2012年8月31日

県展のかえるべきところ

県の芸術祭の運営方式はつぎの点でよくないか、まちがっている。以下の方針をかえればよくなるだろう。

 まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
 つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。

 以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
 これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。

2012年8月29日

工場のresidence化

いま、工場が市内各地にあるが、これらが不要になるか、売りに出されて廃墟的な景観をもっているばあいもすくなからずみられる。
 これらはレンガ倉庫の要領で、art residence化してしまえばいい。NYでソーホーの再開発がはやったのが一番有名だが、ロンドン五輪もこのたぐいのinner city再開発をねらっておこなわれた。
 市の発展にとってもっともすべきなのは新世代の若者が定着してくれる状況だろう。芸術がこの起爆になるのが世界中でよくみられる。アトリエをかねた倉庫状態のたてやが複数あり、そこを安価で希望者らに開放する。これで工場というかつてなんらかの機能性をもっていた景物が、美観をもたらすものとしても再利用できる。さらにははじめかたづければほうっておくだけなので、手間賃がかからない。

 常磐炭鉱のあとには巨大なコンクリート建造物もみられるばあいがあるが、これらに安全性がある程度検証できるときはおなじことをしていいだろう。

 しばらくまえ、五浦あたりで美大につながりそうな美大芸大生誘致の構想があったみたいだが、アカデミー化というのはフランスのボザールという美術大学組織のころから疑問符されているので反対。美術大学・芸術大学といったart academyは古典芸能と化した死んだ技術をまねさせ、保守させる意味の方がつよくなって、むしろ独創や創造性をおさえこむ傾向がある。
 芸術をもっともよくつくりあげ、つたえるのは徒弟制度というのがおそらく普遍にいえる。
 外来のことばの翻訳なのでわかりづらいが、芸術:artはもともと「わざ」という意味で、職人のしごとと本質は変わらない。大工がどうやってわざをつたえるかをみていれば、技術には慣れとか勘といったある暗黙知がふくまれる。はやくアリストテレスの倫理学にもこのきづきがみられ、カントによっても『判断力批判』に天才自身が手本をみせるべし、という見解がみられる。つまりすぐれた工房があつまっているまち、といった場所が芸術家の創造性をもっともよびさましやすい。機械工業の集積がある日立市からの多珂一帯に於いて、北茨城は芸術の方面に特性が発揮されてきた経験がおおいので、おそらくこういう場所柄に適任とおもえる。

2012年8月28日

No title

映画天心は、はっきりいうといまの時点で失敗ではないか?
 茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
 自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
 明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
'The Book of Tea' by Kakuzo Okakura, I. The Cup of Humanity

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
『茶の本』第一章 人情の碗 (*村岡博訳)


 いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。

子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也。

子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり。

孔子がいわれた。「篤く信じて学問を好み、死ぬ時まで善い道を守れ。危ない国へ入らず、乱れた国には居ない様に。天下に道が行われているなら現われて、道が無いならば隠れなさい。国に道があれば、貧しく地位が低いのは恥である。国に道が無ければ、金持ちで地位が高いのは恥である。」
『論語』泰伯第八の十三


 これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるをうれえず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」とある。
 市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。

 起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。

*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。


 すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
 明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
 中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。

 いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
 なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
 制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。

2012年8月26日

茨城県の将来性

人間は現代で、宇宙進出の途中にいる、ととらえるのが自然だろう。さまざまな商業活動は、おもとして資材をあつめ、この機会をつくりだすのをまっている。

 国際情勢をみると、各国のおもな国土はかぎられてしまい、大戦をさけようとするかぎりそれらのいれかえはないだろうから、もし創世記のとおり「産めよ地に満ちよ」となれば地上をこえてほぼ無限にひろがっている宇宙空間をつかうのが穏当だ。
 茨城県はつくば市、というこの重要な起点を一つもっているのでめぐまれている。おそらくたちいれない福島県の被曝地、はまどおりはそこに人家がつくられないという条件を利用して主要な宇宙stationになっていくだろう。日本国内で実質的に国有化されながら大規模な面積が確保でき、かつ首都圏からaccessしやすいのもよい点だろうから。

