まとめ
日本の相撲史を辿れば、中世に於いてずっと女相撲がおこなわれてきただけではなく、もとが『日本書紀』14巻で雄略天皇による女官を褌で喧嘩させた戯れ事同然の逸話から始まっている。明治・大正期に当時の男尊女卑的な政府にあわせ、かつ国教化された神道にすりより、「大相撲」なる興行試合を国技と権威づけた日本相撲協会による恣意的な判定が、日本人力士への不当ともいえるひいきの文化的背景だが、その反面、外国人への人権侵害になりかねない憎悪演説しぐさも特に一部の大相撲ファン層の空気として、現に有る事を見逃すべきではない。
将来的に日本の相撲は、巡業する興行「大相撲」とはおそらく別の、国際競技「スモー」としてより洗練された形にならねばならず、そこでは一切の差別なく、神事ぶった精神論も取り除き、飽くまで公平なルールの下で、参加者万人の技能が純粋に競われる必要がある。
目次
1 憎悪演説(ヘイトスピーチ)解消法に触れる可能性のある茨城新聞紙面上の「県民の声」掲載について
2 今後の相撲論
1 憎悪演説(ヘイトスピーチ)解消に触れる可能性のある茨城新聞紙面上の「県民の声」掲載について
本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(以下、通称で「ヘイトスピーチ解消法」)
(定義)
第二条 この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。
(基本理念)
第三条 国民は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性に対する理解を深めるとともに、本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。
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参考:なお、ヘイトスピーチとは、法務省によれば例えば
(1)特定の民族や国籍の人々を、合理的な理由なく、一律に排除・排斥することをあおり立てるもの
(「○○人は出て行け」、「祖国へ帰れ」など)
(2)特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えるとするもの
(「○○人は殺せ」「○○人は海に投げ込め」など)
(3)特定の国や地域の出身である人を、著しく見下すような内容のもの
(特定の国の出身者を、差別的な意味合いで昆虫や動物に例えるものなど)
http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html
今日の県民の声の投稿者・渡辺希代子氏が、荒磯親方(稀勢の里)を褒めたいのは分かるが、わざわざそのためにほかの力士を貶す必要はないし、それだけでなく力士らの出身地・国籍をあげつらうのは、現時点の日本や国際社会では、法的・人倫的にもはや少しも許されるべき事ではない。
ある力士の資質は、出身地や国籍によっているのではなくかれらの個性によっている筈で、もし外国出身でも心から立派な力士もいれば、日本出身でもまことに不道徳な力士も当然いるのではないか。
すでに発行済みの新聞なのでその部分を削除できないのなら、明日の新聞紙面で、とばっちりによって不当な差別に晒された外国人力士や国内に住まう外国人の方々へ公式の謝罪と、当該記事の訂正をおこなうべきではないか。
そしてこれらがおこなわれないのなら、本日の茨城新聞紙面の「県民の声」欄は、わが国の上記の法律へ恐らく自明に触れているのだから、日本国(法務省)や茨城県(保健福祉部福祉指導課人権施策推進室)へ我々県民自身が通報しなければならず、二度と同じ犯罪が行われぬよう、以下ヘイトスピーチ解消法4条にのっとって茨城新聞社が行政から公然と注意勧告を受ける必要があるのではないか。
ヘイトスピーチ解消法
(国及び地方公共団体の責務)
第四条 国は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関する施策を実施するとともに、地方公共団体が実施する本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関する施策を推進するために必要な助言その他の措置を講ずる責務を有する。
