ダウンロードの刑事罰実施は、茨城県では最大限、おこなわない方がいい。
これは過去の人類史で「先端技術」分野をおくれた思想をもった国家権力が弾圧したばあい、その国が後進化してしまったから *1)。
*1) プロテスタントとむすびついた毛織物産業者を駆逐したスペインやフランス、ユダヤ人とむすびついた科学者や資本家を放逐したドイツがそれにあたるか。
参考URL http://www.systemicsarchive.com/ja/a/hegemony.html
刑事罰という国家権力による事実上の検閲で潜在的・顕在的抑圧がおこり、インターネットをとおした通信の秘密がこわされ、結果、全体からみればごく少数の音楽・映画業者の利権のためだけに先端技術への適応がおくれがちになるだろう。単に民事罰のままにしておけば権力が最小しか介在しなかったはずで、こういった少数者にとっても容易に個別賠償請求できるから公費を無駄につかわないですみおおきくみて合理的なばかりか、情報の後進化にはつながらなかったろう。
ダウンロード違法化はこうして、国家にとって害がおおきい悪法とよべるが、県警というレベルでこれをできるかぎりもちいない様に工夫することで、県内の情報産業がほかよりまさる誘因をもてるだろう。
2012年9月29日
2012年9月27日
2012年9月22日
天心役
天心役へふつうに佐藤健とかつかってほしい。
http://www.asahi.com/showbiz/pia/AUT201209220005.html
によると、映画『るろうに剣心』で興行収入25億円突破、動員200万人をこえるらしい。
そういう時代感覚がないというのは致命的なきがする。
監督をえらんだ人が市役所のどこにいるのか、市長自身なのかわからないが、映画界であれ芸能界であれ人材をみぬく目をもっていない人がえらんでいるとしたらどうしようもない。
映画はモノとして永遠にのこる可能性があるから本当に下手なことしてほしくないのだが。しかも市の名義でやられると、全員が被害うけるから迷惑きわまりない。気味のわるいすじがきを、格好わるい人材やひどい暴力や退廃のてらいでもって糊塗されるきがする。市税で、というわけでほんとうにすくえない。関係ないひとにまで、偏見にみちた退廃的な映画をつくって迷惑かけるのはほんとうにまちがえている。
http://www.asahi.com/showbiz/pia/AUT201209220005.html
によると、映画『るろうに剣心』で興行収入25億円突破、動員200万人をこえるらしい。
そういう時代感覚がないというのは致命的なきがする。
監督をえらんだ人が市役所のどこにいるのか、市長自身なのかわからないが、映画界であれ芸能界であれ人材をみぬく目をもっていない人がえらんでいるとしたらどうしようもない。
映画はモノとして永遠にのこる可能性があるから本当に下手なことしてほしくないのだが。しかも市の名義でやられると、全員が被害うけるから迷惑きわまりない。気味のわるいすじがきを、格好わるい人材やひどい暴力や退廃のてらいでもって糊塗されるきがする。市税で、というわけでほんとうにすくえない。関係ないひとにまで、偏見にみちた退廃的な映画をつくって迷惑かけるのはほんとうにまちがえている。
いじめをとめる理論
いじめはほまれとたがいに反するむきで、もしその作用をおさえたければ、ほまれをあたえればよいことになる。
これはよわいものいじめ、つまりscape goatingが喜劇の作用なのに対して、ほまれをあたえるいけにえの作用が悲劇なのと類比できる。『水戸黄門』は公権力による喜劇作用の浄化であり、これは勧善懲悪とよばれる。それはentropyのたかい集団の最大の情報者としてのあらくれものを退治し、その集団のみだれをまわりにとっていごごちよくおさえるから。くらべて、悲劇は徳川慶喜がもっとも類型にあてはまる。例えば『徳川慶喜の英略』の様、きわめてすぐれたほまれだかい人物が当然そうあるべきところへまつりあげられることなく、悲運にめぐまれたとき最大の同情がおこる。これは集団にとってもともと公益をあたえる負のentropyの情報者を集団にとって適切に処理できなかったことへ後悔と残念さ、惻隠の情、しのびなさ、同情のなみだ、つまり武士の情けをあたえるから。そしてこれは劇作用としては、ひどい混沌でよごれているひとびとにとっての浄化になる。
たとえば『トムとジェリー』や『ドラえもん』は混沌をおさめる喜劇で、Jesusという救世主の受難を伝道するはなしである『新約聖書』や『平家物語』「敦盛最期」で熊谷直実の出家した経緯は秩序をひろめる悲劇といえる。
このうち、学校という劇場でいじめがおこなわれがちになるのは、喜劇作用がつねに集団におこりがちになっているから。いわばあれていればいるほど、そのクラスには最大の情報量をもつ者が排除されやすい環境が自生的にできあがる。社会集団を維持する方法として人類が祖先からうけついだ作用が劇なのだろう。だから、こういったあれたクラスを再生させるためにはきわめてたかい秩序をつねに生じさせればいいことになる。たとえば先生が優等生をつねに褒章しつづける。そうするとこの人物へのほまれをあたえることの方がおなじ恒常性をもつ集団維持にとって効率がよくなるので、いじめはやむはずだ。逆にだれもほめないばかりかしかること、つまりいじめを禁止したまま集団の個々の情報源である個人間を平等にしようとしていると、entropyは自然に増大するからかならず時間とともにふたたびクラスはあれはじめ、かえっていじめをおこなっている段階より集団維持そのものはむずかしくなるはず。
これはよわいものいじめ、つまりscape goatingが喜劇の作用なのに対して、ほまれをあたえるいけにえの作用が悲劇なのと類比できる。『水戸黄門』は公権力による喜劇作用の浄化であり、これは勧善懲悪とよばれる。それはentropyのたかい集団の最大の情報者としてのあらくれものを退治し、その集団のみだれをまわりにとっていごごちよくおさえるから。くらべて、悲劇は徳川慶喜がもっとも類型にあてはまる。例えば『徳川慶喜の英略』の様、きわめてすぐれたほまれだかい人物が当然そうあるべきところへまつりあげられることなく、悲運にめぐまれたとき最大の同情がおこる。これは集団にとってもともと公益をあたえる負のentropyの情報者を集団にとって適切に処理できなかったことへ後悔と残念さ、惻隠の情、しのびなさ、同情のなみだ、つまり武士の情けをあたえるから。そしてこれは劇作用としては、ひどい混沌でよごれているひとびとにとっての浄化になる。
たとえば『トムとジェリー』や『ドラえもん』は混沌をおさめる喜劇で、Jesusという救世主の受難を伝道するはなしである『新約聖書』や『平家物語』「敦盛最期」で熊谷直実の出家した経緯は秩序をひろめる悲劇といえる。
このうち、学校という劇場でいじめがおこなわれがちになるのは、喜劇作用がつねに集団におこりがちになっているから。いわばあれていればいるほど、そのクラスには最大の情報量をもつ者が排除されやすい環境が自生的にできあがる。社会集団を維持する方法として人類が祖先からうけついだ作用が劇なのだろう。だから、こういったあれたクラスを再生させるためにはきわめてたかい秩序をつねに生じさせればいいことになる。たとえば先生が優等生をつねに褒章しつづける。そうするとこの人物へのほまれをあたえることの方がおなじ恒常性をもつ集団維持にとって効率がよくなるので、いじめはやむはずだ。逆にだれもほめないばかりかしかること、つまりいじめを禁止したまま集団の個々の情報源である個人間を平等にしようとしていると、entropyは自然に増大するからかならず時間とともにふたたびクラスはあれはじめ、かえっていじめをおこなっている段階より集団維持そのものはむずかしくなるはず。
2012年9月21日
社会学
定義: 知能の地域偏差
命題: 学力指標は後天的教育によるが、それをはげましやすい文化および気候環境があり、またとびぬけた秀才はこの地域によらず出現し、うまれつきの平均した知能のたかさは特定の地域にかたよってある。
日本ではめだってNobel賞が話題にあがりやすかったが、その授与率は出身者の地域と国際学力testや地頭(一般知能)に有意な相関がないのでおもに英語圏に依存した個人への特定の贔屓 目で、地域の知能偏差と関係していない。
証明:
PISAとTIMSSという国際学力testは、
PISA: 活用
TIMSS: 知識
と類比できそう。
PISA調査(Programme for International Student Assessment)は
http://www.intweb.co.jp/teian/PISAtoha.htm より
「学校の教科で扱われる知識の習得を超えた部分まで評価しようとする」が
TIMSS調査(Trends in International Mathematics and Science Study)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%83%BB%E7%90%86%E7%A7%91%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AA%BF%E6%9F%BB
は、おそらく数学・法則の基礎にかかわる習得度の方があてはまるだろうから。
PISAとTIMSSをくらべると、PISAとTIMSSの成績には差がある。最近のTIMSS2007とPISA2009上位を「地頭」にちかいとおもわれる順にTIMSS成績分のPISA成績(TIMSS\PISA)にならべかえると、
TIMSS2007の算数4年・中学2年・小学4年・中学2年の平均順に、
1. シンガポール 2346/4=586.5
2. 台湾 2292/4=573
3. 香港 2263/4=565.75
4. 日本 2240/4=560
かつ
PISA2009 数学的literacy+読解力+科学的literacyの平均順は、
1. 香港 1637/3≒545.67
2. シンガポール(1630/3)≒543.33
3. 日本 1588/3≒529.33
4. 台湾 (1558/3)≒519.33
ただしPISA2009、台湾の読解力495 科学的literacy520
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/07/1284443_01.pdf
また韓国は中学2年相当の数学と理科のみしか指標がないが、それのみで計算すると
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
TIMSS2007
韓国 (597+553)/2=575
PISA2009
韓国 1623/3=541
よって、TIMSS2007\PISA2009は
541/575=0.9408...=0.94=94%
よって、PISA2009の平均分のTIMSS2007の平均の百分率は、
1. 香港 565.7\(1637/3)≒565.7\545.67=0.9645...=0.96=96%
2. 日本 560\(1588/3)≒560\529.33=0.9452...=0.95=95%
3. 韓国 575\(1623/3)≒575\541=0.9408...=0.94=94%
4. シンガポール 586.5\(1630/3)≒586.5\543.33=0.9263...=0.93=93%
5. 台湾 573\(1558/3)≒573\519.33=0.9063...=0.90=90%
この最後のPISAの平均分のTIMSSの平均の百分率指標がおそらく 国際学力test(知識\活用比率) をしめす。いわばおなじ学習量であってもそれをつかえるわりあいとしての、地頭のよしあしをよりくわしくあらわすとおもわれる。脳の比喩としてのcomputerでいうとCPUの性能にあたるか。
フィンランド、イングランド(イギリス)という教育上理想視されがちな国はこの指標によるとうえにだしたくによりかわった特徴をしめす。
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
をもとにおなじく計算すると、
TIMSS2007
イングランド 2138/4=534.5
PISA2009
イングランド 1500/3=500
よって、TIMSS2007\PISA2009は
500/534.5=0.9354...=0.94=94%
つまり、イギリス(イングランド)は成績そのものはかなりひくいが、地頭だけでいえば国際的な上位にはいることになる。
フィンランドは1999年の調査以降参加しなかったらしいが、そのときの調査と、もっとも近い年度の2000年PISAをもとに指標をだすと、
http://www.nier.go.jp/kiso/timss/1999/gaiyou1999.pdf
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index28.htm
TIMSS1999
フィンランド 中学理科535 中学数学520 (535+535)/2=527.5
PISA2009
フィンランド 1620/3=540
よって、TIMSS1999\PISA2009は
540/527.5=1.0236...=1.02=102%
なので、地頭のよさが圧倒的にたかいことになる。
これらの国々を上記の指標へ編入すると、
1. フィンランド 102%
2. 香港 96%
3. 日本 95%
4. 韓国 94.08%
5. イギリス(イングランド) 94%
6. シンガポール 93%
7. 台湾 90%
となる。
つまり、イギリスをふくめ、フィンランドにもっとも顕著なのは「もとの素質」とおもわれる生得的知能の可能性がある。
http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
http://www.finland2.com/education01.html によると、
といわれているらしく、国民が読書を趣味にしているふしがある。しかし、
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 都道府県別の図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率)
によると、日本国内の指標で、図書館利用率の学力テストとの相関はつよくない。
上にだした
http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
という資料の 6. 趣味で読書すると学力が上がるか のdataにも、毎日の「趣味としての読書」時間と総合読解力得点はそれをまったくしない生徒の成績のわるさをのぞけば有意に相関がなく(本を趣味で毎日よまない生徒はかならず極端に成績がわるい)、
とある。だから、なおさら上記の指標は、生後の学習によっていないうまれつきの知能の差をしめしている可能性がある。
そしてこの有意な差は、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 同、全国学力テスト(活用/知識の比率)
にもみられるそのもので、科学上IQ(知能指数)がかなり以前に提出されているが、おなじことがらを国際社会でもしめしているかもしれない。
もし将来、よりくわしく、生後に幼少期のあいだおかれた社会環境におおきく依存していることがわかるかもしれない。だから優生学におちいるのは危険だが、たとえば国内で学力の上位地域に教育資本がめぐまれているかは
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/14230 図書館数
をみるかぎりたしかとはおもわれない。
http://todo-ran.com/t/kiji/14730 小中学生学校外学習率
http://todo-ran.com/t/kiji/14737 小中学生通塾率
にもそれほど有意に相関があるわけではなく、「学校外学習」を通塾させられるのではなくおこなっている地域、に学力testの上位県や地頭のよい人々がより多い可能性がある程度といえる。いわば子どもが自分から学習する意欲をもちやすい地域の気候をふくむ文化か、一帯の遺伝があるのだろう。
そこで、学力・地頭で最上位県は北ぐにでしかも日照時間がすくない日本海側にかたまっている傾向もいくらかあって、外出をする動機づけがすくない分だけ教育環境的な可能性はすてきれず、遺伝された生得的知能のみの問題ではないと反論があるかもしれない。しかし、この前者の教育環境が日照条件のみという問題ではないことは、上記の国際学力testの分析で上位国家が東Asiaの日照率のたかい場所ゆえ、否定される。最後に限定された後天的要因とかんがえられるのは「教育をはげます環境」ということになり、孟母三遷のいいつたえと一致するところにおちつく。
また、
http://www.youtube.com/watch?v=Hw-15G3CNqE
茂木健一郎氏 知性とは何か
で茂木氏によれば、
らしい。これが真ならば、老成後の知能も大部分教育の成果をふくむわかいころのそれに相関していると定義できる。かつ
国別のノーベル賞受賞者 (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%A5%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85#.E3.81.AF.E8.A1.8C
によると、国別のNobel賞受賞者数と、上述の国際学力testならびに、そこからみちびける地頭(一般知能、脳のCPU性能をしめす)の比率は英語圏の受賞者数がおそらく国際語という優位性のために圧倒的に多い(英語は論文照査で贔屓されがちらしい)ほかほとんど有意な相関がなく、
http://kamomenome.exblog.jp/16752474/ あたまをよくする方法 でも分析したが「地域の平均」としての学力や地頭ととびぬけた秀才の出現率には相関がない。つまりこの賞の受賞者数はあたられかたにある公平とはいえないかたよりをもっていて、個人として英語圏にちかしい極端な変異へのえりごのみをしめすにとどまり、国際賞としてめだつ分だけ特にわけもなくめやすにされる機会にくらべれば精確な地域別の学力やあたまのよさの指標ではなさそうといえる。人類の公的統計機関ではなく、単に一財閥に由来した一国の大学組織(スウェーデンの特定の人々)がおこなっているのをかえりみるべきだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
