2021年7月19日

環境税交付金、原発加重税、茨城県・県内郡市町村の蓄電池補助金案

まず環境庁は、都道府県・郡市町村単位で、自然エネルギーの総発電量に応じた助成金をだすべきである。 その財源はCO2排出量の多い大手電力会社へ新たに環境税を科す事で補うべきである(火発、特に石炭・石油比率の多い会社に課税することになる)*1。これを仮に「環境税交付金」と名づける。

*1 https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/lifecycle_co2.html

  なおこのとき原発(廃炉決定後の工程以外)にも、「再稼働>建設過程>保有」の加重で、その額以上に、その動きが期待できない国に先駆け、茨城県・県内郡市町村が独自に課税すべきである(再稼働が最も重く、火発より運営が不利になる額の課税。建設過程・保有には海外のそれも含む。建設過程を保有より重い比率にすべきなのは、建設需要に対する抑制税だからだ。保有しているだけで廃炉に向けない限り、会社が損失するようしむけるため)。なぜならこの原発というものは、地球温暖化以上に深刻な公害を、本来避けうる人災としてもたらしうるものだからである。
 おそらく県・郡市町村がこの「原発加重課税」を実行すれば、遅れて国も類似税制を模倣してくるかもしれない。但し、自民党として整合性をとるため手間取り、かれらが野党転落(政権交代)後になるだろうが。その際、原発立地自治体への国からの補助金は、廃炉過程に入った自治体を除き、打ち切らせるべきだ。理由として、自治体側がわざわざ原発をもちつづける鼓舞を税制面でなくせるからである。
 即全廃炉を閣議決定するのがより望ましいが、特に福島原発災害の現場を知らないおもに西日本人達あるいはそれを知りつつ推進しようとしている現宮城県知事・村井嘉浩氏が、傲慢に陥って自然の避けられない脅威を知らず、或いは田舎(立地自治体住民)への悪意で脱原発の足を引っ張っているのが現状である。その状況は自民党を解党させられない限り、しばらく続くと考えられる。しかし彼らとて、上記の枠組みで46%減の二酸化炭素排出量をめざす党是に、総じて逆らう事はできないだろうから。

 このうえで、国からのこの「環境税交付金」をつかい、住宅などふくめ茨城県内に建物をつくった時、または既に建物を持っている時、屋根・屋上にソーラーパネルを設置した者に、蓄電池と購入するのとほぼ一緒になるくらいの額で、茨城県・各郡市町村から助成金を出すべきだ。
 但し、業者などが介入し、森林を植樹を前提にせず破壊するという、CO2排出量抑制にとって本末転倒な場合があるメガソーラーは、少なくとも森林部への設置に限っては、ここでは補助金の対象から除き、かつ、農地へのソーラーシェアリングおよび、耕作放棄地と、森林かそれに類した緑地面積が一定の割合より少ない土地へのメガソーラーなどは補助の対象にすべきだろう(CO2排出量抑制の観点から)。
 これで国際潮流や国の立場と一致しつつ、蓄電池とパネルによって災害に強く、生態学的に環境破壊度も低い、長持ちする県が作れるはずだ。

2021年7月18日

茨城県立図書館でやった方がいいこと

(大井川知事への返信ツイート)

いわき市立図書館はずっと前から複数の自動貸し出し機があります。
 返却も含めて、人力介さずともできないでしょうか?

 あと県北の遠いところから水戸市の県立までいくの割と大変なので、郵送・返却までポスト経由でできないでしょうか?
 仮に多少の有料でも、やってほしい。

 電子書籍ウェブ閲覧も。

 それと図書館内に新しくできたらしい星乃珈琲の設計図をみるかぎり、車いす(身障者)席がないようにみえるんですが。
 なかったら作ってほしい。

(画像は県立図書館ホームページより
https://www.lib.pref.ibaraki.jp/information/news/2021/20210717_renewal.html
https://www.lib.pref.ibaraki.jp/information/news/2021/files/20210717_cafe_map.pdf

2021年7月16日

コロナ対策は、日本より好成績の台湾に学ぶべし

日本より感染・死亡率低く抑えた台湾*1の厚労大臣(衛生福利部長)・陳時中氏いわく、

「PCR検査は金かかることもあり私は全員に必要はないと思う、台湾では症状のある人のみPCR検査を実施している。症状者は病院へ、感染疑われる人は14日の隔離。これを徹底している。
 あとはシンプルに、手洗いとマスク」
https://hanako.tokyo/news/lifestyle/204300/

*1

https://images.app.goo.gl/gJdrH7vCohBn4WP89

2021年7月13日

茨城県庁で効果にとって過大な継続費がかかる・効果が怪しいコロナ対策は費用分の効果を反証的に確かめ、漸次廃止に向けるべき

財政調整基金(県の貯金。財調)の取り崩し比率が一部の都道府県で高くなっており、茨城も全国で3番目に非常に高くなっている、という報道がある。

https://asagaku.com/chugaku/newswatcher/19041.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/62705
https://www.tokyo-np.co.jp/article/107590
https://www.tokyo-np.co.jp/article/107588 

 第一に、行動変容論は私権に一定の埒をはめる方法論にすぎず、緊急事態とはいえ、本質的に自由権への侵害の疑いもある。

 第二に、仮に人道主義を無視して巨視的に見ると、高齢者が死去する事で世代交代が手早く起きるので、実際にはマクロ経済(ここでは経世済民の意味ではない。単なるエコノミー)指標を改善する可能性もある事例であり、貯金をすべて使い果たすのは望ましくない。

 よって、ここで最適なのは次世代への県資産のたくわえを相続する事もかんがみた、「実証的証拠を伴い、確実に人命救護に効果的」な対策、かつ、(感染者などでやむを得ない場合を除き)一般の行動変容論など私権に制限を加えない範囲に絞った、中庸のコロナ財投態度だといえる。

 知事選を控えていて、今の世相だと、仮に公約で前知事へうまのりしてきた多選防止の方針転換になろうと、大井川氏で続投されると思われる。

 だとすれば、81.2%も財調をきりくずしているらしい今の県政のコロナ財投態度は、考え直すべきだ。
 端的にいうと継続費用のかかる対策・費用分の効果が怪しい対策は、実効再生産数(感染拡大率。1超過で拡大期、1未満で縮小期)をみながら漸次廃止に向けるべき時期がくるだろう。現時点の茨城の実行再生産数は1.05で、全国1.18より低く抑えられている。仮に何らかの原因で拡大期が再び続く様なら、再度その種の対策を復活させる事も考えられるが、その際は世界中の事例を観察し、最も効果があるが最も費用のかからない方法を考えるべきだろう。
 以下今の時点で私にみえる、県行政がなすべき対策を列挙する。

基本対策

a. 「マスク・手洗い・換気・顔の周りを触らない」など、個々人にできる医学的根拠をもつ対策について、全年齢にわかりやすい冊子などを学校・各世帯に配布し、何をすべきかを認識してもらう

行政側

b. 密になる社会接触を減らす行動変容の必要度を示す段階(ステージ)対策を、引き続き、茨城新聞などとタイアップし公的に掲示・各自治体に通知する

c. 継続費用のかかる対策・費用分の効果が怪しい対策については、反証的データ(仮説として「どれほど効果がないか」の調査)から現実の効果を確認し、状況を見て漸次、廃止していく(追記:いばらきアマビエちゃんは経費120万(うちシステム自体60万円)らしく、維持費かからないかもなので、維持すべきか)

d. ワクチン接種の際、順序(医療者・高齢者・疾患者の順)を含み、混乱を招かないよう、徹底的にだれもに分かりやすい受付づくりに徹する(場合によっては競争入札で民間委託)

e. 保健所へ在留外国人などへの憎悪表現・差別を防止するよう通知する 

f. ロッキンジャパンフェスや五輪サッカーなど大規模イベント中止・延期などに関し、県医師会や県民への憎悪演説(差別・誹謗中傷を含む)を防止する啓蒙活動を、国会・県議や内閣・警察庁とともに、県警が講じる
(SNSや公共CMなどで注意喚起。条例・法令で日本人へのものを含む憎悪演説を、刑罰・罰則つきで規制など。SNSの広がりで、今後、憎悪演説の被害はますます増えてくる可能性が高いので、この際、県警に具体的な憎悪演説に、専用相談・対策部を設けるべき)

 以下過去記事から模擬・証拠つき対策を再掲。

ーーー

 2020年3月1日の時点で、筑波大、倉橋節也教授のAI模擬では

入院患者数が減る割合
▽職員の半分をテレワークに 15%
▽職場や学校で人との接触を避けた 11%
▽全校を学級閉鎖に 7%
▽時差通勤を行う 5%
▽電車内で人との接触を避けた 5%
▽発熱後に自宅待機した 1%
となっており、
倉橋氏「…1対策だけ行っても、効果は薄い。…有効な対策を組み合わせて徹底することが重要」

と、複数対策をすべて組み合わせることが有効とされていた。また、

ワシントンポストの模擬によると、隔離戦略より寧ろ社会的距離戦略(不特定多数との対人接触頻度を下げる事)の方が効果的に、感染者数を減らせる様にみえる。

 個々人にできる医学的根拠によるコロナウィルス(コロナ)対策案

「マスクと手袋して、
顔まわりいじらない、
手洗いと換気して、
ひとごみちかづかない」

1.コロナはどこかについていたのを手で触り、そのまま顔まわりをいじり、吸い込んだりしたとき接触感染が多い
→ 帰ったら丁寧に手洗いする、外で使い捨て手袋・マスクをし、帰ったら密閉し捨てる(足りないなら煮沸消毒で再利用)、かつ、外で口・鼻・目周りをいじらないよう注意する、などがおもな対策

2.コロナは水について飛ぶので、水がなくなると感染しない。例えば唾を飛ばす距離の密室が危険
→ 人との距離が唾がかからないほど遠いところなら安全。また、一定距離で人と接するなら、空中の水分をはけるため部屋を換気する(通称「エアロゾル(煙霧体)感染」の防止)

3.コロナは極めて小さく、空気感染はしないので、マスクは感染者が唾をとばしたとき顔周りにかかるのを防ぐ程の効果(飛沫感染の防止)
→ 全数検査以前には自分が感染者かわからないため、公共マナーとして、自らの唾を飛ばさないようマスクはつけておくべき
(1.の口・鼻・目周りをいじらない効果もある)

2021年7月10日

ひたちロックン公園案

ひたち海浜公園に常設ステージを設け、そこを24時間365日、自由に演奏可能なロックの聖地にする。

 愛称もひたちロックン公園 Hitachi Rock'n Parkにする。

 コロナ禍でロッキンジャパンフェスを2回中止せざるを得なかったからには。
 ひたち海浜公園の持ち主である国は。それだけのことは世界の若者らの為にすべき。

 県やひたちなか市にとっても悪い話ではない筈! 魅力創設で!
 いづれ夜回りとかで警備問題がでてくるかもしれないが、その辺はロッカーの良識に期待して、なにかしら問題起きてから消極策でいいかと思う。事前に考えておくとして、ひたちなか署が公園派出署を新設する事くらいじゃないか。
 基本的に放任主義で、使うミュージシャンら自身に任せた方がいいと思う。最低限度の音響設備を設けていつでも好きに演奏していいよ、という場所だけ用意して。そしたら演奏の順序とか場所取りとかも勝手に組織される様な気がするし。

2021年7月9日

五輪観戦時、基礎疾患等を抱える子供への特別な配慮について

(大井川知事へ送ったツイート)

@k_ooigawa 以下の厚労省資料・BBC報道によると、

1.命に係わる疾患、基礎疾患、神経系障害がある子供については原則観戦させないよう保護者等に要請
2.仮に1.の基礎疾患等の子供が観戦したがった場合、教育委員会・保健所・県としても医師を同行させるなど、特別な配慮

