欠点を解消する、という意味で茨城県自体が名称を変える、のが一つの決定的な改良点かもしれない。
茨城は奈良地方の豪族、いまの皇室の祖先(くにさかのみこと、黒坂命、とされる)が一方的に侵略して土賊を滅ぼしたという『常陸国風土記』にもとづく名称であり、現代水準でみれば皇族の侵略的犯罪行為への言及という意味では忠誠心と反抗心という二重の意味合いをもつ。
明治時代をとおして、やがて茨城町へ県庁を移した際に敷衍したが、茨城という名称そのものを否定してしまう方が印象論としては好都合だったともいえる。『常陽藝文』2007年12月号「茨城県誕生」特集に、帝国主義に傾いた明治時代の中央政府が主導した名称付けらしい、とある(*1)。なので、現地からの目線、いわゆる専守防衛(当時のいいかたでいえば尊皇攘夷)の側の主義を否定しようとした可能性があると私はおもう。
明治以前、茨城という名前ではなく、単純に常陸国水戸藩、あとはそれぞれ個別のなまえで呼ばれていたわけだ。
名称変更は多大な経費がかかる。たかが矢野新一というひとりの風説流布者からの、情報テロにさからうために県名さえ変えるというのは合理的かどうかわからない。慎重に考える必要がある。
いわき市が平(たいら)という駅名をいわき駅に変える、あるいは磐城という表記をひらがなにした際にどれだけの経費がかかったかを参考にできる。看板や形式的文章一切も変えねばならない。
だが、大阪がさわいでいるその名義変えの時期に一緒にやってしまうと、現地のみならず中央からみて好都合という場合もしばしばあるかもわからない。
そもそも、茨城町へなぜ水戸から県庁が移されたのか? 県政史にくわしい方ならわかるとおもうが、自分はまだしらない。
そこで、もしこの過程へたずさわった公務員らに深い考えが無意識にでもあればだが、二重の意味合いをもつ、なかば「新官軍」なるものへの皮肉もはいっているといえる「茨城」の名称地を知的にえらんだ可能性もまったくなくはない。事実、古来の皇族には容易に理解できる話だが、日本史や小説レベルでも常陸国の縁起によっている尊王心そのものがshogunateの絶対主義的な側面そのものと誤解されてもっと俗説にまみれているわけで、この次元の理解ができるひとは、それなりに水戸学系の大日本史をはじめとして朱子学を日本化した哲学・形而上学が分かるひとたちだけだろうけど。
皇室はさすがに、大国の歴史的伝統もあり、水戸藩に於ける勤皇の証明もあり、で「茨城」という古来の皮肉もあり、そういう茨城県という名をそう軽視されないだろうけど、矢野新一程度の江戸っ子あがりは普通にしがちだ、と経験上も感じる。江戸という新興商業地へ大阪から家康に誘導された商人らの末裔は、きわめて表層の見栄しかみないうえ、これは『人国記』にも記載されてるが武蔵一帯に驕りの気象があるので。江戸時代さえこれのゆえに副将軍なる伝説をふくむ、質実の続柄がこっちにまわってきたわけだ。
この迷惑をこうむるかぎりで、茨城県は、もしくは北茨城市もそうだが、茨城という名称をさけてふたたび、『常陸国風土記』からきている常陸という自分たちでつけたよい意味をもつ名前に返すか、別の名称、例えば水戸あるいは企業であるHitachiの知名度をもちいるために水戸県かひたち県にしてしまうかだとおもわれる。
名は体をあらわす、なることわざもあるが、水戸県とすると全体がやはりこれまでの水戸藩の歴史をせおうことになる。これはこれで剛毅な姿勢で、古くから筋の通った一貫した印象もあり、たとえば東京や横浜といった新興の名義よりむしろ格好はいいとおもうが、佐竹時代との干渉を避ける為によりあたりさわりがない方でいえばひたち県、となるかもしれない。
すくなくとも、Hitachiという企業は現時点で国内最大の重工業系の機械製造業者だし、今後はおそらくさらに拡大するだろうから、ひたち県という名前にすると国際的知名度は最初から非常に高いだろう。客観視して、水戸よりむしろHitachiという名前の方が一般的知名度は世界的に高いとおもわざるをえない。