よって、冒頭にかいた結論がみちびける: 証明おわり。
命題: 学力指標は後天的教育によるが、それをはげましやすい文化および気候環境があり、またとびぬけた秀才はこの地域によらず出現し、うまれつきの平均した知能のたかさは特定の地域にかたよってある。
日本ではめだってNobel賞が話題にあがりやすかったが、その授与率は出身者の地域と国際学力testや地頭(一般知能)に有意な相関がないのでおもに英語圏に依存した個人への特定の
証明:
PISAとTIMSSという国際学力testは、
PISA: 活用
TIMSS: 知識
と類比できそう。
PISA調査(Programme for International Student Assessment)は
http://www.intweb.co.jp/teian/PISAtoha.htm より
「学校の教科で扱われる知識の習得を超えた部分まで評価しようとする」が
TIMSS調査(Trends in International Mathematics and Science Study)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%83%BB%E7%90%86%E7%A7%91%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AA%BF%E6%9F%BB
は、おそらく数学・法則の基礎にかかわる習得度の方があてはまるだろうから。
PISAとTIMSSをくらべると、PISAとTIMSSの成績には差がある。最近のTIMSS2007とPISA2009上位を「地頭」にちかいとおもわれる順にTIMSS成績分のPISA成績(TIMSS\PISA)にならべかえると、
TIMSS2007の算数4年・中学2年・小学4年・中学2年の平均順に、
1. シンガポール 2346/4=586.5
2. 台湾 2292/4=573
3. 香港 2263/4=565.75
4. 日本 2240/4=560
かつ
PISA2009 数学的literacy+読解力+科学的literacyの平均順は、
1. 香港 1637/3≒545.67
2. シンガポール(1630/3)≒543.33
3. 日本 1588/3≒529.33
4. 台湾 (1558/3)≒519.33
ただしPISA2009、台湾の読解力495 科学的literacy520
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/07/1284443_01.pdf
また韓国は中学2年相当の数学と理科のみしか指標がないが、それのみで計算すると
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
TIMSS2007
韓国 (597+553)/2=575
PISA2009
韓国 1623/3=541
よって、TIMSS2007\PISA2009は
541/575=0.9408...=0.94=94%
よって、PISA2009の平均分のTIMSS2007の平均の百分率は、
1. 香港 565.7\(1637/3)≒565.7\545.67=0.9645...=0.96=96%
2. 日本 560\(1588/3)≒560\529.33=0.9452...=0.95=95%
3. 韓国 575\(1623/3)≒575\541=0.9408...=0.94=94%
4. シンガポール 586.5\(1630/3)≒586.5\543.33=0.9263...=0.93=93%
5. 台湾 573\(1558/3)≒573\519.33=0.9063...=0.90=90%
この最後のPISAの平均分のTIMSSの平均の百分率指標がおそらく 国際学力test(知識\活用比率) をしめす。いわばおなじ学習量であってもそれをつかえるわりあいとしての、地頭のよしあしをよりくわしくあらわすとおもわれる。脳の比喩としてのcomputerでいうとCPUの性能にあたるか。
フィンランド、イングランド(イギリス)という教育上理想視されがちな国はこの指標によるとうえにだしたくによりかわった特徴をしめす。
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
をもとにおなじく計算すると、
TIMSS2007
イングランド 2138/4=534.5
PISA2009
イングランド 1500/3=500
よって、TIMSS2007\PISA2009は
500/534.5=0.9354...=0.94=94%
つまり、イギリス(イングランド)は成績そのものはかなりひくいが、地頭だけでいえば国際的な上位にはいることになる。
フィンランドは1999年の調査以降参加しなかったらしいが、そのときの調査と、もっとも近い年度の2000年PISAをもとに指標をだすと、
http://www.nier.go.jp/kiso/timss/1999/gaiyou1999.pdf
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index28.htm
TIMSS1999
フィンランド 中学理科535 中学数学520 (535+535)/2=527.5
PISA2009
フィンランド 1620/3=540
よって、TIMSS1999\PISA2009は
540/527.5=1.0236...=1.02=102%
なので、地頭のよさが圧倒的にたかいことになる。
これらの国々を上記の指標へ編入すると、
1. フィンランド 102%
2. 香港 96%
3. 日本 95%
4. 韓国 94.08%
5. イギリス(イングランド) 94%
6. シンガポール 93%
7. 台湾 90%
となる。
つまり、イギリスをふくめ、フィンランドにもっとも顕著なのは「もとの素質」とおもわれる生得的知能の可能性がある。
http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
http://www.finland2.com/education01.html によると、
図書館の利用頻度(趣味としての読書のために本を借りる) (%)と図書館の利用頻度(趣味としての読書のために本を借りる) (%)の比率が日本よりフィンランドはたかく、またフィンランド人は、大人も子供もよく本を読みます。小さな子供への読み聞かせもさかんです。自治体の図書館の他に、大学や研究機関の図書館も広く国民に開放されていて、車を利用した移動図書館を含めると全国に1,000以上の図書館があります。80%以上の国民が月に一度以上図書館へ行き、年20冊以上の本やCDを借りており、国民一人当たりの図書館利用率は世界一です。
��2001年フィンランド教育省資料)
といわれているらしく、国民が読書を趣味にしているふしがある。しかし、
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 都道府県別の図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率)
によると、日本国内の指標で、図書館利用率の学力テストとの相関はつよくない。
上にだした
http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
という資料の 6. 趣味で読書すると学力が上がるか のdataにも、毎日の「趣味としての読書」時間と総合読解力得点はそれをまったくしない生徒の成績のわるさをのぞけば有意に相関がなく(本を趣味で毎日よまない生徒はかならず極端に成績がわるい)、
国立教育研究所は、「日本の生徒は趣味として読書をしなくても、読解力の得点が高いことがわかる」とだけコメントしている。
とある。だから、なおさら上記の指標は、生後の学習によっていないうまれつきの知能の差をしめしている可能性がある。
そしてこの有意な差は、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 同、全国学力テスト(活用/知識の比率)
にもみられるそのもので、科学上IQ(知能指数)がかなり以前に提出されているが、おなじことがらを国際社会でもしめしているかもしれない。
もし将来、よりくわしく、生後に幼少期のあいだおかれた社会環境におおきく依存していることがわかるかもしれない。だから優生学におちいるのは危険だが、たとえば国内で学力の上位地域に教育資本がめぐまれているかは
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/14230 図書館数
をみるかぎりたしかとはおもわれない。
http://todo-ran.com/t/kiji/14730 小中学生学校外学習率
http://todo-ran.com/t/kiji/14737 小中学生通塾率
にもそれほど有意に相関があるわけではなく、「学校外学習」を通塾させられるのではなくおこなっている地域、に学力testの上位県や地頭のよい人々がより多い可能性がある程度といえる。いわば子どもが自分から学習する意欲をもちやすい地域の気候をふくむ文化か、一帯の遺伝があるのだろう。
そこで、学力・地頭で最上位県は北ぐにでしかも日照時間がすくない日本海側にかたまっている傾向もいくらかあって、外出をする動機づけがすくない分だけ教育環境的な可能性はすてきれず、遺伝された生得的知能のみの問題ではないと反論があるかもしれない。しかし、この前者の教育環境が日照条件のみという問題ではないことは、上記の国際学力testの分析で上位国家が東Asiaの日照率のたかい場所ゆえ、否定される。最後に限定された後天的要因とかんがえられるのは「教育をはげます環境」ということになり、孟母三遷のいいつたえと一致するところにおちつく。
また、
http://www.youtube.com/watch?v=Hw-15G3CNqE
茂木健一郎氏 知性とは何か
で茂木氏によれば、
「一般知性としてのIQ」は幼少期に遺伝との相関が50~60%、思春期にIQの数値として10~20%ほど変動し、としをとると遺伝との相関は80%にあがるという研究がある
��IQ: 知能指数。年齢分の精神年齢百分率)
らしい。これが真ならば、老成後の知能も大部分教育の成果をふくむわかいころのそれに相関していると定義できる。かつ
国別のノーベル賞受賞者 (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%A5%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85#.E3.81.AF.E8.A1.8C
によると、国別のNobel賞受賞者数と、上述の国際学力testならびに、そこからみちびける地頭(一般知能、脳のCPU性能をしめす)の比率は英語圏の受賞者数がおそらく国際語という優位性のために圧倒的に多い(英語は論文照査で贔屓されがちらしい)ほかほとんど有意な相関がなく、
http://kamomenome.exblog.jp/16752474/ あたまをよくする方法 でも分析したが「地域の平均」としての学力や地頭ととびぬけた秀才の出現率には相関がない。つまりこの賞の受賞者数はあたられかたにある公平とはいえないかたよりをもっていて、個人として英語圏にちかしい極端な変異へのえりごのみをしめすにとどまり、国際賞としてめだつ分だけ特にわけもなくめやすにされる機会にくらべれば精確な地域別の学力やあたまのよさの指標ではなさそうといえる。人類の公的統計機関ではなく、単に一財閥に由来した一国の大学組織(スウェーデンの特定の人々)がおこなっているのをかえりみるべきだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
よって、冒頭にかいた結論がみちびける: 証明おわり。
2012年9月13日
森田一義独裁者による県出身者への犯罪
今日2012年9月13日の「笑っていいとも」でピース綾部氏は、タモリら出演者から集団で名誉毀損罪をこうむっていた。
かれは吉本興業に入って喜劇役者、entertainerのみちをえらんだのはえらんだのだろうが、ああいう犯罪にまきこまれそうならすぐその場を退出した方がいいのではないか。生放送だろうと犯罪はゆるされない。仕事だからとおもって我慢したのかもしれないが、あれはタモリらによる明白な集団犯罪だ。こどもの模範にならないのはいうまでもない。
観察した結果、タモリは自身の司会者の座がおびやかされそうな実力者を恣意的に排除しようとしたのだろう。犠牲の悲劇。いわばあの番組で森田一義という独裁者の悪巧み、悪業によって平日の昼間から公然と名誉毀損罪を放映して、その偏見にみちた悪評を正当化し、自身の地位の保全のためだけに綾部氏への公的評価をおとしめようとしたはずだ。
ちかいうちにタモリが起訴されるか、番組を降板させられることになるだろう。あまりにひどかった。ピース綾部氏は最大限同情されるべきだ。それほど適当とはおもえない悪い評価をあえてしている視聴者も人間としてまずまっとうではない悪意をもった嫉妬深い人々だろうし、性悪、陰険、悪質な小人といったところで、相手どる方がおろかだ。
古河はウィキペディア経由の風説によると東京を向いている様でもあり、じもととしては水戸方面からの忠告やてだすけはいらないのかもしれないが。県の反対側の人間としても、全般的に綾部氏への対応を世間はまちがっているなとみえる。かれは好色者かもしれないが明るく根はいい人間なので、その性格の純真さを自信ととりちがえて天狗天狗と衆愚は誹謗するのではなく、一座のリーダーとして立てておけば仲間の内を特有の社交性でうまくきりもりできるのだ。その能力を嫉妬から殺しているひとたちは、自分たちが貴重な人材を適所につけず、結果、集団が損をするのにきづかない。またそういった統率力のある位置がかれの能力をもっともいかしやすい場なので、かれは困難があるにもかかわらずあえてそういった社交性のたかい仲間のうちへはいっていくのだろう。
それが客観的には、単なる悪条件へ果敢にはいっていくハンディキャップにみえるわけだ。
ピース綾部氏への世論のおおよそをみていると、今現在、日本国民の大勢は堕落していてそこから評価されるということもよい意味をもっていないだろう。「邦無道」だ。単純にnet上は名誉毀損罪にみちていて、匿名掲示板でみられる様に品性下劣で悪質なほど嫉妬を買いにくく名誉毀損されにくい様だし、そういったNazism的に団塊化している衆愚世間をわたっていく方向に入っているピース綾部氏の役者としての将来というのも、はためには憂うべきか。そういった悪質な性格者や無理解者ばかりの人気稼業でなんとかやっていくのはむずかしいばかりか、実際、悲惨だろうから。
かれへの世間の勘違いした誹謗をみていると、天狗党の乱をおもいだせる。あれもおなじく、堕落した世界にくらべれば純真すぎる善意にみちた人間が、もっと退廃しきった俗物だらけ、陰険で悪質な人間だらけの江戸以南以西へくりだしていった結果こうむった悲劇だったろう。
綾部氏のもっている能力、つまり仲間をまとめる能力からいえばおそらく芸能界で大成するはずだが、それ以前に、森田一義容疑者みたいに陰険で嫉妬深く若者へ害をあたえる年寄りから排除されてしまうとうまくいかなくなってしまうかもしれない。たとえ何年間芸能界にいようと、どれほどまわりから持ち上げられていようと犯罪行為を公然と昼間から自身の番組で全国放映するのはゆるされない。
かれは吉本興業に入って喜劇役者、entertainerのみちをえらんだのはえらんだのだろうが、ああいう犯罪にまきこまれそうならすぐその場を退出した方がいいのではないか。生放送だろうと犯罪はゆるされない。仕事だからとおもって我慢したのかもしれないが、あれはタモリらによる明白な集団犯罪だ。こどもの模範にならないのはいうまでもない。
観察した結果、タモリは自身の司会者の座がおびやかされそうな実力者を恣意的に排除しようとしたのだろう。犠牲の悲劇。いわばあの番組で森田一義という独裁者の悪巧み、悪業によって平日の昼間から公然と名誉毀損罪を放映して、その偏見にみちた悪評を正当化し、自身の地位の保全のためだけに綾部氏への公的評価をおとしめようとしたはずだ。
ちかいうちにタモリが起訴されるか、番組を降板させられることになるだろう。あまりにひどかった。ピース綾部氏は最大限同情されるべきだ。それほど適当とはおもえない悪い評価をあえてしている視聴者も人間としてまずまっとうではない悪意をもった嫉妬深い人々だろうし、性悪、陰険、悪質な小人といったところで、相手どる方がおろかだ。
古河はウィキペディア経由の風説によると東京を向いている様でもあり、じもととしては水戸方面からの忠告やてだすけはいらないのかもしれないが。県の反対側の人間としても、全般的に綾部氏への対応を世間はまちがっているなとみえる。かれは好色者かもしれないが明るく根はいい人間なので、その性格の純真さを自信ととりちがえて天狗天狗と衆愚は誹謗するのではなく、一座のリーダーとして立てておけば仲間の内を特有の社交性でうまくきりもりできるのだ。その能力を嫉妬から殺しているひとたちは、自分たちが貴重な人材を適所につけず、結果、集団が損をするのにきづかない。またそういった統率力のある位置がかれの能力をもっともいかしやすい場なので、かれは困難があるにもかかわらずあえてそういった社交性のたかい仲間のうちへはいっていくのだろう。
それが客観的には、単なる悪条件へ果敢にはいっていくハンディキャップにみえるわけだ。
ピース綾部氏への世論のおおよそをみていると、今現在、日本国民の大勢は堕落していてそこから評価されるということもよい意味をもっていないだろう。「邦無道」だ。単純にnet上は名誉毀損罪にみちていて、匿名掲示板でみられる様に品性下劣で悪質なほど嫉妬を買いにくく名誉毀損されにくい様だし、そういったNazism的に団塊化している衆愚世間をわたっていく方向に入っているピース綾部氏の役者としての将来というのも、はためには憂うべきか。そういった悪質な性格者や無理解者ばかりの人気稼業でなんとかやっていくのはむずかしいばかりか、実際、悲惨だろうから。
かれへの世間の勘違いした誹謗をみていると、天狗党の乱をおもいだせる。あれもおなじく、堕落した世界にくらべれば純真すぎる善意にみちた人間が、もっと退廃しきった俗物だらけ、陰険で悪質な人間だらけの江戸以南以西へくりだしていった結果こうむった悲劇だったろう。
