護関連投資に用いる)、犬が自由に走り回れる広大な空間であるドッグランの整備や地域公園への併設、市県各地に置く清潔を目的にした犬のトイレ跡を入れる専用ごみ箱の設置、或いは狂犬病の予防接種費の助成などに使う様にする。この犬税の目的は販売店が安易に犬を販売する事や、飼育しきれない飼い主の無責任な犬の衝動買いを防ぎ、販売店・飼育者両方の負担を今より重くし飼育前に熟慮を促す事、なおかつこの犬税水準を県内の遺棄動物を「どうぶつの家」から有料で貰う方が安くつくように設定する事で、すてられた動物、虐待する飼い主から強制的に離された動物に、どうしてもその子を飼いたいと考える新たな飼い主を見つける鼓舞をつけられる。(参考)
・茨城県動物愛護条例は4条2「終生飼育」5条「係留」11条「殺処分」の項目についてそれぞれ改善しなければならならい。
先ず終生飼育に関し、動物5つの自由を必要十分に与えられなかった飼い主については事実上の動物虐待と見なし、飼い主は動物に関する実質的所有権を失うと考え、動物福祉の観点から行政が同条例に基づいて原則として該当の動物を保護し、動物愛護団体へひきわたさねばならない。またこの愛護団体は同様の5つの自由を動物に確保すると同時に、この自由を動物へ与える事が確実と見なせる新たな飼い主へ、飼い主の義務と基本的しつけを守る制約の元で引き渡すよう努めねばならない。公共空間でリードなしに放任した際に動物が他者へ与える害や、噛みついたり、吠えたてたりする事で他者へ与える怪我や恐怖を厳しく罰したり、飼い主が犬の習性としての縄張りづくりとして排泄行為をした際、固形的排泄物を清掃する義務を必ず守るといった、この基本的しつけの範囲については、獣医やブリーダーと相談の上、同条例で或る程度細かく規定しておくべきである。同条例の基本的しつけを飼い主が怠っていると明らかに見なせる場合は、警察が罰金に処するか、他人が与えられる害を防ぎ、動物を保護送致するまで当該飼い主を適宜に一時拘留し、獰猛な危険犬種について他人を容易に致死に至らせる状態に置く等程度が酷い場合は刑期を与えねばならない。但し、現にドイツやフランスをはじめとする西洋圏では犬が放し飼いにされているのが現前の事実なのであり(実際には州によって異なるリード付の義務などがあるとされているが)、日本でそれが不可能なのは、犬へのしつけが適切に行われていない事に原因があると考えられる。すなわち、犬を飼う為にはこの放し飼いにされても公害を与えないための基本的なしつけを飼い犬に対して飼い主が行う責任があると考えられるのであり、上述の「どうぶつの家」等の愛護施設には専用のブリーダーを備えたドッグ・スクールを併設する事を同条例で義務づけ、基本的しつけが整い、飼い主もその扱い方をおぼえるまでは飼い主の元で暮らせない様にするべきである。各個人の元で繁殖した犬についても、この飼い主が自らドッグ・スクールに通わせるか、同等以上の基本的しつけを与える義務を同条例で定義し、この規則を破った場合には罰金、動物保護の為の拘留いずれかが与えられねばならない。端的にいって、人間社会で飼育する際に自らの飼い犬へしつけを与えないということは遠からずその犬の反社会性の為にこの犬が世間から害悪扱いされる将来を予想させ、一種の動物虐待だと考えられるのであり、したがって同条例では犬へのしつけの義務を飼い主の最も重要な義務と定義しなければならない。さらに、子犬を生後8週間たたないと原則として親犬から引き離せない(親がいない場合を除き、無理に引き離した場合は罰金を伴う)規則、飼育する檻・ケージ・小屋・囲い等の最低面積は体高50cm(立った状態で地面から背中までの長さが50㎝)までは6m2、65cm以上は102mとし、採光、通気、暖房設備などに基準をつくる。これらの規則と基準はEU動物愛護法にのっとるドイツの現行規則に倣ったものだが、茨城県動物愛護条例でも同則へ準じ、世界の動物愛護制度を寧ろ改良した立場にたつよう努めなくてはならない(これらの規則・基準の過酷さは動物販売業の負担となる為、遺棄動物をどうぶつの家から貰う誘因を間接的にもたらす結果になっているとされている)。そして様々な生活状況から動物をそれ以上飼うのがいかにしても不可能になった場合、少なくともその動物を動物愛護団体へ自己責任の元で必ず返す義務もこの飼い主の義務に含めねばならない(参考1、参考2、参考3)。
次に5条係留については、上述のよう十分にしつけられ獰猛さという意味で危険性の低い犬種については事実上の放し飼いが放置されているのがドイツやフランスで都市部にみられる現象なので、例として以下にあげられている代表的な危険犬種の様な、人に死傷級の怪我を与える可能性が十分高い血統を除いては、寧ろ人へ公害や迷惑を与える可能性が高いと考えられる場面では飼い主の自己判断でリードをつけるよう努めるとか、別の規則で犬のもちこみが禁じられている場所(盲導犬についてのバリアフリー化を考えると、この様な場所は基本的に最小であるべきだろう)については予め定められているか、飼い主が適切と判断した位置へ一時的に係留する、と定める程度に緩和するべきなのかもしれない。公共空間でリードをつける事は、少なくとも未然に噛みつき事故を防止するという意味で、茨城の方が西洋世界より先に到達している公的マナーなのだと考えられるが、他人と接触する公共空間を除けば、できれば盲導犬のようよくしつけられている為、係留せずリードをつけなくとも暮らせるよう、人だけでなく犬の自由も増大する方向へと進歩しようとするのが正しい動物福祉の道筋だろうと自分には思える。ただし、万が一を考えて飼い主の自主性に任せたままで、公共の場では犬にリードをつけつつ、噛みつけないような口マスクを飼い犬へかけるのが飼い主の尊敬されるべきマナー、と捉えられるようにするべきなのである。つまり、現時点の茨城県動物愛護条例での係留の義務に関しては、「公共空間ではリード(綱)をつけ、万が一の噛みつき事故を未然に防止すると同時に、犬を好まない人へ飼い犬が接近する事を抑止し、公共交通機関などの中では飼い犬へ口マスクをかけるといった公共マナーを、飼い主が率先して守る義務」がかきくわえられるべきであると同時に、また私的空間での係留の義務は、公共空間での一時的な係留や危険犬種を除いて解除し、少なくとも飼い主がドッグスクールやブリーダーと共に厳しいしつけの義務を負う条文を義務づけるべきであろう。他国の危険犬種への扱いを参考にすると、危険犬種の一部については繁殖、販売、入国そのものを禁じている場合も、また飼育について許可証が必要だったり、その証明書をとるための適正検査を科している地域もある様だ。したがってこの種の人命にかかわる致死的攻撃性をもつ犬種を、私的空間から公共空間へみだりに遁走させるのは極めて公害度が高いと考えられるので、この場合に限っては飼い主が緊密に係留する義務と、遁走させたり他者を傷つけたり、恐怖を与えた場合の罰則や、一度以上の事件を起こした危険犬種を市県の行政が強制的に愛護施設等へ移送し、より厳しいしつけを行うか、攻撃性や狂乱性が明らかなとき、最大限安楽死を避けて終生、人に危害を加えない環境に隔離され育てられるようにする必要性を条文へもりこむべきである。このとき、例えば殺人を犯した犬に罰としての死刑や安楽死すら与えられないなら、究極のところ、人における死刑における安楽死の導入、あるいは死刑廃止論や終身刑を最高刑とする刑法体系への転換をも促すきっかけになるかもしれない。既にノルウェー等で実現している死刑廃止が動物・人による殺人発生率の漸減によって将来必ずわが国の単位でも実現するとしても、その途中では遺族の感情を十分に勘案したうえで、死刑に該当する安楽死とか、終身刑に該当する生涯隔離の妥当性をあてはめていくべき、となるだろう。単に愛護施設・受刑施設側の容積が足りないといった物質的理由で命を奪う事は決して文明的ではない。この場合、費用が足りない分は、公共や司法の分である税金から補填するのが当然といえるだろう。(参考)
11条殺処分については、これまで保健所が行ってきた時限措置としての炭酸ガスによる強制窒息死が動物の5つの自由を妨げ、動物の感じる主観的苦痛としての不幸をましているのが明らかだから、麻酔薬による苦痛をより小さくしか感じない安楽死をとる必要性がある。この事は人の死刑についても絞首という残虐な刑罰の仕方が、遺族の復讐心や憎悪感情へ配慮するあまりとられている日本にあって、同様の方法がとられるべきと示しているように思われるし、この種の安楽死の求刑そのものの倫理的本質を問えば、「単に自由を終生、反省のよすがを与える程度に制限する」だけに留まる終身刑の方が、本来の意味で償いの機会を与える、より過酷な刑罰だといえるのである。即ち、単に犬をはじめとした動物について、如何様にも生存が見込まれず苦痛のみがある個体に安楽死を与える方が生命倫理上正しいと獣医が判断した場合、動物の感じる苦痛が最小化する方法をとる必要性を、茨城県動物愛護条例にはっきり書き込まなくてはならない。保健所の殺処分業務はこの点で終了するべきである。同様に、動物一般に関する話から離れるが、茨城県の人間の刑法犯についても、最高刑が自由を奪い生涯を被害者と遺族への償いに捧げる終身刑になるべきであり、原始的な暴力による同罪報復論に過ぎない死刑は揚棄されると同時に、安楽死が今日の倫理的に正当化されるのは刑務者が深刻で甚大な苦痛を伴う重大な病気で回復の見込みがない為、それ以上の生存を刑務者が自らの意思において望まない様な場合に限るであろう。(参考1、参考2、参考3)
具体的には、次の点が模倣されるべきである。
・ 動物の5つの自由(イギリス動物福祉法2006第9条)が尊重されねばならない。即ち
1.乾きと飢えからの自由・ティアハイムを丸ごと参考に改良を加え、公設民営、または県内有志の愛護団体からなる自主民営の「どうぶつの家」株式会社を作り、保健所に代わって野良犬や捨てられた動物を獣医師やブリーダーと共に茨城どうぶつの家、北茨城どうぶつの家といった愛護施設で保護する。そこでは暴力性の極度な動物や苦痛の多大な末期の動物への安楽死(窒息などの苦痛を伴う方法をとらない)を除き、殺処分を原則として0へ向けかぎりなく最小化させ、飼いたい人々へ有償で動物を引き渡す。また保健所と異なり、いかなる条件にある遺棄された動物も保護し、飼い主が飼いきれなくなった場合にも保護する。飼い主による動物虐待が明らかな場合は条例で、飼い主から動物をとりあげこのどうぶつの家を含む動物愛護施設へ輸送する事を義務づける。飼い主が愛護施設からペットをとりもどす際には罰金の代わりの料金を徴収する。これまで保健所が行ってきた遺棄動物の殺処分という業務を禁じ、代わりに保健所は遺棄動物や迷子の動物を、可能なだけ動物5つの自由を守った形で、上述の愛護団体施設へ届ける役割、または、人を激しく咬み傷つけたり死亡させる事故を起こした為に危険と判断された犬を、同じく同愛護団体施設で安楽死させるまで安全に運ぶ役割を担う様にする。飼い主に受け渡す動物にはマイクロチップを装着し、遺失してもGPSで位置がわかるようにする。例えばどうぶつの家では一般市民が有料で飼育動物と遊べる場を設け、児童公園やカフェを併設する事で、飼い主にならないまでも動物たちと戯れる癒しの場を想定し、自然に接するよう選ばれた立地地点と共にできるだけ魅力的な親しみのある現代建築と共に地域の資産となるよう構想する。たとえばティアハイムが犬の檻が花弁の様、中心から輪の様に配置されているのは、社会的動物としての犬同士が互いを見る事ができるよう、同類から完全隔離されないよう配慮されているという。獣医学や動物倫理に基づいた設計とし、豊かな植物と自然環境に囲まれ、だれでも動物とふれあえる場所として茨城県や北茨城市の世界的に有名な観光名所となる事をも構想できる。それには、少なくとも世界で現時点で最も進んだ同様の意図による愛護施設と考えられるベルリンのティアハイムを超えた工夫と改良主義的な先進性の美質が必要である。(参考1、参考2、参考3)
(1)健康を維持するために栄養的に十分な食餌を与えられている。
(2)きれいな水をいつでも飲めるようになっている。
2.不快からの自由
温度、湿度、照明など、それぞれの動物にとって快適な環境を用意できている。
(1)自由に身体の向きを変えることができ、自然に立つことができ、楽に横たわることができる。
(2) 清潔かつ静かで、気持ちよく休んだり、身を隠すことができる。
(3) 炎天下の日差し、雨風を防ぐことができる。
(4) キツすぎる首輪など苦痛のある飼育環境にいない。
※ 身動きのできない狭い場所、糞尿まみれの状態、日よけのない炎天下、雨風や騒音などにさらされている、といった飼育環境は動物にとって好ましくはありません。
3.痛み、傷や病からの自由
(1) 怪我をするような危険物のある環境にいない。
(2) 病気にならないようにふだんから健康管理をしている。
(3) 痛み、外傷あるいは疾病の兆候があれば、十分な獣医医療が施される。
4.本来のふるまいをする自由
(1) 各々の動物種の本来の生態や習性に従った自然な行動が行えるようにする。
(2) 群れや家族で生活する動物は同種の仲間と生活でき、また、単独で生活する動物は単独で生活できる。
5.恐怖・苦悩からの自由
(1) 精神的苦痛、過度なストレスとなる恐怖や不安を与えず、それから守ること。
(2) 動物も痛みや恐怖、苦痛を感じることを理解し、もしその兆候があれば原因を特定して軽減に努めること。
参考3、ベルリンのティアハイム(出典1、2、3)
・茨城県動物愛護条例は4条2「終生飼育」5条「係留」11条「殺処分」の項目についてそれぞれ改善しなければならならい。
先ず終生飼育に関し、動物5つの自由を必要十分に与えられなかった飼い主については事実上の動物虐待と見なし、飼い主は動物に関する実質的所有権を失うと考え、動物福祉の観点から行政が同条例に基づいて原則として該当の動物を保護し、動物愛護団体へひきわたさねばならない。またこの愛護団体は同様の5つの自由を動物に確保すると同時に、この自由を動物へ与える事が確実と見なせる新たな飼い主へ、飼い主の義務と基本的しつけを守る制約の元で引き渡すよう努めねばならない。公共空間でリードなしに放任した際に動物が他者へ与える害や、噛みついたり、吠えたてたりする事で他者へ与える怪我や恐怖を厳しく罰したり、飼い主が犬の習性としての縄張りづくりとして排泄行為をした際、固形的排泄物を清掃する義務を必ず守るといった、この基本的しつけの範囲については、獣医やブリーダーと相談の上、同条例で或る程度細かく規定しておくべきである。同条例の基本的しつけを飼い主が怠っていると明らかに見なせる場合は、警察が罰金に処するか、他人が与えられる害を防ぎ、動物を保護送致するまで当該飼い主を適宜に一時拘留し、獰猛な危険犬種について他人を容易に致死に至らせる状態に置く等程度が酷い場合は刑期を与えねばならない。但し、現にドイツやフランスをはじめとする西洋圏では犬が放し飼いにされているのが現前の事実なのであり(実際には州によって異なるリード付の義務などがあるとされているが)、日本でそれが不可能なのは、犬へのしつけが適切に行われていない事に原因があると考えられる。すなわち、犬を飼う為にはこの放し飼いにされても公害を与えないための基本的なしつけを飼い犬に対して飼い主が行う責任があると考えられるのであり、上述の「どうぶつの家」等の愛護施設には専用のブリーダーを備えたドッグ・スクールを併設する事を同条例で義務づけ、基本的しつけが整い、飼い主もその扱い方をおぼえるまでは飼い主の元で暮らせない様にするべきである。各個人の元で繁殖した犬についても、この飼い主が自らドッグ・スクールに通わせるか、同等以上の基本的しつけを与える義務を同条例で定義し、この規則を破った場合には罰金、動物保護の為の拘留いずれかが与えられねばならない。端的にいって、人間社会で飼育する際に自らの飼い犬へしつけを与えないということは遠からずその犬の反社会性の為にこの犬が世間から害悪扱いされる将来を予想させ、一種の動物虐待だと考えられるのであり、したがって同条例では犬へのしつけの義務を飼い主の最も重要な義務と定義しなければならない。さらに、子犬を生後8週間たたないと原則として親犬から引き離せない(親がいない場合を除き、無理に引き離した場合は罰金を伴う)規則、飼育する檻・ケージ・小屋・囲い等の最低面積は体高50cm(立った状態で地面から背中までの長さが50㎝)までは6m2、65cm以上は102mとし、採光、通気、暖房設備などに基準をつくる。これらの規則と基準はEU動物愛護法にのっとるドイツの現行規則に倣ったものだが、茨城県動物愛護条例でも同則へ準じ、世界の動物愛護制度を寧ろ改良した立場にたつよう努めなくてはならない(これらの規則・基準の過酷さは動物販売業の負担となる為、遺棄動物をどうぶつの家から貰う誘因を間接的にもたらす結果になっているとされている)。そして様々な生活状況から動物をそれ以上飼うのがいかにしても不可能になった場合、少なくともその動物を動物愛護団体へ自己責任の元で必ず返す義務もこの飼い主の義務に含めねばならない(参考1、参考2、参考3)。
次に5条係留については、上述のよう十分にしつけられ獰猛さという意味で危険性の低い犬種については事実上の放し飼いが放置されているのがドイツやフランスで都市部にみられる現象なので、例として以下にあげられている代表的な危険犬種の様な、人に死傷級の怪我を与える可能性が十分高い血統を除いては、寧ろ人へ公害や迷惑を与える可能性が高いと考えられる場面では飼い主の自己判断でリードをつけるよう努めるとか、別の規則で犬のもちこみが禁じられている場所(盲導犬についてのバリアフリー化を考えると、この様な場所は基本的に最小であるべきだろう)については予め定められているか、飼い主が適切と判断した位置へ一時的に係留する、と定める程度に緩和するべきなのかもしれない。公共空間でリードをつける事は、少なくとも未然に噛みつき事故を防止するという意味で、茨城の方が西洋世界より先に到達している公的マナーなのだと考えられるが、他人と接触する公共空間を除けば、できれば盲導犬のようよくしつけられている為、係留せずリードをつけなくとも暮らせるよう、人だけでなく犬の自由も増大する方向へと進歩しようとするのが正しい動物福祉の道筋だろうと自分には思える。ただし、万が一を考えて飼い主の自主性に任せたままで、公共の場では犬にリードをつけつつ、噛みつけないような口マスクを飼い犬へかけるのが飼い主の尊敬されるべきマナー、と捉えられるようにするべきなのである。つまり、現時点の茨城県動物愛護条例での係留の義務に関しては、「公共空間ではリード(綱)をつけ、万が一の噛みつき事故を未然に防止すると同時に、犬を好まない人へ飼い犬が接近する事を抑止し、公共交通機関などの中では飼い犬へ口マスクをかけるといった公共マナーを、飼い主が率先して守る義務」がかきくわえられるべきであると同時に、また私的空間での係留の義務は、公共空間での一時的な係留や危険犬種を除いて解除し、少なくとも飼い主がドッグスクールやブリーダーと共に厳しいしつけの義務を負う条文を義務づけるべきであろう。他国の危険犬種への扱いを参考にすると、危険犬種の一部については繁殖、販売、入国そのものを禁じている場合も、また飼育について許可証が必要だったり、その証明書をとるための適正検査を科している地域もある様だ。したがってこの種の人命にかかわる致死的攻撃性をもつ犬種を、私的空間から公共空間へみだりに遁走させるのは極めて公害度が高いと考えられるので、この場合に限っては飼い主が緊密に係留する義務と、遁走させたり他者を傷つけたり、恐怖を与えた場合の罰則や、一度以上の事件を起こした危険犬種を市県の行政が強制的に愛護施設等へ移送し、より厳しいしつけを行うか、攻撃性や狂乱性が明らかなとき、最大限安楽死を避けて終生、人に危害を加えない環境に隔離され育てられるようにする必要性を条文へもりこむべきである。このとき、例えば殺人を犯した犬に罰としての死刑や安楽死すら与えられないなら、究極のところ、人における死刑における安楽死の導入、あるいは死刑廃止論や終身刑を最高刑とする刑法体系への転換をも促すきっかけになるかもしれない。既にノルウェー等で実現している死刑廃止が動物・人による殺人発生率の漸減によって将来必ずわが国の単位でも実現するとしても、その途中では遺族の感情を十分に勘案したうえで、死刑に該当する安楽死とか、終身刑に該当する生涯隔離の妥当性をあてはめていくべき、となるだろう。単に愛護施設・受刑施設側の容積が足りないといった物質的理由で命を奪う事は決して文明的ではない。この場合、費用が足りない分は、公共や司法の分である税金から補填するのが当然といえるだろう。(参考)
11条殺処分については、これまで保健所が行ってきた時限措置としての炭酸ガスによる強制窒息死が動物の5つの自由を妨げ、動物の感じる主観的苦痛としての不幸をましているのが明らかだから、麻酔薬による苦痛をより小さくしか感じない安楽死をとる必要性がある。この事は人の死刑についても絞首という残虐な刑罰の仕方が、遺族の復讐心や憎悪感情へ配慮するあまりとられている日本にあって、同様の方法がとられるべきと示しているように思われるし、この種の安楽死の求刑そのものの倫理的本質を問えば、「単に自由を終生、反省のよすがを与える程度に制限する」だけに留まる終身刑の方が、本来の意味で償いの機会を与える、より過酷な刑罰だといえるのである。即ち、単に犬をはじめとした動物について、如何様にも生存が見込まれず苦痛のみがある個体に安楽死を与える方が生命倫理上正しいと獣医が判断した場合、動物の感じる苦痛が最小化する方法をとる必要性を、茨城県動物愛護条例にはっきり書き込まなくてはならない。保健所の殺処分業務はこの点で終了するべきである。同様に、動物一般に関する話から離れるが、茨城県の人間の刑法犯についても、最高刑が自由を奪い生涯を被害者と遺族への償いに捧げる終身刑になるべきであり、原始的な暴力による同罪報復論に過ぎない死刑は揚棄されると同時に、安楽死が今日の倫理的に正当化されるのは刑務者が深刻で甚大な苦痛を伴う重大な病気で回復の見込みがない為、それ以上の生存を刑務者が自らの意思において望まない様な場合に限るであろう。(参考1、参考2、参考3)
2018年3月25日
芸術における聖俗と品性について
芸術には高尚なものと低俗なものがある。美術用語として低俗な芸術を表すlowbrow、又これらに対して高尚な芸術を(慣用句としては半ば軽蔑的に)表すhighbrow、それらの中間を表すmiddlebrowという言葉があり、(browは眉)、それぞれ理解に要する知識の難易度を高中下で示していると考えられる。これに対してハイブローな芸術をhigh artとかhigh cultureと呼ぶ事もあり、ローブローな芸術をsub-cultureと呼ぶ事もある。これらはある作品の理解に要する知識の難易度による分類だといえる。ローブローを自嘲気味にいう漫画という言葉が、ハイブローな本画に対しての概念だという事も同様の枠組みで説明される(白川字学によれば、漫はさんずいと婦人の目の美しさを表す曼の組み合わせで、とりとめのないという意味もある文字である)。
また芸術には上品なものと下品なものがある。上品さとは欲望の直接性を否定している程度であり、下品さとは欲望の直接性に肉薄している程度である。日本語における上品下品、そして中品は、それぞれ仏教語であり、悟ったブッダを上品、悟っていない凡愚を下品、半ば悟っている修行者を中品と呼んでいると考えていいと思われる。芸術についてもこの観点を援用すれば、上品な作品とは或る欲望を具体的に表さず、寧ろありとあらゆる欲望を表現上に否定しているほどそうなのである。苫米地英人によれば、仏教哲学でいう究極の抽象概念である空は、有と無をもちあげたもの(止揚したもの)であり、情報量が極小の概念である一方、情報量が極大で人類には把握できない概念は矛盾だという。もし芸術が現実の具体的模造なら、クローンとしての完全複製が矛盾に該当し、逆に宇宙の時空間そのものが空の最も抽象的な表現形態だといえるだろう。いいかえれば、とりあえずの定義として、芸術とは時空間そのものという最も上品な作品から、クローンという最も下品な作品までの間にあるものである。我々が世界の諸現象を芸術という情報形式の中で再認する事は、抽象化された学習の一種だといえる。例えば科学とか哲学と呼ばれている知識体系の修得も、言語記号を通じて為される限り、広義の言語芸術を経由している。なぜ我々が芸術を通じた学び方をとるかといえば、嘗て人類が編み出した諸々の学習法の中で、模倣による再現可能性がある形式という意味で、それが最も合理的だったためなのだろう。
ところで、子供は一般に、大人、或いは美術に造詣の深い専門家が解釈できるより低俗な芸術を好む傾向がある。他方で、この低俗さは必ずしも下品さではない。すなわち低俗さは下品さと等しくない。高尚だが下品な作品とか、低俗だが上品な作品というものがあるのだ。前者は回りくどい文体で和歌を差し挟み高尚めかして書かれてはいるが内容は皇族・公家による単なる卑賎な不倫劇である『源氏物語』(紫式部による物語文芸)の様な作品であり、後者は大抵の子供にも入り込みやすい具体的な人物の心情表現であって背景知識も要求されないが表している事は人類による自然・環境破壊で暮らしを追われる小人に対する同情の念を通じた近代文明への根本的懐疑である『借りぐらしのアリエッティ』(宮崎駿によるアニメーション映画)の様な作品である。そして我々が子供の教育の際に重視するべきなのは、高尚・低俗の違いではなく、むしろ作品の上品さの方だ。その作品がわかりやすいという事を、ここでは低俗である、ローブローである、という言い方をとっているが、子供のもっている美術史、芸術史の知識は限られており、したがってどうしても古典様式に対する否定媒介的な進歩性として弁証法的に更新されていく規則をもつ高尚な作品を段階に順じて理解するのは難しい。しかし今日、低俗な作品群のかなりの部分は、同時に下品でもある。なぜなら東京の商業出版社とか、映画配給会社、そして大衆作家は俗受けするほど大量に売れて金が入るという商業作品の条件から、ますます低俗かつ下品な作品を大量供給する鼓舞に駆られているからだ。
ではそもそも上品な芸術を愛好する事で育まれる高貴な趣味の意義とは何かといえば、究極では、道徳の高い人格、即ち多少なりとも利他的な人を作る事であり、それはとりもなおさず、全ての利己につながる直接的欲望を否定し、無欲に限りなく近い態度で生きる悟った人を理想としている。この人徳者は利他的な人物だから、少なくとも他の人にとっては有り難い人物、最上の場合は聖人だといって差し支えなく、逆に下品な人間であればあるほどますます我執的で利己的、且つしばしば害他的でもあるだろうから、この様な俗人が最悪の姿をとるとき極悪人や大犯罪者になるであろう。
上述のことをまとめると、この世にある高尚な芸術は理解に要する知性を高める結果にはなっても、 必ずしも道徳的な意味で上品な作品とはいいきれない。逆に、サブカルチャーやlowbrowな作品一般を含め、低俗で幼稚といわれる作品の中にも、時に上品な物も含まれており、子供は知識の少なさのため絵本とか漫画、アニメーション、ゲームといったよりわかりやすいと同時に複合的で情報量が多い応用芸術を好む傾向があるにしても、その子の道徳性を育てるという意味では、親や教師が作品を精査してできるだけ上品なものに親しませる様にするべきだ、という事である。
また高尚かつ上品な作品というものがこの世には最善の物として存在し、それが純粋芸術一般の目的とする姿だといえるだろう。少なくとも嘗て人類が美術史の中で、中心領域として辿ってきたのはこの傾向をもつ真面目な作品であり、我々の審美的な哲学が深化するにしたがって芸術作品の質もまた洗練されてきたといっていいだろう。たとえば過去の人類は色々な種類をもった抽象絵画どころか、その前座として現れたキュビズムさえ殆ど理解できなかったのだが、美術史を修得した現代の美術家らはこれらをもはや援用されるに過ぎない単なる過去の様式とし、先へ進もうと試行錯誤してきた。逆に、低俗かつ下品な芸術、具体的にその中でも最悪な作品として、極めて分かり易くサブリミナル的に悪意を植えつけたり、ありとあらゆる品性下劣な大犯罪や醜行を正当化する様な悪魔的作品が現に卑俗さの程度として存在するのだし(例えば猟奇殺人後の死姦等の凶悪行為を美化する石原慎太郎の小説群)、この種の作品が年少者の心象形成にもたらす悪影響を勘案すると、村上隆がスーパーフラット理論で全てをミドルブローと事実上混同させようとして言うのと異なり、到底、最善最美の純粋芸術と同日の談で語りえない事は明白であろう。要するに全てを実質的に中間中品と同列に見なすスーパーフラット理論の観点は、結局、趣味の一切についてなんの判断も持たないという無知や無批判、思考停止をもってくるだけであり、それは糞味噌という言葉に示される様、聖俗を混同する悪趣味自体より酷い混沌状態をもたらすだけである。
我々は高尚かつ上品な純粋芸術や、わかりやすい表現ではあっても少なくとも上品な作品が望ましいと考えるべきであり、それは決して聖俗を混同したり、上下の品を転倒する事にあるのではない。
また芸術には上品なものと下品なものがある。上品さとは欲望の直接性を否定している程度であり、下品さとは欲望の直接性に肉薄している程度である。日本語における上品下品、そして中品は、それぞれ仏教語であり、悟ったブッダを上品、悟っていない凡愚を下品、半ば悟っている修行者を中品と呼んでいると考えていいと思われる。芸術についてもこの観点を援用すれば、上品な作品とは或る欲望を具体的に表さず、寧ろありとあらゆる欲望を表現上に否定しているほどそうなのである。苫米地英人によれば、仏教哲学でいう究極の抽象概念である空は、有と無をもちあげたもの(止揚したもの)であり、情報量が極小の概念である一方、情報量が極大で人類には把握できない概念は矛盾だという。もし芸術が現実の具体的模造なら、クローンとしての完全複製が矛盾に該当し、逆に宇宙の時空間そのものが空の最も抽象的な表現形態だといえるだろう。いいかえれば、とりあえずの定義として、芸術とは時空間そのものという最も上品な作品から、クローンという最も下品な作品までの間にあるものである。我々が世界の諸現象を芸術という情報形式の中で再認する事は、抽象化された学習の一種だといえる。例えば科学とか哲学と呼ばれている知識体系の修得も、言語記号を通じて為される限り、広義の言語芸術を経由している。なぜ我々が芸術を通じた学び方をとるかといえば、嘗て人類が編み出した諸々の学習法の中で、模倣による再現可能性がある形式という意味で、それが最も合理的だったためなのだろう。
ところで、子供は一般に、大人、或いは美術に造詣の深い専門家が解釈できるより低俗な芸術を好む傾向がある。他方で、この低俗さは必ずしも下品さではない。すなわち低俗さは下品さと等しくない。高尚だが下品な作品とか、低俗だが上品な作品というものがあるのだ。前者は回りくどい文体で和歌を差し挟み高尚めかして書かれてはいるが内容は皇族・公家による単なる卑賎な不倫劇である『源氏物語』(紫式部による物語文芸)の様な作品であり、後者は大抵の子供にも入り込みやすい具体的な人物の心情表現であって背景知識も要求されないが表している事は人類による自然・環境破壊で暮らしを追われる小人に対する同情の念を通じた近代文明への根本的懐疑である『借りぐらしのアリエッティ』(宮崎駿によるアニメーション映画)の様な作品である。そして我々が子供の教育の際に重視するべきなのは、高尚・低俗の違いではなく、むしろ作品の上品さの方だ。その作品がわかりやすいという事を、ここでは低俗である、ローブローである、という言い方をとっているが、子供のもっている美術史、芸術史の知識は限られており、したがってどうしても古典様式に対する否定媒介的な進歩性として弁証法的に更新されていく規則をもつ高尚な作品を段階に順じて理解するのは難しい。しかし今日、低俗な作品群のかなりの部分は、同時に下品でもある。なぜなら東京の商業出版社とか、映画配給会社、そして大衆作家は俗受けするほど大量に売れて金が入るという商業作品の条件から、ますます低俗かつ下品な作品を大量供給する鼓舞に駆られているからだ。
ではそもそも上品な芸術を愛好する事で育まれる高貴な趣味の意義とは何かといえば、究極では、道徳の高い人格、即ち多少なりとも利他的な人を作る事であり、それはとりもなおさず、全ての利己につながる直接的欲望を否定し、無欲に限りなく近い態度で生きる悟った人を理想としている。この人徳者は利他的な人物だから、少なくとも他の人にとっては有り難い人物、最上の場合は聖人だといって差し支えなく、逆に下品な人間であればあるほどますます我執的で利己的、且つしばしば害他的でもあるだろうから、この様な俗人が最悪の姿をとるとき極悪人や大犯罪者になるであろう。
上述のことをまとめると、この世にある高尚な芸術は理解に要する知性を高める結果にはなっても、 必ずしも道徳的な意味で上品な作品とはいいきれない。逆に、サブカルチャーやlowbrowな作品一般を含め、低俗で幼稚といわれる作品の中にも、時に上品な物も含まれており、子供は知識の少なさのため絵本とか漫画、アニメーション、ゲームといったよりわかりやすいと同時に複合的で情報量が多い応用芸術を好む傾向があるにしても、その子の道徳性を育てるという意味では、親や教師が作品を精査してできるだけ上品なものに親しませる様にするべきだ、という事である。
また高尚かつ上品な作品というものがこの世には最善の物として存在し、それが純粋芸術一般の目的とする姿だといえるだろう。少なくとも嘗て人類が美術史の中で、中心領域として辿ってきたのはこの傾向をもつ真面目な作品であり、我々の審美的な哲学が深化するにしたがって芸術作品の質もまた洗練されてきたといっていいだろう。たとえば過去の人類は色々な種類をもった抽象絵画どころか、その前座として現れたキュビズムさえ殆ど理解できなかったのだが、美術史を修得した現代の美術家らはこれらをもはや援用されるに過ぎない単なる過去の様式とし、先へ進もうと試行錯誤してきた。逆に、低俗かつ下品な芸術、具体的にその中でも最悪な作品として、極めて分かり易くサブリミナル的に悪意を植えつけたり、ありとあらゆる品性下劣な大犯罪や醜行を正当化する様な悪魔的作品が現に卑俗さの程度として存在するのだし(例えば猟奇殺人後の死姦等の凶悪行為を美化する石原慎太郎の小説群)、この種の作品が年少者の心象形成にもたらす悪影響を勘案すると、村上隆がスーパーフラット理論で全てをミドルブローと事実上混同させようとして言うのと異なり、到底、最善最美の純粋芸術と同日の談で語りえない事は明白であろう。要するに全てを実質的に中間中品と同列に見なすスーパーフラット理論の観点は、結局、趣味の一切についてなんの判断も持たないという無知や無批判、思考停止をもってくるだけであり、それは糞味噌という言葉に示される様、聖俗を混同する悪趣味自体より酷い混沌状態をもたらすだけである。
我々は高尚かつ上品な純粋芸術や、わかりやすい表現ではあっても少なくとも上品な作品が望ましいと考えるべきであり、それは決して聖俗を混同したり、上下の品を転倒する事にあるのではない。
ヤンキーという概念から分析した茨城県域の情報非対称論
第一に京都府の少年刑法犯の人口当たり割合は2009年に全国ワーストとなり、その後徐々に減少してきたものの人口比で見ると依然高く、かたや虐め発生件数は京都府が4年連続で全国最下位であった(つまり全国で最も年少の犯罪者や虐め発生件数が多いのが京都)(2012~2016年度、文科省)。また少年刑法犯数は東京がワースト、ついで神奈川、埼玉の順に多く、人口比で見てもこの順位は首都圏内で変わらない(2016年、警察庁統計)。対して、茨城は人口比で京都より少年刑法犯の数が少ない事に加え、首都圏内では群馬に次いで少ない。つまり、首都圏で非行少年が多いのは東京、神奈川、埼玉、千葉、栃木、茨城、群馬の順である。茨城は全国規模で見ても、少年刑法犯数は人口比で23位に位置し、都道府県人口が11位に位置するにもかかわらず、総数でも14位であり、全国平均よりどちらかといえば少年刑法犯の数や人口比が少ない県に属する(2012年、少年刑法犯検挙人員)といえる。
これらの統計からいえるのは、茨城では非行少年がとりわけ多いわけではなく、首都圏でも少ない側に入り、人口比で見ると首都圏で群馬に次いで少なく、また全国平均でみても平均より少ない方に属するとわかる。
他方で、私が現に経験した事だが、或る京都府の人とSNS上で話した時、初対面で面と向かって「茨城はヤンキーのイメージしかない」と、極めて差別的な発言をされた。その人物は30~40代女性で、どこかの地方から京都へ嫁いだ人物らしく、京都を鼻にかけるあまり、非常に無分別で無礼千万な発言を茨城県民に対してしたのだろう。水戸の徳川家が京都の皇室を尊崇していたという事について聞いたその女性は、初対面で私に向かって非常に差別的な発言をし、茨城と京都は天と地ほど違うかの様に全く似ていないと侮辱的な言動をとり、挙句の果てに上述の発言をしたのである。恐らくこの女性は茨城県について何も知らないであろうし、一度も訪れた事も無ければ、今後も関わる気はないだろう。
これは一つの例にすぎないわけだが、それにもまして京都の人々のこの種の非常に差別的な中華思想や自文化中心主義、自己中心な利己性は平安時代から何も変わっていないし、京都市長や府知事を見れば一目瞭然なよう、今後も強化するつもりこそあれ、自己反省したり、己の差別観を疑うような事はないであろうと考えて間違いない。私はこの一例だけでなく、他にも数限りなく京都出身者が同様の言行をする場面を見たし、自己愛障害的に京都を自己崇拝し、他の地域を差別的に蔑視する京都出身者達の中華思想というものは、寧ろ京都では千年来、文化的慣行の一部にまでなっているし、その虚栄心を傲慢に誇示する態度そのものが生きがいとさえ彼らの中で考えられているといっていい。更に、東京都内の人々も、江戸幕府以後にできた新都市という負い目を、古都という虚栄心をもつ京都へのある種の敬慕として思い描きがちであり、この京都の人々の差別主義を一層、増長させる様な卑屈な賛美に終始しがちである。その京都劣等感、古都劣等感における卑屈さの反動として、東京都民は他の地域への蔑視を京都からの不当な差別に乗っかってさらに強調する様な、二重の田舎差別を行う傾向がある。この都民の屈折したコンプレックス、即ち京都への古都劣等感と、他地域への新都市優越感という二重の複合観念は、東京発のありとあらゆる情報に乗って散布され、日本国民全体を洗脳し尽くしているといってもいいであろう。また横浜市民あるいは神奈川県民は、みなとみらい地区の国による再開発後、同様の優劣観念を都の陰でもつようになり、京都の人々や都民の差別意識に乗っかって自己宣伝しようとする傾向がある事があげられる。
ところで前述の統計をみれば、これらの人口密度、経済規模、皇居の立地、政府機関の集積度といった首都的要素に基づいた想像上の優越感と、現実の年少者の犯罪傾向は違いがある。上述の京都の女性が想像上の差別を多かれ少なかれ意図して発言した茨城の少年は、京都の少年より非行の度合いが低い。また一部の都民がマス・メディアを通じ好奇に供するため盛んに北関東、ことさら茨城を侮辱する為に、田舎、ださい、ヤンキー、不良といった確証バイアスに基づいた偏向した差別情報を県内から取材し、喧伝し全国民を洗脳しているのと逆行して、現実の東京は日本で最も少年刑法犯の数が多く、また人口比でみても首都圏で最も非行少年が多いのであって、しかもその衆愚的な攻撃対象としての茨城は全国比でみても、非行少年が少ない側に属するのである。それどころか、ブランド総研の田中章雄の調査で高魅力度として盛んに称揚されている北海道、沖縄、そして京都の各所は、少年刑法犯数でいずれも茨城より多く、特に京都と沖縄は人口比でも非行少年が多い。
ここから導けるのは、マスメディアを通じた偏った確証バイアスの流布は、統計や事実とはいかにも異なる情報操作に過ぎないという事、そして京都や東京の人々がもっている中華思想的な虚栄心や、田舎差別観は、彼ら自身とメディアを通じた洗脳によって日本国に暮らす人々の正常な認知を大幅に歪めているという事だ。茨城県民の為に正しい情報を述べておけば、茨城で他の地域より明らかに統計的に多いとみなせるのは研究機関数(2014年、偏差値85.76。経済センサス)である。また農業経営体(家族経営体と組織経営体を合わせたもの)の数は最も多いといわれているものの(2015年、農林業センサス)、農業就業人口そのものは2位、人口比では20位にすぎない。これらからいえるのは、茨城県民の真実の姿としては研究機関に務める研究者の数が人口比で他県より圧倒的に多いのである。ということは、上述の京都の人や、多くの都民、日本国民は極めて真実から遠い茨城イメージを固定観念や先入観として持ち、しかもそれをマスコミを通じ拡散しているのである。なおかつ彼らはこの偏見を、神道や皇室崇拝の念、或いは資本主義的観念からくる皇居・都心崇拝と田舎差別という彼らが人生観の一部にしている確証バイアスで補完し糊塗しようとしている。この種の中華思想の震源である天皇家、皇族を擁する都民、嘗て擁してきた京都人の自己愛障害的傲慢さと裏返しの田舎差別主義からはじまった、低俗で、非科学的な偏見や差別観が反映されたのが魅力度調査というバイアスなのだと言っても、ほぼ間違いないであろう。そしてこの都鄙差別のモデルである華夷秩序の観念は、天皇家の千年以上にわたる専制的独裁政を通じて、また東京圏や関西圏のメディアや政府発の教育を通じた洗脳によって、日本国民一般の差別主義の心底まで染み込んでおり、一朝一夕で消え去るとは到底思えない。
確かに茨城にもヤンキーというアメリカ人の愛称を、非行少年少女への蔑称に援用したことばで呼ばれる様な人々は、他都道府県、或いは首都圏より数や人口比は少ないにせよ存在する。一般論としていえるのは、この種の人々は生まれつき一般知能が低いので、社会において要求されている適応行動を理知的にとるほど賢くない。したがって建設作業員、いわゆる土方とか、工場労働者といった種類の、高度に知的な専門職や企業経営者に比べれば比較的低賃金なブルーワーカーになる割合が任意に高いであろうし、親から同様の遺伝や少ない資産を継いでいる可能性もかなり高いので、長い期間をかけて自己への高等教育を志す人もまれであろうから、低学歴であり易い。この様な人は単に日本全国にいるのみならず、全世界に存在する。一方で、一般知能が比較的高い為に高学歴になり易く、結果として晩婚化し、ホワイトワーカーに属し易い人々の遺伝より、彼らブルーワーカーの遺伝の方が現時点で、数が多いであろう。またこのブルーワーカー階級の中で、最も法的に反社会性を伴った行動傾向をもっている人々が、少年刑法犯として検挙される確率も、そうでない人に比べて高いのだろう。実際、小・中卒、高卒、大卒の比(中退者を卒業者とみなす)でみると、低学歴な人に刑務所入所者数が偏っている(法務省「矯正統計」)。これは基礎学力と相関している可能性のある一般知能が遺伝的に低いと、より法を学ぶ機会が少なくなり、また遵法の意味を理解できなくなる傾向があるからかもしれないし、もし一般知能が遺伝的に高かったとしても、高等教育を受ける機会を逸失すると同様の学習を得る機会を失う為かもしれないし、またこれらと異なって社会の側が学歴差別によって低学歴者へ圧制を行い、任意に検挙率をあげているからかもしれない。いずれにしても、少年刑法犯の検挙人員の構成比からわかるのは、大都市に多い傾向がある少年刑法犯にもかかわらず、人口の多い自治体順でみて茨城県の少年刑法犯の人口比は北海道、静岡に次いで少ないのであって、上述のよう研究機関数の人口比が圧倒的に多いという茨城の特徴からいって、むしろ一般知能が低い人はこの県においては全国に比べて有意に少ないのではないかと考えられる。