 現在、さまざまな商業によって財貨をかせぐ、という資本主義段階のおこないがおおくのひとにみられるが、この成果物がある宇宙技術の個人と企業、またはそれを支援する国家財政にたくわえられた結果、宇宙進出が実際にできる様になっていくだろう。現実に宇宙に長期居住する工学はまだかなり次元がひくくむずかしいとおもわれているが、いずれできるはず。
 しかし、これらの段階になってもまだ防衛権、という側面が人間についてまわるのがわかる。宇宙の広大さからいえば戦闘的な生物もいるだろうし、武力が永遠に否定されることはおそらくないだろう。日本はGHQによって便宜的に無力化されたが、ヤクザつまり暴力団という民間の不法武力組織がいたり、その前座としてみることのできる暴走族とかヤンキーとよばれている集団も国内にはいる。情報攻撃という型ではアノニマスもそうかもしれない。かれらは国内でもっとも大規模な公的武力組織としての自衛隊と警察に対して、無法者というたちばで威力をふるおうとしているのだろう。この実力、というものも冷静にみすえる必要がある。
 日本史をかえりみると、朝廷をふくめ幕府は単に最大の武力組織がになってきた。そして現代の国際社会でもやはりおなじで、人類は力をもちいるはかりごとによって徴税のための市場防衛をおこなってきた。この現実的な見方は、おそらく法や倫理的な説得という部分もいくらかはいりこんだとして、かなりの将来にわたってもそうかもしれない。

 茨城県がおおやけにめざすべきなのは、この武力面の強化といえる。その分だけ県警へ税収の大量配分がなければならない。茨城県は常陸国時代から歴史上、皇室における中央国政へ従順だったので逆らうことはまずありえない。そして大きな目標としては、国政と同等かできたらそれをひきいる単位として、宇宙進出を独自におこなえるだけの資財をあつめること。茨城県が国家のみならず世界にとっても、もっともこころづよい先駆、第一の味方となる様でなければいけない。もっとも平和的にみえる、人口増大のみちすじさえそれなのだから。
 商業活動が正当化できるとしたらこういった大義名分の上で、かもしれない。国民、県民が富み栄える道のりの途上で、その天空の住居地や生活開発に必要なだけの資本があつめられねばならず、さらにこのひとびとをみずからまもるため十分につよい防衛の武力がいる。

茨城文化の価値

岡倉天心の映画はもう大部分できあがってしまっているのかもしれないが、重要だとおもうのは、芸大を排斥された失意の岡倉が、再起の地をさがしていたとき磐城四倉から五浦辺りまでの海岸を紹介した飛田周山。はじめ四倉を案内したが岡倉のきにはいらなかった。そこでいつうらまで南下してきたら、あの雅趣に富む景観を岡倉はきにいり、地元にくわしい飛田へ周辺の敷地を買う様たのみ改めて日本美術院の本拠とすることにした。
 飛田は市内の大塚生まれの人物で子孫や生家がのこっており、美術院の人物達のかげにかくれてめだたなかったがごく大きな美術史上の功労者だろうし、市内でも精華小と明徳小にかれの手になる立派な日本画があるという。かれがいなければ岡倉も再起する機会をのがしたかもしれなかった。

 ほかに、県内の重要史跡として、佐竹寺と西山荘がある。自分の知るかぎりこの2つの建築的価値はきわめて高く、法隆寺や桂離宮に単独で張り合えるだけの威力や歴史的位置にある。現在までに建築関係者からの取材や、近代建築史学のおもな流れからみのがされてきた故に有名ではないが、単に芸術性とみても法隆寺や桂離宮という有名どころに劣っていないばかりか超えている。ある質実剛健さ、質朴さ、しかも唐風の影響をほとんどうけていない日本古来の建築様式をたもっているという面で自分は、建築学上ほとんど無名なこの重要な文化財に大いに衝撃をうけた。この2つの建物、景観は優先して保護しておく価値がある。
 軽視してる人間へも、実物を目の当たりにすればかならず、大和王朝以来の中央政府中心史観・大和民族中央史観へ必然な疑問符をなげかけるだけの文化論的インパクトがある。まえに日本の代表的建築物とされている有名な2つと同時期に見比べたらなおさらだろう。明治新政府の不当な冷遇によって不毛な地方とおもわれていた場所に古代から伝統された剛毅朴訥で偉大な技量、質素を重んじる高貴な精神性があった。歴史の見方を変えるほどの建築だ。
 文学の面からは、『神皇正統記』が書かれた県内つくば市(常陸国筑波)の小田城も日本史の転換を期している面で保全するべき遺構だろう。大日本史や水戸学を経て皇国史観に至った往時を偲ばせる史跡として整えるべきだろう。南北朝時代に県内で記された思想からの変遷としての、日本の中での文治への啓蒙を行う価値は、反省的遺産としても十分あるから。
 弘道館・偕楽園と好文亭、六角堂・天心邸と五浦海岸、或いは門を含む水戸城跡はいうまでもないからのぞくが、近代の建築でも現茨城県庁や磯原駅舎などは技術力や芸術性の高さから重要な建築的価値をもっている。これらは日立駅舎、天心記念五浦美術館、水戸芸術館ほど設計者が有名ではない故に建築的に価値をことさらたかくみとめられていないが、自分はなんらかの指標をつくって重要な文化財として優先して保護すべきだとおもう。近世のものとして大津駅前・磯原中学校横・中郷駅前の煉瓦倉庫、雨情生家などもこれに入るだろう。
 国際的な鑑識による評定も重要なはたらきをする。

