2012年7月8日

常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」

http://rekishinosato.com/essay2_1.htm 
https://web.archive.org/save/http://rekishinosato.com/essay2_1.htm より

常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」特集に誕生の経緯の記載がありましたので紹介します。
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明治2年6月の版籍奉還の時点で茨城県域は14藩があり、すべて藩主が藩の知事に任命された。14藩は水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生の各藩であった。この中で谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わって明治4年7月14日の廃藩置県の時は15藩が存続していた。中央政府は政府の権力を強化するために、薩摩、長州、土佐の3藩の武力を後ろ盾に「廃藩置県」の詔書を出し、各藩は抵抗せずにこれを受け入れた。茨城県域の15藩は、この廃藩置県でそのまま15の県(正確には若森県(旧天領地)を含め16県)となった。その年の11月13日にこれらは3県に大別された。すなわち茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)である。県庁はそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれた。この時はじめて「茨城」という名をもつ県が誕生したのである。(今でも11月13日が県民の日である)。明治6年7月に、茨城・新治の両県を統合して新たに「石岡県」を設置しようとの案が政府内で検討されたが実現はしなかった。明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入され、逆に千葉県が管轄していた一部の地域が茨城県に編入されて現在の茨城県域が形作られた。結果的にみて茨城県は旧水戸藩を中心にその他の藩を吸収してまとまったと言える。茨城県の県名「茨城」は水戸が茨城郡に属していたことからそのまま県名になったものとされるが、茨城の語源は、奈良時代の「常陸風土記」の冒頭に「古は常陸とはいわず、ただ新治・筑波・茨城・那珂・久慈・多珂の国といった」というような意味のことが書かれている。この「茨城」の読みは「うばらき」とするのが研究者の間では一般的になっている・・・(中略)・・・この後、風土記に記されている二つの説を紹介している。ひとつは黒坂命(くろさかのみこと)が服従しない者たちを悪賊とし、外に出た時をねらって、茨棘(うばら)を住居である穴ぐらにしかけて馬で追いたて穴に戻ったかれらが茨棘のトゲに傷つき死んでしまったもの。もう一つは茨(うばら)で城を造ったというものである。これは先に記載した内容と同じである。藝文では「茨城」の言葉の由来に定説はないとされ、さらに次のように記載されている。「風土記の二つの説話には、現代の地方立脚の見地からすれば受け入れがたいものがある。黒板命が征伐したのは、大和朝廷にとっては悪賊であったが、地方の側からすれば土着の先住民である。まさに中央史観、一方的な見方だが、風土記の成立事情を考えれば、むべなるかなと言える。・・・何しろ、中央集権化を進める明治政府が、地方支配をより強固なものにするために新たに設けた行政区画の名称である。それは中央集権化の象徴として政府関係者があえて用いた名称であったかもしれない。」また水戸は県庁はとったが「水戸県」の名称の実現はできなかった。
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としている。(2007.12.1追記)