が必要かと。

以下データまとめ
・新型コロナによる日本での10代20代の死亡率は0%
・イギリスでは命に係わる疾患、基礎疾患(特に神経系障害)を抱えていた場合、確率は0.00005%と非常に低いものの死亡例あり
・陽性発覚後べつの理由で死が少数

https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-rate/

https://www.bbc.com/japanese/57773186

以下詳細
BBCの報道(ユニヴァーシティー・コレッジ・ロンドンと、ヨークとブリストル、リヴァプールの各大学による世界で最も包括的とする研究)によると、子供のCOVID-19の集中治療率は5万人に1人、死亡率は200万人に1人。
 若年層について
・死者の大半が命に係わる疾患、基礎疾患あり
・25人中13人に神経系障害
・陽性発覚後、別の理由で死が36人

2021年2月までの1年のイングランドについて
・絶対的なリスクは低いものの、肥満の子どもや、心疾患、神経疾患を抱える若者は入院するリスクが最も高い

2021年5月27日

2021年5月26日づけ茨城新聞23面「県民の声」についての意見

まとめ

相撲は外国人差別をおこなうべきではない。
 日本の相撲史を辿れば、中世に於いてずっと女相撲がおこなわれてきただけではなく、もとが『日本書紀』14巻で雄略天皇による女官を褌で喧嘩させた戯れ事同然の逸話から始まっている。明治・大正期に当時の男尊女卑的な政府にあわせ、かつ国教化された神道にすりより、「大相撲」なる興行試合を国技と権威づけた日本相撲協会による恣意的な判定が、日本人力士への不当ともいえるひいきの文化的背景だが、その反面、外国人への人権侵害になりかねない憎悪演説しぐさも特に一部の大相撲ファン層の空気として、現に有る事を見逃すべきではない。
 将来的に日本の相撲は、巡業する興行「大相撲」とはおそらく別の、国際競技「スモー」としてより洗練された形にならねばならず、そこでは一切の差別なく、神事ぶった精神論も取り除き、飽くまで公平なルールの下で、参加者万人の技能が純粋に競われる必要がある。

目次

1 憎悪演説(ヘイトスピーチ)解消法に触れる可能性のある茨城新聞紙面上の「県民の声」掲載について

2 今後の相撲論

 

1 憎悪演説(ヘイトスピーチ)解消に触れる可能性のある茨城新聞紙面上の「県民の声」掲載について

 今日(2021年5月26日)の茨城新聞の県民の声で、「外国出身力士」と国籍で力士の資質を疑義している文面があったが、いわゆるヘイトスピーチ(hate speech、憎悪演説)解消法に触れるのではないか。

本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(以下、通称で「ヘイトスピーチ解消法」)
(定義)
第二条 この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。

(基本理念)
第三条 国民は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性に対する理解を深めるとともに、本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。
―――
参考:なお、ヘイトスピーチとは、法務省によれば例えば
(1)特定の民族や国籍の人々を、合理的な理由なく、一律に排除・排斥することをあおり立てるもの
(「○○人は出て行け」、「祖国へ帰れ」など)
(2)特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えるとするもの   
(「○○人は殺せ」「○○人は海に投げ込め」など)
(3)特定の国や地域の出身である人を、著しく見下すような内容のもの   
(特定の国の出身者を、差別的な意味合いで昆虫や動物に例えるものなど)
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html

 今日の県民の声の投稿者・渡辺希代子氏が、荒磯親方(稀勢の里)を褒めたいのは分かるが、わざわざそのためにほかの力士を貶す必要はないし、それだけでなく力士らの出身地・国籍をあげつらうのは、現時点の日本や国際社会では、法的・人倫的にもはや少しも許されるべき事ではない。
 ある力士の資質は、出身地や国籍によっているのではなくかれらの個性によっている筈で、もし外国出身でも心から立派な力士もいれば、日本出身でもまことに不道徳な力士も当然いるのではないか。

 すでに発行済みの新聞なのでその部分を削除できないのなら、明日の新聞紙面で、とばっちりによって不当な差別に晒された外国人力士や国内に住まう外国人の方々へ公式の謝罪と、当該記事の訂正をおこなうべきではないか。
 そしてこれらがおこなわれないのなら、本日の茨城新聞紙面の「県民の声」欄は、わが国の上記の法律へ恐らく自明に触れているのだから、日本国(法務省)や茨城県(保健福祉部福祉指導課人権施策推進室)へ我々県民自身が通報しなければならず、二度と同じ犯罪が行われぬよう、以下ヘイトスピーチ解消法4条にのっとって茨城新聞社が行政から公然と注意勧告を受ける必要があるのではないか。

ヘイトスピーチ解消法
(国及び地方公共団体の責務)
第四条 国は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関する施策を実施するとともに、地方公共団体が実施する本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関する施策を推進するために必要な助言その他の措置を講ずる責務を有する。
2 地方公共団体は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとする。

2 今後の相撲論

 吉崎祥司、稲野一彦 『相撲における「女人禁制の伝統」について』(北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)59巻1号、71から86ページ、2008年8月)によると、相撲が天皇と関係していたのは『日本書紀』に雄略天皇が采女による女相撲をとらせた、と記述がある点で事実らしいが(以下詳述)、吉崎氏らの論考で現実の相撲史を辿る限り、渡辺氏が考えている様な「人間としての作法を学ぶ」道徳的行事だったとは到底いいがたい。その実態は興行、つまり見世物であり、特に江戸時代におこなわれていた女性と盲人による、今日の目では公然猥褻かつ人権侵害的な要素がある合併相撲の記述には驚くべきものがある。特に江戸中期にあたる1769年(明和6年)頃、江戸の浅草寺の境内で催されていた女性・盲人の合併相撲の最中に、観衆ともども集団強姦の類が常習化しつつあったので、幕府の寺社奉行所から取り締まられた事実があったのは、今日の相撲協会がその行事の出自にまつわる実態を「神事」にあると言い繕ってことさら美化し、隠蔽したがっているだけの事はあるだろう。
 要するに相撲のうち、特に日本相撲協会が「大相撲」の名でおこなっている興行は、明治政府の男尊女卑や神道政治の風潮に媚びる形でごく最近成立してきた、相撲史全体では実ににわかな分類でしかないらしい。明治17(1884)年に天覧相撲(天皇の見る相撲)がおこなわれたことをきっかけに、当時の国粋主義の風潮にあわせ、明治42(1909)年それまで江戸・東京の回向院でおこなわれていた相撲の為に専用の格闘技場を建設する際、初興行披露状を書いた作家の江見えみ水蔭すいいんによって捏造されたのが「国技」という概念だった。
 この後は、軍国日帝の風潮の中で、中世では随分酷い様態だったのに、進んで国技とみずから称する(見方によっては興行の権威づけ目的にそうと僭称する)相撲があれよあれよと持ち上げられ、遂には神道の儀式に自己同一性を求めてきたのが、この日本相撲協会側だといっていい。
 正確には、神道の中で初出する相撲の語は、残虐な傾向のあった雄略天皇が、木工だった韋那部 真根イナベ マネの仕事の正確さを試す為、命令に応じて女性官僚らを裸同然にし彼の前でたわむれになぐりあわせた、結果的にイナベは見とれてしまって処刑寸前までいった、という話にすぎないのだが。ちなみにこの『日本書紀』の箇所では文脈上、「相撲」があい・たがいに なぐる、という文字通りの漢語の意味で使われていると考えていいだろう。以下に該当箇所の拙訳・本文を載せる。これが今まで知られるところ日本史上で初めて相撲の語が使われた事例である。
現代語訳
『日本書紀』14巻 おおはつせ・わかたける・すめらぎみ 雄略天皇
(前略)
 秋になる9月、木工のイナベ・マネが石のもとで斧を揮って、木材を断っていたが、一日中やっていても、誤って刃を傷つけることがなかった。
 陛下がそのところへ遊びに詣でると、怪しんで問うて、のたまわった。
「いつも間違って石にあたらないのか?」
マネは答えてのたまわった。
「ついに誤る事はないのです」
 すなわち陛下は女性官僚をよびあつめると、下着を脱がしふんどしをつけて使わせ、露わなところでなぐりあい(漢語で「相撲」)をさせた。これに於いてマネは、しばらくとまって、仰視しながら木を断っていると、不覚にも手を誤って、刃を傷つけた。
 陛下は、ちなんで責めなじってのたまわく
「どこの奴だ。朕をおそれず、不貞に心を用いおって、みだりにたやすく軽々しい答えをしおって」
よって刑務官にまかせて、マネを野原で処刑させようとした。
 ここに同伴したうまい者がいて、マネをたたえ惜しんだ歌を作ってのたまわく
あたらしき イナベのたくみ かけし墨縄 しが無けば 誰かかけむよ あたら墨縄
(惜しい、イナベの名工がかけた墨縄、それがなければ、だれがかけるよ、新しい墨縄を!
※惜しいを意味する「あたらし」と、新しいを意味する「あたら(し)」をかけている)
陛下はこの歌を聞くと、かえって悔いや惜しみが生まれくずれ嘆いてのたまわく
「人を失うぎりぎりのところだったか」
すなわちもってゆるして使わし、甲斐の黒駒くろこまこと山梨産の駿馬に乗って、処刑場へ馳せ詣で、これをゆるし止めさせた。マネにかけられていたロープをほどくと、ひきかえし歌を作ってのたまわく、
ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍せば 命死なまし 甲斐の黒駒
(漆黒の甲斐の黒駒に、もしのんびり鞍を着せてから処刑場に向かっていたら、マネの命はもうなかっただろうに、なあ甲斐の黒駒よ!
 或る本には「命死なまし」にかえて「いかずあらまし」、もう及ばなかったであろう、ともいうなり)
(後略)

本文
『日本書紀』巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
(前略)
秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶。」眞根答曰「竟不誤矣。」乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰「何處奴。不畏朕、用不貞心、妄輙輕答。」仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧者、歎惜眞根而作歌曰、
婀拕羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺皤 旨我那稽麼 拕例柯々該武預 婀拕羅須彌儺皤
天皇聞是歌、反生悔惜、喟然頽歎曰「幾失人哉。」乃以赦使、乘於甲斐黑駒、馳詣刑所、止而赦之。用解徽纒、復作歌曰、
農播拕磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨
一本「換伊能致志儺磨志、而云伊志歌孺 阿羅麻志也。」

(後略)

 一方、吉崎らが上記論文でのべているとおり、神事こと神道儀式として大相撲の明白な起源といえるのは、平安時代初期にあたる821(弘仁12)年の相撲節、なのだろう。論文中でも詳細に触れられているが、この相撲節は殆ど褌一丁まで武装解除させた地方人らに天皇の前であえて喧嘩させ、天皇がその勝者をほめることで武力なしに中央政府の威厳を知らしめる儀式であり、目撃者らの間で絶対権力を持つ中華皇帝・天皇への服従欲を高める宮中祭祀だった、と考えていいと思われる。実際この後、少なくとも鎌倉時代になっても源平合戦の勝者に将軍宣下を行うという形で、この儀式が意図していた中央集権体制は、形の上だけとはいえ有効なままだったのである。

 相撲の五輪競技化をめざす国際相撲連盟の方は、大相撲を国技をかねた興行として神道の元で権威づけたい日本相撲協会とは、だいぶ違った目標をもっているといっていいだろう。そして現時点で、世界に広まりつつあるスモーは、渡辺氏がいうところの「別の格闘技(競技)」であり、むしろそちらが本来のスポーツ(sportたち。戯れ、遊戯)としての相撲だといっていい。それが運動競技でありうるのは、飽くまで勝負をつける目的で体を使った一定のルールのもとにある遊びだからであり、実際のところ、なんら背後に神道教義化された儀式などは必要とされていないといってもいい。具体的には、日系人が移民してスモーが伝わったブラジルでは7割がすでにブラジル現地の人々が行うアマチュア競技となっており、しかも日本へ渡航し大相撲に参戦することが途上国で相対的に貧しい彼ら一般にとっては高給取りとなる為の正規の出世、かつ、故郷へ錦を飾る恩返しルートなのである。そこでは女相撲も当然の如く行われていて、これが上記『日本書紀』で雄略帝の命令による女官同士の喧嘩ごっこの場面が日本での「相撲」の初出なとおり、女が(女も)行うという点で或る意味ではだが、従来の日本でもずっと相撲の姿だったらしいのだ。
 勿論、要素として、大相撲が明治以後に自分達の興行を権威づける目的で作っている土俵のありかた(その中に、薩長土肥の藩閥が天皇専制下で寡頭政をとっていた明治政府に媚を売る形ではじまった、万世一系論風の女人禁制が含まれる)とか、色々な儀式で、さも伝統めかした事柄が語られる事がある。これらはほとんどが日本相撲協会の作っている虚構であり、興行を盛り上げるため伝統めかした近代の作り話といっていいだろう。上述論文のとおり現実の相撲は、中世の間中もっと卑俗な興行試合で、神事としてのそれも、飽くまで中央集権の強大さを形の上で印象づけるため官僚や地方人らを裸一貫で卑しめる中華皇帝・天皇による一種の見せしめだったのである。