追記:或いは戦時に京都が原爆の目標からはずれたのはその文化財としての価値をGHQの一部がみとめ、回避させたからという都市伝説もあるが、この真相は「敵国」の文化財を破壊させる方が略奪の次点に合理的な事から、偽の可能性も十分ある。America側に証拠がない限り、京都の人のprideの高さからきた風説かもしれない。

2012年8月23日

日本原子力発電の非人間性

子孫累々を犠牲にしてまで金儲けをして、一体、東海第二原発を推進したい人間は何がしたいのか。

金に狂って子孫を犠牲にする。この様な年寄りに経営をまかせるのは賢明ではないだろう。
 実質的には日本原子力発電という株式会社の悪徳株主に、子供の命と土地の安全を買収されているのと同じだ。大事故がある前に悟るか、それ以後に悟るかの違いがあるだけだろう。
 日本原子力発電の発電量は、東京電力のそれよりはるかに少ないのだからあってもなくとも国民生活に大差が生まれる事はない。立地自治体のegoで周辺の全住民が迷惑を被りかねないあきらかな外部不経済なのだから、万一東海村の議会が推進を決定したら県政の次元で決定的に否定できなければいけない。

 これらのどちらにもかかわらず国政が原子力発電所による国民の奴隷化を行おうとするつもりならば、その悪業に加担する政権も打倒せねばならない。主権者自身の命を守る為なのでやむをえない。

2012年8月22日

うわさ調査訴訟のさけるべきわだち

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/44450229.html より

ヤマダ電機、満足度ランク最下位訴訟で敗訴
読売新聞 12月14日(火)19時46分配信

 週刊経済誌「日経ビジネス」の消費者満足度ランキングで最下位にされ名誉を傷付けられたとして、業界最大手のヤマダ電機(群馬県高崎市)が発行元の日経BP(東京都港区)に5500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。

 石井浩裁判長は「ランキングの根拠となった調査には、恣意(しい)的な結果が生じるような事情はなかった」と述べ、ヤマダ側の請求を棄却した。

 問題となったのは、同誌2008年7月28日号に掲載された特集記事。アフターサービスの満足度に関するアンケート調査で、家電量販店部門はヤマダが16社中最下位だったなどと報じた。

 ヤマダ電機は訴訟で、調査が事前にモニター登録していた会員を対象に行われたことについて、「読者は、国民全体からアンケートの回答者を無作為抽出したと誤解する可能性が高く、不適切だ」と訴えた。

 これに対し、判決は、同誌が会員から回答者を無作為抽出し、組織票を防ぐためにメールアドレスのチェックも行っていたことなどから、「合理的な調査結果になるような配慮がなされていた」として退けた。

 ヤマダ電機の話「極めて不当な判決で、直ちに控訴します」


それにしても、ヤマダ電機は、経済雑誌のランキングを真摯に受け入れ、サービス改善に努めれば良いものを、逆切れして損害賠償請求の訴訟を起こしたのだから、大人げなさ過ぎる。

アフターサービス満足度アンケート調査で家電量販店部門最下位だったことを全く知らなかった私のような人間にまで事実の周知をしているようなものだ。

しかも、裁判所から「合理的な調査結果」というお墨付きまで貰っている。

ヤマダ電機は控訴すると息巻いているから、またまた更にサービスの悪さを宣伝するつもりだ。

ちなみに、「日経ビジネス」は、その後も同じアンケート調査を継続しており、今年もやはりヤマダ電機が最下位だった。


この記事から、これらの風説、うわさへの統計が恣意的調査である、という立証が確実に行えない段階で行政訴訟を起こしても、敗訴してしまえば逆説的に汚名を買ってしまう危険性があるのがわかる。

 茨城県が地域ブランド調査、という総合ブランド研究所によってこうむっている風評被害、へも同様の経験則が役立つだろう。確実に勝訴できる時以外は、それほどこの事実を公にしないほうが合理的、ということ。

