偕楽園に象徴された烈公の愛民思想を、恐らく新県知事の大井川氏は十分理解しておらず、単に経営合理性という面で県外人の有料化をはかろうとしているのだと私は予想する。もしそうなら、これは茨城県民にとっての屋台骨というべき水戸学の無理解によっているので、遠からず失政となるのではないだろうか? 私自身、水戸学を批判的に考証しのりこえようと努力してきたので、このブログも北茨城学というその後継者としての名前にしてみているわけだが、少なくとも理解した上で欠点を改良するとか止揚することが必要で、水戸学の理解を前提にしないところに議論のしようもないのではないか。
実際、茨城新聞で同記事に対して水戸の市井の人が「烈公の精神と違うのではないか」と述べているのをみた。恐らくはその通りだと思う。県外人は旧常陸国から見たら外国人だから攘夷とまでは行かずとも料金を頂戴せよという算段か。県に払われている国税から整備費を支出することにして、全国民のみならず全世界の人へ無料のまま、偕楽園の整備費を特別予算として国に計上すればいいのではないか? 差異化という意味でも、他の庭園が優良だからと民と偕に楽しむ意味を失う改悪をするというのはどうなのか? 単に整備費が足りない、もっとあれば県外人にもアピールする整備に使えるということなら、全ての出入り口で寄付を募るという形にすればいいと思う。そうすれば貧しい県外の人にとって梅の観賞ができないといった当初の精神と矛盾する事態など起きようもないし、為政者として狭量なけちさを、愛民とは言いがたいと思う。
大井川県政が烈公に学ぶとしたら、県政が今日あるのも全ての民が国税や県税を通じ彼らを養ってくれているからなのであって、その民の間に差別をするなど以ての外となるであろう。このことは道徳的にほぼ正しいと思うので、整備費が足りずに質素なものに留まっても、また国税から十分な維持費がもらえないので県税のわずかな額でこれまでより立派な施設などつくれないとしても、それが水戸徳川家の質実剛健な気風を受け継いだ正しい公共施設の精神的態度だとさえ思う。
英語等で流暢に愛民の精神を正しく伝えられれば、植民地主義の嵐が吹きすさぶ只中で先駆的に全日本の統一と近代化を実現した弘道館共々、偕楽園が世界遺産になることは先ずまちがいがない。弘道館も偕楽園も、寧ろ施設の豪華さではなく全ての民に飾らず素朴な梅の姿をみてもらうためにバリアフリー化を進める方が先決だと思う。これについても費用が足りなければ、広く出入り口やホームページ、政府広報等で寄付を募った方がいいと思う。