 また、上記論文にもでてくるが、大乗仏典にあたる『法華経』こと、『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』の鳩摩羅什による漢訳書である『妙法蓮華経』の安楽行品、第十四では、「相撲(あいなぐること)」が、事実上の凶悪な戯れの喧嘩という漢語の意味で、具体的に禁じられている。Burton Watsonによる同著の英訳"The Lotus Sutra"では、「ボクシングかレスリング」という形で意訳されている。
 仏教や修験道とも相撲は縁が深かったことが上記吉崎らの論文には記述されている。しかし大乗仏教の一部では、漢訳の意味ではあるが、具体的に危険な身体的な抗争の様なことは心の平穏をめざす仏教の本質からいって忌避される事柄でもあったのだ。日本ではこれにもかかわらず、神仏習合の中で、国内の寺院を興行場所につかっていた時期が中世の間あったのである。

 こういった経緯を踏まえると、将来的に、日本相撲協会は一応の所いまの地球で唯一、商業的に成り立つ専門のスモウレスラーによる巡業を確立させている組織ではあるが、過去の女性差別的な態度を改め、あるいは「国技」という出過ぎた自称についても疑義を呈される日がくるであろうと思う。なにしろ、これは江見水蔭という一人の小説家による興行目的の権威づけキャッチコピーにすぎないのであり、実際の相撲の起源といったらバカ殿がたわけて猥褻で女官に舞わせ、わざと男性職人にみとれさせ、それをとがめて首切りしようとしていた、なる、リアル志村けんみたいなことを21代雄略帝とやらがやっていた、とんでもない逸話に遡れてしまうのである。これがおふざけでなければなんだというのであろうか。こんなことで死刑にされかけた方も悲しければ、やってる天皇とやらも完全に悪い冗談でしかなく、諸々のヤクザの中でも極めてたちの悪い部類だといわざるをえまい。そんなのが「国技」とか、大相撲が手段を択ばず興行収入をあげたい、なかば無理に自分達の競技を格式づけたい事以外、何も示してきていないというべきではないのか。
 勿論、日中戦争のさなかに生を受け、戦後におこなわれてきた大相撲だけが、ザ相撲だと思っていらっしゃるだろう渡辺氏に、無知の罪を帰すのは簡単な事だ。しかも外国人差別とか、憎悪演説(ヘイトスピーチ)とか、異人恐怖(xenophobia、ゼノフォビア。外人嫌悪)という概念そのものが、彼女の生きてきた一生の中では極めて最近でてきた外来思想で、国際化していく運動競技スモーの時代に着いてこれてないだけだろうと思う。同じ事は大相撲を巡業している日本相撲協会や、そのファン層の大半にもきっといえるわけだが、正直、時代遅れの蛮行をいつまでも続けているのは不可能というべきだ。たとえどの国出身だろうと競技としてのスモーがすばらしければ、それ以上なにも求めるべきではない。だって、そのスモーは、起源からしてもとがひどい話なんだから。
 当然ながら、国際相撲連盟らは、日本国内で女相撲も遠からず解禁すべきことは確かである。それを日本相撲協会側の大相撲という興行の形でやるかとは別に。

 国際競技としてのスモーは、神道と分離されなければならない。そのとき、かつての大相撲ファンだった渡辺氏の様な方は、もうついてこれなくなっているかもしれない。でも渡辺氏の信じてるそれって、明治から平成・令和期くらいまであった一過性の現象で、実際には、それより遥か前からスモーなるものは、飽くまで野蛮な戯れだったのである。

 なにか渡辺氏による県民の声では「相撲道」とかいう言葉が使われているが、これ、敢えて言うべきなら、『武士道』ではないか。しかも新渡戸稲造が同名の英語の著作を書いた事で、立派な武士道が定義されたものの、これだって戦国期なんて十分に儒教だの水戸学だので道徳化されていなかったに等しい。幕末の時点だって薩長土(薩摩、長州、土佐)はじめ外様大名下の侍は平気で恐怖政治しまくりだし、そこには勝てば官軍の海賊ルールしかおよそ何もないのである。水戸武士道は水戸学があったから、尊王論で一致しつつ、防衛戦争(攘夷)即時実行の可否や、皇室・政府のどちらをどう立てるかの議論をめぐって、急進派(天狗党)と保守派(諸生党)で二大政党の政権交代みたいな事を、武士の大義を懸けとことんしていたわけで。西日本の果てから政権簒奪を狙っていた薩長土での、道徳無視なんでもあり権謀術数主義に近い戦国期同然の外様武士道みたいなものと、その内容がまるで違っているといえるが。
 要はなになに道と名づけた時点で、日本語でそれはなんらかの哲学体系の色彩を与えられているのだろうが、相撲がそんな事いいだすなんて、相撲史に照らすと随分おかしいのではないだろうか。ただでさえ外国人差別に近い言動をとってる時点で思いやりなんて0なのは渡辺氏の方ではないだろうか。相対的に貧しい国からいまのところ世界一大金持ち(対外純資産1位)の日本にきて、スモーの実力で高給取りになり、故郷のより貧しい家族・親族へ孝行で送金することって何か間違っているのだろうか。その興行では、神道の教義なんて、漢語で「あいなぐる喧嘩」を意味するスモーにとって元々、後づけなのである。それだけでなく、この渡辺氏による県民の声では、一種のひねくれた攘夷論が復活しているといっても過言ではない。外国人嫌悪を表明する目的でスモーが不当に援用されている。

 もし日本が道徳的に誇るべき国なら、他国の人々に独特の道徳や、特有の文化を、世界中どこにでもありうる多様性の一部として尊ぶことこそあれ、日本の過去の道徳あるいは自分の信じるそれへ、無理にあわさせようとすらしないのではないか? むしろ朱舜水という明の外国人学者を招いて、徳川光圀こと義公が彼の朱子学を批判的に摂取し、水戸の道徳だって随分変わってきたのではないか?

 まー渡辺氏がいいたいことに、飽くまで彼女の確証バイアスではあるだろうが全く論拠がないわけではなく、おそらく朝青龍が暴行事件おこしたことあった件とか、白鵬はじめモンゴル勢が余りに強すぎるとかで、ウィンブルドン効果の中で散々民族主義的な自尊心を痛めつけられてきた戦後勢が、遂に地元出身の名力士誕生で歓喜し、いよいよ攘夷論じみた外人差別同然の挙に及んだというのが事のあらましではないか? 憎悪演説まで行ってないというかもしれないが、くりかえしますが外人だろうが倫理的模範もいれば国民だろうがろくでなしもいる。というかハーフとかクオーターとか混血しつつ途中で移民してきたとかもあるだろうし、血筋はずっと日本なのに日本文化を何も知らない外国育ちの日系人が移民してきたりもあるだろうし、勿論、日本人で立派なのも外国出身でひどいのもいるだろう。だったら国籍とか出身地・門地で不当に力士を区別してみるのは、一部の大相撲ファンの国際感覚のなさ、そしてお行儀の悪さしか示していないというべきではないか。人種差別主義者のあつまりなのだろうか? 大相撲ファンって。僕はちっともスモーファンじゃないから、大相撲ファン層の実態にそこまで詳しくはないものの、概観してるに、どうみても神道系右派、というかやばめの極右にかなり近い精神構造の人達が多いんじゃないだろうか?
 人種差別的競技なんてあってはならない。それは神道が勝手にやればいい話と思うかもしれないが、それらすべてが、憲法や国際条約のもとになければならないのだから、いまの日本相撲協会はこの世ですでにひとときたりとも成立しえない男女差別の教義を公然と述べている団体というべきだ。救命していた看護師の女性を土俵から追いだそうとした件とか。
 稀勢の里をやたらひいきしてたのは、そういう差別的な考えを背後にもっているファン含め、大相撲業界の期待に応えて貰いたいという何らかの横綱審議委員会だかなんだかの事情があったんだろうが、それだって、出身地だか遺伝子だかによる人種・門地・国籍差別が暗にあったにすぎないんだから、全然ほめられたことではないだろう。それが運動競技であれば、全選手は一定のルールのもと公平に評価してしかるべきだからである。
 かれら大相撲関係者が現憲法・国際法下でやっていいのは、飽くまで力士としての各個人への客観的評価だの応援だのといった法の下に平等な行為だけである。
 無論、稀勢の里には道徳的に日本人の琴線にふれるところはあったのだろう。苦労して出世したあとで、とんでもない形で優勝、あまりの人気に怪我なのに無理して再出場したもののやはり体が潰れてしまって引退という、単なる横綱としての強さでは微妙ながら劇的な展開をみせた力士人生だったから、自己犠牲や潔さを尊ぶ武士道精神に一致していたのだろうと思う。それは実家のある故郷の茨城県龍ヶ崎市だか同県牛久市だかに潜在していた水戸の武士道が暗に育んだものかもしれないし、そうでなく、もっと別の要因か、純粋に彼個人の資質だったかもしれない。しかし、我々現代人は、それを彼の人種とか門地とか国籍のせいにしてはいけないのである。精神性・思想背景の文化的な分析自体はしてもいいかもしれないが、優生学とか国籍差別とかに至ることなく、飽くまで彼個人が優れていた、と評価すべきなのだ。当然ながら、外国出身・外国籍の力士らへも同じ事がいえる。

 敢えて言っておくと、「礼儀」「相手を思いやる心」「感謝」「人間としての作法」を最初に学ぶべきなのは、渡辺さんご自身ではないのか。それらの道徳的感覚を外国人・外国出身力士らへ、日本人力士と同等に持てていないからこその、彼女の傲慢な自民族中心主義の言いぶりなのである。外国人にそれらがないなんてありえない話である。単に文化習慣が違うだけかもしれないし、思いやりを表す方法が彼女の信じるものと異なるだけかもしれない。万人は平等に人なのである。
 もうお婆ちゃんだからしょうがないんだというかもしれない。でもわざわざ県民の声に載せることはないだろう。勿論、一人の県民の声にすぎない。だからって、ヘイトスピーチ解消法に違反していて、それどころか、人権侵害に他ならない時代遅れの外国人嫌悪じみた言動を或る新聞社やその読者が放置するのは、人道に反する。

2021年5月23日

茨城独自の新円となる仮想通貨を作り、国の財政再建を仮想通貨為替市場での調達網にのせる必要が絶対にある

茨城県は茨城円または日立円をイーサリアムのしくみを基本に独自に作って、これを使って市場から県債を調達したり、県内での福祉給付の支払いをしたりすべきだ。これとあわせ茨城では金融自由化を推し進め、今後とも仮想通貨(暗号資産)取引所や特別税制において特権的地位を占めるよう国に、仮想通貨を含む投資ならびに為替取引に関する茨城への最大限の規制緩和を強く働きかけねばならない。
 この通貨は取引を行政が監視できるので、覇権的地位を占める事で脱税防止にもなる。

 たとえば茨城では為替取引に関して業者にゼロカットを義務づけ、国外投資での二重徴税にかかわる払い戻しもデジタル手続きで自動化(もともと金融会社に納税を義務づけず)し、租税制を簡素化しなければならない。将来的には投資・為替取引に対し茨城県内での税率漸減をはかり、世界のライバル国に比べ起業や商売を圧倒的にし易い環境を整えねばならない。