常陸県日立市かひたち県日立市か、こういう名称が起きえると、多珂とよばれてきた県北一帯の高台の一部を日立と命名した水戸黄門は予想しなかったかもしれない。しかし、わかりやすさと印象からいうと、茨城県というよりは常陸県のほうがやわらかい。
もうひとつの策とかんがられるのは、茨城のままでも、ひらがな表記を採用することかもしれない。いばらはBrierというのが直訳になるが、のばらのことととらえていいだろう。とげのついた野薔薇を強調して古語でうばらとかいばら、と呼ぶ。いばらき、をひらがな表記するとbrierの意味合いがより緩和され、ばらつまりroseの印象にちかづく可能性がある。
バラは若者に一番人気の花という。実際、真紅の場合は特に若々しい印象がある花。
しかし、いばらき、という命名の根幹がいばらによる騙し討ち、なのでバラをつかうとしても、そのままで印象をよくするのはむずかしいかも。
自分の総合的意見としては、県花がバラでもなんら問題はないとおもうが、茨城という名称をきっぱりすてて、ゆたかな水辺で衣が濡れること(ひたし)とかひたすら陸の道なので、という語源によりちかい、しかも常陸国風土記の成立からいっておおむかしの地域の民がみずからえらんだ「ひたち」の名称を採用しなおす方が合理的におもえる。
県民アンケートをとるというのも参考になるかもしれない。水戸黄門ご自身は、ひたちを日立、つまりorient(日の出ずるところ)の意味で再解釈されたのだろうけど。実際、この地域でくらしていて日の出の清心な印象がきわめてつよい。清らかな朝というのが日々存在する。
太平洋からのぼるので、真新しい太陽という感じが強く心に刻まれる。これは陸の方から朝になってくる武蔵国や相模国ではえられない心象らしい。太平洋側にくらしている、ほかの青森、岩手、宮城、福島、千葉にももしかすると共通の感覚かもしれないが。
都道府県のわくぐみをぶちこわして、より広域な自治体に再編する、という意図は大阪がああいう行動をしだして少し下火になっているが、もしかするとそういううごきの際に期を見計らって「ひたち」という名義にかえすと、そもそも名前しかきいたことがないというひとが過半数でしかない印象論も、たったそれだけで改善される可能性がたかい。
水戸県にする、という案もあるのはたしかだが、水戸の希少性がへってしまう部分も出るかもしれない。同様の理論は、宮城と仙台、神奈川と横浜、兵庫と神戸のことにもあてはまる。つまり、地域の文化的な特別さをともなうところでは特殊な名称をもっているのも個性をつよめる方策でありえるかもしれない。
・・・
さて単純に県名をまねて最北端だから北茨城市になったこの領域については、きたひたち、ひたちきた、どちらかに変えるか、『新人国記』の地図にどうやら名称のある古い名前の足洗に変えるか、中心街の磯原という名前を有名にする方針でいくか、どれかだろう。あるいは、市街の構成から中心地とはいえないが、地味にいつうら、五浦という名前も岡倉と関連して意味をもっているかもしれない。
自分の感じからいうと、将来、日立市のなかに北茨城市の部分まで編入されていく方が広域行政として合理的だと見ている。この日立市、高萩市、北茨城市は一定の県北独特の共通性が、立地条件からかなりある様におもえる。事実、市区町村令までは、常陸多賀や山脈に名をのこしている多珂(たが・たか)という名称でおおまかにくくられていた、と考えていいだろう。高萩、たかはぎの名称はもしかすると、多珂を直系でひいているのではないか。
この三つの市の個性としては北茨城市がもっとも素朴で、日立市がもっとも都会化されており、高萩市は中間的なのだろうけど、文化面ではきまじめさが似通っている。日立市のひとのなかには出稼ぎ労働者が多いこともあるだろうが依存的なほど東京方面だけを見ている人が多い様だが、文化のつくりかたとして、北茨城市はむしろ東京ではありえない方向性をあえてさぐってきているとおもえてならない。北茨城論みたいなはなしだが、実際、先人はやみくもな都会化からの避難地や隠遁の場所として、大都会ではありえない安全地帯としてこの一帯へ再帰した様な形跡がある。