綾部氏のもっている能力、つまり仲間をまとめる能力からいえばおそらく芸能界で大成するはずだが、それ以前に、森田一義容疑者みたいに陰険で嫉妬深く若者へ害をあたえる年寄りから排除されてしまうとうまくいかなくなってしまうかもしれない。たとえ何年間芸能界にいようと、どれほどまわりから持ち上げられていようと犯罪行為を公然と昼間から自身の番組で全国放映するのはゆるされない。
2012年9月12日
防災庁舎の経験
以下の資料からいえるのは、消防庁舎とおもな派出所が高台ではない場所にあるのはきわめて危険ということ。
Piloti形式(くい形式)などでたてものたかさをたかくすることは、市内の浸水対策でのべた様にたてものをのこす効果はあるかもしれないが、それが基盤的な消防機関や警察機関だったばあい肝心の救出用の機器をうしなってしまう。震災後からここではくりかえしのべているにもかかわらず、市政には情報がつたわっていないかほとんどうごきがないみたいだが、実際に大津波があってからではておくれ、ということ。
https://twitter.com/inosenaoki (猪瀬氏twitter)より
Piloti形式(くい形式)などでたてものたかさをたかくすることは、市内の浸水対策でのべた様にたてものをのこす効果はあるかもしれないが、それが基盤的な消防機関や警察機関だったばあい肝心の救出用の機器をうしなってしまう。震災後からここではくりかえしのべているにもかかわらず、市政には情報がつたわっていないかほとんどうごきがないみたいだが、実際に大津波があってからではておくれ、ということ。
https://twitter.com/inosenaoki (猪瀬氏twitter)より
南三陸町防災庁舎。高さ12m。テレビで見るより大きい。
構造は阪神大震災から学び頑丈。しかし逃げた屋上の手摺りは吹き飛び、波に呑まれた。ウラ側の非常階段の人は助かった。
3階に非常用発電機も備えていたが。
42名中11名のみ生存。4m×3階分で高さ12m。さらに屋上の電波塔5m。だが津波は15.6mだった。
電波塔に輪になってしがみつく。助かった人と吹き飛んだ人がいた。
2階、アナウンスしていた女子職員の位置。最後は屋上へ逃げたが。
2012年9月10日
都市計画の特別監修役
茨城県の単位になるか、自治体単位になるかはわからないが、広域の都市計画をおこなうとき、ファイナルファンタジーシリーズをつくった坂口博信氏を監修にする、というのもひとつの工夫だとおもう。特に日立市は工業都市として独特の景観をすでにもっているが、工場が国外にでていくながれのなかで、廃墟かscrapとなりがちな工場施設あとを計画的に再生する、という面になにかのideaが挿入できそう。おもに工場跡再生事業、となるかもしれない。
テレビゲームのなかではきわめて未来的で幻想的な機械都市景観が創造されていたが、その原型質ともいえる想像力のみなもとには、日立市の工業都市環境からうけた幼児期以来の影響がみてとれるかもしれない。それは妹島氏にも共通しているところだが、この日立市独特の独創性のたかい近現代につくられた景観はむしろ都市のありかたとして貴重なもの、未来へむかったみとおしのあるものにみえる。イタリアのローマ、フランスのパリ、イギリスのロンドン、の様な古色蒼然とした景観とはむしろ逆をいく方向で、アメリカのニューヨーク、東京の様な林立ビル街のものともことなり、あるいは文化都市的ななんらかの共通コードや意匠などでかざってある京都、神戸、奈良、石川県金沢、鎌倉といった世界ともそれはことなる。日立市民自身はあたりまえだからそうはおもっていないみたいだが実利に徹した「まちの無機質さ」が独自のcoolさ、格好よさをもっている。この点を出身の坂口博信氏がもっとも理解できるのではないか。
具体的な建築家としては妹島氏が有能なのはあきらかだが、そのうえに坂口氏の都市計画への監修があればなんらかのいままで人類のみたことがない未来的景観や、そういったすすんだ都市圏とすぐれた場所ができあがるのはまずまちがいない。これは構想だが、いわきを介してはまどおり宇宙stationへつながる可能性もある。
もっともにた類型: 新型都市として横浜があるが、これは1983年に着工してすすんだ再開発事業によって短期間でつくりあげられた人工都市で、巨視するとブラジリアなどとにたpatternかもしれない。こういった一気呵成な大規模開発の欠点は、行政目線でおおくの決定がおこなわれた結果、民生とむすびつかずちかく大々的な廃墟になってしまう。たてかえや大規模修繕がしがたく模様替えにしか追随性のない超高層の欠点でもあるが、時代おくれになったつくりの不便さによって空きビル率もこれからさらにあがっていくだろう。つまり、いま横浜という場所はわずか30年ほどまえに速成された高層ビル群によって洗練された景観をもっているとそれなりの日本国民からおもわれている様だが、その風化や没落もおもったよりはやいことが予想できる。
いいかえれば、横浜にとられている先端都市imageはやりかたによっては近未来とりかえし、なおかつ決定的大差をつけるchanceがある。促成栽培の現代都市として、おそらく東京大震災とあわせてほぼ確実にくるあいての没落時期にあわせて計画的に、十分研究した成功する民生混交都市modelで日立の未来都市観の高揚をはかればいいだけだ。
行政主導でおこなわれる上意下達型の開発は可塑性や適応力がへってしまうことになる。この欠点を十分考慮し、横浜に予想できる失敗点を、再開発の前轍とすべき。Art event系などの過度の派手な装飾性を行政側は二兎をおうものとして特段顧慮せず民生へまかせ、単にrenovationをつかった公共infraの未来化を実利の面からおいもとめていけば日立独自の世界観に到達するだろう。
日立は県北では中心都市だから、特別な魅力をもつ波及効果は当然さらに北のここにもあるだろう。ほかでも神奈川県という単位、兵庫県という単位で先端的な景観をもって全体のimageを牽引しているちいさな市のはたす役割をおもえばおなじく。
テレビゲームのなかではきわめて未来的で幻想的な機械都市景観が創造されていたが、その原型質ともいえる想像力のみなもとには、日立市の工業都市環境からうけた幼児期以来の影響がみてとれるかもしれない。それは妹島氏にも共通しているところだが、この日立市独特の独創性のたかい近現代につくられた景観はむしろ都市のありかたとして貴重なもの、未来へむかったみとおしのあるものにみえる。イタリアのローマ、フランスのパリ、イギリスのロンドン、の様な古色蒼然とした景観とはむしろ逆をいく方向で、アメリカのニューヨーク、東京の様な林立ビル街のものともことなり、あるいは文化都市的ななんらかの共通コードや意匠などでかざってある京都、神戸、奈良、石川県金沢、鎌倉といった世界ともそれはことなる。日立市民自身はあたりまえだからそうはおもっていないみたいだが実利に徹した「まちの無機質さ」が独自のcoolさ、格好よさをもっている。この点を出身の坂口博信氏がもっとも理解できるのではないか。
具体的な建築家としては妹島氏が有能なのはあきらかだが、そのうえに坂口氏の都市計画への監修があればなんらかのいままで人類のみたことがない未来的景観や、そういったすすんだ都市圏とすぐれた場所ができあがるのはまずまちがいない。これは構想だが、いわきを介してはまどおり宇宙stationへつながる可能性もある。
もっともにた類型: 新型都市として横浜があるが、これは1983年に着工してすすんだ再開発事業によって短期間でつくりあげられた人工都市で、巨視するとブラジリアなどとにたpatternかもしれない。こういった一気呵成な大規模開発の欠点は、行政目線でおおくの決定がおこなわれた結果、民生とむすびつかずちかく大々的な廃墟になってしまう。たてかえや大規模修繕がしがたく模様替えにしか追随性のない超高層の欠点でもあるが、時代おくれになったつくりの不便さによって空きビル率もこれからさらにあがっていくだろう。つまり、いま横浜という場所はわずか30年ほどまえに速成された高層ビル群によって洗練された景観をもっているとそれなりの日本国民からおもわれている様だが、その風化や没落もおもったよりはやいことが予想できる。
いいかえれば、横浜にとられている先端都市imageはやりかたによっては近未来とりかえし、なおかつ決定的大差をつけるchanceがある。促成栽培の現代都市として、おそらく東京大震災とあわせてほぼ確実にくるあいての没落時期にあわせて計画的に、十分研究した成功する民生混交都市modelで日立の未来都市観の高揚をはかればいいだけだ。
行政主導でおこなわれる上意下達型の開発は可塑性や適応力がへってしまうことになる。この欠点を十分考慮し、横浜に予想できる失敗点を、再開発の前轍とすべき。Art event系などの過度の派手な装飾性を行政側は二兎をおうものとして特段顧慮せず民生へまかせ、単にrenovationをつかった公共infraの未来化を実利の面からおいもとめていけば日立独自の世界観に到達するだろう。
日立は県北では中心都市だから、特別な魅力をもつ波及効果は当然さらに北のここにもあるだろう。ほかでも神奈川県という単位、兵庫県という単位で先端的な景観をもって全体のimageを牽引しているちいさな市のはたす役割をおもえばおなじく。
宣伝役の選別
吉川友氏を県政は全面的に宣伝へつかうべきだ。県を広報するときにそばにたたせる、紹介写真につかうというきわめて単純な威光効果を期待して。女性の魅力としては若さが重要でもあるだろうからできるだけはやく、なんらかの長期にわたる専属的な契約、特別な茨城親善大使やふるさと大使に採用した方がいい。
魅力をつくりだすにはこういう好感をあたえやすい人物を東京にとられるよりさきにめざとくみつけてどんどんとってしまう必要がある。茨城の付加価値としてでなければ、むしろ東京がますます派手とおもわれるだけでそれほど追加の福祉はない。限界効用は逓減するから。
ピースの綾部氏はlooksだけを、photogenicな役で制限的にもちいるのがただしい。過当競争のお笑い芸能界では眉目秀麗な喜劇役者はめずらしいから嫉妬で非難されやすい状態にみえるが、みずからその場に身をおきたがるところをみると、個性をただしくとらえれば「悪条件下で周囲とことなるめずらしい魅力を発揮する」というtoughさの点に特徴をもっているともいえる。
渡部豪太氏は好青年だから、元気よくするたぐいの広報全般に役立つとおもわれる。
魅力をつくりだすにはこういう好感をあたえやすい人物を東京にとられるよりさきにめざとくみつけてどんどんとってしまう必要がある。茨城の付加価値としてでなければ、むしろ東京がますます派手とおもわれるだけでそれほど追加の福祉はない。限界効用は逓減するから。
ピースの綾部氏はlooksだけを、photogenicな役で制限的にもちいるのがただしい。過当競争のお笑い芸能界では眉目秀麗な喜劇役者はめずらしいから嫉妬で非難されやすい状態にみえるが、みずからその場に身をおきたがるところをみると、個性をただしくとらえれば「悪条件下で周囲とことなるめずらしい魅力を発揮する」というtoughさの点に特徴をもっているともいえる。
渡部豪太氏は好青年だから、元気よくするたぐいの広報全般に役立つとおもわれる。
偕楽園の拡張可塑性をたかめる
http://www.ibaraki-geopark.com/ジオサイト/水戸-千波湖/ によると、なんと偕楽園のひろさは都市公園とみて世界2位らしい。
ということは、ニューヨークをこそうとおもえばその面積以上に拡張すればいい、というのが容易にわかる。それで1位になれるわけだから、そこからは各国の都市計画をみながら1位付近を維持していけばいい。世界で一番ひろい都市公園をもつ、それだけでも美的価値のたかい都市として世界的模範と日本国、東洋の名誉になるだろう。
これは水戸の構造からいえば、意図すればいまの時点でも十分できそうにおもう。都市計画法の条例で、京都市とおなじでおそらくたてものたかさを水戸芸術館のタワー以下におさえる方針があったとおもったが、同時に田園都市化、という方向性にむかっていける好条件が義公によってつくられていたといえる。
ひとつ考慮すべきは、light-rail transitの計画があったとおもうが、これと地下鉄またはmonorail、あるいはrental cycle、Segwayどれかの移動手段開発によって広範になりやすい市街地の交通利便をます必要がでてくる。
ということは、ニューヨークをこそうとおもえばその面積以上に拡張すればいい、というのが容易にわかる。それで1位になれるわけだから、そこからは各国の都市計画をみながら1位付近を維持していけばいい。世界で一番ひろい都市公園をもつ、それだけでも美的価値のたかい都市として世界的模範と日本国、東洋の名誉になるだろう。
これは水戸の構造からいえば、意図すればいまの時点でも十分できそうにおもう。都市計画法の条例で、京都市とおなじでおそらくたてものたかさを水戸芸術館のタワー以下におさえる方針があったとおもったが、同時に田園都市化、という方向性にむかっていける好条件が義公によってつくられていたといえる。
ひとつ考慮すべきは、light-rail transitの計画があったとおもうが、これと地下鉄またはmonorail、あるいはrental cycle、Segwayどれかの移動手段開発によって広範になりやすい市街地の交通利便をます必要がでてくる。
2012年9月9日
東海第二原発の命題
「まずしくとも生きのこるのがいいのか、それともかねもちだが死にかねないのがいいのか」
この2択を、東海第二原発の即時廃止決定問題として首都圏の住民、そして東海村の村民へ問う。もし金に目がくらんで後者をえらぶのならば、そのひとびとのうえにはつねにダモクレスの剣(権力の不安定)がおどしかけられていることになる。たとえ官僚といえど、あるいは日本原子力発電株式会社とその株主としての主要電力会社関係者といえどおなじだろう。
先楽後憂となる政策は、先哲にくらべれば堕落としかいえない。報徳に応じた来世という思想、現世の業をしらねばならない。
そういう劣った決定をする利己主義者、公害への加担者は、当然それ相応のむくいがある。少数の悪意ある意思決定者のいのちを失わせられれば、後生にわたる無数のいのちをすくえるのだから、当然ひとびとに簡単な計算ができればそういった推進派のひとびとのいのちは狙われる可能性もあるだろう。
「金と命、どちらが大事なのか」。金とこたえれば殺されてもしかたない。そうすれば金はのこるのだから。理屈上、大株主と経産官僚の癒着体制から集団虐殺されかねない県民、あるいは県の生命体の一員からはそういえる。勿論、自分自身は穏健派で説得を重んじ、暗殺や殺害をのぞまないが、過去数度の歴史経験則からいえば、水戸藩士というものは本気をだすと確実に実行力をしめすはずだ。
正義のために身を呈するのをいとわないひとが水戸藩、いまの茨城県のなかにはいたことがおおかった。その意味でここは江戸時代以来正義の番人の様なところがある。なおかつ首都圏全体からみれば鬼門にあり、今回も、あまりにたみをしいたげつつ暴利をむさぼろうとするやからがのさばりゆけば、当然そういうおおきな粛清劇の反動がおきうると予想できる。
賢明なのは、そうなるまえに即時廃炉と産業転換をはかることでしかない。県民、国民、世界の市民からみれば単なる東海村付近の少数者の食いぶちのためだけに、こどもやわかものをふくむいのちをおびやかされるのは不合理でしかなく、そういう公害をもたらす欠陥のある産業の国策的転換、転職・転業の助成を講じてひきかえとするしかない。
この点で東海村村長の主旨、廃炉技術による再開発を期待するべきだ。いつまでも地方の善意におぶさった、悪意ある全体主義官僚と利益至上主義大電力会社の株主との癒着からたらしこまれた交付金麻薬につかっているのはわるいことで、きっぱりやめるべき。これからつぎつぎ原発がふえている全世界でおなじ問題がおこり、確実にはやめにあしをあらった先輩格をみならうひがくる。
この2択を、東海第二原発の即時廃止決定問題として首都圏の住民、そして東海村の村民へ問う。もし金に目がくらんで後者をえらぶのならば、そのひとびとのうえにはつねにダモクレスの剣(権力の不安定)がおどしかけられていることになる。たとえ官僚といえど、あるいは日本原子力発電株式会社とその株主としての主要電力会社関係者といえどおなじだろう。
先楽後憂となる政策は、先哲にくらべれば堕落としかいえない。報徳に応じた来世という思想、現世の業をしらねばならない。
そういう劣った決定をする利己主義者、公害への加担者は、当然それ相応のむくいがある。少数の悪意ある意思決定者のいのちを失わせられれば、後生にわたる無数のいのちをすくえるのだから、当然ひとびとに簡単な計算ができればそういった推進派のひとびとのいのちは狙われる可能性もあるだろう。
「金と命、どちらが大事なのか」。金とこたえれば殺されてもしかたない。そうすれば金はのこるのだから。理屈上、大株主と経産官僚の癒着体制から集団虐殺されかねない県民、あるいは県の生命体の一員からはそういえる。勿論、自分自身は穏健派で説得を重んじ、暗殺や殺害をのぞまないが、過去数度の歴史経験則からいえば、水戸藩士というものは本気をだすと確実に実行力をしめすはずだ。
正義のために身を呈するのをいとわないひとが水戸藩、いまの茨城県のなかにはいたことがおおかった。その意味でここは江戸時代以来正義の番人の様なところがある。なおかつ首都圏全体からみれば鬼門にあり、今回も、あまりにたみをしいたげつつ暴利をむさぼろうとするやからがのさばりゆけば、当然そういうおおきな粛清劇の反動がおきうると予想できる。
賢明なのは、そうなるまえに即時廃炉と産業転換をはかることでしかない。県民、国民、世界の市民からみれば単なる東海村付近の少数者の食いぶちのためだけに、こどもやわかものをふくむいのちをおびやかされるのは不合理でしかなく、そういう公害をもたらす欠陥のある産業の国策的転換、転職・転業の助成を講じてひきかえとするしかない。
この点で東海村村長の主旨、廃炉技術による再開発を期待するべきだ。いつまでも地方の善意におぶさった、悪意ある全体主義官僚と利益至上主義大電力会社の株主との癒着からたらしこまれた交付金麻薬につかっているのはわるいことで、きっぱりやめるべき。これからつぎつぎ原発がふえている全世界でおなじ問題がおこり、確実にはやめにあしをあらった先輩格をみならうひがくる。
2012年9月6日
集団思考について(ウィキペディアからの引用)
集団思考(しゅうだんしこう、groupthink)は、集団で合議を行う場合に不合理あるいは危険な意思決定が容認されること、あるいはそれにつながる意思決定パターン。集団浅慮と訳されることもある。