では具体的に、このヤンキーと呼ばれる様な人々を茨城県への確証バイアスで県内に見出し、差別したり蔑視したりする都民とか、京都人、日本国民に対して、我々はどう対処するべきだろうか。それは対自的に最も身近な例でいえば、このヤンキー達の趣味といえば、騒音を鳴らす二輪自動車の改造で公道を暴走する事以外考えられないのであって、茨城県条例、かつ北茨城市条例において、二輪車や自動車を通じた騒音を鳴らす事を罰金刑や警察による取り締まり・啓発活動によって防止し、その種の改造にも同様の罰金刑を与え、また公道の暴走行為に関しては拘留や刑期を含む罰則を与える事である。年少者がこれらをした場合も更生施設へ入れる措置を盛り込むべきなのだろう。それ以外の非行として何等かの公害が見つけられれば、適宜、条例を作って対処するべきなのである。これらの条例策に加え、根本的には一般知能が低い人の中で、法的な学習が欠けている人が違法行為を犯しやすく、かつ、道徳的な知能の低い人が公害を起こしやすいと考えられる。茨城は既に全国比で県民の平均値を見れば一般知能は高い側に属するであろうし、実際、全国学力テストでも継続的に上位の成績をあげている傾向もあり(2017年度は10位)、いいかえれば、幼少期から法的・道徳的な教育を適切にはかれば、寧ろますます少年非行の数は比較的容易に減っていくと考えられる。既に茨城は橋本県政の元で道徳教育を国より先にとりいれてきたし、次は最も基礎的な法教育を、県や市の教育委員会が小中高校で年少者に与えるべきだといえるだろう。文科省の学習指導要綱に法教育は含まれていないし、場所や時代、或いは人の信念によって変わる特定の道徳を与えるものとして上意下達で教える事には矛盾が多い。したがって茨城県の公教育では暴走行為を行う年少者の発生防止を前提として、交通ルールを最も基本とし、刑法と民法の基礎中の基礎について、道徳副読本と道徳の時間の中で最も先に触れる事を前提とするべきだろう。そして道徳については作文と討論を通じて、或る倫理的命題(例えば自分が急いでいる時に困っている人を助けるべきか、といった善悪の判定に関わる命題)についてそれぞれの子供が自由に意見を述べ、教師はそれらについてどれが正解かを決めつける事なく教師自身の意見として批評する、そして生徒自身にもう一度考えさせるという形式が最も優れているのではないかと思われる。それなら生徒自身が将来にわたっても善悪の判断について自己反省的に考えたり、新たな社会的認識を得るたびに己の判断を吟味する習慣をつけられるからだ。但し、この際、教員には倫理学の専門知識が要求されるだろうから、県や市の教員養成課程や資格試験の中に必須科目として、倫理の講義を導入しなければならないだろう。これらは公教育についての対策だが、飛び級や専門化が容易である自宅学習や独学をおもとした子の個性に応じた生き方も今後ふえてくることが見込めるので、この種の副読本、つまり法の基礎を含む茨城県・北茨城市の道徳教育の本については求めに応じて民間にも販売するか、さもなくば民間の優れた本を採用する事が有益である。実際、今日ではこの一冊では時代にそぐわなくなっているかもしれないが、嘗ては『論語』がこの目的で使われていたわけだ。高校では洋の東西に渡る網羅的な形而上学の基礎知識が含まれる既存「倫理」科目の参考書や、「現代社会」科目に含まれていた法学の基礎知識をよりわかりやすく解いている参考書などで専ら十分だろう。
また、県内・市内における教育・教養水準の底上げは、より付加価値の高い為事を選好する人をつくるという意味で高所得と正に相関しやすい。したがってこれまで通り、研究機関を全世界から誘致し、県内・市内へ高度な頭脳を世界で最も多く茨城に集積させる事は、所得の対数と正の相関がみいだせる主観的幸福度をも底上げするであろう。
もし上述の全てが体よくいって、茨城県内の非行がさらに減り、教養の程度も上がり、幸福度も上がったとして、京都や東京、その他の日本人が茨城県民を相も変わらず事実と相反するヤンキーの先入観で糊塗し、確証バイアスを強化し続けたり、都内から田中章雄が現にそうしているよう魅力度差別で地域全体を蔑視したりしてきたとしても、これらは我々県民自身が対策できる範囲を超えているといえるし、対策するべきでもないと思われる。なぜなら、元々この魅力度差別が首都圏北部、特に茨城に対して継続的に行われている理由は、茨城が日本で唯一、民放テレビ局によるマス向け情報発信を行っていない県である事、及び、商人階級が過半となった日本人一般からの農業差別感や田舎蔑視に由来していると考えられるからだ。先ずこれらの差別的観念のうち、農業差別感や田舎蔑視についていえば、農本思想や重農的な考えに基づいた水戸家が茨城県域を国内有数の農業生産性をもつ地域へもっていった事が、これと逆行し極端な商業化を進めた江戸・東京から蔑視される結果になった訳だが、現実に茨城と東京に長く暮らせば分かる事として、農業の多面的機能としての環境整備効果は茨城の公園的な緑に満ちた生活環境をコンクリートジャングル化した過密都市の東京に比べて良好にしているのである。この生活環境の緑の多さ、環境良好性は他の田園地帯でも同様だが、県内最大都市の水戸市にさえ世界2位の広さをもつ大都市公園・偕楽園がある事からも、とりわけ水戸家の農本政策の功徳と結びつけて考えられるはずだ。少なくとも茨城のエンゲル係数が他の自治体より非常に低い状態にある、つまり食費の負担が47県中40位と非常に小さいのは、食料多産地である事に原因の一つがあると解釈してもよさそうであり、たとえばネット通販が発達した今日、大商業地の買い物における利便性はますます低下していくのであって、全てを考慮すると、田舎を蔑視している人達の根拠は単なる過密都市に固執する夜郎自大に過ぎず、真剣に相手どるに値しないただの傲慢に他ならないといえそうである。実際、イギリスの様に田舎を過密都市より生活に好適な環境とみなす考え方の方が、世界全体で見れば当然の認識に近く、世界の奇形民族というべき東京都民や京都市民がもっている様な都心中華思想の源泉は中国の皇帝制度を模倣した天皇にあり、この種の皇帝もどきが全国民を奴隷化する為に植え付けた華夷秩序を大真面目に信じこまされ、その田舎差別意識が通用する範囲とて彼らの洗脳が成功した日本衆愚の一部や、皇帝制の残滓がある中国国民の一部に限られるといってもいいであろう。即ち、都鄙差別を伴う中華思想は中華皇帝の模倣者として天皇が日本国内に広めた考え方であって、この日本人奴隷化の為の洗脳劇場へ大真面目に追従している都民や京都人の方が世界規模のまなざしでは少数派で、風変わりな異人なのであり、またこの種の語るに落ちる傲慢かつ卑俗な悪意ある差別観をそのままマスメディアや日本政府を通じて鵜呑みにしている日本人愚民の差別主義についても、一顧だに値しないといえるのではないだろうか。
差別とはそもそも、愚者が事物を単純化して認識する為の偏見に基づく非科学的な省略装置であり、思考を大雑把にショートカットしてしまう上に事実や道徳的善とは正反対になり易い。一般に、低IQと差別意識には正の相関関係がある、つまり低IQなほど思考を節約せざるをえず物事を過度に単純化して捉える目的で、差別意識を偏見として己の思考パターンに刷り込み易いと考えられる(2016年、Social Problems誌、トロント大学ジェフリー・ヴォトケ(Geoffrey Wodtke)による「言語能力テストで高スコアな人は黒人の知性や職業倫理にネガティブな見方をする人が少ない」とする研究。2012年、オンタリオ州のブロック大学、Gordon Hodsonチームによる「低IQの子供は、偏見を持つ大人になる可能性が高い」とする研究など)。我々にとって重要なのはこの種の差別から最大限自由に判断し、事実と空想、あるいは何者かによって捏造され流布されている通俗的偏見を峻別し、最も適切な人生上の選択を適宜冷徹に行っていく事である。
総じて、我々が社会を形成する理由は、単独生活に比べた何らかの公益を他者の存在から受ける為である。この種の公益を最も高次的な概念で表し幸福とすると、我々は茨城県民や北茨城市民として自らの幸福に益する範囲でのみ、市外、県外の人々と接すればよい。なぜなら無制限の交際が我々の不幸につながる場合、この種のつきあいは有害だからだ。このつきあいの中に市外、県外の人の思考習慣や偏見、差別感を何らかの啓蒙や情報提供などで変更するというかなり大変な手間を含めるとすると、上述のよう差別的な人は同時に低IQな傾向があるかもしれないという見解、そしてこの種の人々の低IQさが低学歴や低学力、低所得といった成績と正に相関しているという一般論からいって、どちらかといえば我々が市外・県外の愚者を見分ける有効な手段として、茨城県に対する差別意識の有無が使えると考えて専ら間違いないであろう。都民や京都人が神道や皇室への中華思想的な妄信や自己愛妄想の為に流布する通俗的偏見や田舎差別を、何の批判的意識もなしに鵜呑みにしている人々は、想定される限り低IQだろうし、それに加えてヤンキーという非行少年に関する確証偏見を、全国平均より少ない数と割合でしかこの種の少年刑法犯をもたないわが県へ悪意からあてつけてくる市外・県外の劣悪な性情の者については、二重につきあうべき価値をもっていないといえるだろう。この種の衆愚的差別主義者が単に都内だけでなく京都をはじめとした関西圏、あるいは日本国内に非常に多いとするなら、これらの人々はその様な差別意識をはじめからもっていない、或いは今後もつ由もない茨城県民一般より知性、道徳性のどちらの面についても劣っているのだから、我々は努めて、この種の差別や偏見をもっていない国外の自分より知徳に優れた人達とつきあうようにしなければならないのである。この場合、愛国心やナショナリズムという固執的な全体主義の偏見に基づいて、日本国という単位にこだわり、人間性において自分以下の連中と関わるのは害悪ですらある。
『孫子』に「彼を知り己を知れば百戦して殆からず」とあるのは、自己に有利な情報の非対称性こそ敵の出方を予想する戦術的上策という意味であろうし、この彼という言葉を任意の市外・県外人にあてれば、茨城に民放テレビ局がない事や水戸学に結晶されている儒教的な謙遜を尊ぶ君子道徳は寧ろ好運な偶然とはいえ、魅力度調査に明らかに表れている様、県外との情報の非対称性をうみだしている。私はこの事象を茨城のステルス性、隠密性と呼んでいるが、我々は世界のあらゆる情報摂取と分析に長け、市内・県内情報をできるだけ茨城圏内にとどめながら市民・県民だけで共有し、ますますその外に知られないよう自己隠蔽的な情報環境を今後もこれまでの路線で構築していくべきだと信じる。そもそも、孔子が『論語』で「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」と述べている情報非対称性についての道徳的態度と、孫子の見解は一致している。この逆を行っているのが都議や都政の混乱をさも全国ニュースかのよう不躾にばら撒く都民や、文化交流の中華を志向する過度の自己宣伝によって観光公害を併発している京都市、そして観光先としての魅力度を強調し47都道府県を差別する疑似統計で商売をしているブランド総研・田中章雄の立場ではないだろうか。茨城が世界の情報にますます通じかつ県外・市外への情報発信を抑え今後さらにステルス化され、外部から如何なる誤解や差別、何らかの汚名や負の偏見を受けたとして、またそれが我々の尊厳欲求を傷つけ、名誉感情を損なう様な結果を伴っていたとしても、逆に外部に全てを知られているが我々が県外・市外について何も知らない井の中の蛙である状態に比べて遙かに優れた結果を伴うだろうことは疑いようがない。なぜなら、我々が知識とか、学力と呼んでいる能力の本質は、実際には多かれ少なかれ抽象的な次元における世界に対する情報の非対称性そのものなのだ。いいかえれば、茨城県民の知性が高まれば高まるほど、我々の存在が無知なままの県外に知られる機会は減り、寧ろ我々が世界を知っている程度が高まる筈だ。
究極のところ、所得の対数に比例すると考えられる主観的幸福度に格差が生じる根本原因も、学ぶ習慣として自らに有利な情報非対称性を選好する人々が、情報交換としての相互利益のため或る一か所に集まり易い傾向からきているのだと考えるのが自然である。この現象をより素朴に解釈すると、主に言語記号や芸術といった抽象的思考の体系を通じた学習能力の高い人々がより高所得を得やすい、即ち、一般知能の高い集団側がより恵まれたくらしをする傾向にある、と考えられる。
敢えてこれらに加えれば、我々が芸術一般を有益な文化とみなすのは、それが現実の諸情報の抽象・具象度を調節し、主観的情報量という意味で圧縮・解凍して表す能力があるからである。例えば宇宙という文字は現実の宇宙を形相化したものだが、我々はこの言葉を通じて具体的な宇宙について或る縮減した認識をもてる。他方、宇宙についての詩や小説、絵、漫画、アニメなどは、この宇宙という概念についてより具体的かつ詳細に説明できる。つまり芸術の意義は世界の抽象度を或る理解にとってふさわしい程度に調節できる事なのだ。
芸術が政治的喧伝の装置に使われている時、嘗て天皇家がそうしてきたよう、天皇居住地を中心とした華夷秩序に類する表現、例えば『古事記』や『源氏物語』、その他、皇国史観を連想させる書籍や絵画、儀式芸能的な表現を流布したり褒賞する事で、人々の現実解釈の仕方を皇室にとって恣意的な方向へ歪ませることすらできる。今日、都民はマスメディアやサブカルチャーを通じ、同様の目的で東京大衆社会の低俗さを日本国民含む商業上の客層に向け盛んに喧伝している。これらはどちらかといえば応用芸術を通じた洗脳だが、歌会始のよう、短歌という短詩形式の言葉を天皇を主催者として朗詠する儀式によって、国民全般を皇室崇拝者へ変更しようという純粋芸術的かつ宗教的な喧伝活動もみられる。逆に、これらの喧伝による洗脳を啓蒙的に打ち消す様な表現も、本来の芸術の役割である。現代の都民は自らの後光の為にその種の反天皇的な表現をタブー視し、マスメディア業界から封じ締め出す事で、水戸学の尊皇論へ知らぬうちに追従しているのだ。前衛的な芸術は常に、当時の禁忌を表現の中で破っていく筈だ。それは政治的、宗教的喧伝の手段にされていない、純粋芸術にとっては表現の可能性を拡張し、世界に対する多義的な再解釈の手段を提供するという意味で、本来的な事ですらある。
もしわが市、わが県民が芸術を、我々に有利な情報非対称性をつくりだす有効な手段の一つと考えるなら、我々はできるだけ高尚な芸術を目指すべきである。なぜなら低俗な芸術が人気を博するなら、それはやはり低俗な人々の間だからであり、ここでいう低俗さが、鑑賞の前提とする知識の少なさだとすれば、それは愚者にとっての慰み物に他ならないからだ。一般に高尚さが理解しがたさ、難解さだとすれば、或る芸術の抽象度が高ければ高いほどそれを理解する為に要する情報非対称性の度合いも高い筈であり、高尚な作品を愛好する人が茨城県域や北茨城市に多ければ多いほど、わが県わが市の教養水準が高いことも同時に要求される。主観的幸福度を高める端的な方法が所得を指数的に倍増させる事であるからには、より合理的な商業上の立場をとりつづけるべく世界を分析し将来予測する情報について学習効率も高める必要があり、したがって情報の圧縮性が高いほど、その作品を鑑賞する意義も高い事になるだろう。北茨城に美術品競売界を今後構築するにあたっても、より前衛的であり、より高尚な作品を選好するのが、即ちわが県わが市の幸福度を間接的に高める結果になるであろう。わが県わが市が高尚な人々の間で有名になり、愛好される為にも、高尚な芸術表現の中でこそ集中的に茨城にまつわる諸情報が頻繁かつ必要不可欠に登場する事が極めて有徳である。
これらの統計からいえるのは、茨城では非行少年がとりわけ多いわけではなく、首都圏でも少ない側に入り、人口比で見ると首都圏で群馬に次いで少なく、また全国平均でみても平均より少ない方に属するとわかる。
他方で、私が現に経験した事だが、或る京都府の人とSNS上で話した時、初対面で面と向かって「茨城はヤンキーのイメージしかない」と、極めて差別的な発言をされた。その人物は30~40代女性で、どこかの地方から京都へ嫁いだ人物らしく、京都を鼻にかけるあまり、非常に無分別で無礼千万な発言を茨城県民に対してしたのだろう。水戸の徳川家が京都の皇室を尊崇していたという事について聞いたその女性は、初対面で私に向かって非常に差別的な発言をし、茨城と京都は天と地ほど違うかの様に全く似ていないと侮辱的な言動をとり、挙句の果てに上述の発言をしたのである。恐らくこの女性は茨城県について何も知らないであろうし、一度も訪れた事も無ければ、今後も関わる気はないだろう。
これは一つの例にすぎないわけだが、それにもまして京都の人々のこの種の非常に差別的な中華思想や自文化中心主義、自己中心な利己性は平安時代から何も変わっていないし、京都市長や府知事を見れば一目瞭然なよう、今後も強化するつもりこそあれ、自己反省したり、己の差別観を疑うような事はないであろうと考えて間違いない。私はこの一例だけでなく、他にも数限りなく京都出身者が同様の言行をする場面を見たし、自己愛障害的に京都を自己崇拝し、他の地域を差別的に蔑視する京都出身者達の中華思想というものは、寧ろ京都では千年来、文化的慣行の一部にまでなっているし、その虚栄心を傲慢に誇示する態度そのものが生きがいとさえ彼らの中で考えられているといっていい。更に、東京都内の人々も、江戸幕府以後にできた新都市という負い目を、古都という虚栄心をもつ京都へのある種の敬慕として思い描きがちであり、この京都の人々の差別主義を一層、増長させる様な卑屈な賛美に終始しがちである。その京都劣等感、古都劣等感における卑屈さの反動として、東京都民は他の地域への蔑視を京都からの不当な差別に乗っかってさらに強調する様な、二重の田舎差別を行う傾向がある。この都民の屈折したコンプレックス、即ち京都への古都劣等感と、他地域への新都市優越感という二重の複合観念は、東京発のありとあらゆる情報に乗って散布され、日本国民全体を洗脳し尽くしているといってもいいであろう。また横浜市民あるいは神奈川県民は、みなとみらい地区の国による再開発後、同様の優劣観念を都の陰でもつようになり、京都の人々や都民の差別意識に乗っかって自己宣伝しようとする傾向がある事があげられる。
ところで前述の統計をみれば、これらの人口密度、経済規模、皇居の立地、政府機関の集積度といった首都的要素に基づいた想像上の優越感と、現実の年少者の犯罪傾向は違いがある。上述の京都の女性が想像上の差別を多かれ少なかれ意図して発言した茨城の少年は、京都の少年より非行の度合いが低い。また一部の都民がマス・メディアを通じ好奇に供するため盛んに北関東、ことさら茨城を侮辱する為に、田舎、ださい、ヤンキー、不良といった確証バイアスに基づいた偏向した差別情報を県内から取材し、喧伝し全国民を洗脳しているのと逆行して、現実の東京は日本で最も少年刑法犯の数が多く、また人口比でみても首都圏で最も非行少年が多いのであって、しかもその衆愚的な攻撃対象としての茨城は全国比でみても、非行少年が少ない側に属するのである。それどころか、ブランド総研の田中章雄の調査で高魅力度として盛んに称揚されている北海道、沖縄、そして京都の各所は、少年刑法犯数でいずれも茨城より多く、特に京都と沖縄は人口比でも非行少年が多い。
ここから導けるのは、マスメディアを通じた偏った確証バイアスの流布は、統計や事実とはいかにも異なる情報操作に過ぎないという事、そして京都や東京の人々がもっている中華思想的な虚栄心や、田舎差別観は、彼ら自身とメディアを通じた洗脳によって日本国に暮らす人々の正常な認知を大幅に歪めているという事だ。茨城県民の為に正しい情報を述べておけば、茨城で他の地域より明らかに統計的に多いとみなせるのは研究機関数(2014年、偏差値85.76。経済センサス)である。また農業経営体(家族経営体と組織経営体を合わせたもの)の数は最も多いといわれているものの(2015年、農林業センサス)、農業就業人口そのものは2位、人口比では20位にすぎない。これらからいえるのは、茨城県民の真実の姿としては研究機関に務める研究者の数が人口比で他県より圧倒的に多いのである。ということは、上述の京都の人や、多くの都民、日本国民は極めて真実から遠い茨城イメージを固定観念や先入観として持ち、しかもそれをマスコミを通じ拡散しているのである。なおかつ彼らはこの偏見を、神道や皇室崇拝の念、或いは資本主義的観念からくる皇居・都心崇拝と田舎差別という彼らが人生観の一部にしている確証バイアスで補完し糊塗しようとしている。この種の中華思想の震源である天皇家、皇族を擁する都民、嘗て擁してきた京都人の自己愛障害的傲慢さと裏返しの田舎差別主義からはじまった、低俗で、非科学的な偏見や差別観が反映されたのが魅力度調査というバイアスなのだと言っても、ほぼ間違いないであろう。そしてこの都鄙差別のモデルである華夷秩序の観念は、天皇家の千年以上にわたる専制的独裁政を通じて、また東京圏や関西圏のメディアや政府発の教育を通じた洗脳によって、日本国民一般の差別主義の心底まで染み込んでおり、一朝一夕で消え去るとは到底思えない。
確かに茨城にもヤンキーというアメリカ人の愛称を、非行少年少女への蔑称に援用したことばで呼ばれる様な人々は、他都道府県、或いは首都圏より数や人口比は少ないにせよ存在する。一般論としていえるのは、この種の人々は生まれつき一般知能が低いので、社会において要求されている適応行動を理知的にとるほど賢くない。したがって建設作業員、いわゆる土方とか、工場労働者といった種類の、高度に知的な専門職や企業経営者に比べれば比較的低賃金なブルーワーカーになる割合が任意に高いであろうし、親から同様の遺伝や少ない資産を継いでいる可能性もかなり高いので、長い期間をかけて自己への高等教育を志す人もまれであろうから、低学歴であり易い。この様な人は単に日本全国にいるのみならず、全世界に存在する。一方で、一般知能が比較的高い為に高学歴になり易く、結果として晩婚化し、ホワイトワーカーに属し易い人々の遺伝より、彼らブルーワーカーの遺伝の方が現時点で、数が多いであろう。またこのブルーワーカー階級の中で、最も法的に反社会性を伴った行動傾向をもっている人々が、少年刑法犯として検挙される確率も、そうでない人に比べて高いのだろう。実際、小・中卒、高卒、大卒の比(中退者を卒業者とみなす)でみると、低学歴な人に刑務所入所者数が偏っている(法務省「矯正統計」)。これは基礎学力と相関している可能性のある一般知能が遺伝的に低いと、より法を学ぶ機会が少なくなり、また遵法の意味を理解できなくなる傾向があるからかもしれないし、もし一般知能が遺伝的に高かったとしても、高等教育を受ける機会を逸失すると同様の学習を得る機会を失う為かもしれないし、またこれらと異なって社会の側が学歴差別によって低学歴者へ圧制を行い、任意に検挙率をあげているからかもしれない。いずれにしても、少年刑法犯の検挙人員の構成比からわかるのは、大都市に多い傾向がある少年刑法犯にもかかわらず、人口の多い自治体順でみて茨城県の少年刑法犯の人口比は北海道、静岡に次いで少ないのであって、上述のよう研究機関数の人口比が圧倒的に多いという茨城の特徴からいって、むしろ一般知能が低い人はこの県においては全国に比べて有意に少ないのではないかと考えられる。
では具体的に、このヤンキーと呼ばれる様な人々を茨城県への確証バイアスで県内に見出し、差別したり蔑視したりする都民とか、京都人、日本国民に対して、我々はどう対処するべきだろうか。それは対自的に最も身近な例でいえば、このヤンキー達の趣味といえば、騒音を鳴らす二輪自動車の改造で公道を暴走する事以外考えられないのであって、茨城県条例、かつ北茨城市条例において、二輪車や自動車を通じた騒音を鳴らす事を罰金刑や警察による取り締まり・啓発活動によって防止し、その種の改造にも同様の罰金刑を与え、また公道の暴走行為に関しては拘留や刑期を含む罰則を与える事である。年少者がこれらをした場合も更生施設へ入れる措置を盛り込むべきなのだろう。それ以外の非行として何等かの公害が見つけられれば、適宜、条例を作って対処するべきなのである。これらの条例策に加え、根本的には一般知能が低い人の中で、法的な学習が欠けている人が違法行為を犯しやすく、かつ、道徳的な知能の低い人が公害を起こしやすいと考えられる。茨城は既に全国比で県民の平均値を見れば一般知能は高い側に属するであろうし、実際、全国学力テストでも継続的に上位の成績をあげている傾向もあり(2017年度は10位)、いいかえれば、幼少期から法的・道徳的な教育を適切にはかれば、寧ろますます少年非行の数は比較的容易に減っていくと考えられる。既に茨城は橋本県政の元で道徳教育を国より先にとりいれてきたし、次は最も基礎的な法教育を、県や市の教育委員会が小中高校で年少者に与えるべきだといえるだろう。文科省の学習指導要綱に法教育は含まれていないし、場所や時代、或いは人の信念によって変わる特定の道徳を与えるものとして上意下達で教える事には矛盾が多い。したがって茨城県の公教育では暴走行為を行う年少者の発生防止を前提として、交通ルールを最も基本とし、刑法と民法の基礎中の基礎について、道徳副読本と道徳の時間の中で最も先に触れる事を前提とするべきだろう。そして道徳については作文と討論を通じて、或る倫理的命題(例えば自分が急いでいる時に困っている人を助けるべきか、といった善悪の判定に関わる命題)についてそれぞれの子供が自由に意見を述べ、教師はそれらについてどれが正解かを決めつける事なく教師自身の意見として批評する、そして生徒自身にもう一度考えさせるという形式が最も優れているのではないかと思われる。それなら生徒自身が将来にわたっても善悪の判断について自己反省的に考えたり、新たな社会的認識を得るたびに己の判断を吟味する習慣をつけられるからだ。但し、この際、教員には倫理学の専門知識が要求されるだろうから、県や市の教員養成課程や資格試験の中に必須科目として、倫理の講義を導入しなければならないだろう。これらは公教育についての対策だが、飛び級や専門化が容易である自宅学習や独学をおもとした子の個性に応じた生き方も今後ふえてくることが見込めるので、この種の副読本、つまり法の基礎を含む茨城県・北茨城市の道徳教育の本については求めに応じて民間にも販売するか、さもなくば民間の優れた本を採用する事が有益である。実際、今日ではこの一冊では時代にそぐわなくなっているかもしれないが、嘗ては『論語』がこの目的で使われていたわけだ。高校では洋の東西に渡る網羅的な形而上学の基礎知識が含まれる既存「倫理」科目の参考書や、「現代社会」科目に含まれていた法学の基礎知識をよりわかりやすく解いている参考書などで専ら十分だろう。
また、県内・市内における教育・教養水準の底上げは、より付加価値の高い為事を選好する人をつくるという意味で高所得と正に相関しやすい。したがってこれまで通り、研究機関を全世界から誘致し、県内・市内へ高度な頭脳を世界で最も多く茨城に集積させる事は、所得の対数と正の相関がみいだせる主観的幸福度をも底上げするであろう。
もし上述の全てが体よくいって、茨城県内の非行がさらに減り、教養の程度も上がり、幸福度も上がったとして、京都や東京、その他の日本人が茨城県民を相も変わらず事実と相反するヤンキーの先入観で糊塗し、確証バイアスを強化し続けたり、都内から田中章雄が現にそうしているよう魅力度差別で地域全体を蔑視したりしてきたとしても、これらは我々県民自身が対策できる範囲を超えているといえるし、対策するべきでもないと思われる。なぜなら、元々この魅力度差別が首都圏北部、特に茨城に対して継続的に行われている理由は、茨城が日本で唯一、民放テレビ局によるマス向け情報発信を行っていない県である事、及び、商人階級が過半となった日本人一般からの農業差別感や田舎蔑視に由来していると考えられるからだ。先ずこれらの差別的観念のうち、農業差別感や田舎蔑視についていえば、農本思想や重農的な考えに基づいた水戸家が茨城県域を国内有数の農業生産性をもつ地域へもっていった事が、これと逆行し極端な商業化を進めた江戸・東京から蔑視される結果になった訳だが、現実に茨城と東京に長く暮らせば分かる事として、農業の多面的機能としての環境整備効果は茨城の公園的な緑に満ちた生活環境をコンクリートジャングル化した過密都市の東京に比べて良好にしているのである。この生活環境の緑の多さ、環境良好性は他の田園地帯でも同様だが、県内最大都市の水戸市にさえ世界2位の広さをもつ大都市公園・偕楽園がある事からも、とりわけ水戸家の農本政策の功徳と結びつけて考えられるはずだ。少なくとも茨城のエンゲル係数が他の自治体より非常に低い状態にある、つまり食費の負担が47県中40位と非常に小さいのは、食料多産地である事に原因の一つがあると解釈してもよさそうであり、たとえばネット通販が発達した今日、大商業地の買い物における利便性はますます低下していくのであって、全てを考慮すると、田舎を蔑視している人達の根拠は単なる過密都市に固執する夜郎自大に過ぎず、真剣に相手どるに値しないただの傲慢に他ならないといえそうである。実際、イギリスの様に田舎を過密都市より生活に好適な環境とみなす考え方の方が、世界全体で見れば当然の認識に近く、世界の奇形民族というべき東京都民や京都市民がもっている様な都心中華思想の源泉は中国の皇帝制度を模倣した天皇にあり、この種の皇帝もどきが全国民を奴隷化する為に植え付けた華夷秩序を大真面目に信じこまされ、その田舎差別意識が通用する範囲とて彼らの洗脳が成功した日本衆愚の一部や、皇帝制の残滓がある中国国民の一部に限られるといってもいいであろう。即ち、都鄙差別を伴う中華思想は中華皇帝の模倣者として天皇が日本国内に広めた考え方であって、この日本人奴隷化の為の洗脳劇場へ大真面目に追従している都民や京都人の方が世界規模のまなざしでは少数派で、風変わりな異人なのであり、またこの種の語るに落ちる傲慢かつ卑俗な悪意ある差別観をそのままマスメディアや日本政府を通じて鵜呑みにしている日本人愚民の差別主義についても、一顧だに値しないといえるのではないだろうか。
差別とはそもそも、愚者が事物を単純化して認識する為の偏見に基づく非科学的な省略装置であり、思考を大雑把にショートカットしてしまう上に事実や道徳的善とは正反対になり易い。一般に、低IQと差別意識には正の相関関係がある、つまり低IQなほど思考を節約せざるをえず物事を過度に単純化して捉える目的で、差別意識を偏見として己の思考パターンに刷り込み易いと考えられる(2016年、Social Problems誌、トロント大学ジェフリー・ヴォトケ(Geoffrey Wodtke)による「言語能力テストで高スコアな人は黒人の知性や職業倫理にネガティブな見方をする人が少ない」とする研究。2012年、オンタリオ州のブロック大学、Gordon Hodsonチームによる「低IQの子供は、偏見を持つ大人になる可能性が高い」とする研究など)。我々にとって重要なのはこの種の差別から最大限自由に判断し、事実と空想、あるいは何者かによって捏造され流布されている通俗的偏見を峻別し、最も適切な人生上の選択を適宜冷徹に行っていく事である。
総じて、我々が社会を形成する理由は、単独生活に比べた何らかの公益を他者の存在から受ける為である。この種の公益を最も高次的な概念で表し幸福とすると、我々は茨城県民や北茨城市民として自らの幸福に益する範囲でのみ、市外、県外の人々と接すればよい。なぜなら無制限の交際が我々の不幸につながる場合、この種のつきあいは有害だからだ。このつきあいの中に市外、県外の人の思考習慣や偏見、差別感を何らかの啓蒙や情報提供などで変更するというかなり大変な手間を含めるとすると、上述のよう差別的な人は同時に低IQな傾向があるかもしれないという見解、そしてこの種の人々の低IQさが低学歴や低学力、低所得といった成績と正に相関しているという一般論からいって、どちらかといえば我々が市外・県外の愚者を見分ける有効な手段として、茨城県に対する差別意識の有無が使えると考えて専ら間違いないであろう。都民や京都人が神道や皇室への中華思想的な妄信や自己愛妄想の為に流布する通俗的偏見や田舎差別を、何の批判的意識もなしに鵜呑みにしている人々は、想定される限り低IQだろうし、それに加えてヤンキーという非行少年に関する確証偏見を、全国平均より少ない数と割合でしかこの種の少年刑法犯をもたないわが県へ悪意からあてつけてくる市外・県外の劣悪な性情の者については、二重につきあうべき価値をもっていないといえるだろう。この種の衆愚的差別主義者が単に都内だけでなく京都をはじめとした関西圏、あるいは日本国内に非常に多いとするなら、これらの人々はその様な差別意識をはじめからもっていない、或いは今後もつ由もない茨城県民一般より知性、道徳性のどちらの面についても劣っているのだから、我々は努めて、この種の差別や偏見をもっていない国外の自分より知徳に優れた人達とつきあうようにしなければならないのである。この場合、愛国心やナショナリズムという固執的な全体主義の偏見に基づいて、日本国という単位にこだわり、人間性において自分以下の連中と関わるのは害悪ですらある。
『孫子』に「彼を知り己を知れば百戦して殆からず」とあるのは、自己に有利な情報の非対称性こそ敵の出方を予想する戦術的上策という意味であろうし、この彼という言葉を任意の市外・県外人にあてれば、茨城に民放テレビ局がない事や水戸学に結晶されている儒教的な謙遜を尊ぶ君子道徳は寧ろ好運な偶然とはいえ、魅力度調査に明らかに表れている様、県外との情報の非対称性をうみだしている。私はこの事象を茨城のステルス性、隠密性と呼んでいるが、我々は世界のあらゆる情報摂取と分析に長け、市内・県内情報をできるだけ茨城圏内にとどめながら市民・県民だけで共有し、ますますその外に知られないよう自己隠蔽的な情報環境を今後もこれまでの路線で構築していくべきだと信じる。そもそも、孔子が『論語』で「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」と述べている情報非対称性についての道徳的態度と、孫子の見解は一致している。この逆を行っているのが都議や都政の混乱をさも全国ニュースかのよう不躾にばら撒く都民や、文化交流の中華を志向する過度の自己宣伝によって観光公害を併発している京都市、そして観光先としての魅力度を強調し47都道府県を差別する疑似統計で商売をしているブランド総研・田中章雄の立場ではないだろうか。茨城が世界の情報にますます通じかつ県外・市外への情報発信を抑え今後さらにステルス化され、外部から如何なる誤解や差別、何らかの汚名や負の偏見を受けたとして、またそれが我々の尊厳欲求を傷つけ、名誉感情を損なう様な結果を伴っていたとしても、逆に外部に全てを知られているが我々が県外・市外について何も知らない井の中の蛙である状態に比べて遙かに優れた結果を伴うだろうことは疑いようがない。なぜなら、我々が知識とか、学力と呼んでいる能力の本質は、実際には多かれ少なかれ抽象的な次元における世界に対する情報の非対称性そのものなのだ。いいかえれば、茨城県民の知性が高まれば高まるほど、我々の存在が無知なままの県外に知られる機会は減り、寧ろ我々が世界を知っている程度が高まる筈だ。
究極のところ、所得の対数に比例すると考えられる主観的幸福度に格差が生じる根本原因も、学ぶ習慣として自らに有利な情報非対称性を選好する人々が、情報交換としての相互利益のため或る一か所に集まり易い傾向からきているのだと考えるのが自然である。この現象をより素朴に解釈すると、主に言語記号や芸術といった抽象的思考の体系を通じた学習能力の高い人々がより高所得を得やすい、即ち、一般知能の高い集団側がより恵まれたくらしをする傾向にある、と考えられる。
敢えてこれらに加えれば、我々が芸術一般を有益な文化とみなすのは、それが現実の諸情報の抽象・具象度を調節し、主観的情報量という意味で圧縮・解凍して表す能力があるからである。例えば宇宙という文字は現実の宇宙を形相化したものだが、我々はこの言葉を通じて具体的な宇宙について或る縮減した認識をもてる。他方、宇宙についての詩や小説、絵、漫画、アニメなどは、この宇宙という概念についてより具体的かつ詳細に説明できる。つまり芸術の意義は世界の抽象度を或る理解にとってふさわしい程度に調節できる事なのだ。
芸術が政治的喧伝の装置に使われている時、嘗て天皇家がそうしてきたよう、天皇居住地を中心とした華夷秩序に類する表現、例えば『古事記』や『源氏物語』、その他、皇国史観を連想させる書籍や絵画、儀式芸能的な表現を流布したり褒賞する事で、人々の現実解釈の仕方を皇室にとって恣意的な方向へ歪ませることすらできる。今日、都民はマスメディアやサブカルチャーを通じ、同様の目的で東京大衆社会の低俗さを日本国民含む商業上の客層に向け盛んに喧伝している。これらはどちらかといえば応用芸術を通じた洗脳だが、歌会始のよう、短歌という短詩形式の言葉を天皇を主催者として朗詠する儀式によって、国民全般を皇室崇拝者へ変更しようという純粋芸術的かつ宗教的な喧伝活動もみられる。逆に、これらの喧伝による洗脳を啓蒙的に打ち消す様な表現も、本来の芸術の役割である。現代の都民は自らの後光の為にその種の反天皇的な表現をタブー視し、マスメディア業界から封じ締め出す事で、水戸学の尊皇論へ知らぬうちに追従しているのだ。前衛的な芸術は常に、当時の禁忌を表現の中で破っていく筈だ。それは政治的、宗教的喧伝の手段にされていない、純粋芸術にとっては表現の可能性を拡張し、世界に対する多義的な再解釈の手段を提供するという意味で、本来的な事ですらある。
もしわが市、わが県民が芸術を、我々に有利な情報非対称性をつくりだす有効な手段の一つと考えるなら、我々はできるだけ高尚な芸術を目指すべきである。なぜなら低俗な芸術が人気を博するなら、それはやはり低俗な人々の間だからであり、ここでいう低俗さが、鑑賞の前提とする知識の少なさだとすれば、それは愚者にとっての慰み物に他ならないからだ。一般に高尚さが理解しがたさ、難解さだとすれば、或る芸術の抽象度が高ければ高いほどそれを理解する為に要する情報非対称性の度合いも高い筈であり、高尚な作品を愛好する人が茨城県域や北茨城市に多ければ多いほど、わが県わが市の教養水準が高いことも同時に要求される。主観的幸福度を高める端的な方法が所得を指数的に倍増させる事であるからには、より合理的な商業上の立場をとりつづけるべく世界を分析し将来予測する情報について学習効率も高める必要があり、したがって情報の圧縮性が高いほど、その作品を鑑賞する意義も高い事になるだろう。北茨城に美術品競売界を今後構築するにあたっても、より前衛的であり、より高尚な作品を選好するのが、即ちわが県わが市の幸福度を間接的に高める結果になるであろう。わが県わが市が高尚な人々の間で有名になり、愛好される為にも、高尚な芸術表現の中でこそ集中的に茨城にまつわる諸情報が頻繁かつ必要不可欠に登場する事が極めて有徳である。
2018年3月24日
ばんどう太郎のアメリカ進出案
ばんどう太郎は日本食レストランが普及していないアメリカ南部へ自主的に進出し、新鮮で豊富な茨城産の食材を使い、アメリカから海外における日本食レストランの代名詞となる事をめざすべきである。
バイナンス茨城誘致の必然
金融庁が近いうちに破綻するとしても、それに構わずバイナンスの日本支社を茨城の経済界は一致団結して県内へ誘致するべきである。フィンテック中心地を茨城にする為にはいかなる敵対勢力も全力で潰していく必然性がある。場合によっては頭の固まった長州閥自民党幕府を完全倒幕してもその方が茨城のみならず、後世の日本の為になるのが明らかだからだ。
フィンテック革命の世界の中心を茨城県内にする事こそ、わが県の将来を希望で満たす事になる。
フィンテック革命の世界の中心を茨城県内にする事こそ、わが県の将来を希望で満たす事になる。
2018年3月22日
2018年3月21日
世俗的日本人にみられる理論の軽視についての分析
動物は理論的な行動をとらない。人類が文明を築いた第一の原因は、記号や言語による抽象的行動としての理論性にある。
屁理屈という侮辱語を使う人は、単なる愚者である。特に指導的な立場、権力をもった人間がこの侮辱語を用いてより整合性の高い理論を貶めようとするときその災いは果てしない。なぜならより愚かな理論、またはなんの理論にも基づかない行動は体系的たりえず、成功度が低い為、結局あらゆる損害を自他へ及ぼすに過ぎないからだ。
知行合一という概念を陽明学がもってきた事から、実践的ではない理論の価値を貶める人々は、遂に原始的社会を抜け出す事ができなかった。純粋理論は全応用の基礎なのであり、技術的発展や法規範という実践的側面にのみ、その価値が求まるのではない。また愚かさにこだわり、行動偏重の考え方を受け入れた人々は、脊髄反射の様、より低い次元での誤りやすい行動、或いは愚行をくりかえす結果になり、悉く失敗していく。実際には、理論、実践、それらのくみあわせである技術は、それぞれ異なる価値をもつ体系であり、特にこのうち実践に関わらない、或いは実践を超えた理論だとか、全く理論に基づかない実践だとかが価値そのものとして存在する限り、知行合一は両者の中間性にしか関心をもたない単なる技術主義にすぎない。
アリストテレスが言う通り、理論的生活が人間にとって最も高度な活動であり、技術や実践はこの理論を別の目的に応用したものにすぎない。より獣的で、大脳新皮質が未発達な人間であればあるほど、本能に近い、多かれ少なかれ利己的でしばしば害他的な行動しかとることができず、最低限度規範としての法的学習やのなさや、倫理学的思考の不足とも相まって、違法性や不道徳性を犯しやすく、結果として自らの悪業の故に自滅していきやすくなる。悪人とか愚者とか卑しい人が生じるのは、理論の軽視によっている。
不完全性定理やその物理的側面である不確定性原理の存在からいえるのは、抽象度、抽象性の高い言語記号的行動としての理論の内部自体でさえ、命題における真から偽まで、また、同一律(A→B)、排中律(A∨¬A)、矛盾律(¬(A∧¬A))という最も基本的な論理法則まで、あらゆる論理的結合がありうるのであり、それらのどの理論も理論そのものとしての価値があるという事だ。現代文芸、現代詩の世界で現にみられる通り、矛盾律や偽の命題を含む不合理な想像的世界がつくりだされているし、究極のところ、脱構築という概念を口語一般を含めて拡張すれば示される通り、全言語記号のくみあわせについて、それを示した人物がどの様な意図をもっていたかについて本当に知るすべはない。