それは住んでるひと、訪れたひとも関東圏の極北だけあってわからなくはないとおもうけど。何度かきている証拠のある皇族さえ、こられたかたには感覚的にわかるんじゃないだろうか。しかも、有名じゃない分だけまったくもって俗化していない。
軽井沢とか那須とか、観光客や別荘が多い北関東圏のそういう静養地系の場所ともそこがちがう。正直なところ、葉山や大磯、鎌倉なんか典型だが皇族や政治家が御用邸をもうけると周囲は俗化してしまう形跡すらある。
要するに、「僻地のよさ」を求めてここにきたり、定着するひとがかつてから地味にいるのだ。そしてそれは大都会志向、いわば中央主義とはかなり差がある心地だ。
常陸国の最北端には独特の素晴らしいよさ、特に文化をふくむ自然環境の繊細な美があるのだが、それは中央主義や大都会志向とはきわめてちがったよさであり、美しさなのでそれがわかる人はすくない。茨城という遠目にかならずしも印象いいとはおもえない名称をもってる方が、意図的に人を遠ざける結果内々そのよさが庇護される、という忌避性の効果も鑑みねばならない。そしてそれは訪れたり過ごしたり暮らしてみたりしたことのない人には決してわからない種類のよさ、遠目には永遠に理解できないよさなのだ。
沖縄や北海道、あるいは京都、横浜もしくは東京という観光地化をすすめた自治体は、いま自分が書き記した種類の加護された審美性からどんどんとはなれていくだろう。観光客でよごされるという方向性は、自分のおもう私たちの地域の本来のよさを活かす道ではないかもしれない。
さっきもだした軽井沢みたいに別荘地化するという方向性もあるにはあるが、それはそれで成金が休暇ではした金を落とすといった俗物根性の到来も意味しかねない面をともなう。かつ、いわきへの交通量からいって秘境というほど山奥ではない。
結局、心情的に日立、水戸、あるいは磐城に感覚的な近さをもっているが、北茨城市のあたりは自分がおもうには独自の道を行くしかない。それはさっきかいた、よい意味での「僻地のよさ」にあるとおもう。有名じゃない方がいい世界もあるわけ。このあたりのことわりは実際、文化行政に関心ある、一定より教育されたひとは市内でも共感できなくはない部分だとおもうけど。教育面でも理想化された素質のよさ、country gent化、素朴の純粋性みたいなもの、ある面ではかばわれた高潔さ高級性が結晶されていけばいい。それは環境づくりに関しても同じで、名称の方向性についてもそれをかえりみればいい。大都市性にくらべれば、いやおうなくそうするしかないこともある。
一切、我々は大都会、特に東京圏にはおもねらない方がいい。完全に東京ではよい意味でありえない文化をつくりだすべきだ。
我々からすれば、東京は大衆化されていて凡庸なうえもっとも堕落した都市であって、完璧に反面教育にしかならないし、しない方がいい。そしてこの姿勢でいるかぎり、商業上のつながりもあってもっと東京へ実質親和的な、仙台都市圏ともちがう世界が、いまの北茨城市圏ではかたちづくられるはずだ。
もともと西日本の世界とは文化の根本原理がちがう、というのはよく感じることだ。
我々のもっている種類のきまじめさ、あるいはキリスト教的な意味での純潔性や安定した家庭環境が前提にある社会条件というのは、東海道の影響できわめて意識が商業化した東京や横浜もそうだが、自分のしるかぎり西日本にはほぼ皆無であって、防衛者としての職分が実質空位化してきた皇室の系譜が土着した時代の長さが影響あったのだろうが、北陸や中国地方にまで甚だしい文化的一帯性がいわゆる京阪神の領域からつながっている。
しかし、われわれは大変とおい僻地にあったので、この文化的影響はほとんど皆無にちかしい。そしてそれは近代以後はまったく有利かつ有徳な条件なのだ。
われわれは既存のアジア地域の模倣の染み込みが足りない分、ふりかえりもせず、ヨーロッパや北欧、そして米英の優良策をみていればいい。これが自分の意見だ。
