経済さからいうと、日本語をつかってくらそうとするかぎり英語の単語とかさなる日本語の分量はあたまをムダづかいしていることになる、と かいた。
またこれは日本語そのものへもあたり、まったくおなじ意味でつかう単語がいくつもあたまにいれられるとそれだけ脳のCPUとしての力がおちて、おそくなってしまう。
いまのところ日本語にちかいことばをつかうひとは多くはない。もっとも多いのは中国語というか、むかしの漢字やその省略文字にたよっているひとで、つぎが英語(出典)。日本語はそれらよりずっと下の順位。ということは、日本語でかいたりはなすかぎりそれをそのままわかるひとはかなりすくない、ということ。
またわれわれはあまりきづかないが、日本語はとてもむずかしく、そだってしまってからふたたび十分につかえるほどならおうとするとほとんどムリにちかい。はっきりいうと漢字をとりいれたカコの関西人のせいだとおもう。
そのせいでニホンゴはわざとむずかしくする、科挙文人の悪風にそまってしまった。いまのほとんどの試験というものも、ニホンゴ圏だとイジわるをしているとしかいえないものがごく多い。それらは、はっきりいうと害しかない。どちらかといえばひとびとを無知なままにしておくことになってしまうからしまいには弱い文明、まける社会におちいってしまう。
これらをかえりみると、ニホンゴをより英語にちかいことばでおきかえるのもかなりきくとおもわれる。平易なことばが英語には多いからだし、漢字をわすれられる。いまのひとびとがまったくしらない漢字は何万とあるわけだが、それをすべてちがうしるしでおきかえればより簡易なことばのままでもモンダイはない。
こういうことをかんがえると、文部科学省のつくってきたお固い教育方針にのるだけ損かもしれない、というほかない。特に、はじめはむずかしすぎる漢字をダイタイおぼえさせてから、つぎに英語を(5、6年生から)おしえこむ、というのはシッパイだ。この逆を、カッテに各おやがやってしまう方がいい。
そうすればたとえあまりにむずかしすぎる漢字はつかいこなせなくとも、脳はよりなめらかに回ることになる。そして一部の子はこの分量のあたまを理科につかった方がいい。そうすれば地球のひとについていく、ばあいによってはかれらをさきにたってみちびくしごとができるはずだ。
むずかしすぎる漢字で中国の古典にしたしむ層。こういうひとは多数でなくていい、とわかる。このひとたちのモンダイは、科挙のわるいくせのためにひとびとをバカなままにしようとしてあることないことわざとむずかしくかきつけて威張るというところだ。
しかし一理あることをいうことも、きわめてたまにだが、ある。たとえば漁夫の利、とか仁義忠孝ということばはこういうひとがかんがえついた(しかもこれらはくせやことわざであって、かならずしも真理、シンジツといおうか、ホントウではない。いいまわしを工夫したものでしかない)。
けどそういう確率はおどろくほどひくいから、どちらかといえばむずかしすぎてよめないためにことばを立派につかえないひとがおおくなってしまうことの方が損がおおきい。
また、注意すべきことは単純に漢字がよめない方がいいというわけではない。むずかしすぎるそれより英語がつかえた方が「人々全体の結果とみれば」いいし、さらには漢字の希少価値より科学のそれの方がいまのところ高いので理科系の研究者になった方がありがたいってわけだ。おまけに、いまのところはほとんどの科学の文献は英語でかかれているし、会議なんかも英語でひらかれている。
まったく学習しないひとたちにとってはどっちにしてもおなじみたいだが、そういうひとたちにとってもどちらかといえば英語をしっている方が得しやすいはず。
そしてすべての科学者にとってのおなじことばといえば数学だ。だから数学は必修にした方がいい。小学校だと算数とよんでいるが、これは数学のなかでもさらにキソとなるところ、もっともカンタンなところといえる。しかし、ニホンゴやニホン文化の弱点が補強されるともっといい。*1