2 地方公共団体は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとする。
2 今後の相撲論
要するに相撲のうち、特に日本相撲協会が「大相撲」の名でおこなっている興行は、明治政府の男尊女卑や神道政治の風潮に媚びる形でごく最近成立してきた、相撲史全体では実ににわかな分類でしかないらしい。明治17(1884)年に天覧相撲(天皇の見る相撲)がおこなわれたことをきっかけに、当時の国粋主義の風潮にあわせ、明治42(1909)年それまで江戸・東京の回向院でおこなわれていた相撲の為に専用の格闘技場を建設する際、初興行披露状を書いた作家の江見水蔭によって捏造されたのが「国技」という概念だった。
この後は、軍国日帝の風潮の中で、中世では随分酷い様態だったのに、進んで国技とみずから称する(見方によっては興行の権威づけ目的にそうと僭称する)相撲があれよあれよと持ち上げられ、遂には神道の儀式に自己同一性を求めてきたのが、この日本相撲協会側だといっていい。
正確には、神道の中で初出する相撲の語は、残虐な傾向のあった雄略天皇が、木工だった韋那部 真根の仕事の正確さを試す為、命令に応じて女性官僚らを裸同然にし彼の前でたわむれになぐりあわせた、結果的にイナベは見とれてしまって処刑寸前までいった、という話にすぎないのだが。ちなみにこの『日本書紀』の箇所では文脈上、「相撲」が相 撲る、という文字通りの漢語の意味で使われていると考えていいだろう。以下に該当箇所の拙訳・本文を載せる。これが今まで知られるところ日本史上で初めて相撲の語が使われた事例である。
現代語訳
『日本書紀』14巻 おおはつせ・わかたける・すめらぎみ 雄略天皇(前略)秋になる9月、木工のイナベ・マネが石のもとで斧を揮って、木材を断っていたが、一日中やっていても、誤って刃を傷つけることがなかった。
陛下がそのところへ遊びに詣でると、怪しんで問うて、のたまわった。
「いつも間違って石にあたらないのか?」
マネは答えてのたまわった。
「ついに誤る事はないのです」
すなわち陛下は女性官僚をよびあつめると、下着を脱がしふんどしをつけて使わせ、露わなところでなぐりあい(漢語で「相撲」)をさせた。これに於いてマネは、しばらくとまって、仰視しながら木を断っていると、不覚にも手を誤って、刃を傷つけた。
陛下は、ちなんで責めなじってのたまわく
「どこの奴だ。朕をおそれず、不貞に心を用いおって、みだりにたやすく軽々しい答えをしおって」
よって刑務官にまかせて、マネを野原で処刑させようとした。
ここに同伴したうまい者がいて、マネをたたえ惜しんだ歌を作ってのたまわくあたらしき イナベのたくみ かけし墨縄 しが無けば 誰かかけむよ あたら墨縄陛下はこの歌を聞くと、かえって悔いや惜しみが生まれくずれ嘆いてのたまわく
(惜しい、イナベの名工がかけた墨縄、それがなければ、だれがかけるよ、新しい墨縄を!
※惜しいを意味する「あたらし」と、新しいを意味する「あたら(し)」をかけている)
「人を失うぎりぎりのところだったか」
すなわちもってゆるして使わし、甲斐の黒駒こと山梨産の駿馬に乗って、処刑場へ馳せ詣で、これをゆるし止めさせた。マネにかけられていたロープをほどくと、ひきかえし歌を作ってのたまわく、ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒
(漆黒の甲斐の黒駒に、もしのんびり鞍を着せてから処刑場に向かっていたら、マネの命はもうなかっただろうに、なあ甲斐の黒駒よ!
或る本には「命死なまし」にかえて「い及かずあらまし」、もう及ばなかったであろう、ともいうなり)(後略)
本文
『日本書紀』巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
(前略)秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶。」眞根答曰「竟不誤矣。」乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰「何處奴。不畏朕、用不貞心、妄輙輕答。」仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧者、歎惜眞根而作歌曰、婀拕羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺皤 旨我那稽麼 拕例柯々該武預 婀拕羅須彌儺皤天皇聞是歌、反生悔惜、喟然頽歎曰「幾失人哉。」乃以赦使、乘於甲斐黑駒、馳詣刑所、止而赦之。用解徽纒、復作歌曰、農播拕磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨
一本「換伊能致志儺磨志、而云伊志歌孺 阿羅麻志也。」(後略)
一方、吉崎らが上記論文でのべているとおり、神事こと神道儀式として大相撲の明白な起源といえるのは、平安時代初期にあたる821(弘仁12)年の相撲節、なのだろう。論文中でも詳細に触れられているが、この相撲節は殆ど褌一丁まで武装解除させた地方人らに天皇の前であえて喧嘩させ、天皇がその勝者をほめることで武力なしに中央政府の威厳を知らしめる儀式であり、目撃者らの間で絶対権力を持つ中華皇帝・天皇への服従欲を高める宮中祭祀だった、と考えていいと思われる。実際この後、少なくとも鎌倉時代になっても源平合戦の勝者に将軍宣下を行うという形で、この儀式が意図していた中央集権体制は、形の上だけとはいえ有効なままだったのである。
相撲の五輪競技化をめざす国際相撲連盟の方は、大相撲を国技をかねた興行として神道の元で権威づけたい日本相撲協会とは、だいぶ違った目標をもっているといっていいだろう。そして現時点で、世界に広まりつつあるスモーは、渡辺氏がいうところの「別の格闘技(競技)」であり、むしろそちらが本来のスポーツ(sportたち。戯れ、遊戯)としての相撲だといっていい。それが運動競技でありうるのは、飽くまで勝負をつける目的で体を使った一定のルールのもとにある遊びだからであり、実際のところ、なんら背後に神道教義化された儀式などは必要とされていないといってもいい。具体的には、日系人が移民してスモーが伝わったブラジルでは7割がすでにブラジル現地の人々が行うアマチュア競技となっており、しかも日本へ渡航し大相撲に参戦することが途上国で相対的に貧しい彼ら一般にとっては高給取りとなる為の正規の出世、かつ、故郷へ錦を飾る恩返しルートなのである。そこでは女相撲も当然の如く行われていて、これが上記『日本書紀』で雄略帝の命令による女官同士の喧嘩ごっこの場面が日本での「相撲」の初出なとおり、女が(女も)行うという点で或る意味ではだが、従来の日本でもずっと相撲の姿だったらしいのだ。
勿論、要素として、大相撲が明治以後に自分達の興行を権威づける目的で作っている土俵のありかた(その中に、薩長土肥の藩閥が天皇専制下で寡頭政をとっていた明治政府に媚を売る形ではじまった、万世一系論風の女人禁制が含まれる)とか、色々な儀式で、さも伝統めかした事柄が語られる事がある。これらはほとんどが日本相撲協会の作っている虚構であり、興行を盛り上げるため伝統めかした近代の作り話といっていいだろう。上述論文のとおり現実の相撲は、中世の間中もっと卑俗な興行試合で、神事としてのそれも、飽くまで中央集権の強大さを形の上で印象づけるため官僚や地方人らを裸一貫で卑しめる中華皇帝・天皇による一種の見せしめだったのである。
また、上記論文にもでてくるが、大乗仏典にあたる『法華経』こと、『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』の鳩摩羅什による漢訳書である『妙法蓮華経』の安楽行品、第十四では、「相撲(あいなぐること)」が、事実上の凶悪な戯れの喧嘩という漢語の意味で、具体的に禁じられている。Burton Watsonによる同著の英訳"The Lotus Sutra"では、「ボクシングかレスリング」という形で意訳されている。
仏教や修験道とも相撲は縁が深かったことが上記吉崎らの論文には記述されている。しかし大乗仏教の一部では、漢訳の意味ではあるが、具体的に危険な身体的な抗争の様なことは心の平穏をめざす仏教の本質からいって忌避される事柄でもあったのだ。日本ではこれにもかかわらず、神仏習合の中で、国内の寺院を興行場所につかっていた時期が中世の間あったのである。