一般に、真の言語記号のくみあわせを探求する分野を科学や知識と現在我々は呼んでいて、同様に、美については(現象の一切を広義の象徴的な言語記号と見れば)芸術、善については哲学と呼んでいる。これらの言語記号による部分集合は、全宇宙という全体集合に対して、それぞれ、真に対しては偽、美に対しては醜、善に対しては悪という価値づけの部分集合を含まない様な集合である。これらの全言語記号の定義を脱構築し続ける活動が、我々の学術活動である。その中で、より価値が高いとみなされるのは、常により専門的な分類の中で或る分類規則について、これまでより優れた分類規則をみいだす様な活動である。我々が真善美という、それぞれ、理論、技術、実践の基本的価値についてより精密な定義を知る、この学術活動の必要性は、誤った知識に基づいた迷信(地球は亀の背中に乗っている等)、劣った醜い技術(整備された上下水道のない暮らし)、悪辣な行動から成る社会(暴力、殺人、盗みに満ちた状態)を想定すればわかる。真善美の上位概念は聖であり、その対立概念は俗である。即ち、理論という或る聖性の最も基礎的な出発点を軽視している様な人にとって、単に世界認識について無知や誤解に留まるのみならず、偽に基づいた劣った技術、冤罪について真偽を問う事すらない悪しき俗世間により害悪を受けることは明らかである。端的にいって、理論的でない事を合理化する言葉としての屁理屈、という侮辱語は、人類にとって最悪な堕落を最初にきっかけづける悪魔的言行だといってまずまちがいない。この言葉は暴力、悪意、あらゆる蛮行を第一に正当化する為に、最も愚かな人、全知と思いあがる人、知識や技術に基づかずでたらめに実践すれば成功すると猿未満の考え方で自滅する人の自虐的信念だといってもいい。
我々はこれまで人類が発見した諸々の文明的な段階からいって、技術や実践のどの側面についても、理論的批評や批判的考察が有用だと知っているのであり、理論を軽視する卑俗な態度こそが、その観点からいえば最も軽蔑に足るといっていいだろう。たとえ聖俗の分類が究極のところ不確定だとしても、それを再定義する際にさえ、言語記号や象徴的行動による理論性が必要なのである。特に、我々を含むある人類が、決定的かつ飛躍的に進歩を果たし、人々の幸福を増大させる様な場合、明らかにこの理論的進歩によってこれまでの行動規則を見直し、新たな展開を行える様になった場合だけだ。ニュートン力学や電磁気学、相対論、量子論が理論そのものを目的に確立されてから、ようやく、それらの基礎知識に基づいて我々は自動車、電車、宇宙船、そして量子コンピューターや宇宙エレベーター、タイムマシンを生み出していくだろう。現代に至っても理論を侮辱する人、理屈を罵る人は、単にこれらの技術的恩恵にあずかりながら、世界の理論的認識においてより進歩した人々の前で、己の無知に自覚せず誤り易いくらしをしている自分を合理化しているという点で、愚者なのである。しかし、我々はこの愚者を説得できないかもしれない。なぜならこの人は、言語記号認知の知能が劣っている、或いは言語記号的学習を怠るか、そもそもできないという自らの大脳の変異において、理論的認識を避けるような行動原理を自己に癖づけてしまった人だからだ。我々が文明化したにもかかわらず、全ての人が善良でもなく、等しく賢くもなく、また何らかの点で器用な技を身に着けているでもなく、或いは政治体制が異なったり、資本という意味で貧富にも差がある理由は、この種の脳変異を含む別の個体が生じる可能性があるからだ。理論的能力の低い人、即ち一般的な意味で言語知能の低い人から受ける害を最小化する為に、我々は法を作り、場合によっては理論家らの集団を作って粗野な人々から自らを学園集団や文化サロンとして隔離する。或る社会が確定的に進歩する時、この様な理由で、その根底には理論上の進歩があるといえる。
例えばコンクリート、鉄、ガラスという近代建築の素材がはじめに西洋で現れた時、これらを使った建築物が石や木という古典的素材によるより醜いとみなされていたのであり、ル・コルビュジエやデ・ステイルに属した人々は盛んに理論的啓蒙活動を行って、近代建築の美を宣伝しようとした。彼らへの正当な評価は死後随分たっても、古典的美に泥んでいる西洋の人々の中でも十分行われているとは言えないだろう。ここには技の鑑賞における批評という理論が、人々の生活に与える重要な進歩がみられる。木と紙によった日本建築は、明治以後の西洋崇拝に基づいて、石造建築とコンクリート・鉄による近代建築をまとめて一挙にまねようとしたため、西洋に於いて起きた様な近代材料との審美的衝突はそれほど激しくは起きなかったとおもわれる。寧ろ近代化としてこの鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物が好意的に受け入れられた結果、いまみられる茫漠たるコンクリート・ジャングルの東京都ができたのである。
また実践的理論としての基本的人権とか国民主権の導入が、それまで水戸学に基づいた祭政一致や、松陰に基づいた一君万民とかが天皇主権の帝国主義をつくりあげていたところに大きな政治的変革をもたらしたのは誰が見ても明らかである。哲学はこの自然学の後の分野として社会学を含み、道徳を定義する言語記号的な活動であり、この理論的認識を具体化すると政治になるのだ。つまり、或る善についての理論が前提になければ、我々の政治さえ古代未然の類人猿段階まで退行していくのである。法学や、その再定義を行う法哲学を含む実践的な理論を軽視しながら政治活動をする、ということは、そもそも不可能なので、人間界において最も実践的な活動、最も具体度の高い活動というべき政治、そのなかでもかなり行動に依存していると思われる行政活動ですらそうなのだから、人が己の無教養や言語知能の低さを正当化する為に理論を蔑視するということは、単に愚かさの自己証明になるに過ぎないであろう。また、例えば運動競技とか、芸能活動といった一見して学識を使わない様に見える活動にあっても、それぞれの秩序の中では一定の象徴的な記号の規則が存在し、多かれ少なかれ理論的なのである。全く理論性のない、単なる実践の為の実践という活動がありうるなら、それは最も無秩序な行動にあたり、およそ文明と呼べる活動の範囲には入らないことだろう。もし人が国に管理されていない無人島や無人の荒野にたどり着き、そこで全く目的性のない行動を乱雑にとるとき、それより実践の為の実践活動は無い筈だが、この行動はそもそも意味をみいだす理論においては無意味といわれるであろう。
したがって論理的整合性のない矛盾を述べる事や、単なる利己性を言いつくろう詭弁を指して屁理屈、という侮辱語を用いるのは一定の意味付けがあるとしても、寧ろこれらについてはそれぞれ「矛盾」とか「詭弁」というそれ自体ととれる表現の方が正確であって、理論を軽視するという陽明学の悪解釈は、単に俗悪な末路を結果すると言ってまず間違いがないであろう。経営者が行動を重視する発言を述べている時、この人はより理論的に正しい行動という意味を述べているのであり、いかなる象徴的理論にも基づかず無目的かつ無秩序に行動する事が正しいという場面は、単なる息抜きとか、偶然性を生かす芸術といった無意味さが要求されている様な、特殊な場面に限るのである。
これらは技術的知能や、実践的知能そのものの価値を少しも貶めるものではない。例えば失語症や、言語知能の低い人が、運動や技能において優れていることもあるし、そもそも実践的活動や技術的活動の一切が、理論より技や具体的行動について人より優っているといえる人にとっての適所である。そして一切の事について劣っている人もいるし、それ自体が生の無価値を意味するとはいえない。なぜなら道化や慰めといった有用さの側面だけでなく、何かについて劣っているということは別の面からみれば優れていると解釈される場面があり、例えば勇気のない人は消極的な意味で平和を作り得るし、愚かさのため核分裂の知識や応用する技術のない人は原子力発電所事故や核爆弾投下すら起こしえないであろう。知的障害とよばれている程度に言語知能が低い人についても、サヴァン症候群の様な別の能力が突出した場合だけでなく、単に劣っていると思われる事が逆に何らかの長所と解釈される場合がある。実際、人類の中の一定数の人が知的障害を伴って遺伝される事は、慈悲深い世話好きな人を見分ける条件づけとなっているとか、慣行と異なる行動をする人が集団の盲点になっている何らかの気づきのきっかけとなるとか、かつては無意識を表現するという神がかり的な人物と解釈される事で偶然性を伴う事象を占ってとりあえずの安心を得る、といった様々な利点があったから、単に直接的な意味のみならず、縁を生み出す間接的な意味でもその遺伝子が残ったのである。
屁理屈という侮辱語を使う人は、単なる愚者である。特に指導的な立場、権力をもった人間がこの侮辱語を用いてより整合性の高い理論を貶めようとするときその災いは果てしない。なぜならより愚かな理論、またはなんの理論にも基づかない行動は体系的たりえず、成功度が低い為、結局あらゆる損害を自他へ及ぼすに過ぎないからだ。
知行合一という概念を陽明学がもってきた事から、実践的ではない理論の価値を貶める人々は、遂に原始的社会を抜け出す事ができなかった。純粋理論は全応用の基礎なのであり、技術的発展や法規範という実践的側面にのみ、その価値が求まるのではない。また愚かさにこだわり、行動偏重の考え方を受け入れた人々は、脊髄反射の様、より低い次元での誤りやすい行動、或いは愚行をくりかえす結果になり、悉く失敗していく。実際には、理論、実践、それらのくみあわせである技術は、それぞれ異なる価値をもつ体系であり、特にこのうち実践に関わらない、或いは実践を超えた理論だとか、全く理論に基づかない実践だとかが価値そのものとして存在する限り、知行合一は両者の中間性にしか関心をもたない単なる技術主義にすぎない。
アリストテレスが言う通り、理論的生活が人間にとって最も高度な活動であり、技術や実践はこの理論を別の目的に応用したものにすぎない。より獣的で、大脳新皮質が未発達な人間であればあるほど、本能に近い、多かれ少なかれ利己的でしばしば害他的な行動しかとることができず、最低限度規範としての法的学習やのなさや、倫理学的思考の不足とも相まって、違法性や不道徳性を犯しやすく、結果として自らの悪業の故に自滅していきやすくなる。悪人とか愚者とか卑しい人が生じるのは、理論の軽視によっている。
不完全性定理やその物理的側面である不確定性原理の存在からいえるのは、抽象度、抽象性の高い言語記号的行動としての理論の内部自体でさえ、命題における真から偽まで、また、同一律(A→B)、排中律(A∨¬A)、矛盾律(¬(A∧¬A))という最も基本的な論理法則まで、あらゆる論理的結合がありうるのであり、それらのどの理論も理論そのものとしての価値があるという事だ。現代文芸、現代詩の世界で現にみられる通り、矛盾律や偽の命題を含む不合理な想像的世界がつくりだされているし、究極のところ、脱構築という概念を口語一般を含めて拡張すれば示される通り、全言語記号のくみあわせについて、それを示した人物がどの様な意図をもっていたかについて本当に知るすべはない。
一般に、真の言語記号のくみあわせを探求する分野を科学や知識と現在我々は呼んでいて、同様に、美については(現象の一切を広義の象徴的な言語記号と見れば)芸術、善については哲学と呼んでいる。これらの言語記号による部分集合は、全宇宙という全体集合に対して、それぞれ、真に対しては偽、美に対しては醜、善に対しては悪という価値づけの部分集合を含まない様な集合である。これらの全言語記号の定義を脱構築し続ける活動が、我々の学術活動である。その中で、より価値が高いとみなされるのは、常により専門的な分類の中で或る分類規則について、これまでより優れた分類規則をみいだす様な活動である。我々が真善美という、それぞれ、理論、技術、実践の基本的価値についてより精密な定義を知る、この学術活動の必要性は、誤った知識に基づいた迷信(地球は亀の背中に乗っている等)、劣った醜い技術(整備された上下水道のない暮らし)、悪辣な行動から成る社会(暴力、殺人、盗みに満ちた状態)を想定すればわかる。真善美の上位概念は聖であり、その対立概念は俗である。即ち、理論という或る聖性の最も基礎的な出発点を軽視している様な人にとって、単に世界認識について無知や誤解に留まるのみならず、偽に基づいた劣った技術、冤罪について真偽を問う事すらない悪しき俗世間により害悪を受けることは明らかである。端的にいって、理論的でない事を合理化する言葉としての屁理屈、という侮辱語は、人類にとって最悪な堕落を最初にきっかけづける悪魔的言行だといってまずまちがいない。この言葉は暴力、悪意、あらゆる蛮行を第一に正当化する為に、最も愚かな人、全知と思いあがる人、知識や技術に基づかずでたらめに実践すれば成功すると猿未満の考え方で自滅する人の自虐的信念だといってもいい。
我々はこれまで人類が発見した諸々の文明的な段階からいって、技術や実践のどの側面についても、理論的批評や批判的考察が有用だと知っているのであり、理論を軽視する卑俗な態度こそが、その観点からいえば最も軽蔑に足るといっていいだろう。たとえ聖俗の分類が究極のところ不確定だとしても、それを再定義する際にさえ、言語記号や象徴的行動による理論性が必要なのである。特に、我々を含むある人類が、決定的かつ飛躍的に進歩を果たし、人々の幸福を増大させる様な場合、明らかにこの理論的進歩によってこれまでの行動規則を見直し、新たな展開を行える様になった場合だけだ。ニュートン力学や電磁気学、相対論、量子論が理論そのものを目的に確立されてから、ようやく、それらの基礎知識に基づいて我々は自動車、電車、宇宙船、そして量子コンピューターや宇宙エレベーター、タイムマシンを生み出していくだろう。現代に至っても理論を侮辱する人、理屈を罵る人は、単にこれらの技術的恩恵にあずかりながら、世界の理論的認識においてより進歩した人々の前で、己の無知に自覚せず誤り易いくらしをしている自分を合理化しているという点で、愚者なのである。しかし、我々はこの愚者を説得できないかもしれない。なぜならこの人は、言語記号認知の知能が劣っている、或いは言語記号的学習を怠るか、そもそもできないという自らの大脳の変異において、理論的認識を避けるような行動原理を自己に癖づけてしまった人だからだ。我々が文明化したにもかかわらず、全ての人が善良でもなく、等しく賢くもなく、また何らかの点で器用な技を身に着けているでもなく、或いは政治体制が異なったり、資本という意味で貧富にも差がある理由は、この種の脳変異を含む別の個体が生じる可能性があるからだ。理論的能力の低い人、即ち一般的な意味で言語知能の低い人から受ける害を最小化する為に、我々は法を作り、場合によっては理論家らの集団を作って粗野な人々から自らを学園集団や文化サロンとして隔離する。或る社会が確定的に進歩する時、この様な理由で、その根底には理論上の進歩があるといえる。
例えばコンクリート、鉄、ガラスという近代建築の素材がはじめに西洋で現れた時、これらを使った建築物が石や木という古典的素材によるより醜いとみなされていたのであり、ル・コルビュジエやデ・ステイルに属した人々は盛んに理論的啓蒙活動を行って、近代建築の美を宣伝しようとした。彼らへの正当な評価は死後随分たっても、古典的美に泥んでいる西洋の人々の中でも十分行われているとは言えないだろう。ここには技の鑑賞における批評という理論が、人々の生活に与える重要な進歩がみられる。木と紙によった日本建築は、明治以後の西洋崇拝に基づいて、石造建築とコンクリート・鉄による近代建築をまとめて一挙にまねようとしたため、西洋に於いて起きた様な近代材料との審美的衝突はそれほど激しくは起きなかったとおもわれる。寧ろ近代化としてこの鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物が好意的に受け入れられた結果、いまみられる茫漠たるコンクリート・ジャングルの東京都ができたのである。
また実践的理論としての基本的人権とか国民主権の導入が、それまで水戸学に基づいた祭政一致や、松陰に基づいた一君万民とかが天皇主権の帝国主義をつくりあげていたところに大きな政治的変革をもたらしたのは誰が見ても明らかである。哲学はこの自然学の後の分野として社会学を含み、道徳を定義する言語記号的な活動であり、この理論的認識を具体化すると政治になるのだ。つまり、或る善についての理論が前提になければ、我々の政治さえ古代未然の類人猿段階まで退行していくのである。法学や、その再定義を行う法哲学を含む実践的な理論を軽視しながら政治活動をする、ということは、そもそも不可能なので、人間界において最も実践的な活動、最も具体度の高い活動というべき政治、そのなかでもかなり行動に依存していると思われる行政活動ですらそうなのだから、人が己の無教養や言語知能の低さを正当化する為に理論を蔑視するということは、単に愚かさの自己証明になるに過ぎないであろう。また、例えば運動競技とか、芸能活動といった一見して学識を使わない様に見える活動にあっても、それぞれの秩序の中では一定の象徴的な記号の規則が存在し、多かれ少なかれ理論的なのである。全く理論性のない、単なる実践の為の実践という活動がありうるなら、それは最も無秩序な行動にあたり、およそ文明と呼べる活動の範囲には入らないことだろう。もし人が国に管理されていない無人島や無人の荒野にたどり着き、そこで全く目的性のない行動を乱雑にとるとき、それより実践の為の実践活動は無い筈だが、この行動はそもそも意味をみいだす理論においては無意味といわれるであろう。
したがって論理的整合性のない矛盾を述べる事や、単なる利己性を言いつくろう詭弁を指して屁理屈、という侮辱語を用いるのは一定の意味付けがあるとしても、寧ろこれらについてはそれぞれ「矛盾」とか「詭弁」というそれ自体ととれる表現の方が正確であって、理論を軽視するという陽明学の悪解釈は、単に俗悪な末路を結果すると言ってまず間違いがないであろう。経営者が行動を重視する発言を述べている時、この人はより理論的に正しい行動という意味を述べているのであり、いかなる象徴的理論にも基づかず無目的かつ無秩序に行動する事が正しいという場面は、単なる息抜きとか、偶然性を生かす芸術といった無意味さが要求されている様な、特殊な場面に限るのである。
これらは技術的知能や、実践的知能そのものの価値を少しも貶めるものではない。例えば失語症や、言語知能の低い人が、運動や技能において優れていることもあるし、そもそも実践的活動や技術的活動の一切が、理論より技や具体的行動について人より優っているといえる人にとっての適所である。そして一切の事について劣っている人もいるし、それ自体が生の無価値を意味するとはいえない。なぜなら道化や慰めといった有用さの側面だけでなく、何かについて劣っているということは別の面からみれば優れていると解釈される場面があり、例えば勇気のない人は消極的な意味で平和を作り得るし、愚かさのため核分裂の知識や応用する技術のない人は原子力発電所事故や核爆弾投下すら起こしえないであろう。知的障害とよばれている程度に言語知能が低い人についても、サヴァン症候群の様な別の能力が突出した場合だけでなく、単に劣っていると思われる事が逆に何らかの長所と解釈される場合がある。実際、人類の中の一定数の人が知的障害を伴って遺伝される事は、慈悲深い世話好きな人を見分ける条件づけとなっているとか、慣行と異なる行動をする人が集団の盲点になっている何らかの気づきのきっかけとなるとか、かつては無意識を表現するという神がかり的な人物と解釈される事で偶然性を伴う事象を占ってとりあえずの安心を得る、といった様々な利点があったから、単に直接的な意味のみならず、縁を生み出す間接的な意味でもその遺伝子が残ったのである。
2018年3月20日
ブロックチェーン技術を応用したネット投票システムの公募
北茨城市や茨城県の選挙管理委員会における経費節減と、投票率を上げる事、また選挙の効率化を目的に、ネット投票システムを全国に先駆けて実現させるべきだ。国民番号ごとに投票権を与え、できるかぎりシンプルなサイトにしたネット上での国民番号を入力したうえでの投票システムを、民間業者への試用サイト公募の上で、一定年度ごとに採用するべきである。
このサイトはPCやスマホを含むブラウザ閲覧可能な全ての機器から投票可能とし、国民番号と照らして自らの投票先が確認できるようにするべきである。また期日前投票にも対応し、サイトに入ってから国民番号と照合後、最短で、できればワンクリックで投票できるようにするべきだ。不正な第三者による国民番号の流用に際しては、SMS認証を通じて訂正可能にするべきである。
また公募するシステムの中に、ブロックチェーンによる第三者認証を導入し、投票の信頼性をあげたシステム要件を含めるべきである。
このサイトはPCやスマホを含むブラウザ閲覧可能な全ての機器から投票可能とし、国民番号と照らして自らの投票先が確認できるようにするべきである。また期日前投票にも対応し、サイトに入ってから国民番号と照合後、最短で、できればワンクリックで投票できるようにするべきだ。不正な第三者による国民番号の流用に際しては、SMS認証を通じて訂正可能にするべきである。
また公募するシステムの中に、ブロックチェーンによる第三者認証を導入し、投票の信頼性をあげたシステム要件を含めるべきである。
2018年3月19日
常陸野菜・果物シート世界シェア100%戦略
JA常陸を含む県内農協、また農家は、今後明らかに流行し大いに販売先が広まるだろう野菜・果物シートを、はじめから非常に原価が抑えられる規格外の野菜果物の買い上げ体制と、それをシート状に加工する合理的な生産設備と共に開発し、作物シート市場の世界的覇権を野菜・果物王国である茨城県産が干し芋同様に世界シェア100%を目指しできるかぎり独占するよう、輸出、販売、営業までも含め今すぐにでも六次産業化するべきである。県産品目が日本一豊富であり、市場に流通しない作物を使えるという意味で非常に原価が抑えられ、加工技術を高めたり世界展開を工夫するほど高い付加価値がつけられるすばらしい青い海である。茨城産作物シート事業は高ROEが予想され、地理的表示(GI)、意匠(パッケージ等のデザイン)、特許(農業生産方法)取得を含むブランド化や商標登録を含めて、全県ぐるみで本気で乗り出すのに極めてふさわしい。おそらく最も効率よくこの事をなしうるのは、JA常陸または県内農協が共同出資で野菜果物シート専用株式会社を率先してつくり、この会社に市内県内の農家から市場に出回らない規格外の野菜と果物をできるだけ安く買い上げさせる事が大いなる成功につながる。利は元にありというよう、殆ど限りなく原価を抑えられる必然性があるからである。
思うに、世界で最も高級料理のイメージがあるフランス料理に最も合うような、加工バリエーションの中での最高級品を茨城産が世界で最も先に開発し、これを実際にフランスの一流料理人やパティシエへ積極的に最も先に売り込み大いに使ってもらい、不満や改良点を料理人や批評家、客から常に聞き出して世界一品質の良い、他に追随しがたい野菜シートの粋に達するまで洗練させ続けるべきである。この後、他社がいかに模倣改良しても、特許や商標、ブランド障壁、そして県産価格差でそれを未然防止する。世界の料理界から一目して最高級品と認められるよう、茨城産シートを使った料理や店が国際的に著名な受賞を総取りするまで、高級品イメージの宣伝を行うべきである。これらによって高付加価値化と、県産が占有的な高シェア率のままでの大量販売が両立し得るだろうから。そしてこの様な一商品の極めて高い評判は他の茨城産作物の後光にも作用するだろうから、乗数的な効果があがるかもしれない。
専ら、長崎県平戸市にある資本金2億以上の株式会社アイルの作っているベジートがこの業態の先駆だが、これはシート加工した海苔状の作物がべたっとした食感になってしまう事を、長崎女子短期大との共同研究で、酵素分解術と寒天を応用することでパリっとした食感に変えたところに工夫があった。とりあえずこの会社の商品を取り寄せて、農家農協が徹底研究しながらこの会社の製品を模倣改良し、茨城側に有利な戦略として量産化するところから出発するべきだろう。2018年春までにアイル社はトマト、かぼちゃ、パプリカ、バジル、梅干し、レモンの本格販売を行おうとしているが、量産化できているのは人参と大根のシートだけだという(AERA2018.1.3「仏の星付きレストランも採用 日本の「シート状野菜」その味と可能性」森田悦子)。即ち茨城勢が創造より費用が低い模倣によって先回りしてその他の食材の量産化にも進めればまだ勝機がある。そして追随しがたい決定的な革新が見られる段階まで県産品の改善が進んだ段階で、企業機密としてこの加工技術等をもった商品を商標登録するべきだろう。
思うに、世界で最も高級料理のイメージがあるフランス料理に最も合うような、加工バリエーションの中での最高級品を茨城産が世界で最も先に開発し、これを実際にフランスの一流料理人やパティシエへ積極的に最も先に売り込み大いに使ってもらい、不満や改良点を料理人や批評家、客から常に聞き出して世界一品質の良い、他に追随しがたい野菜シートの粋に達するまで洗練させ続けるべきである。この後、他社がいかに模倣改良しても、特許や商標、ブランド障壁、そして県産価格差でそれを未然防止する。世界の料理界から一目して最高級品と認められるよう、茨城産シートを使った料理や店が国際的に著名な受賞を総取りするまで、高級品イメージの宣伝を行うべきである。これらによって高付加価値化と、県産が占有的な高シェア率のままでの大量販売が両立し得るだろうから。そしてこの様な一商品の極めて高い評判は他の茨城産作物の後光にも作用するだろうから、乗数的な効果があがるかもしれない。
専ら、長崎県平戸市にある資本金2億以上の株式会社アイルの作っているベジートがこの業態の先駆だが、これはシート加工した海苔状の作物がべたっとした食感になってしまう事を、長崎女子短期大との共同研究で、酵素分解術と寒天を応用することでパリっとした食感に変えたところに工夫があった。とりあえずこの会社の商品を取り寄せて、農家農協が徹底研究しながらこの会社の製品を模倣改良し、茨城側に有利な戦略として量産化するところから出発するべきだろう。2018年春までにアイル社はトマト、かぼちゃ、パプリカ、バジル、梅干し、レモンの本格販売を行おうとしているが、量産化できているのは人参と大根のシートだけだという(AERA2018.1.3「仏の星付きレストランも採用 日本の「シート状野菜」その味と可能性」森田悦子)。即ち茨城勢が創造より費用が低い模倣によって先回りしてその他の食材の量産化にも進めればまだ勝機がある。そして追随しがたい決定的な革新が見られる段階まで県産品の改善が進んだ段階で、企業機密としてこの加工技術等をもった商品を商標登録するべきだろう。
北茨城サッカースタジアム複合施設案
水戸ホーリーホックがJ2で首位に立ったことを記念して、北茨城市もチームのホームタウン入りを表明し、将来的に市役所前のサッカー・ラグビー場をスタンド付きの天然芝のサッカーグラウンドに改良して、ホーリーホックのジュニアユース本拠地の1つとして使われる様になる事をめざすべきだ。ホーリーホック自体がJ1規格グラウンドの観客席数15000人に満たない事に悩まされている。北茨城市自身がその規格を満たした専用競技場を供与し、自らユースチームを主としたホームタウンになる事で、ホーリーホックの資金不足という課題解決の一助になりうるし、かつ、北茨城市の若年層や練習と試合時に消費と活気を呼び込むという町おこし目的の2つを同時に満たせる。
北茨城市在住の子供にとって誇りや愛郷心の源泉にもなる事、またサッカーラグビー場の立地場所が試合観覧と共に海を見渡せるという絶好のロケーションにある事からも、日立駅や日立市役所を設計した、日立市出身の世界的建築家である妹島和世氏に、建築史、世界史に永久に残る、世界で最も前衛的な新スタジアム建設を依頼するべきである。建築的傑作を作る為には、日立駅をみればわかるとおり建築物を取り巻く環境がごく重要であり、必ずしもかける値段が名作を生み出すのではない。したがってこの為の費用負担を過剰に見積もる必要は無く、北茨城市の芸術文化水準の高さとその名誉を世界中に知らしめる、というコンセプトを主題にして、決して過大な費用をかけることなく整備計画を推進していくべきである。
勿論、このグラウンドはこれまで通り、市内外のサッカー少年少女団や市民にも、最大限開放するべきだ。優秀な選手を生み出すには、24時間365日、子供の頃から毎日広いグラウンドでボールを蹴り続けて練習を続けていられなければならず、その様な理想的練習環境を新市民グラウンドにつくることが必要だ。
また老朽化していく市立体育館と市民プールを、このスタジアムと同時に一体的に最開発する様に設計案を進め、市役所周辺を津波などの災害時の避難所や核シェルターとしてできるだけ多い市民が避難できるようにし、主に夏場はスタジアムの庇による太陽光発電を蓄電池へ溜め夜間電力や施設冷房に使ったり、また冬場は地下での熱電併給(cogeneration)システムを体育館・市役所内の暖房・温水プールなどに用い、場合によっては市内のバイオマス発電所であるパワーステーション茨城等と緊急時の電力提供を締結し、予想される災害時に耐えられるだけの最小限度の生活維持機能を持たせるように設計しうるかもしれない。いずれにせよ、基本コンセプト以外は、建築家側の提案を最大限受け入れて、県内にまだ少ない妹島建築が北茨城市に代表作としてできるだけ残る様にする事で、将来にわたってわが市、そして日立駅と日立市役所を少なくとも有している日立市を含む茨城県北部が世界から建築史上に残る偉大な建築作品を有しているという点で尊敬される事になるのは疑いの余地がない。この作品1つで茨城のイメージがガラッと変わってしまうような、世界でまだ誰も見た事がない世界一魅力的と考えられる極めて見栄えのよい建築物を世界的建築家である妹島氏に依頼するべきであり、このスタジアムの効果で市のみならず県全体の魅力度が180度転換する様に考えてもらうべきである。この様な事を成し得る天才は市役所員自身には恐らくないので(例えば市役所が過干渉した市立図書館の建築が世界中で有名になっておらず、世界中の建築学生や建築ファンが次々訪れてもいない事からも明らかなように)、目的に沿う基本コンセプトを除けば、できるだけ自由に設計してもらうべきである。
これらのスポーツ複合施設建設にかかる財源は、スタジアムと体育館・プールの複合施設の命名権で一定程度まかなえるかもしれない。それで足りない分は、市長と現時点で梶山弘志氏や額賀氏に近い自民党市議、茨城4区の自民党県議らと共に、スポーツ庁に対して、茨城県は五輪の金メダル数や小中学生体力が全国で1位から2位に位置し、鹿島アントラーズという名実ともに日本最強のチームが世界クラブチャンピオンシップで世界2位を獲り、現に日本の名誉を高めてきた実績からいって、この潜在能力が十二分にある茨城県民にあって現在J2で活躍中の水戸ホーリーホックのホームタウンに十分な運動競技を行えるだけの規格を満たしたスタジアムが不足している事がわが国民の運動能力と天才の発揮に大いに差し支えがあり、ぜひ我々が計画するサッカースタジアム複合施設の整備費をわが国の威信にかけて要望する、また、このわが市の市民体育館は東日本大震災で死者を出す被害を受けながら避難者を守り、天皇皇后両陛下の慰問を受けた歴史と由緒ある場所であり、決してこれを再開発するにあたってなおざりに建設できない、茨城国体や東京五輪のサッカー競技茨城開催も控えている手前、我々のいまおこなっている計画は現在国政の第一課題たる地方創生の明白な第一手そのものなのである、北茨城市は首都圏で唯一、死者を出した自治体であり、心的外傷を負った子供らに日本の未来に希望を持たせる復興の象徴に津波の恐怖のりこえてこの海が見えるサッカースタジアムをしたいのだ等々。丁寧な文章と納得感の十分にあるわかりやすい資料を持参しつつ、(額賀氏を主とした)自民党県議と地方創生担当大臣(現在、梶山氏である)を引き連れて、内閣府、国土交通省、復興庁、スポーツ庁長官らを説得し、国の予算をできるだけ北茨城市と水戸市のスタジアム整備費に引っ張ってくる要望を省庁へくりかえし行って、粘るだけ粘って最大限分捕るべきである。したがってこれは茨城県北の振興にもホーリーホックのスタジアム建設助成にも該当するので、水戸市長や、茨城県知事の大井川氏、或いは水戸ホーリーホックの社長らとも事前協議の上で、彼らと連名で要望をくりかえし行うべきではないだろうか。
また未来についていえば、茨城五輪を開催する事がわが県名を世界轟かせ、茨城(或いは将来、道州制や連邦制のもとで新たな国名になる可能性がある「ひたち」)という言葉を好印象で刻みその名誉を高めることから、 この北茨城サッカースタジアム複合施設は将来の五輪競技の用にも使い得る様な規格を、後の拡張や修繕、再構築を含め、できるだけ満たす様に計画するべきである。
水戸ホーリーホック関連の興行収益を市の単位でふやすことを目指し、ここから得られた財源を、 もともと推進中である市内でのテニス環境整備費へとふりむけていく事が、将来性のあるスポーツ関連投資になると思われる。
北茨城市在住の子供にとって誇りや愛郷心の源泉にもなる事、またサッカーラグビー場の立地場所が試合観覧と共に海を見渡せるという絶好のロケーションにある事からも、日立駅や日立市役所を設計した、日立市出身の世界的建築家である妹島和世氏に、建築史、世界史に永久に残る、世界で最も前衛的な新スタジアム建設を依頼するべきである。建築的傑作を作る為には、日立駅をみればわかるとおり建築物を取り巻く環境がごく重要であり、必ずしもかける値段が名作を生み出すのではない。したがってこの為の費用負担を過剰に見積もる必要は無く、北茨城市の芸術文化水準の高さとその名誉を世界中に知らしめる、というコンセプトを主題にして、決して過大な費用をかけることなく整備計画を推進していくべきである。
勿論、このグラウンドはこれまで通り、市内外のサッカー少年少女団や市民にも、最大限開放するべきだ。優秀な選手を生み出すには、24時間365日、子供の頃から毎日広いグラウンドでボールを蹴り続けて練習を続けていられなければならず、その様な理想的練習環境を新市民グラウンドにつくることが必要だ。
また老朽化していく市立体育館と市民プールを、このスタジアムと同時に一体的に最開発する様に設計案を進め、市役所周辺を津波などの災害時の避難所や核シェルターとしてできるだけ多い市民が避難できるようにし、主に夏場はスタジアムの庇による太陽光発電を蓄電池へ溜め夜間電力や施設冷房に使ったり、また冬場は地下での熱電併給(cogeneration)システムを体育館・市役所内の暖房・温水プールなどに用い、場合によっては市内のバイオマス発電所であるパワーステーション茨城等と緊急時の電力提供を締結し、予想される災害時に耐えられるだけの最小限度の生活維持機能を持たせるように設計しうるかもしれない。いずれにせよ、基本コンセプト以外は、建築家側の提案を最大限受け入れて、県内にまだ少ない妹島建築が北茨城市に代表作としてできるだけ残る様にする事で、将来にわたってわが市、そして日立駅と日立市役所を少なくとも有している日立市を含む茨城県北部が世界から建築史上に残る偉大な建築作品を有しているという点で尊敬される事になるのは疑いの余地がない。この作品1つで茨城のイメージがガラッと変わってしまうような、世界でまだ誰も見た事がない世界一魅力的と考えられる極めて見栄えのよい建築物を世界的建築家である妹島氏に依頼するべきであり、このスタジアムの効果で市のみならず県全体の魅力度が180度転換する様に考えてもらうべきである。この様な事を成し得る天才は市役所員自身には恐らくないので(例えば市役所が過干渉した市立図書館の建築が世界中で有名になっておらず、世界中の建築学生や建築ファンが次々訪れてもいない事からも明らかなように)、目的に沿う基本コンセプトを除けば、できるだけ自由に設計してもらうべきである。
これらのスポーツ複合施設建設にかかる財源は、スタジアムと体育館・プールの複合施設の命名権で一定程度まかなえるかもしれない。それで足りない分は、市長と現時点で梶山弘志氏や額賀氏に近い自民党市議、茨城4区の自民党県議らと共に、スポーツ庁に対して、茨城県は五輪の金メダル数や小中学生体力が全国で1位から2位に位置し、鹿島アントラーズという名実ともに日本最強のチームが世界クラブチャンピオンシップで世界2位を獲り、現に日本の名誉を高めてきた実績からいって、この潜在能力が十二分にある茨城県民にあって現在J2で活躍中の水戸ホーリーホックのホームタウンに十分な運動競技を行えるだけの規格を満たしたスタジアムが不足している事がわが国民の運動能力と天才の発揮に大いに差し支えがあり、ぜひ我々が計画するサッカースタジアム複合施設の整備費をわが国の威信にかけて要望する、また、このわが市の市民体育館は東日本大震災で死者を出す被害を受けながら避難者を守り、天皇皇后両陛下の慰問を受けた歴史と由緒ある場所であり、決してこれを再開発するにあたってなおざりに建設できない、茨城国体や東京五輪のサッカー競技茨城開催も控えている手前、我々のいまおこなっている計画は現在国政の第一課題たる地方創生の明白な第一手そのものなのである、北茨城市は首都圏で唯一、死者を出した自治体であり、心的外傷を負った子供らに日本の未来に希望を持たせる復興の象徴に津波の恐怖のりこえてこの海が見えるサッカースタジアムをしたいのだ等々。丁寧な文章と納得感の十分にあるわかりやすい資料を持参しつつ、(額賀氏を主とした)自民党県議と地方創生担当大臣(現在、梶山氏である)を引き連れて、内閣府、国土交通省、復興庁、スポーツ庁長官らを説得し、国の予算をできるだけ北茨城市と水戸市のスタジアム整備費に引っ張ってくる要望を省庁へくりかえし行って、粘るだけ粘って最大限分捕るべきである。したがってこれは茨城県北の振興にもホーリーホックのスタジアム建設助成にも該当するので、水戸市長や、茨城県知事の大井川氏、或いは水戸ホーリーホックの社長らとも事前協議の上で、彼らと連名で要望をくりかえし行うべきではないだろうか。
また未来についていえば、茨城五輪を開催する事がわが県名を世界轟かせ、茨城(或いは将来、道州制や連邦制のもとで新たな国名になる可能性がある「ひたち」)という言葉を好印象で刻みその名誉を高めることから、 この北茨城サッカースタジアム複合施設は将来の五輪競技の用にも使い得る様な規格を、後の拡張や修繕、再構築を含め、できるだけ満たす様に計画するべきである。
水戸ホーリーホック関連の興行収益を市の単位でふやすことを目指し、ここから得られた財源を、 もともと推進中である市内でのテニス環境整備費へとふりむけていく事が、将来性のあるスポーツ関連投資になると思われる。
2018年3月18日
茨城県種子条例を2018年4月までに取り急ぎ制定すべし
2018年4月に安倍独裁の影響で種子法が廃止される。このため堤未果『㈱貧困大国アメリカ』に詳しいが、モンサント社をはじめとしたアメリカ企業が人命に致命的影響がある事がわかっている遺伝子組み換え種子と農薬の年契約セットをさかんに売り込んでくるし、途上国がアメリカ企業支配によって既に農業と健康を致命的に破壊されたとおり、日本農業をつぶしにかかってくることは明らかとなった。遺伝子への悪影響、また農地への農薬散布による食料・環境・人体汚染、一度契約してしまえばもう元の安全で高品質な農業へもどることはできない毎年の契約金によって、茨城農家がモンサント社から利益を収奪される悪影響の結末が完全に見通せる。日本最大の耕地面積と農家数をもつわが県の食と環境、人体が遺伝子・農薬公害で破滅するだけではなく、首都圏を含む多数の作物の生産高が日本一、二である事実からいって、日本全体の食の安全がおびやかされるだけでなく種子や飼料を含む食糧封鎖をたねにした外圧に弱くなり、アメリカ依存の属国化を伴うことになる。
したがって、茨城県も滋賀県同様に県独自で対処し、旧種子法の「国」の項を「県」におきかえた茨城県種子条例を率先垂範、県農作物の安全性と収益の独立を目的に、茨城県の食糧安全防衛を即刻、県議が行わねばならない。
もはや安倍最悪政治は全く信用に足らない。完全に狂気じみた独裁政を行うアメリカの傀儡にすぎない。それぞれの農業県が、既に世界中で起きた合衆国資本による食料侵略を研究のうえ他山の石とし、米国農政複合体からの人命被害と食料支配による属国化という陰謀を見抜き、県益とその延長上にある国益を自主自衛するしかない。
以下参考資料。
したがって、茨城県も滋賀県同様に県独自で対処し、旧種子法の「国」の項を「県」におきかえた茨城県種子条例を率先垂範、県農作物の安全性と収益の独立を目的に、茨城県の食糧安全防衛を即刻、県議が行わねばならない。
もはや安倍最悪政治は全く信用に足らない。完全に狂気じみた独裁政を行うアメリカの傀儡にすぎない。それぞれの農業県が、既に世界中で起きた合衆国資本による食料侵略を研究のうえ他山の石とし、米国農政複合体からの人命被害と食料支配による属国化という陰謀を見抜き、県益とその延長上にある国益を自主自衛するしかない。
以下参考資料。
「安倍政権、日本の農業を根絶せしめる愚行…ひっそり種子法廃止」
ページ1
・・・今年はとてもそのような“ウキウキ気分”にはなれません。この先ずっと、今年のこの感覚は残ることになるかもしれないほどです。
4月に「主要農作物種子法」、通称・種子法が廃止されるためです。昨年2月、国会が「森友学園問題」「加計学園問題」で大揺れしているさなか、閣議決定された種子法の廃止は、4月には国会で可決成立し、一年後の今年4月には有無を言わせず施行されることになったのです。
種子法の廃止が国民生活にどのような影響をもたらすのかということに関しての議論もなければ、きちんとした準備期間もとられてはいません。なぜ、国はこれほどに種子法の廃止を急ぐのでしょうか。・・・
ページ2
種子法が制定されたのは1952年5月でした。・・・
この頃の日本はまだ、戦後の混乱期から完全に脱することができていませんでした。つい数年前までの食糧難の時代の影は、世の中に色濃く残っていたのです。それを踏まえた上で国は、国民を飢えさせることなく十分な食料を確保し供給するのは国家としての責任だという使命感から、種子法を制定するに至ったのです。
同法では、「米・麦・大豆などの主要な農産物に関しての優良な種子の安定的な生産と普及は、国がその役割を果たすべきである」と定めています。地域性に伴った優良な種子が農家に行きわたること、またそれを実現するための農業試験場の運営にかかる費用など、必要な予算は国が責任を持って調達することになっていたのです。それによって、日本の農業が守られてきたという側面は否定できません。
種子法が未来永劫このままでいいとは筆者も思いませんが、廃止してはいけません。それは遅かれ早かれ、モンサント、バイエル、ダウ・デュポン、シンジェンタなどのいわゆる多国籍企業に日本の食料を支配されることにつながり、これらの企業の世界食料支配戦略に加担することになるからです。