集団浅慮の概念と類型
ジャニスは上述の事例に基づく検討から、次にあげる条件があるとき、集団思考の兆候が現れ、それが欠陥のある意思決定につながると結論づけた。
先行する条件
��1)団結力のある集団が、(2)構造的な組織上の欠陥を抱え、(3)刺激の多い状況に置かれると、集団思考に陥りやすい。
構造的な組織上の欠陥とは、メンバーに発言の機会を平等に与える公平なリーダーシップの欠如、整然とした手続きを求める規範の欠如、構成員の社会的背景とアイデンティティの均一性などのことである。また、刺激の多い状況とは、リーダーの意見よりもよい解決策が望めないような、集団外部からの強い脅威などのことを指している。
集団思考の兆候
上述の先行する条件があるとき、次のような集団思考の兆候を示し始めることが多い。
第1類型:自分たちの集団に対する過大評価。自分たちを不死身と見なす幻想や、集団固有の倫理に対する信仰のことである。例えば、ニクソン大統領とそのアドバイザーは、不死身の幻想に陥り、ウォーターゲート事件による致命的ダメージを警告する声を無視したとされる。
第2類型:閉ざされた意識。集団による自己弁護、集団外部に対する偏見が具体例である。例えば、ピッグス湾事件における意思決定では、「敵は間抜けで弱体」と見なす集団外部への偏見が働いていたという。
第3類型:均一性への圧力。自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲する行為や、決定が多数派の見解と一致するよう留意すること全会一致の幻想、決定の倫理性、効果に対する集団の自己満足を妨げる情報が集団に伝わるのを防ぐ成員の出現を指す。
欠陥のある決定の兆候
集団思考の兆候を示す3類型のうち、いずれかまたは全てに当てはまると、集団内の合意形成の努力の結果として、欠陥のある決定を下すことが多い。
その兆候とは、(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない、といった点である。
Janis, Irving, Decision Making: Psychological Studies of Policy Decisions and Fiascoes, p.244.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E6%80%9D%E8%80%83
集団浅慮の概念と類型
ジャニスは上述の事例に基づく検討から、次にあげる条件があるとき、集団思考の兆候が現れ、それが欠陥のある意思決定につながると結論づけた。
先行する条件
��1)団結力のある集団が、(2)構造的な組織上の欠陥を抱え、(3)刺激の多い状況に置かれると、集団思考に陥りやすい。
構造的な組織上の欠陥とは、メンバーに発言の機会を平等に与える公平なリーダーシップの欠如、整然とした手続きを求める規範の欠如、構成員の社会的背景とアイデンティティの均一性などのことである。また、刺激の多い状況とは、リーダーの意見よりもよい解決策が望めないような、集団外部からの強い脅威などのことを指している。
集団思考の兆候
上述の先行する条件があるとき、次のような集団思考の兆候を示し始めることが多い。
第1類型:自分たちの集団に対する過大評価。自分たちを不死身と見なす幻想や、集団固有の倫理に対する信仰のことである。例えば、ニクソン大統領とそのアドバイザーは、不死身の幻想に陥り、ウォーターゲート事件による致命的ダメージを警告する声を無視したとされる。
第2類型:閉ざされた意識。集団による自己弁護、集団外部に対する偏見が具体例である。例えば、ピッグス湾事件における意思決定では、「敵は間抜けで弱体」と見なす集団外部への偏見が働いていたという。
第3類型:均一性への圧力。自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲する行為や、決定が多数派の見解と一致するよう留意すること全会一致の幻想、決定の倫理性、効果に対する集団の自己満足を妨げる情報が集団に伝わるのを防ぐ成員の出現を指す。
欠陥のある決定の兆候
集団思考の兆候を示す3類型のうち、いずれかまたは全てに当てはまると、集団内の合意形成の努力の結果として、欠陥のある決定を下すことが多い。
その兆候とは、(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない、といった点である。
Janis, Irving, Decision Making: Psychological Studies of Policy Decisions and Fiascoes, p.244.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E6%80%9D%E8%80%83
2012年9月5日
Idolの分析と質素の徳
東京圏(東京・神奈川を中心として、千葉や埼玉をふくむ一帯)を一応の終点として、東海道・Asian highwayの右端を通しておきているのは偶像化、idolizationの現象とおもえる。
特に、最近県南でも一部のひとらがまねさせている様だが、このアイドルが舞妓として歌舞その他の遊芸をおこなう、という歌劇の商業化現象がみられる。
すでに同質のものとして古代には芸子・芸妓・芸者、という京都圏を中心にみられる芸能者集団がいたし、現代版でこれがidolとなのっているわけ。秋元康という人物、のちにつんく♂という2名が女衒、いわば人身売買業の中心になっている。またジャニーズや、宝塚歌劇団、沖縄アクターズスクールばあいによっては吉本興業もかなり似た型にはいるかもしれない。これらのほかに、質のわるい犯罪にふみこむなんらかのサービスをおこなわせる芸能者をかこいこむ、芸能事務所の類というべきものが無数に東京都内にはある。江戸時代から状況はかわらない。
おなじことは韓国でもかなりむかしからおきている様だ。妓生とよばれるひとびとが韓国版の舞妓で、いまでいうイ・スマンという人物が無数の歌舞や歌劇をおもにおこなう芸能者を国際的にうりだしているのも相似的といえる。この人物はもともと日本にすんでいて、日本の芸能界での偶像稼業を模倣し、韓国へ輸入したとおもわれる。
つまり、この偶像化とは現代ではそのいいかたはおおいかくされてはいるが、社会であまったり転落した者らをかこいこんで役者にしたてる、という間接的な奴隷制度なわけだ。それがテレビによる洗脳の影響力でcelebrity: 有名人とよばれ、逆説的に羨望をあつめる様になった。
よりひろい意味で偶像ということばをつかうと、偶像崇拝を禁じる、つまりニセモノの像ではなく、神という理念そのものを信仰させようとしたのがHebraismで、ユダヤ・キリスト・イスラム諸教の根源にあるかんがえかたといえる。ところが、Hellenismとしての多神教だったギリシアの思想、またOrientalismとしての東アジアの思想もまた偶像をかならずしも禁じなかった。総じてみて、「美術」という世界で聖像からはなれた人物やsub cultureでみられる擬人化したcharacterをとうとぶ、すくなくとももてあそぶという風習は西洋ではHellenism、東洋特に日本ではOrientalismとHellenismの結合に由来している。
そして今日、具体的にいきている人間へこの偶像・にせの像・つくりもの、つまりidolということばがあてはめられて、いきている偶像が生じる様になった。おもとしてかなりの猥褻で歌舞をおこなう芸能者がidolとよばれるわりあいがたかい様だが、この現象はAmericaからAsiaまでの自由主義圏一帯で相当ひろがっているならわしとみえる。
日本のばあい状況がひどいのは、Hebraismとの切断がはげしいので貞操観念からの抑制がなく、舞妓・芸妓・芸子・芸者とおなじで既存の売春社会とむすびつくわりあいがたかくなって、ますますこの生きた偶像たちは堕落していく、という多神教風土によくみられる偶像崇拝とおなじ光景がひろがるところだ。『旧約聖書』創世記にソドムとゴモラ、というまちがほろぼされた説話が有名だが、これはいまでいえば東京都と京都府といってもそれほどちがいはない。
なぜそうなるのか。特に世襲によって最高権力者の地位をながいあいだ独占してきた天皇家の居住地のちかくでこういった現象が頻発定着するのをみると、この天皇家のもっている信仰に退廃的商業都市のなかで偶像化をすすめたがる部分があるとみえる。もしそうでなければ周囲の土地では逆の風俗がみられることだろう。すでに中世にも、皇族界隈での性の極端なみだれをかきのこした『源氏物語』のなかではソドム的な光景がみられる。本居宣長が補強したなんでもありnationalism人種差別理論(大和魂、やまとごころ、あるいはもののあわれというkey wordsで先祖返りをおこしよく再起動される)によってこれが現代にまでつながり、いまだに天皇家の巣である東京都ではソドム化がつづいているといえそう。
これらの見解から、偶像化はその虚像の崇拝という悪習によって貞操観念をうしなわせたり、生きた人間をもちいるばあい背後にある奴隷制度的な人身売買を定式化するので当然悪徳となるが、そのおもたる原因はソドム・ゴモラに類比できる東京都や京都府をすみかとした天皇家から生じているといえるだろう。特にかれらのなかには国家神道として明治時代に再興された祖先崇拝やanimism、偶像崇拝をふくむ特殊な信仰が世襲の絶対権力者としてあるのだが、これが極東での偶像化をもたらす第一原因であり、また悪徳の根源といえそう。
ところで、水戸学という哲学体系は創始者の光圀によって、この世襲の皇帝の血統の連綿さを神格化する思想をふくんでいた。おそらく論証的にみいだせる幕藩体制の理由付けとして、藤原、源や足利、徳川あるいはマッカーサーといった有力者が古代王朝の末裔である天皇家の権威を利用する、という間接統治体制をとったその根源因をこの一系性にもとめたからだろう。地球規模の世界史をみかえすとこういった連綿さはめずらしいのもたしかだが、現実には偶像化のあしき風俗をもひきつれてくるお人なのが天皇家、というはなし。歴史上例外がないからまずそうだろう。天皇家とのつきあいというのは、日本ではということだが、左翼的にそれを廃位しようとすると古代からの家系図がのこっている血統書という日本人の一類にみられる由緒の希少性をうしない、右翼的にそれを称揚しようとすると絶対主義者の偶像化にまつわる悪徳が蔓延させられつつ世襲した天皇の血中心の人種差別から世相が排外主義にむすびついていくという両極にまつわる弊害をともなうので、できたら中道的な敬遠にかぎるといえそう。しかし日本ではないばあい、この天皇家とちかづくことは地球では最大のながさをもつ世襲の絶対権力者だからありそうな腐敗加減といえばそうだが、否応なくソドム的な風紀でよごされることでもあるだろうから、できるだけおちかづきにならない方がいいのだろう。そしておそらく外国人や日本国民どちらでも、天皇の具体的な廃位にうごいていくばあいは国家神道とからんだ極右暴力団による迫害がくわえられる可能性があるだろう。
なぜ日本国民の多数がこれをおこなわないかというと、極右暴力団や皇族の関係者による明に暗にの迫害をおそれていること、もうひとつは前述の水戸学の理念が智恵とみていきているからだろう。
またなぜ征服者が天皇の根絶的廃位をおこなわないかいえば、すくなくとも状況的にそれがおこないにくかったこと、また水戸学的南朝正統論にもその萌芽がみられる血統の主体性への信頼感にかかわる保守性、そしてこれは和辻哲郎の『倫理学』での論旨だが多数の信仰者がいる法王状態の人物を廃位するのはその狂信下にある民衆を統治するのに不都合という3つがかんがえられる。特に3番目の論旨は、幕末の新政府軍側によってつかわれた朝敵ということば、また第二次世界大戦時につかわれた皇統ということばで現実に弾劾権のない最高権力者状態だったのが天皇だから独裁政におちいるのはあたりまえかもしれないが、そういう統治に際した不都合観をもった人間がしかもGHQをふくめた政府の中枢に複数いたのを実証している。昭和天皇が玉音放送直前に三種の神器の所在を心配していたわけも、もとは水戸学に於ける世襲権力正統化の根拠が血統論をふくんでいた、という昭和天皇の独自解釈によるのだろう*1)。
*1) 北朝方は足利幕府にかつがれたが南朝方は主体性をもった天皇だったから、徳川光圀: 義公がのべたかったのはむしろ天皇制度のなかにある天皇という皇帝の意思の尊重だとおもわれる。おそらくだが、生前の最高官位が中納言であった事実からも、もっとも悪解釈したとしても御三家としての立場の限界から徳川宗家そのものの役割を皇室補佐に定める方が得策と判断し、もっとも善解釈したとすればこれがのちに副将軍と称される結果になるわけだがいまでいう水戸っぽい豪胆な気質から宗家とのあいだで生じている共生的な競合関係のなかで真の忠誠の度合いを啓発し権力者の理想をためそうとしたのではないか。この言動の動機は、兄の頼房をさしおいて藩主になった負い目、のちに早隠居による養子での家督の禅譲という有名でおそらく『史記』伯夷列伝からの影響でおこなわれた心理的複合観念の時宜におよんだ昇華だったろう。そしてこの2代藩主のいいつけへ忠実に、勝手に攘夷決行へはやった薩長とはことなり皇室からの攘夷の勅許をもとめて当時の征夷大将軍の後見役として慶喜が水戸藩主の末裔として京都へ随行した事や、そもそも勅許をえずに不平等条約へ調印した伊井直弼を越権の専横とみなした水戸藩士の理解は、おなじ意味での天皇主体論を一貫して奉じていたとおもわれる。そして現代にいたるまで、この水戸学的な真意は単に逃亡したとおもわれている慶喜へのかれらからの評価をみるかぎり、新政府側にたっていたすべての人をふくめ、旗本がわにも理解されていない様でもある。
たとえば『人国記』『新人国記』でみられる常陸へ善悪をしらないあるいは全人がいないといった行動意図が理解できないことからくる偏見は、その哲学的深度に由来した道徳性の高みがこの俗書が書かれたと仮定される単に習俗にならうジャイアニズムの江戸とは、現代でもみられる地味主義的な常陸側のおおきな風紀のよさを参考にすればよい意味でおおはばにちがっていた証拠ととらえられる。道徳性は知能行動、つまり総合的な状況判断による将来予測性であり、一般知能に由来するのでその分だけ平均的な知識分の活用力の程度もたかいはずであり、もし地域にこの機運があるとすれば一定集団もそのとおりなはずだが、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率) をみれば現にそうなっている。ここで茨城県小中学生の知識分の活用比率、つまり茨城の子どもの平均した「地あたまのよさの成績」が関東地方あるいは首都圏ではほかにまさってもっともよく、全国でトップな秋田やトップレベルの北陸にならぶ成績なのに注目していい。つまりつめこみではない意味であたまのはたらきがいい、茨城の人は地頭がすぐれていると判断できる。おそらくこの茨城県民の地あたまのよさ、という長所はさらにのばされるべきだ。常陸国にふるくすんでいたのひとびとの先祖のかしらといえる佐竹氏のその後の定着地では、こどもにみられる頭脳のよさが圧倒的なのもすくなくともおなじこと、地頭の血統的な優良さとみられる現象を証左している。よりくわしく
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト の結果、また
http://todo-ran.com/t/kiji/12094 全国学力テスト(知識:A) と
http://todo-ran.com/t/kiji/12098 全国学力テスト(活用:B) を参考にかりに茨城と東京を比較すると、勿論どちらもテスト成績そのものやその地頭のよさといえるだろう数値は上位にあるわけだが、茨城のこどもはこの地あたまに比例するとみられる知識分の活用比率でのみ4位分も順位をとび級しているのにくらべ、東京のこどもではむしろ1位分の順位をおとしていてその勉強の絶対量のわりにはたらきがにぶい分だけ前者より平均して地頭がおとる可能性があり、結果として東京は茨城よりも平均して道徳性がひくいということも東京での成人後の犯罪率や犯罪発生数の極端なたかさ、ジャイアニズムにまつわる数々の過度の自信のありかから当然ある、と推察されるだろう。
ところでこの一切をみても、複雑なことではあるが、天皇家のひきつれているおおきな悪徳のばらまきは義公による天皇家の主体性のかばいではおぎないきれないのではないか。民衆政、あるいは共和政のわくぐみのなかで多数者支配のもと、国民主権がとなえられている時勢に、天皇家を中枢としたソドムでの偶像化; ばあいによってはこのソドムである東京都や京都府その他スラム的な商業地そのものの偶像化は、決して正当化できそうにない。主権者からみれば、それらは天皇世襲制度の絶対主義的腐敗にしかとらええないだろう。実際に、なぜ東京や京都を中心地としてこのソドム的偶像化がおこなわれるのかいえば、天皇家の信仰が悪徳をもっているからだ。なされるべきなのは天皇家やその血統という古典的偶像そのものへのよく理解された見地であり、その結果、天皇主義というY染色体の血に由来した人種差別ではない面から、なにが道徳的でほかがそうでないのかがみわけられ、首都での堕落の影響からひとびとをすくわねばならない。王を擁立した理由さえ、もとはといえば最善者としての単独支配だったわけだから、その人物が劣悪で利己的、かつ悪徳流毒の原因なときは容赦なく否定されていい。
Idol化は実質と虚像をはなしていく、という装飾的付加価値のまちがった用法だ、と結論できる。おそらく、哲学の根源的には美術装飾そのものも否定される。偶像崇拝が禁忌されている地方では、おなじ労力が人心の改善、つまり多少あれ利他的な善良性にむけられる分だけ虚栄からはなれていく。単なるひまつぶしや娯楽としての美術、またそれに類したsub cultureへもおなじく結論づけられるだろう。よって、今日みられる近代美術のわくぐみ、絵画や彫刻による建築装飾すら本来の徳からみれば堕落でしかないだろう。現に、古典的なイスラム教の世界というHellenismの影響をよわくしかうけていない地域でのみ、この無装飾性への信念がいきのこっているのがわかる。Modernismとよばれる工業製品とのかねあいでみられた装飾の罪悪視は、美術世界でいえば、水戸藩の領域で質素倹約という面からこころみられていた物品趣味の徳と鏡うつしでおなじ合理性をもっている。Americaでいうpragmatismとの一致点もみいだせるだろう。