 日本政府はネムのハッキング事件以後、金融庁が余りに理解や対応に遅れ金融立国に出遅れる形になっているが、このままだと、現時点ではアメリカが仮想通貨の覇権をとることになってしまう。基軸通貨を握ることが今後の世界展開にとってカギなので、円に代わる仮想通貨をつくり国自体を支えられなければ、今後の日本円の地位は低金利の中で低下していくだけになるだろう。
 しかしこの新通貨が覇権もしくはビットコインに次ぐ2位までの時価総額をとることになれば、その仮想通貨による県の持ち分に関する発行収益だけで、過去の国の負債をすべて清算できる可能性がある。旧円を廃止し、この茨城新円・日立円にきりかえればいいのだからだ。これだけが、日本国の財政破綻を防ぐ最後の一手であることに人々は気づく必要がある。

2021年5月22日

南中郷津波避難ビル計画

南中郷駅周辺の住民が、津波時に避難できる高層ビルを、北茨城市は建設すべきだと思われる。これは最低でも3階建て以上でそれより高い部分が避難場所になるようでなければならない。
 これは屋上を謎の閉鎖してある――運営者による落下防止の意図なのかもしれないが、その為に建築基準法は手すりの高さを既に規定していてクリア済みなのでやりすぎだし、憩いの場として得られる公益をわざわざ削ることに比べれば、屋上を設けてある意味がない――北茨城市立図書館や市役所についてもいえることだが、屋上階も普段から市民に開放し、自分達の町全体が見渡せる事、「国見」できることが、郷土愛をはぐくんだり郷土の魅力づくりという意味でも必要だろうと思う。

 思うに普段は中郷にかかわる郷土資料館・図書館分館、集会所の形を兼ねる様なものがいいのではないか。そうすれば中郷辺の住民が集会を開くときに使えたり、子育て時に訪れたり、そこで憩いをとれる場がつくれるはずだ。

2021年4月8日

血中メラトニン濃度差による日周指向性に基づく夜型個性への政府ぐるみでの拷問の罪について

結城市立の結城南中学校が、早寝早起きという生活習慣を生徒に強要して文科省から表彰されたとか出てるけど、恐らく遺伝的に人によって朝型かどうかは違うので、明らかに夜型の人にこの生活様式を義務教育の範囲で強制することは憲法で定める拷問の禁止に反している。文科省も愚だけどもそれだけ科学的な思考を欠いている人が教員として科学教育をしている状態も恐ろしい。すぐに文科省も結城南中も人権侵害の重罪装置として解体すべきだと思う。

2021年3月20日

原発再稼働が日本原電(東京都千代田区)による人権侵害とする判決自体は正しいが、近代合理主義や科学主義に基づく科学哲学解釈の部分には明らかな誤りがみられる

東京千代田区の会社・日本原電が、茨城県におしつけている原発を、県民総勢は公害だといってやめてくれといっているのに無理やり再稼働させようとしているその意図は間違いなく拝金主義であり、同時に、人権侵害である。端的にいえば「とある県民の命とひきかえに俺たちの金を搾り取れ」というのが日本原電が東電ら大手電力会社並びに、東京都庁や日本政府をおもとするその株主たちと共謀している、一大重大犯罪である。

 よって水戸地裁の前田英子裁判長の判決の結論自体は、「(日本原電による東海第二原発再稼働は、)人格権侵害の危険がある」という点で全く正しい。
 しかし、その詳細を読むと必ずしも結論を導き出す過程が正しいと言い切れない部分がある。結論は正しいのだが。

 第一に日本政府(原子力規制委員会)・日本原電側の地震・津波の想定に不合理な点がない、と前田氏は言っているがこれは誤りだ。
 現代の地震科学をある程度以上にやって、かつ、その科学哲学を批判的に考察でき、また福島の前例をみれば確実にわかる事として、現代の地震科学は極めてにわかづくりのもので地震や津波について「想定」を作ってもそれが現実とは大幅に違うモデルになっていることが自明である。その地震科学的な想定が何もかも覆った、すなわち誤りだったからからこそ福島原発事故が起きた。科学は真理ではない。単なる仮説の集まりだ。
「東日本大震災と同様の地震動が茨城沖で起きると想定できない」という日本政府・日本原電側の主張は噴飯ものであり、どんな物理的模擬でも、事前に将来に想定する要件を入れていなければどんな仮説でも作れるのである。例えば現代の地震科学内では、発生前に起きうる地震の予想は原理的にできていないのであり、できていることといえば過去の地震の発生率から信憑性の非常に低い「仮説」として、一定期間後に似た様な地震が起きるのではないか、というあてずっぽうに限りなく近い想定だけなのだ。またこの地学者らのする地震のあてずっぽう予測には、地下でプレートが動く事でそれらのずれで地震が起きる筈だ、という前提を置いているが、はっきりいって、これが真に地震の原因だと断定できる根拠もなければ、それらの動きは複雑系であって捉え切れていない。
 いいかえれば「地震が起きる前にどこでどの程度の大きさのものが起きるか」ということは、現代の地震科学では占いレベルのことしかいえていないのである。だから想定によっては茨城沖ないし茨城県界隈でどんな震度の地震が起きてもおかしくない。
 また例えばまったく想定外の事態として全く別の原因、具体的には隕石・何らかの巨大飛行物体落下とか、太平洋沖での大規模地震の余波で、茨城に同様の大地震が起きる可能性は誰にも排除できない。科学者はある意味では天然のバカであり、想像できるだろうに仮説の中で想定していない事態が起きたら手のつけようもなく予想を外す結果になるのである。

 第二に、同様の事は津波の予想についてもいえる。どんな不測の事態で大津波が発生するかなど誰にも未来予知などできないし、そうであれば、沿岸部に原発を作って安全性を検証し、すぐ隣でその予想をはるかに超えた大事故が起きたにもかかわらず、再び同じ過ちを繰り返そうとするなど、人類の傲慢さの中でも、東京都民の最悪の公害による金儲け主義以外なにも示していないのだ。
 原電側は17m程度の津波しか想定していない、それが最大だと主張した。なんという驕りだろう。どんな波の動きが起きるか全て自分が予想可能で自然の支配者、計算者だとでも思っているのか。自然現象は複雑系であり、ニュートン力学ほど理想的・計算可能な部分のみでできていない。プレートの重なりが少しのずれで想定を超えた深みに落ち、たった10m高い津波になっただけで即何十万人も死亡するのが現実ではないか。自称科学者なるものの想定を超えた津波がきたからこそ福島原発は大災害に至ったのではないか。科学者は神だろうか。全知の存在だろうか。地球科学の限界がここにあり、複雑系の未来が正確に予想できている存在など、我々人類の知能の中に一人たりとも存在したことはないし、どれだけ計算可能性を突き詰めようが、また未来でも到底ありえないのである。
 つまり「未来はどうなるかおよそ全然わからない。特に、複雑系の問題に関しては、想像を超えたあらゆる想定がありうる」というのがこの世の真実であり、合理主義だの科学主義はこれに何の反論もできない。複雑系の部分として想定した津波の高さを超えて大津波が襲った福島沖で、「想定が間違っていた」と科学者が言い直そうともう死んだ人たちは戻ってこない。何の責任もとらず日本政府の関係者・東電幹部・東電株主らは今もぬくぬくと福島人からむさぼってきた退職金だの配当金でくらしているのである。

2021年3月18日

前田英子裁判長は名誉茨城県民・水戸市民にふさわしい

日本原子力発電(東京都千代田区)東海第2原発(茨城県東海村)は安全性が確保されていないとして、茨城県など9都県の住民が同社に運転差し止めを求めた訴訟で、水戸地裁(前田英子裁判長)は2021年3月18日、運転を認めない判決を言い渡した。
――日本経済新聞『東海第2原発の運転認めず、水戸地裁判決』2021年3月18日

水戸地裁の前田英子裁判長は、本気で、茨城県・常陸国史全体で言っても最も優れた判決を今日出したといっていいと思う。これは冗談抜きで日本国全体のみならず世界史全体にとっても快挙であり、ある立地自治体の外の何らかの会社・政府が、立地自治体の住民の意向を無視して、公害で金儲けをする権利はない、と認めた様なものだろう。

 福井地裁もこの点では誠実な判断をしたといえるが、茨城の場合は県民投票による民意が自民党(県議)の公益を害する党利党略によって侵害されている最中なので、いわゆる党争によって解決を図ろうとしている最中だったわけである。自民党県連の保守派を完全にやり込めない事には一歩も公害防止ができない状態にあったが、その自民党が原発中立を気取っていた大井川知事の再選を表明してしまったので脱原発が頓挫したままだった。

自民党の秋本真利衆院議員=千葉9区=が水戸市で2021年3月28日に予定している脱原発をテーマにした講演会を巡り、自民党茨城県連幹部が講演会を中止するよう党本部に要請していたことが16日、県連幹部への取材で分かった。(中略)県連は、秋本氏から講演会開催について事前に連絡がなかったことなどを問題視。県連の海野透会長代行ら幹部が12日、都内の党本部を訪ね、二階俊博幹事長に講演会を中止するよう対応を求めた。秋本氏の事務所にも抗議文を届けたが、返事はないという。
ー―茨城新聞『脱原発テーマの講演 自民茨城県連が中止要請 秋本衆院議員が水戸で予定』2021年3月17日(水)

 他方、スガ首相側は低炭素文脈で脱原発に舵を切っていたので、要するに茨城自民党側だけが、東京都の日本原電と共に、公害を前提にした拝金目的で、日本全体の脱原発趨勢の足を引っ張っている状態だったというほかない。端的に言うと、東電はじめ自民党内の原発保守派は、時代の必然的な再生可能エネルギー転換への流れについてこれなくなった人たちである。

原発を中心とする大規模集中電源にはコスト的な優位点は全くない。(再生可能エネルギーの発電コストが低減し導入が進む一方、原発は新増設や建て替えに多大な費用を要することから)フェードアウトしていく
ー―秋本真利、自民党・衆議院議員

  しかし前田裁判長の英断で完全に再稼働派が敗れた。これで茨城県民と首都圏・南東北圏の住民が、命も財産も、幅広く救われたといっていい。
 茨城県庁や水戸市はこの英断に敬意を表し、前田英子氏に名誉県民・名誉市民の称号を与えるべきに違いない。脱原発を表明した前・橋本知事に、進んで反旗をひるがえした大井川知事が責任放棄でずるずると重大事を先延ばしにし、自民党の保守派につけあがらせた因果が、こういう結末になった。
 大井川氏は本来、行政側が決断すべきことを司法任せにした責任を感じてほしい。一体どこの世界に、千葉から通って茨城県知事をして、しかも茨城県全域に大公害をもたらす東京都の会社がもっている危険施設に再稼働許可するやつがいるのだろうか。それでは茨城県民を犠牲に自分が最高の地位からただ飯くらってるようなものであろう。再選防止条例をつくるといってたのに二期目もやるつもりって時点で、公約的に問題ある。一体いつになったら最初から権利侵害にすぎない再選防止条例なんてつくれるつもりなのか。県民が誰かに知事を頼む権利をなぜ行政の長が侵害できるのか。県民に具体的に公害をもたらす施設で、間接的に日本原電と絡んで、交付金で金儲けしてきた自民党電源保守派ともども、是非とも県議会で説明してほしい。

2021年2月21日

秋田を見習って茨城も県名を古来の国名・常陸(ひたち)にもどすべきで、北茨城も北常陸にもどすべき

茨城はもとが郡名で、今の茨城町辺のことを指すにすぎないわけで、しかも『常陸国風土記』にみえる故事の由来からいったら天皇家の派遣した古代奈良人・黒坂命が侵略時の現地人惨殺を誇っているという逸話が出典。今の価値観でいったら、黒坂は明らかに一般民衆へ拷問や残虐行為の類をやっており、罪刑法定主義を鑑みれば、無法な重罪人なのはむしろ当の奈良人侵略犯ら一味の方にすぎないだろうし、先住権侵害の被害報告みたいな名義である。