もとより、日本は食料自給率が異常なまでに低いことで知られていますが、それでも最後の砦として、米をはじめとする主要農産物を守ってきたのです。それが4月以降、主食である米の種子までも売り渡してしまうことになるのです。これについては、もっと議論が必要だと思いますし、またそうでなければいけないはずですが、当の自由民主党内の農林部会でもまったく議論されていません。なぜにそのような手順を省略してまで廃止したのかと嘆きたくもなりますが、とにかくこの種子法は廃止されてしまうのです。筆者は、そのことを憂えると同時に、将来に禍根を残すと危惧しています。・・・
ページ3
米をつくるための水田は、同時に灌漑装置でもありました。米でつくる餅や発酵食品は、重要な保存食であるとともに地域に根差す季節ごとの行事や、祭りなどの祝い事に欠かせないものでもありました。種子法の廃止は、私たちが守るべき文化そのものを否定し、根絶せしめるものだと筆者は考えます。
今年、お子さんや、お孫さんが入学式を迎える、または幼稚園や保育園に通い始めるという方もいらっしゃるでしょう。お祝いにお赤飯を炊くおうちもあるのではないでしょうか。その赤飯に使うもち米やあずきが、遺伝子組み換えの種子だったとしたらどうでしょうか。日本古来の種子からつくられた作物ではなく、食料の支配をもくろむ一派がつくった種子からつくられたものだったとしたら、どう感じるでしょうか。
種子法の廃止は、そのようなことにつながっていく危険性が大きいのです。多くの方々がこれを真剣にとらえないのは、マスメディアが取り扱わないことも大きいでしょうが、それは種子法を廃止することで利益を得る企業の支配力がそこまで及んでいるということの証左でもあるのです。
私たちにできることは、自分や家族が食べるものを真剣に見直し、きちんと選択することです。種子法を廃止する根拠はあまりにも薄弱です。それでも強行する裏側には何かがあると考えるべきではないでしょうか。
食料を支配された国は、まちがいなく主権を奪われます。66年前に主権を回復した日本は今また、それを自ら放棄しようとしています。私たち国民の多くは、それを本当に望んでいるのでしょうか。それとも、この国が主権を放棄する方向に動いていることを、ただ知らないだけなのでしょうか。
(文=南清貴/フードプロデューサー、一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事)Business Journal 2018.03.15
種子法4月廃止、独自要綱策定し継続へ 滋賀
3/12(月) 22:50配信
京都新聞
コメなど主要な農作物の種子を安定供給するために都道府県の役割を定めた「主要農作物種子法(種子法)」が4月に廃止されることを受け、滋賀県は12日、新たに県独自の要綱を策定し、原種の保管などこれまでの取り組みを継続する方針を明らかにした。法の廃止に伴う影響を懸念する農家の要望に応える。
種子法は、食料増産に向けて優良な種子を普及させるため1952年に制定。コメと麦、大豆について、県に奨励品種の調査や種子の基となる原種の生産を義務付けている。種子の品質が安定したことや、民間企業が種子生産に参入しにくいことを理由に、昨年の通常国会で廃止が決まった。
一方で、県内で生産されるコメの89%は、種子法に基づき農協を通じて供給される種子を使用しており、生産者から種子の安定供給や価格に影響が出るのを懸念する声があった。県は今月中に要綱を策定し、種子法とほぼ同様の内容を引き継ぐという。
県農業経営課は「『民間業者から種を買わなければならないのか』といった不安の声も寄せられていた。優良な種子を農家に提供する体制をこれまで通り守っていきたい」としている。
2018年3月17日
産業や芸術文化の振興面からみた基礎所得論
観光振興も過度なら観光公害をもたらすし、そもそも観光依存度の高い地域は土産物を除けば高付加価値品を販売できない為かGDPと負の相関傾向がみられるようだし、北海道、沖縄、京都、或いは東京という大衆観光集客を進めている地域は、反面教師という面も大きい。単に観光業という意味では民間によって、できる限り、高付加価値をもたらす客を選び、それにふさわしい高品位の奉仕を、世界に範を探して自ら研究するべきだといえる。大井川氏は高級ホテルを誘致しようとしているが、これも県内の既存の旅館ホテル業者に対して害悪だし、自由市場に対する干渉に他ならない。もしそうする合理性や勝算があるなら自分が民間で起業するなり、いずれかのホテルに投資して大株主になって総会で命じればいい話である。例えば山口県は農業生産高は低いが工業化されており、一人当たりGDPはかなり高く、長門市が経営破綻した白木屋グランドホテル跡地に星野リゾートを誘致した。この県民は長州閥一般がそうであるよう国家社会主義的であり、安倍晋三も含め、政商行為を平気でやる傾向があるわけだが、政治家に商才があるなら最初から商売をやるべきなわけで、自分がみる限りかなりの高確率でこの行政が企てた温泉街再生は失敗する筈だ。大井川県政がこの県から何かを学べるとしたら、市場放任の合理性に逆らった地域での骨折り損のくたびれもうけであり、また県有地を工業団地化し市場に放出する事によって一人当たり所得やGDPを上げる結果を鼓舞できるという点だろう。しかし、所得やGDP、人口の増加の為には県内に集積の利益がある商業地である大都市圏をつくる方がより効果的であって、高さ制限でこの高密度化を妨げている水戸市街地を改造するか、日立、筑波、土浦のいずれかの都市部の人口密度を高めるか、いずれかの方が優れているといえる。水戸市は芸術館塔の高さに合わせ条例で市街地の高密度化を防いでいるわけだが、この事が土地辺り生産性を低める結果になっているし、集積の利益に逆らう結果を伴っている。京都市は古都の体裁を繕う為に高さ制限を導入したわけだが、県内外の誰にとっても水戸市がもつ江戸時代の歴史景観に価値を認める人は少なく、歴史家にとってを除けばただの中小都市だと思われている結果になっている。例えばドバイをみればわかるよう、ランドマークになっているブルジュハリファは世界一級の高さをもっていて、周辺地区はその高さに追いつくよう開発され大都市化したわけで、水戸市街のどこからでも芸術館塔がみれるように、という水戸市議会の考え方は、塔の高さが現代都市にとっては低すぎるという問題点を解決できていない。京都市自身、高さ制限が経済合理性を阻害している。よって、今後の県都の発展を考えれば高さ制限を撤廃するか、さもなくば新たな高さの基準となる世界一高いランドマークを建設し続けるかだが、このどちらについても高さのあるランドマークを行政がつくる意味は何らかの都市計画についても特にないのであって、単なる自己満足でしかないだろう。
結局、目指す県の理念や夢が何かによって、観光集客、産業振興、都市計画、がそれにあわせて生起するともいえるのであり、この点について茨城県知事は日本一幸福な県、という路程標しか建てていない。しかし日本一幸福ということは非常に低い目標だ。日本の客観幸福度は国連調査で示されてるよう万年下位だからだ。めざすべきは世界一幸福な県たり続ける事であべきだ。高い(不足していると考えられる観光的)魅力度というのは、観光業者の繁盛に加えて県民一般の尊厳欲求を満たす手段としてこの世界一の幸福の部分を為すものであり、目的に達するまでに経過すべき一里塚にすぎない。尊敬されたいとか羨望されたい、という俗物根性的な名誉欲が尊厳欲求の一部に含まれている限り、下衆や無知な人から魅力度差別を受け続けるのは不合理であろう。勿論、この俗物的承認欲を超越し、いくら不条理に下衆共から侮辱されようがわが道を行く事がより尊い態度だろう。京都市や東京都における自文化中心主義的な中華思想の例を見れば明らかなよう、承認欲に限度がないのも明らかなので、寧ろこの種の国内魅力度競争を避けて、全く自分の為にも他人の為にもふさわしい生き方をする方が悟っており、もっと大人びているといえそうだ。
最初に挙げた通り、観光推進を今の自民党がはかっている訳は、安倍晋三という人が円安誘導に理由をつけてアメリカ政府と日本操縦者から内政支持を受けつつ権力行使をし、徳川に負けた恨みから形成された長州閥原理主義を狂信したい、というもので、はっきりいえば根底にあるのはただの山口県出身に執着する門閥の利己心であって、幼稚な話である。また観光業界でしばしば世界一の評価を受けている京都市の市長・門川大作という人の根底にあるのは、昭和の市長が作った世界文化自由都市宣言の延長として、平和や文化交流という名目で自文化中心主義をまっとうし、世界中から賞賛されたいという名誉欲と俗物根性である。皇族を含み、東京都民の目的は権力欲の満足であり、家康の頃は平和を実現する天下統一のため関西圏の覇権を切り崩す目的があったかもしれないが、慶喜以後は徳川家の影響力圏を出て、天皇が予てそうだったよう帝国主義的中華思想の権化に成り下がった権勢欲の俗物趣味そのものである。薩長土肥らの権勢欲は敗者側になった幕藩体制への恨みに由来し、現段階では西国一般同様、東京のカネと日本政府を含む権力への嫉妬と羨望がその由来におきかわっている。北海道と沖縄については珍しい自然環境をもっているので天然で観光振興している。人口減少に悩んでいた東北は震災復興に大変で、事態を傍観している。これらが現時点の日本人らがもっている欲望一般なのである。どうだろう。我々の模範に足るところがどこかに一つなりともあったろうか? この種の俗物達から差別され、侮辱されたところで、我々とは何一つ関係ないのが分かるのではないだろうか。我々茨城県民や北茨城市民の精神性、道徳心の方が、根底から言って、彼ら県外の、皇族を含む、おもに西南地方の人々より高いのではないだろうか。何しろ我々にとって中国韓国北朝鮮を差別しながら欧米模倣したり白人から名誉を与えられるためとかく権勢欲を満たしたい、という大分県出身の福沢諭吉的野望は特に身近でないし、天皇家のよう自分が皇帝だの現人神だの自分の先祖が中国人の神だのといった自己優越の妄想をいだいて全国民を差別蔑視暴虐暴利して回る様な野蛮人は先ずみたことがない。冷徹にいって、南西日本の我執によった傲慢な権勢欲から学ぶに足る点はない。
仮説としてもし理由をみいだすなら、我々がこの種の上位の精神性を得るに至ったのは、嘗てこの地を支配し、先日ご当主が亡くなられた徳川慶喜家からの伝承ではないだろうか? この慶喜という人は、水戸学を弘道館で習った後、自ら大政奉還し、開国のうえ軍事を近代化し、天皇のもとでの合議政体をつくりつつ大変な苦労をされて、烈公からの庭訓を守って朝廷に弓を引かず、恭順しながら貴族院議員として薨去した。にもかかわらず下衆から名誉毀損され続け150年、母と正室が皇族であった事とあわせて悲劇の将軍というべき人物だが、彼を信じて亡くなった天狗諸生両党の思いを汲んでも、これほど権勢欲と無縁だった人物は歴代将軍の中にいないのであって、初代頼房が天下が欲しいと天守閣から家康の前で言ったとされる夢が15代目で叶ってからも、我々この県で生まれ育った者の中に或る達観をもたらしているのではないだろうか。それは権勢欲のむなしさ、権力の無常に対し一定距離を置いた、定府的で、副将軍的で、メタ認知的で、批判的で、自己超越的な物の見方であり、上述の承認欲に根差す俗物達について我々が余り、或いはほとんど共感できないとすれば、慶喜公という先人の偉大さに精神の高貴さについて少しも及ばないからかもしれない。ゆめ朝廷に弓を引くなかれ、という彼の家の哲学としての当為に対し、徹頭徹尾自己犠牲的にふるまい、世間の誹謗にも耐え、遂に当主も亡くなられたという現実の前で、やれ自分が維新の胎動だの、日本人をスコットランド人との武器取引を経て殺しまくってやっただの、当時の政府警察をテロで殺戮しただの、自分の先祖は神だから崇拝するだの、世界の文化中心が自分の町だだの、世界の都市格でわがみやこが一番だの、まことに卑小な連中というべきではないだろうか。この尊皇論というものの原型が、義公による名目的君主政体の定義、といういまでいう象徴天皇制の理論的根拠にあるとしても、イギリスかぶれの皇室や宮内庁は、GHQに命じられて類似の制度をもっていたイギリス王室を模倣しているのだと思っているのではないだろうか。なぜ将軍を首相という名義に代えて、絶対君主による帝国主義という逆行を経てまで、世襲の天皇が日本を一度亡ぼしたかというと、この天皇家の知恵が、慶喜を含む水戸の徳川家に劣っていたからだといえるだろう。岩倉、伊藤、毛利に島津ら西国諸藩主に、五摂家その他の華族連はいうまでもない。気宇高邁な主君の統治を経てきたわれわれからみれば、薩長藩閥の外様大名の領地から東京に出てきて暴れまわる人々の権勢欲それ自体に意味がないどころか、天皇を自称して恥じない家の様な、子供じみた我執そのものが愚かしく見えるのも、当然だ。
最初の問題に戻ると、世界一幸福な県とは諸々の欲望のうち、最も高貴なものを満たしている状態であろうし、それは恐らく自己超越にあるのだろう。自慢合戦や大衆観光集客を主としたメディア洗脳ゲーム、工場誘致による仕事場作り、あるいは芸術祭による集客や傑作の収集、大都市化だか低層都市だかによる人口密度の調整、世界で名誉を得る為のノーベル賞だの国際賞取得の努力、万世一系だか万代一系だかの当人は平気で政治干渉するが民主党政権からの政治利用は禁忌という腐った世襲祭祀長の護持、はいはい、外様大名のもとにいた下士の身分制度への反発、復讐劇としてのアジア侵略自慢、異民族同士に内乱させて征服するジェンタイル・フロント戦略じみたスコットランド商人経由のイギリス製銃器で自衛戦争ぶった日本人同士の内乱罪や侵略罪の山を糊塗する薩長クーデター妄信、まことに結構。これらの事はすべて俗事であって、われわれの幸福とはほとんど関係がないように見える。なぜならどれも他人より自分の方が優れた状態になりたい、比較して自分の方が優越していると信じたい、という利己心の発露なのであり、この種の競争の本質が無我でばかげていると分かればこそ、現実の位相の上に或る理想の世界観を持てるのだ。万民平等とか、調和とか、四海兄弟とか、永久平和とか、こういった理想に比べれば、国家や地域連合の単位を含む自治体間の競争とか、個々人の間の優劣とかは、まったく意味をなしていない。結論をいうと、世界一幸福な県や市というのは、誰とも競争していない、そして誰の事をも見下したり見上げたりしていない人の考え方を指している。少なくともいわゆる空観にできるだけ多くの人ができるだけ長い間とどまっている様な状態を、主観的な意味では世界一幸福だというのである。無欲であればそれ以上を求めもしない。対して、物質的、欲望的な充足としての客観的幸福は、その競争と開発にきりがない。全ての観点からみて最も、物質的、欲望的に充実しきっている人が、おそらくもっとも俗物的にみえるであろうことも確かだから、この比較に基づく客観幸福というものは、実際には永遠に満たされえないのである。
スカンジナビア半島の北欧三国の人々に、あなたは完全に幸福で満たされているかと問えば、大抵の人ははいと答えると同時に、世界中のどこかを探せば、彼らより物質的、欲望的に満たされた人はきっといるであろう。知らぬが仏という通り、情報不足のためにこの人達は自分の身近な人達と比べて、物質的、欲望的な満足度が高いと考えている。
この例と同様に、現実にある諸々の物質的欲望は、彼らの認識している他者に比べて自分の生活が優越していると認識する、嫉妬を感じない状態であって、かつ、うぬぼれを満たしてくれる様な状態を目指しているのだ。これこそ、仮観の世界である。帝国主義はこの我欲を満たす為に物質的状態を全ての人よりまさった状態に置き続けようとする、一人の権勢欲から生み出された考え方であり、今日、蓄財を手段とする資本主義がこの後継者になっている。
天台宗の理論、一心三観では、空観、仮観をもちあげた中観が覚めている事だとされるが、究極の主観的幸福としての無欲と、客観的幸福と呼べる単なる物質的欲望の優位な充足とのふさわしい関係は、できるだけ多数の人が、できるだけ長い時間、無欲にとどまる為に丁度いい程度の物質的条件が最上なのである。ここで物質的欲求に、マズロー欲求階層でいう自己実現以下の全ての欲求(生理、安全、愛と所属、尊重、自己実現)を含むとすると、これらはそれぞれの段階について無限に追求できるのだが、より高次の欲は低次の欲を包含する関係にあり、或る人が低次の欲について持っている期待がなくなるか、その期待が十分満たされた時に飽きる。そして自己実現を超えた段階が無欲なのである。苦痛をなくし快楽を味わうべく欲望を満たす、という快苦の原理に基づいて言行している限り、それ以上求めるべきいかなる快楽もない状態は、不足がないという意味で現実に求められる限り最上の幸福だといえる。脳内で何らかの不足を感じるということは、ドーパミンによって意欲が惹起され、アドレナリンに導かれ多かれ少なかれ言行を起こさざるを得ず、目標達成によってオキシトシンが満足の合図となるまでのあいだ、多かれ少なかれ苦痛を味わうことに等しい。したがって、資本主義における情報化とは、比較対象を視聴覚を主としたメディアを通じて無数に展示させ、嫉妬や羨望の感情を起こさせることによって、仮観的誘惑を行い、消費活動を鼓舞するものに他ならない。平成の一般的不幸の原因は、この情報メディアの氾濫による嫉妬という苦痛の蔓延である。無限の競争は、新たな欲望が起きる限り無限の苦痛の原因発生をも意味し、より高い品物を消費したい、羨望されたいという承認欲を満たす為、商人や成金という生活様式に陥った人々の集まりが、東京圏や関西圏、名古屋圏といった商業都市の実態である。
我々が幸福でありたければ、自らをとりまく情報環境を、我々自身が無限の仮観的競争に巻き込まれない程度に矯正しなければならない。時に引きこもりとは社会病理ではなく、現代社会への賢明な適応の仕方の一つだといえる。人が集まるところほど比較対象がふえ、羨望させる為の罠も、広告や公然たる浪費によってふえてくるからだ。欲望を刺激する機会が少ないほど、その人の現状への満足度もます事だろう。大都市生活が不幸にさせる誘引で満ちている限り、今後、過密都市に移住した人類はもっと内向的になるかもしれない。もし仮観そのものを目的にしたとき、天皇家にみられるよう、終わりなき虚飾に追われ生涯、心休まる暇はない。この事は帝国主義者たる天皇家の業である。
大都市化や、情報化はその程度が物質的欲望を惹起しすぎない程に中くらいである時に、最も幸福と正に相関する。極端な大都市も、一切の情報の遮断も、合目的ではない。
観光集客は自文化を羨望させるのに役立つ、という京都市や京都府にみられる俗物根性は、観光客や文化庁、官公庁、皇族を、京都人自身の承認欲を満たす手段にするものであり、この種の京都教義的志向は多かれ少なかれ客に嫉妬させるという苦痛を与え不幸を増すので、遠からず逆の評価が反動として与えられるであろう。これは手前味噌のうぬぼれで世界の人々を呼び込もうとしている安倍自民党の政策についても、各地方自治体についても同様だから、日本自体が世界から、羨望や嫉妬の苦痛を与え不幸にした仕返しを受けることだろう。茨城県は逆に、水戸学に抽出された儒学的教養の伝承によって謙遜の美徳が維持されていた為に、これら飽きがきた観光客らによって与えられる反動の悲惨から多かれ少なかれ免れるだろう。我々が観光業態について持つべき哲学は、顧客に自分達のもっている観光資本を自慢するのではなく、さも顧客自身が我々の気づいていない貴重さをみいだすかのように仕向ける事である。要するに、我々は茨城県内、北茨城市内を観光客向けにわざわざ美化したり、不自然に装飾したり、案内板を設置したり、いかにも観光地であるかの如く、外からの目線を意識して整形したりするべきではないのだろう。この種のわざとらしさが微塵もないかのよう、単に我々が幸福に暮らす為の生活様式を存続していればいいのであって、その種の作られていないありのままの暮らしこそが、本来の意味での文化多様性であり、観光客にとって最も興味深いものであろう。我々がどこかへ旅に出て、大衆観光客向けの整った道路とか、ルート整備とかがされていたら、その人の印象には全くこの種の事は残らなくなるし、寧ろつまらないと感じるのであるが、目的地までの道路が整っていないとか、何も知らない地元の人達に紛れて行ったとか、外部の人の目が意識されていないため外の何かを模倣しようという意図がないとか、昔からの生活における信仰の跡がちゃんと残っているだとか、要するに外部とは違う状態が自然な形で残されている、という事が、良い意味で最も印象に残る。逆説的な命題であり、大衆観光と正反対の見方だが、真の観光魅力度を向上する為には何もしないのが最善なのだ。県内のホテルや旅館におけるアメニティの充実とは別にしてである。この事はブランド総研の田中章雄やその他の卑俗な日本人一般にはまったく理解できないかもしれないし、某調査への即効性がある解決策でもないが、観光学的真である。したがってこの基本原則、即ち観光誘客のため特に何もしない、むしろ生活者にとっての満足度をはかるという事を徹底すれば、世界で最も優れた観光資本をもっていると口コミによってひとりでに認められる日がやってくるであろう。実際、我々は栃木や福島を観光し、京都や東京を観光したより不快だったり、不満だったりしたことがあるだろうか? 事実は、魅力度調査とまったく逆の様である。ということはこの調査は観光魅力度ですらなく、数百人足らずの主に大都市住民の観光素人であったり俗物趣味であったり、単に身びいきな会員によるきわめてかたよった偏見であり、統計的真からほど遠い事しか示されないであろう。根本的に、多数派が好む観光地は低俗という意味で最も下らないところだろうし、この母数やアンケート先が定常的で偏った疑似統計が示している羨望の的も、やはり通俗的な結果になっているのである。
また産業についていえば、高付加価値化を進めるべきとはいえ、近隣諸県や世界全体と比べて遜色がないか、多少あれ優っていればそれで十分といえるだろう。もし所得や一人当たりGDPについてある地域が世界一を達成しても、ある地域内偏差としては一定程度の所得を超えるとそれが幸福感と正に相関しないという仮説がリチャード・イースタリンによって示されている。つまり幸福と所得の相関には飽和点がある、という仮説である。他方、ミシガン大学のジャスティン・ウォルファースとベッツィ・スティーブンソンの仮説では、お金があればあるほどますます幸せになって飽和点はないことになり、その伸び幅は収入の対数と幸福のグラフを描けば無限になると考えられている。金森茂樹は、2017年3月雑誌『プレジデント』の記事中で、収入を一定の水準を超えて指数的に伸ばせる人は現実に殆どいないので、両仮説の実質的帰結は同じと述べている。また大竹文雄は論文『失業がもたらす痛み』(『勤労者福祉』No.71、2003年1月)の中で失業経験や失業不安を含め、失業が単に所得低下という以上に幸福度を引き下げると示している。
これらを鑑みると、幸福追求に最も合理的な行動原理として、第一に、地域の所得水準をなるだけ高めようとする努力そのものは正しいが、或る個人の能力を超えて収入を高めようとすると、それに伴う苦痛は要する指数的努力に見合わなくなるかもしれない。つまり幸福感が高まると感じるまでに必要な収入が倍々に、自乗で増えていく。100万円に対する1万円を増やす努力と、100億円に対する1億円を増やす努力は、経験効果を省みても、後者の方が多大であり、その苦労の倍々の増大に対して、有り余る大金から得られるだろう幸福感は割に合わなくなる傾向がある、という事なのだろう。この逓減の程度は、感覚量は刺激強度の対数に正比例するというフェヒナーの法則と関係しているかもしれない。
第二に、失業経験や失業不安は、将来にわたる所得低下を予想させる事が多い為に、幸福感を削ぐのかもしれない。そうであるなら、これまでこの論文で示された通り、失業による幸福度低下の効果も、所得や収入向上による指数的な幸福度増大の効果も、また顕示的消費から得られる幸福感逓減の効果も、所得と幸福の経験的法則としてまとめられる事になるだろう。すなわち、茨城県や北茨城市が施政の中でとるべきなのは、基礎所得を将来にわたって保障するか、それが不可能なら失業率低下の為にありうべき対策を打つことであり、また地域内の所得水準をできるだけ上げるとともに、できるだけ不幸を感じるだろう最低所得の人の水準底上げの方に力を使い、見栄の為の浪費に関しては京都や東京といった自己優越感の錯覚が強い中華思想的な傾向をもつ人々の方にまかせておくことだろう。なぜならこの浪費によって得られるだろう承認欲は、有り余るカネの使い道としては決して県内市内住民の幸福感の増大に対して割に合うものではない事が、必要となる財源を得る指数的努力の苦難に対して明らかだからだ。それに比べて、県内市内で最貧の人々の客観幸福度を増大させるには、極めて少額の保障でもそれら比較貧者にとって幸福感が得られる効果は極めて大なので、功利的な投資対象としての費用対効果が高いことになる。この様な理由で、高福祉高税率の北欧諸国の客観幸福度が世界最高水準を維持してきたのだ。我々茨城の人が学ぶべきなのはこの北欧的福祉主義の幸福合理性であり、見栄を張る為に自慢をくりかえす東京や京都、或いは福祉を軽視し、調整的正義を殆ど完全にばかにしきっている一部のリバタリアン社会ではない事になるだろう。もしこの種の自由人主義(アイン・ランドの客観主義的なものや、選民的なユダヤ思想、self-made manや独立心を尊重する開拓者的気質を内に含む)に一理あるなら、それは経済社会における政府からの無益有害な規制のなさに対してであって、政治社会とみた最貧者を含む社会全体の幸福増大には役立たないどころか、かなりのところ有害でさえある様だ。したがって、茨城や北茨城において産業の高付加価値化を進める事は是非必要で、例えば金融庁の国内FX業者への高レバレッジ規制は少ない資金で高利益が見込める事からこの点で投資家育成に極めて害悪であり、今後、茨城県域や北茨城市域について法や条例を改善できるなら、県内・市内で開業した仮想通貨商品を含む為替業者にゼロカット導入を義務づけながら、ロストカットがスリッページによって遅れた際の損失補填を業者に負わせる様にするべきとなる。そして現在の高付加価値産業の代表は金融業であり、次点がIT業なので、幼少期から金融literacyの高さで世界一を目指したり、ネットでの自宅学習を中心にプログラミング教育をはかり、またこれら金融とITを専らとした高付加価値産業の規制緩和に対して世界一の優遇措置をとりつつ、農工業に関してもありうるかぎり高付加価値化、つまりより投下資本収益率(ROIC, Return On Invested Capital)、特にそのうち有利子負債を除いた株主資本利益率(ROE, Return On Equity)の高い事業形態を民間人が選択し、集中的転換を進めるべきとなる。未上場であったり、株式会社化されていない事業形態や個人事業についても、ROEをさらに高くする事業形態を集中的にとりつづけていれば、この事業は投資する為に割安になり、株価収益率(PER, Price Earnings Ratio)を下げる結果となって投資資金が次第に集まり、最初にあげたROICの増大につながる好循環が生まれる筈だ。これらの始原はROEの向上、つまり元手に対して得られる利益が高い、効率の高い商いをめざす事だが、その根源にあるのはrisk reward比率(平均利益/平均損失。損益率)の高い生業、つまり平均した損失の割に利益の見込める事業の選好である。一般に、高付加価値化と言われる行動の根底にあるのが、損益率についての選択眼だといえるわけで、たとえば農業の6次産業化が損益率を下げる可能性がある時、これは望ましい選択ではないだろう。鹿児島県知事の三反園訓氏は2017年1月に紀ノ国屋社長と5月に千疋屋総本店常務と県庁で会談し、同年5月20日から県産マンゴーを紀ノ国で、同年6月26日から千疋屋総本店で県産パッションフルーツを販売してもらっているという。
これは芸術祭への投機とか、市民祭りの開催という現時点の北茨城市長豊田稔氏が行っている事業体について当てはまる事で、この効果は京都市が進める類の文化振興という名の部分への奉仕と同然で、大盤振る舞いの結果として、税金を貰った個人とそうでない個人の間に不平を招いて民業を圧迫し、人々へ多かれ少なかれ行政の長による浪費の影響力をみせつけることで幸福感を低減させてしまう。また豊田氏は子育て支援住宅という名で、教職員住宅の跡地を県から借り上げ、土地を民間に貸し、管理建設させた集合住宅を市が借り上げるという複合的で実験的といえるだろう政策をとったわけだが、この施策は豊田氏自身は人口減少を憂うという善意でやった事なのかもしれないが、子供がいる世帯をひいきして市税を投入し、子供のいない世帯を結果的に冷遇する事になるし、憲法15条2や地方公務員法29条、30条に記されている全体奉仕者たる公務員の旨に反するというべきだし、そのうえ税金で補填した分、割安な価格で一部の市民に限定し市場に住宅を供給しているので、不当な競争条件を与えている意味で民業を圧迫する結果にもなり、二重の意味で矛盾している。市営住宅を公設公営で作るより、管理が民間委託された分だけ市税の費用負担と集合住宅管理の質が高くなる可能性がある、程度の進歩に留まるだろう。より本質からこの事を分析すると、端的に言って人口が減るのは必ずしも悪い結果ではなく、幸福度という面からみれば人口523万人のノルウェイ、549万人のフィンランド、人口990万人のスウェーデン、或いは573万人のデンマークといった国々の例からいっても、人口の多さと幸福度に相関関係はない。つまり豊田氏が人口減で市税が減るとか、消滅自治体となって最低限度の人口すら持続できないかもしれないという不安を憂いているとしたら、この事はごく勘違いした考え方で、心配するべきなのは今現在生きている市民と今後生まれ来る市民にとって生あるうちの市内での体験が幸福かどうかなのである。失業の結果としての低所得が幸福感を減らす事実があるとすれば、それは最貧者をおもとして比較貧者へ累進的に基礎所得を与える事で最大化するのだから、その為の市の財源を確保したり、それ以前に市内の最低限度の所得水準を上げる為に国からとってくる財源によっている生活保護補足率を100%に近づくまで高めるとか(腐敗行政による人権侵害に他ならない水際作戦の正反対を行く必要があり、希望者全員に保護を与えるという事だ)、それらの分を市内でまかなうには上述のよう市内産業の高付加価値化、具体的にはROEの向上、いいかえれば商才のある市内民間人の出現率を高めるような規制緩和とか環境整備、更に具体的には失敗しても再起できるだけの基礎所得保障と、成功が見込まれる損益率の事業へくりかえし挑戦できるだけの投資資金源の貸与、あるいは現時点の市の財政を例にとれば主な財源である工場用地の取得と販売を、外部不経済の内部化にあたる環境排出による費用負担の企業への転嫁という環境保護条例の制定と共に進めるべきである(2割の人が8割の成果を上げるというパレート法則によると、市内経済人のうち2割の上位能力が市内経済力の上限をひきあげるので、資本を集中させる必要がある)。
仮に人口が減っていっても、市民全員の所得が徐々に向上していく傾向しかなければ、この市での暮らしは幸福な経験になる可能性が高い。仏教の見解によると子供のいない解脱した無欲の生、最低でも少欲知足の境地に留まる事が最も安らかな人生であり、旧約聖書を含むキリスト教や、イスラム教の見解では、産めよ殖やせよとか、アッラーが育てて下さるというよう子供が多い事を奨励している。この種の両極端な人生観の立場をまとめていえば、或る世帯の子供の有無に応じた人生観が選択され得るのであり、子供が多くとも少なくとも或いはいなくとも、これらは生きる経験において必然に生じる多様性の一端に過ぎず、どれも必要不可欠ではない事になるだろう。たとえばピケティが2015年1月29日の来日シンポジウムで日本全体について述べた事(『週刊朝日』2015年2月13日号)のうち、継続的人口減が恐ろしいとか、長期的人口増大が相続財産の偏りを緩和し格差縮小につながる、といった意見は眉唾ものであり、彼が主張する事のうち、2015年1月31日記者クラブ会見で述べた(『読売新聞』2015年02月03日)低所得者への低課税、若者に有利な税制という2つの点については、上述の様、今後の所得低下の予想が幸福感を減らすという幸福学に一致する分だけ善の可能性がある。仔細にいえば、高齢者が人口減を憂う理由があるとすれば、ミラー・ニューロンを通じた共感性の次元で、将来にわたる所得低下が若年層の不幸を予想させる、という親近な同族連帯への心配にあるのだろう。又この種の共感知能が摩耗した不徳な人であればあるほど、原発を推進し子供を地獄に叩き落したり(自民党閥や一部の東京都民など)、神道原理主義に基づく皇族閥とか薩長藩閥の明治維新と名づけた侵略・内乱戦争を誇って嘗ての内乱罪や植民地収奪での犠牲を美化したり(薩長土肥京芸、いわゆる西日本各地の人達、或いは皇族と西軍)、武器輸出で金儲けしたり(兄が三菱財閥の安倍家や、坂本龍馬、米国軍産を賛美する人々)、自然環境破壊を何とも思わなかったり(例えば東京五輪関連の産業廃棄物を茨城県内に不法投棄している都内業者)するわけだ。まとめていえば、豊田氏は市民の将来を心配するあまり、善意によって子育て世帯に偏って税を再分配するという違憲行政を行っているともいえるが、これは子供がいない最貧市民にとって税を不公平に子育て世代へ優遇調整する悪政に他ならないし、子供がいる事で不幸を被る事例を含め、老婆心というべき単なる杞憂を超えてみれば、住宅に需給の選択肢が多い民間事業で十分なしうることであるからには、単に無益有害な市政といえそうだ。既に作ってしまった子育て支援住宅を民間に売却するべきである。そして芸術祭に関していえるのは、例えば武家が狩野派に城内装飾を施させた事例とか、ナポレオンが美術品を収奪し宮殿を飾ったとか、現に皇室が日本芸術院に皇居内を装飾させているとか、佐賀県が県内出身画家の絵を県立美術館を飾る為1億3000万前後で複数買い上げているだとか、こういった己の権威を強調するため官が発注する美術というものがしばしば存在してきたとはいえ、自分がみるところ決してかわいいとはいいがたい悪趣味なゆるキャラを選んだり、そもそもディズニー並の子供向け遊園地ではあるまいし、ゆるキャラというサブカルじみてはいるが意味不明かつ横並びで笑止千万な流行を模倣している豊田氏の元での市役所の審美眼が特別優れているとは思わないし、他にも豊田市政になってから磯原駅の改札正面に飾ってあった市内名勝の立派なホログラム・アートは低俗な広告もどきで詩とみてもつまらない文句が重ねられた低品位な画像(ここにも醜いゆるキャラが並べられていてキッチュさに驚く)に入れ替えられてしまい、また仮設展示が主な祭りは蓄積する物が残らないだけ単なる一過性の浪費に終わるので、正直いって福祉に回すべき財源を減らす無用な事だといえるのではないだろうか。裏返せば、ごく優れた審美眼をもつ市長なり知事が歴史的価値をもつ作品を購入し、その保有や展示によって市の権威を上げるとか、芸術祭という形をとっていてもいなくても、仮設展示を除外し、恒久展示の公的作品のみを増やしていくという形で市内装飾につとめるのなら、これは前の作品が次々残るという意味で文化資本の蓄積になるため一定の環境美化効果があるかもしれない。尤も、審美眼が非常に優れた人がやった時にしか陸なものが残らないだろうし、審美眼がない人がやれば却って長い間、どうしようもない作品を公に飾る結果になって恥を売る結果にすらなる筈だが。但し、この種の方法で過去の世界遺産だらけになっている京都市の事例でいうと、庭や建築を含む何らかの恒久展示物を役所が管理すると費用が必要になるので、その管理費がユネスコから貰える世界遺産登録をめざすわけだが、パブリックアートの管理費が嵩んだ結果、撤去を余儀なくされたり管理費が市税を圧迫する可能性もあり、またそもそも贅沢品、奢侈の支出である芸術品の購入や芸術活動の助成は幸福論の観点からいえば将来の所得漸増を予想させるという市民全体に対する福祉政策より公益への効果が薄く、最悪の場合は見栄を張る事で逆に成金趣味が軽蔑されたり、不公平感が蔓延する事で市民の幸福度を下げる可能性もある。基本的に公的支援を受けない市内の作家に対する民業圧迫につながるので、市や県の芸術支援による町おこしなるものは、市長や知事の善意の正反対の結果を伴うのであって、はっきり一言でいうと害悪でしかないと思われる。そもそも市民の中にいる作家も払った税金が、市外からきてすぐに去る旅芸人のような人々の遊興費に使われて消えていくというのは、どう見ても市内作家への嫌がらせでしかないし、それならルネサンス期のイタリアやフランスの都市国家とか、戦国時代に秀吉が利休を召し抱えたような例でみられたよう、行政の長が直接この市内在住作家らへ公務員に類する形で給与を払った方がまだましである(例えばダ・ヴィンチはフランス国王フランソワ1世に招かれてその地で亡くなっているが、館や年金をもらっていた)。勿論これも民業圧迫に該当するだろうし、選ばれる作家についても市長の好みが反映されるにすぎないだろうから、全体の奉仕にふさわしい結果が得られるとは余り考えられず、私個人はこの方法論が望ましいとは思っていないが。又これらは芸術史という観点から高尚な立場で言っているが、逆にこの種の例が単なる通俗的な意味で成功していると民衆によってみなされるのは、京都市とか奈良市、鎌倉市といった古都がそうであるよう羽振りの良かった或る権力者の嘗ての栄華を誇る、という後から偶然観光地になった場合とか、伝統工芸という形で現代の需要がしぼんだ死んだ技術を絶滅しない程度に保全する様な文化保護という名目の慈善活動、すなわち退行的な場合に違いないのだが、自分がみるところ、これらはすべて本来の芸術があるべき姿から遠い、ただの欺瞞である。最も典型的にその事がわかるのは、フランスのアルルという町であり、ここの人々は当時の前衛画家だったゴッホを狂人扱いして精神病院に幽閉し、絵を一つも買ってあげず、困窮した画家の生活を助けてあげたりもせず、ついに困り果てたゴッホが自殺してしまってから徐々に評価が上がった彼を、今度は町の宣伝材料に使っている訳である。この事例からいって、アルルの住民は現時点でも、ゴッホ同然の暮らしをしている不遇な芸術家を信じがたい冷遇の境涯に置き去りにしている事は疑いようがないのではないだろうか。却って芸術の天才が最も活かされている市があるなら、その市は今現在生きている市民に芸術の需要があり、現に盛んに供給されている様な市であって、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェは、商売で成功したメディチ家という大金持ちが当時のキリスト教で推奨されていた慈善の手段としてできるだけ立派な聖像を求めた事から、我々が知っているダ・ヴィンチとかミケランジェロとかを呼び寄せ、一生を芸術の研究に捧げても食い扶持に困る事がない食客の身分を多数設けたり、教会の礼拝堂を庶民に理解できる宗教画で飾る目的で、そもそも仕事を盛んに発注したわけだ。対して現代美術は第二次大戦で戦場にならなかったアメリカに西洋の作家が移民し、商売で儲けた人々が広大な自宅を飾ったり、美術館への寄付が税額控除の対象となる税制をつかってより高く査定されるだろう作品を進んで買う流れができて、先物買いの投機を駆動力とした前衛美術の画廊ができるようになった事に由来し、これに経済的に衰退したが見栄を張りたいイギリスの人や、パリに近代画家が集まっていた栄光をとりもどそうとするフランスの人などが追随者となって、多かれ少なかれ欧米の民間画廊による美術品オークションを中心とする形でできている。日本はこの流れから大変取り残されていて、美術史の教育などもなおざりにされているので、この投機市場に現役でとりくんでいる様な人はほとんどいない。大衆商業芸術であった漫画アニメを、越境文化的な差別化の戦略で投機市場に持ち込んだ事が、アメリカのポップアートや、大衆的な工業製品を模造し独創性というオーラを失った流用作品との関連付けで評価された村上隆や奈良美智が、一応日本側で欧米における現代美術界の嚆矢になっているのはこういった訳だが、対して豊田氏がこれら欧米の動向との明白な位置づけを伴って芸術祭を行っているのではないのが目に見えているのであって、誰が観衆であり顧客かにもよるが、何を目的とした芸術振興なのかもいまいち分からないほどである。豊田氏の単なる自己満足でないというなら、天心を指導者として大観ら五浦派の美術家らが過ごしていた歴史がある市が、一体、世界の誰に向けていかなる芸術の需要喚起をしたいのか、またなにを供給しているのかについて、適切な美術振興の戦略を、税負担している市民へ予算案と共に提示するべきではないだろうか。