日本人のサッカー監督情報

J1勝率順(ネット上の情報コピーなので真偽不明)
鈴木政一 73試合 59勝6分08敗 勝率80,8%
松木安太郎 128試合 78勝00分50敗 勝率60,9%
桑原隆 86試合 50勝6分30敗 勝率58,1%
西野朗 437試合 239勝69分129敗 勝率54,6%
関塚隆 148試合 74勝32分42敗 勝率50%
長谷川健太 170試合 74勝44分52敗 勝率43,5%
岡田武史 143試合 62勝37分44敗 勝率43,3%
原博実 207試合 86勝44分77敗 勝率41,5%
早野宏史 217試合 90勝30分97敗 勝率41,4%
柳下正明 132試合 51勝36分45敗 勝率38,6%

 これがもし真実なら、突出して鈴木政一氏が有能、とわかる。この人を雇い入れるのが常勝化に必要。
水戸の方か鹿島は考えるべきではないか。

社会学

 ハイエクはlibertarianismのおこりかもしれないが、計画経済や、個性を型にあてはめようとすること、集産主義とかれがよぶもの、つまり全体主義というものの実現できなさがあらかじめいわれていた点でいまだに参照できる。
 福祉主義は国家や地域を対象にすると、おなじ見解にたちかえることになる。UKですでに福祉主義は歴史上一度いなまれている。アダムスミスからの伝統的な自由放任へかれらはかえることにした。

 だが福祉主義の理想が全体の単位で達成不可能だとしても、現実をみるかぎり、固定資本とよべるたぐいの施設や設備はこの政府によっての保守が、すむ人々にとってさえ合理にみえる。
のりとして、「公共性のたかい」資本は実際には公共という全体利益をめざすただしい政府によっておこなわれる方が結果がよくなるらしい。
享受者がごく少ない人数でも、きりすてがおこなわれえない公共事業のばあいはその費用負担は全員にかかるので社会正義とよべるロールズ格差原理と矛盾しなくなる。
 ところが、公共性のひくい資本、私的な資本はそれによって利益享受できる人々が全員ではないため、公共政府が介入せず市場経済そのものへまかせておいた方が効率よく低廉化される。

 この智恵は一般に、いますべての先進国がおちいっているある不況問題へ決定的な解決策をあたえる。
 ハイエクの論拠がいなめるとすれば、全体最適がありえないとしてもすくなくとも社会や地域、国家、地域連合や国際連合という大規模単位に編入されているかぎりこのそれぞれの単位では仮の共和をめざせる、というおおきくみるめなさ。そしてこの点にさとれるかどうかによって単なるlibertarianismの社会にくらべ、自分がいまのべたたぐいの福祉主義の方が、現実のすみ心地よい状態にちかづける。

2012年8月14日

宣伝の焦点

 株式会社総合ブランド研究所が調査の対象にしている人々が具体的にだれなのかをさきにしらべ、この人々へ集約的に宣伝効果をはたらかせるべきで拡散してもあまり意味はない。
 なぜか魅力と解釈された地域ブランド調査(http://kamomenome.exblog.jp/16562446/ によると、実質は経済的不遇への自己正当化からきた地域の傲慢度ランクだが)というのは株式会社総合ブランド研究所という約10人の組織が流している風評なので、ここからの調査対象になった人々の偏見がそのまま反映されている。ほかのだれがちがう意見をもっていようとこの組織から受ける風説流布罪による風評被害からまぬがれることはない。

http://tiiki.jp/news/05_research/596.html によると、インターネット調査、とあるので、何らかのかたちでアンケートを募集しているらしいが、その調査対象者はインターネット人口といえる。

<調査概要>
・調査方法   インターネット調査
・回答者    20代~60代の消費者を男女別、各年代別、地域別にほぼ同数ずつ回収し、日本の縮図になるように、年齢や地域人口の分布にあわせて再集計した
・有効回収数  30,537人(1人の回答者は20の地域について回答。したがって、地域ごとの回答者数は平均で576人)
・調査対象   全国1000の市区町村(全786市+東京23区+191町村)と47都道府県
・調査時期   2011年7月1日~7月14日
・調査項目   認知、魅力、情報接触、観光意欲、居住意欲、情報接触経路(「旅やグルメに関する番組」など15項目)、訪問経験(「観光のため」など11項目および訪問率)、地域資源評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)、まちのイメージ(「歴史・文化のまち」など16項目およびイメージ想起率)、産品購入意欲(食品、非食品をそれぞれ自由記述)…計67項目

��問合せ先(メディアおよび読者とも)>
株式会社ブランド総合研究所 (担当.安田、轟)
Tel. 03-3539-3011(代)  Fax.03-3539-3013
E-mail:  survey2011@tiiki.jp
Homepage: http://tiiki.jp


 県政は関東圏でしか放送されないテレビ番組に出資してるみたいだが、むしろTBS系列から全国の地方局を経由して放送されるドラマ水戸黄門の公式スポンサーになる方がいいかもしれない。