 それをわざわざ県名に選ばせようとした明治政府の薩長藩閥連中が、いかに無学・無教養で、他国・他県の歴史や文化の重みを軽視しまくる、というかまったく彼らの利己性にしか目的のない、わがまま三昧をしていたことか。かれらとくればいまだにそうだが、暴力至上の権術主義や傲慢な無政府侵略主義の松蔭イデオロギーの正当化にしか意識が向いておらず、いかにかれら自身が思い上がった自文化・自民族中心主義者、野蛮で滅茶苦茶な適当加減だったかを示してきたに過ぎないことか。

 彼ら明治以後の天皇政府はアイヌ文化、アイヌ民族だの琉球の歴史だの、周辺諸国だのをおよそ完璧に弾圧しただけではない。戊辰戦争やその後の士族反乱のこともだけども、国内へも、適当に県名を勝手につけてくるという、いまからするととんでもない蛮行もしたわけである。
 しかし旧国名・常陸(ひたち)はちゃんと上記風土記に由来が書いてあり、多珂・久自・那賀・新治・筑波・茨城の6郡がまとまってできている国の名義なのである。
 飽くまで文官が書いたんだろうし天皇に媚びて書かれてる節があるけども、そのうち1つは、ヤマトタケルが泉で水飲んで「筑波岳に黒雲かかりころもで浸しの国」説。もう1つは文字通り、日本最大の関東平野大部分を構成しており広くて地続きだからひたすら道の国ことひたみちの国(実際、道路の実延長が日本一)。
 我々はこれで千年以上やってきた。それ以前の名前は今の我々には知られていない。
 じゃあたった154年前、明治政府とやらはなにゆえわざわざ特定の郡名を国名にしようとしてきたかって、要は歴史の理解もなにもあったもんではない無学者の集まりだったからだ。県庁のある町名を適当に上から目線で、勝手につけてきた、薩長藩閥を構成した連中の実に軽率な判断だったのだ。はっきりいわせてもらうけども。国づくりに無素養な連中が、最後の将軍慶喜公による天皇への禅譲をいいことに調子乗って、罷り間違って大事な国政なんて司るべきじゃなかったのだ。連中のせいで、いまだになぜか郡名が県名になっている。
 たとえていえば、北茨城市が磯原市になるみたいなもんだ。磯原町に役場があるから。

 秋田県も明治政府から一村名の「久保田」県にされかかっていたが、佐竹家ら現地人が政府へ古来の国名は秋田だと嘆願してもどしたらしい。よって茨城も「常陸」 にもどすべきだと思う。このブログでは何度もそう書いているが。

 常陸県なり常陸都なり常陸京なりを作るのを期に、北茨城市も名義を変えるべきだと思う。ここは風土記の時点で、もともと多珂郡(たかグン、たかのこおり)といわれていた。(国立文学資料館より

常陸多賀とか多賀山脈という名義にそれが残っている。 そこの北端である。ということは素直に行けば昔の多可郡の最北端という意味で「北多珂市」または、常陸国の最北端という意味で「北常陸市」とかが元来穏当である。
 なんで茨城郡の最北端でもないのに北茨城市にしてしまったのか、それは当時の市議会の人達が、ちゃんと地名について学んでおらずやはり軽率だったからでしょう。茨城県ってのは仮名みたいなものなのだから。

 タカがタガになるのはいわゆる連濁なので、北多珂(きたたか)、北多賀(きたたが)のどちらでも実質は同じ。たがの方がいいやすいから多賀郡になってるのだろう。
 ではなぜ地名が多珂なのか? 風土記によれば、「建御狭日命(たけみさひのみこと)がはじめてこの地を訪れて、海からみる山が高く見えるので名づけた」という。(アーカイブ

 ここでも中古奈良人が勝手に地名を決めているわけで、我々自身が名付けたものではない。この意味で、多珂だろうと、常陸の「浸し説」だろうとその点は同じなわけである。古老の話のまた聞きとして、常陸の「ひた道説」が最も古い名義ということになる。つまり最も古名に近い、伝統的で格式高い名義を選ぶなら「北常陸市(きたひたちシ)」になる。これが最も正統的といえるだろう。常陸の最北端ということになるんだから、地域の客観的特性もよく示していると思う。

2021年2月13日

『水戸維新』に於ける徳川慶喜の扱いは、著者の主観または孫引き(他人の妄想の引用)が入っていて、歴史的事実に基づいていない箇所があるのでそこは訂正してほしい

目次
一 山川菊栄は彼女個人の主観を述べた語り部であって、実証史家ではない
二 徳川慶喜と天狗党の史実
三 烈公の出交易論は彼が江戸時代末の日本で最も開明的な人だったと示す

四 第二次長州征伐は徳川皇軍の敗北で終わったのではない

五 三木家と松下幸之助の出会いは、桜田烈士を慰霊に行った三木啓次郎が資
金難時代の松下へ出資した、大阪・四天王寺の境内(『常磐神社社史』伝)

六 『水戸維新』の感想と、まとめ

   一 山川菊栄は彼女個人の主観と偏見を述べた語り部であって、実証史家ではない

『水戸維新』の中で、マイケル・ソントン氏は徳川慶喜をマキャベリアンかの如く書いている部分がある。だがこれは証拠不十分で、参考文献に出ている山川菊栄(特に『覚書 幕末の水戸藩』)の説をそのまま引用してあるだけに過ぎないと思う。

 自分は『幕末の水戸藩』も読んだが、これははっきりいって極めて主観的で、信用に足らない記述だと感じて殆ど真実とは思えないくらい小説的内容である。山川個人の意見でしょ、で、その証拠は? という、一種の諸生党・保守派側に立った記述ばかりであり、西に司馬遼太郎いれば東に山川菊栄ありといえなくもないくらい、特に僕の中で歴史学史料としての信用性が薄い。
 関東にいた山川個人がなぜ中部から北陸・京都・東北と歴戦した天狗党とか、幼児から水戸にいて、大政奉還後に一時期里帰りしたのぞけば、10代以後はおもに東京・京都・静岡にいた慶喜がどんな状況にまきこまれていたか、詳細まで山川にわかるはずあるまい。 

   二 徳川慶喜と天狗党の史実

 ソントン氏は一体、なにを根拠に天狗党の処置に関して慶喜が『昔夢会筆記』で自弁している部分を、簡単に無視してしまうのか? 自分がほかの周辺状況や文献から確かめてきた限りで、慶喜自身の「天狗党処置は田沼家に一任してその時点で手が切れた」なる言質について、現実と矛盾した部分は出てこなかった。
 いいかえれば山川は、この時の将軍後見・禁裏御守衛総督であった慶喜にとって天狗党への善処なり取次なりが必ずしも本業ではない以上、あるいはまた慶喜自身はおもに武力差をみてとった開国論者側(後期水戸学でいう会沢安・豊田天功ら、のちの諸生党側の近代化・富国強兵路線)で、即時攘夷を専ら否定していた(ゆえ石清水八幡宮への孝明天皇行幸の際、家茂ともども、仮病もどきとも思えるやり方で即時攘夷の祈願をやり過ごしていた)事を考えても、水長同盟を背景に攘夷決行を嘆願にきた天狗党を、必要以上に丁重に扱うことは難しかったに違いない。そうでなくとも背後では山口の尊攘派らが京都を荒らしていた事実がある(それがこの後、二度の長州征伐につながる)。つまり忙しかったので処置を相良藩主の若年寄・田沼意尊へ一任してしまった事について、『昔夢会筆記』の慶喜の弁はそこで手がきれた云々といっていて、決して天狗党を手段を択ばず潰そうとしたとかそういうものではない。それはマキャベリズムとは別のことだ。単純に当時の幕藩官僚体制や関西界隈での情勢からいって、飽くまで徳川軍と戦って成破盟約の文脈もあって、急進派として示威行動をしていた天狗党の処置に、立場上、宗家の近侍として、そこまで深入りできなかったといえるだろうう。

 ソントン氏個人の意見として、慶喜をマキャベリアン視する根拠が、山川個人の意見引用のゆえに、というのなら、それは史書とは到底いえない文章である。小説と変わらない。山川個人がどう思っていたかと、現実の歴史がどうなっていたかは全く別なのだから。
 もしそれでも同様の記述をするつもりなら、「私の意見では~」とか「山川菊栄の『覚書 幕末の水戸藩』によると~」明記すべきであろう。

 そして付け加えておくと、慶喜の元に侍っていた本圀寺党と、彼を頼ってきた天狗党残党は合流し、諸生党の残留していた水戸に再進軍してきたのである。つまり慶喜と天狗党の関係は対立関係ではなく、主従関係である。諸生党ともそうだが、慶喜は不偏不党が是の『弘道館記』通り、党派争いを避けて静岡に去った。

    三 烈公の出交易論は彼が江戸時代末の日本で最も開明的な人だったと示す

 これらとは別に、烈公の「出貿易」(出交易論のこと。『明治維新と水戸学』平成4年度水戸学講座講録、常磐神社社務所アーカイブ。『水戸藩史料』より)についてきちんと一般書の公的文章に明記した事は大きな功績かとおもう。 それまで烈公は『徳川慶喜公伝』で渋沢栄一にも記述されている「表向きの政治的攘夷論(士風維持目的のもの)」とは別に、会沢派の開国貿易論を前提に、欧米に直接留学し、まさに近代化の先駆けを行おうとしていた事は、水戸学者の間では当然のごとく知られていたにせよ、世間一般的な理解ではなかったと思う。それで烈公は頑迷で固陋な閉鎖的保守主義者みたいなラベルを(特に、井伊直弼が開国の主導者という、単に状況に迫られてそうしたほか、直弼は基本的に、将軍(宗)家の忠臣かつ祖法順守の保守派だったのが真実なので、これまた曲解による誤ったラベルづけとの対比から)、特に薩長中心史観に立つ大河ドラマなどで張られてきているが、これは全くの誤解である。むしろ烈公は幕末全体を通じて日本で最も進んだ思想の持主だったのが確かだ。故に保守的な中央幕府側に弾圧にあったのだ。何せ黒船へ松陰がのりこもうとしたり、薩長が攘夷論にはまって直接戦争するかなり以前から、幕府に嘆願して欧米留学を試みようとしていたばかりか、自由貿易の時代を半ば予見していたのが史実なのだから。
 福沢諭吉が『福翁自伝』にいうとおり、水戸に老公あり、だったのである。

   四 第二次長州征伐は徳川皇軍の敗北で終わったのではない

 特に慶喜公が天皇へ将軍職と江戸城(現皇居)を禅譲後、薩長藩閥勢力とその追随者らは徳川家を近代化に出遅れた負け組みたいに偏見づける傾向がいまだにある。だがこれは現代までの歴史学の水準からいえば明らかに誤っているばかりか、多くの場合、悪意ある謬説にすぎないだろう。何しろ水戸の方が先に近代化(烈公の改革下での追い鳥狩りでの軍事調練からはじまって、反射炉での大砲・拳銃、日本初の洋式軍艦・バッテラこと改造快風丸づくり)や開国論(即時攘夷が現実的ではない為、植民地化防止には専ら近代化が必要とした、会沢や豊田らの流派・いわば諸生派をおもとするもの)も先駆けていて、諸外国の情報収集も怠っていなかった(吉田武弘『幕末期水戸藩における海外情報』)ばかりか、

 ソントン氏もこの点では第二次長州征伐を「幕府軍の敗退」と位置づけているが、当時の武器の比較(幕府側も近代化していたので、現実には武器に大きな差がない)、軍の勢力図(幕府軍の方が軍勢が多い)、そして薩長(と土佐国)側がしていた借金踏み倒しの状況などを冷静に見返せばわかるが、それを手早く切り上げたのは第二次長州征伐のさなかに将軍になった慶喜側の判断であって、第二次長州征伐の開始時点では家茂の判断でそれが行われていたのを方針転換したという方が史実に近い。
 それを薩長藩閥が戊辰戦争で東日本へせめこんできてから態度や評価を180度極論に変えて、元来、慶喜が終戦工作をしたおかげで長州側が徳川皇軍に早期に降参できた形なのである。この部分についても小説史観が巷には行われていて、ソントン氏が恐らくウィキペディアなどの通説によって、史実に反する記述を参考にしている可能性がある。薩長土肥にあたる地域の人々は、自分達を勝者と位置づける目的で、第二次長州征伐が長州の敗戦の形で終わったと認めたくないので、あるいは戊辰戦争とひとまとめにして、徳川皇軍に勝利した事にしてしまいたいので、小説を作っているということになる。そしてそれをうのみにしているのが某著でのソントン氏というべきだろう。

