茨城はもとが郡名で、今の茨城町辺のことを指すにすぎないわけで、しかも『常陸国風土記』にみえる故事の由来からいったら天皇家の派遣した古代奈良人・黒坂命が侵略時の現地人惨殺を誇っているという逸話が出典。今の価値観でいったら、黒坂は明らかに一般民衆へ拷問や残虐行為の類をやっており、罪刑法定主義を鑑みれば、無法な重罪人なのはむしろ当の奈良人侵略犯ら一味の方にすぎないだろうし、先住権侵害の被害報告みたいな名義である。
それをわざわざ県名に選ばせようとした明治政府の薩長藩閥連中が、いかに無学・無教養で、他国・他県の歴史や文化の重みを軽視しまくる、というかまったく彼らの利己性にしか目的のない、わがまま三昧をしていたことか。かれらとくればいまだにそうだが、暴力至上の権術主義や傲慢な無政府侵略主義の松蔭イデオロギーの正当化にしか意識が向いておらず、いかにかれら自身が思い上がった自文化・自民族中心主義者、野蛮で滅茶苦茶な適当加減だったかを示してきたに過ぎないことか。
彼ら明治以後の天皇政府はアイヌ文化、アイヌ民族だの琉球の歴史だの、周辺諸国だのをおよそ完璧に弾圧しただけではない。戊辰戦争やその後の士族反乱のこともだけども、国内へも、適当に県名を勝手につけてくるという、いまからするととんでもない蛮行もしたわけである。
しかし旧国名・常陸(ひたち)はちゃんと上記風土記に由来が書いてあり、多珂・久自・那賀・新治・筑波・茨城の6郡がまとまってできている国の名義なのである。
飽くまで文官が書いたんだろうし天皇に媚びて書かれてる節があるけども、そのうち1つは、ヤマトタケルが泉で水飲んで「筑波岳に黒雲かかりころもで浸しの国」説。もう1つは文字通り、日本最大の関東平野大部分を構成しており広くて地続きだからひたすら道の国ことひたみちの国(実際、道路の実延長が日本一)。
我々はこれで千年以上やってきた。それ以前の名前は今の我々には知られていない。
じゃあたった154年前、明治政府とやらはなにゆえわざわざ特定の郡名を国名にしようとしてきたかって、要は歴史の理解もなにもあったもんではない無学者の集まりだったからだ。県庁のある町名を適当に上から目線で、勝手につけてきた、薩長藩閥を構成した連中の実に軽率な判断だったのだ。はっきりいわせてもらうけども。国づくりに無素養な連中が、最後の将軍慶喜公による天皇への禅譲をいいことに調子乗って、罷り間違って大事な国政なんて司るべきじゃなかったのだ。連中のせいで、いまだになぜか郡名が県名になっている。
たとえていえば、北茨城市が磯原市になるみたいなもんだ。磯原町に役場があるから。
秋田県も明治政府から一村名の「久保田」県にされかかっていたが、佐竹家ら現地人が政府へ古来の国名は秋田だと嘆願してもどしたらしい。よって茨城も「常陸」 にもどすべきだと思う。このブログでは何度もそう書いているが。
常陸県なり常陸都なり常陸京なりを作るのを期に、北茨城市も名義を変えるべきだと思う。ここは風土記の時点で、もともと多珂郡(たかグン、たかのこおり)といわれていた。(国立文学資料館より)
なんで茨城郡の最北端でもないのに北茨城市にしてしまったのか、それは当時の市議会の人達が、ちゃんと地名について学んでおらずやはり軽率だったからでしょう。茨城県ってのは仮名みたいなものなのだから。
タカがタガになるのはいわゆる連濁なので、北多珂(きたたか)、北多賀(きたたが)のどちらでも実質は同じ。たがの方がいいやすいから多賀郡になってるのだろう。
ではなぜ地名が多珂なのか? 風土記によれば、「建御狭日命(たけみさひのみこと)がはじめてこの地を訪れて、海からみる山が高く見えるので名づけた」という。(アーカイブ)
ここでも中古奈良人が勝手に地名を決めているわけで、我々自身が名付けたものではない。この意味で、多珂だろうと、常陸の「浸し説」だろうとその点は同じなわけである。古老の話のまた聞きとして、常陸の「ひた道説」が最も古い名義ということになる。つまり最も古名に近い、伝統的で格式高い名義を選ぶなら「北常陸市(きたひたちシ)」になる。これが最も正統的といえるだろう。常陸の最北端ということになるんだから、地域の客観的特性もよく示していると思う。