和をもって尊しとなすをくにのかけごえにしたカコの弊害、つまりほかのくにのひととくらべたとき議論でのよわさというなれからよい点だけをうしなわない様に、ということは「やさしさ」「おもいやり」とかのどっちかといえば文学的なこころ、感情のこまやかさをなくさずに、おなじくはなしあいのうまさによってよりひろくさまざまなものごとを知る力、ことばの通じるいろんなくにのひととの極端な論争にならない適度なやりとりの力をのばすのはできるとおもう。要するに、いまは高校でおしえてる論理という分野はもっとはやくから習わせていいとおもう。
数理論理学の初段といえる集合と論理式、いわゆる →∧∨¬⇒⇔∀∃∴⊂⊃∪∩⊆⊇∋ こういうしるしをつかって必要条件などの式をくみたてる分野は小学生の段階でもそれからの応用ができるのでむしろ詰め込みしていいきがする。算術、つまり +?±×÷=≠<>≦≧√∫∞ こういうしるしで計算する分野は、実はうえにかいた論理との両輪だ。日常でつかうのは論理だし、算術はそのなかの数というものだけをあつかっている。このふたつをあわせたものに解析幾何学(≡∥⊥∠△⌒こういうしるしをつかう)といわれている分野があって、それをいまの文部科学省の下部組織がつくっている教科書はさきにおしえているが、これはそれらのあとでいい。タブン、理想的な順序でいうと
論理→算術→解析、なのではないか。
いまは
算術→解析→論理、となっているが、これだとこどもが混乱のままに勉強することになって、のびがない。はじめに論理をおしえれば、それを便利につかって算術も解析も自在にできるカノウセイがたかい。
しかも、いまのレベルですでに「計算機」というドウグがつくられているので、これをつかわない手はない。算術のめずらしさはかなりこの計算機、それとそのしくみのキソになってるオートマトンという理屈でひくまっている。しかし、解析はかなりコンピューターでかわりをできるみたくなってきたが、論理はまだできない。つまり、論理のカチがいまのところすべての知のなかでもっともつかえるのでもっともたかい。
おまけには、とてもなのある哲学者で、自分もいいこというので尊敬しているひとだが、ジョン・スチュアート・ミルというひとが自伝のなかでいってたけども論理は哲学、というかものごとをふかくかんがえることにとっても一バンつかえるということです。
で、もっともキホンの計算のしかた、たとえば筆算のやり方がわかれば、もう手計算だけでやらない方がいい。この計算機(いまでいう電卓)のしくみというのは算術のはたらきをキカイへやってもらっている分、脳があくのでそれだけあたまがよく回るというわけだ(ザンネンなことに、このことがわからない、あたまのよくないひとがトウキョウあたり、また みと あたりにはかなりいて、そういうわるいひとは学問がすすむより脳のムダづかいの方がすきで、ドウグのつかいかたがわからない。だから計算機をつかわずに手計算しろといってくるけど、それは二本足であるけるのに四本足であるけ、といってたおさるとかわりない。ムシしてしまうことだ。学校でもそういってくる先生がいたら、そんな授業にでるかわりに、ジブンでさっさと勉強して、できるだけはやくイギリスやアメリカなどに留学して飛び級するみちすじをえがいてください。その方がみんなにとってもいい)。
あたりまえだとおもうけど、どんな立派なカガクシャもみんながほとんどを電卓やそういう専用のプログラムをくみこんだコンピューターで計算していますし、それがもしこわれてしまったとき、てもとにない、あとカンタンすぎていちいちもちだす手間がムダなときだけ筆算で仕方なくやる。「数学そのもの」のしくみをかえていくとき、つまり代数をつかわないときも、それだけで経済生活をしているプロといおうか大学教授や研究員、印税でくらしている著作家のあいだでも電卓をつかって数値計算はすることがほとんどだろう。
どんな数学をつかうひとも、キカイの方がおなじことのくりかえしがはやくて得意ということ、だからキカイの方が人間のタイテイの頭よりどっちかといえばこまかくはやく計算できるらしいということをしっている。人間のあたまがいまのところ得意そうなのは、タブン、概算といわれるダイタイの予測だけだが、これもまちがいやすいのでどうせいつか計算機でたしかめないとならない。どうしても手計算やどうしても暗算がすきなひと、もともと計算するのがすきだからカッテにやってたい算術すきのひと(ジッサイ、こういうシュルイの天才もたまにいる)、あとすこし時代遅れになってきてしまったけど、いつまでもソロバンをつかいたいシュミの人(このひとは、なんらかの電磁波環境の変化ですべての電卓がダメになったときのために希少ではある)、こういうひとだけが計算機をきらえばいい。