 当時、慶喜の実家・水戸徳川家と毛利家は、ともに有栖川宮を母方にもつ親族である。背後には水長同盟もあった。慶喜は水長同盟の存在を知っていたかは不明だが、少なくとも有栖川宮を奉るという意味では、毛利家と実家の間に無用な争いを拡大しない方が賢明とみたかもしれない。
 第一次長州征伐と第二の間で、武器の程度・軍制の差で徳川皇軍が不利になったので、慶応の改革を通じ軍を再編成した、という風に歴史学では語られる傾向にある。そもそも内乱で体力を消耗している場合ではないことを中央政府で外務相を兼ねていた慶喜(リーズデイル男爵『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』1998年、に詳しい)は痛いほど知っているわけだから、なにゆえ家持の死去を受け第二次長州征伐を手早く切り上げることにしたのかを、戦線の不利さだけに帰するのは適切ではない。この後の戊辰戦争時もそうだが、兵力(軍勢)だけで比較すれば、徳川皇軍が圧倒的に有利な状況にあったのだからだ。

 なるほど各戦線だけ当時の記録から見て取れば、全ての面で有利だったとは言えないだろうが、単に負けたから終戦工作をしたというより、家茂の後見役としては家茂主導の覇道的な主戦論に従っているしかなかったのだろうが、慶喜は諸侯会議派で、諸大名の貴族院の形で国会を開き、天皇の元に新たな近代国政体制へ移行しようとしていた。また弱い者(当時の外様大名勢力)虐めをするのは一般武士道に反する。つまりこの為には、諸大名を武力で押さえつけているいわゆる幕藩体制ではなく、会議・話し合いによって合理的な結論を導く、近代的国家へと状況を改革する必要があったのだ。それで慶喜は家茂の死を受けて終戦をはかり、母方を同じくする長州毛利へ仁義を切ったという風に見るのが自然だろう。
(有栖川宮織仁親王の2女・栄宮幸子女王が9代毛利斉房の、8女・楽宮喬子女王が12代将軍・徳川家慶の、11女登美宮吉子女王が水戸家9代徳川斉昭のそれぞれ正室で、15代将軍・徳川慶喜生母の吉子女王を通じ、慶喜とそれぞれ血縁親族)

   五 三木家と松下幸之助の出会いは、桜田烈士を慰霊に行った三木啓次郎が資金難時代の松下へ出資した、大阪・四天王寺の境内

 それと、三木啓次郎が松下幸之助の若いころにあたる1918年(大正7年)、桜田烈士の高橋多一郎・庄左衛門親子を慰霊に行った大阪・四天王寺で、三股ソケットを売っていた資金難時代の松下をみて(恐らく水戸人のことだから、当時の松下の貧しい身なりなどを健気に感じて)出資したのだろう点*1をなぜか省略してあるので、なにゆえ松下と三木の間につながりができたのかをソントン氏は書いていないのだけれども、それでいいのか。読者にはなぜ三木家へ恩返しの形で、経済的成功後の松下がドラマシアター『水戸黄門』を放映していたのかわからないんではないか?

*1 照沼好文『常磐神社社史』1998年アーカイブ
朝日新聞「ニッポン人脈記 黄門はゆく4 世直し幸之助のドラマ」2009年11月13日付け夕刊、1面。
「松下幸之助と三木神社!――水戸市常磐神社・境内」茨城いすゞ自動車株式会社。2021年12月23日掲載原稿(大子町)アーカイブ

   六 『水戸維新』の感想と、まとめ

 ソントン氏の記述は、数年とごく短期で学んだ割には、本としてよくまとまっているとは思ったが(だからといって何十年も水戸学を研究してきた学者や、郷土史家の深みには達しておらず、素人が表面をなぞった水戸藩史の大雑把な概略、特に上記点ではそれなりの欠点のある通俗史といった部類の本なのに違いないが)、上記の部分をもう少し研究してから、史実と小説をわけて考え、増刷か英語版の際は直してほしいと思う。
 なぜこういえるかなら、水戸学の考証の態度っていわゆる厳密な実証主義で、わずかでも曖昧な部分は厳格に排する、又は、俗書のこの本にこうあると書くべきだと義公の代から『大日本史』形成過程で指導されてるからでもある。
『水戸維新』に大幅な脚色こそないだろうが、飽くまでソントン氏が読み取れた本をまとめてあるもの。正史や史書を称しているわけではないから、まだどこかに非現実的な偏りや、著者の主観的騙りもあるんだろうと読者に想像させる余地があるだけは、一見何々史を標榜しつつ、どこもかしこも小説、ウィキペディア引用の類の本よりはましだろうけど。

 まとめると、なかば歴史書の体裁をとっているので、特に、慶喜公がわざわざ天狗党を処刑したみたいによみとれる「マキャベリズム」という記述は、一般人がますます慶喜公を誤解する様に思う。尊皇将軍というのが事実なのだが、特に薩長土肥・京都・広島の大名・侍から、小御所会議以来、朝敵の濡れ衣を着せられ今に至る。天皇家(小御所会議・戊辰戦当時は15歳くらいだったので、岩倉具視や、天皇・皇族をからかって操り人形のまねをしたと『ベルツの日記』に記述されている伊藤博文らに操られていた明治天皇が成人後)は逆に慶喜に最高位・公爵を叙爵させたり、逆の態度なんだが。
 第二次長州征伐は徳川皇軍が全体的に負けたから撤退した、という風に捉えてしまうのも、家茂がそのさなかに薨去したのもあわせて、歴史の見方として決して正しくはないと思う。なぜなら内乱による国力消耗、有栖川宮親戚関係、水長同盟など完全に無視して、なんとしてでも長州を滅ぼそうと考えていれば、圧倒的兵力差、背後にある武器購入余力・財力の差などを背景に、わざわざ慶喜が終戦工作をはかるだけの理由にはならないのだから。
 それと、人の良識、特に恩返しという古来からあるだろう観念に訴える点では、松下の記述も省略しない方が人類にとってなぜパナソニックがああいう社風だったのか分かるし(松下の人柄が、文字通り「丁稚上がり」でありながら三木家・義公らを奉る、経営の神様と仰がれるに足る立派な類のものだったのである)、また、義公誕生の際から発揮されていた三木家および水戸人なるものの真情も伝わると思う。

参考:常盤神社内、三木神社の立て看板(ブログ よっちゃんの独り言、記事『なぜTBS水戸黄門のCMは松下電器なの?』より。画像アーカイブ

2021年2月9日

磯原の常磐道に架かる展望スロープ計画と、市内回遊の遊歩道整備計画

この遊歩道が国道をよこぎる部分、こんな形でスロープ(傾斜路)を作れば自転車や車椅子でも通れる様になると思う。 




磯原の常磐道に架かる展望スロープ計画
2021年

 今の段階だとこの遊歩道で、常磐線や道路の高架下をくぐる部分にもスロープがないところがあると思うけど、それもこんな感じでついでに作るべきだと思う。

 北茨城観光協会のこの動画でも紹介されてるけど、

この遊歩道をいまのところは磯原町から五浦まで、将来は華川、中郷や平潟までつなげることで、確かに風光明媚な市内をめぐるのにとてもいいコースになるのではないか。
 この動画ではサイクリングロードといわれているがもしそのために整備するなら徒歩の人とかぶらない様、道の真ん中に自転車道とすくなくとも線でぬりわけが必要ではないか? 
 あと部分的に家がある側との側溝に高さがあるので、そこに転落防止の手すりか柵も整備する必要があるのではないか。
 はたまた、堤防の高さに対して歩行路が低すぎて海を一望できない箇所も、歩行路をかさあげして海が見える高さにしておく必要があるのではないか。

 自分が以前住んでいた東京都調布市多摩川あたりにはこういうスロープがついていて、河川敷までおりれるようになっていた。東京の川はよごれているので入れなかったが、磯原に関しては今のところ川がきれいだろうから、鮎などの遡上を邪魔しない様にした上で、川遊びできる箇所を設けるべきではないか。 



2021年2月2日

全学術で最初と最後に置かれねばならない目的

人生ではじめに学ばねばならないのは倫理だ。人生では時が過ぎるほどそれを持つ者と、そうでない者の差は開いていく。
 人生で最後まで学ばねばならないのも倫理だ。人は死の直前まで人として生きるものだからだ。
 これ以外は全て後回しでよい分野である。

 私は嘗て数学が全科学の基礎だとした。しかしこれは科学言語に関しての話であった。
 自然科学、社会科学は、自然言語(数式でない日常風の言葉)を使う場合、基本的にその数学の分野である論理学の文法で記述される。論理的に矛盾する記述は誤りとみなされる体系でだ。

 文芸などで矛盾を含んだ記述があっても、その言葉は飽くまで論理的矛盾とみなされ、やはり数学的認識が全く無用になるわけではない。
 しかし数学は道具的な知識であり、人が作った論理的な思考の方法であり、 それ自体で完結する分野ではありえない。
 こうして数学をその言語の基礎に記述された全ての科学(こと知識 scienceの訳語)は、どこまでも倫理の道具である。

 芸術を「科学を基礎にした全ての技術(工学)」と定義し、学術を「全ての科学と全ての芸術」と定義すると、全ての学術の目的は倫理の完成である。

 倫理(道徳ともいう)は、ここでは人としていかに生きるべきかを、言語などの伝達を使って表した体系を指す。
「哲学」という言葉は、「知恵 sophosの友愛 philos」の訳語だが、倫理に関する思索や倫理思想史の習得を含むので、 全学術にとって「倫理哲学(道徳哲学) moral philosophy」が最初で最後の目的で、真に必修の学問といえる。
 学校教育等で「倫理学 ethics」と定義されているのは倫理思想史の習得の事だが、倫理哲学の真の目的はこれらを前提にした倫理的な思索の完成の方であり、人として、倫理思想史の習得に留まるだけでは不十分である。既存の日本の大学等では、倫理思想史家を作る過程しかおよそ存在せず(哲学科と名がついているが、実態は思想史科)、倫理的思索は私的に行い続けるしかない。

2020年11月23日

偕楽園の茨城あらいぐま動物園と茨城あらいぐまジビエ料理開発案

茨城県と水戸市は、条例つくって偕楽園に住み着いたあらいぐまを保護し、偕楽園の自然とガラス張りで地続き状にした「茨城あらいぐま動物園」作って、来園者に展示すべきだ。
 さすがにこれは管理費かかるから、ガラス張りにして外からみるだけなら無料とかで、展示場内はいって近くで見るとかは有料化してもいい領域かもしれない。

 どう考えても上野に既にいるパンダなんて、県税何億円もつかって誘致するより、既に自然に偕楽園にいついてるんだろうあらいぐまの方がわざわざ見に行くだけの魅力がある。

 さらに県域で捕獲する数がふえたら、ジビエ(gibier フランス語で獲物)料理を開発するのが最も合理的な駆除の方法といえるだろう(勿論、寄生虫などに留意しつつ)。単に外来法どおりに殺処分するのは、元々ペットとしてもちこんだ人類の身勝手というべきだ。

参考文献:

・安田 浩一『かわいいアライグマの、ちょっと怖い話をしよう』ラスカルはかくして野に放たれた
・『アライグマが農地を荒らすのでとって食べたらメッチャ美味しかった』東京でとって食べる生活