尤も、このブログでは遥か以前から指摘してきた事ではあるが、全員協議会という市議会前に密室で非公開のまま行われている市議全員を伴う会議が、豊田氏という行政の長を座長にして行われている事から、この市の行政と議会は癒着しているとみなせるのであって、独裁とは三権分立論に立脚する或る定義によれば行政と議会が相互監視と批判検証を伴う牽制の能力を失い一致してしまっている状態を指す言葉なのであり、それは現時点の国会で自民党の安倍党首がまったく同じ状態になっているが、豊田氏も例外ではない。今の日本政府は国会議員から首相を選ぶという行政権の独立が図られていない劣った制度なので、早急に大統領制または首相公選制の導入が必要だが、市政については市長が直接選挙で選ばれている以上、市民自身がこの豊田氏の野放図を自ら選択しているともいえる。豊田氏自身が全員協議会をやめようとしない市政運営の誠実さに欠けている事をあわせみても、市政の腐敗の一つの原因がこの全員協議会という二権癒着あるいは二権混同の害悪にあるのが明らかであり、公開された市議会の場で、市議会議員が市長の行政権行使に関して、きちんと批判的検証を行う必要が絶対にある。その検証が正しい物か、単なる誹謗の類なのかを判断するのは市民の側の役割なのであり、この種の公開された外部検証が行われなければ、市長の行政行為がいかに不条理で、恣意的かつ反市民的なものであっても、そのこと自体を市長自身が反省的に懐疑する機会すら失われかねない。たとえば新市民病院の位置が市の中央部により近く初期計画の場だった現在の新消防署がある高台より、どうみても市長の自宅がある北側に近く移されたり、これに伴って市南でより人口比が高くなっている中郷地区をはじめとする多数派の人々の公益と利便性は大幅に低下したわけだが、この事は診療所の設置でなんとか補填される形式をとったにせよ、市長は高萩市側に病院があるといった市の責任とはいいがたい答弁に終始し、結局はきちんとした理由づけがみあたらないようであり、市長の身びいきだったのではないだろうか。この種の事例は、単に病院建設の場合を引いたが、ここで取り上げた目的がはっきり全市民に公示されているとはいえない芸術祭とかその為のアトリエに使う小学校改造を市北にあたる関南地区を中心にして行うとか、市民や公開済みの会議の場で公正な審査を経たとはいいがたい経緯で参加作家が選ばれている不透明な市税供与とか、あるいは国道沿いには津波の被害も想定される極めて老朽化した市営住宅がまだ残されているのに、子育て世帯向けの住宅をのみ優先する部分奉仕の施策とか、どちらかといえば不公平で全体の利益とはいえない市の行政の例については、市長自身の善意とは別として現に、ただの市長の身びいきに多少あれ該当し、恐らくその様な行政を行っている理由は、彼の暴走を止める職員は当然いないし、市議会が全員協議会で市長から統率されてしまい、市政を監視したり批判的に意見を述べる人が議員の中で殆どゼロになっているせいが大きいのではないだろうか。つまり全員協議会をやめろという話だ。集団浅慮や全会一致の幻想が致命的な集団心理、集団思考の過ちをもってくる。科学一般が反証可能な命題についてしか真理らしさを保ちえないことからも、多数政で反論者がただ1人もいない案件が間違った結論な可能性は100%だといっていいだろう。もし、この案件が本当に善であると論証できるなら、少なくとも1つ以上の観点からそうでない証拠があげられるはずだからだし、もしこの種の反対証明となる証拠が見つからないとするなら、その案はそもそも正しさがまったく検証されていないのと同じなのである。善か悪かの判定についても真偽判断と同様の規則が使えるとすれば、多数の者が参加する議会の有効性は、単に条例という法の整備についてだけでなく市政に関する一切の事についてのこの反証可能性にあるのであって、神ならぬこの世で人の行う絶対善が存在しない事は明らかだから、少なくとも幾つかの選択肢の中から最もましな相対善を選び取ることしかできず、それが相対善と証明される為には、必ず他の選択肢と比べた何らかの悪い面をもっているという反証による比較検証が必要となる。嘗て王が道化を隣席させ猥雑な諧謔の中で王の過ちを周りには冗談に聞こえる形で指摘させたり、今日の企業で外部監査という専門の批判者が用意されているのは、この反証の為なのだ。日本で共産党が政権をとる可能性は極めて低くなっているが、何でも反対するという一つの重要な資質において、この政党は非常に重要な位置を占めているといえる。少数意見の尊重という一般に言われる多数政の長所は、この反証可能性を最小の支持者しかいない人からまっとうさせるという点に求まる。実際、賢愚や善悪は相対的だから、偏差値の様にその意見の正解度を分布させうるとすれば、或る案件の問題解決案の提示で最も良い成績の人物は、ある集団の中でたった1人しかいないはずだ。殆どの人、ほとんどの市民は、この最優秀者の成績を100点とし、最劣等の成績を0点とした時、それらの中間点のどこかに該当する意見しか持ちえないはずだ。アリストテレスが公徳の面で最優秀者の単独政(いわゆる王政)を最善といいい、多数政を消極的な意味で誤り辛いとしか述べなかったのは、何らかの形で君臨する王か、多数派が選出した長によって行政が行われるどちらの場合でも、王自身が極めて賢明であって他の全市民より自己批判に優れている様な場合があるとしても、特にこの行政権の行使に関する反証可能性を満たす様な場合に過ぎないといえるだろう。市長を少数者である貴族的集団から選ぶときについても同様である。
具体的に市議の場についていえば、市長の政策立案についてそれが相対的に正しい可能性があると証明する為には最低でも1人以上の反対者が必要になり、この検証の見地が市長自身が気づかない盲点をついたものであればあるほど優れて望ましい指摘にあたる。よってある議題について全員一致で賛成の案件については破棄するか、要検証として保留する様な条例を、単なる市議の慣行としてのみならず既存で作っておくべきだ。逆にこの条例のもとで或る案件に市長以外の全議員が反対の場合、市長の意図を集団浅慮で全議員が読み違えている事しか証左されない為、議会と行政の分離の旨から、この案を推進する事に問題はない可能性がある。なぜなら市長が最善者だった場合、必ずそれより劣る公徳しか持たない全議員が全員反対に回る事になるだろうからだ。市長が独裁化し明らかに最悪の政治を行っている時にも全議員が反対に回る事が考えられるので、全員賛成、全員反対のいずれの場合でも、全会一致はその案の盲点が反証されていない事になる。よって、たとえそれが最善案にも関わらず全員反対だった場合でも、少なくとも本当に最悪案かどうかわからない為、保留するか、さもなければ再考が必要と考えるべきである。市民は市政から給与をもらっておらず、専用の議員を選出してもいるので、全立案について無償で市民に監視する役割を担わせるのは困難である。つまり議員か、それに類した外部監査役の中からこの市政監視の役割を担う人が必要である。
結局のところ、産業に関して、北茨城市長や茨城県知事は、全体調整的で、公害がない限り民業放任の原則に立つ経済政策をはかると同時に、保障に関しては、最貧者を最優先とし、比較貧者の側へ傾斜的・累進的な基礎所得保障を進め、BIと負の所得税を茨城、北茨城行政が導入し、県・市域の幸福度を最大化する事が必須となるだろう。
水戸市の高さ制限に話を移すと、これは市街地の人口密度を低下させる要因となっており、集積の利益に有害だが、他方で大都市化をある程度防ぎ、結果として失業者を生み出す潜在要因も、求職者を南関へ吐き出す事によって未然防止する結果になっているかもしれない。したがって、この正反両面をもちあげて、集積の利益を発揮させながら失業に伴う所得低下という潜在要因を防止する必要があるが、前提として電車で都内へすぐ通じる距離に留まる鼓舞がなければならない。それは事業を行うにあたって水戸市の方が少なくとも都内より、できれば世界で最も有利な何らかの誘因でなければならず、この産業誘因が現存する場合において、市街地の超高層化が合理的なら条例の撤廃か、ランドマークの改変どちらかが有益になるだろう。また産業誘因が現存していても、市街地の超高層化が不利になる場合、例えば同じ業務あたりより広い敷地が必要なので市の地価が高騰する場合は、高さ制限を維持するべきになる。いずれにしても、比較優位となる産業集積の条件が市街地に必要であり、基礎所得の保障による人口減少率の低下もこの事に役立つかもしれない。無限の大都市化そのものへの志向は、上述の仮観論で述べた通り、際限ない情報氾濫がもたらす嫉妬を呼ぶ競争対象に起因した不幸感という面で決して、合目的ではない。幸福からみれば、都市住民全員の所得増加が無限の未来に向かって見込まれる様な状態が合目的である。
イギリスが高福祉化の果てに、被生活保護者の人口増加によって生産性の低下を伴い、サッチャー時代に中福祉的な新自由主義政策へ転換した。日本政府は小泉・竹中のペア以後、広がる格差を縮減すべく民主党時代に高福祉化を部分的に図ろうとしたが、東日本大震災後の混乱や菅直人政権の暴走、自民党による妨害が反動をもたらし、結局いまみられる低福祉化を進める新自由主義路線を続けている。この路線は安倍長期政権下で偶然起きた団塊の世代の大量離職と少子化の二重の幸運によって失業率の低下をもたらしはしたが、就職先ほしさの若年層が、倫理自粛のないインターネット文化として匿名の悪意が集積した2chまとめサイト等の極右メディアから差別主義に洗脳されていた事とあいまって、長州閥原理主義に基づく明治右翼を自称し退行的ともいえる民間介入を伴う国家社会主義や、アメリカ経済のやり方に追従する富裕層優遇の金融緩和政策(つまり金融商品の利益にかかる減税と、日銀や年金機構による日本株買いでの株価釣り上げで、国内外の投資家、特に外国人投資家へ日本企業の売却をはかるバブル誘発政策)をとるアベノミクスの成功と勘違いする状態になっている。端的にいって安倍独裁政権は小泉・竹中路線以後の自民党政権がGDPの低下、国力低下をもたらした国家的失墜と帰一であり、報道統制や北朝鮮の砲撃に恐れおののく近隣国への差別意識から洗脳されていた衆愚がこの独裁者の失脚以後に日本経済の敗北をしったところで、時は既に遅いとなっているであろうし、現になっている。イギリスの経済政策についてもいえる事として、金融緩和という名目で投機や投資を煽る路線は必然に格差拡大をもたらし、少なくとも低所得側に不公平感や嫉妬の苦痛を与える為に幸福度を低減させるという事であり、金融緩和策をとる前には十分な社会保障、特に将来も所得低下が起きないという意味での基礎保障の充実が必要だったという史実である。アメリカはオバマ時代にフード・スタンプという形で、少なくとも配給による低所得者向け基礎保障を行ったが、日本の側は皇族閥に属する安倍、麻生両氏が総理・副総理になったという世襲財閥の寡頭政治が進んでいる事、また被災者がこれら薩長藩閥の末裔と対抗した福島を主とする東北側の人々であったことからも、小泉・竹中が進めた非正規雇用法の延長下で低所得者を冷遇する事の方が優先された。安倍独裁下で日本の相対貧困率や子供の貧困率が上がったと同時に、安倍の生まれ育った都内の富裕層の数が増えたのはこの為であり、総じて、安倍党首のもとで自民党の一党独裁あるいは自公寡頭政治は、新自由主義の牙城であるアメリカより一層、国民全般を不幸にする様な施策をとった。その上、軍艦島や松下村塾を含む、侵略主義の証拠を、政治学的に疑義が呈される中で世界遺産登録するといった、安倍の地元である山口県への不当かつ周旋的な利益誘導もこの中に含まれているし、既に決まっていた栃木福島地域への国会等移転を無視して大都市であると同時に安倍の地元への道のりの途中にある京都市を他の過疎自治体より優遇して省庁移転を決定させる等、森友や加計学園だけでない数多の権力濫用を含みつつである。この醜い現実から目を背け、差別主義や独裁者への狂信を補完する確証バイアスを得ようとした愚民は、都内マスコミが視聴率めあてに模倣する、極右的な自画自賛の愛国番組を、まこと恥ずべき事だが熱心にみて、現実逃避していた。日本国民の過半数が愚民であるという事は、過去の歴史や他国の有様と比べて何ら遜色ない(これは全体主義軍事独裁政権が天皇帝国の元で行っていた数々の蛮行を省みれば余りに傲慢な意見であろう)が、先進国と呼ばれる国々の中にあって、その政治民度の低さは最下位級であるという事がまぎれもない真実である。我々が政治的に愚昧な制度をもっている、という事実について我々は冷静に認め、抜本的改善につとめるしかない。神道という自民族中心主義の教祖が象徴と名乗り、議員全員を全会一致の幻想で無理やり洗脳しつつ退位法を違憲立法させ得るほど三権の中核について実質独裁し、しばしば宮中祭祀といって徹夜で怪しげな儀式を行っている恐ろしく時代錯誤で旧態依然な現状からいって、政教分離すらはかれていない悪質で後進的な体制であり、中華思想的な態度に終始する官僚主義とか、平気で企業献金を受け取って恥じない一党独裁の体制等、他の全ての面についてむべなるかなと現実の国政が証明している。
県内で最大都市といえる水戸市が、或いはそれ以外のいずれかの県内都市が産業面で高い占有率をもち、競争優位に立つには、上述の事情からいって、起業リスクを世界一とりやすい基礎所得保障が最も有効だといえる。ある会社、またはある事業、ある投資が成功するのは確率にも依存し、失敗する危険を侵す必要があるが、それら挑戦を行うには、失敗しても再起できる最低限度の損益率の管理が必要である。ところが日本政府の経済政策は、低い資本金でも挑戦できる高レバレッジの為替取引や仮想通貨取引を規制してみたり、低所得に留まる非正規雇用法の維持とか、学歴フィルターをかけた新卒一括採用の慣行と中途採用の少なさといったひたすら国民の再挑戦を阻むあらゆる陋習にみられる通り、むしろ危険とか例外的才能を最小化する方へ傾倒する。これは日本政府だけでなく、セロトニン・トランスポーター数が少ないため不安を感じやすい脳の遺伝子をもっている、日本に在来してきた人々の生得的な性格傾向にも原因がある。悪い意味でお役所仕事といわれるよう公務員がその最たる存在だが、日本人の頭が固く、融通の利かない場面がとても多くみられるのは、機械のよう型にはまった事をくりかえすのが最も不安を感じ辛いからなのだろう。事業の成功にはその裏に凄まじい数の失敗という試行錯誤がどうしても出てくるものであり、素早く問題解決学習をはかる事ができこの種の失敗を他人に比べてし辛い人がいたとしても、なおそうである。要はこの様な安全志向の脳をもっている在来の遺伝を考慮し、それでも膨大な失敗にめげず挑戦に次ぐ挑戦を行うよう鼓舞する条件づけが、県内の人々のうち一部の人が大成功する為の最低限度の方法論である。行政が為すべきなのは、起業や投資、事業を興して失敗しても、その他、研究や探検、探求のいかなる事例の失敗を含む試行錯誤についても、最低でも挑戦する姿勢を何もしない臆病より奨励する前提に立って、致命的にならない範囲での失敗を損益率の計算から許容しつつも、県民の全数が何らかの事業で失敗した後に少なくとも再起できるだけの基礎所得保障を徹底する事だ。ごく簡単にいうと、何もしないよりやってみる方がましであるとし、リスクを許容する考えでいなければならない。大抵は失敗するかもしれないが、工夫を重ねて目的を達するよう続けていれば、少なくとも県内の誰かが何かについて、圧倒的に傑出した成果を上げる結果になる筈だ。またもともと不安を感じやすい脳であるからには、この種の危険を取る事を極度に嫌がる人もいるのだから、進んでリスクをとる挑戦者という気質を全体主義的に押しつけるようなことは避け、飽くまで当人の意思と好みに基づいて自由の範囲で、この種の行動原理や環境づくりを促進し且つ推奨しなければならないのだ。大井川氏も、あるいは豊田氏も、水戸市の高橋靖市長を含む県内の全郡市町村長も、特に大井川氏が見逃している事は、或る危険度の高い事に挑戦するには、少なくともリスク・リワード比の点で自分が死ぬことはないとか、失敗してもやり直せるという確信が持てない限り、人は命がけの無謀さをなかなか持てないものなのである。無謀は危険の過小視、臆病は危険の過大視に由来し、両者の中庸である勇気は危険度を適切に見分けるところにある徳である。再起可能な最低限度の基礎所得さえ確約され、危殆に及んでは実際に手に入れられていれば、県民市民は死なない範囲で好きに行動するはずであり、殆ど成功する見込みがない様な事とか、間違えれば損害を被るような事についても、自分からやってみる人がいるのである。つまり、起業を奨励するとか、産業上の成功を求める為には、実際には事業をする側へ手を加えるとか助成するのではなくて、その地と図を反転し、失敗した場合の安全度、つまり基礎所得保障が完全であればあるほど挑戦しまくり易く、結果として成功者を続出し易くもなるのである。上述の人々のうち、和歌山県や鹿児島県の事例は具体的な農業の革新そのものを主体となっている県庁に依存したり頼る癖を呼び込んでしまい、京都市や佐賀県、あるいは北茨城市や茨城県の事例は文化という名で芸術の挑戦そのものを行政が身びいきな大甘の判断によって保護する結果になり、却って前衛性を損なうであろう。これらは市場の合理性とか、現代美術が欧米オークションでの投機市場を中心に回る様になっている現状(つまり現代美術の審美眼について素人級の一行政人が現代美術の流れを変える様な業績を、他にも用途がある税金を顕示的に消費する範囲で主導できるとは思えない事)にかんがみ、官製の民業圧迫が基本的に全て害悪であるという見地に基づいて、寧ろ県政市政はすべて、これらの不安がりの人々の主観からみて損益率が必ずしも芳しくない様に見える挑戦をも進んで行えるような基礎所得保障の側に一切の舵を切るべきであると知らせているといえるだろう。勿論、損失に対して利益の割合が高い、つまり損益率が高い生業を選ばねばならないのだが、保守主義の傾向をもつ人がそうであるよう、過度に臆病な人々はこのうち損失を課題に見込む傾向があるのだ。俗な言い方をすれば、「下らない事あれこれやるならとりあえずそのカネくれよ(そうすれば好きにやるわ、なにしろ税金が定収入としてもらえている公務員には終ぞわからないのだろうけど、庶民は明日食うものにすら困っているんだから)」、という事であって、寧ろその方が県民市民を幸福にするし、芸術を含む文化や産業の振興にも結果的になるという論証がこの論文の趣旨であった。
結局、目指す県の理念や夢が何かによって、観光集客、産業振興、都市計画、がそれにあわせて生起するともいえるのであり、この点について茨城県知事は日本一幸福な県、という路程標しか建てていない。しかし日本一幸福ということは非常に低い目標だ。日本の客観幸福度は国連調査で示されてるよう万年下位だからだ。めざすべきは世界一幸福な県たり続ける事であべきだ。高い(不足していると考えられる観光的)魅力度というのは、観光業者の繁盛に加えて県民一般の尊厳欲求を満たす手段としてこの世界一の幸福の部分を為すものであり、目的に達するまでに経過すべき一里塚にすぎない。尊敬されたいとか羨望されたい、という俗物根性的な名誉欲が尊厳欲求の一部に含まれている限り、下衆や無知な人から魅力度差別を受け続けるのは不合理であろう。勿論、この俗物的承認欲を超越し、いくら不条理に下衆共から侮辱されようがわが道を行く事がより尊い態度だろう。京都市や東京都における自文化中心主義的な中華思想の例を見れば明らかなよう、承認欲に限度がないのも明らかなので、寧ろこの種の国内魅力度競争を避けて、全く自分の為にも他人の為にもふさわしい生き方をする方が悟っており、もっと大人びているといえそうだ。
最初に挙げた通り、観光推進を今の自民党がはかっている訳は、安倍晋三という人が円安誘導に理由をつけてアメリカ政府と日本操縦者から内政支持を受けつつ権力行使をし、徳川に負けた恨みから形成された長州閥原理主義を狂信したい、というもので、はっきりいえば根底にあるのはただの山口県出身に執着する門閥の利己心であって、幼稚な話である。また観光業界でしばしば世界一の評価を受けている京都市の市長・門川大作という人の根底にあるのは、昭和の市長が作った世界文化自由都市宣言の延長として、平和や文化交流という名目で自文化中心主義をまっとうし、世界中から賞賛されたいという名誉欲と俗物根性である。皇族を含み、東京都民の目的は権力欲の満足であり、家康の頃は平和を実現する天下統一のため関西圏の覇権を切り崩す目的があったかもしれないが、慶喜以後は徳川家の影響力圏を出て、天皇が予てそうだったよう帝国主義的中華思想の権化に成り下がった権勢欲の俗物趣味そのものである。薩長土肥らの権勢欲は敗者側になった幕藩体制への恨みに由来し、現段階では西国一般同様、東京のカネと日本政府を含む権力への嫉妬と羨望がその由来におきかわっている。北海道と沖縄については珍しい自然環境をもっているので天然で観光振興している。人口減少に悩んでいた東北は震災復興に大変で、事態を傍観している。これらが現時点の日本人らがもっている欲望一般なのである。どうだろう。我々の模範に足るところがどこかに一つなりともあったろうか? この種の俗物達から差別され、侮辱されたところで、我々とは何一つ関係ないのが分かるのではないだろうか。我々茨城県民や北茨城市民の精神性、道徳心の方が、根底から言って、彼ら県外の、皇族を含む、おもに西南地方の人々より高いのではないだろうか。何しろ我々にとって中国韓国北朝鮮を差別しながら欧米模倣したり白人から名誉を与えられるためとかく権勢欲を満たしたい、という大分県出身の福沢諭吉的野望は特に身近でないし、天皇家のよう自分が皇帝だの現人神だの自分の先祖が中国人の神だのといった自己優越の妄想をいだいて全国民を差別蔑視暴虐暴利して回る様な野蛮人は先ずみたことがない。冷徹にいって、南西日本の我執によった傲慢な権勢欲から学ぶに足る点はない。
仮説としてもし理由をみいだすなら、我々がこの種の上位の精神性を得るに至ったのは、嘗てこの地を支配し、先日ご当主が亡くなられた徳川慶喜家からの伝承ではないだろうか? この慶喜という人は、水戸学を弘道館で習った後、自ら大政奉還し、開国のうえ軍事を近代化し、天皇のもとでの合議政体をつくりつつ大変な苦労をされて、烈公からの庭訓を守って朝廷に弓を引かず、恭順しながら貴族院議員として薨去した。にもかかわらず下衆から名誉毀損され続け150年、母と正室が皇族であった事とあわせて悲劇の将軍というべき人物だが、彼を信じて亡くなった天狗諸生両党の思いを汲んでも、これほど権勢欲と無縁だった人物は歴代将軍の中にいないのであって、初代頼房が天下が欲しいと天守閣から家康の前で言ったとされる夢が15代目で叶ってからも、我々この県で生まれ育った者の中に或る達観をもたらしているのではないだろうか。それは権勢欲のむなしさ、権力の無常に対し一定距離を置いた、定府的で、副将軍的で、メタ認知的で、批判的で、自己超越的な物の見方であり、上述の承認欲に根差す俗物達について我々が余り、或いはほとんど共感できないとすれば、慶喜公という先人の偉大さに精神の高貴さについて少しも及ばないからかもしれない。ゆめ朝廷に弓を引くなかれ、という彼の家の哲学としての当為に対し、徹頭徹尾自己犠牲的にふるまい、世間の誹謗にも耐え、遂に当主も亡くなられたという現実の前で、やれ自分が維新の胎動だの、日本人をスコットランド人との武器取引を経て殺しまくってやっただの、当時の政府警察をテロで殺戮しただの、自分の先祖は神だから崇拝するだの、世界の文化中心が自分の町だだの、世界の都市格でわがみやこが一番だの、まことに卑小な連中というべきではないだろうか。この尊皇論というものの原型が、義公による名目的君主政体の定義、といういまでいう象徴天皇制の理論的根拠にあるとしても、イギリスかぶれの皇室や宮内庁は、GHQに命じられて類似の制度をもっていたイギリス王室を模倣しているのだと思っているのではないだろうか。なぜ将軍を首相という名義に代えて、絶対君主による帝国主義という逆行を経てまで、世襲の天皇が日本を一度亡ぼしたかというと、この天皇家の知恵が、慶喜を含む水戸の徳川家に劣っていたからだといえるだろう。岩倉、伊藤、毛利に島津ら西国諸藩主に、五摂家その他の華族連はいうまでもない。気宇高邁な主君の統治を経てきたわれわれからみれば、薩長藩閥の外様大名の領地から東京に出てきて暴れまわる人々の権勢欲それ自体に意味がないどころか、天皇を自称して恥じない家の様な、子供じみた我執そのものが愚かしく見えるのも、当然だ。
最初の問題に戻ると、世界一幸福な県とは諸々の欲望のうち、最も高貴なものを満たしている状態であろうし、それは恐らく自己超越にあるのだろう。自慢合戦や大衆観光集客を主としたメディア洗脳ゲーム、工場誘致による仕事場作り、あるいは芸術祭による集客や傑作の収集、大都市化だか低層都市だかによる人口密度の調整、世界で名誉を得る為のノーベル賞だの国際賞取得の努力、万世一系だか万代一系だかの当人は平気で政治干渉するが民主党政権からの政治利用は禁忌という腐った世襲祭祀長の護持、はいはい、外様大名のもとにいた下士の身分制度への反発、復讐劇としてのアジア侵略自慢、異民族同士に内乱させて征服するジェンタイル・フロント戦略じみたスコットランド商人経由のイギリス製銃器で自衛戦争ぶった日本人同士の内乱罪や侵略罪の山を糊塗する薩長クーデター妄信、まことに結構。これらの事はすべて俗事であって、われわれの幸福とはほとんど関係がないように見える。なぜならどれも他人より自分の方が優れた状態になりたい、比較して自分の方が優越していると信じたい、という利己心の発露なのであり、この種の競争の本質が無我でばかげていると分かればこそ、現実の位相の上に或る理想の世界観を持てるのだ。万民平等とか、調和とか、四海兄弟とか、永久平和とか、こういった理想に比べれば、国家や地域連合の単位を含む自治体間の競争とか、個々人の間の優劣とかは、まったく意味をなしていない。結論をいうと、世界一幸福な県や市というのは、誰とも競争していない、そして誰の事をも見下したり見上げたりしていない人の考え方を指している。少なくともいわゆる空観にできるだけ多くの人ができるだけ長い間とどまっている様な状態を、主観的な意味では世界一幸福だというのである。無欲であればそれ以上を求めもしない。対して、物質的、欲望的な充足としての客観的幸福は、その競争と開発にきりがない。全ての観点からみて最も、物質的、欲望的に充実しきっている人が、おそらくもっとも俗物的にみえるであろうことも確かだから、この比較に基づく客観幸福というものは、実際には永遠に満たされえないのである。
スカンジナビア半島の北欧三国の人々に、あなたは完全に幸福で満たされているかと問えば、大抵の人ははいと答えると同時に、世界中のどこかを探せば、彼らより物質的、欲望的に満たされた人はきっといるであろう。知らぬが仏という通り、情報不足のためにこの人達は自分の身近な人達と比べて、物質的、欲望的な満足度が高いと考えている。
この例と同様に、現実にある諸々の物質的欲望は、彼らの認識している他者に比べて自分の生活が優越していると認識する、嫉妬を感じない状態であって、かつ、うぬぼれを満たしてくれる様な状態を目指しているのだ。これこそ、仮観の世界である。帝国主義はこの我欲を満たす為に物質的状態を全ての人よりまさった状態に置き続けようとする、一人の権勢欲から生み出された考え方であり、今日、蓄財を手段とする資本主義がこの後継者になっている。
天台宗の理論、一心三観では、空観、仮観をもちあげた中観が覚めている事だとされるが、究極の主観的幸福としての無欲と、客観的幸福と呼べる単なる物質的欲望の優位な充足とのふさわしい関係は、できるだけ多数の人が、できるだけ長い時間、無欲にとどまる為に丁度いい程度の物質的条件が最上なのである。ここで物質的欲求に、マズロー欲求階層でいう自己実現以下の全ての欲求(生理、安全、愛と所属、尊重、自己実現)を含むとすると、これらはそれぞれの段階について無限に追求できるのだが、より高次の欲は低次の欲を包含する関係にあり、或る人が低次の欲について持っている期待がなくなるか、その期待が十分満たされた時に飽きる。そして自己実現を超えた段階が無欲なのである。苦痛をなくし快楽を味わうべく欲望を満たす、という快苦の原理に基づいて言行している限り、それ以上求めるべきいかなる快楽もない状態は、不足がないという意味で現実に求められる限り最上の幸福だといえる。脳内で何らかの不足を感じるということは、ドーパミンによって意欲が惹起され、アドレナリンに導かれ多かれ少なかれ言行を起こさざるを得ず、目標達成によってオキシトシンが満足の合図となるまでのあいだ、多かれ少なかれ苦痛を味わうことに等しい。したがって、資本主義における情報化とは、比較対象を視聴覚を主としたメディアを通じて無数に展示させ、嫉妬や羨望の感情を起こさせることによって、仮観的誘惑を行い、消費活動を鼓舞するものに他ならない。平成の一般的不幸の原因は、この情報メディアの氾濫による嫉妬という苦痛の蔓延である。無限の競争は、新たな欲望が起きる限り無限の苦痛の原因発生をも意味し、より高い品物を消費したい、羨望されたいという承認欲を満たす為、商人や成金という生活様式に陥った人々の集まりが、東京圏や関西圏、名古屋圏といった商業都市の実態である。
我々が幸福でありたければ、自らをとりまく情報環境を、我々自身が無限の仮観的競争に巻き込まれない程度に矯正しなければならない。時に引きこもりとは社会病理ではなく、現代社会への賢明な適応の仕方の一つだといえる。人が集まるところほど比較対象がふえ、羨望させる為の罠も、広告や公然たる浪費によってふえてくるからだ。欲望を刺激する機会が少ないほど、その人の現状への満足度もます事だろう。大都市生活が不幸にさせる誘引で満ちている限り、今後、過密都市に移住した人類はもっと内向的になるかもしれない。もし仮観そのものを目的にしたとき、天皇家にみられるよう、終わりなき虚飾に追われ生涯、心休まる暇はない。この事は帝国主義者たる天皇家の業である。
大都市化や、情報化はその程度が物質的欲望を惹起しすぎない程に中くらいである時に、最も幸福と正に相関する。極端な大都市も、一切の情報の遮断も、合目的ではない。
観光集客は自文化を羨望させるのに役立つ、という京都市や京都府にみられる俗物根性は、観光客や文化庁、官公庁、皇族を、京都人自身の承認欲を満たす手段にするものであり、この種の京都教義的志向は多かれ少なかれ客に嫉妬させるという苦痛を与え不幸を増すので、遠からず逆の評価が反動として与えられるであろう。これは手前味噌のうぬぼれで世界の人々を呼び込もうとしている安倍自民党の政策についても、各地方自治体についても同様だから、日本自体が世界から、羨望や嫉妬の苦痛を与え不幸にした仕返しを受けることだろう。茨城県は逆に、水戸学に抽出された儒学的教養の伝承によって謙遜の美徳が維持されていた為に、これら飽きがきた観光客らによって与えられる反動の悲惨から多かれ少なかれ免れるだろう。我々が観光業態について持つべき哲学は、顧客に自分達のもっている観光資本を自慢するのではなく、さも顧客自身が我々の気づいていない貴重さをみいだすかのように仕向ける事である。要するに、我々は茨城県内、北茨城市内を観光客向けにわざわざ美化したり、不自然に装飾したり、案内板を設置したり、いかにも観光地であるかの如く、外からの目線を意識して整形したりするべきではないのだろう。この種のわざとらしさが微塵もないかのよう、単に我々が幸福に暮らす為の生活様式を存続していればいいのであって、その種の作られていないありのままの暮らしこそが、本来の意味での文化多様性であり、観光客にとって最も興味深いものであろう。我々がどこかへ旅に出て、大衆観光客向けの整った道路とか、ルート整備とかがされていたら、その人の印象には全くこの種の事は残らなくなるし、寧ろつまらないと感じるのであるが、目的地までの道路が整っていないとか、何も知らない地元の人達に紛れて行ったとか、外部の人の目が意識されていないため外の何かを模倣しようという意図がないとか、昔からの生活における信仰の跡がちゃんと残っているだとか、要するに外部とは違う状態が自然な形で残されている、という事が、良い意味で最も印象に残る。逆説的な命題であり、大衆観光と正反対の見方だが、真の観光魅力度を向上する為には何もしないのが最善なのだ。県内のホテルや旅館におけるアメニティの充実とは別にしてである。この事はブランド総研の田中章雄やその他の卑俗な日本人一般にはまったく理解できないかもしれないし、某調査への即効性がある解決策でもないが、観光学的真である。したがってこの基本原則、即ち観光誘客のため特に何もしない、むしろ生活者にとっての満足度をはかるという事を徹底すれば、世界で最も優れた観光資本をもっていると口コミによってひとりでに認められる日がやってくるであろう。実際、我々は栃木や福島を観光し、京都や東京を観光したより不快だったり、不満だったりしたことがあるだろうか? 事実は、魅力度調査とまったく逆の様である。ということはこの調査は観光魅力度ですらなく、数百人足らずの主に大都市住民の観光素人であったり俗物趣味であったり、単に身びいきな会員によるきわめてかたよった偏見であり、統計的真からほど遠い事しか示されないであろう。根本的に、多数派が好む観光地は低俗という意味で最も下らないところだろうし、この母数やアンケート先が定常的で偏った疑似統計が示している羨望の的も、やはり通俗的な結果になっているのである。
また産業についていえば、高付加価値化を進めるべきとはいえ、近隣諸県や世界全体と比べて遜色がないか、多少あれ優っていればそれで十分といえるだろう。もし所得や一人当たりGDPについてある地域が世界一を達成しても、ある地域内偏差としては一定程度の所得を超えるとそれが幸福感と正に相関しないという仮説がリチャード・イースタリンによって示されている。つまり幸福と所得の相関には飽和点がある、という仮説である。他方、ミシガン大学のジャスティン・ウォルファースとベッツィ・スティーブンソンの仮説では、お金があればあるほどますます幸せになって飽和点はないことになり、その伸び幅は収入の対数と幸福のグラフを描けば無限になると考えられている。金森茂樹は、2017年3月雑誌『プレジデント』の記事中で、収入を一定の水準を超えて指数的に伸ばせる人は現実に殆どいないので、両仮説の実質的帰結は同じと述べている。また大竹文雄は論文『失業がもたらす痛み』(『勤労者福祉』No.71、2003年1月)の中で失業経験や失業不安を含め、失業が単に所得低下という以上に幸福度を引き下げると示している。
これらを鑑みると、幸福追求に最も合理的な行動原理として、第一に、地域の所得水準をなるだけ高めようとする努力そのものは正しいが、或る個人の能力を超えて収入を高めようとすると、それに伴う苦痛は要する指数的努力に見合わなくなるかもしれない。つまり幸福感が高まると感じるまでに必要な収入が倍々に、自乗で増えていく。100万円に対する1万円を増やす努力と、100億円に対する1億円を増やす努力は、経験効果を省みても、後者の方が多大であり、その苦労の倍々の増大に対して、有り余る大金から得られるだろう幸福感は割に合わなくなる傾向がある、という事なのだろう。この逓減の程度は、感覚量は刺激強度の対数に正比例するというフェヒナーの法則と関係しているかもしれない。
フェヒナーの法則いいかえれば、成金趣味や皇族閥の贅沢、顕示的消費が生まれるのは、この羨望されたいという承認欲に要する感覚量を得る為に、指数的な収入増大が必要となるからな可能性がある。文化資本という名目で地域自体が成金趣味や俗物根性を奨励する傾向がある京都や、江戸幕府や明治政府を経て覇権的な自己優越の錯覚を顕示的消費によって強化する傾向がある東京は、この様な理由で、競争相手や比較対象の多さの為に幸福感を感じ辛い環境であり、法政大・坂本光司の調査による客観幸福度も低くなっていると考えられる(2011年4月~9月の調査では京都が42位、東京が38位)。また神奈川、大阪、兵庫、千葉、埼玉、福岡や、宮城、北海道といった大都市圏をもっている地域も、失業率の高さのため同調査で軒並み幸福度が低いとされているといえる(これらの大都市地域群は上記の調査で、33位に位置する千葉以下であり、茨城は30位とされている)。求職者は就業先の絶対数が多いと考える大都市部へ進んで集まる傾向があるからなのだろう。
E=K log R=KR
E: 感覚量
K: 定数
R: 刺激強度
第二に、失業経験や失業不安は、将来にわたる所得低下を予想させる事が多い為に、幸福感を削ぐのかもしれない。そうであるなら、これまでこの論文で示された通り、失業による幸福度低下の効果も、所得や収入向上による指数的な幸福度増大の効果も、また顕示的消費から得られる幸福感逓減の効果も、所得と幸福の経験的法則としてまとめられる事になるだろう。すなわち、茨城県や北茨城市が施政の中でとるべきなのは、基礎所得を将来にわたって保障するか、それが不可能なら失業率低下の為にありうべき対策を打つことであり、また地域内の所得水準をできるだけ上げるとともに、できるだけ不幸を感じるだろう最低所得の人の水準底上げの方に力を使い、見栄の為の浪費に関しては京都や東京といった自己優越感の錯覚が強い中華思想的な傾向をもつ人々の方にまかせておくことだろう。なぜならこの浪費によって得られるだろう承認欲は、有り余るカネの使い道としては決して県内市内住民の幸福感の増大に対して割に合うものではない事が、必要となる財源を得る指数的努力の苦難に対して明らかだからだ。それに比べて、県内市内で最貧の人々の客観幸福度を増大させるには、極めて少額の保障でもそれら比較貧者にとって幸福感が得られる効果は極めて大なので、功利的な投資対象としての費用対効果が高いことになる。この様な理由で、高福祉高税率の北欧諸国の客観幸福度が世界最高水準を維持してきたのだ。我々茨城の人が学ぶべきなのはこの北欧的福祉主義の幸福合理性であり、見栄を張る為に自慢をくりかえす東京や京都、或いは福祉を軽視し、調整的正義を殆ど完全にばかにしきっている一部のリバタリアン社会ではない事になるだろう。もしこの種の自由人主義(アイン・ランドの客観主義的なものや、選民的なユダヤ思想、self-made manや独立心を尊重する開拓者的気質を内に含む)に一理あるなら、それは経済社会における政府からの無益有害な規制のなさに対してであって、政治社会とみた最貧者を含む社会全体の幸福増大には役立たないどころか、かなりのところ有害でさえある様だ。したがって、茨城や北茨城において産業の高付加価値化を進める事は是非必要で、例えば金融庁の国内FX業者への高レバレッジ規制は少ない資金で高利益が見込める事からこの点で投資家育成に極めて害悪であり、今後、茨城県域や北茨城市域について法や条例を改善できるなら、県内・市内で開業した仮想通貨商品を含む為替業者にゼロカット導入を義務づけながら、ロストカットがスリッページによって遅れた際の損失補填を業者に負わせる様にするべきとなる。そして現在の高付加価値産業の代表は金融業であり、次点がIT業なので、幼少期から金融literacyの高さで世界一を目指したり、ネットでの自宅学習を中心にプログラミング教育をはかり、またこれら金融とITを専らとした高付加価値産業の規制緩和に対して世界一の優遇措置をとりつつ、農工業に関してもありうるかぎり高付加価値化、つまりより投下資本収益率(ROIC, Return On Invested Capital)、特にそのうち有利子負債を除いた株主資本利益率(ROE, Return On Equity)の高い事業形態を民間人が選択し、集中的転換を進めるべきとなる。未上場であったり、株式会社化されていない事業形態や個人事業についても、ROEをさらに高くする事業形態を集中的にとりつづけていれば、この事業は投資する為に割安になり、株価収益率(PER, Price Earnings Ratio)を下げる結果となって投資資金が次第に集まり、最初にあげたROICの増大につながる好循環が生まれる筈だ。これらの始原はROEの向上、つまり元手に対して得られる利益が高い、効率の高い商いをめざす事だが、その根源にあるのはrisk reward比率(平均利益/平均損失。損益率)の高い生業、つまり平均した損失の割に利益の見込める事業の選好である。一般に、高付加価値化と言われる行動の根底にあるのが、損益率についての選択眼だといえるわけで、たとえば農業の6次産業化が損益率を下げる可能性がある時、これは望ましい選択ではないだろう。鹿児島県知事の三反園訓氏は2017年1月に紀ノ国屋社長と5月に千疋屋総本店常務と県庁で会談し、同年5月20日から県産マンゴーを紀ノ国で、同年6月26日から千疋屋総本店で県産パッションフルーツを販売してもらっているという。
(記者)この施策は一見すると鹿児島農業にとってプラスの様にも見え、六次産業的なものに見えなくもないが、農業の最終責任主体が県庁ではない事、特定業者と官民の癒着を招く事を考慮すると、この種の行政行為はあまり望ましいとは思われない。また愛媛農協が生果出荷時に厳格な糖度コントロールを敷き高く売り、そうでない蜜柑をポンジュースに回して、農家の損失分を農業全体で補償していたことに学んだ和歌山県庁が、同様の糖度管理を通った蜜柑にラベルを張り、糖度不足の物にラベル不許可とし、損失分を農協に加え県庁が補填した結果、単価アップしたうえ蜜柑産出額で日本一となったという。他方、和歌山産蜜柑の販売単価は(2017年段階で)7位に留まるのだが、その理由として和歌山産は早生に出荷集中し、市場が品薄になる晩生のころ静岡産が出て高い値で売れていくとわかり、和歌山県の研究所で和歌山産にも高い値をつけられるよう晩生の新種を開発普及を行っているという(和歌山県、知事からのメッセージ、平成29年3月のメッセージ)。計画経済は不可能というハイエクの洞察が正しければ、民間事業者が行うべき生業について県の研究所が深く関与するこれらの事例は、本当に合理的なのか疑問に思われもする。新自由、自由人主義側の見解では、市場の需給とずれが生じ供給・生産過剰で価格低下を含む市場の失敗を招く、つまり民業圧迫という事なのだろうが、もしそうなら、鹿児島と和歌山の県知事、県庁が行政の立場から県産品をより高く値づけさせる事は、結局失敗を招くとみていいのだろう。私がみるところ、価格が高いと需要が減るという需給曲線の関係からも、また消費者がブランド価値に高い値段を払うのは結局その裏付けがある時なのであって、実が優れていないのに高い値を付けて売ろうとするのは矛盾しているわけで、すなわち優れた商品を作るか、それにふさわしい販売まで行う技量と資本が必要なわけだが、これらの事をうまくやる才能があるのは結局、民間の経営者とか労働者のがわなのだといえるだろう。なぜならこの種の才能、商才があるなら最初から起業したり民間事業体で自ら働く方が収入上昇も能力発揮も上限がないからだし、民業圧迫の末に事業を倒産させても減給や失業という責任を負わなくて済む行政という立場にある以上、どうしても本腰を入れて取り組むはずがないだからだ。その上、行政は全体の奉仕を行う調整的役割だから、特定事業に肩入れした結果、別の事業をなおざりにしては本位にもとるとなるし、そもそも民間企業のうち成功する者が現れるのは市場競争の淘汰によるのであり、無数の会社や起業家のうち、どれが潰れどれがうまくやった結果になるのか、未来は変わるので基本的には誰にも事前にわからないのである。高付加価値化をめざす産業振興という面の最終結論を茨城県や北茨城市についてだせば、行政の立場からの民業圧迫を最大限に避け、経済に関する事は公害を及ぼす民間企業についての全体調整役に徹すればよい。具体的には企業連合による過度の独占や寡占を一定程度制限したり、原発や産廃の不法投棄、善良の風俗に害のある生業といった外部不経済を内部化する、つまり公害について企業や有害な事業者自身に責任を負わせて公共の費用負担を減らすよう努めればいいのだ。究極の場合、起業資金を希望者に提供するがなんの返済も義務づけないエンジェル投資家のような事、をもし行政がやろうとしても、さきに挙げた通りそもそもROICやROEを上げるべく行う高付加価値産業の振興にならない事は明らかである(投資あたりの収益が目的でない以上、投資家側に立つ行政と起業家側の民間事業者どちらの意図にも関わらず、収益力のない事業に対しカネをどぶに捨てるのと一緒になるから)。
それは,いずれも知事がトップセールスで実現したということなのでしょうか。
(三反園知事)
私自身が決め手になったかどうかというのは,逆に先方に聞いていただいた方がいいかと思います。いずれにしろ社長にお会いして頭を何回も下げたことは事実でありますし,常務さんにお会いして「なんとかお願いします,千疋屋(せんびきや)に置いていただくことがブランド化になります」と。「ブランド化になることによって,生産者の所得を上げたいのです。やっぱり後継者を育てなければいけません。そのためには,本当にいい物を提供いたします」と。そして「途中で生産が追いつかないということにはいたしません」等,いろんなお話を率直にさせていただきました。ただ,今後とも置いていただけなければいけませんので,ある意味でフォローアップといいますか,そういった努力もしていきたいと。もっともっと増やす努力をするということでありまして,そういった努力もしていきたい,その結果によってたくさんの物を置いていただくような,そうなればいいという気持ちの中で努力していきたいと思っております。
鹿児島県、平成29年7月26日定例知事記者会見