というか、ソロバンもむかしの型の計算機でしかない。みんながみんな計算機をきらう必要はゼロだ。もしどうしても計算機きらわせて、どうしてもこどものあたまをムダづかいさせてみんなのあたまを空回りでわるくさせたいなら、なんで現場ではそれで日々計算しているのかってはなしになる。もっと便利でつかいやすく安価なドウグをしっててそれでいいものがありますよ(タブン、論理もできるコンピュータープログラムの一種か)、ってことだとしたら、それを早速みぢかなひとびとへおしえるかベンチャー企業としてそのわざを独占して売り出した方がいい(どちらがいいかは、それをつたえるひとびとのほしがっている度合いによる。だから日本国内ではタブン子どもやまわりのひとびとにおしえる方がつたわり、たとえば英語圏にはかずおおくの研究者がいるから売り出した方がよくひろがる)。脳のムダづかいをやめることが人類のことばの進化だから。
―――
��1 これは初期の天皇家と聖徳太子のせいでもあるが、和を以て尊しとなす、を中国語からもってきて国是としたために、議論をして合理的な結論をだす、という風習をなくしてしまった。
おどろくべきことだけど、ニホンジンとよばれているひとびとはほとんど議論ができない。このとき、議論ということばをすこしかえて、論争とし、これを英語とくらべてdebateだとすると、なるほど、あいてを打ち負かすためにする議論はかならずしも長期で見て利口なstrategyとはいいきれない側面がある。たとえばもっともむかしにアメリカにわたった人らのひとりで、こっちでいう1万円札、むこうでいう100ドルのかおになってるベンジャミン・フランクリンってひとの自伝でも、議論のくせはきらわれがち、あまりよくないとある。さらにうらづけると、『徒然草』にもいくつかこの点から過剰な利口ぶりや、議論による勝利の目的視を、作者の人生経験からだろうがいましめる文がある。吉田兼好にとって教養はむしろ人格の修養のためだったのだろう(二百三十二段、百三十段)。
したがって、どちらがかしこいのか、ディベートをホンのおさないころから叩き込んでるアメリカの子とニホンのひとが論争になれば、たとえそれぞれ得意なEnglish、日本語のやりとりだったとしても9割ニホンのひとがまけるはずだ。
しかしこれもいかにも徳川的なはなしだが、負けるが勝ち、いくらか負担が重い方がえらいという評価基準があるところもしばしば、いきものといおうか人類の社会ではないことはないのである。モチロン、いまのグローバル化のなかではいまいちそういう感じではないけど。コテンパンではまったくよくないというのもたしかであって、惜敗つづきくらいならまだゆるされるし、天下統一じゃないがすこしずつひそんだ応援者がおおくなっていくかもしれない。だが全体とみれば勝った方が多くを得る、というのがありとあらゆるいきもののなかで当然なかぎりこれらの負け助けとはときたま起こる例外のばあいへのいいおよびである、とおもうのが自然だ。なぜかって、いまあなたが家にあらわれた害虫をぶっ倒して、負けるが勝ちとほざくだろうか? 単にこれらの論点は「政治的長期戦略から、いかに惜しくも負けたふりをたくみにしつづけ同情する仲間の数をふやせるか」の群淘汰(という、ありえないと科学上は否定されている生物戦略の、過去の知識人らによって偏見づけられた)問題でしかない。要は、議論に勝つのは当然だが、勝つのを目的にする必要はないというわけ。
だから、すこしこの論争ずきというありがちだが尊くはない特徴をゆるめて「はなしあい、討論」のイミでconversationまたはよりやわらかくtalk aboutだとする。ときには必要な能力であり、特に海外に適応したければ必然的な能力である、ありとあらゆるおしゃべり、おもいの口語による自己表現能力をきらいすぎる、といってもいい。ケッキョク、はなしあいというもの全般、これがニホンジンはあまりできないというか文化環境としての過去の淘汰効果からもとっても苦手としている。これをすこしできるのはどっちかというと主婦やら独身女性やらであってむしろムダばなしというか、私語といおうか、井戸端会議くらいのはなしで、それも真剣な意見交換ではなく、ただのうわさのやりとりでしかない。しかもこれは生物学的には理にかなってるっぽいのがこわいところだが(うわさばなしによって「私生活」への性選択効果をはたらかせているか? 女性の脳幹の太さと、ことばの流暢さにかかわる知能や翻訳能力は比例する、という生理学的知見もある)。