2012年8月8日

滋賀県大津市から見えてくる教育委員会の問題点

大津市長の越氏「市民に選ばれたわけではない教育委員が教育行政を担い、市長でさえ教職員人事などにかかわれない」

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120719-OYT8T00994.htm?from=popin

 越市長は、自身も小学校と高校でいじめに遭ったことを明かしている。市教委から、まとめ資料ではなく、詳細なアンケート回答を取り寄せて読んだ。男子生徒が同級生から受けた被害がいくつも記されており、「いじめが自殺の原因だと確信した」という。

 一方、市教委は男子生徒の自殺後、「全校アンケートは不確かな情報が多く、いじめとの因果関係は断定できない」と主張していた。

 越市長は「市教委の説明を受け入れてきたけれど、前提となる事実の確認がいいかげんで信用できないとわかった。裏切られたように感じた」。アンケート結果の全面公表をしぶる市教委に対し、「事実はあなたたちが言ってきたことと違う。これは出すべきです」と押し切り、10日以降の公表につながったという。

 さらに、越市長はこれまでの市教委の対応のまずさを改めて認めた上で、その遠因に教育委員会制度の矛盾があると指摘。「市民に選ばれたわけではない教育委員が教育行政を担い、市長でさえ教職員人事などにかかわれない。民意を直接反映しない無責任な制度はいらない」と述べ、国に制度改革を求める意向を示した。
��2012年7月19日 読売新聞)



 教育制度そのものが社会主義的な上意下達によって専制され、一定の利害集団に牛耳られている事が虐めという校内犯罪を隠蔽するしくみにつながっているらしい。ギルドの様な、内輪の利害を擁護したがる体質をもっているわけだ。だから「生徒」が顧客である、といった意識がない。最優先事項が生徒の教育ではなく、かれら教員集団の利害損得になっている。
 公営の教育組織そのものへ開放性、監視性をさらにたかめる工夫がいるのだろう。たとえば父母とつくる生徒会による教員評価制度を導入するとか、教育委員会の人事も市民からの選挙であてはめていきその罷免も可能にできねばならない。

また、京都府では以下の対策をとった様だ。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20120731-OYT8T01636.htm?from=popin
 府教委側は、大津の問題を受けて、新たに作成した「いじめ問題緊急対策(案)」を説明した。

 その案では、いじめを早期に発見できるよう、児童生徒に悩みの相談にのってもらえる窓口の一覧を記したクリアファイルを、保護者には子どもの態度からいじめの兆候をつかむ「いじめサイン」のチェックリストを、それぞれ配ることを計画。

 また、学期末ごとに全学校で、いじめを見逃さないためにどのような取り組みを行っているかを調査し、児童生徒を対象にしたいじめアンケート調査でも結果を保護者や地域住民らに公開して、外部の目を取り入れていじめの有無を調べるようにする。

 新発足の検討チームでは、子どもの自殺や、いじめと関連が疑われる傷害事件といった緊急事案が発生した際、心理面の専門家や警察などとともに学校をサポートする「緊急支援チーム」の設置に向けた課題も考えていく。


2012年8月7日

茨城の目標

 現時点ではむずかしくみえるかもしれないが、茨城が東京や神奈川より全面にすぐれた地域になることが目標となるだろう。かれらの欠点を反面教師にし、長所にまさること。

 いまの段階で、警察官数の増強で自動車盗難や重要窃盗を事前におさえ、在日外国人の同性間性的接触によるHIV感染率のひろがりをおさえ、魅力とよべる地域のあらゆる美化と宣伝に全力をそそぐこと。これらができれば欠点とされている面は改善される。
 そのあとは、福島移転案もあるが、長期でみたときに皇族を水戸か旧国府のあったとされる石岡まで移住させるか、またはみずからが王族をつくりあげることだろう。参考にたとえばイギリスでも宮殿のあるバッキンガムと首都ロンドンは適度の距離にある。
 魅力というつくられた指標にみてとれるのは、皇居のあった地域は有名になるためにだろうがほかの地域での印象が良くなる傾向があるらしい。

 さらにおおきくみると、都市間の競争において東京や神奈川に勝つことが必要だ。総生産とか所得、あるいは福祉の面でも。それによっておなじアジアの上海や北京、台北やシンガポール、ソウルはいうまでもなく、ロンドン、パリ、ニューヨークといった極よりも常陸がなんらかの地位を占めつづける必要がある。
 こうしてはじめて、印象がないという評価によってほかの日本人から魅力がないとおとしめられている偏見がおしのけられ、我々の名誉が回復する。
 東京や神奈川はいうまでもなく、国際都市間の競争とみて京都、北海道、沖縄、大阪、兵庫、奈良といったすでに名のある地域にも絶対に負けないこと。これが命題といえる。