魅力、地域ブランド調査という東京都の総合ブランド研究所でおこなわれている地域の偶像化も、総じておなじ悪徳に堕するとみていい。その結果は質実剛健の地域性(http://kamomenome.exblog.jp/16715247/)のlogで予想されたとおり、高魅力地域でのガラパゴス商業化によってひとびとの適応性の低下になる筈だ。ときに、地球的視野のある高級官僚から日本は変な国、といわれることがあるのはこれをさしている。過商業性による大都市適応の既存習性、おそらく天皇家所在地首都制度での都好みが結果として島国でかつ文化や言語圏が少数派であるかぎり半閉鎖的であらざるをえない日本市場の風俗を無駄に、つかいづらく、不適応に特殊化する。
なすべきなのは徳の先導だ。ここでいう徳とは、良徳、社会学的知識、智恵のことで、そのideaによって社会のなかのひとびとがより福祉にめぐまれる行動指針をいう。そしてそれは偶像化をさけたがる心理、天皇崇拝や美術物品崇拝あるいはsub culture系のfetishismや自然崇拝もふくめたなんらかの偶像崇拝を禁じようとする習性によって獲得できる。
世界には積極的に偶像をつくりだす文化状態と、それを否定して内面心理の充実にこころをくばる文化状態の2つの場面がある、ともいえる。和辻哲郎『偶像再興』、などでとなえられているのは偶像の象徴作用を重視したたちばで、それは西洋で特にイタリアrenaissance 以降におこなわれてきたHellenism文化の再興とも帰一。古代日本でいえば縄文期は偶像社会、弥生期は脱偶像社会、とかんがえられる。後者があるのはおそらくなんらかのあらたな技術状況とのかみあわせがあり、いままでの装飾性での貴重品らしさが通用しなくなったという心理からの啓蒙がはかられる場面だろう。この分析点は岡倉天心『日本美術史』総叙にも、「精神鋭くして観念先立つときは興起し、形体を求むるにいたれば必ず衰頽す」と、めあては美術装飾品とかぎられてはいるがなかばにた洞察がみられる。道具や置物あるいは建物としてなんらかの機能性をもっていたものが、思潮の転換でその祭祀様式や劇そのものからはなれると単なる美術装飾品とみなされるのもおなじわけだろう。つまり偶像なるもの;人為的にかたちづくられた希少性の捏造は別の時代からみれば単なる技術様式の独特さにもとめられ、それはなんらかの象徴作用を機能化するところにある。
おおまかに、機能性のたかさはその時代の生産様式でつかわれる道具に於ける技術革新、つまり発明からうまれる。対してこのある機能性の型に対する連続的洗練化が装飾をよぶ。前者は用途にまつわり利用率による生産性を発達させ、後者は豪華さでの権威感や威圧をよぶ。人類史は前者のするどさが後者を駆逐する、といったかたちですすむ。そうみると前者のみがすぐれている様だが、後者のよい点は貴重品がたまりやすく、後進的な世界でその伝統芸能を保全していく場面がありえるところ*2)。
*2)哲学的な思想の領域でいうと、明治時代では前者が福沢で後者が岡倉のたちばといえばわかりやすいだろうか。岡倉天心の論旨にみられる日本という吹き溜まりになりやすい極東のしまの美術館視、Asiaのmuseumである、といった論理はおなじ原理、つまりanimismや多神教の風土がのこっている日本という孤立したしまぐに文明を、伝統工芸の保守率のよい適所とといているといえるだろう。
では自分が、偶像化に対してもっぱらどんな意見をもっているかいえば、すくなくともHellenismとHebraismの結合による西洋と、その直系であり覇権をもっているAmericaの文明圏、が主導している時代に過装飾文化をもつのは危険であり、文化圏やそこでくらす生態のいきのこりのためには実用主義にもとづいて偶像崇拝を禁忌していく方がいい、ということ。もし状況がゆるさずどうしても無駄の制度化である装飾文化、偶像化をふくめたそれをみとめなければいけないとしても、その根拠はある立派な徳の象徴化作用にしか根拠はもとめられないのだから、すくなくともよい趣味かどうかが判断基準になる。わずかでもいやしいなにかしらの傾向があるとき、この装飾性は罪悪だ、とのべてもいい。
こういった趣味観念がないまま、偶像崇拝の状態が完全に放置された結果として東京都、京都府、ソドム、ゴモラ、あるいは今日のほとんどの都道府県で大のおとながゆるキャラといいながら実在しないなにかしらへ擬人化されたすがたとして、ちぢんだ人形に身をつつんでねりあるく、といったくるった光景がある。それはまたanimationや漫画、comicsの副文化から引用した偶像化のありさまだろうが、日本全国全都道府県が一様にこの偶像崇拝的なおろかしい風俗にそまっている、そしてだれもその悪徳:ありもしない虚像へささげた愛好にもとづく祭祀を指摘しないというのは本気でおそろしい現象だ。Disney labelによって擬人化された喜劇的人形劇が、同時期に日本国内でみられた漫画での同様のcomedyをふくめ、もしかするとそのはじめの一端をになったのかもしれない。
いまイスラム圏でも、特に石油による莫大な収入がある諸地域ではこの過装飾の美術館を複数つくりだして将来世代の観光収入をみこした来世のそなえにしよう、といったイスラム思想にもとづいた文化模倣がみられる。だがそれも総合してみかえすと、人類史上ではある堕落にすぎないだろう。もとはギリシア人らのなかでの多神教がひとがたをもった神を空想していた経歴から、とおく極東日本での神道が祖先崇拝や自然崇拝の系譜にまでこれをひっつけてしまう、という奇妙なHellenismの変遷が、像としてのかたちをもった崇拝対象をつくりだす制度につながったのだろうが、その東京都や京都府のありえる末路はソドムやゴモラとおなじでまた悲惨なはずだ。
このにせの像、つくりものをおがみ、大事にするというのは根本的には神のつくりだした人間こそが大事であるという理解をさまたげるのであり、その人間が世界のなにごとかを模倣してつくりごとをするのはさきに『旧約聖書』*3)にみられる見解だが神の似姿であるはず人間性にそむく現象なのがあきらかだから、実用的な道具にかぎってのみそれを人間の目的につかえる範囲で人間未満にだが大事にする、というのが趣味にそむかない限度、とかんがえられる。もしおなじ論拠にもとづけば、この人間優先の領分にのみなんらかの記号を応用した装飾、できたらなんらかの自然や人工物を模倣によって連想させないそれもかぎられるべき、とわかる。わざわざいうまでもない様なはなしだが、現実にはこれに反した無数の慣習があるのでこの理想はよほど達しがたいのがわかる。しかし妥協してしまうほどのきびしい、反宗教的でゆがんだ現実性がどれほどあったとしても、やはり理想的な徳という面からはこの偶像否定の方がよい、すぐれたたちばなはずだ。「質素」、ということばがもっとも素朴にこの趣味に関する道徳性をつたえている。
*3) 『旧約聖書』出エジプト記:20
特に、最近県南でも一部のひとらがまねさせている様だが、このアイドルが舞妓として歌舞その他の遊芸をおこなう、という歌劇の商業化現象がみられる。
すでに同質のものとして古代には芸子・芸妓・芸者、という京都圏を中心にみられる芸能者集団がいたし、現代版でこれがidolとなのっているわけ。秋元康という人物、のちにつんく♂という2名が女衒、いわば人身売買業の中心になっている。またジャニーズや、宝塚歌劇団、沖縄アクターズスクールばあいによっては吉本興業もかなり似た型にはいるかもしれない。これらのほかに、質のわるい犯罪にふみこむなんらかのサービスをおこなわせる芸能者をかこいこむ、芸能事務所の類というべきものが無数に東京都内にはある。江戸時代から状況はかわらない。
おなじことは韓国でもかなりむかしからおきている様だ。妓生とよばれるひとびとが韓国版の舞妓で、いまでいうイ・スマンという人物が無数の歌舞や歌劇をおもにおこなう芸能者を国際的にうりだしているのも相似的といえる。この人物はもともと日本にすんでいて、日本の芸能界での偶像稼業を模倣し、韓国へ輸入したとおもわれる。
つまり、この偶像化とは現代ではそのいいかたはおおいかくされてはいるが、社会であまったり転落した者らをかこいこんで役者にしたてる、という間接的な奴隷制度なわけだ。それがテレビによる洗脳の影響力でcelebrity: 有名人とよばれ、逆説的に羨望をあつめる様になった。
よりひろい意味で偶像ということばをつかうと、偶像崇拝を禁じる、つまりニセモノの像ではなく、神という理念そのものを信仰させようとしたのがHebraismで、ユダヤ・キリスト・イスラム諸教の根源にあるかんがえかたといえる。ところが、Hellenismとしての多神教だったギリシアの思想、またOrientalismとしての東アジアの思想もまた偶像をかならずしも禁じなかった。総じてみて、「美術」という世界で聖像からはなれた人物やsub cultureでみられる擬人化したcharacterをとうとぶ、すくなくとももてあそぶという風習は西洋ではHellenism、東洋特に日本ではOrientalismとHellenismの結合に由来している。
そして今日、具体的にいきている人間へこの偶像・にせの像・つくりもの、つまりidolということばがあてはめられて、いきている偶像が生じる様になった。おもとしてかなりの猥褻で歌舞をおこなう芸能者がidolとよばれるわりあいがたかい様だが、この現象はAmericaからAsiaまでの自由主義圏一帯で相当ひろがっているならわしとみえる。
日本のばあい状況がひどいのは、Hebraismとの切断がはげしいので貞操観念からの抑制がなく、舞妓・芸妓・芸子・芸者とおなじで既存の売春社会とむすびつくわりあいがたかくなって、ますますこの生きた偶像たちは堕落していく、という多神教風土によくみられる偶像崇拝とおなじ光景がひろがるところだ。『旧約聖書』創世記にソドムとゴモラ、というまちがほろぼされた説話が有名だが、これはいまでいえば東京都と京都府といってもそれほどちがいはない。
なぜそうなるのか。特に世襲によって最高権力者の地位をながいあいだ独占してきた天皇家の居住地のちかくでこういった現象が頻発定着するのをみると、この天皇家のもっている信仰に退廃的商業都市のなかで偶像化をすすめたがる部分があるとみえる。もしそうでなければ周囲の土地では逆の風俗がみられることだろう。すでに中世にも、皇族界隈での性の極端なみだれをかきのこした『源氏物語』のなかではソドム的な光景がみられる。本居宣長が補強したなんでもありnationalism人種差別理論(大和魂、やまとごころ、あるいはもののあわれというkey wordsで先祖返りをおこしよく再起動される)によってこれが現代にまでつながり、いまだに天皇家の巣である東京都ではソドム化がつづいているといえそう。
これらの見解から、偶像化はその虚像の崇拝という悪習によって貞操観念をうしなわせたり、生きた人間をもちいるばあい背後にある奴隷制度的な人身売買を定式化するので当然悪徳となるが、そのおもたる原因はソドム・ゴモラに類比できる東京都や京都府をすみかとした天皇家から生じているといえるだろう。特にかれらのなかには国家神道として明治時代に再興された祖先崇拝やanimism、偶像崇拝をふくむ特殊な信仰が世襲の絶対権力者としてあるのだが、これが極東での偶像化をもたらす第一原因であり、また悪徳の根源といえそう。
ところで、水戸学という哲学体系は創始者の光圀によって、この世襲の皇帝の血統の連綿さを神格化する思想をふくんでいた。おそらく論証的にみいだせる幕藩体制の理由付けとして、藤原、源や足利、徳川あるいはマッカーサーといった有力者が古代王朝の末裔である天皇家の権威を利用する、という間接統治体制をとったその根源因をこの一系性にもとめたからだろう。地球規模の世界史をみかえすとこういった連綿さはめずらしいのもたしかだが、現実には偶像化のあしき風俗をもひきつれてくるお人なのが天皇家、というはなし。歴史上例外がないからまずそうだろう。天皇家とのつきあいというのは、日本ではということだが、左翼的にそれを廃位しようとすると古代からの家系図がのこっている血統書という日本人の一類にみられる由緒の希少性をうしない、右翼的にそれを称揚しようとすると絶対主義者の偶像化にまつわる悪徳が蔓延させられつつ世襲した天皇の血中心の人種差別から世相が排外主義にむすびついていくという両極にまつわる弊害をともなうので、できたら中道的な敬遠にかぎるといえそう。しかし日本ではないばあい、この天皇家とちかづくことは地球では最大のながさをもつ世襲の絶対権力者だからありそうな腐敗加減といえばそうだが、否応なくソドム的な風紀でよごされることでもあるだろうから、できるだけおちかづきにならない方がいいのだろう。そしておそらく外国人や日本国民どちらでも、天皇の具体的な廃位にうごいていくばあいは国家神道とからんだ極右暴力団による迫害がくわえられる可能性があるだろう。
なぜ日本国民の多数がこれをおこなわないかというと、極右暴力団や皇族の関係者による明に暗にの迫害をおそれていること、もうひとつは前述の水戸学の理念が智恵とみていきているからだろう。
またなぜ征服者が天皇の根絶的廃位をおこなわないかいえば、すくなくとも状況的にそれがおこないにくかったこと、また水戸学的南朝正統論にもその萌芽がみられる血統の主体性への信頼感にかかわる保守性、そしてこれは和辻哲郎の『倫理学』での論旨だが多数の信仰者がいる法王状態の人物を廃位するのはその狂信下にある民衆を統治するのに不都合という3つがかんがえられる。特に3番目の論旨は、幕末の新政府軍側によってつかわれた朝敵ということば、また第二次世界大戦時につかわれた皇統ということばで現実に弾劾権のない最高権力者状態だったのが天皇だから独裁政におちいるのはあたりまえかもしれないが、そういう統治に際した不都合観をもった人間がしかもGHQをふくめた政府の中枢に複数いたのを実証している。昭和天皇が玉音放送直前に三種の神器の所在を心配していたわけも、もとは水戸学に於ける世襲権力正統化の根拠が血統論をふくんでいた、という昭和天皇の独自解釈によるのだろう*1)。
*1) 北朝方は足利幕府にかつがれたが南朝方は主体性をもった天皇だったから、徳川光圀: 義公がのべたかったのはむしろ天皇制度のなかにある天皇という皇帝の意思の尊重だとおもわれる。おそらくだが、生前の最高官位が中納言であった事実からも、もっとも悪解釈したとしても御三家としての立場の限界から徳川宗家そのものの役割を皇室補佐に定める方が得策と判断し、もっとも善解釈したとすればこれがのちに副将軍と称される結果になるわけだがいまでいう水戸っぽい豪胆な気質から宗家とのあいだで生じている共生的な競合関係のなかで真の忠誠の度合いを啓発し権力者の理想をためそうとしたのではないか。この言動の動機は、兄の頼房をさしおいて藩主になった負い目、のちに早隠居による養子での家督の禅譲という有名でおそらく『史記』伯夷列伝からの影響でおこなわれた心理的複合観念の時宜におよんだ昇華だったろう。そしてこの2代藩主のいいつけへ忠実に、勝手に攘夷決行へはやった薩長とはことなり皇室からの攘夷の勅許をもとめて当時の征夷大将軍の後見役として慶喜が水戸藩主の末裔として京都へ随行した事や、そもそも勅許をえずに不平等条約へ調印した伊井直弼を越権の専横とみなした水戸藩士の理解は、おなじ意味での天皇主体論を一貫して奉じていたとおもわれる。そして現代にいたるまで、この水戸学的な真意は単に逃亡したとおもわれている慶喜へのかれらからの評価をみるかぎり、新政府側にたっていたすべての人をふくめ、旗本がわにも理解されていない様でもある。
たとえば『人国記』『新人国記』でみられる常陸へ善悪をしらないあるいは全人がいないといった行動意図が理解できないことからくる偏見は、その哲学的深度に由来した道徳性の高みがこの俗書が書かれたと仮定される単に習俗にならうジャイアニズムの江戸とは、現代でもみられる地味主義的な常陸側のおおきな風紀のよさを参考にすればよい意味でおおはばにちがっていた証拠ととらえられる。道徳性は知能行動、つまり総合的な状況判断による将来予測性であり、一般知能に由来するのでその分だけ平均的な知識分の活用力の程度もたかいはずであり、もし地域にこの機運があるとすれば一定集団もそのとおりなはずだが、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率) をみれば現にそうなっている。ここで茨城県小中学生の知識分の活用比率、つまり茨城の子どもの平均した「地あたまのよさの成績」が関東地方あるいは首都圏ではほかにまさってもっともよく、全国でトップな秋田やトップレベルの北陸にならぶ成績なのに注目していい。つまりつめこみではない意味であたまのはたらきがいい、茨城の人は地頭がすぐれていると判断できる。おそらくこの茨城県民の地あたまのよさ、という長所はさらにのばされるべきだ。常陸国にふるくすんでいたのひとびとの先祖のかしらといえる佐竹氏のその後の定着地では、こどもにみられる頭脳のよさが圧倒的なのもすくなくともおなじこと、地頭の血統的な優良さとみられる現象を証左している。よりくわしく
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト の結果、また
http://todo-ran.com/t/kiji/12094 全国学力テスト(知識:A) と
http://todo-ran.com/t/kiji/12098 全国学力テスト(活用:B) を参考にかりに茨城と東京を比較すると、勿論どちらもテスト成績そのものやその地頭のよさといえるだろう数値は上位にあるわけだが、茨城のこどもはこの地あたまに比例するとみられる知識分の活用比率でのみ4位分も順位をとび級しているのにくらべ、東京のこどもではむしろ1位分の順位をおとしていてその勉強の絶対量のわりにはたらきがにぶい分だけ前者より平均して地頭がおとる可能性があり、結果として東京は茨城よりも平均して道徳性がひくいということも東京での成人後の犯罪率や犯罪発生数の極端なたかさ、ジャイアニズムにまつわる数々の過度の自信のありかから当然ある、と推察されるだろう。
ところでこの一切をみても、複雑なことではあるが、天皇家のひきつれているおおきな悪徳のばらまきは義公による天皇家の主体性のかばいではおぎないきれないのではないか。民衆政、あるいは共和政のわくぐみのなかで多数者支配のもと、国民主権がとなえられている時勢に、天皇家を中枢としたソドムでの偶像化; ばあいによってはこのソドムである東京都や京都府その他スラム的な商業地そのものの偶像化は、決して正当化できそうにない。主権者からみれば、それらは天皇世襲制度の絶対主義的腐敗にしかとらええないだろう。実際に、なぜ東京や京都を中心地としてこのソドム的偶像化がおこなわれるのかいえば、天皇家の信仰が悪徳をもっているからだ。なされるべきなのは天皇家やその血統という古典的偶像そのものへのよく理解された見地であり、その結果、天皇主義というY染色体の血に由来した人種差別ではない面から、なにが道徳的でほかがそうでないのかがみわけられ、首都での堕落の影響からひとびとをすくわねばならない。王を擁立した理由さえ、もとはといえば最善者としての単独支配だったわけだから、その人物が劣悪で利己的、かつ悪徳流毒の原因なときは容赦なく否定されていい。