で、からだのおおきな男がなにかをまじめにはなしあっていると喧嘩とカンちがいしてとめてきたり、逃げだしてしまったり、いやなかおをする。だからますます体育会系の負の側面みたいななんでもいいからちからでおさえつけるみたいなわるい風、まちがった野蛮さにまきこまれる。こういう なれ は 第一に不条理なよのなかをつくってひとびとのうまれもったよい性質をゆがめる。まるくおさめるというイミでは訴訟や裁判をすくなくした一つの功績はあったかもしれないが、かわりに論理をよわくしてひとびとが自然や社会のこまかなことを分析していく力をうしなわせてしまった。あれほどひどかった第二次世界大戦へさそわれていったのもこれができないひとたち(いうまでもなく天皇家もその代表者だ)がこのしまをしきってたせいがかなりおおきいとおもわれる。はなしあいのなかですこしずつなんらかの知ったことをよりそとから見ても変じゃないものにみがきあげていく、という集団研究やなんちゃら協会、いわゆる興味にそっておこなう研究会、クラブ活動みたいなものがすくなくなってしまうのがつねにやばい部分だ。このしまのアカデミズムのせまいすきまでおこっているいろいろなわるさ、いやがらせやあしのひっぱりあいもかなり、こういうなにか不満を根にもって、正々堂々はなしあいで解決しないというふるい風習がまさに一つの原因だろう。いうまでもないかもだけど、市政での議論のよわさもまさにこれ。本質や重大事はいわず一般市民へは公開せずに根回しやら人間関係のごたごたでなんとかおのれの利得の為にしてしまう、というのはものごとを根にもつ、ある公徳に劣った悪どい者やそういう邪悪な手だてをどんどんはびこらせたがるわるい風儀をいつのまにかのこしてしまう。当然だが、そういうあくどい者はある長い期間でみわたしてみれば小さな居場所にしか適合しないし、地球人類の表舞台から去っていく宿命の下にある。すでに社会主義国というものがどういうたちばにおいこまれているかをみてとればいい。
モチロンそれ以前に「はなしあい」で当事者間で解決すべきなのだが、すでに裁判というしくみがあるのだから、不服でもくりかえし上告する以外には紛糾の解消のしかたがない、と人類が経験的にみいだしてきた。それをこえて人類はいまのところきめにくい問題にきりをつけることはできない。だからこの人間界で最後の土俵際以外では必死に論争するイミ、かつ、ものごとを根に持つことの合理性などほとんどゼロだ。だれもかれも損しかしない。そもそもそういういつまでもあいてをうらみつづける性根の悪さ、乃至はどうでもいいことに必死になって些細な不満に目くじらをたて争いを不断に誘発するおろかしさが文明社会に適合しないためひとりでにきらわれてきえていくか、僻地へと退散させられていく、というのが常識的にあちこちでおきている社会現象であり、日本でも まずもって例外ではない。
2011年10月29日
2011年10月27日
常磐線のつくりなおし
常磐線北部は、ある程度迂回しながら地下鉄化すれば建設可能だとおもう。
放射能シェルターをかねた技巧だから、東海村をかかえた県民が出資するきがあれば、専用の公社などとのジョイント ベンチャーがつくられれば災い転じて福となす、って点で経験値が将来もいかせるはず。
都知事はホーキングの科学文明自己崩壊説、を事実として信じ込んでるらしい(ある記事によれば)けど、
現在しられているこの宇宙の年齢やその果ては今後も更新されるし、どちらかといえば観測限界がひろがる可能性がたかいので、
地球とほかの知的生命との接触がすくないのは単に我々の文明が若すぎるか孤立した位置にある、またはそのどちらもであると自分はかんがえる。
で、そうするともし地球人のいくらかが原子力の利用をこれからあきらめていったとしても武器や、ほかの文明でのことなった目的への応用という部分は大いに ありえつづける。放射線治療という医学と医療での それも つづけられ さらに きわめられていくだろう。