こういった経緯を踏まえると、将来的に、日本相撲協会は一応の所いまの地球で唯一、商業的に成り立つ専門のスモウレスラーによる巡業を確立させている組織ではあるが、過去の女性差別的な態度を改め、あるいは「国技」という出過ぎた自称についても疑義を呈される日がくるであろうと思う。なにしろ、これは江見水蔭という一人の小説家による興行目的の権威づけキャッチコピーにすぎないのであり、実際の相撲の起源といったらバカ殿がたわけて猥褻で女官に舞わせ、わざと男性職人にみとれさせ、それをとがめて首切りしようとしていた、なる、リアル志村けんみたいなことを21代雄略帝とやらがやっていた、とんでもない逸話に遡れてしまうのである。これがおふざけでなければなんだというのであろうか。こんなことで死刑にされかけた方も悲しければ、やってる天皇とやらも完全に悪い冗談でしかなく、諸々のヤクザの中でも極めてたちの悪い部類だといわざるをえまい。そんなのが「国技」とか、大相撲が手段を択ばず興行収入をあげたい、なかば無理に自分達の競技を格式づけたい事以外、何も示してきていないというべきではないのか。
勿論、日中戦争のさなかに生を受け、戦後におこなわれてきた大相撲だけが、ザ相撲だと思っていらっしゃるだろう渡辺氏に、無知の罪を帰すのは簡単な事だ。しかも外国人差別とか、憎悪演説(ヘイトスピーチ)とか、異人恐怖(xenophobia、ゼノフォビア。外人嫌悪)という概念そのものが、彼女の生きてきた一生の中では極めて最近でてきた外来思想で、国際化していく運動競技スモーの時代に着いてこれてないだけだろうと思う。同じ事は大相撲を巡業している日本相撲協会や、そのファン層の大半にもきっといえるわけだが、正直、時代遅れの蛮行をいつまでも続けているのは不可能というべきだ。たとえどの国出身だろうと競技としてのスモーがすばらしければ、それ以上なにも求めるべきではない。だって、そのスモーは、起源からしてもとがひどい話なんだから。
当然ながら、国際相撲連盟らは、日本国内で女相撲も遠からず解禁すべきことは確かである。それを日本相撲協会側の大相撲という興行の形でやるかとは別に。
国際競技としてのスモーは、神道と分離されなければならない。そのとき、かつての大相撲ファンだった渡辺氏の様な方は、もうついてこれなくなっているかもしれない。でも渡辺氏の信じてるそれって、明治から平成・令和期くらいまであった一過性の現象で、実際には、それより遥か前からスモーなるものは、飽くまで野蛮な戯れだったのである。
なにか渡辺氏による県民の声では「相撲道」とかいう言葉が使われているが、これ、敢えて言うべきなら、『武士道』ではないか。しかも新渡戸稲造が同名の英語の著作を書いた事で、立派な武士道が定義されたものの、これだって戦国期なんて十分に儒教だの水戸学だので道徳化されていなかったに等しい。幕末の時点だって薩長土(薩摩、長州、土佐)はじめ外様大名下の侍は平気で恐怖政治しまくりだし、そこには勝てば官軍の海賊ルールしかおよそ何もないのである。水戸武士道は水戸学があったから、尊王論で一致しつつ、防衛戦争(攘夷)即時実行の可否や、皇室・政府のどちらをどう立てるかの議論をめぐって、急進派(天狗党)と保守派(諸生党)で二大政党の政権交代みたいな事を、武士の大義を懸けとことんしていたわけで。西日本の果てから政権簒奪を狙っていた薩長土での、道徳無視なんでもあり権謀術数主義に近い戦国期同然の外様武士道みたいなものと、その内容がまるで違っているといえるが。
要はなになに道と名づけた時点で、日本語でそれはなんらかの哲学体系の色彩を与えられているのだろうが、相撲がそんな事いいだすなんて、相撲史に照らすと随分おかしいのではないだろうか。ただでさえ外国人差別に近い言動をとってる時点で思いやりなんて0なのは渡辺氏の方ではないだろうか。相対的に貧しい国からいまのところ世界一大金持ち(対外純資産1位)の日本にきて、スモーの実力で高給取りになり、故郷のより貧しい家族・親族へ孝行で送金することって何か間違っているのだろうか。その興行では、神道の教義なんて、漢語で「あいなぐる喧嘩」を意味するスモーにとって元々、後づけなのである。それだけでなく、この渡辺氏による県民の声では、一種のひねくれた攘夷論が復活しているといっても過言ではない。外国人嫌悪を表明する目的でスモーが不当に援用されている。
もし日本が道徳的に誇るべき国なら、他国の人々に独特の道徳や、特有の文化を、世界中どこにでもありうる多様性の一部として尊ぶことこそあれ、日本の過去の道徳あるいは自分の信じるそれへ、無理にあわさせようとすらしないのではないか? むしろ朱舜水という明の外国人学者を招いて、徳川光圀こと義公が彼の朱子学を批判的に摂取し、水戸の道徳だって随分変わってきたのではないか?