Idol化は実質と虚像をはなしていく、という装飾的付加価値のまちがった用法だ、と結論できる。おそらく、哲学の根源的には美術装飾そのものも否定される。偶像崇拝が禁忌されている地方では、おなじ労力が人心の改善、つまり多少あれ利他的な善良性にむけられる分だけ虚栄からはなれていく。単なるひまつぶしや娯楽としての美術、またそれに類したsub cultureへもおなじく結論づけられるだろう。よって、今日みられる近代美術のわくぐみ、絵画や彫刻による建築装飾すら本来の徳からみれば堕落でしかないだろう。現に、古典的なイスラム教の世界というHellenismの影響をよわくしかうけていない地域でのみ、この無装飾性への信念がいきのこっているのがわかる。Modernismとよばれる工業製品とのかねあいでみられた装飾の罪悪視は、美術世界でいえば、水戸藩の領域で質素倹約という面からこころみられていた物品趣味の徳と鏡うつしでおなじ合理性をもっている。Americaでいうpragmatismとの一致点もみいだせるだろう。
魅力、地域ブランド調査という東京都の総合ブランド研究所でおこなわれている地域の偶像化も、総じておなじ悪徳に堕するとみていい。その結果は質実剛健の地域性(http://kamomenome.exblog.jp/16715247/)のlogで予想されたとおり、高魅力地域でのガラパゴス商業化によってひとびとの適応性の低下になる筈だ。ときに、地球的視野のある高級官僚から日本は変な国、といわれることがあるのはこれをさしている。過商業性による大都市適応の既存習性、おそらく天皇家所在地首都制度での都好みが結果として島国でかつ文化や言語圏が少数派であるかぎり半閉鎖的であらざるをえない日本市場の風俗を無駄に、つかいづらく、不適応に特殊化する。
なすべきなのは徳の先導だ。ここでいう徳とは、良徳、社会学的知識、智恵のことで、そのideaによって社会のなかのひとびとがより福祉にめぐまれる行動指針をいう。そしてそれは偶像化をさけたがる心理、天皇崇拝や美術物品崇拝あるいはsub culture系のfetishismや自然崇拝もふくめたなんらかの偶像崇拝を禁じようとする習性によって獲得できる。
世界には積極的に偶像をつくりだす文化状態と、それを否定して内面心理の充実にこころをくばる文化状態の2つの場面がある、ともいえる。和辻哲郎『偶像再興』、などでとなえられているのは偶像の象徴作用を重視したたちばで、それは西洋で特にイタリア
おおまかに、機能性のたかさはその時代の生産様式でつかわれる道具に於ける技術革新、つまり発明からうまれる。対してこのある機能性の型に対する連続的洗練化が装飾をよぶ。前者は用途にまつわり利用率による生産性を発達させ、後者は豪華さでの権威感や威圧をよぶ。人類史は前者のするどさが後者を駆逐する、といったかたちですすむ。そうみると前者のみがすぐれている様だが、後者のよい点は貴重品がたまりやすく、後進的な世界でその伝統芸能を保全していく場面がありえるところ*2)。
*2)哲学的な思想の領域でいうと、明治時代では前者が福沢で後者が岡倉のたちばといえばわかりやすいだろうか。岡倉天心の論旨にみられる日本という吹き溜まりになりやすい極東のしまの美術館視、Asiaのmuseumである、といった論理はおなじ原理、つまりanimismや多神教の風土がのこっている日本という孤立したしまぐに文明を、伝統工芸の保守率のよい適所とといているといえるだろう。
では自分が、偶像化に対してもっぱらどんな意見をもっているかいえば、すくなくともHellenismとHebraismの結合による西洋と、その直系であり覇権をもっているAmericaの文明圏、が主導している時代に過装飾文化をもつのは危険であり、文化圏やそこでくらす生態のいきのこりのためには実用主義にもとづいて偶像崇拝を禁忌していく方がいい、ということ。もし状況がゆるさずどうしても無駄の制度化である装飾文化、偶像化をふくめたそれをみとめなければいけないとしても、その根拠はある立派な徳の象徴化作用にしか根拠はもとめられないのだから、すくなくともよい趣味かどうかが判断基準になる。わずかでもいやしいなにかしらの傾向があるとき、この装飾性は罪悪だ、とのべてもいい。
こういった趣味観念がないまま、偶像崇拝の状態が完全に放置された結果として東京都、京都府、ソドム、ゴモラ、あるいは今日のほとんどの都道府県で大のおとながゆるキャラといいながら実在しないなにかしらへ擬人化されたすがたとして、ちぢんだ人形に身をつつんでねりあるく、といったくるった光景がある。それはまたanimationや漫画、comicsの副文化から引用した偶像化のありさまだろうが、日本全国全都道府県が一様にこの偶像崇拝的なおろかしい風俗にそまっている、そしてだれもその悪徳:ありもしない虚像へささげた愛好にもとづく祭祀を指摘しないというのは本気でおそろしい現象だ。Disney labelによって擬人化された喜劇的人形劇が、同時期に日本国内でみられた漫画での同様のcomedyをふくめ、もしかするとそのはじめの一端をになったのかもしれない。
いまイスラム圏でも、特に石油による莫大な収入がある諸地域ではこの過装飾の美術館を複数つくりだして将来世代の観光収入をみこした来世のそなえにしよう、といったイスラム思想にもとづいた文化模倣がみられる。だがそれも総合してみかえすと、人類史上ではある堕落にすぎないだろう。もとはギリシア人らのなかでの多神教がひとがたをもった神を空想していた経歴から、とおく極東日本での神道が祖先崇拝や自然崇拝の系譜にまでこれをひっつけてしまう、という奇妙なHellenismの変遷が、像としてのかたちをもった崇拝対象をつくりだす制度につながったのだろうが、その東京都や京都府のありえる末路はソドムやゴモラとおなじでまた悲惨なはずだ。
このにせの像、つくりものをおがみ、大事にするというのは根本的には神のつくりだした人間こそが大事であるという理解をさまたげるのであり、その人間が世界のなにごとかを模倣してつくりごとをするのはさきに『旧約聖書』*3)にみられる見解だが神の似姿であるはず人間性にそむく現象なのがあきらかだから、実用的な道具にかぎってのみそれを人間の目的につかえる範囲で人間未満にだが大事にする、というのが趣味にそむかない限度、とかんがえられる。もしおなじ論拠にもとづけば、この人間優先の領分にのみなんらかの記号を応用した装飾、できたらなんらかの自然や人工物を模倣によって連想させないそれもかぎられるべき、とわかる。わざわざいうまでもない様なはなしだが、現実にはこれに反した無数の慣習があるのでこの理想はよほど達しがたいのがわかる。しかし妥協してしまうほどのきびしい、反宗教的でゆがんだ現実性がどれほどあったとしても、やはり理想的な徳という面からはこの偶像否定の方がよい、すぐれたたちばなはずだ。「質素」、ということばがもっとも素朴にこの趣味に関する道徳性をつたえている。
*3) 『旧約聖書』出エジプト記:20
それから神はこれらのすべてのことばをはなしてこういわれた。
「わたしはあなたの神、あなたをエジプトの地から、奴隷の家からたずさえだしたものである。あなたはわたしのかおにさからって、ほかのいかなるものをも神としてはならない。あなたは自分のために、上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめてはならず、さそわれてそれに仕えてもならない。」
2012年9月2日
水戸学の本質
弘道館での教育は、結局、古代ギリシアの自由人へのそれと同じ類型だったとおもう。一般教養:liberal artsによって自由人、つまり奴隷と正反対の人格をつくろうとした。
時代に応じて教養のなかみはかわるが、人類がもとめている目標はそれほどおおきくちがわないあかしだ。この自由市民という理想がおもに是政者、政治階級にとって十分条件となる適性だったのがわかる。
時代に応じて教養のなかみはかわるが、人類がもとめている目標はそれほどおおきくちがわないあかしだ。この自由市民という理想がおもに是政者、政治階級にとって十分条件となる適性だったのがわかる。
いじめの解決方法
山岸俊男氏『心でっかちな日本人』第二章からひけるのは、機会頻度によったいじめ行動がみられる、という実験的知見だろう。
何人がいじめをやめさせるかあるいはみてみぬふりをするか、というclassの平均期待値によって結果が真逆になる。この臨界値がすべての集団にあり、よいときは本来の正義感のある者らによってのぞましい社会秩序としての個性の尊重があらわれ、わるいとき、こどもでは校内犯罪の隠蔽であるいじめとなり、おとなでは組織的な犯罪の隠蔽になる。
すべてこの犯罪隠蔽をさけさせるには、消極的には2012年9月現在滋賀県大津市で大々的におこなわれている様な事後的な刑罰もきくだろうが、積極的にはその社会集団での臨界値を風変わりだが無実な少数者をかばうがわにもっていくのが必要となる。
排他的集団はかれらの多数がもっていない特徴のもちぬしをしいたげる。この際に、かれら根っからのわるものをとりかこむ多数者が個性尊重的な行動原理をもっているとき、あきらかに少数者の権利をまもろうとするだろう。日本でこれがおこりにくいのは、かれらの多数が遺伝的同族性をもっているうえ、かつて村八分という管理された農村社会で規制されていたふるい風習があるから。このなれが特に日本社会とよべる日本の土着人らのみの集団では頻繁に先祖返りででてくる。
あるべきなのは個性尊重がわの人数を擁護する事、そしてそういった行動習性をもつ人間をclass、つまり一定の組織集団にふやすこと。
それにはこどもの社会では単なる動機づけだけではなく、無実の少数者へのいじめ行為をとめさせた者へおおやけに褒章をあたえる、傍観者は潜在的ないじめ加担者だからこれをふくめとめなかった者へ厳罰をほどこす、という賞罰の原理を教育指導要綱あるいは条例規則へいれる必要がある。またおとなの社会では無実の少数者への迫害と多数者への追従によっておこした事件にあきらかな法的罰則をもうけること、そして無実の少数者への擁護やてだすけをおこなった者へ公的褒賞や報酬をあたえる必要がある。冤罪に関しての同様の場合もおなじ。
もっとわかりやすくまとめてしまうと、とらえかたによって語弊もあるかもしれないが、「判官贔屓 の制度化」をするのがいい。
これらの無実と罪への個人主義的賞罰原理は単なる制度だから、精神論より具体効果があるだろう。さらに、単なる道徳心理をうえつけるという方法をとるばあい、新渡戸稲造『武士道』の弱い者いじめへの心理的制裁をしめす該当箇所またはおとなのばあい全体を教本としてあつかうのも実効性があるだろう。仁:benevolenceの項目につぎの文がある。
敗 れたる者を慈 しみ、傲 れる者を挫 き、
平和の道を立てること、これぞ汝 の業 。
��まけたものをいつくしみ、わがままなものをくじき、
おだやかなみちをたてること、これがおまえのすべきこと。)
また自分自身がそこにまきこまれたばあいは、
1. 「自分が第三者であるか現にまきこまれそう」なとき無実の少数者の味方をして悪人らへみずから抵抗したり信頼できる他者へ通報するなどさまざまな手だてで「たたかう」か、
2. 「自分自身が被害をうけている」ときは「勝てそうならばたたかい、てだすけがすくなく勝ち目がなさそうならばその社会集団からのがれ別の集団に所属する」のが有効。
3. これらの中間的な「傍観」が、なにもしていなくともおこなわれていく罪へ間接加担することになるばかりか、その悪意ある集団とそっくりな一員とみなされてしまうので「もっとも危険」ということになる。
4. 勿論、「自分自身が無実の少数者への犯罪にてをそめている」ときは「もっとも損害をこうむっているのは自分自身」となるだろう。この無益なばかりか害のある行動へついやされる時間を自分自身の向上にあてた方が合理的なばかりか、犯罪そのものは外的には警察から処罰され、内的には良心から制裁されるから。
何人がいじめをやめさせるかあるいはみてみぬふりをするか、というclassの平均期待値によって結果が真逆になる。この臨界値がすべての集団にあり、よいときは本来の正義感のある者らによってのぞましい社会秩序としての個性の尊重があらわれ、わるいとき、こどもでは校内犯罪の隠蔽であるいじめとなり、おとなでは組織的な犯罪の隠蔽になる。
すべてこの犯罪隠蔽をさけさせるには、消極的には2012年9月現在滋賀県大津市で大々的におこなわれている様な事後的な刑罰もきくだろうが、積極的にはその社会集団での臨界値を風変わりだが無実な少数者をかばうがわにもっていくのが必要となる。
排他的集団はかれらの多数がもっていない特徴のもちぬしをしいたげる。この際に、かれら根っからのわるものをとりかこむ多数者が個性尊重的な行動原理をもっているとき、あきらかに少数者の権利をまもろうとするだろう。日本でこれがおこりにくいのは、かれらの多数が遺伝的同族性をもっているうえ、かつて村八分という管理された農村社会で規制されていたふるい風習があるから。このなれが特に日本社会とよべる日本の土着人らのみの集団では頻繁に先祖返りででてくる。
あるべきなのは個性尊重がわの人数を擁護する事、そしてそういった行動習性をもつ人間をclass、つまり一定の組織集団にふやすこと。
それにはこどもの社会では単なる動機づけだけではなく、無実の少数者へのいじめ行為をとめさせた者へおおやけに褒章をあたえる、傍観者は潜在的ないじめ加担者だからこれをふくめとめなかった者へ厳罰をほどこす、という賞罰の原理を教育指導要綱あるいは条例規則へいれる必要がある。またおとなの社会では無実の少数者への迫害と多数者への追従によっておこした事件にあきらかな法的罰則をもうけること、そして無実の少数者への擁護やてだすけをおこなった者へ公的褒賞や報酬をあたえる必要がある。冤罪に関しての同様の場合もおなじ。
もっとわかりやすくまとめてしまうと、とらえかたによって語弊もあるかもしれないが、「
これらの無実と罪への個人主義的賞罰原理は単なる制度だから、精神論より具体効果があるだろう。さらに、単なる道徳心理をうえつけるという方法をとるばあい、新渡戸稲造『武士道』の弱い者いじめへの心理的制裁をしめす該当箇所またはおとなのばあい全体を教本としてあつかうのも実効性があるだろう。仁:benevolenceの項目につぎの文がある。
平和の道を立てること、これぞ
��まけたものをいつくしみ、わがままなものをくじき、
おだやかなみちをたてること、これがおまえのすべきこと。)
また自分自身がそこにまきこまれたばあいは、
1. 「自分が第三者であるか現にまきこまれそう」なとき無実の少数者の味方をして悪人らへみずから抵抗したり信頼できる他者へ通報するなどさまざまな手だてで「たたかう」か、
2. 「自分自身が被害をうけている」ときは「勝てそうならばたたかい、てだすけがすくなく勝ち目がなさそうならばその社会集団からのがれ別の集団に所属する」のが有効。
3. これらの中間的な「傍観」が、なにもしていなくともおこなわれていく罪へ間接加担することになるばかりか、その悪意ある集団とそっくりな一員とみなされてしまうので「もっとも危険」ということになる。
4. 勿論、「自分自身が無実の少数者への犯罪にてをそめている」ときは「もっとも損害をこうむっているのは自分自身」となるだろう。この無益なばかりか害のある行動へついやされる時間を自分自身の向上にあてた方が合理的なばかりか、犯罪そのものは外的には警察から処罰され、内的には良心から制裁されるから。
2012年9月1日
国々の2種類の特徴
1. かつて皇居か幕府があり
2. 冬季を含む五輪があったことがあり
3. 有名な芸能学校がある
これが派手な都道府県の特徴。
具体的には、北海道、沖縄、東京、神奈川、京都、大阪、兵庫、奈良、長野。
ただし、
1. 所得格差がひろがり(商業化)
2. 犯罪率や離婚率があがり(風紀低落)
3. 運動テストや体力テストの成績悪化
という反面を総じてもたらしがちらしい*1)。地域名に魅せられてきた新規流入者がそういう傾向をあたえる可能性があり、またかれらの劣悪な賃金労働者としての飽和状態がスラム化をもたらすのだろう。ホームレスや生活保護者世帯数がもっともおおい方にこれらの都道府県ははいっている。
ただこのなかで、奈良は人口ひとりあたりの総生産が日本一ひくい、というかわった特徴がある。平城京があった時代にそうだったにせよ、現代ではあまり商業化がすすんでいないとわかる。もう1つの側面として、皇室が移動後古都になった地域は平等志向が極端につよくなる可能性がある。京都では共産党の得票率が日本一たかく、奈良には宗教法人による所得調整をおこなうはず寺院仏閣や新興宗教が複数みられるから。
*1) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html
http://todo-ran.com/t/kiji/11767
http://todo-ran.com/t/kiji/13959
http://todo-ran.com/t/kiji/13944
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7342.html
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
特に、 http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html の重要データを引用する。
警察庁「犯罪統計資料(平成24年1~4月分)」によると、
「刑法犯」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.503%)
2位:愛知県(0.444%)
3位:兵庫県(0.431%)
「殺人」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0028%)
2位:大阪府(0.0022%)
3位:兵庫県(0.0017%)
「強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0146%)