よって「工学上の放射能対策への高い適応力」は人類文明のなかでも先進的で貴重な技能に属することから、自己と子孫の健康をそこなわない被曝への多くの優良な技術の一貫として
合理的なshelter地下抗またはそれを応用した空中敷設の わざ を もっているのは これからの ためになる。
放射能シェルターをかねた技巧だから、東海村をかかえた県民が出資するきがあれば、専用の公社などとのジョイント ベンチャーがつくられれば災い転じて福となす、って点で経験値が将来もいかせるはず。
都知事はホーキングの科学文明自己崩壊説、を事実として信じ込んでるらしい(ある記事によれば)けど、
現在しられているこの宇宙の年齢やその果ては今後も更新されるし、どちらかといえば観測限界がひろがる可能性がたかいので、
地球とほかの知的生命との接触がすくないのは単に我々の文明が若すぎるか孤立した位置にある、またはそのどちらもであると自分はかんがえる。
で、そうするともし地球人のいくらかが原子力の利用をこれからあきらめていったとしても武器や、ほかの文明でのことなった目的への応用という部分は大いに ありえつづける。放射線治療という医学と医療での それも つづけられ さらに きわめられていくだろう。
よって「工学上の放射能対策への高い適応力」は人類文明のなかでも先進的で貴重な技能に属することから、自己と子孫の健康をそこなわない被曝への多くの優良な技術の一貫として
合理的なshelter地下抗またはそれを応用した空中敷設の わざ を もっているのは これからの ためになる。
2011年10月26日
(再掲)東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数
この記事は以前より精度を高くして再掲する。過去のはhttp://kamomenome.exblog.jp/14688316/
おもな変更点は、
・東京電力株式会社の遠い将来へおよぶ大公害によって先天的に障害をうけたと定義できる、今後うまれてくる市内人口の予測を、5万人の全市民あたりこれからさき50年間で160人増加だったのを139人増加(21人分減)と、資料から推察できる精度を高くした。
・ダーウィニズム(進化論)の観点からかれらへの最大限に慈悲深い社会体制が、同時に世の中の役に立つ、という面での社会的選択効果をはたらかせつづけるべき、という人類の中の心身の不健全への過保護を戒めた。
・追記に、上述の増加わりあいから年間約3人、つまり市内で想定できる新生児の数全体のうち毎年1%の先天性障害の発生率上昇、についての算定を記した。
・結論として、「線量をすべての食品へ表示すべき」。そうすれば幼く若い者は線量を注意深くみずからにとっての安全度からえらびぬけるし、壮年以後や老人はあまりそれをきにせずとも農耕地方を支援できる。販売業者は無論、市及び県、国も積極的にそうしなければならない。つかった計測器の種類や計測方法もつけて。
再計算部分を変更したほかはまえの記事とほぼおなじものなので、これらの点をみてとれれば、以前の記事を読んだ方は(計算のたしかめ、詳細をみたい等のめあてなければ)もう一度以下をくわしくよみなおす必要はない。
―――
資料1. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
資料2. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
ここで、http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、
37 000 Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?) ∧ 1000bq=1kilo bq
15Ci(Ci/?)=37 000Bq(Bq/㎡) ×15=555 000bq(Bq/㎡)
555 000bq(Bq/㎡)=555kilo bq(Bq/㎡)
∴
37k Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?)