これは芸術祭への投機とか、市民祭りの開催という現時点の北茨城市長豊田稔氏が行っている事業体について当てはまる事で、この効果は京都市が進める類の文化振興という名の部分への奉仕と同然で、大盤振る舞いの結果として、税金を貰った個人とそうでない個人の間に不平を招いて民業を圧迫し、人々へ多かれ少なかれ行政の長による浪費の影響力をみせつけることで幸福感を低減させてしまう。また豊田氏は子育て支援住宅という名で、教職員住宅の跡地を県から借り上げ、土地を民間に貸し、管理建設させた集合住宅を市が借り上げるという複合的で実験的といえるだろう政策をとったわけだが、この施策は豊田氏自身は人口減少を憂うという善意でやった事なのかもしれないが、子供がいる世帯をひいきして市税を投入し、子供のいない世帯を結果的に冷遇する事になるし、憲法15条2や地方公務員法29条、30条に記されている全体奉仕者たる公務員の旨に反するというべきだし、そのうえ税金で補填した分、割安な価格で一部の市民に限定し市場に住宅を供給しているので、不当な競争条件を与えている意味で民業を圧迫する結果にもなり、二重の意味で矛盾している。市営住宅を公設公営で作るより、管理が民間委託された分だけ市税の費用負担と集合住宅管理の質が高くなる可能性がある、程度の進歩に留まるだろう。より本質からこの事を分析すると、端的に言って人口が減るのは必ずしも悪い結果ではなく、幸福度という面からみれば人口523万人のノルウェイ、549万人のフィンランド、人口990万人のスウェーデン、或いは573万人のデンマークといった国々の例からいっても、人口の多さと幸福度に相関関係はない。つまり豊田氏が人口減で市税が減るとか、消滅自治体となって最低限度の人口すら持続できないかもしれないという不安を憂いているとしたら、この事はごく勘違いした考え方で、心配するべきなのは今現在生きている市民と今後生まれ来る市民にとって生あるうちの市内での体験が幸福かどうかなのである。失業の結果としての低所得が幸福感を減らす事実があるとすれば、それは最貧者をおもとして比較貧者へ累進的に基礎所得を与える事で最大化するのだから、その為の市の財源を確保したり、それ以前に市内の最低限度の所得水準を上げる為に国からとってくる財源によっている生活保護補足率を100%に近づくまで高めるとか(腐敗行政による人権侵害に他ならない水際作戦の正反対を行く必要があり、希望者全員に保護を与えるという事だ)、それらの分を市内でまかなうには上述のよう市内産業の高付加価値化、具体的にはROEの向上、いいかえれば商才のある市内民間人の出現率を高めるような規制緩和とか環境整備、更に具体的には失敗しても再起できるだけの基礎所得保障と、成功が見込まれる損益率の事業へくりかえし挑戦できるだけの投資資金源の貸与、あるいは現時点の市の財政を例にとれば主な財源である工場用地の取得と販売を、外部不経済の内部化にあたる環境排出による費用負担の企業への転嫁という環境保護条例の制定と共に進めるべきである(2割の人が8割の成果を上げるというパレート法則によると、市内経済人のうち2割の上位能力が市内経済力の上限をひきあげるので、資本を集中させる必要がある)。
仮に人口が減っていっても、市民全員の所得が徐々に向上していく傾向しかなければ、この市での暮らしは幸福な経験になる可能性が高い。仏教の見解によると子供のいない解脱した無欲の生、最低でも少欲知足の境地に留まる事が最も安らかな人生であり、旧約聖書を含むキリスト教や、イスラム教の見解では、産めよ殖やせよとか、アッラーが育てて下さるというよう子供が多い事を奨励している。この種の両極端な人生観の立場をまとめていえば、或る世帯の子供の有無に応じた人生観が選択され得るのであり、子供が多くとも少なくとも或いはいなくとも、これらは生きる経験において必然に生じる多様性の一端に過ぎず、どれも必要不可欠ではない事になるだろう。たとえばピケティが2015年1月29日の来日シンポジウムで日本全体について述べた事(『週刊朝日』2015年2月13日号)のうち、継続的人口減が恐ろしいとか、長期的人口増大が相続財産の偏りを緩和し格差縮小につながる、といった意見は眉唾ものであり、彼が主張する事のうち、2015年1月31日記者クラブ会見で述べた(『読売新聞』2015年02月03日)低所得者への低課税、若者に有利な税制という2つの点については、上述の様、今後の所得低下の予想が幸福感を減らすという幸福学に一致する分だけ善の可能性がある。仔細にいえば、高齢者が人口減を憂う理由があるとすれば、ミラー・ニューロンを通じた共感性の次元で、将来にわたる所得低下が若年層の不幸を予想させる、という親近な同族連帯への心配にあるのだろう。又この種の共感知能が摩耗した不徳な人であればあるほど、原発を推進し子供を地獄に叩き落したり(自民党閥や一部の東京都民など)、神道原理主義に基づく皇族閥とか薩長藩閥の明治維新と名づけた侵略・内乱戦争を誇って嘗ての内乱罪や植民地収奪での犠牲を美化したり(薩長土肥京芸、いわゆる西日本各地の人達、或いは皇族と西軍)、武器輸出で金儲けしたり(兄が三菱財閥の安倍家や、坂本龍馬、米国軍産を賛美する人々)、自然環境破壊を何とも思わなかったり(例えば東京五輪関連の産業廃棄物を茨城県内に不法投棄している都内業者)するわけだ。まとめていえば、豊田氏は市民の将来を心配するあまり、善意によって子育て世帯に偏って税を再分配するという違憲行政を行っているともいえるが、これは子供がいない最貧市民にとって税を不公平に子育て世代へ優遇調整する悪政に他ならないし、子供がいる事で不幸を被る事例を含め、老婆心というべき単なる杞憂を超えてみれば、住宅に需給の選択肢が多い民間事業で十分なしうることであるからには、単に無益有害な市政といえそうだ。既に作ってしまった子育て支援住宅を民間に売却するべきである。そして芸術祭に関していえるのは、例えば武家が狩野派に城内装飾を施させた事例とか、ナポレオンが美術品を収奪し宮殿を飾ったとか、現に皇室が日本芸術院に皇居内を装飾させているとか、佐賀県が県内出身画家の絵を県立美術館を飾る為1億3000万前後で複数買い上げているだとか、こういった己の権威を強調するため官が発注する美術というものがしばしば存在してきたとはいえ、自分がみるところ決してかわいいとはいいがたい悪趣味なゆるキャラを選んだり、そもそもディズニー並の子供向け遊園地ではあるまいし、ゆるキャラというサブカルじみてはいるが意味不明かつ横並びで笑止千万な流行を模倣している豊田氏の元での市役所の審美眼が特別優れているとは思わないし、他にも豊田市政になってから磯原駅の改札正面に飾ってあった市内名勝の立派なホログラム・アートは低俗な広告もどきで詩とみてもつまらない文句が重ねられた低品位な画像(ここにも醜いゆるキャラが並べられていてキッチュさに驚く)に入れ替えられてしまい、また仮設展示が主な祭りは蓄積する物が残らないだけ単なる一過性の浪費に終わるので、正直いって福祉に回すべき財源を減らす無用な事だといえるのではないだろうか。裏返せば、ごく優れた審美眼をもつ市長なり知事が歴史的価値をもつ作品を購入し、その保有や展示によって市の権威を上げるとか、芸術祭という形をとっていてもいなくても、仮設展示を除外し、恒久展示の公的作品のみを増やしていくという形で市内装飾につとめるのなら、これは前の作品が次々残るという意味で文化資本の蓄積になるため一定の環境美化効果があるかもしれない。尤も、審美眼が非常に優れた人がやった時にしか陸なものが残らないだろうし、審美眼がない人がやれば却って長い間、どうしようもない作品を公に飾る結果になって恥を売る結果にすらなる筈だが。但し、この種の方法で過去の世界遺産だらけになっている京都市の事例でいうと、庭や建築を含む何らかの恒久展示物を役所が管理すると費用が必要になるので、その管理費がユネスコから貰える世界遺産登録をめざすわけだが、パブリックアートの管理費が嵩んだ結果、撤去を余儀なくされたり管理費が市税を圧迫する可能性もあり、またそもそも贅沢品、奢侈の支出である芸術品の購入や芸術活動の助成は幸福論の観点からいえば将来の所得漸増を予想させるという市民全体に対する福祉政策より公益への効果が薄く、最悪の場合は見栄を張る事で逆に成金趣味が軽蔑されたり、不公平感が蔓延する事で市民の幸福度を下げる可能性もある。基本的に公的支援を受けない市内の作家に対する民業圧迫につながるので、市や県の芸術支援による町おこしなるものは、市長や知事の善意の正反対の結果を伴うのであって、はっきり一言でいうと害悪でしかないと思われる。そもそも市民の中にいる作家も払った税金が、市外からきてすぐに去る旅芸人のような人々の遊興費に使われて消えていくというのは、どう見ても市内作家への嫌がらせでしかないし、それならルネサンス期のイタリアやフランスの都市国家とか、戦国時代に秀吉が利休を召し抱えたような例でみられたよう、行政の長が直接この市内在住作家らへ公務員に類する形で給与を払った方がまだましである(例えばダ・ヴィンチはフランス国王フランソワ1世に招かれてその地で亡くなっているが、館や年金をもらっていた)。勿論これも民業圧迫に該当するだろうし、選ばれる作家についても市長の好みが反映されるにすぎないだろうから、全体の奉仕にふさわしい結果が得られるとは余り考えられず、私個人はこの方法論が望ましいとは思っていないが。又これらは芸術史という観点から高尚な立場で言っているが、逆にこの種の例が単なる通俗的な意味で成功していると民衆によってみなされるのは、京都市とか奈良市、鎌倉市といった古都がそうであるよう羽振りの良かった或る権力者の嘗ての栄華を誇る、という後から偶然観光地になった場合とか、伝統工芸という形で現代の需要がしぼんだ死んだ技術を絶滅しない程度に保全する様な文化保護という名目の慈善活動、すなわち退行的な場合に違いないのだが、自分がみるところ、これらはすべて本来の芸術があるべき姿から遠い、ただの欺瞞である。最も典型的にその事がわかるのは、フランスのアルルという町であり、ここの人々は当時の前衛画家だったゴッホを狂人扱いして精神病院に幽閉し、絵を一つも買ってあげず、困窮した画家の生活を助けてあげたりもせず、ついに困り果てたゴッホが自殺してしまってから徐々に評価が上がった彼を、今度は町の宣伝材料に使っている訳である。この事例からいって、アルルの住民は現時点でも、ゴッホ同然の暮らしをしている不遇な芸術家を信じがたい冷遇の境涯に置き去りにしている事は疑いようがないのではないだろうか。却って芸術の天才が最も活かされている市があるなら、その市は今現在生きている市民に芸術の需要があり、現に盛んに供給されている様な市であって、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェは、商売で成功したメディチ家という大金持ちが当時のキリスト教で推奨されていた慈善の手段としてできるだけ立派な聖像を求めた事から、我々が知っているダ・ヴィンチとかミケランジェロとかを呼び寄せ、一生を芸術の研究に捧げても食い扶持に困る事がない食客の身分を多数設けたり、教会の礼拝堂を庶民に理解できる宗教画で飾る目的で、そもそも仕事を盛んに発注したわけだ。対して現代美術は第二次大戦で戦場にならなかったアメリカに西洋の作家が移民し、商売で儲けた人々が広大な自宅を飾ったり、美術館への寄付が税額控除の対象となる税制をつかってより高く査定されるだろう作品を進んで買う流れができて、先物買いの投機を駆動力とした前衛美術の画廊ができるようになった事に由来し、これに経済的に衰退したが見栄を張りたいイギリスの人や、パリに近代画家が集まっていた栄光をとりもどそうとするフランスの人などが追随者となって、多かれ少なかれ欧米の民間画廊による美術品オークションを中心とする形でできている。日本はこの流れから大変取り残されていて、美術史の教育などもなおざりにされているので、この投機市場に現役でとりくんでいる様な人はほとんどいない。大衆商業芸術であった漫画アニメを、越境文化的な差別化の戦略で投機市場に持ち込んだ事が、アメリカのポップアートや、大衆的な工業製品を模造し独創性というオーラを失った流用作品との関連付けで評価された村上隆や奈良美智が、一応日本側で欧米における現代美術界の嚆矢になっているのはこういった訳だが、対して豊田氏がこれら欧米の動向との明白な位置づけを伴って芸術祭を行っているのではないのが目に見えているのであって、誰が観衆であり顧客かにもよるが、何を目的とした芸術振興なのかもいまいち分からないほどである。豊田氏の単なる自己満足でないというなら、天心を指導者として大観ら五浦派の美術家らが過ごしていた歴史がある市が、一体、世界の誰に向けていかなる芸術の需要喚起をしたいのか、またなにを供給しているのかについて、適切な美術振興の戦略を、税負担している市民へ予算案と共に提示するべきではないだろうか。
尤も、このブログでは遥か以前から指摘してきた事ではあるが、全員協議会という市議会前に密室で非公開のまま行われている市議全員を伴う会議が、豊田氏という行政の長を座長にして行われている事から、この市の行政と議会は癒着しているとみなせるのであって、独裁とは三権分立論に立脚する或る定義によれば行政と議会が相互監視と批判検証を伴う牽制の能力を失い一致してしまっている状態を指す言葉なのであり、それは現時点の国会で自民党の安倍党首がまったく同じ状態になっているが、豊田氏も例外ではない。今の日本政府は国会議員から首相を選ぶという行政権の独立が図られていない劣った制度なので、早急に大統領制または首相公選制の導入が必要だが、市政については市長が直接選挙で選ばれている以上、市民自身がこの豊田氏の野放図を自ら選択しているともいえる。豊田氏自身が全員協議会をやめようとしない市政運営の誠実さに欠けている事をあわせみても、市政の腐敗の一つの原因がこの全員協議会という二権癒着あるいは二権混同の害悪にあるのが明らかであり、公開された市議会の場で、市議会議員が市長の行政権行使に関して、きちんと批判的検証を行う必要が絶対にある。その検証が正しい物か、単なる誹謗の類なのかを判断するのは市民の側の役割なのであり、この種の公開された外部検証が行われなければ、市長の行政行為がいかに不条理で、恣意的かつ反市民的なものであっても、そのこと自体を市長自身が反省的に懐疑する機会すら失われかねない。たとえば新市民病院の位置が市の中央部により近く初期計画の場だった現在の新消防署がある高台より、どうみても市長の自宅がある北側に近く移されたり、これに伴って市南でより人口比が高くなっている中郷地区をはじめとする多数派の人々の公益と利便性は大幅に低下したわけだが、この事は診療所の設置でなんとか補填される形式をとったにせよ、市長は高萩市側に病院があるといった市の責任とはいいがたい答弁に終始し、結局はきちんとした理由づけがみあたらないようであり、市長の身びいきだったのではないだろうか。この種の事例は、単に病院建設の場合を引いたが、ここで取り上げた目的がはっきり全市民に公示されているとはいえない芸術祭とかその為のアトリエに使う小学校改造を市北にあたる関南地区を中心にして行うとか、市民や公開済みの会議の場で公正な審査を経たとはいいがたい経緯で参加作家が選ばれている不透明な市税供与とか、あるいは国道沿いには津波の被害も想定される極めて老朽化した市営住宅がまだ残されているのに、子育て世帯向けの住宅をのみ優先する部分奉仕の施策とか、どちらかといえば不公平で全体の利益とはいえない市の行政の例については、市長自身の善意とは別として現に、ただの市長の身びいきに多少あれ該当し、恐らくその様な行政を行っている理由は、彼の暴走を止める職員は当然いないし、市議会が全員協議会で市長から統率されてしまい、市政を監視したり批判的に意見を述べる人が議員の中で殆どゼロになっているせいが大きいのではないだろうか。つまり全員協議会をやめろという話だ。集団浅慮や全会一致の幻想が致命的な集団心理、集団思考の過ちをもってくる。科学一般が反証可能な命題についてしか真理らしさを保ちえないことからも、多数政で反論者がただ1人もいない案件が間違った結論な可能性は100%だといっていいだろう。もし、この案件が本当に善であると論証できるなら、少なくとも1つ以上の観点からそうでない証拠があげられるはずだからだし、もしこの種の反対証明となる証拠が見つからないとするなら、その案はそもそも正しさがまったく検証されていないのと同じなのである。善か悪かの判定についても真偽判断と同様の規則が使えるとすれば、多数の者が参加する議会の有効性は、単に条例という法の整備についてだけでなく市政に関する一切の事についてのこの反証可能性にあるのであって、神ならぬこの世で人の行う絶対善が存在しない事は明らかだから、少なくとも幾つかの選択肢の中から最もましな相対善を選び取ることしかできず、それが相対善と証明される為には、必ず他の選択肢と比べた何らかの悪い面をもっているという反証による比較検証が必要となる。嘗て王が道化を隣席させ猥雑な諧謔の中で王の過ちを周りには冗談に聞こえる形で指摘させたり、今日の企業で外部監査という専門の批判者が用意されているのは、この反証の為なのだ。日本で共産党が政権をとる可能性は極めて低くなっているが、何でも反対するという一つの重要な資質において、この政党は非常に重要な位置を占めているといえる。少数意見の尊重という一般に言われる多数政の長所は、この反証可能性を最小の支持者しかいない人からまっとうさせるという点に求まる。実際、賢愚や善悪は相対的だから、偏差値の様にその意見の正解度を分布させうるとすれば、或る案件の問題解決案の提示で最も良い成績の人物は、ある集団の中でたった1人しかいないはずだ。殆どの人、ほとんどの市民は、この最優秀者の成績を100点とし、最劣等の成績を0点とした時、それらの中間点のどこかに該当する意見しか持ちえないはずだ。アリストテレスが公徳の面で最優秀者の単独政(いわゆる王政)を最善といいい、多数政を消極的な意味で誤り辛いとしか述べなかったのは、何らかの形で君臨する王か、多数派が選出した長によって行政が行われるどちらの場合でも、王自身が極めて賢明であって他の全市民より自己批判に優れている様な場合があるとしても、特にこの行政権の行使に関する反証可能性を満たす様な場合に過ぎないといえるだろう。市長を少数者である貴族的集団から選ぶときについても同様である。
具体的に市議の場についていえば、市長の政策立案についてそれが相対的に正しい可能性があると証明する為には最低でも1人以上の反対者が必要になり、この検証の見地が市長自身が気づかない盲点をついたものであればあるほど優れて望ましい指摘にあたる。よってある議題について全員一致で賛成の案件については破棄するか、要検証として保留する様な条例を、単なる市議の慣行としてのみならず既存で作っておくべきだ。逆にこの条例のもとで或る案件に市長以外の全議員が反対の場合、市長の意図を集団浅慮で全議員が読み違えている事しか証左されない為、議会と行政の分離の旨から、この案を推進する事に問題はない可能性がある。なぜなら市長が最善者だった場合、必ずそれより劣る公徳しか持たない全議員が全員反対に回る事になるだろうからだ。市長が独裁化し明らかに最悪の政治を行っている時にも全議員が反対に回る事が考えられるので、全員賛成、全員反対のいずれの場合でも、全会一致はその案の盲点が反証されていない事になる。よって、たとえそれが最善案にも関わらず全員反対だった場合でも、少なくとも本当に最悪案かどうかわからない為、保留するか、さもなければ再考が必要と考えるべきである。市民は市政から給与をもらっておらず、専用の議員を選出してもいるので、全立案について無償で市民に監視する役割を担わせるのは困難である。つまり議員か、それに類した外部監査役の中からこの市政監視の役割を担う人が必要である。
結局のところ、産業に関して、北茨城市長や茨城県知事は、全体調整的で、公害がない限り民業放任の原則に立つ経済政策をはかると同時に、保障に関しては、最貧者を最優先とし、比較貧者の側へ傾斜的・累進的な基礎所得保障を進め、BIと負の所得税を茨城、北茨城行政が導入し、県・市域の幸福度を最大化する事が必須となるだろう。
水戸市の高さ制限に話を移すと、これは市街地の人口密度を低下させる要因となっており、集積の利益に有害だが、他方で大都市化をある程度防ぎ、結果として失業者を生み出す潜在要因も、求職者を南関へ吐き出す事によって未然防止する結果になっているかもしれない。したがって、この正反両面をもちあげて、集積の利益を発揮させながら失業に伴う所得低下という潜在要因を防止する必要があるが、前提として電車で都内へすぐ通じる距離に留まる鼓舞がなければならない。それは事業を行うにあたって水戸市の方が少なくとも都内より、できれば世界で最も有利な何らかの誘因でなければならず、この産業誘因が現存する場合において、市街地の超高層化が合理的なら条例の撤廃か、ランドマークの改変どちらかが有益になるだろう。また産業誘因が現存していても、市街地の超高層化が不利になる場合、例えば同じ業務あたりより広い敷地が必要なので市の地価が高騰する場合は、高さ制限を維持するべきになる。いずれにしても、比較優位となる産業集積の条件が市街地に必要であり、基礎所得の保障による人口減少率の低下もこの事に役立つかもしれない。無限の大都市化そのものへの志向は、上述の仮観論で述べた通り、際限ない情報氾濫がもたらす嫉妬を呼ぶ競争対象に起因した不幸感という面で決して、合目的ではない。幸福からみれば、都市住民全員の所得増加が無限の未来に向かって見込まれる様な状態が合目的である。
イギリスが高福祉化の果てに、被生活保護者の人口増加によって生産性の低下を伴い、サッチャー時代に中福祉的な新自由主義政策へ転換した。日本政府は小泉・竹中のペア以後、広がる格差を縮減すべく民主党時代に高福祉化を部分的に図ろうとしたが、東日本大震災後の混乱や菅直人政権の暴走、自民党による妨害が反動をもたらし、結局いまみられる低福祉化を進める新自由主義路線を続けている。この路線は安倍長期政権下で偶然起きた団塊の世代の大量離職と少子化の二重の幸運によって失業率の低下をもたらしはしたが、就職先ほしさの若年層が、倫理自粛のないインターネット文化として匿名の悪意が集積した2chまとめサイト等の極右メディアから差別主義に洗脳されていた事とあいまって、長州閥原理主義に基づく明治右翼を自称し退行的ともいえる民間介入を伴う国家社会主義や、アメリカ経済のやり方に追従する富裕層優遇の金融緩和政策(つまり金融商品の利益にかかる減税と、日銀や年金機構による日本株買いでの株価釣り上げで、国内外の投資家、特に外国人投資家へ日本企業の売却をはかるバブル誘発政策)をとるアベノミクスの成功と勘違いする状態になっている。端的にいって安倍独裁政権は小泉・竹中路線以後の自民党政権がGDPの低下、国力低下をもたらした国家的失墜と帰一であり、報道統制や北朝鮮の砲撃に恐れおののく近隣国への差別意識から洗脳されていた衆愚がこの独裁者の失脚以後に日本経済の敗北をしったところで、時は既に遅いとなっているであろうし、現になっている。イギリスの経済政策についてもいえる事として、金融緩和という名目で投機や投資を煽る路線は必然に格差拡大をもたらし、少なくとも低所得側に不公平感や嫉妬の苦痛を与える為に幸福度を低減させるという事であり、金融緩和策をとる前には十分な社会保障、特に将来も所得低下が起きないという意味での基礎保障の充実が必要だったという史実である。アメリカはオバマ時代にフード・スタンプという形で、少なくとも配給による低所得者向け基礎保障を行ったが、日本の側は皇族閥に属する安倍、麻生両氏が総理・副総理になったという世襲財閥の寡頭政治が進んでいる事、また被災者がこれら薩長藩閥の末裔と対抗した福島を主とする東北側の人々であったことからも、小泉・竹中が進めた非正規雇用法の延長下で低所得者を冷遇する事の方が優先された。安倍独裁下で日本の相対貧困率や子供の貧困率が上がったと同時に、安倍の生まれ育った都内の富裕層の数が増えたのはこの為であり、総じて、安倍党首のもとで自民党の一党独裁あるいは自公寡頭政治は、新自由主義の牙城であるアメリカより一層、国民全般を不幸にする様な施策をとった。その上、軍艦島や松下村塾を含む、侵略主義の証拠を、政治学的に疑義が呈される中で世界遺産登録するといった、安倍の地元である山口県への不当かつ周旋的な利益誘導もこの中に含まれているし、既に決まっていた栃木福島地域への国会等移転を無視して大都市であると同時に安倍の地元への道のりの途中にある京都市を他の過疎自治体より優遇して省庁移転を決定させる等、森友や加計学園だけでない数多の権力濫用を含みつつである。この醜い現実から目を背け、差別主義や独裁者への狂信を補完する確証バイアスを得ようとした愚民は、都内マスコミが視聴率めあてに模倣する、極右的な自画自賛の愛国番組を、まこと恥ずべき事だが熱心にみて、現実逃避していた。日本国民の過半数が愚民であるという事は、過去の歴史や他国の有様と比べて何ら遜色ない(これは全体主義軍事独裁政権が天皇帝国の元で行っていた数々の蛮行を省みれば余りに傲慢な意見であろう)が、先進国と呼ばれる国々の中にあって、その政治民度の低さは最下位級であるという事がまぎれもない真実である。我々が政治的に愚昧な制度をもっている、という事実について我々は冷静に認め、抜本的改善につとめるしかない。神道という自民族中心主義の教祖が象徴と名乗り、議員全員を全会一致の幻想で無理やり洗脳しつつ退位法を違憲立法させ得るほど三権の中核について実質独裁し、しばしば宮中祭祀といって徹夜で怪しげな儀式を行っている恐ろしく時代錯誤で旧態依然な現状からいって、政教分離すらはかれていない悪質で後進的な体制であり、中華思想的な態度に終始する官僚主義とか、平気で企業献金を受け取って恥じない一党独裁の体制等、他の全ての面についてむべなるかなと現実の国政が証明している。
県内で最大都市といえる水戸市が、或いはそれ以外のいずれかの県内都市が産業面で高い占有率をもち、競争優位に立つには、上述の事情からいって、起業リスクを世界一とりやすい基礎所得保障が最も有効だといえる。ある会社、またはある事業、ある投資が成功するのは確率にも依存し、失敗する危険を侵す必要があるが、それら挑戦を行うには、失敗しても再起できる最低限度の損益率の管理が必要である。ところが日本政府の経済政策は、低い資本金でも挑戦できる高レバレッジの為替取引や仮想通貨取引を規制してみたり、低所得に留まる非正規雇用法の維持とか、学歴フィルターをかけた新卒一括採用の慣行と中途採用の少なさといったひたすら国民の再挑戦を阻むあらゆる陋習にみられる通り、むしろ危険とか例外的才能を最小化する方へ傾倒する。これは日本政府だけでなく、セロトニン・トランスポーター数が少ないため不安を感じやすい脳の遺伝子をもっている、日本に在来してきた人々の生得的な性格傾向にも原因がある。悪い意味でお役所仕事といわれるよう公務員がその最たる存在だが、日本人の頭が固く、融通の利かない場面がとても多くみられるのは、機械のよう型にはまった事をくりかえすのが最も不安を感じ辛いからなのだろう。事業の成功にはその裏に凄まじい数の失敗という試行錯誤がどうしても出てくるものであり、素早く問題解決学習をはかる事ができこの種の失敗を他人に比べてし辛い人がいたとしても、なおそうである。要はこの様な安全志向の脳をもっている在来の遺伝を考慮し、それでも膨大な失敗にめげず挑戦に次ぐ挑戦を行うよう鼓舞する条件づけが、県内の人々のうち一部の人が大成功する為の最低限度の方法論である。行政が為すべきなのは、起業や投資、事業を興して失敗しても、その他、研究や探検、探求のいかなる事例の失敗を含む試行錯誤についても、最低でも挑戦する姿勢を何もしない臆病より奨励する前提に立って、致命的にならない範囲での失敗を損益率の計算から許容しつつも、県民の全数が何らかの事業で失敗した後に少なくとも再起できるだけの基礎所得保障を徹底する事だ。ごく簡単にいうと、何もしないよりやってみる方がましであるとし、リスクを許容する考えでいなければならない。大抵は失敗するかもしれないが、工夫を重ねて目的を達するよう続けていれば、少なくとも県内の誰かが何かについて、圧倒的に傑出した成果を上げる結果になる筈だ。またもともと不安を感じやすい脳であるからには、この種の危険を取る事を極度に嫌がる人もいるのだから、進んでリスクをとる挑戦者という気質を全体主義的に押しつけるようなことは避け、飽くまで当人の意思と好みに基づいて自由の範囲で、この種の行動原理や環境づくりを促進し且つ推奨しなければならないのだ。大井川氏も、あるいは豊田氏も、水戸市の高橋靖市長を含む県内の全郡市町村長も、特に大井川氏が見逃している事は、或る危険度の高い事に挑戦するには、少なくともリスク・リワード比の点で自分が死ぬことはないとか、失敗してもやり直せるという確信が持てない限り、人は命がけの無謀さをなかなか持てないものなのである。無謀は危険の過小視、臆病は危険の過大視に由来し、両者の中庸である勇気は危険度を適切に見分けるところにある徳である。再起可能な最低限度の基礎所得さえ確約され、危殆に及んでは実際に手に入れられていれば、県民市民は死なない範囲で好きに行動するはずであり、殆ど成功する見込みがない様な事とか、間違えれば損害を被るような事についても、自分からやってみる人がいるのである。つまり、起業を奨励するとか、産業上の成功を求める為には、実際には事業をする側へ手を加えるとか助成するのではなくて、その地と図を反転し、失敗した場合の安全度、つまり基礎所得保障が完全であればあるほど挑戦しまくり易く、結果として成功者を続出し易くもなるのである。上述の人々のうち、和歌山県や鹿児島県の事例は具体的な農業の革新そのものを主体となっている県庁に依存したり頼る癖を呼び込んでしまい、京都市や佐賀県、あるいは北茨城市や茨城県の事例は文化という名で芸術の挑戦そのものを行政が身びいきな大甘の判断によって保護する結果になり、却って前衛性を損なうであろう。これらは市場の合理性とか、現代美術が欧米オークションでの投機市場を中心に回る様になっている現状(つまり現代美術の審美眼について素人級の一行政人が現代美術の流れを変える様な業績を、他にも用途がある税金を顕示的に消費する範囲で主導できるとは思えない事)にかんがみ、官製の民業圧迫が基本的に全て害悪であるという見地に基づいて、寧ろ県政市政はすべて、これらの不安がりの人々の主観からみて損益率が必ずしも芳しくない様に見える挑戦をも進んで行えるような基礎所得保障の側に一切の舵を切るべきであると知らせているといえるだろう。勿論、損失に対して利益の割合が高い、つまり損益率が高い生業を選ばねばならないのだが、保守主義の傾向をもつ人がそうであるよう、過度に臆病な人々はこのうち損失を課題に見込む傾向があるのだ。俗な言い方をすれば、「下らない事あれこれやるならとりあえずそのカネくれよ(そうすれば好きにやるわ、なにしろ税金が定収入としてもらえている公務員には終ぞわからないのだろうけど、庶民は明日食うものにすら困っているんだから)」、という事であって、寧ろその方が県民市民を幸福にするし、芸術を含む文化や産業の振興にも結果的になるという論証がこの論文の趣旨であった。
2018年3月15日
卑屈な客を避ける事
茨城という名義に対する反応で、相手の品性がわかる。この名義へ差別的にふるまっている相手は第一に下賎で、第二に無教養である。我々はこの県、常陸国の偉大な歴史と尊厳を知っており、茨城に無礼を働く相手はそれをしらないのだし、よく知らない相手を軽侮や差別する時点で人格的に劣悪であるばかりか、もし知っていて非礼を働いているなら二重に悪辣だからだ。つまり、茨城という言葉は嘗て先住権蹂躙の侵略罪業を行った皇族閥を含め、相手の品格のリトマス試験紙に使える。
ブランド総研の田中章雄や、この会社の会員、そして東京マスコミは、非常に品性下劣で無知な人々だという事が明らかである。人品には貴賎がある。自分に劣る相手とのつきあいは自分に害がある。魅力度調査という母数集団の限られた疑似統計による虚報とか、傲慢な都内マスコミの都鄙差別に基づいて、負の後光効果から偏見をいだき、向こうから差別的に扱ってくる相手というのは、確率において先ず100%卑しく、愚かな相手に違いない。田中は特定都道府県を差別する確証バイアス情報でカネを稼ぐ、という極めて卑しい生業を行ったに過ぎないが、我々の側は長い間この不当な人権侵害と地域差別を受け、日々状況を観察し尽くした末、汚名を着せられるという一見した不合理とは逆に、我々にとってごく好都合な徳目をみいだすに至った。虚報の偏見に洗脳され易い無知蒙昧な差別主義者を、単に我々の出身地名、居住地名を表すだけで遠ざける効果があるのだ。その種の悪人とつきあうな、という自衛に、魅力度という確証偏見は確かに使える。事実、私の人生経験上も、茨城県に偏見をもち差別してきた相手は、例外なく卑賎で愚かな、つきあう価値のない人々だった。即ち、北海道、沖縄、京都や東京といった地域を偏見に基づきひいきしている人々も救いようがなく下劣なのだろう。
たとえこの種のテストの利用法をしらないとしても、無意味に差別してくる相手と自分からつきあおうとする鼓舞は無い筈なので、自然にその愚人卑人から遠ざかる結果になってきたのではないだろうか。茨城という言葉は天皇による人権侵害と日本人虐殺の史実という非常に独特の語源をもっているし、一般にはこの様な負の印象を与えかねない語源の名義を己につけはしないのであって、その事をも知らない相手が、或いは都内の悪意ある下衆なマスコミの偏見報道に簡単に染まって、無色透明な相手を罵るとしたら、天皇家同然に人の痛みがわからないばかりか罪なき人を殺害して驕る最悪の蛮族だという証拠になる。
今上天皇は弟に常陸宮という親王任国の慣例による名義づけをしたわけだが、水戸藩尊皇志士の多大な犠牲からなった近代化と対照的に、水戸学を悪用し水戸藩を踏み台にした薩長藩閥以後の茨城県域への皇室やその母体である日本政府からの冷遇ぶりは目に余るものがあるし、平成以後はネットで田中を含む西国移民や都民らが凄まじく悪意ある差別偏見を茨城へ持っている事も実証された。よって貿易を除けば下品な県外南蛮西戎とつきあう価値は無いことになるが、松陰や西郷、木戸孝允にみられた通り、一見敬ってくるようにみせかけ内情を偵察し、松陰や木戸は倒幕論に転向し水長同盟を裏切り、西郷は戊午・倒幕の偽勅を皇族閥に書かせ首都圏で内乱させるなど、のちに悪意を込めて平気で裏切って茨城に汚名を着せ、ありとあらゆる害悪を為す、という手の込んだ悪人も薩長からやってきた厳然たる史実があるわけで、単なる差別主義者より余計に、茨城を表向き敬ってくる面従腹背の相手は疑わしいと考えるべきだ。
たとえば国民主権と尊皇論は政教分離原則の前で二律背反し、或る場合に一方を取ればもう一方は取れないので根本から矛盾している。尊皇と愛民を国体論で統一した烈公と藤田東湖の思想が、松陰の中華皇帝風一君万民論の影響が弱まった戦後政府で影響力を回復し、象徴天皇という徳川時代の大義名分的な体制に国政はとりあえずおさまっているとはいえ、天皇皇族の政治利用によって公卿的な京都人寡頭政をめざす京都市門川大作・京都府山田啓二の両首長が省庁再編に介入している上に、松陰を神格化する長州閥原理主義の残滓である日本会議や神道政治連盟議員が再び天皇主権による帝国主義を復活させようとしている為、また事態は複雑化してきた。
茨城という名義は、黒坂命を含む皇族閥という飛鳥時代に大陸・半島から移民してきた一部の弥生人や任那人、百済人らが、先住権者の日本人を一方的に虐殺したという、天皇家の侵略罪業を表している。と同時に、水戸家が尊皇論を藩士へ植えつけた経緯として、殉死した尊皇志士がこの県では極めて多く、特攻隊員や皇道派の人々を含め、極大の自己犠牲による忠誠の証拠が山ほどあるにもかかわらず、今日の皇室含む日本政府や東京都・京都府京都市といった天皇を政治利用中の後援者、そして天皇制に依存し或いは神道に帰依する日本国民からの軽視、蔑視、差別がある、という矛盾した情報が読み込める。したがって茨城史を知る者にとってこの2文字の情報量は非常に大きいわけだが、何も知らない人にとって、この文字は「茨」という苦難に満ちた路程を意味する茨の道なる慣用句の他あまり使われないため、少なくとも日本では好印象をもって捉えられない傾向があるのか、悪解釈からの偏見や確証バイアスに基づく差別的汚名をひたすら着せてくる衆愚が続出するわけだ。
全てを鑑みると、 たとえ維新胎動を僭称し、奥羽越や徳川領、北海道と沖縄、他の東亜諸国を犠牲に幕末の内乱罪を美化する、薩長土肥の様に利己的なだけの明治右派であれ、たとえ弥生時代以後に日本人を奴隷化してきた中国移民の天皇家であれ、又その手先であった全華族やその末裔であれ、これらの人々は過去から現代に至るまで自分の事しか考えていないし、他人に害悪を与えて平気でいるばかりか逆に貶めている性質の人達であり、その種の利己主義者が飛鳥時代頃から徐々に全日本を王朝とか宮中とか殿上とか幕府とか政府とか宮内とか名乗る暴力団の集まりから支配正統性の偽装で洗脳してきた。これらの人々について脳科学的には遺伝子上、線条体ドーパミンD2受容体密度が低い(自己優越の錯覚をもち易い)とか、共感知能が低いとか、教育上、利他主義が軽視されているとか、天皇家や公卿公家、薩長土肥のやった悪事を合理化して教わってその洗脳を批判できていないとか、色々な理由があるだろう。またこの洗脳を受けて平気でいる日本人衆愚のがわには、脳のセロトニントランスポーター数が遺伝的に少なく常に不安を感じ無意味に群衆化し易いとか、それに加えて受けた教育上、数の暴力や強弱を善悪と誤認し易いとか、弱肉強食や勝てば官軍を信仰していて善き敗者とか、負けるが勝ちとか、判官びいきを理解し辛いしその立場にたとうとしない、また事大主義の傾向があって当時の政府や権力者、多数派に媚びを売るとか、そもそも卑屈だとか、こういう性格的傾向があるといえるだろう。
我々が茨城という烙印によって相手のもつ内心の反応を分析し、見分けられるのは、冒頭に示したよう、これら下品で日本史に刻まれた過去の経歴が悪い人々か、それとも、冷静で科学的にわが県の事績を踏んで貴族的に我々と接する相手か、あるいは、悪意をもってわが県の内情を探るつもりがあり、将来にわたっても裏切る可能性がある相手か、である。法則として、茨城という言葉に対する反応が
1.差別的な時 → 下衆
2.中立的な時 → 無知な人
3.敬仰的な時 → 知識人
4.敬仰的かつ卑屈な時 → スパイ(あるいは裏切る可能性がある人物)
といえるかもしれない。ここでいう卑屈とは、相手が自分から下手に出てくることだ。自ら卑屈にふるまう事を心地よいと感じる人は先ずいないので、敬仰的かつ卑屈なのはその態度が下心を含むと示しているし、本心では見下しているからわざと卑屈にふるまって相手の弱点を探ろうとしているか、面従腹背で相手を侮っている、つまり慇懃無礼か、いずれかである。松陰や西郷はこの種の奸賊で、弘道館で藤田らに教えを請う卑屈に思えるふるまいの後、わが県に及ぼした災いは最大だった。150年もこの二者を寛容の精神で水戸藩士がもてなしてしまった災厄は続いているのだ。
おもてなしだの観光立国だのが、己の権力維持の為アメリカへ媚びる円安誘導目的の安倍晋三や、賄賂五輪の東京都、古都誘客の京都から唱えられ、財政基盤が脆弱な各地の自治体も同調する傾向にあるが、わが県の経験則からいえるのは、招かざる客がもたらす災いのすさまじさからいって、決して非選択的な来訪者歓迎はよい結果を伴わないと確信できる。日本含む世界には悪意ある人物、根っから性悪な人物が数多いて、天皇家や皇族、原発をもってきた都民、薩長の人物がそうであったよう地域破滅の原因になる。我々は北茨城市や茨城県に公益をもたらす人とのみつきあうべきで、上述の分類によれば、少なくとも平成日本で最多なのは下衆、次が無知な人であり、知識人はつくば市があるとはいえ相対的に数が少ない。裏切る可能性がある人物という意味では自民党の国会議員や皇室が現にそうであるし、実際に隣県の状況をしりながら原発再稼働を推進したり、差別主義者のたかる中華思想の都内から暴利して何一つ還元せず、わが県民を裏切り続けている。上述の分類ではスパイが最悪であって最も気をつけねばならず、我々にもたらす災いを考えれば、最大限排斥されるべき相手である。次が下衆であるが、この人々はもともと偏見や無知を悪意で糊塗する卑しい連中であって、そうであるからには進んでわが県に用はないから、観光業にとっても好ましい客でなくわが県を訪れるだけ害悪である。そうすると我々が集客するべき標的は、第一に定着と観光どちらについても我々の公益になる可能性が最高の知識人や教養人であり、第二に無知な人である。ただし、無知な人だけでなく知識人の中にも道徳心がなく利己的なだけのスパイに転化する者もいるので、結局、集客フィルターは誰に対しても必要だ。既に田中や都内マスコミによる洗脳下の下衆は最初からつきあう相手としては元より集客対象から外すべきだが、それ以外の人々については、卑屈で利己的な人物かどうかを見分けるのが重要である。端的にいうと、卑屈な態度で生きている人は人格的に劣悪であって、利己的な人物がわが県についてある程度より知識を持っている状態のとき内心を隠すため慇懃無礼な態度をとる筈だから、この点で疑わしい相手を遠ざける事がとりあえずのフィルターになる筈だ。たとえば大政奉還を記念しながら水戸市はじめ、行方市、北茨城市を呼ばなかった現京都市長は第一に下衆か無知であり、第二にこれから何かを調べてがわが県を訪問すれば先ず確実に慇懃無礼な態度をとる事だろうが、この卑屈な態度をとる人がわが県の為になる可能性は万に一つもなく、却って自分の事しか考えていない証拠である。従って専ら呼ばずばこまいが、例え機会があってもこの市長はつきあうべきでない相手、自ら忌避し、遠ざける必要がある相手なのが明らかである。
又上述のよう便宜的分類をいくらしたところで、相手が完全に理解できるものでもないから、我々にいえるのは誰とでもつきあったり、誰でもいいから集客しようという考えは一切捨て、品性において我々以上の人物にのみ親しむべきだという事だ。
ブランド総研の田中章雄や、この会社の会員、そして東京マスコミは、非常に品性下劣で無知な人々だという事が明らかである。人品には貴賎がある。自分に劣る相手とのつきあいは自分に害がある。魅力度調査という母数集団の限られた疑似統計による虚報とか、傲慢な都内マスコミの都鄙差別に基づいて、負の後光効果から偏見をいだき、向こうから差別的に扱ってくる相手というのは、確率において先ず100%卑しく、愚かな相手に違いない。田中は特定都道府県を差別する確証バイアス情報でカネを稼ぐ、という極めて卑しい生業を行ったに過ぎないが、我々の側は長い間この不当な人権侵害と地域差別を受け、日々状況を観察し尽くした末、汚名を着せられるという一見した不合理とは逆に、我々にとってごく好都合な徳目をみいだすに至った。虚報の偏見に洗脳され易い無知蒙昧な差別主義者を、単に我々の出身地名、居住地名を表すだけで遠ざける効果があるのだ。その種の悪人とつきあうな、という自衛に、魅力度という確証偏見は確かに使える。事実、私の人生経験上も、茨城県に偏見をもち差別してきた相手は、例外なく卑賎で愚かな、つきあう価値のない人々だった。即ち、北海道、沖縄、京都や東京といった地域を偏見に基づきひいきしている人々も救いようがなく下劣なのだろう。