2位:大阪府(0.0135%)
3位:神奈川県(0.0083%)
「侵入強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0044%)
2位:神奈川県(0.0042%)
3位:大阪府(0.0039%)
「放火」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.00299%)
2位:東京都(0.00248%)
3位:千葉県(0.00167%)
「強姦」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0029%)
2位:大阪府(0.0025%)
3位:千葉県(0.0018%)
「強制わいせつ」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.023%)
2位:東京都(0.020%)
3位:神奈川県(0.009%)
これらをかえりみると、出所不明な俗書『人国記』『新人国記』にある常陸あるいは上総、下総などへみられる偏見項目、単に盗賊、押込、辻切が多いといった風説はおそらくこれを書いた民衆扇動家、demagogue矢野新一的な自己中心主義の武蔵国人等による悪意ある虚偽であり、現実にはそれらがもっとも多く風紀の劣るのが東京(武蔵)であり、おもにこの東京都からのはなはだしい悪影響と公害によって首都圏では、ちかばの諸地域、あるいは神奈川(相模)と千葉県、あるいはその影響はそれらにくらべれば微弱だが埼玉・千葉の県境でわけへだてられてはいる茨城県もすこしだが不本意に犯罪率を引き上げられてしまっている事がはっきり立証できる。
これらの犯罪行為がみとめがたい点はどこでも同じ。それを現に割合、件数どちらでももっともおおくおこなっている刑法犯罪の悪党だらけの武蔵国(江戸、東京)が自分たちを闊達にして気が広いだとか潔いとかうそぶいて巧言令色で自慢をのべ、実際には真逆にもかかわらずさも自分たちこそ優良で善性かの様にみせかけるうえ、さらにあしきことにはそれらの悪徳からの公害あるいは罪の責任さえまわりの無関係の第三者におしつけるのは完全に現代にまで伝承されている、東京ジャイアニズム系の極悪の業としかいえない。単なる風説や冤罪まがいの非科学的偏見をさも真理かの様にかきつけているのはいまだにかわらないあしき風儀だといえる。
このかなり昔の俗書にも、いまの矢野新一、総合ブランド研究所、ほか東京のマスコミにもみられる共通の特徴として、自分達自身がひきおこしている罪業をさもよいことにしたててかくしたりゆがませたりしてごまかしてしまうばかりか、まわりのむしろ善良だったり高潔だったりする人々にその事由の責任をおしつけてしまうという帝王主義的な情報偏見の悪意がある。いいかえれば、情報発信能力を独裁する事でそれを虚偽や風説でほかを害する器械とし、自らの利益のためだけに情報発信を悪用している。
現代にも共通するこの通俗的な腐敗、情報発信力独占の弊害、権力濫用の堕落に対抗し正義や科学的真理あるいはひとびとの平等や公正な常識といったのぞましい調和を達成するには情報発信源の多元化が必需となる。このweblogもその一助になるだろう。
現時点でもあきらかにそうだが、素朴な田園社会の延長にある茨城県域むかしでいう常陸国水戸藩あるいは下総国の方が、通商的な大都市化のすすんだ東京・江戸・武蔵あるいは神奈川・鎌倉・相模よりあきらかに風紀も民心もよかったろう。おなじことは、巨視的には関西地方にとって大阪からの悪影響下でおこっているはずだ。
くらべて、地味な都道府県はこれといった特徴がなく、まわりにとってめだたない。具体的には、茨城、福井、埼玉、栃木、群馬、佐賀、徳島、鳥取など。同時に、共通してみられるほぼこれといったわるい面もすくない。あえていえばとなりに大都市圏があるとき、そこからの影響でなんらかの統計的数値が変動している傾向はみられる。このなかで福井と茨城、場合によっては埼玉も都道府県別小中学生体力テストが男女ともに上位や最上位にあり、特に福井と茨城はさらに都道府県別全国学力テストとその知識にくらべた活用力比率が上位にある*2)。
*2) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://todo-ran.com/t/kiji/13465
http://todo-ran.com/t/kiji/13471
http://todo-ran.com/t/kiji/12090
http://todo-ran.com/t/kiji/12102
質実剛健の地域性というlogで前回かいたが、この派手世界と地味世界では、派手な方がガラパゴス化しやすく、地味な方が普遍的な適応をしやすい。だからいきのこりを前提にどちらへ属する方がよいかといえば地味な方、とかんがえられる。
こうみかえすと、おもにめだちたがりやのあつまりやすい場所、それは当然皇族や将軍、五輪関係者、芸能人といったひとびとだが、こういう者のとどまったりすすんでいきたがる条件や偶然の機会が特定の場所にそういった人口をあつめた、といえる。対してそういった派手者があつまっていないとき、はずかしがりやの世界がつくられるのだろう。
日本でもそうだが、イギリス、フランス、ドイツ、中国、朝鮮、など封建的社会秩序ができあがった時代をもっている国家には、すくなくともこのはずかしがりやさ、shynessをとうとぶ傾向が中流社会以上にはいくらかよりのこっている様にみえる。特に良識的な家庭、あるいは土地の貴族といったイメージで。
Americanizationでみえないくらいぬりつぶされた絵だが、それは封建時代に領主の保守性がつくりだした倫理観だったのだろう。おそらく一夫一妻制度の発祥やそこからきたある純潔主義的心情も各国ともここに由来している。はずかしがりやの方が下手な配偶をする機会や可能性もすくなくなる、よってこの地味な人間によって家督がつがれていく方が地主たちの地位は安定したとおもわれる。
地球という単位でみると、まあたらしい国々と、安定した中世の主従社会が成立した国々とではこの2種類のおおまかな好みの性格差がみえる場合もある。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、これは植民地として樹立した最近の新しい国々だが、おおまかにめだちたがりやで、単なる成金をのぞけば伝統的な貴族というものがいないことがはっきりわかる。それゆえ保守的封建道徳へほとんど関心がない。
以上の事をおおまかに分析すると、日本ではまずイギリス軍にねがえった明治維新によって一度目の革命、アメリカ軍による間接統治がおこってから二度目の革命をへて、保守性というものが比較的よわくなっている。だから上述でいう派手好みequal魅力という、もともと数値化できない地域のよさへ全体主義的に管理化した意図または悪意でこの方向性をせめたがっているひと(総合ブランド研究所の約10名や矢野新一など)がいるのだが、それは当の一度目の実質的内政干渉をおこなったイギリス社会ではむしろ逆なのが興味ぶかい。UKには保守党が現にあり、そもそも都市文明に懐疑的で王室までふくめ田舎: country sideを愛する傾向のある国民性という面で、自信や地に根付いた故郷愛を喪失し伝統の継続をきらう様になった反封建主義的商業化性向のあるこの日本国のひとびととは大分ことなる。北茨城というちいさないちでも大多数は、ここはおそらく日本のなかでもっとも保守性がたかいとおもわれている地域の極北なのだが、それでもやはり郊外店の侵食やcommercialismそのものへ果敢に抵抗しないという面ではおなじらしい。
藤原正彦氏がくりかえしのべている日本の落ち度は、かれらが敗軍したあいての伝統的な保守性;ひるがえって自分達自身のそれさえなぜか否定、Americanismを勘違いしてうけとって、外様大名らの出世根性でつくりあげた新興の大商業都市文化にそまってしまったその団塊的みにくさなのだろう*3)。このおろかしさはあまりにあわててEuropeやAmericaにおいつこうとして屋上屋をかさねた明治の帝冠様式建築や公序良俗をもたない成金が多数だったことによる異常投機のバブル経済の様な変てこな勘違いをかさねた、という「邯鄲の歩み」にありそう。
*3) 要は、こういった日本の多数派はベネディクト『菊と刀』にも機会主義的とあるが、めさきの損得勘定によわく、ひろい視野や長い目をもたないことから、ほかの連合国民:アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアをはじめとしてカナダ、オーストラリア、オランダなどのひとびとにくらべれば、現実に大敗戦しているとおり一般知能が総じて低いのかもしれない。過去からみちびけばそういった理解ができるうえ、今日での東京発のテレビの俗にも空気を読め、という集団統制を意味する熟語が頻繁にみられるとおり、あからさまな全体主義さえもつ日本の大衆錯誤から被害をうけないためには個人は無論、地域の独立性が必要といえる。それは経済的諸関係から、文化の面もふくむだろう。地域の経済構造がなんらかの次元にいびつなときこの依存性がたかいとみつもっていい。茨城県にとっては県内の第三次産業以上の十分な発達が今後の課題となるだろう。
はずかしいまちがいとしての日本的拙速近代化現象からもっとも日本でとおいとおもわれているらしい茨城県の特徴、すくなくともその集合的無意識に期待できるのは、どちらかといえば革命とは逆の世界観だ。いまの日本の多数がそまっている不義にして富みかつ貴い浮雲な世相へひとこというのみならず、その総合批判によって人類を正しい道へみちびけるとしたら、むしろ伝統的な武士道からきている古典的保守性、サムライ精神、すくなくともそのなかにやどっている道徳をきちんとたもちそれを後世へ着実につたえるという使命についてとおもえる。論語に、国に道がなければ危 い言行を孫にせよとある(憲問第十四の四)。専制政治の歴史もながかったから多数が穏健主義をもつことになったという点をかんがみても、いまのところめだっていないという特長をいかしてそれは十分可能だろう。これらは政治適合性というもの、つまり調整的社会風土の十分なつよさによって茨城県域が高い福祉状態の維持に於いて常陸国時代から一貫したある貴族的格式をたもてるとしらせている。
2. 冬季を含む五輪があったことがあり
3. 有名な芸能学校がある
これが派手な都道府県の特徴。
具体的には、北海道、沖縄、東京、神奈川、京都、大阪、兵庫、奈良、長野。
ただし、
1. 所得格差がひろがり(商業化)
2. 犯罪率や離婚率があがり(風紀低落)
3. 運動テストや体力テストの成績悪化
という反面を総じてもたらしがちらしい*1)。地域名に魅せられてきた新規流入者がそういう傾向をあたえる可能性があり、またかれらの劣悪な賃金労働者としての飽和状態がスラム化をもたらすのだろう。ホームレスや生活保護者世帯数がもっともおおい方にこれらの都道府県ははいっている。
ただこのなかで、奈良は人口ひとりあたりの総生産が日本一ひくい、というかわった特徴がある。平城京があった時代にそうだったにせよ、現代ではあまり商業化がすすんでいないとわかる。もう1つの側面として、皇室が移動後古都になった地域は平等志向が極端につよくなる可能性がある。京都では共産党の得票率が日本一たかく、奈良には宗教法人による所得調整をおこなうはず寺院仏閣や新興宗教が複数みられるから。
*1) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html
http://todo-ran.com/t/kiji/11767
http://todo-ran.com/t/kiji/13959
http://todo-ran.com/t/kiji/13944
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7342.html
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
特に、 http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html の重要データを引用する。
警察庁「犯罪統計資料(平成24年1~4月分)」によると、
「刑法犯」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.503%)
2位:愛知県(0.444%)
3位:兵庫県(0.431%)
「殺人」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0028%)
2位:大阪府(0.0022%)
3位:兵庫県(0.0017%)
「強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0146%)
2位:大阪府(0.0135%)
3位:神奈川県(0.0083%)
「侵入強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0044%)
2位:神奈川県(0.0042%)
3位:大阪府(0.0039%)
「放火」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.00299%)
2位:東京都(0.00248%)
3位:千葉県(0.00167%)
「強姦」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0029%)
2位:大阪府(0.0025%)
3位:千葉県(0.0018%)
「強制わいせつ」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.023%)
2位:東京都(0.020%)
3位:神奈川県(0.009%)
これらをかえりみると、出所不明な俗書『人国記』『新人国記』にある常陸あるいは上総、下総などへみられる偏見項目、単に盗賊、押込、辻切が多いといった風説はおそらくこれを書いた民衆扇動家、demagogue矢野新一的な自己中心主義の武蔵国人等による悪意ある虚偽であり、現実にはそれらがもっとも多く風紀の劣るのが東京(武蔵)であり、おもにこの東京都からのはなはだしい悪影響と公害によって首都圏では、ちかばの諸地域、あるいは神奈川(相模)と千葉県、あるいはその影響はそれらにくらべれば微弱だが埼玉・千葉の県境でわけへだてられてはいる茨城県もすこしだが不本意に犯罪率を引き上げられてしまっている事がはっきり立証できる。
これらの犯罪行為がみとめがたい点はどこでも同じ。それを現に割合、件数どちらでももっともおおくおこなっている刑法犯罪の悪党だらけの武蔵国(江戸、東京)が自分たちを闊達にして気が広いだとか潔いとかうそぶいて巧言令色で自慢をのべ、実際には真逆にもかかわらずさも自分たちこそ優良で善性かの様にみせかけるうえ、さらにあしきことにはそれらの悪徳からの公害あるいは罪の責任さえまわりの無関係の第三者におしつけるのは完全に現代にまで伝承されている、東京ジャイアニズム系の極悪の業としかいえない。単なる風説や冤罪まがいの非科学的偏見をさも真理かの様にかきつけているのはいまだにかわらないあしき風儀だといえる。
このかなり昔の俗書にも、いまの矢野新一、総合ブランド研究所、ほか東京のマスコミにもみられる共通の特徴として、自分達自身がひきおこしている罪業をさもよいことにしたててかくしたりゆがませたりしてごまかしてしまうばかりか、まわりのむしろ善良だったり高潔だったりする人々にその事由の責任をおしつけてしまうという帝王主義的な情報偏見の悪意がある。いいかえれば、情報発信能力を独裁する事でそれを虚偽や風説でほかを害する器械とし、自らの利益のためだけに情報発信を悪用している。
現代にも共通するこの通俗的な腐敗、情報発信力独占の弊害、権力濫用の堕落に対抗し正義や科学的真理あるいはひとびとの平等や公正な常識といったのぞましい調和を達成するには情報発信源の多元化が必需となる。このweblogもその一助になるだろう。
現時点でもあきらかにそうだが、素朴な田園社会の延長にある茨城県域むかしでいう常陸国水戸藩あるいは下総国の方が、通商的な大都市化のすすんだ東京・江戸・武蔵あるいは神奈川・鎌倉・相模よりあきらかに風紀も民心もよかったろう。おなじことは、巨視的には関西地方にとって大阪からの悪影響下でおこっているはずだ。
くらべて、地味な都道府県はこれといった特徴がなく、まわりにとってめだたない。具体的には、茨城、福井、埼玉、栃木、群馬、佐賀、徳島、鳥取など。同時に、共通してみられるほぼこれといったわるい面もすくない。あえていえばとなりに大都市圏があるとき、そこからの影響でなんらかの統計的数値が変動している傾向はみられる。このなかで福井と茨城、場合によっては埼玉も都道府県別小中学生体力テストが男女ともに上位や最上位にあり、特に福井と茨城はさらに都道府県別全国学力テストとその知識にくらべた活用力比率が上位にある*2)。
*2) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://todo-ran.com/t/kiji/13465
http://todo-ran.com/t/kiji/13471
http://todo-ran.com/t/kiji/12090
http://todo-ran.com/t/kiji/12102
質実剛健の地域性というlogで前回かいたが、この派手世界と地味世界では、派手な方がガラパゴス化しやすく、地味な方が普遍的な適応をしやすい。だからいきのこりを前提にどちらへ属する方がよいかといえば地味な方、とかんがえられる。
こうみかえすと、おもにめだちたがりやのあつまりやすい場所、それは当然皇族や将軍、五輪関係者、芸能人といったひとびとだが、こういう者のとどまったりすすんでいきたがる条件や偶然の機会が特定の場所にそういった人口をあつめた、といえる。対してそういった派手者があつまっていないとき、はずかしがりやの世界がつくられるのだろう。
日本でもそうだが、イギリス、フランス、ドイツ、中国、朝鮮、など封建的社会秩序ができあがった時代をもっている国家には、すくなくともこのはずかしがりやさ、shynessをとうとぶ傾向が中流社会以上にはいくらかよりのこっている様にみえる。特に良識的な家庭、あるいは土地の貴族といったイメージで。