2020年11月20日

教育補助金は茨城県民一人ずつに交付すれば差別や不公平がなく、また全公立校は民営化すべき

 朝鮮学校への補助金を、文科省からの通知を理由に茨城県が打ち切っているという事実について、そもそも学校への補助金は、日本のも外国のもわが県では全て廃止すればいいと思う。そして各県民に対し、一律で教育補助金を与えればいいだろう。そうすれば学校の種類で差別が行われる事はなくなるし、県民各位の教育費の負担は減る。ちなみに成人の再教育を促す意味でも、恐らく子供に限定する意味はないと思う。
 所得制限するということも当然考えられるが、税体系全体で累進化すれば全体として単純化でき、不公平でもない。税制全体が単純だが効果的であればあるほど余計な費用がかからないし、その分、所得調整が効率的になって福祉にかなうというべきだ。

 また将来的には公立校というものは全て民営化でいいと思う。現時点では文科省があるので、中央政府が何らかの思想の植えつけを各国民へしてしまっている。だが本来その様な権利が政府にない、というのが思想・良心・信仰の自由であり、各人・各保護者が自ら望む教育を自分や子女に施すのがふさわしい自由の国だといえるだろう。
 茨城県の単位で全公立校の民営化を先駆けてやってしまえばいいだろうが、文科省との調整も恐らく必要になるので、そこは県庁と県教育委員会が詳細を計画した上で実行すべきだろう。

2020年11月19日

現代地震学の限界と東京都民ら大都市住民による暴利謀略たる東海第二原発廃炉の必要

宮城県知事・村井嘉浩(むらいよしひろ)氏は隣県の致命傷から何も学べなかったという意味では確かに公徳がない。茨城県知事は大井川和彦氏に限らず彼を、原発という世界最悪の公害施設への対処について反面教師にしなければならない。
 
 現代の地震科学ができているのは、P波(Primary wave, 第一波)・S波(Secondary wave, 第二波)など地震波がいざ地震が起きてから異なる観測地点間への伝播の時間差から、震源地を推測し、各地の震度を地震発生後に予想すること程度であり、地震発生前にどの程度の地震がどの地点で起きるかは殆ど正確性を持って予想できていないのである。
 今の地震発生前の発生地予測というのは、確率で曖昧めかしているが、要は前の大地震から地下の地盤(プレート)にどの程度の力が溜まっているか、人が適当にあてずっぽうで確率をあてているだけの、はっきりいうと競馬のオッズ程度のものなのだ。なぜなら地盤の動きは今の地震科学では具体的には観測不可能なほぼ未知の段階で、正直なところ地下が実際にどうなっているかすら分かっていない。いいかえれば地震は地盤の動きが原因らしいという極めて大雑把な仮説とその上に立った適当な確率論者のあてずっぽうしかなく、その地盤の動きの予知(地盤構造学、プレートテクトニクス)はおよそ全く未発達の段階だ。

 地震学を自分で少しやってみればこれらの事は誰にでも分かる筈なのだが、今の国会議員・地方議会議員および各知事の驕りは甚だしく、東大とか大学名の権威で、さも地震学者の言っている事がおおよそ正しいという全く事実に反する、科学信仰を持ってしまっているわけだ。
 私がここで断言しておくが、 現代の科学では、これから一体、適当な確率論で捏造した想定より、10メートルあるいは50メートル、それより高い津波がくるかどうかなんら予想できていない。現代の地震学者と名乗る地学者の一種ができているのは既に述べた通り、いざ地震が起きてから震源地を、各観測地点で第一波・第二波の到達速度のずれによって、おおよそ見立てる事だけだ――震源地に近いほど両者のずれが少ないという単純な理屈から延長して、おおよその中心位置を類推できるだけで、大雑把には分かるかもしれないが、途中の震動がどんな複雑な展開をしているかなど無視しているから、これも実際には震源地を完全に確定できていない。そして地震が起きる前の予想といえば、もし地盤が過去同じ様に動いているならば(この時点でニュートン力学のうち等速直線運動の認識を地下の地盤運動について超単純解釈しすぎており、実際の地盤の動きはもっとはるか複雑の筈なので実際には信憑性がない)、過去の大地震の頻度から、大体つぎこのあたりで起きがちなんじゃないか? という、素人予想に限りなく近いもの。二度あることは三度ある、それならここではまだ短い間に2度おきてるから安心だ! みたいな子供じみた考え方で、もっというと現代の地震科学は凄まじく幼稚な段階といわざるをえない。そしてその事を地震学者らが公言しないのは彼らの職業が軽蔑されないための予防線であり、現実にはその現代地震科学の信用性が、特に地盤運動の具体的観測可能性の無理解さについては殆ど皆無といっていいのに、謙虚にその事をそうと述べないのは彼らの誠実さの不足であり、また職権の乱用に他ならない。
 
 さらに原発の潜在的危険要因である津波単体についていえば、現茨城県の東の相当部分は少なくとも縄文期には海底だったのであり(いわゆる縄文海進)、実際、自分が小学生の頃、夏休みの自由研究だかなにかをしているとき北茨城市の海岸からかなり(少なくとも市役所より西側で数kmくらいは離れているはずだ)離れた山の中で地層の中に化石上の貝殻を見つけた事があるし、現に海岸から随分離れた自分の家の裏山には今も湧き清水付近に沢蟹が住んでいる。これらは古代、ここが海の底だった時代の名残であり、そうであるなら、津波か海面上昇・地盤低下かなんらかの原因で、現大洗町の東海第一・第二原発があった場所も海の底に沈む日がいづれくると考えて間違いないだろう。
 なるほど逆に海面が低下し(南北極の氷床がふえ)、大洗町が山の上か少なくとも丘の様にもちあがる事もありうるが、その場合でも原発を維持する事はできない。
 もし津波がいつどこでどの大きさで起きるかを現時点で予想できる人がいれば、その人はかなりあてずっぽうな占いをしているだけで誰にも予想できない。あした巨大隕石が宇宙から茨城県沖に落ちれば、水戸市あたりまで大津波が襲ってくるなんて事も現実ありうるし、宇宙では日々隕石や流星が行きかっているわけで、物理的にも決して荒唐無稽な話ではない。誰もそれを予想できないというだけだ。そして確率はここでは殆ど何の意味も持っていない。飽くまで数学的な思考モデルの一つである確率とは、過去殆ど起きなかったからといって今後も起きないといえる考え方ではないし、小惑星の運動の殆ど全てを捉え切れていない現時点の宇宙に関する物理学の中で、未来に渡る隕石の落下予想なら尚更だが、前述の地盤運動に由来した津波も含め、過去からの因果律で推測できる範囲を、発生前の津波予想は現時点ではずっと超えているのだ。
 端的にいうと、発生前にどの程度の大きさの津波がどこにくるかを、我々の現代科学は現実に全然予想できていない。今の科学者がいえるのは、過去に大地震が起きたところでもし再び同じ地盤運動があるのなら――勿論この前提は仮説にすぎず、複雑な地盤運動の解釈として遥かに間違っているからこそ、あてずっぽうな確率的にもおよそ想定外の地点で想定外の時期に東日本大震災が起きた――大体このあたりでこの大きさの津波があるのかもね? という子供じみた予言だけである。そしてこの予言は、一度もまっとうにあたった試しがないのだ。もっといえばこれは啓蒙の為に書いておくが、現代の地震学者は、特に発生前の地震予測と、津波予測については世間に大いに誤解させている事を全学会単位で猛省し、これらは信憑性の科学というより、まだ実証的には未解明の部分が殆どである仮説をくみあげた仮の競馬オッズの様なもので、これを理由に原発とか災害避難計画とかを立てさえすれば命が守れると考えるのは一切合切やめてくれ。はっきりいうと、地震発生前には潜在的にどこでどの大きさの地震がありうるかまだ全然分かっていないし、津波についてはなおさらだ――その代わり、いざ地震が起きてからの震源地の類推についてだけは少しはする事ができているが、それを担保に気象庁が出している地震速報については、これまた地盤運動その他の複雑系の解析に現時点の地震学では正確性があるとはなんら限らないので、飽くまで避難や防災の目安にしてほしい、と全ての地震学会が人道に対する警告の為、最初に目につく場所に明記しなければならない。これが本当の事だ。つまり現時点の全地震学者は、科学者の倫理を踏み誤っており、そしてその甚だしい傲慢のゆえに、福島県周辺の生物を実例とし、数多くの原発立地自治体の住民および全生物の命と財産へ、決定的な損害、いや大公害を与えているのだ。
 
 だからこういえる。原発は危険要因を余りに甘めに見積もりすぎた、失敗した科学技術、未開な工学の産物だったのだと。 特に地震学なるもの、そしてそれを主に派生した津波に関する予想が、実に稚拙で見るのも辛い段階にしか至っていないのに、その脆弱すぎる知識水準にありながら、強欲に耽る都市住民の金銭欲、及び、自民党を主とした原爆材料の確保だけを担保に、表向き核の平和利用を装って日本人を騙し続けてきた罪は永世に渡るものと断言していいであろう。高々数万年(茨城県に人類が定着しだした頃に遡る期間だ)で、原発による公害の影響がかなり減るとしても、それほどの間、数多の命を恐怖と災厄に陥れて善い権利など現時点の人類にありよう筈もない。無論、東海第一・第二原発の持ち主である日本原電及びそれを有する東京都は、その株主たちに当たる以下に挙げる国内の主要電力会社の面々及び一般人ともども責任追及を未来永劫逃れられない重罪人どもというべきだ。以下に挙げる人々(それらの会社の株主・従業員・取引先とその家族、また子孫も業の範囲で含む)は以下に挙げた比率で、茨城県民約300万人及びその子孫累々へ悪意に基づく科学や工学の悪用で致命的公害を与えながら、ただただ己の金銭欲、私利私欲と暴利に耽っていた極悪人達なのがこの世の真実であって、どれほど呪われようが怨まれ様がそれゆえ永世に渡ってこっぴどくありとあらゆる場面で復讐され続けようが、それは人類普遍の正義の法則というべきだろう。
東京電力ホールディングス株式会社 持ち株比率28.23%
関西電力株式会社 持ち株比率18.54%
中部電力株式会社 持ち株比率15.12%
北陸電力株式会社 持ち株比率13.05%
一般人136人 持ち株比率9.58%
東北電力株式会社 持ち株比率6.12%
電源開発株式会社 持ち株比率5.37%
九州電力株式会社 持ち株比率1.49%
中国電力株式会社 持ち株比率1.25%
北海道電力株式会社 持ち株比率0.63%
四国電力株式会社 持ち株比率0.61%
合計100%