 とりあえずありとあらゆるよい分野で、単独で全面に東京にまさる。これだけでも国際水準とみてかなりの上位につくことができるだろう。

2012年8月4日

県名を変えること

 単純に、名称を水戸県か水戸府または水都にかえてしまえば、総合ブランド研究所から7年間うけつづけている風評被害は避けられるだろう。水戸は有名だからだ。(水都はスイトともみととも読める。みは美のかなだから、たとえば美化する名称としては美都でもよいとおもう。)
 水戸の語源はみなと、にあるらしく水府という名称もあるから、ほかの自治体とおなじく都構想をつかうことによって県央での二重行政の解消とともによい意味での有名さを即座にえることができる。

 明治時、不当に冷遇されたために上意下達で茨城というかならずしも美名とはいいきれない独特の名称になったわけだから、自分たちで名乗りを変えるのはむしろ賢明な選択といえる。

 あるいはこれらよりも、世界的にはHitachiという名の方が有名なので旧国名からそちらをえらぶのも長期的にはよい選択だとおもう。国際社会ではヒタチ、といったほうが通じ易い。
 どちらかといえば、日本人というのは福沢の脱亜イデオロギー以来仰いでいる欧米社会での評判にすぐ左右されるので、イギリスの高速鉄道にも名が冠されているこのヒタチという名義を維持している方が総合してむしろよい結果になりやすいだろう。「ひたち都」、というのは慣れれば言い易いはずだ。

以下の猪瀬直樹氏のツイッターにも、受注された高速鉄道車両にあるHITACHI表記の画像が。欧州ではヒタチ、という日本で聴くのとおなじキャッチでコマーシャルが流れているということ。これをかえりみると、将来的にはトウキョウよりもヒタチの方が国際的に有名になる可能性も十分ある。
https://twitter.com/inosenaoki/status/231720195696259073
https://twitter.com/inosenaoki/status/231687555756744704
https://twitter.com/inosenaoki/status/231681460124385280




茨城県の改善点と、ブランド総合研究所の悪質さ

http://todo-ran.com/t/tdfk/ibaraki より、
1位 自動車盗認知件数
2位 重要窃盗犯認知件数
46位 警察官数

 これらの指標は、警察官の絶対数が少ないために、自動車盗難事件、そして窃盗事件を防ぎきれていないことを示しており、単に見回りをする警察官の数をふやすことで解決できるだろう。

2位 エイズ患者数
2位 日本人・在日外国人合計HIV感染者数

これらの指標がでてくる原因は、http://todo-ran.com/t/kiji/11948 の日本人だけの指標で
8位 日本人HIV感染者数
にまで順位をおとしていることから、上記ページに以下のとおり分析されている。
 日本人・外国人合計HIV感染者数で上位だった茨城県、長野県が順位を落としており、これらの地域は外国人の感染者が多いことが分かる。
 相関ランキングを見ると基準地価:商業地や鉄道旅客輸送量、芸能人・タレント出身地など都市型のランキングとの相関が高く、HIVが都市で流行していると言えよう。

 いずれの値でも1位である東京都圏からの影響でこちらに悪禍が及んでいる。都市化にともなっておこっている現象といえるので、在日外国人を中心としたHIV感染、エイズ罹患への対策が必要といえる。http://passageiro.blog54.fc2.com/blog-entry-58.html によると、
 感染者の感染経路は、同性間の性的接触が約63%、異性間性的接触が約23%を占めた。

とあるとおり、在日外国人による同性間の性的接触がその原因になっている事が主な悪因らしい。いいかえればこの在日外国人による同性間の性的接触ルート(主にはそれをおこなわせる温床となる店舗や場所)を行政が率先して強制閉鎖し断ってしまえばかなり解決するだろう

4位 30代男性未婚率

 という指標はおそらく30代にある男性についての出会いの機会の少なさ、を示している。ただ、4位なのでそれほど焦る点ではないかもしれないが、対策すべきなのはそれを活発にさせる様な30代男性の出会いの機会の創出が必要ということだろう。


43位 青年海外協力隊隊員数

 この指標は海外への協力が多い地域はかつて移民という事例がおおかったのをしめしてもいるので、海外の姉妹都市などとの協調性がたかまると自然に順位があがるかもしれない。

