2012年7月16日

知識の道具性

 科学の「名誉」におよぼす側面は過大評価されすぎているきらいがある。
 科学、知識、scienceはこの名誉をもとめる心によってよりよくつくられる、とはおもえないし、かりにそういうつくりかたをしたところで現実の生活levelとかさなることはほとんどなさそうにみえる。

 わけは、学習というものがあって、ほかのばやひとびとでつくられた知識さえ、ほかのひとがカンタンにまねれるから。
 このあたりまえの道理をみると、本当にあたまがいい、といえるのは「実用」つまりつかえる、という特徴をともなって発展していく文化ではないか、とおもえる。

 自分のしるかぎり実用性はほとんどないが、単純に名誉だけをめあてとしている文化体系のひとつとして芸術、という分野がある。この芸術についてだけは名誉へむかっての選択がはたらくのはただしいのかもしれない。なんらつかえないわざ、というものが目的そのものとしてえらばれるのはそういう世界でだろうから。
 だが、科学: scienceと工学: technologyが両輪みたいにすすんでいる状態は、おそらく科学そのものの探求にとってもかなり幸福だろう。

 Pragmatismがアメリカの哲学者らによって、もう一度といなおされたのもこの名誉制度と化した科学の探索という業からぬけだそうとしたひとびとがいたからかもしれない。栄典の授与、とか先取権への競争、これらはかなり長い目でみればほとんど大した問題ではないだろう。
 おおきくみれば「よりよいくらし」ができる、そういう文明化のためにひとびとは、あたらしい知識をもとめ、また日常生活のなかにその学習されたなんらかのことばと記号による、ものわかりを応用していく。

 つかえること。この方が名誉をえている、という事象よりも科学者にとってのぞましいかもしれない。
 知識そのもののふかい探求をへていくと、なにかに実用性をともなっていない、純粋な好奇心での理解をもとめるべきときがでてくるはず。が、科学は所詮は道具にすぎない、という初歩にかえるときがふたたびやってくるだろう。知識の一切は、その社会の中でより高度な技術に応用する、あるいはくわしくたしかな将来予測を通してみずからの属した種や類をたすける、という目的につかえるだけだ。