 そしてその様な大悪業を目の前にみながら、高々自民党と称する堕落した利権集団の愚行に唯々諾々と従う中央政府をはじめとする公務員――憲法に定める通り本来全体の奉仕者たる存在――こそ、税を食んでいる以上その税を納めている国民の為の公僕でなければならない筈が、上述した面々の金儲けの為に、税を払っている茨城県民をはじめとする日本国民の命と財産を犠牲にしている。一部の利益の為に全体の利益を犠牲にする。それが公務員職権違反でなければなんだというのだろう?
 現宮城県知事・村井氏はこの意味で公務員たる資格がない事はもはや論証された。彼の理屈は自動車事故にたとえるものだったが、詭弁である。なぜなら自動車事故の死亡率が最も高ければそれ自体、推進できた代物ではなく、自動車事故の防止の為に行政は最大限の注力をしなければならないわけだし(自動車事故を容認するなどもってのほかである)、もしできるのなら事故が起き易い手動の自動車、特に高齢者の運転免許を公的にとりあげ、現歩道計画下の歩道者による道路通行自体を禁止する近未来が当然であり、人車分離の推進(筑波学園都市はハワード田園都市構想通り実際にそう計画されていて、高架状の歩道橋でおもな幹線車道と、公園間を繋ぐ歩道が分離されている)、人的事故を事前に最小化した自動運転車の完成度の高まり、代替交通手段の開発などで、実際の未来の町で現行自動車の交通は完全に消滅しているだろう。第一、起きうる公害の時間的・空間的規模が遥かに違うのだから、原発事故と自動車事故は同列に語れる代物ではない。
 だとすると、先ず再稼動で短期的にカネを儲けよう、その後の廃棄物および事故処理は次世代に先送りだ、という安直な前提を置いてしまっている拙速さの上で、上述した様な多少ともあれ精密な地震学の評価見直しを村井氏がしていない無学加減なのは明らかであり、これは彼の公徳の欠如を示すだけでなく、行政人としては怠慢だと評するしかないであろう。そしてこの論考を発表したのも、彼を天下の大悪例とし、後世に残る国を造る使命を担っている知事は、自らの決断で民衆とその暮らしを守らねばならない。愛民とはこれを指すのであり、水戸の徳川家の統治下で、現実の原発が大事故後は制御不能な危険施設だ(しかも想定を超えた自然の脅威およびテロリズムや人為的ミスなどでの危険は防止できない)と露わになってからも、貴族の義務を破って、高々日銀が刷っているに過ぎない商品奉仕交換権である札束惜しさに再稼動など到底する筈がなかったのである。そうであれば、その時点から遥かに堕落した公徳しか見出せない統治者はすぐにでも水戸家同等以上の愛民者に統治権を返還すべき道理になるであろう。
 大井川氏が愛民の道理をねじ曲げ、偕楽園の100人アンケートでは好評だから、有償化でいいじゃん、とするのはこれまたカネ惜しさという情けない仕草である。偕楽園史にとってこの有償化期間は結局、実証実験となってまた無料にもどるに違いない。もし何か施設を豪華にしたいとか整備費がほしいとかであれば来園者に善意の寄付を募る募金箱を置くとか、好文帝の中での飲食は有料にするとか、明治維新の奇跡を起こした偕楽園の世界史的意義の一部である烈公の愛民哲学と矛盾しないようにすべきだろう。
 だが原発公害に限っては、そもそも人命に関わる原発がある時点で茨城県の魅力が大々的に下がるのは言うまでもない事で近づけなさ、近づきたくなさの主因といってもよく、まともな母親が原発の隣で子育てをわざわざしよう! と考えうるだろうか。全世界で最も先に逃げ出したい県になりたいというなら、全世界で最も潜在的に被災者が多い原発を再稼動でもして、民衆に嫌がらせすればいいと思う。大井川氏は自民党と共倒れする覚悟で、茨城県民を守る事ができるのか。再選防止を掲げながらまだ公約すら守っていない。最初からわたしはこのブログで彼のその理屈の誤りを指摘していた。よく治まっている王政を考えればわかる通り、一揆にも革命にもならず再選を民衆による熱烈支持の元で繰り返される様な一族というのがいる通り、優れた政治家というのは公徳の高みによって測られる(無論、強権で反対勢力を押さえつけているとか、宗教その他で王族を崇拝するよう洗脳しているとか、そもそも民衆が公徳に関する判断力のない愚民だとかいう例もあるが)。だとすれば、最高公徳の持ち主が一人であれば終身在位式にどれだけ再選されようが、それが最善の政治だといえるのだ。無論、米国政治に再選防止の原則が米憲法修正第22条の様に設けられているのは、「絶対権力は絶対に腐敗する傾向にある」という歴史的経験則からきた共和政に於ける一つの知恵ではあるだろう。
米憲法修正第22条 第1節 何人も、2回を超えて大統領の職に選出されてはならない。他の者が大統領として選出された場合、その任期内に2年以上にわたって大統領の職にあった者または大統領の職務を行った者は、何人であれ1回を超えて大統領の職に選任されてはならない。 (以下略)
一方で、だからといって全ての長期に渡る統治者が必ず腐敗しているとは限らないのは、貴族の義務を担う人々がありうるのでも、論理的・人倫的に容易にわかる事である。
  また大井川氏は2020年1月6日のNHK水戸の新春インタビューで、恐らく自民党や原発利害関係者に配慮した形で肯定形で原発再稼動を語っている。
やはりですね、東海第二原発の再稼働という問題というのは、県民の皆様の感情としても、福島第一原発の事故以来ですね、やはり、しっかりと、安心、安全な形で再稼働してほしい、というのはどなたもそうだと思うのですよね。

今の段階は、その再稼動の判断、皆様が安心して再稼働を、と言って、賛成できるかどうか、判断の材料となるものを、今、準備している段階だと思います。

例えば安全性、国の規制委員会の判断が出ましたけども、県独自で、更に県民の皆さんの意見を聞きながら、追加でですね、例えばテロ対策であるとか、災害の対策、どこまでが限界なのか、そういういろんなことについての疑問に答えるように今、検討を進めてますし、

それに加えてですね、避難計画も実効性という観点で、どれだけ実効性のある避難計画を作れるのか、今、各市町村、UPZ内の各市町村で作ってますけど、
 
県としてでもですね、そこができて、これでどうでしょうか? ということが、原案ができない、それを準備しているというのが今の段階で、その準備が終わった段階で、しっかりと、県民の皆さんの判断、ご意見、というのを聞いていって最終的な判断に結びつけるということなのかな? というふうに思っています。
――大井川和彦・茨城県知事

一方、県民世論は明らかに再稼動反対派が多数派を占めているといっていいだろう。

2018年12月から2019年1月、茨城大学教授・渋谷敦司氏が、地元東海村と周辺市の住民に対しておこなった大規模なアンケート調査では、東海第二原発の再稼働反対54%、賛成36.9%で、反対が優勢。

2017年8月の茨城県知事選挙でNHKが行った出口調査では、再稼働反対76%、賛成24%。

2019年4月の水戸市長選挙でのNHK出口調査も、再稼動反対が約73%。

2018年11月13日、市町村議会では、県内44市町村議会のうち77.3%にあたる34議会が再稼動反対意見書などを出している。

出典:「新春インタビュー 大井川知事 今後の課題 ②東海第二原発再稼動どう判断(2020年1月6日,NHK水戸)」須和間の夕日、2020.01.08 15:00

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それにも拘らず、大井川氏が肯定形で再稼動を前提する様な言説を執る最大の理由といえば、いうまでもないが、国政側を牛耳っている原発推進の自民党政権と、それと共犯状態である彼の古巣・経産省東京人官僚への忖度だといっていいであろう。これらの人々は、己の欲得、我欲に目がくらみ、単に彼らを養う個々人の国民だけでなく国全体に害をなす政策を、民衆の公共についての利害判断および科学的理解や公徳の質を小馬鹿にし見下しながら、騙し騙しやろうとしているに過ぎない。その最たる実例が、汚染水を福島の海に流そうという施策のおしつけだといっていい。皇居では毎月930万円の水道代を浪費し続けてきているが(情報公開法を使って入手した情報、森暢平『天皇家の財布』による)、どうせすぐ人工の川からどぶ状態の東京湾に流してしまう水道に流用すれば一石二鳥だというのにそれをせず、人々が口に入れる魚介類の日本有数の漁場に垂れ流そうというのは、東京で生活しているのでどこからどういう経路で食べ物が手に入っているかにすら無知な、主に自民党系の国会議員および、経産官僚の悪意と傲慢以外なにもないであろう。そして彼ら驕り高ぶった東京人達は、現実にいわきの住民如き、これまでどおり上から目線で一方的に押しつければ簡単に丸め込める、世間知らずの田舎者であると本気で信じ込んでいるのだ。いわき選出の森まさこ議員も、茨城北部にはスガ内閣の師匠筋の縁者である梶山弘志氏まで押さえているのだから、自民党・経産官僚としては、茨城県という福島原発被災地での東海第二原発・再稼動強要にとって、もう出る杭は全て打ったつもりでいる筈だ。
 大井川氏が2選目を視野に入れていて、自身では再選防止条例を大義に掲げていたのに、最早なし崩し的に県民へ容認させるつもりでいるのは既に彼の普段の言動からも明白と言ってもいいだろうが、彼が捨て身で再稼動是非の全県民投票を行うといった全体の奉仕者たる「貴族の義務」を果たす態度に出る可能性は、県民世論は反対多数となるのが前述の事前事象からも自明なので、県民総意からの逃げ手のつもりでかなり希と予想するしかない。ここにあるのは日本政府(中央省庁)の現状追認バイアスによる官僚主義の腐敗や、それを前提に安全地帯と彼らが想定している東京都から国民の阿鼻叫喚を元に吸い上げ続けてきた原発利権をむさぼる一方の自民党議員らの根本的な悪徳ぶりに、己の地位の為にこびへつらう情けない一人の男の姿である。彼に倫理観が少しでも残っているのなら、宮城県知事とは違う態度、特に日本最古の老朽原発を危険度を理由に廃炉措置へ繋げる施策を執るに違いないのだが、それを怠って、自らの権勢欲を満たす僅か今後1年から最長で5年の時間稼ぎだけの為に、今後、最低でも数万年以上も茨城県の何億何十億人もの人々と次世代を犠牲にし続ける悪政をなあなあでやり続けるのはまこと重罪というべきだ。
 地元日立市の中学生が、コロナ禍で授業再開に反対したのに応じた大井川氏が、良識の判断力を完全に欠いたサイコパスだという証拠が数多あるわけではないにせよ、実際に原発事故を防ぎながら世界有数の科学立県、あるいは農本政策で豊かな生産力を育んできた前知事の業績を完全に無視して、たとえ目先の損得勘定だったとしても、仮の敵対陣営へのかなりの中傷やレッテル張りを含んだ手段を選ばぬ戦闘方法を執っていたのは県民が目の当たりにしていたのであり、そうであるのならば、今回も彼が、果たして一部の金儲けの為の寡頭政党に過ぎない堕落した自民党およびそこに寄生する経産官僚と日本原電の利害関係者ら――合計しても千人から2千人にも満たない様な数の人々に対し、約300万以上の茨城県民及びその周辺県の命と財産に関わる利害関係者らを犠牲にするのかは、見物というべきだろう。それとも再稼動の判断を行わないままでさっさと退陣してしまうのが、彼の元経産官僚として福島を潰した張本人の一員といってもいいのに、卑怯で狡猾な選択になるかもしれない。だがもし彼が、嘗て日本を救った徳川慶喜公の様に、自己犠牲を省みず愛民政策を執るだけの胆力と見識を少しでも継承していれば、県民投票の結果を印籠に、自民党議員らと経産官僚ら、さらには日本原電利害関係者というカネに目がくらんだ悪党どもをいなしつつ、さも水戸黄門そのもののごとく県民の代表者として、自らの手で、悪徳東京人らとその手先となった悪人らによるやまない県政侵害行為に、東海第二原発廃炉という永世終止符を打つ事ができるだろう。尤もそれによっても完全に東京都民ら大都市住民の暴利謀略を目的にした大人災による致命傷を免れたわけではなく、まだまだ50年から百年近いかなりの危険を伴う廃炉の実践という、戦後近代工学のまぎれない負の遺産の処理に、わが県民は歴史的撤退の先駆者として、進んで従事し続けなければならないのだが! その決断がなるだけ早く、というか今すぐできたかできないかで、宮城県民と茨城県民が、最大の犠牲者たる福島県民の両隣で、180度異なる未来にたどり着くだろう事もまた疑う余地はないが。

2020年11月2日

守谷市の違法なヤクザ稼業との包括提携は悪手

守谷市がDMMと連携というニュースあったけど、この会社、要するに石川県加賀市発の猥褻物頒布・陳列罪、淫行勧誘罪、公然猥褻罪、或いは売春防止法違反で成り上がったヤクザの一種であって、性売買罪で稼いでいるわけなので、警察庁・警視庁・石川県警が野放しにしてるにすぎず、行政と提携なんてできた会社ではない。
 守谷市民がこれを容認しているのは謎でしかないし判断した市長も余程、ネット界の世間と闇を知らないのだろう。なるだけ早く縁切りしないといづれ大変な事になるだろうし、要は違法なヤクザ稼業が行政に体よく圧力かけ、性関連の犯罪を隠蔽しつつ、起訴を防止弾圧させようとしているだけの話でしょう。
 多様な業務に手を伸ばしているとか書いてあるけど、元がいかがわしいDVD撮影・販売の会社で、起訴逃れる目的で具体的手先は、一見分離してきているだけの話。行政は警察組織を持っているんだから、組織の資金源からちゃんと足跡辿ってから、こういう判断はするがいい。