たとえこの種のテストの利用法をしらないとしても、無意味に差別してくる相手と自分からつきあおうとする鼓舞は無い筈なので、自然にその愚人卑人から遠ざかる結果になってきたのではないだろうか。茨城という言葉は天皇による人権侵害と日本人虐殺の史実という非常に独特の語源をもっているし、一般にはこの様な負の印象を与えかねない語源の名義を己につけはしないのであって、その事をも知らない相手が、或いは都内の悪意ある下衆なマスコミの偏見報道に簡単に染まって、無色透明な相手を罵るとしたら、天皇家同然に人の痛みがわからないばかりか罪なき人を殺害して驕る最悪の蛮族だという証拠になる。
今上天皇は弟に常陸宮という親王任国の慣例による名義づけをしたわけだが、水戸藩尊皇志士の多大な犠牲からなった近代化と対照的に、水戸学を悪用し水戸藩を踏み台にした薩長藩閥以後の茨城県域への皇室やその母体である日本政府からの冷遇ぶりは目に余るものがあるし、平成以後はネットで田中を含む西国移民や都民らが凄まじく悪意ある差別偏見を茨城へ持っている事も実証された。よって貿易を除けば下品な県外南蛮西戎とつきあう価値は無いことになるが、松陰や西郷、木戸孝允にみられた通り、一見敬ってくるようにみせかけ内情を偵察し、松陰や木戸は倒幕論に転向し水長同盟を裏切り、西郷は戊午・倒幕の偽勅を皇族閥に書かせ首都圏で内乱させるなど、のちに悪意を込めて平気で裏切って茨城に汚名を着せ、ありとあらゆる害悪を為す、という手の込んだ悪人も薩長からやってきた厳然たる史実があるわけで、単なる差別主義者より余計に、茨城を表向き敬ってくる面従腹背の相手は疑わしいと考えるべきだ。
たとえば国民主権と尊皇論は政教分離原則の前で二律背反し、或る場合に一方を取ればもう一方は取れないので根本から矛盾している。尊皇と愛民を国体論で統一した烈公と藤田東湖の思想が、松陰の中華皇帝風一君万民論の影響が弱まった戦後政府で影響力を回復し、象徴天皇という徳川時代の大義名分的な体制に国政はとりあえずおさまっているとはいえ、天皇皇族の政治利用によって公卿的な京都人寡頭政をめざす京都市門川大作・京都府山田啓二の両首長が省庁再編に介入している上に、松陰を神格化する長州閥原理主義の残滓である日本会議や神道政治連盟議員が再び天皇主権による帝国主義を復活させようとしている為、また事態は複雑化してきた。
茨城という名義は、黒坂命を含む皇族閥という飛鳥時代に大陸・半島から移民してきた一部の弥生人や任那人、百済人らが、先住権者の日本人を一方的に虐殺したという、天皇家の侵略罪業を表している。と同時に、水戸家が尊皇論を藩士へ植えつけた経緯として、殉死した尊皇志士がこの県では極めて多く、特攻隊員や皇道派の人々を含め、極大の自己犠牲による忠誠の証拠が山ほどあるにもかかわらず、今日の皇室含む日本政府や東京都・京都府京都市といった天皇を政治利用中の後援者、そして天皇制に依存し或いは神道に帰依する日本国民からの軽視、蔑視、差別がある、という矛盾した情報が読み込める。したがって茨城史を知る者にとってこの2文字の情報量は非常に大きいわけだが、何も知らない人にとって、この文字は「茨」という苦難に満ちた路程を意味する茨の道なる慣用句の他あまり使われないため、少なくとも日本では好印象をもって捉えられない傾向があるのか、悪解釈からの偏見や確証バイアスに基づく差別的汚名をひたすら着せてくる衆愚が続出するわけだ。
全てを鑑みると、 たとえ維新胎動を僭称し、奥羽越や徳川領、北海道と沖縄、他の東亜諸国を犠牲に幕末の内乱罪を美化する、薩長土肥の様に利己的なだけの明治右派であれ、たとえ弥生時代以後に日本人を奴隷化してきた中国移民の天皇家であれ、又その手先であった全華族やその末裔であれ、これらの人々は過去から現代に至るまで自分の事しか考えていないし、他人に害悪を与えて平気でいるばかりか逆に貶めている性質の人達であり、その種の利己主義者が飛鳥時代頃から徐々に全日本を王朝とか宮中とか殿上とか幕府とか政府とか宮内とか名乗る暴力団の集まりから支配正統性の偽装で洗脳してきた。これらの人々について脳科学的には遺伝子上、線条体ドーパミンD2受容体密度が低い(自己優越の錯覚をもち易い)とか、共感知能が低いとか、教育上、利他主義が軽視されているとか、天皇家や公卿公家、薩長土肥のやった悪事を合理化して教わってその洗脳を批判できていないとか、色々な理由があるだろう。またこの洗脳を受けて平気でいる日本人衆愚のがわには、脳のセロトニントランスポーター数が遺伝的に少なく常に不安を感じ無意味に群衆化し易いとか、それに加えて受けた教育上、数の暴力や強弱を善悪と誤認し易いとか、弱肉強食や勝てば官軍を信仰していて善き敗者とか、負けるが勝ちとか、判官びいきを理解し辛いしその立場にたとうとしない、また事大主義の傾向があって当時の政府や権力者、多数派に媚びを売るとか、そもそも卑屈だとか、こういう性格的傾向があるといえるだろう。
我々が茨城という烙印によって相手のもつ内心の反応を分析し、見分けられるのは、冒頭に示したよう、これら下品で日本史に刻まれた過去の経歴が悪い人々か、それとも、冷静で科学的にわが県の事績を踏んで貴族的に我々と接する相手か、あるいは、悪意をもってわが県の内情を探るつもりがあり、将来にわたっても裏切る可能性がある相手か、である。法則として、茨城という言葉に対する反応が
1.差別的な時 → 下衆
2.中立的な時 → 無知な人
3.敬仰的な時 → 知識人
4.敬仰的かつ卑屈な時 → スパイ(あるいは裏切る可能性がある人物)
といえるかもしれない。ここでいう卑屈とは、相手が自分から下手に出てくることだ。自ら卑屈にふるまう事を心地よいと感じる人は先ずいないので、敬仰的かつ卑屈なのはその態度が下心を含むと示しているし、本心では見下しているからわざと卑屈にふるまって相手の弱点を探ろうとしているか、面従腹背で相手を侮っている、つまり慇懃無礼か、いずれかである。松陰や西郷はこの種の奸賊で、弘道館で藤田らに教えを請う卑屈に思えるふるまいの後、わが県に及ぼした災いは最大だった。150年もこの二者を寛容の精神で水戸藩士がもてなしてしまった災厄は続いているのだ。
おもてなしだの観光立国だのが、己の権力維持の為アメリカへ媚びる円安誘導目的の安倍晋三や、賄賂五輪の東京都、古都誘客の京都から唱えられ、財政基盤が脆弱な各地の自治体も同調する傾向にあるが、わが県の経験則からいえるのは、招かざる客がもたらす災いのすさまじさからいって、決して非選択的な来訪者歓迎はよい結果を伴わないと確信できる。日本含む世界には悪意ある人物、根っから性悪な人物が数多いて、天皇家や皇族、原発をもってきた都民、薩長の人物がそうであったよう地域破滅の原因になる。我々は北茨城市や茨城県に公益をもたらす人とのみつきあうべきで、上述の分類によれば、少なくとも平成日本で最多なのは下衆、次が無知な人であり、知識人はつくば市があるとはいえ相対的に数が少ない。裏切る可能性がある人物という意味では自民党の国会議員や皇室が現にそうであるし、実際に隣県の状況をしりながら原発再稼働を推進したり、差別主義者のたかる中華思想の都内から暴利して何一つ還元せず、わが県民を裏切り続けている。上述の分類ではスパイが最悪であって最も気をつけねばならず、我々にもたらす災いを考えれば、最大限排斥されるべき相手である。次が下衆であるが、この人々はもともと偏見や無知を悪意で糊塗する卑しい連中であって、そうであるからには進んでわが県に用はないから、観光業にとっても好ましい客でなくわが県を訪れるだけ害悪である。そうすると我々が集客するべき標的は、第一に定着と観光どちらについても我々の公益になる可能性が最高の知識人や教養人であり、第二に無知な人である。ただし、無知な人だけでなく知識人の中にも道徳心がなく利己的なだけのスパイに転化する者もいるので、結局、集客フィルターは誰に対しても必要だ。既に田中や都内マスコミによる洗脳下の下衆は最初からつきあう相手としては元より集客対象から外すべきだが、それ以外の人々については、卑屈で利己的な人物かどうかを見分けるのが重要である。端的にいうと、卑屈な態度で生きている人は人格的に劣悪であって、利己的な人物がわが県についてある程度より知識を持っている状態のとき内心を隠すため慇懃無礼な態度をとる筈だから、この点で疑わしい相手を遠ざける事がとりあえずのフィルターになる筈だ。たとえば大政奉還を記念しながら水戸市はじめ、行方市、北茨城市を呼ばなかった現京都市長は第一に下衆か無知であり、第二にこれから何かを調べてがわが県を訪問すれば先ず確実に慇懃無礼な態度をとる事だろうが、この卑屈な態度をとる人がわが県の為になる可能性は万に一つもなく、却って自分の事しか考えていない証拠である。従って専ら呼ばずばこまいが、例え機会があってもこの市長はつきあうべきでない相手、自ら忌避し、遠ざける必要がある相手なのが明らかである。
又上述のよう便宜的分類をいくらしたところで、相手が完全に理解できるものでもないから、我々にいえるのは誰とでもつきあったり、誰でもいいから集客しようという考えは一切捨て、品性において我々以上の人物にのみ親しむべきだという事だ。
茨城県政の三大革新
つくば市の駅前にみられる通り、TXの常磐線との接続で起きる必然として、ストロー効果で県央の商店が東京圏にとりこまれ衰退する。大井川氏が新幹線誘致構想を前高萩市長小田木氏へ述べていたと私は記憶しているが、JR自身の常磐線やTXの磁気浮動化で十分な技術改良なので、新幹線停止駅に古河駅を加える運動(或いは既に行われている地下鉄延長誘致)程度の話にとどまる筈だ。実際、首都圏の鉄道網と接続してしまうと茨城側にはマイナス面も大きかったし、今後とも大きいだろう。守谷市の場合は埼玉・千葉・神奈川の様ベッドタウン化で人気を博したのだろうが、これは茨城都民を増やす結果にはなっても茨城側に雇用や経済発展を生まないし、県内商圏自体が吸い取られてしまう。
TXを水戸へ延線させようとする県内商人は、県内雇用を生む勝算がないのに、全国同然の前轍を踏もうとしている。つまり我々にとって重要なのは茨城県内へいかに超東京的な為事・生活環境を作るかであり、北央まで東京圏にとりこまれる事では決してない。
少なくとも自分がみる限り、茨城県の近未来は東京圏より遙かに発展した三大都市が連なる独自の道であり、それは茨城圏、常磐圏など別名で呼ばれ、東京圏とは峻別されている筈だ。この三大都市は専ら日立、水戸、つくばであり、三商圏とそれぞれの間の交通網をいかに整備するかが重要である。西日本や北日本、茨城県外の日本人らはテレビをはじめとしたマスメディアやアニメ漫画といったサブカルチャーに洗脳され、そこで理想的に捏造された東京圏の虚像を妄想して、飛んで火に入る夏の虫として南関へたかってくる。都内の最悪の住環境での地獄的東京生活で心身とも打ちひしがれ、理想と現実のギャップで憂鬱症になる、パリ症候群ならぬ東京症候群を発症する。いうまでもないことかもしれないが、都会とはどこもその様なものだ。我々が行うべきなのは、東京圏含む全世界の都市圏の欠点を完全に克服しきった、宇宙のどこよりも優れた生活圏を着実に作っていく事で、それは前知事時代を含め既に多かれ少なかれ行われ来た。人間が快適域として生活上の欠点を克服し得る住環境とは、大都会でも大自然でもなく、田園、郊外、里山、田舎、中小都市、或いは単に(街か町の文字で)まちといわれている中間地帯にあって、これらは都心と自然という両極端の非人間性をもちあげた状態である。しかし経済原則たる集積の利益と、環境保全たる自然保護が無用な訳ではなく、人間は少なくともこれらの都市と自然の両極間を合理的に行き来できるうえに中間的な場所に居住地をもっている状態、即ち、住環境にあっては自然現象をある程度制御しながら人に快適な面を利用しながら、商業化された雑多な都会へは用があるとき快適かつ素早く、利便性高く、容易に出たり入ったりできる生活形態が一般に望ましいのだ。東京都民含む南関人や、京阪神や福岡を含む西日本の東京メディアバイアスに犯された人々、また札幌や仙台人を含む北日本の人々、或いはサブカルみすぎのオタク外人は、この中庸的という意味で優れた生活環境に関する洞察を余り明白にもっていないからこそ、東京という虚構のスラムへ無駄に憧れる。時には現徳島県知事や京都市長・京都府知事のよう田舎コンプレックスを爆発させて「vs東京」なるキャンペーンを打ったり自文化中心主義で世界の中心ぶったり差別化ごっこで逆行し、また都民自身もメディア喧伝完了と踏んで優越的欺瞞のナルシシズムへ同一化しながら中身の空っぽな東京中華思想に耽って、愚か者の偏見をかき集めた魅力度だの田舎だの都外だの23区外だの別の区への無意味な差別観をばら撒き、悪行三昧しているのだ。都内が舞台の漫画アニメの様な人生に憧れる幼稚な外人は、現実の多かれ少なかれ悲惨で窮屈な東京暮らし、或いは変型版では京アニ洗脳での同様な京都暮らしでそれが偶像崇拝だったと気づいた時には、もう移民相手の都内商人や京都商人からふんだんに大金を貪られた後であって土台手遅れである。端的にいうと天皇家が彼ら衆愚の盛んに真似る偶像なわけだが、この人達の都心に暮らしながら別荘地を巡るという中華皇帝を模倣した生活様式が、劣っているのだ。なぜなら都心は過密や自然破壊のため汚染されており、不衛生で生活に不適かつ不快だからであり、別荘地を近隣の自然の中にもっていたとしても普段の生活面での害毒を補うに足らないし、逆に自然の中は非人間的かつ不便なので長く留まれないから。一般国民が郊外に居住し、まれに自然に親しみつつ都会に通勤したがるのはそれが生活上最も快適で、合理的だからである。つまり茨城県がつくるべき環境とは、自然と都会を残しながら両者を調和させた郊外で結ぶ事であり、いま現在、日本人一般の生活環境に対する趣味は宮内庁発記者クラブをはじめ都内中華マスコミによる醜い洗脳の為か極々悪いので、既に快適な住環境において東京圏より先に進んでいる茨城県含む首都圏北部を認識することすらできていないのである。西日本人の東京コンプにうろたえた様子や、都民の凄まじいうぬぼれと高慢をしっていれば、およそ今後とも、かれらにはできないだろう。哲学が理解できなければ相手は彼らより上位の存在であって、価値観含む存在そのものを認知できない。
具体的に今後我々がつくるべきなのは、茨城空港を巡る日水筑三大都市圏での仕事づくりと、県内各地からそこに通じる大動脈交通網だといえる。核シェルターを兼ねた重厚なコンクリートチューブを地下に通す県道や、地下鉄網が必要ではないだろうか。またTXを東京側からみるのでなく、茨城側からみて、いかに茨城の為に利用するかだけ考えればよい。その為には筑波、水戸、日立が世界で最も優れた職場や学校の町になる事が優先されるべきで、税制面で起業家を優遇し、世界で最も起業や会社・資産移転をし易い自由人主義的施策の為に、想定される商法面での全規制撤廃が必要である。TXを水戸まで延伸させる場合、首都圏人口を丸ごと水戸ーつくば間に引っこ抜きつつ更に全世界から吸引するつもりで、先に水戸か日立へ遷都を行ってからするべきだ。つまり県北県央に人口流入の誘引がない段階で延伸をするのはただの悪手で、東京の植民地として埼玉、千葉、神奈川のあとに加わるだけの結果になってしまう。全世界人類が必然に茨城県央、県北で生活したくなるしかない鼓舞が首都圏との交通網の完全整備に先立たねばならない、というのがこの小論の結論だが、いわばストロー効果に対してコップ作りに集中せよというわけだ。
じゃあもっと具体化すればそのコップがなんなのか。次の点が全て具備されるべきだ。
1.茨城ではBI(基礎所得)がもらえるので生存権が保障される
2.茨城では金融所得に課税がなく寄付にも無課税なので投資と慈善が進む
3.茨城では起業資金を出世払いで借りられるのでベンチャーリスクが世界一とりやすい
これら茨城県庁が率先すべき三大革新は若年層を主とした全世界の人々が夢を見られる環境の最低条件である。同時に、命を害する不安の源泉であって子育てに最大公害の上に防衛上の致命的弱点である原発を日本で最初に廃炉成功する事は、ひとさまを呼び込むのに先立つ第一前提だというほかない。過ちて改めざるを過ちという。むしろ、大井川氏を含むこれまでの茨城県民は東京都民と日本政府、一部の自民党員、そして日本原電の株主共から完全に騙されてきたのであり、お人よしの田舎者の命を我欲のため換金している原発ヤクザとは、金輪際、断固として即座に、縁を切らねばならない。君子豹変。極悪人と手を組む者も極悪人たらざるを得ない。
もしこれらの革新を県庁が遅々として行わなければ、北茨城市が単独で先行実験し、県北発展の礎となるべきだ。なおここでいうBIで負の所得税として、高所得者が払い、中所得者は払いも貰いもせず、低所得者がもらうという累進化をはかるか、それとも単なる全員一律で生存所得を保障するかだが、どちらが望ましい結果をもたらすかについて社会実験が必要だ。財源を全市民分の生活保護費とし、期間を区切り二通りやってみて、市民アンケートや経済状況の変化からより優れた方を残せばいい。
TXを水戸へ延線させようとする県内商人は、県内雇用を生む勝算がないのに、全国同然の前轍を踏もうとしている。つまり我々にとって重要なのは茨城県内へいかに超東京的な為事・生活環境を作るかであり、北央まで東京圏にとりこまれる事では決してない。
少なくとも自分がみる限り、茨城県の近未来は東京圏より遙かに発展した三大都市が連なる独自の道であり、それは茨城圏、常磐圏など別名で呼ばれ、東京圏とは峻別されている筈だ。この三大都市は専ら日立、水戸、つくばであり、三商圏とそれぞれの間の交通網をいかに整備するかが重要である。西日本や北日本、茨城県外の日本人らはテレビをはじめとしたマスメディアやアニメ漫画といったサブカルチャーに洗脳され、そこで理想的に捏造された東京圏の虚像を妄想して、飛んで火に入る夏の虫として南関へたかってくる。都内の最悪の住環境での地獄的東京生活で心身とも打ちひしがれ、理想と現実のギャップで憂鬱症になる、パリ症候群ならぬ東京症候群を発症する。いうまでもないことかもしれないが、都会とはどこもその様なものだ。我々が行うべきなのは、東京圏含む全世界の都市圏の欠点を完全に克服しきった、宇宙のどこよりも優れた生活圏を着実に作っていく事で、それは前知事時代を含め既に多かれ少なかれ行われ来た。人間が快適域として生活上の欠点を克服し得る住環境とは、大都会でも大自然でもなく、田園、郊外、里山、田舎、中小都市、或いは単に(街か町の文字で)まちといわれている中間地帯にあって、これらは都心と自然という両極端の非人間性をもちあげた状態である。しかし経済原則たる集積の利益と、環境保全たる自然保護が無用な訳ではなく、人間は少なくともこれらの都市と自然の両極間を合理的に行き来できるうえに中間的な場所に居住地をもっている状態、即ち、住環境にあっては自然現象をある程度制御しながら人に快適な面を利用しながら、商業化された雑多な都会へは用があるとき快適かつ素早く、利便性高く、容易に出たり入ったりできる生活形態が一般に望ましいのだ。東京都民含む南関人や、京阪神や福岡を含む西日本の東京メディアバイアスに犯された人々、また札幌や仙台人を含む北日本の人々、或いはサブカルみすぎのオタク外人は、この中庸的という意味で優れた生活環境に関する洞察を余り明白にもっていないからこそ、東京という虚構のスラムへ無駄に憧れる。時には現徳島県知事や京都市長・京都府知事のよう田舎コンプレックスを爆発させて「vs東京」なるキャンペーンを打ったり自文化中心主義で世界の中心ぶったり差別化ごっこで逆行し、また都民自身もメディア喧伝完了と踏んで優越的欺瞞のナルシシズムへ同一化しながら中身の空っぽな東京中華思想に耽って、愚か者の偏見をかき集めた魅力度だの田舎だの都外だの23区外だの別の区への無意味な差別観をばら撒き、悪行三昧しているのだ。都内が舞台の漫画アニメの様な人生に憧れる幼稚な外人は、現実の多かれ少なかれ悲惨で窮屈な東京暮らし、或いは変型版では京アニ洗脳での同様な京都暮らしでそれが偶像崇拝だったと気づいた時には、もう移民相手の都内商人や京都商人からふんだんに大金を貪られた後であって土台手遅れである。端的にいうと天皇家が彼ら衆愚の盛んに真似る偶像なわけだが、この人達の都心に暮らしながら別荘地を巡るという中華皇帝を模倣した生活様式が、劣っているのだ。なぜなら都心は過密や自然破壊のため汚染されており、不衛生で生活に不適かつ不快だからであり、別荘地を近隣の自然の中にもっていたとしても普段の生活面での害毒を補うに足らないし、逆に自然の中は非人間的かつ不便なので長く留まれないから。一般国民が郊外に居住し、まれに自然に親しみつつ都会に通勤したがるのはそれが生活上最も快適で、合理的だからである。つまり茨城県がつくるべき環境とは、自然と都会を残しながら両者を調和させた郊外で結ぶ事であり、いま現在、日本人一般の生活環境に対する趣味は宮内庁発記者クラブをはじめ都内中華マスコミによる醜い洗脳の為か極々悪いので、既に快適な住環境において東京圏より先に進んでいる茨城県含む首都圏北部を認識することすらできていないのである。西日本人の東京コンプにうろたえた様子や、都民の凄まじいうぬぼれと高慢をしっていれば、およそ今後とも、かれらにはできないだろう。哲学が理解できなければ相手は彼らより上位の存在であって、価値観含む存在そのものを認知できない。
具体的に今後我々がつくるべきなのは、茨城空港を巡る日水筑三大都市圏での仕事づくりと、県内各地からそこに通じる大動脈交通網だといえる。核シェルターを兼ねた重厚なコンクリートチューブを地下に通す県道や、地下鉄網が必要ではないだろうか。またTXを東京側からみるのでなく、茨城側からみて、いかに茨城の為に利用するかだけ考えればよい。その為には筑波、水戸、日立が世界で最も優れた職場や学校の町になる事が優先されるべきで、税制面で起業家を優遇し、世界で最も起業や会社・資産移転をし易い自由人主義的施策の為に、想定される商法面での全規制撤廃が必要である。TXを水戸まで延伸させる場合、首都圏人口を丸ごと水戸ーつくば間に引っこ抜きつつ更に全世界から吸引するつもりで、先に水戸か日立へ遷都を行ってからするべきだ。つまり県北県央に人口流入の誘引がない段階で延伸をするのはただの悪手で、東京の植民地として埼玉、千葉、神奈川のあとに加わるだけの結果になってしまう。全世界人類が必然に茨城県央、県北で生活したくなるしかない鼓舞が首都圏との交通網の完全整備に先立たねばならない、というのがこの小論の結論だが、いわばストロー効果に対してコップ作りに集中せよというわけだ。
じゃあもっと具体化すればそのコップがなんなのか。次の点が全て具備されるべきだ。
1.茨城ではBI(基礎所得)がもらえるので生存権が保障される
2.茨城では金融所得に課税がなく寄付にも無課税なので投資と慈善が進む
3.茨城では起業資金を出世払いで借りられるのでベンチャーリスクが世界一とりやすい
これら茨城県庁が率先すべき三大革新は若年層を主とした全世界の人々が夢を見られる環境の最低条件である。同時に、命を害する不安の源泉であって子育てに最大公害の上に防衛上の致命的弱点である原発を日本で最初に廃炉成功する事は、ひとさまを呼び込むのに先立つ第一前提だというほかない。過ちて改めざるを過ちという。むしろ、大井川氏を含むこれまでの茨城県民は東京都民と日本政府、一部の自民党員、そして日本原電の株主共から完全に騙されてきたのであり、お人よしの田舎者の命を我欲のため換金している原発ヤクザとは、金輪際、断固として即座に、縁を切らねばならない。君子豹変。極悪人と手を組む者も極悪人たらざるを得ない。
もしこれらの革新を県庁が遅々として行わなければ、北茨城市が単独で先行実験し、県北発展の礎となるべきだ。なおここでいうBIで負の所得税として、高所得者が払い、中所得者は払いも貰いもせず、低所得者がもらうという累進化をはかるか、それとも単なる全員一律で生存所得を保障するかだが、どちらが望ましい結果をもたらすかについて社会実験が必要だ。財源を全市民分の生活保護費とし、期間を区切り二通りやってみて、市民アンケートや経済状況の変化からより優れた方を残せばいい。
2018年3月12日
和歌山県政の模範点
和歌山県では、リスク分析付きの避難場所表示、携帯・スマホやデジタルFMを使った災害情報発信、災害時に被災地に派遣する要員を予め任命しておく災害機動支援隊や瓦礫処理システム、芝居でない実践型防災訓練、災害復興計画の事前策定、などを行っていて、世界で唯一地震の実測データを使って全県で津波浸水予測ができるという。
更に、和歌山県知事の仁坂吉伸氏は『稲むらの火』の説話にみられる濱口梧陵の行動から学んでいると思われるのだが、すなわち津波来襲後に自らの畑の藁を燃やし暗闇の中で村人へ避難路を示した史実から(物語のなかでは、津波に気づいた五兵衛が、わざと高台にのぼって稲を燃やした。火事が高台の方でみえたので、火事をとめるため、高台へのぼって来た村人は、しらずしらず津波から守られた、という話から)、仁坂氏も和歌山で予想される津波災害時に、どこまで被害があるかを事前に計画し、その後の復興計画まで立てて災害に備えているという。なぜなら復興に遅れるほど被災前までの回復が不可能になってしまうため、被災後にすぐ県民へ行動の筋道を与えられ、しかも津波によって町の一定の部分が破壊されてしまえば都市計画なども真新しくできる為だという。
仁坂氏は他に、日本の企業が新卒しか採用しない悪習というべき慣行をもっているため、その時点以後に就業の機会を失ったり、転職者の人々の為の「第二の就活サイクル」を作り、多くの企業や団体に協力を願って新卒就活サイクルの終わる9月の後、10月から2月にかけ、企業等に改めて中途採用の求人を出してもらい、それを集めて宣伝や就職イベントなどをどんどん行って、新卒以外のひとびとが就職を決めやすくしているという。さらに、一度民間企業で働いた元公務員などが再び公務員にもなれるよう、年齢制限などを廃し、中途退職者に就業の機会を与えるとともに、民間の知恵を公務に生かすようにしているという。
これらの事はそのまま茨城県や北茨城市が習い、真似るべき事だといえるだろう。仁坂氏は名君だといえる。
茨城や愛知もそうだが、旧徳川の支配地は薩長イデオロギーに染まった東京マスコミから不当な差別を受けたり軽視されたり、偏見で虚報されたりするのが常だが、和歌山も決して例外ではなさそうで、いかに善政徳政を行っても、或いは和歌山県民にとって望ましい内容でも、東京の報道では少しも取り上げられない事を仁坂氏は随筆の中で苦慮しておられた。この憂慮は茨城県が長い間被ってきた、都内からのありとあらゆる偏見虚報についてもほぼ全く同様で、むしろ和歌山の方が東京から遠い分ましであって、我々の場合は直接都内から県知事選のときだけ内政干渉に来て県内自治を破壊し尽くし、その後はケロッと忘れて平気でいる自民党系のテレビ政治屋国会議員だらけという有様である。茨城県がやる事為す事なんでも悪解釈し、善意を悪意で受け取るばかりか、善政を悪政かのように罵っておきながらその茨城県側で行われた政策は、内閣府とか国土交通省とかの日本政府側の事業であったという事が茨城空港の開港、日本原電の東海第一第二原発、筑波学園都市事業以外にも腐るほどある。要するに都民や都内マスコミは正真正銘の馬鹿なわけだが、馬鹿であるのみならず品性は最低級の下賤であるから、都外を天皇だか政府だか大企業だかを後光にした空虚な自己優越感に基づいて完全に無意味に見下す有様であって、この種の衆愚をかかえた東京都知事の苦労が並々ならぬものである事も、恥知らずにも垂れ流す都政の乱れっぷりで全国放送されている。そしてその都民の醜態は、当然ながら、我々の地方自治や日常の平穏な暮らしより遙かに堕落している。簡単にいえば、東京都は既に衆愚政状態なのであって、その事は国政についても同様だ。
和歌山の様にしっかりとした地方自治を行っている自治体こそ、日本の本位であり、わが県わが市も和歌山県知事の徳政を模範にし、災害から就職までの対策を自発的に十二分に完成させていなければならない。東京や日本政府が何度ぶっ潰れようが、わが県わが市がしっかりした賢民良官のもとで自治領土を守り切っていれば、何の心配もいらない。和歌山県政はその事を教えてくれている好例だ。
更に、和歌山県知事の仁坂吉伸氏は『稲むらの火』の説話にみられる濱口梧陵の行動から学んでいると思われるのだが、すなわち津波来襲後に自らの畑の藁を燃やし暗闇の中で村人へ避難路を示した史実から(物語のなかでは、津波に気づいた五兵衛が、わざと高台にのぼって稲を燃やした。火事が高台の方でみえたので、火事をとめるため、高台へのぼって来た村人は、しらずしらず津波から守られた、という話から)、仁坂氏も和歌山で予想される津波災害時に、どこまで被害があるかを事前に計画し、その後の復興計画まで立てて災害に備えているという。なぜなら復興に遅れるほど被災前までの回復が不可能になってしまうため、被災後にすぐ県民へ行動の筋道を与えられ、しかも津波によって町の一定の部分が破壊されてしまえば都市計画なども真新しくできる為だという。
仁坂氏は他に、日本の企業が新卒しか採用しない悪習というべき慣行をもっているため、その時点以後に就業の機会を失ったり、転職者の人々の為の「第二の就活サイクル」を作り、多くの企業や団体に協力を願って新卒就活サイクルの終わる9月の後、10月から2月にかけ、企業等に改めて中途採用の求人を出してもらい、それを集めて宣伝や就職イベントなどをどんどん行って、新卒以外のひとびとが就職を決めやすくしているという。さらに、一度民間企業で働いた元公務員などが再び公務員にもなれるよう、年齢制限などを廃し、中途退職者に就業の機会を与えるとともに、民間の知恵を公務に生かすようにしているという。
これらの事はそのまま茨城県や北茨城市が習い、真似るべき事だといえるだろう。仁坂氏は名君だといえる。
茨城や愛知もそうだが、旧徳川の支配地は薩長イデオロギーに染まった東京マスコミから不当な差別を受けたり軽視されたり、偏見で虚報されたりするのが常だが、和歌山も決して例外ではなさそうで、いかに善政徳政を行っても、或いは和歌山県民にとって望ましい内容でも、東京の報道では少しも取り上げられない事を仁坂氏は随筆の中で苦慮しておられた。この憂慮は茨城県が長い間被ってきた、都内からのありとあらゆる偏見虚報についてもほぼ全く同様で、むしろ和歌山の方が東京から遠い分ましであって、我々の場合は直接都内から県知事選のときだけ内政干渉に来て県内自治を破壊し尽くし、その後はケロッと忘れて平気でいる自民党系のテレビ政治屋国会議員だらけという有様である。茨城県がやる事為す事なんでも悪解釈し、善意を悪意で受け取るばかりか、善政を悪政かのように罵っておきながらその茨城県側で行われた政策は、内閣府とか国土交通省とかの日本政府側の事業であったという事が茨城空港の開港、日本原電の東海第一第二原発、筑波学園都市事業以外にも腐るほどある。要するに都民や都内マスコミは正真正銘の馬鹿なわけだが、馬鹿であるのみならず品性は最低級の下賤であるから、都外を天皇だか政府だか大企業だかを後光にした空虚な自己優越感に基づいて完全に無意味に見下す有様であって、この種の衆愚をかかえた東京都知事の苦労が並々ならぬものである事も、恥知らずにも垂れ流す都政の乱れっぷりで全国放送されている。そしてその都民の醜態は、当然ながら、我々の地方自治や日常の平穏な暮らしより遙かに堕落している。簡単にいえば、東京都は既に衆愚政状態なのであって、その事は国政についても同様だ。
和歌山の様にしっかりとした地方自治を行っている自治体こそ、日本の本位であり、わが県わが市も和歌山県知事の徳政を模範にし、災害から就職までの対策を自発的に十二分に完成させていなければならない。東京や日本政府が何度ぶっ潰れようが、わが県わが市がしっかりした賢民良官のもとで自治領土を守り切っていれば、何の心配もいらない。和歌山県政はその事を教えてくれている好例だ。
2018年3月11日
石川県知事の再多選から導かれる結論
石川県知事谷本正憲氏が7選され、前茨城県知事橋本昌氏の6選を超過した。しかし、見ての通り、全ての自民党議員も都内マスコミも全く何の批判も非難もしていない。谷本氏を自民党が推挙していたからである。自民党の国会議員や地方議員達は、茨城県知事選挙の時には「多選の弊害」と罵り、それまで散々お世話になってきた橋本氏をひたすら侮辱していた。特に小泉進次郎氏、石破茂氏、野田聖子氏の三者は地方自治権と何の関係もない、他県選出の国会議員の分際で、県内各地で当時の知事を散々罵った。このうち小泉進次郎氏については、復興担当大臣として茨城県知事橋本氏の世話になっていたにもかかわらずだ。これら以外に菅義偉氏はこの時期に故梶山静六氏の墓参りに来てマスコミの前で橋本氏を罵り、大井川和彦候補を支援するとし、示威行動ととられかねない言行をとっていた。これらすべてを鑑みると、わざわざ党規を乱してまで多選中の安倍晋三氏の元で、各自民党議員が口々に唱え都内マスコミを扇動していた「多選の弊害」という虚偽の理屈は、完全に国民県民を騙す悪意ある自民寡頭主義の戯言であったと理解できる。
大井川知事が大真面目に多選の弊害を防止すると述べているのは余りにうぶであって、現に石川県では7選という30年近くに渡る長期独裁が実現しているし、その後援をこれまた長期独裁中の安倍という党首がやっている。これらに加えて、125代という狂った超長期独裁中の天皇明仁あるいは天皇家、皇室と名乗る一族も、象徴という名義で日本政府に寄生し続けている。大井川氏は一体何をどう見てこれら自民党寡頭政治や、都内マスコミ、邪教祖天皇、それらにあおられた日本衆愚の偽善や欺瞞を言い訳できよう。もし長期政権が本当に腐る必然があって変えねばならないのなら、既に茨城県知事については叶ったのだから、次期からは石川県知事、自民党首、天皇のいずれかの地位の世襲多選を全力で一挙破壊してもらわねば理屈が立たぬではないか。それとも、自民党員や天皇その他の日本衆愚と一緒で、単なる利己心の為に「多選の弊害」という嘘をついて、都道府県知事とか、最後の将軍とかの善政徳政を人格批判していたのだろうか?
答えを聴くまでもなく、これら衆愚は単なる利己心の為に虚偽の理屈を並べ立てていたのだ。自民党は腐敗しきった寡頭政党に過ぎず、己の権力増長の為ならどんな嘘でも述べて全ての人を騙してきたし、最悪の場合疑獄や冤罪、共謀罪、どんな悪しき権力濫用、違憲違法反人道行為だろうと平気でやってきている。現に党首の安倍氏をみるがいい。天皇明仁が国事行為を超えた違憲立法を国民と内閣、立法府に実質的に押し付けた現実をみるがいい。そしてこの悪魔的最悪政治は何も今に始まった事ではなく、飛鳥時代に天皇が身を起こした時代からはじまり今に至る。なるほど、大井川氏の言う通り。「多選の弊害」があるなら、それは天皇家にはじまるのである。長期政権になればなるほど腐敗する。その通り。だからこそ名目的地位という偽装を施し、退位法やら侵略内乱の命令やら、独裁権力をほしいままにする為に手先の信者を散々私利私欲を満たす使い捨ての道具に用いてきたわけだ。歴代将軍も歴代首相も、今の安倍氏でさえ、本当はこの「多選の弊害」を最も身に宿した悪魔的教祖、天皇の操り人形に過ぎず、いずれ潰されるし、その事を知らぬ日本人衆愚のがわも搾取対象の奴隷として騙され放題、平城遷都以来1300年にもわたってこの邪教政治から被害にあいつづけてきたのだ。大井川氏は確かにアメリカ帰りのごくごく単純なアメリカ模倣を正義と奉る人物なのかもしれない。もし彼が本当にこれら日本政治の真相を知っていて、単なる政権与党の自民党に後押しされた、人権侵害につながる違憲な嘘の理屈である「多選の弊害」を述べたのならだが。
ここまで事態がこじれまた暴かれてしまったからにはもう遅い。我々国民を欺き、自民や天皇に媚びを売る卑怯な衆愚にも重ねて媚びを売り、中身のない虚偽と悪意からの扇動を弄して国政県政市政に干渉するというなら、この様な腐敗した政治体制は全て何一つ容認できないであろう。天皇も日本政府も上皇制度を復活させて全国を京都中華思想で差別しかかっている京都市政も京都府政も、いや、自民党という寡頭的悪党も、その悪党に後援されている大井川知事も、石川県知事も、何一つ信用できないという事である。信なくば立たず。安倍氏をみるがいい。嘘八百をつきまくり、長州閥原理主義の権力亡者としてTPP不参加詐欺を行って不安な衆愚を扇動し、遂に売国極まって民の天たる食料危機まで招いている。餓死だらけになる悪政。この状態をみるにつけ、天皇も亡ぼされ、日本政府も亡ぼされ、自民党も亡ぼされ、京都市も亡ぼされ、京都府も亡ぼされ、東京都も亡ぼされ、石川県も亡ぼされ、自民党や天皇の腐った長期多選の弊害悪疫が及ぶ全国地域が亡ぼされていくであろう。福島県をみるがいい。わが県に置かれた原発が東京都の日本原電株式会社の持ち物であって、わが県民は全員が致命的危険の犠牲なのである。それなのに、投票者の過半の支持を受けたはずの知事が命の危険と生活を奪う不幸の塊を県民におしつけるとは何事なのか。勿論、悪意である。自民党という寡頭政の背骨を失わない為に、県民の命を売り飛ばしている。金欲しさのさもしい考えだと思われる素振りをして、原発推進派という他人の命を換金したがる極悪人共に付け入る隙を与えている。だからこそ、坂本龍馬などという売国テロリストを模範だと述べたのだ。恐ろしい腐敗。一選目の数か月目で既でこれほど腐敗した知事がどこにいるだろう? 石川県知事30年長期弊害も日本国天皇1300年長期弊害も真っ青というべきだ。いや、これは言い過ぎかもしれない。本当に腐敗して発酵しきっている天皇家や、谷本氏、そして薩長藩閥の暴力蛮政の末裔であらしゃる安倍氏や麻生氏にも、大井川氏より遙かに腐敗している等という現実は、到底受け入れていただけないであろう。なぜなら、日本という国とその国民性そのものが、天皇家の長期支配という弊害で腐り切ったもので埋め尽くされているのだからである。
なるだけ近いうちに、天皇、自民党、日本政府、石川県知事、これらのうち、大井川氏のいう「相場観」から、「多選の弊害」を伴う人物を除去しなければならないであろう。そして京都市だろうと京都府だろうと東京都だろうと、天皇が住まう場所について何一つ公共に関わる政治上の地位を与えてはならぬ。金輪際、天皇が日本の政にかかわることはゆるさぬ。それはいうまでもなく、世襲という変装を施した「多選の弊害」の権化たる皇族閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる自民党員安倍晋三含む自民党閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる石川県知事谷本正憲氏を当然含むであろう。これらをきっかりと果たすことこそ、わが県民の地方自治権を侵害しまくった自民党、都内マスコミ、日本人衆愚にとってのせめてもの前茨城県知事橋本昌氏へ着せた汚名への償いというべきだ。橋本氏がいかに県民の為を想った善政をしていらせられたについて既知の者にとって、これら皇室、安倍氏含む自民党、谷本氏らの解職は当然の事というべきだ。そして「相場観」などとどうとでも印象操作できる虚偽の弁を述べて前知事の人格を名誉毀損した大井川氏についても、最大限の罰として謝罪を要求しなければならず、その後はすぐに仕事をやめていただこう。仮にいくら有能だとはいえ、党利党略を国民県民の地方自治権より優先する大悪党の支援を受けた悪代官では県民が何をされるか分からない。信がない者を相応の地位につけてはならない。疑わしい事が完全に晴れ、「多選の弊害」という法律にない虚偽による人格毀損ついての罪を完全に裁くまで、我々は天皇家含む皇室、安倍氏含む自民党閥とその操作を受けている日本政府、都内マスコミ、日本人衆愚、そして谷本知事や大井川知事を疑う必要が絶対にある。これらの人々は我々国民を根底から欺こうとして嘘の言行をおこなっている。多選の弊害が最もある天皇、安倍家、麻生家、石原家、小泉家、石川県知事、これらの蛮族は自民党寡頭政治の推進及び容認を通じ、己の多選並びに世襲の弊害という悪業について何一つとして自己批判していないのに、世襲の政治家でもなければしっかりと地方自治権のもと県民の為を想う愛県政治を行っていらせられた前知事橋本氏を誹謗中傷の限りを尽くして貶め、或いは貶めさせたのである。悪代官大井川氏に至っては、極悪自民党が県知事選挙に際し収賄罪を犯した事について正直に指摘していた北茨城市長豊田稔氏を第一に選挙戦中に、第二に前高萩市長市政報告会で名指しで中傷さえし、抗議文について無視を決め込んでいる。断じて全員ゆるすべきではない。これら政道を乱している大悪党共が全滅するまで宇宙の果てまで追いつめて責め続けねばならぬ。
先ず国民の象徴と名乗っている皇室が全政務と国事行為をやめ二度と日本政府に関わらず日本国税に寄生しない事を憲法並びに国際法、そしてわが国の暗黙知において確約しなければならぬ。京都市、京都府、その他いずれの場所についても箔付け、権威づけ、特権や後光の間接享受あるいは背乗りのため皇族の末裔が居住する事を許可してはならず、いかなる地位もなく残った皇族の末裔は滅亡まで未来永劫、一般国民と同等の立場で基本的人権を超えたいかなる特権もなしに生活せねばならない。次に地方自治権を侵害し続けてる大悪党自民党閥は長州閥安倍家を含み全員が解体分離され解党せねばならず、今ある日本政府はこれらの腐敗勢力なしにわが県において新政府を樹立、抜本から再構築されねばならぬ。石川県知事は7選という多選の弊害が明らかでありながら再選されてしまっている。前茨城県知事が多選を理由に職を追われた以上、この知事についても国政の名において罷免が絶対に必要である。最後に、自民党閥と共に虚偽の弁によって選挙戦を行い国民県民の自治権を侵害しかつ前知事や北茨城市長の名誉を棄損侵害した大井川知事はリコールによって現職を解任されねばならず、新知事選挙を大井川氏抜きで、また自民党から如何なる干渉も無しに、断固として即断即決で実行しなければならない。罷免後の大井川氏については前知事橋本昌氏と北茨城市長豊田稔氏へ謝罪文の公共への提示と然るべき賠償、そして両者への名誉回復措置を命じるべきである。
大井川知事が大真面目に多選の弊害を防止すると述べているのは余りにうぶであって、現に石川県では7選という30年近くに渡る長期独裁が実現しているし、その後援をこれまた長期独裁中の安倍という党首がやっている。これらに加えて、125代という狂った超長期独裁中の天皇明仁あるいは天皇家、皇室と名乗る一族も、象徴という名義で日本政府に寄生し続けている。大井川氏は一体何をどう見てこれら自民党寡頭政治や、都内マスコミ、邪教祖天皇、それらにあおられた日本衆愚の偽善や欺瞞を言い訳できよう。もし長期政権が本当に腐る必然があって変えねばならないのなら、既に茨城県知事については叶ったのだから、次期からは石川県知事、自民党首、天皇のいずれかの地位の世襲多選を全力で一挙破壊してもらわねば理屈が立たぬではないか。それとも、自民党員や天皇その他の日本衆愚と一緒で、単なる利己心の為に「多選の弊害」という嘘をついて、都道府県知事とか、最後の将軍とかの善政徳政を人格批判していたのだろうか?