まー渡辺氏がいいたいことに、飽くまで彼女の確証バイアスではあるだろうが全く論拠がないわけではなく、おそらく朝青龍が暴行事件おこしたことあった件とか、白鵬はじめモンゴル勢が余りに強すぎるとかで、ウィンブルドン効果の中で散々民族主義的な自尊心を痛めつけられてきた戦後勢が、遂に地元出身の名力士誕生で歓喜し、いよいよ攘夷論じみた外人差別同然の挙に及んだというのが事のあらましではないか? 憎悪演説まで行ってないというかもしれないが、くりかえしますが外人だろうが倫理的模範もいれば国民だろうがろくでなしもいる。というかハーフとかクオーターとか混血しつつ途中で移民してきたとかもあるだろうし、血筋はずっと日本なのに日本文化を何も知らない外国育ちの日系人が移民してきたりもあるだろうし、勿論、日本人で立派なのも外国出身でひどいのもいるだろう。だったら国籍とか出身地・門地で不当に力士を区別してみるのは、一部の大相撲ファンの国際感覚のなさ、そしてお行儀の悪さしか示していないというべきではないか。人種差別主義者のあつまりなのだろうか? 大相撲ファンって。僕はちっともスモーファンじゃないから、大相撲ファン層の実態にそこまで詳しくはないものの、概観してるに、どうみても神道系右派、というかやばめの極右にかなり近い精神構造の人達が多いんじゃないだろうか?
人種差別的競技なんてあってはならない。それは神道が勝手にやればいい話と思うかもしれないが、それらすべてが、憲法や国際条約のもとになければならないのだから、いまの日本相撲協会はこの世ですでにひとときたりとも成立しえない男女差別の教義を公然と述べている団体というべきだ。救命していた看護師の女性を土俵から追いだそうとした件とか。
稀勢の里をやたらひいきしてたのは、そういう差別的な考えを背後にもっているファン含め、大相撲業界の期待に応えて貰いたいという何らかの横綱審議委員会だかなんだかの事情があったんだろうが、それだって、出身地だか遺伝子だかによる人種・門地・国籍差別が暗にあったにすぎないんだから、全然ほめられたことではないだろう。それが運動競技であれば、全選手は一定のルールのもと公平に評価してしかるべきだからである。
かれら大相撲関係者が現憲法・国際法下でやっていいのは、飽くまで力士としての各個人への客観的評価だの応援だのといった法の下に平等な行為だけである。
無論、稀勢の里には道徳的に日本人の琴線にふれるところはあったのだろう。苦労して出世したあとで、とんでもない形で優勝、あまりの人気に怪我なのに無理して再出場したもののやはり体が潰れてしまって引退という、単なる横綱としての強さでは微妙ながら劇的な展開をみせた力士人生だったから、自己犠牲や潔さを尊ぶ武士道精神に一致していたのだろうと思う。それは実家のある故郷の茨城県龍ヶ崎市だか同県牛久市だかに潜在していた水戸の武士道が暗に育んだものかもしれないし、そうでなく、もっと別の要因か、純粋に彼個人の資質だったかもしれない。しかし、我々現代人は、それを彼の人種とか門地とか国籍のせいにしてはいけないのである。精神性・思想背景の文化的な分析自体はしてもいいかもしれないが、優生学とか国籍差別とかに至ることなく、飽くまで彼個人が優れていた、と評価すべきなのだ。当然ながら、外国出身・外国籍の力士らへも同じ事がいえる。
敢えて言っておくと、「礼儀」「相手を思いやる心」「感謝」「人間としての作法」を最初に学ぶべきなのは、渡辺さんご自身ではないのか。それらの道徳的感覚を外国人・外国出身力士らへ、日本人力士と同等に持てていないからこその、彼女の傲慢な自民族中心主義の言いぶりなのである。外国人にそれらがないなんてありえない話である。単に文化習慣が違うだけかもしれないし、思いやりを表す方法が彼女の信じるものと異なるだけかもしれない。万人は平等に人なのである。
もうお婆ちゃんだからしょうがないんだというかもしれない。でもわざわざ県民の声に載せることはないだろう。勿論、一人の県民の声にすぎない。だからって、ヘイトスピーチ解消法に違反していて、それどころか、人権侵害に他ならない時代遅れの外国人嫌悪じみた言動を或る新聞社やその読者が放置するのは、人道に反する。