以前から述べているが、わが県は東京都民や県外人からほぼ全く盲点になっている。まるでステルス状態だ。だからテレビ等でとりあげられても、彼ら都民全般の悪意の投影となっていて、我々の現実も理想も少しも捉えられていないと、都内メディアで日々実感している筈だ。
今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。
例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。
ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。