答えを聴くまでもなく、これら衆愚は単なる利己心の為に虚偽の理屈を並べ立てていたのだ。自民党は腐敗しきった寡頭政党に過ぎず、己の権力増長の為ならどんな嘘でも述べて全ての人を騙してきたし、最悪の場合疑獄や冤罪、共謀罪、どんな悪しき権力濫用、違憲違法反人道行為だろうと平気でやってきている。現に党首の安倍氏をみるがいい。天皇明仁が国事行為を超えた違憲立法を国民と内閣、立法府に実質的に押し付けた現実をみるがいい。そしてこの悪魔的最悪政治は何も今に始まった事ではなく、飛鳥時代に天皇が身を起こした時代からはじまり今に至る。なるほど、大井川氏の言う通り。「多選の弊害」があるなら、それは天皇家にはじまるのである。長期政権になればなるほど腐敗する。その通り。だからこそ名目的地位という偽装を施し、退位法やら侵略内乱の命令やら、独裁権力をほしいままにする為に手先の信者を散々私利私欲を満たす使い捨ての道具に用いてきたわけだ。歴代将軍も歴代首相も、今の安倍氏でさえ、本当はこの「多選の弊害」を最も身に宿した悪魔的教祖、天皇の操り人形に過ぎず、いずれ潰されるし、その事を知らぬ日本人衆愚のがわも搾取対象の奴隷として騙され放題、平城遷都以来1300年にもわたってこの邪教政治から被害にあいつづけてきたのだ。大井川氏は確かにアメリカ帰りのごくごく単純なアメリカ模倣を正義と奉る人物なのかもしれない。もし彼が本当にこれら日本政治の真相を知っていて、単なる政権与党の自民党に後押しされた、人権侵害につながる違憲な嘘の理屈である「多選の弊害」を述べたのならだが。
ここまで事態がこじれまた暴かれてしまったからにはもう遅い。我々国民を欺き、自民や天皇に媚びを売る卑怯な衆愚にも重ねて媚びを売り、中身のない虚偽と悪意からの扇動を弄して国政県政市政に干渉するというなら、この様な腐敗した政治体制は全て何一つ容認できないであろう。天皇も日本政府も上皇制度を復活させて全国を京都中華思想で差別しかかっている京都市政も京都府政も、いや、自民党という寡頭的悪党も、その悪党に後援されている大井川知事も、石川県知事も、何一つ信用できないという事である。信なくば立たず。安倍氏をみるがいい。嘘八百をつきまくり、長州閥原理主義の権力亡者としてTPP不参加詐欺を行って不安な衆愚を扇動し、遂に売国極まって民の天たる食料危機まで招いている。餓死だらけになる悪政。この状態をみるにつけ、天皇も亡ぼされ、日本政府も亡ぼされ、自民党も亡ぼされ、京都市も亡ぼされ、京都府も亡ぼされ、東京都も亡ぼされ、石川県も亡ぼされ、自民党や天皇の腐った長期多選の弊害悪疫が及ぶ全国地域が亡ぼされていくであろう。福島県をみるがいい。わが県に置かれた原発が東京都の日本原電株式会社の持ち物であって、わが県民は全員が致命的危険の犠牲なのである。それなのに、投票者の過半の支持を受けたはずの知事が命の危険と生活を奪う不幸の塊を県民におしつけるとは何事なのか。勿論、悪意である。自民党という寡頭政の背骨を失わない為に、県民の命を売り飛ばしている。金欲しさのさもしい考えだと思われる素振りをして、原発推進派という他人の命を換金したがる極悪人共に付け入る隙を与えている。だからこそ、坂本龍馬などという売国テロリストを模範だと述べたのだ。恐ろしい腐敗。一選目の数か月目で既でこれほど腐敗した知事がどこにいるだろう? 石川県知事30年長期弊害も日本国天皇1300年長期弊害も真っ青というべきだ。いや、これは言い過ぎかもしれない。本当に腐敗して発酵しきっている天皇家や、谷本氏、そして薩長藩閥の暴力蛮政の末裔であらしゃる安倍氏や麻生氏にも、大井川氏より遙かに腐敗している等という現実は、到底受け入れていただけないであろう。なぜなら、日本という国とその国民性そのものが、天皇家の長期支配という弊害で腐り切ったもので埋め尽くされているのだからである。
なるだけ近いうちに、天皇、自民党、日本政府、石川県知事、これらのうち、大井川氏のいう「相場観」から、「多選の弊害」を伴う人物を除去しなければならないであろう。そして京都市だろうと京都府だろうと東京都だろうと、天皇が住まう場所について何一つ公共に関わる政治上の地位を与えてはならぬ。金輪際、天皇が日本の政にかかわることはゆるさぬ。それはいうまでもなく、世襲という変装を施した「多選の弊害」の権化たる皇族閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる自民党員安倍晋三含む自民党閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる石川県知事谷本正憲氏を当然含むであろう。これらをきっかりと果たすことこそ、わが県民の地方自治権を侵害しまくった自民党、都内マスコミ、日本人衆愚にとってのせめてもの前茨城県知事橋本昌氏へ着せた汚名への償いというべきだ。橋本氏がいかに県民の為を想った善政をしていらせられたについて既知の者にとって、これら皇室、安倍氏含む自民党、谷本氏らの解職は当然の事というべきだ。そして「相場観」などとどうとでも印象操作できる虚偽の弁を述べて前知事の人格を名誉毀損した大井川氏についても、最大限の罰として謝罪を要求しなければならず、その後はすぐに仕事をやめていただこう。仮にいくら有能だとはいえ、党利党略を国民県民の地方自治権より優先する大悪党の支援を受けた悪代官では県民が何をされるか分からない。信がない者を相応の地位につけてはならない。疑わしい事が完全に晴れ、「多選の弊害」という法律にない虚偽による人格毀損ついての罪を完全に裁くまで、我々は天皇家含む皇室、安倍氏含む自民党閥とその操作を受けている日本政府、都内マスコミ、日本人衆愚、そして谷本知事や大井川知事を疑う必要が絶対にある。これらの人々は我々国民を根底から欺こうとして嘘の言行をおこなっている。多選の弊害が最もある天皇、安倍家、麻生家、石原家、小泉家、石川県知事、これらの蛮族は自民党寡頭政治の推進及び容認を通じ、己の多選並びに世襲の弊害という悪業について何一つとして自己批判していないのに、世襲の政治家でもなければしっかりと地方自治権のもと県民の為を想う愛県政治を行っていらせられた前知事橋本氏を誹謗中傷の限りを尽くして貶め、或いは貶めさせたのである。悪代官大井川氏に至っては、極悪自民党が県知事選挙に際し収賄罪を犯した事について正直に指摘していた北茨城市長豊田稔氏を第一に選挙戦中に、第二に前高萩市長市政報告会で名指しで中傷さえし、抗議文について無視を決め込んでいる。断じて全員ゆるすべきではない。これら政道を乱している大悪党共が全滅するまで宇宙の果てまで追いつめて責め続けねばならぬ。
先ず国民の象徴と名乗っている皇室が全政務と国事行為をやめ二度と日本政府に関わらず日本国税に寄生しない事を憲法並びに国際法、そしてわが国の暗黙知において確約しなければならぬ。京都市、京都府、その他いずれの場所についても箔付け、権威づけ、特権や後光の間接享受あるいは背乗りのため皇族の末裔が居住する事を許可してはならず、いかなる地位もなく残った皇族の末裔は滅亡まで未来永劫、一般国民と同等の立場で基本的人権を超えたいかなる特権もなしに生活せねばならない。次に地方自治権を侵害し続けてる大悪党自民党閥は長州閥安倍家を含み全員が解体分離され解党せねばならず、今ある日本政府はこれらの腐敗勢力なしにわが県において新政府を樹立、抜本から再構築されねばならぬ。石川県知事は7選という多選の弊害が明らかでありながら再選されてしまっている。前茨城県知事が多選を理由に職を追われた以上、この知事についても国政の名において罷免が絶対に必要である。最後に、自民党閥と共に虚偽の弁によって選挙戦を行い国民県民の自治権を侵害しかつ前知事や北茨城市長の名誉を棄損侵害した大井川知事はリコールによって現職を解任されねばならず、新知事選挙を大井川氏抜きで、また自民党から如何なる干渉も無しに、断固として即断即決で実行しなければならない。罷免後の大井川氏については前知事橋本昌氏と北茨城市長豊田稔氏へ謝罪文の公共への提示と然るべき賠償、そして両者への名誉回復措置を命じるべきである。
2018年3月7日
幸福論
平成の資本主義に欠けていたのは、カネを己の属した社会へ還元する為に儲ける、あるいは己の社会をよりよくする為に働く、という利他に包括された自利という見方である。この利他に含まれる自利は、功利主義の命題、最大多数の最高幸福 The greatest happiness of the greatest numberによく現れている。仏教語でいう抜苦与楽は、功利主義をいいかえたものだと解釈できる。
幸福を大まかに分類すると、 主観的幸福、客観的幸福、またそれらの中間にある中庸的幸福に分けられ、主観幸福の本質は没頭、客観幸福の本質は比較、中庸的幸福の本質は社交である。
没頭とは或る人が夢中で熱中できる作業が、チクセント・ミハイによってflowと定義されている没我状態を生み出すことである。ここで、思考を言語や観念の抽象的行動と定義すると、没頭しているとき脳の中ではその人の学習サイクルが、ドーパミン(目標設定)、アドレナリン(興奮状態)、オキシトシン(目標達成)の循環で、広義の行動に関する難易度が快適域から大きく外れないまま(つまり難しすぎでも易しすぎでもない)、ほぼ最適化されて回されているのだと考えられる。この状態を生み出す脳内作用はしばしば行き過ぎたり、自他の生命維持に害をもたらす事もあり、その場合には嗜癖 Addictionとか、狭義の中毒 Poisningと定義されていることもあり、また日常語において何らかの嗜癖が行き過ぎて当人に害がありさえする場合、比喩的な意味で広義の中毒と言う場合もある。いずれにしても、主観的幸福はそれが何らかの自害性を含む自利ではあるにせよ、極端なら害他性や公害を伴う時もあり、このうち、自己への有益性にある程度の自害性を含むとして、自他へ共に有益な場合が最善の没頭、自己のみに有益で他に無益無害な場合を次善の没頭、自己のみに有益で他に有害な場合を悪しき没頭と定義できる。没頭は哺乳類に近似した生物にあって脳が快楽の輪を回し続ける事を指すので、ここでいう主観幸福は、非常に狭義ではむしろ快楽追求性という方がふさわしく、脳のない生物の場合は、細胞の持っている嗜癖の傾向にまで分解される。
また客観幸福は、国連が幸福度として示している指標や、各種の統計に表れている様な、他の人と比べてのみ認知される、主に物質的な状態を指す。但し、主観の介在する疑似統計、つまり価値観や好感といった印象操作が可能な誰かの感じ方の調査は、意図や見方によって評価が変動するものなので、ここには含まれない。
中庸的幸福は、或る個人が自らの没頭できる対象について、他者と比較しながら社交できる時に感じる状態の事であり、狭義ではこれが或る仲間や共感を生み出す、好ましい人間関係形成の原因である。一般にこの作用をcommunicationとか、やりとりとか、通信といい、情報はこの通信という目的を媒介するものである。
ところで、幸福を公私に分類すると、 私的幸福は自由によって最大化され、公的幸福は保障によって最大化される。ここでいう自由は個人が他人に害がない限り自らの趣味を完全に満足させる没頭経験を最大化する事を意味し、保障は自らに害をなす他者からの苦痛を最小化する法律と倫理両面からの公的保護を意味する。
具体的にそれぞれの特徴を定義すると、先ず私的幸福については、上述の主観幸福の内、自他へ有益な没頭状態を最大化する事が私的幸福の最高程度と考えられる。また最大多数の最高幸福をあわせみると、最善の私的幸福は功利性への没我であると考えられる。ここで功利性という言葉は、utilityをutilitarianisticに解釈した場合の概念であり、狭義では有用性、広義では多目的性を指し、使用 useを語源にもつこのutilityという単語を、単に自己にとって有益なだけではなく他者にとっても有益である様な状態に適用するものである。カントのいう義務は、時に自分に害があっても利他行為を追求せよと命じる点で、幸福を超越している概念であると考えられるが、この義務の功利性というものは、良心の満足という没我の究極状態として得られるのだと再定義できる。一般に、この義務の功利性を、我々は自己犠牲や献身と呼んでいる。もしマズローの欲求階層を引用すると、自己実現の上位段階として定義されている自己超越とは、私的幸福の充足の果てに、最も満たしがたい欲求として利己性の克服という、小脳の司る本能(仏教語でいう煩悩、精神医学でいう自我)を大脳の理性(精神医学でいう超自我)が完全に征服した状態が見いだされる事と定義できる。新渡戸稲造が『武士道』で定義している義の概念は、同書での義士の定義にみられるよう、この理性的な利他主義者が自己犠牲的にふるまう際に最高度の状態を指すと定義されている。切腹、諌死、仇討ちといった義行は、この義務の功利性の最高段階として嘗て侍に認識されてきたのであり、私的に解釈されるときは単に義、公的に解釈されるときは忠義といわれ、一般的には正義という言葉で定義されてきた。言語や図像、観念、身振りといった抽象度の高い概念の操作を広義の行動、具体的に自らの体を動かすという狭義の行動と定義し、これらの行動を包括して言行と定義すると、ロールズの格差原理における最不利者の利益最大化という原則は、我々が善行と呼ぶ言行一般のうち、無償で分け隔てのない森羅万象への慈しみを指す概念である、agapeに最も近い言行の理念である。つまり、私的幸福は何らかの没頭対象への極度の心酔の果てに、慈善と自らの言行が一致している状態で最終段階へ達すると考えられる。なぜなら人類のもっている脳の究極の使い方とは、単なる本能をより合理的に満たす為の社会行動の道具として生まれただろう初期の大脳を、徐々に功利性を満たすべく改良し、最後には我々が全徳の存在と想定する神的な慈善の担い手として、超人類的な進化へともっていく事だからだ。人類が聖人と見なしてきた人徳者達は、彼らの置かれた環境下での私的快楽をそれぞれの節制によって見限り、自己超越的な利他、その中でも勧善懲悪ともいわれる利他の言行に嗜癖を持っていた人々であり、しばしば救世主願望に憑り付かれてもいた。ある時点、ある場所で最不利者をさらに不利にする事は虐めと定義できるが、この弱肉強食から最も遠い人格が、慈善へ没頭する者だといえると共に、我々のうちの弱者がなぜ宗教を信じるかの訳として、聖人は自己犠牲の傾向の為に遺伝的に最希少種となり易く、同時代の同じ場所に存在する確率は極めて低いので、偶像として観念化された慈善の言行者を想定し救いや助けを求める事のみが心理的な頼りや支えになるからだ。そして人によって信じる宗教が異なるのは、彼らの学習環境下で見つけられた最慈善者が異なるからであり、無宗教の人がいるのは、この最慈善性を体を持たない単なる抽象概念と捉えているか、そもそも慈善に興味がない利己的な人物であるか、どちらかであろう。またこの抽象概念をある思想形態、考え方、Ideologieと捉えると、一切の主義や思想を信じていない人物、つまり無思想の者に大脳が働いていて成人している場合、善悪を本能を超えて判定したりしなかったりするだろうから、その言行についての矛盾度は最大であり、人類は矛盾度の高い情報量を認識できないものとみなすので、この人については殆ど理解されないだろう。無宗教かつ無思想で、単に状況に応じて考え方を変えている様な状態に最も近いのは、本能以外の嗜癖を持たない幼児の状態であり、幼児の語る事が理路から最も遠いのは矛盾度が甚だ高いからである。また、幼児を裁判官に置いた場合の社会的混乱を想定すればわかる様、無思想とは無秩序な言行を意味し、その対極にある最慈善は秩序度の最高段階を意味するといえる。さて、この秩序の度合いとしてみた慈善度を比較的なものと考えると、或る社会集団の慈善度は構成する人々の平均的な功利性に由来しているので、よりよい社会を私的幸福の面から批評すると、その構成員の内できるだけ多数が、功利性の高い没頭癖を持っている状態を指す。没頭癖の社会的側面を広義の仕事あるいはその語源である「する事」、没頭癖そのものの能動的側面を趣味と定義すると、利他度の高い趣味を評価するには他者の立場が必要だが、一般にこの趣味を極める為には他人に害がない限り邪魔や干渉をされない自由が前提となる。なぜなら誰かがこの功利性をより強度の高い段階で見いだす為には、当時一般的に考えられている低俗な趣味の傾向を逸脱する必要があるからであり、また単に私的満足だけを目的にし全然公益性がない没頭の場合についても、当人がそれを超えた私的幸福をみいだせない限り、その人にとって主観幸福を満たせるが故に有益である。自己犠牲は義務の履行に際して自害性と利他性が共に最大の場合を指し、この実践について他人からの強制は単なる拷問に過ぎないので、当人の意思に基づく自由が必要である。但し、この自由が認められる為の最低限度の条件は、他人に害がない事であって、もし他人に害をなす傾向の趣味であれば、その外部不経済の程度に応じて法的あるいは倫理的な制限が社会から与えられることになるだろう。また単に自害性を含む趣味であるなら、他人がその人に与えられるはずの公益性を縮減する程度に応じて、直接の制御から間接的な残念まで、何らかの干渉が想定できるだろう。麻薬の販売と使用や、売買の主体が共に自主的な性売買、或いは自傷癖等の自虐的な嗜癖で想定される被害は、第一に当人達の健康、経済、対人関係にもたらす自害性の程度であり、第二にそれらの行為によって間接的に起きるミラー・ニューロンの模倣効果による公害性、特に幼児等の模倣を通じた負の学習の結果、自害性のある嗜癖あるいは依存症が自他に広まる害他性、第三にそれらによって特定の人のもたらすはず公益性が減り、場合によっては不可逆的に減耗する事であるといえる。よってこれらの自由は程度こそあれ、或る個人またはその社会の共通認識として制限されるが、その制限度はもたらす公害度と正に相関しているといえる。
最後に、公的幸福である保障が意味するのは、私的幸福が快楽の積極的な最大化を意味するのと異なって、単に苦痛の最小化であるといえる。なぜならそれぞれの個人は各々何について快を感じるか、何に没頭できるか趣味が異なる傾向にあり、もし普遍的、一般的、大衆的な趣味を追求すれば、それは一部の人を余り満足させない事になるからだ。他方で苦痛を最小化する事については本能に近い程度に応じて人類一般にある程度の共通性をみいだせ、場合によっては他の生物も含めて、苦痛を感じる脳内物質、ブラジキニンなどが働く機会を抑制する事によっているといえる。社会的支援や偽薬が苦痛を和らげると経験的に仮説づけられている事から、公的支援が確実に受けられると安心できる場面では、人はより不幸を最小化できると考えられる。我々が高福祉の実現した社会にみいだしている種類の幸福のうち、最も消極的な面は、この社会保障の充実であるといえる。例えば治安維持は公害から与えられる苦痛の逓減であり、原発等の危険施設の廃止や事故を起こす可能性の高い自動車や道路についての法的統制、災害への備えは将来与えられるであろう苦痛の最小化である。ところで侵略戦争の否定を謳う憲法その他の法規は自他のうち特に他人に与える筈の苦痛を最小化するものであり、単に戦争放棄の法は、最小限度の自己防衛を除けば、戦争時に自他が伴う苦痛を事前に最小化しようとするものである。究極的戦争放棄としての非暴力主義は、それが同時に抵抗的なら非暴力不服従となって少なくとも主権の侵害や拷問によって与えられる自己への苦痛を拒否し、服従的なら無条件降伏となり想定される苦痛の回避をも放棄する事になる。また帝国主義や侵略主義を信じる者は己の行う侵略戦争を是認して自他に苦痛を与える邪悪な権謀術数主義者であり、このうち自らの侵略のみを是認し他者の抵抗や主権、自己防衛を否定する者は他人の苦痛を自らの快楽と考える悪魔崇拝者である。これら戦争に関する態度のうち、公的幸福の面からみれば、自侵略を是認し他防衛を否定する悪魔崇拝者が最悪、次悪が自他の侵略を是認する権謀術数主義者であり、無条件降伏がその次に悪質で自他に無責任な態度である。対して、非暴力不服従は十分に防衛が行えない時の次善であり、一般的な自己防衛のみを是認する戦争放棄は最善のふるまいであり、ここには侵略戦争の否定が含まれている。個別自衛の名目で侵略を行う事は侵略に含まれる権謀術数的な次悪に過ぎず、集団自衛の名目で侵略を行う事はそれを共謀する事であるから、次悪より邪悪さと罪の程度がより酷いものである。集団安全保障の名目で、国連が命じる多国籍軍が米軍と共謀し、特定の国や集団の独立を侵害したり圧力を加えている場合、それらの少数派の苦痛を最大化する事に他ならないので、悪魔崇拝的な最悪であると認定できる。この様な場合の国連組織や米軍は、少なくとも国連に属するか否かに関わらず、現に独立を主張しているか独立をめざす少数派の諸権利を認容しなければならず、独裁政権といった名目で、王政に類した単独支配を行っている集団を諸国から除外するべきでは全くない。王政か独裁政かは或る単独者が支配する政体についての主観的評価、つまり肯定的に王政と尊称するか、否定的に独裁政と蔑称するかによるのであり、これらの評価は国連や米軍の主体である外部者のみが行って十分とはいえない。なぜなら異なる考え方に基づく政体を構成員が自ら選び取っている場合、この政体が他の政体と組織において全く異なるとしても、また規律や法、風習、慣習、文化、風俗について他国や他集団の価値観と隔たりが大きいとしても、外部者がその政体を自らの理想が実現しているとみて賛美するか、己の属する政体と引き比べて理解不能さのあまり過度に差別するかは、単にそのひとの主観的価値づけにすぎない。したがって国連や米軍その他いずれかの国、集団が、言動や象徴的表現などの抽象的次元や行動という具体的次元のいずれかまたは両面で、世界のどれかの集団自治を侵害する場合、このおこないは単に安全保障を破壊するだけではなく、内政干渉による侵略の害、苦痛のばらまきそのものである。日本国内で東京都民や京都府民、奈良県民、あるいは薩長土肥ら西軍が、大和王朝の萌芽がみられた飛鳥時代以来、天皇と共謀し行ってきた苦痛のばらまきも、この自治権侵害という大悪行に他ならず、これらの内政干渉を行った公害の程度に応じて、それぞれの国や集団あるいは個人は法的、倫理的制裁を業の次元で受けねばならない。
結局、上述の自由に関する私的幸福とあわせみれば、単に私的趣味を追求する為の自由の程度と、社会保障は両立し得るのであり、自由は個人が他者に害をなさない限りの最大限の権利確保によって、保障は社会的不公平や自由市場における競合の結果生じたなんらかの不平等について最不利者へ最大の、比較不利者への累進的な調整による。因みに、最有利者への最大の負担、比較有利者への累進的負担の度合いは、それらを行ってもなお、それぞれの状態の最有利、比較有利が維持されていれば、十分なのである。自由人主義や新自由主義が誤っているのは、これらの最有利、比較有利さとは、他のより不利な人々と比べてのみ認知される状態なのだと知らないが故に、市場競争の結果生じる高所得や高収益性、高売上高、高株価、高生産性等の有能性についての指標を絶対化しているせいなのである。いいかえれば、最有利者や比較有利者が徴税され、その分が最不利者や比較不利者へ調整済みの状態でも、或る資本についてそれらの構成員らの順位付けが変動しない限り、保障の為の累進課税は十分行われるべきなのである。特に、所得格差の大きな状態では最不利者を含む比較不利者らがそうでない相手に嫉妬を感じ易く、この嫉妬感情は脳内では苦痛と区別されていない為に、何らかの努力や工夫の末にも到底匹敵しえないほど集団内での格差が広がりきっている場合に、不利な側が感じる苦痛は不幸の原因に他ならない。単に市場の問題に還元すると、管理価格の形成や談合、企業連合等で示される独占や寡占が進めば進むほど消費者利益もまた害されていくが、単に消費者に対する害だけではなく、競争相手がいない状態の優越企業は株主や経営者を主とした資本家にとっても、より投資収益率の高い投資対象をみいだす比較優位の機会を失うために、有害である。また政府の問題でいえば、世襲による血縁者支配や、特定の地域や家系、学閥などによる門閥支配がはびこっていればいるほど、公徳に欠けた人物あるいは無能な上位者が組織全体の有効性を害する場合が頻出するので、天皇や皇帝、王爵の位を含む公職世襲を廃止したり、地域、家系、学閥等の門閥による就職を無差別化する必要がある。他方で、公職の任期が長いほど腐敗し易い為にその期間を事前に制限するという法は、その集団で公徳の高い人物が単独か少数な時に、より不徳な人物が代位してしまう為、決して合目的でない。これは世襲や寡頭とも捉えられる前権力者の血縁者が優越して公徳的であった場合も含み、政治において役割を決める際に為すべきなのは、いかなる人物も公徳の質や程度に応じてその職に選ばれるべき、という厳選である。選挙や解職の手続きが滞りなく簡素化され、極めて公平公正な事が必要十分であり、これは多数支配の場合だけでなく、単独支配や少数支配の場合にも、王や貴族が何らかの手段で選ばれ、また辞める事がいつでも可能でなければならない。
幸福を大まかに分類すると、 主観的幸福、客観的幸福、またそれらの中間にある中庸的幸福に分けられ、主観幸福の本質は没頭、客観幸福の本質は比較、中庸的幸福の本質は社交である。
没頭とは或る人が夢中で熱中できる作業が、チクセント・ミハイによってflowと定義されている没我状態を生み出すことである。ここで、思考を言語や観念の抽象的行動と定義すると、没頭しているとき脳の中ではその人の学習サイクルが、ドーパミン(目標設定)、アドレナリン(興奮状態)、オキシトシン(目標達成)の循環で、広義の行動に関する難易度が快適域から大きく外れないまま(つまり難しすぎでも易しすぎでもない)、ほぼ最適化されて回されているのだと考えられる。この状態を生み出す脳内作用はしばしば行き過ぎたり、自他の生命維持に害をもたらす事もあり、その場合には嗜癖 Addictionとか、狭義の中毒 Poisningと定義されていることもあり、また日常語において何らかの嗜癖が行き過ぎて当人に害がありさえする場合、比喩的な意味で広義の中毒と言う場合もある。いずれにしても、主観的幸福はそれが何らかの自害性を含む自利ではあるにせよ、極端なら害他性や公害を伴う時もあり、このうち、自己への有益性にある程度の自害性を含むとして、自他へ共に有益な場合が最善の没頭、自己のみに有益で他に無益無害な場合を次善の没頭、自己のみに有益で他に有害な場合を悪しき没頭と定義できる。没頭は哺乳類に近似した生物にあって脳が快楽の輪を回し続ける事を指すので、ここでいう主観幸福は、非常に狭義ではむしろ快楽追求性という方がふさわしく、脳のない生物の場合は、細胞の持っている嗜癖の傾向にまで分解される。
また客観幸福は、国連が幸福度として示している指標や、各種の統計に表れている様な、他の人と比べてのみ認知される、主に物質的な状態を指す。但し、主観の介在する疑似統計、つまり価値観や好感といった印象操作が可能な誰かの感じ方の調査は、意図や見方によって評価が変動するものなので、ここには含まれない。
中庸的幸福は、或る個人が自らの没頭できる対象について、他者と比較しながら社交できる時に感じる状態の事であり、狭義ではこれが或る仲間や共感を生み出す、好ましい人間関係形成の原因である。一般にこの作用をcommunicationとか、やりとりとか、通信といい、情報はこの通信という目的を媒介するものである。
ところで、幸福を公私に分類すると、 私的幸福は自由によって最大化され、公的幸福は保障によって最大化される。ここでいう自由は個人が他人に害がない限り自らの趣味を完全に満足させる没頭経験を最大化する事を意味し、保障は自らに害をなす他者からの苦痛を最小化する法律と倫理両面からの公的保護を意味する。
具体的にそれぞれの特徴を定義すると、先ず私的幸福については、上述の主観幸福の内、自他へ有益な没頭状態を最大化する事が私的幸福の最高程度と考えられる。また最大多数の最高幸福をあわせみると、最善の私的幸福は功利性への没我であると考えられる。ここで功利性という言葉は、utilityをutilitarianisticに解釈した場合の概念であり、狭義では有用性、広義では多目的性を指し、使用 useを語源にもつこのutilityという単語を、単に自己にとって有益なだけではなく他者にとっても有益である様な状態に適用するものである。カントのいう義務は、時に自分に害があっても利他行為を追求せよと命じる点で、幸福を超越している概念であると考えられるが、この義務の功利性というものは、良心の満足という没我の究極状態として得られるのだと再定義できる。一般に、この義務の功利性を、我々は自己犠牲や献身と呼んでいる。もしマズローの欲求階層を引用すると、自己実現の上位段階として定義されている自己超越とは、私的幸福の充足の果てに、最も満たしがたい欲求として利己性の克服という、小脳の司る本能(仏教語でいう煩悩、精神医学でいう自我)を大脳の理性(精神医学でいう超自我)が完全に征服した状態が見いだされる事と定義できる。新渡戸稲造が『武士道』で定義している義の概念は、同書での義士の定義にみられるよう、この理性的な利他主義者が自己犠牲的にふるまう際に最高度の状態を指すと定義されている。切腹、諌死、仇討ちといった義行は、この義務の功利性の最高段階として嘗て侍に認識されてきたのであり、私的に解釈されるときは単に義、公的に解釈されるときは忠義といわれ、一般的には正義という言葉で定義されてきた。言語や図像、観念、身振りといった抽象度の高い概念の操作を広義の行動、具体的に自らの体を動かすという狭義の行動と定義し、これらの行動を包括して言行と定義すると、ロールズの格差原理における最不利者の利益最大化という原則は、我々が善行と呼ぶ言行一般のうち、無償で分け隔てのない森羅万象への慈しみを指す概念である、agapeに最も近い言行の理念である。つまり、私的幸福は何らかの没頭対象への極度の心酔の果てに、慈善と自らの言行が一致している状態で最終段階へ達すると考えられる。なぜなら人類のもっている脳の究極の使い方とは、単なる本能をより合理的に満たす為の社会行動の道具として生まれただろう初期の大脳を、徐々に功利性を満たすべく改良し、最後には我々が全徳の存在と想定する神的な慈善の担い手として、超人類的な進化へともっていく事だからだ。人類が聖人と見なしてきた人徳者達は、彼らの置かれた環境下での私的快楽をそれぞれの節制によって見限り、自己超越的な利他、その中でも勧善懲悪ともいわれる利他の言行に嗜癖を持っていた人々であり、しばしば救世主願望に憑り付かれてもいた。ある時点、ある場所で最不利者をさらに不利にする事は虐めと定義できるが、この弱肉強食から最も遠い人格が、慈善へ没頭する者だといえると共に、我々のうちの弱者がなぜ宗教を信じるかの訳として、聖人は自己犠牲の傾向の為に遺伝的に最希少種となり易く、同時代の同じ場所に存在する確率は極めて低いので、偶像として観念化された慈善の言行者を想定し救いや助けを求める事のみが心理的な頼りや支えになるからだ。そして人によって信じる宗教が異なるのは、彼らの学習環境下で見つけられた最慈善者が異なるからであり、無宗教の人がいるのは、この最慈善性を体を持たない単なる抽象概念と捉えているか、そもそも慈善に興味がない利己的な人物であるか、どちらかであろう。またこの抽象概念をある思想形態、考え方、Ideologieと捉えると、一切の主義や思想を信じていない人物、つまり無思想の者に大脳が働いていて成人している場合、善悪を本能を超えて判定したりしなかったりするだろうから、その言行についての矛盾度は最大であり、人類は矛盾度の高い情報量を認識できないものとみなすので、この人については殆ど理解されないだろう。無宗教かつ無思想で、単に状況に応じて考え方を変えている様な状態に最も近いのは、本能以外の嗜癖を持たない幼児の状態であり、幼児の語る事が理路から最も遠いのは矛盾度が甚だ高いからである。また、幼児を裁判官に置いた場合の社会的混乱を想定すればわかる様、無思想とは無秩序な言行を意味し、その対極にある最慈善は秩序度の最高段階を意味するといえる。さて、この秩序の度合いとしてみた慈善度を比較的なものと考えると、或る社会集団の慈善度は構成する人々の平均的な功利性に由来しているので、よりよい社会を私的幸福の面から批評すると、その構成員の内できるだけ多数が、功利性の高い没頭癖を持っている状態を指す。没頭癖の社会的側面を広義の仕事あるいはその語源である「する事」、没頭癖そのものの能動的側面を趣味と定義すると、利他度の高い趣味を評価するには他者の立場が必要だが、一般にこの趣味を極める為には他人に害がない限り邪魔や干渉をされない自由が前提となる。なぜなら誰かがこの功利性をより強度の高い段階で見いだす為には、当時一般的に考えられている低俗な趣味の傾向を逸脱する必要があるからであり、また単に私的満足だけを目的にし全然公益性がない没頭の場合についても、当人がそれを超えた私的幸福をみいだせない限り、その人にとって主観幸福を満たせるが故に有益である。自己犠牲は義務の履行に際して自害性と利他性が共に最大の場合を指し、この実践について他人からの強制は単なる拷問に過ぎないので、当人の意思に基づく自由が必要である。但し、この自由が認められる為の最低限度の条件は、他人に害がない事であって、もし他人に害をなす傾向の趣味であれば、その外部不経済の程度に応じて法的あるいは倫理的な制限が社会から与えられることになるだろう。また単に自害性を含む趣味であるなら、他人がその人に与えられるはずの公益性を縮減する程度に応じて、直接の制御から間接的な残念まで、何らかの干渉が想定できるだろう。麻薬の販売と使用や、売買の主体が共に自主的な性売買、或いは自傷癖等の自虐的な嗜癖で想定される被害は、第一に当人達の健康、経済、対人関係にもたらす自害性の程度であり、第二にそれらの行為によって間接的に起きるミラー・ニューロンの模倣効果による公害性、特に幼児等の模倣を通じた負の学習の結果、自害性のある嗜癖あるいは依存症が自他に広まる害他性、第三にそれらによって特定の人のもたらすはず公益性が減り、場合によっては不可逆的に減耗する事であるといえる。よってこれらの自由は程度こそあれ、或る個人またはその社会の共通認識として制限されるが、その制限度はもたらす公害度と正に相関しているといえる。
最後に、公的幸福である保障が意味するのは、私的幸福が快楽の積極的な最大化を意味するのと異なって、単に苦痛の最小化であるといえる。なぜならそれぞれの個人は各々何について快を感じるか、何に没頭できるか趣味が異なる傾向にあり、もし普遍的、一般的、大衆的な趣味を追求すれば、それは一部の人を余り満足させない事になるからだ。他方で苦痛を最小化する事については本能に近い程度に応じて人類一般にある程度の共通性をみいだせ、場合によっては他の生物も含めて、苦痛を感じる脳内物質、ブラジキニンなどが働く機会を抑制する事によっているといえる。社会的支援や偽薬が苦痛を和らげると経験的に仮説づけられている事から、公的支援が確実に受けられると安心できる場面では、人はより不幸を最小化できると考えられる。我々が高福祉の実現した社会にみいだしている種類の幸福のうち、最も消極的な面は、この社会保障の充実であるといえる。例えば治安維持は公害から与えられる苦痛の逓減であり、原発等の危険施設の廃止や事故を起こす可能性の高い自動車や道路についての法的統制、災害への備えは将来与えられるであろう苦痛の最小化である。ところで侵略戦争の否定を謳う憲法その他の法規は自他のうち特に他人に与える筈の苦痛を最小化するものであり、単に戦争放棄の法は、最小限度の自己防衛を除けば、戦争時に自他が伴う苦痛を事前に最小化しようとするものである。究極的戦争放棄としての非暴力主義は、それが同時に抵抗的なら非暴力不服従となって少なくとも主権の侵害や拷問によって与えられる自己への苦痛を拒否し、服従的なら無条件降伏となり想定される苦痛の回避をも放棄する事になる。また帝国主義や侵略主義を信じる者は己の行う侵略戦争を是認して自他に苦痛を与える邪悪な権謀術数主義者であり、このうち自らの侵略のみを是認し他者の抵抗や主権、自己防衛を否定する者は他人の苦痛を自らの快楽と考える悪魔崇拝者である。これら戦争に関する態度のうち、公的幸福の面からみれば、自侵略を是認し他防衛を否定する悪魔崇拝者が最悪、次悪が自他の侵略を是認する権謀術数主義者であり、無条件降伏がその次に悪質で自他に無責任な態度である。対して、非暴力不服従は十分に防衛が行えない時の次善であり、一般的な自己防衛のみを是認する戦争放棄は最善のふるまいであり、ここには侵略戦争の否定が含まれている。個別自衛の名目で侵略を行う事は侵略に含まれる権謀術数的な次悪に過ぎず、集団自衛の名目で侵略を行う事はそれを共謀する事であるから、次悪より邪悪さと罪の程度がより酷いものである。集団安全保障の名目で、国連が命じる多国籍軍が米軍と共謀し、特定の国や集団の独立を侵害したり圧力を加えている場合、それらの少数派の苦痛を最大化する事に他ならないので、悪魔崇拝的な最悪であると認定できる。この様な場合の国連組織や米軍は、少なくとも国連に属するか否かに関わらず、現に独立を主張しているか独立をめざす少数派の諸権利を認容しなければならず、独裁政権といった名目で、王政に類した単独支配を行っている集団を諸国から除外するべきでは全くない。王政か独裁政かは或る単独者が支配する政体についての主観的評価、つまり肯定的に王政と尊称するか、否定的に独裁政と蔑称するかによるのであり、これらの評価は国連や米軍の主体である外部者のみが行って十分とはいえない。なぜなら異なる考え方に基づく政体を構成員が自ら選び取っている場合、この政体が他の政体と組織において全く異なるとしても、また規律や法、風習、慣習、文化、風俗について他国や他集団の価値観と隔たりが大きいとしても、外部者がその政体を自らの理想が実現しているとみて賛美するか、己の属する政体と引き比べて理解不能さのあまり過度に差別するかは、単にそのひとの主観的価値づけにすぎない。したがって国連や米軍その他いずれかの国、集団が、言動や象徴的表現などの抽象的次元や行動という具体的次元のいずれかまたは両面で、世界のどれかの集団自治を侵害する場合、このおこないは単に安全保障を破壊するだけではなく、内政干渉による侵略の害、苦痛のばらまきそのものである。日本国内で東京都民や京都府民、奈良県民、あるいは薩長土肥ら西軍が、大和王朝の萌芽がみられた飛鳥時代以来、天皇と共謀し行ってきた苦痛のばらまきも、この自治権侵害という大悪行に他ならず、これらの内政干渉を行った公害の程度に応じて、それぞれの国や集団あるいは個人は法的、倫理的制裁を業の次元で受けねばならない。
結局、上述の自由に関する私的幸福とあわせみれば、単に私的趣味を追求する為の自由の程度と、社会保障は両立し得るのであり、自由は個人が他者に害をなさない限りの最大限の権利確保によって、保障は社会的不公平や自由市場における競合の結果生じたなんらかの不平等について最不利者へ最大の、比較不利者への累進的な調整による。因みに、最有利者への最大の負担、比較有利者への累進的負担の度合いは、それらを行ってもなお、それぞれの状態の最有利、比較有利が維持されていれば、十分なのである。自由人主義や新自由主義が誤っているのは、これらの最有利、比較有利さとは、他のより不利な人々と比べてのみ認知される状態なのだと知らないが故に、市場競争の結果生じる高所得や高収益性、高売上高、高株価、高生産性等の有能性についての指標を絶対化しているせいなのである。いいかえれば、最有利者や比較有利者が徴税され、その分が最不利者や比較不利者へ調整済みの状態でも、或る資本についてそれらの構成員らの順位付けが変動しない限り、保障の為の累進課税は十分行われるべきなのである。特に、所得格差の大きな状態では最不利者を含む比較不利者らがそうでない相手に嫉妬を感じ易く、この嫉妬感情は脳内では苦痛と区別されていない為に、何らかの努力や工夫の末にも到底匹敵しえないほど集団内での格差が広がりきっている場合に、不利な側が感じる苦痛は不幸の原因に他ならない。単に市場の問題に還元すると、管理価格の形成や談合、企業連合等で示される独占や寡占が進めば進むほど消費者利益もまた害されていくが、単に消費者に対する害だけではなく、競争相手がいない状態の優越企業は株主や経営者を主とした資本家にとっても、より投資収益率の高い投資対象をみいだす比較優位の機会を失うために、有害である。また政府の問題でいえば、世襲による血縁者支配や、特定の地域や家系、学閥などによる門閥支配がはびこっていればいるほど、公徳に欠けた人物あるいは無能な上位者が組織全体の有効性を害する場合が頻出するので、天皇や皇帝、王爵の位を含む公職世襲を廃止したり、地域、家系、学閥等の門閥による就職を無差別化する必要がある。他方で、公職の任期が長いほど腐敗し易い為にその期間を事前に制限するという法は、その集団で公徳の高い人物が単独か少数な時に、より不徳な人物が代位してしまう為、決して合目的でない。これは世襲や寡頭とも捉えられる前権力者の血縁者が優越して公徳的であった場合も含み、政治において役割を決める際に為すべきなのは、いかなる人物も公徳の質や程度に応じてその職に選ばれるべき、という厳選である。選挙や解職の手続きが滞りなく簡素化され、極めて公平公正な事が必要十分であり、これは多数支配の場合だけでなく、単独支配や少数支配の場合にも、王や貴族が何らかの手段で選ばれ、また辞める事がいつでも可能でなければならない。