42位 図書館数

 この指標は図書館の絶対数がもっと多くてもいい、とおしえている。濫造するくらいで他の地域と数があうはずだ。

44位 米消費量
46位 喫茶店店舗数

 これらは食習慣にかかわる指標だが、第一に米を食する機会をふやすこと、そして喫茶店がふえる様に頻繁に利用すると中庸にちかづくとおしえている。

46位 診療所数
46位 男性医師数
46位 現役医師数
45位 外科医師数
45位 精神科医師数
44位 大学医学部数

 これらの医師数のすくなさは、大学の医学部数と逆比例している様だ。付属病院つきの医学部を新設するなかで医師数をふやす。これが地域にとって必要としらせている。

46位 中学男子陸上部員数
45位 中学女子陸上部員数

 これらは、中学生の陸上部員を意図してふやすといい。

35位 面積
40位 森林面積
46位 森林率

 常陸という国号がもともとはひたみち、ともされるので、陸がおおくて面積の割には平原が多いので仕方ないかもしれないが、人工植林も有効になるだろう。

46位 ふるさと自慢
46位 郷土愛
47位 魅力

 最後に懸案のこれらの指標だが、ふるさと自慢のしなさはかつて儒学をひいた水戸学に於いての理想を美徳としたがゆえの謙遜の民度もあるはずだ。
孔子『人の己を知らざるを患えず、己の人を知らざるを患う』。大事なのは他人の長所からならいとり、己の短所をなおす事だ。ことわざに「人の短をいうな己の長をとくな」「自慢高慢馬鹿のうち」「実るほど頭の下がる稲穂かな」などとあるが、要は謙遜や謙虚といった態度の習性が自慢や高慢といったそれよりも美意識としてすぐれて道徳的である事をしめそうとしていることばだろう。
実際、おそらくもっともよい状態というのは、自慢や宣伝しなくとも他人から褒められ尊崇されている状態であるはずで、そういった高貴な人格性に茨城県の総体がちかづくためにはこのみずからのもつ地域性への謙虚さは、どちらかといえば地域の風紀としての美徳にかぞえあげられるはずだ。
 http://todo-ran.com/t/kiji/13384 によると郷土愛、というのは生活保護受給世帯や年間完全失業率、学校給食費滞納率といったネガティブなランキングとも正の相関があるらしく、経済的に恵まれない地域で郷土愛が強いとおしえている。戦後海外移住者数とも高い相関関係を示していて、戦後海外移民の多くも経済的困窮から海を渡っており、経済的困窮が人々を団結させて郷土愛を高めると考えることもできそうらしい。
つまりはそういったたぐいの過度の地域ナショナリズムは決してよい意味をともなっておらず、どちらかといえばたかくてよい指標とはいえない。というよりも、ここで郷土愛とされている地域の致命的な不経済性の反作用でしかない心理的合理化の指標は、むしろ低い方が内部のみならず外部へさえ開放的でよいといえる。
 さらに、最後につけくわえればこの最後の指標名になっている魅力というのは、http://tiiki.jp/ex_news/org_news/13survey/2010_09_08tiikibrandsurbey2010.html に
各地域に対して魅力度など全63項目の設問を設定し、地域のブランド力を、消費者が各地域に抱く「魅力」で数値化し、「魅力」の要因を観光、居住、産品など他の項目結果から分析できるように設計している。

とあるとおり、実質は観光や新規居住者への募集をふくめた「地域名を冠した商材の宣伝性」、といえる。ふるさと自慢という驕りの名目とにているが、おそらく、長期的にみればこの過度の宣伝はわるい指標だとおもえてならない。
 前回の記事 http://kamomenome.exblog.jp/16562446/ で分析したとおり、この指標は犯罪率・頭や体の悪さ(生徒の学力や体力テストの成績の低さ)・生活保護受給世帯の多さとのつよい相関にみられる「平均的な生活状態が特筆して悪い居場所が自分自身の地域自慢に興じている=自称魅力」、というのが実態であるらしく、どちらかといえばここで魅力といわれている指標が低いところの方が謙虚で地味だがすぐれた生活状態をもっている様だ。
いいかえればhttp://tiiki.jp/corp_new/about/about.html に会社概要がある総合ブランド研究所株式会社、と名乗っている法人は魅力となづけてどちらかといえば悪所に住む人々の高慢の習性という悪徳を賛美しているわけで、結局はなしにならない。
というよりも、ほぼまちがいなくこの会社法人はとんでもない風説流布罪に該当した悪業をしているわけだからいずれはつぶれるだろうし、悪影響をあたえる悪徳の証拠である指標をさもよい点であるかのごとく公然とたれながしているのだから迷惑をこうむったひとびとから大変なうらみも買おうし、できたらそこ発の卑しい風説を目にする事もなく二度とかかわりあいになりたくないほどだ。
 地元の人々が暮らし易く、生活状態がすぐれている事が重要であって、こういった非統計学的で非科学的な印象や噂の調査による風説流布罪の蓄積には公然と刑罰が必要なゆえんだ。なにしろこの総合ブランド研究所が垂れ流していた非科学的で恣意的な風説流布によって受けた、すくなくとも300万人の経済損失は甚だしいのだから。
ちなみに、この実質は悪徳賛美としかいえないふるさと自慢、郷土愛、魅力という地域偏見への三つの指標は、どれもhttp://tiiki.jp/ の総合ブランド研究所株式会社という東京都の法人がつくりあげていたらしい。
 これらは、実質をとればつぎの様にかきかえてもなんらかまわないだろう。ただし、それを誹謗してくる悪意ある東京都の法人である総合ブランド研究所と矢野新一がいるかぎり、かれらが驕った悪意でもっておとしめてくるかぎりは、この実質を彼ら傲慢な東京都と神奈川県にある特定の法人や個人は決してみとめたがらないだろうが。尤も、そんなくだらない俗悪な風説流布罪の業がいつまでもつづけられるほど日本人という国民が理解力のない愚劣な人々だとは自分にはおもえない。