Americanizationでみえないくらいぬりつぶされた絵だが、それは封建時代に領主の保守性がつくりだした倫理観だったのだろう。おそらく一夫一妻制度の発祥やそこからきたある純潔主義的心情も各国ともここに由来している。はずかしがりやの方が下手な配偶をする機会や可能性もすくなくなる、よってこの地味な人間によって家督がつがれていく方が地主たちの地位は安定したとおもわれる。
地球という単位でみると、まあたらしい国々と、安定した中世の主従社会が成立した国々とではこの2種類のおおまかな好みの性格差がみえる場合もある。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、これは植民地として樹立した最近の新しい国々だが、おおまかにめだちたがりやで、単なる成金をのぞけば伝統的な貴族というものがいないことがはっきりわかる。それゆえ保守的封建道徳へほとんど関心がない。
以上の事をおおまかに分析すると、日本ではまずイギリス軍にねがえった明治維新によって一度目の革命、アメリカ軍による間接統治がおこってから二度目の革命をへて、保守性というものが比較的よわくなっている。だから上述でいう派手好みequal魅力という、もともと数値化できない地域のよさへ全体主義的に管理化した意図または悪意でこの方向性をせめたがっているひと(総合ブランド研究所の約10名や矢野新一など)がいるのだが、それは当の一度目の実質的内政干渉をおこなったイギリス社会ではむしろ逆なのが興味ぶかい。UKには保守党が現にあり、そもそも都市文明に懐疑的で王室までふくめ田舎: country sideを愛する傾向のある国民性という面で、自信や地に根付いた故郷愛を喪失し伝統の継続をきらう様になった反封建主義的商業化性向のあるこの日本国のひとびととは大分ことなる。北茨城というちいさないちでも大多数は、ここはおそらく日本のなかでもっとも保守性がたかいとおもわれている地域の極北なのだが、それでもやはり郊外店の侵食やcommercialismそのものへ果敢に抵抗しないという面ではおなじらしい。
藤原正彦氏がくりかえしのべている日本の落ち度は、かれらが敗軍したあいての伝統的な保守性;ひるがえって自分達自身のそれさえなぜか否定、Americanismを勘違いしてうけとって、外様大名らの出世根性でつくりあげた新興の大商業都市文化にそまってしまったその団塊的みにくさなのだろう*3)。このおろかしさはあまりにあわててEuropeやAmericaにおいつこうとして屋上屋をかさねた明治の帝冠様式建築や公序良俗をもたない成金が多数だったことによる異常投機のバブル経済の様な変てこな勘違いをかさねた、という「邯鄲の歩み」にありそう。
*3) 要は、こういった日本の多数派はベネディクト『菊と刀』にも機会主義的とあるが、めさきの損得勘定によわく、ひろい視野や長い目をもたないことから、ほかの連合国民:アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアをはじめとしてカナダ、オーストラリア、オランダなどのひとびとにくらべれば、現実に大敗戦しているとおり一般知能が総じて低いのかもしれない。過去からみちびけばそういった理解ができるうえ、今日での東京発のテレビの俗にも空気を読め、という集団統制を意味する熟語が頻繁にみられるとおり、あからさまな全体主義さえもつ日本の大衆錯誤から被害をうけないためには個人は無論、地域の独立性が必要といえる。それは経済的諸関係から、文化の面もふくむだろう。地域の経済構造がなんらかの次元にいびつなときこの依存性がたかいとみつもっていい。茨城県にとっては県内の第三次産業以上の十分な発達が今後の課題となるだろう。
はずかしいまちがいとしての日本的拙速近代化現象からもっとも日本でとおいとおもわれているらしい茨城県の特徴、すくなくともその集合的無意識に期待できるのは、どちらかといえば革命とは逆の世界観だ。いまの日本の多数がそまっている不義にして富みかつ貴い浮雲な世相へひとこというのみならず、その総合批判によって人類を正しい道へみちびけるとしたら、むしろ伝統的な武士道からきている古典的保守性、サムライ精神、すくなくともそのなかにやどっている道徳をきちんとたもちそれを後世へ着実につたえるという使命についてとおもえる。論語に、国に道がなければ
2012年8月31日
県展のかえるべきところ
県の芸術祭の運営方式はつぎの点でよくないか、まちがっている。以下の方針をかえればよくなるだろう。
まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない。
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。
以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。
まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない。
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。
以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。
2012年8月29日
工場のresidence化
いま、工場が市内各地にあるが、これらが不要になるか、売りに出されて廃墟的な景観をもっているばあいもすくなからずみられる。
これらはレンガ倉庫の要領で、art residence化してしまえばいい。NYでソーホーの再開発がはやったのが一番有名だが、ロンドン五輪もこのたぐいのinner city再開発をねらっておこなわれた。
市の発展にとってもっともすべきなのは新世代の若者が定着してくれる状況だろう。芸術がこの起爆になるのが世界中でよくみられる。アトリエをかねた倉庫状態のたてやが複数あり、そこを安価で希望者らに開放する。これで工場というかつてなんらかの機能性をもっていた景物が、美観をもたらすものとしても再利用できる。さらにははじめかたづければほうっておくだけなので、手間賃がかからない。
常磐炭鉱のあとには巨大なコンクリート建造物もみられるばあいがあるが、これらに安全性がある程度検証できるときはおなじことをしていいだろう。
しばらくまえ、五浦あたりで美大につながりそうな美大芸大生誘致の構想があったみたいだが、アカデミー化というのはフランスのボザールという美術大学組織のころから疑問符されているので反対。美術大学・芸術大学といったart academyは古典芸能と化した死んだ技術をまねさせ、保守させる意味の方がつよくなって、むしろ独創や創造性をおさえこむ傾向がある。
芸術をもっともよくつくりあげ、つたえるのは徒弟制度というのがおそらく普遍にいえる。
外来のことばの翻訳なのでわかりづらいが、芸術:artはもともと「わざ」という意味で、職人のしごとと本質は変わらない。大工がどうやってわざをつたえるかをみていれば、技術には慣れとか勘といったある暗黙知がふくまれる。はやくアリストテレスの倫理学にもこのきづきがみられ、カントによっても『判断力批判』に天才自身が手本をみせるべし、という見解がみられる。つまりすぐれた工房があつまっているまち、といった場所が芸術家の創造性をもっともよびさましやすい。機械工業の集積がある日立市からの多珂一帯に於いて、北茨城は芸術の方面に特性が発揮されてきた経験がおおいので、おそらくこういう場所柄に適任とおもえる。
これらはレンガ倉庫の要領で、art residence化してしまえばいい。NYでソーホーの再開発がはやったのが一番有名だが、ロンドン五輪もこのたぐいのinner city再開発をねらっておこなわれた。
市の発展にとってもっともすべきなのは新世代の若者が定着してくれる状況だろう。芸術がこの起爆になるのが世界中でよくみられる。アトリエをかねた倉庫状態のたてやが複数あり、そこを安価で希望者らに開放する。これで工場というかつてなんらかの機能性をもっていた景物が、美観をもたらすものとしても再利用できる。さらにははじめかたづければほうっておくだけなので、手間賃がかからない。
常磐炭鉱のあとには巨大なコンクリート建造物もみられるばあいがあるが、これらに安全性がある程度検証できるときはおなじことをしていいだろう。
しばらくまえ、五浦あたりで美大につながりそうな美大芸大生誘致の構想があったみたいだが、アカデミー化というのはフランスのボザールという美術大学組織のころから疑問符されているので反対。美術大学・芸術大学といったart academyは古典芸能と化した死んだ技術をまねさせ、保守させる意味の方がつよくなって、むしろ独創や創造性をおさえこむ傾向がある。
芸術をもっともよくつくりあげ、つたえるのは徒弟制度というのがおそらく普遍にいえる。
外来のことばの翻訳なのでわかりづらいが、芸術:artはもともと「わざ」という意味で、職人のしごとと本質は変わらない。大工がどうやってわざをつたえるかをみていれば、技術には慣れとか勘といったある暗黙知がふくまれる。はやくアリストテレスの倫理学にもこのきづきがみられ、カントによっても『判断力批判』に天才自身が手本をみせるべし、という見解がみられる。つまりすぐれた工房があつまっているまち、といった場所が芸術家の創造性をもっともよびさましやすい。機械工業の集積がある日立市からの多珂一帯に於いて、北茨城は芸術の方面に特性が発揮されてきた経験がおおいので、おそらくこういう場所柄に適任とおもえる。
2012年8月28日
No title
映画天心は、はっきりいうといまの時点で失敗ではないか?
茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。
いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。
これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるを患 えず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」とある。
市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。
起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。
*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。
すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。
いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。
茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。
Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
'The Book of Tea' by Kakuzo Okakura, I. The Cup of Humanity
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
『茶の本』第一章 人情の碗 (*村岡博訳)
いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。
子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也。
子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり。
孔子がいわれた。「篤く信じて学問を好み、死ぬ時まで善い道を守れ。危ない国へ入らず、乱れた国には居ない様に。天下に道が行われているなら現われて、道が無いならば隠れなさい。国に道があれば、貧しく地位が低いのは恥である。国に道が無ければ、金持ちで地位が高いのは恥である。」
『論語』泰伯第八の十三
これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるを
市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。
起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。
*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。
すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。
いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。
2012年8月26日
茨城県の将来性
人間は現代で、宇宙進出の途中にいる、ととらえるのが自然だろう。さまざまな商業活動は、おもとして資材をあつめ、この機会をつくりだすのをまっている。
国際情勢をみると、各国のおもな国土はかぎられてしまい、大戦をさけようとするかぎりそれらのいれかえはないだろうから、もし創世記のとおり「産めよ地に満ちよ」となれば地上をこえてほぼ無限にひろがっている宇宙空間をつかうのが穏当だ。
茨城県はつくば市、というこの重要な起点を一つもっているのでめぐまれている。おそらくたちいれない福島県の被曝地、はまどおりはそこに人家がつくられないという条件を利用して主要な宇宙stationになっていくだろう。日本国内で実質的に国有化されながら大規模な面積が確保でき、かつ首都圏からaccessしやすいのもよい点だろうから。
現在、さまざまな商業によって財貨をかせぐ、という資本主義段階のおこないがおおくのひとにみられるが、この成果物がある宇宙技術の個人と企業、またはそれを支援する国家財政にたくわえられた結果、宇宙進出が実際にできる様になっていくだろう。現実に宇宙に長期居住する工学はまだかなり次元がひくくむずかしいとおもわれているが、いずれできるはず。
しかし、これらの段階になってもまだ防衛権、という側面が人間についてまわるのがわかる。宇宙の広大さからいえば戦闘的な生物もいるだろうし、武力が永遠に否定されることはおそらくないだろう。日本はGHQによって便宜的に無力化されたが、ヤクザつまり暴力団という民間の不法武力組織がいたり、その前座としてみることのできる暴走族とかヤンキーとよばれている集団も国内にはいる。情報攻撃という型ではアノニマスもそうかもしれない。かれらは国内でもっとも大規模な公的武力組織としての自衛隊と警察に対して、無法者というたちばで威力をふるおうとしているのだろう。この実力、というものも冷静にみすえる必要がある。
日本史をかえりみると、朝廷をふくめ幕府は単に最大の武力組織がになってきた。そして現代の国際社会でもやはりおなじで、人類は力をもちいる権 りごとによって徴税のための市場防衛をおこなってきた。この現実的な見方は、おそらく法や倫理的な説得という部分もいくらかはいりこんだとして、かなりの将来にわたってもそうかもしれない。
茨城県がおおやけにめざすべきなのは、この武力面の強化といえる。その分だけ県警へ税収の大量配分がなければならない。茨城県は常陸国時代から歴史上、皇室における中央国政へ従順だったので逆らうことはまずありえない。そして大きな目標としては、国政と同等かできたらそれをひきいる単位として、宇宙進出を独自におこなえるだけの資財をあつめること。茨城県が国家のみならず世界にとっても、もっともこころづよい先駆、第一の味方となる様でなければいけない。もっとも平和的にみえる、人口増大のみちすじさえそれなのだから。
商業活動が正当化できるとしたらこういった大義名分の上で、かもしれない。国民、県民が富み栄える道のりの途上で、その天空の住居地や生活開発に必要なだけの資本があつめられねばならず、さらにこのひとびとをみずからまもるため十分につよい防衛の武力がいる。
国際情勢をみると、各国のおもな国土はかぎられてしまい、大戦をさけようとするかぎりそれらのいれかえはないだろうから、もし創世記のとおり「産めよ地に満ちよ」となれば地上をこえてほぼ無限にひろがっている宇宙空間をつかうのが穏当だ。
茨城県はつくば市、というこの重要な起点を一つもっているのでめぐまれている。おそらくたちいれない福島県の被曝地、はまどおりはそこに人家がつくられないという条件を利用して主要な宇宙stationになっていくだろう。日本国内で実質的に国有化されながら大規模な面積が確保でき、かつ首都圏からaccessしやすいのもよい点だろうから。
現在、さまざまな商業によって財貨をかせぐ、という資本主義段階のおこないがおおくのひとにみられるが、この成果物がある宇宙技術の個人と企業、またはそれを支援する国家財政にたくわえられた結果、宇宙進出が実際にできる様になっていくだろう。現実に宇宙に長期居住する工学はまだかなり次元がひくくむずかしいとおもわれているが、いずれできるはず。
しかし、これらの段階になってもまだ防衛権、という側面が人間についてまわるのがわかる。宇宙の広大さからいえば戦闘的な生物もいるだろうし、武力が永遠に否定されることはおそらくないだろう。日本はGHQによって便宜的に無力化されたが、ヤクザつまり暴力団という民間の不法武力組織がいたり、その前座としてみることのできる暴走族とかヤンキーとよばれている集団も国内にはいる。情報攻撃という型ではアノニマスもそうかもしれない。かれらは国内でもっとも大規模な公的武力組織としての自衛隊と警察に対して、無法者というたちばで威力をふるおうとしているのだろう。この実力、というものも冷静にみすえる必要がある。
日本史をかえりみると、朝廷をふくめ幕府は単に最大の武力組織がになってきた。そして現代の国際社会でもやはりおなじで、人類は力をもちいる
茨城県がおおやけにめざすべきなのは、この武力面の強化といえる。その分だけ県警へ税収の大量配分がなければならない。茨城県は常陸国時代から歴史上、皇室における中央国政へ従順だったので逆らうことはまずありえない。そして大きな目標としては、国政と同等かできたらそれをひきいる単位として、宇宙進出を独自におこなえるだけの資財をあつめること。茨城県が国家のみならず世界にとっても、もっともこころづよい先駆、第一の味方となる様でなければいけない。もっとも平和的にみえる、人口増大のみちすじさえそれなのだから。
商業活動が正当化できるとしたらこういった大義名分の上で、かもしれない。国民、県民が富み栄える道のりの途上で、その天空の住居地や生活開発に必要なだけの資本があつめられねばならず、さらにこのひとびとをみずからまもるため十分につよい防衛の武力がいる。