それによってこれまでの汎アジア的な西日本文明とはまた趣味のことなった、独創性をわれわれは発揮できることになるだろう。それでもわれわれの居場所は完全に東アジアではなくなったり、人種的にさえ全体数がまったくアジアの人ではなくなったりもしないはずだが、すくなくとも西洋や米英の世界とそれほど致命的にちがいがない、個人主義によりちかい文明が築けるはずだ。そしてこの姿勢であるかぎり、異系配偶という生物の強壮につながる人種的な多重性を尊重しない、誤ったnativismや軽々しい暴力にたよった移民排斥の排外思想とも別れられるだろう。
この脱関西文化の意図は、忌避性のある名義は逆説的に警戒色に似てもいて威嚇的効果もともなう可能性があるので、その利点だけを既存の日本人社会で活かすべきであり、単位時間あたりの婚姻の頻度を抑える結果としての常態的人口密度の低さをむしろ文化的高貴化に向けるべき、かつ地理的条件の袋小路さを既存の国内社会からの交通量より新規な親善外交にあてる方向性があたまがいいということだ。
いわゆる開放貿易への適応とも密接に関連している。なぜなら、輸出國となるだけの条件は農業生産性のたかさにはある。農作物すなわち食糧を自前でまかなえるほどエンゲル係数はひくまり単位生産性は高まりえるのであって、勤労によって他の生産物の輸出にとっても有利となるはずだ。これからは消費地としての東京を見ず、直接海外との通商をすすめていけばいい。
特に中国や朝鮮との渡来文化を摂取してきた西日本人からは後進的に見える、アジア社会の悪い面が深く染み込んでいない、というわれわれ僻地の条件は大きくみればより先進的なヨーロッパやアメリカの文化を取り込むのに刷り込みがない分だけ確実に、偏見のないだけよいところだった。だからうしろをふりかえらず、イギリスやアメリカやフランスという世界大戦の先勝国を注視し、深くつきあい、こちらからも文物をふくめて輸出すればまたそのよい点をとりいれて自分のものにしていけばいい。
財政力や経済規模からいうと、普通に現状維持でいければそこらの中小国家かそれより大きい程度の自治体なのが茨城県という単位であり、この北端としてなすべきことは前例のおおい芸術でも美術でもいいが、文化面で最上位にある人をできるかぎり沢山かき集めてはなさないことだろう。
われわれは経済力という面から茨城県そのもの、ひたちのくにへ貢献するほどの人口のおおさとはちょっといえないし、つくば付近の県南の方がどんどん都内からの移住者があるだろうからその面では期待できるとおもう。
単に、地域としてわれわれにできそうなのは、東京ではない種類の文化的な優秀性を全般的に発揮し、これは結局人材の集積がすべてだとおもうが、一石を投じるばかりか首都圏にあって東京より茨城がわのほうが文化的に高貴性をもっている事実をさらに構築していくことだ。実際、大衆文化に流されてしまう商業地が貴族さとか希少性をもつことはむずかしいので、意図して高貴化をめざすだけで十分為しえる話になるだろう。
『日本美術発祥の地』ということばがある。これはいまの市長がいってたが、いいすぎでもなんでもなく、まさにそういうことだ。こういう決定力のある主張を、東京みたいな陸でなしのあつまりは放っておいてばんばん自分らだけで世界中へ宣伝して自慢していいまくるべきだ。
岡倉天心という人物が日本美術院をつくって定着したので実質、ここが日本美術なる考え方の発祥の地というのがまったく哲学的にあるいは歴史的に正しい。それまでは対外的な独創性を主張しない、大和絵とか唐絵とかそういう内向きの言い方でしかなかった。体系的に理解や分類されてもおらず、岡倉の『日本美術史』でははじめて整然ととらえられる様になった。
西洋の美術思潮に対して日本美術の独自性を主張する、というアイデアはたしかに、まちがいなく、あのいつうらの六角堂で岡倉天心がたったひとりで考えついたらしきもの。そしてそれはおもいっきり西洋美術のまねをしだした明治の中央政府とは全然ちがう向きだった。これゆえに、明治画壇でも概念的にも日本美術院所属組の人達の仕事は希少さや高貴さを保っているといえる。個人主義の文化とはこういうおはなしをいうのだとおもう。
よい意味で変わり者や変わり種に寛容である文化は、つまり他人の害のない行動は放っておいてくれる文化はそれだけ独創性をつくりだしやすくなる。