2位 謙虚さ
2位 地域の開放性(恵まれた経済的余裕)
1位 生活状態のよさ(低い犯罪率×頭と体の良さ×生活保護受給世帯の少なさ)

 なお、http://www.brandri.co.jp/corp_new/about/about.html によると、このブランド総合研究所というのは2005年に田中章雄(2012年現在53歳)という人によってつくられており、今年で7年目の会社法人だ。これらをかえりみても与える影響の全般が悪い会社であり、むしろ経済損失をうみだす外部不経済の公害はなはだしい悪徳会社法人であっていつまでもつづけられる会社ではない。すくなくとも300万人がすさまじい風評被害を日々うけつづけている。県そのもののみならず、県名を冠した企業の損害額はどれほどだろうか。同じくこの3つの恣意的指標によって風説流布罪をこうむってきた埼玉県や栃木県、佐賀県にもすさまじい被害額が累積しているにちがいない。地域ブランド研究所とやらの犯罪している社員は10名で2500万円しか資本金がない様だが、地域経済の被害額はおそらく数兆を超えるはずだ。すさまじい悪業の会社法人であるかぎりは、かなりはやい時点でおおきなうらみを買い自滅するだろう。県税を大量に費やしながらこの人物による非科学的な偏見調査へこの自分さえ7年間耐え忍んでいるわけで、田中章雄容疑者へは風説流布罪で損害賠償を請求するためにすぐに行政訴訟や県の関係者団体が訴えを起こして刑罰を施して欲しいと心からおもう。

2012年8月2日

社会学

 人間界では、
あらたな知識→技術革新→経済発展→税率による調整
という循環が延々とつづいているだけ。

 このめぐりゆきがすぐれているかどうか、それがひとつの文明の度合いとたしかめられる。

 人間界でなせることのすべても、おもにこのめぐりに入っているだけだろう。
��ところで法律、そのもとになる道徳というのは独特で、いわゆる形而上学、後自然学とよばれている考えからでてくる。パスカルが『パンセ』(*1)で「山ひとつこえればちがう正義」というとおり、道徳は各地でかなりちがっている。この考えというものが各地のひとびとでことなっているあかしでもある。
 考えがちがうと習慣もちがうので、結果として人倫の最高のすがたとされる人格の理想も、かれらがもっている道徳観、つまりひごろからの善悪の判断によってことなるのだろう。善悪というものへの意識が「考え」とよべる、学資の総合的な判定能力によって大いにことなるのがこれでわかる。)

 かりに小型の地域であっても、文明がすすめられる循環がすぐれているばあいは、程度がたかい分だけ有効なはたらきをするだろう。名声というものがおもな役目をはたすのは、マズローの欲求段階でいう自己実現の極度に国家の人倫の完成度をたかめることがあてはまるからだろう。

―――
��1 『パンセ』; 294 「川一筋で仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。」

2012年8月1日

留学生の選抜

山口県では生徒5人を毎年、イギリスまで留学させているらしい。
 松陰あたりが『孫子の兵法』にならったものか某密偵にちなんだというのが傷は傷ではあるが、すくなくともそのこころみの中から参考にできるのは、国外のできるだけすぐれた学校におさないころから一度いれてみること。これが重要な経験になるとおもう。

 英米でもレベルのひくい学校はいろいろ問題があるみたいだが、上級の場所にいれてみるのはかえってきて国内のせまい、うちむきの組織とはちがうなんらかのアイデアをもちこむかもな点で有徳。