岡倉天心を中央美術界から排斥した明治政府の集団主義は、北茨城市にまでは力をおよばさないでほしいとおもう。ほうっておいてくれればわれわれはうまくやれるはずなのだ。ロンドン市庁舎みたいに後代に設計図どおり再建しただけで日本美術発祥の地の文化財登録を解除したんだからどんな中央文化かしらんが、もうできたらほうっておいてください。
わざわざ、愛想わるいなまえ名乗ってるくらいなんだからもう二度とこないでくださいね。一見さんすらこないでください。
―――
��1
http://rekishinosato.com/essay2_1.htm より引用
��~~以下
常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」特集に誕生の経緯の記載がありましたので紹介します。-明治2年6月の版籍奉還の時点で茨城県域は14藩があり、すべて藩主が藩の知事に任命された。14藩は水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生の各藩であった。この中で谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わって明治4年7月14日の廃藩置県の時は15藩が存続していた。中央政府は政府の権力を強化するために、薩摩、長州、土佐の3藩の武力を後ろ盾に「廃藩置県」の詔書を出し、各藩は抵抗せずにこれを受け入れた。茨城県域の15藩は、この廃藩置県でそのまま15の県(正確には若森県(旧天領地)を含め16県)となった。その年の11月13日にこれらは3県に大別された。すなわち茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)である。県庁はそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれた。この時はじめて「茨城」という名をもつ県が誕生したのである。(今でも11月13日が県民の日である)。明治6年7月に、茨城・新治の両県を統合して新たに「石岡県」を設置しようとの案が政府内で検討されたが実現はしなかった。明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入され、逆に千葉県が管轄していた一部の地域が茨城県に編入されて現在の茨城県域が形作られた。結果的にみて茨城県は旧水戸藩を中心にその他の藩を吸収してまとまったと言える。茨城県の県名「茨城」は水戸が茨城郡に属していたことからそのまま県名になったものとされるが、茨城の語源は、奈良時代の「常陸風土記」の冒頭に「古は常陸とはいわず、ただ新治・筑波・茨城・那珂・久慈・多珂の国といった」というような意味のことが書かれている。この「茨城」の読みは「うばらき」とするのが研究者の間では一般的になっている・・・(中略)・・・この後、風土記に記されている二つの説を紹介している。ひとつは黒坂命(くろさかのみこと)が服従しない者たちを悪賊とし、外に出た時をねらって、茨棘(うばら)を住居である穴ぐらにしかけて馬で追いたて穴に戻ったかれらが茨棘のトゲに傷つき死んでしまったもの。もう一つは茨(うばら)で城を造ったというものである。これは先に記載した内容と同じである。藝文では「茨城」の言葉の由来に定説はないとされ、さらに次のように記載されている。「風土記の二つの説話には、現代の地方立脚の見地からすれば受け入れがたいものがある。黒板命が征伐したのは、大和朝廷にとっては悪賊であったが、地方の側からすれば土着の先住民である。まさに中央史観、一方的な見方だが、風土記の成立事情を考えれば、むべなるかなと言える。・・・何しろ、中央集権化を進める明治政府が、地方支配をより強固なものにするために新たに設けた行政区画の名称である。それは中央集権化の象徴として政府関係者があえて用いた名称であったかもしれない。」また水戸は県庁はとったが「水戸県」の名称の実現はできなかった-としている。(2007.12.1追記)
��~~以上