555k bq(Bq/㎡)=15Ci(Ci/?)
上の二つの資料をみくらべると、
北茨城の広域は 資料2(15ページ、参考4) より、セシウム137の沈着量について最大で100k bq(Bq/㎡)。
つまり、北茨城(及び、地図上で青色のある地域)は1Ci(Ci/?)~15Ci(Ci/?)の範囲内。
⇒
千人あたり (3.87+4.57)/2= 平均4.22人から (6.90+7.07)/2= 平均6.985人 へと、事故後の頻度増加 (51+83)/2=平均67% の新生児についての先天性障害頻度の上がり、がおそらくこの市内でも起こる可能性がある(‘おそらく’、というのは、今回の事故以後は除染や、地産食品をよけたり暫定基準値食品などでのなんらかの対策をしている人民がいるかもしれないので、情報の不足したベラルーシ共和国のときよりは被害がすくなくなるかもしれないからだ。)
ただし、今回これからもとりえるあきらかな対策として、過去の記事の中の計算によれば、初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめ、受胎後8~25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という二つの対策を確実にとっていればそこからすくなくとも知能遅滞については確率が減ることになる。
もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、上述の値の平均をとって、そのうち
50 000人=1 000人×50
∴
6.985×50-4.22×50=349.25-211=138.25≒139人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この139人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの139人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この139人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ偏見をもたず優しくすべきはうたがいない。多くの社会条件のつくりあげ、たとえば車椅子をつかった生活の為のまちづくり、電車や交通機関、周辺自治体含む各種の公共機関を立派に整備すること、該当する医療福祉と各種養護施設へのおもに賠償からきた投資、もおそらく必要だろう。運行されるバスの低床車への買い替えをお願いし市民一丸でうながし、店のいりぐちや道路の陥没やすきまのゆるい傾斜路化、駅ホームのエレベーター完備への募金、これらは今後必要性がたかまるはず。
どの個人も集団の一員であることからこれらの公共費用高への強制的発言は偽善的ではないかという観点へは、もし冷たく現実的なダーウィニズムにもとづけば、彼らのほとんどは他者の擁護なしには生活していけないかもしれない不具とそのために集団にとってはおそらく負担がかさむゆえ、その血統を我々全体が他よりあえて優先的に維持する必要はないかもしれないが、彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない、とみなすべき。そして万一にではあるが、彼らのなんらかの五体健全に比べれば不具合に該当する特徴の為に、かえってそのための栄養と神経が集中した別の器官に宿った特別な才能がいちじるしい社会的有用性をもつばあいがありえる。
―――
追記: http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/04/tokei/H22toukeisyo/uid000004_20100910091524fda32087.pdf (市民課、常住人口調査)の9ページ、「人口動態」を参考にすると、現行の新生児は市内で毎年約300人、今回の震災で転出がふえたという統計はいまのところはないが、かりに目算で50人分の出産人口が市外へ転出した、とかんがえると、
平成23年(2011年)度の産児を 250人 と仮定
上述の 50年で139人の先天性障害の増加率は、139/50=2.78(人/年)つまり年間約3人と算術できる。
よって、市内で懐妊された産児のうち
(2.78/250)×100%=278/250%=1.112%
≒1%の増加がみられるはず。
つまり、確率でのみいえば、過去の人類の歴史経験からみちびける最大のばあいでも、新生児全体数のなかに毎年いままでよりも1%の先天性障害の発生率上昇がみられる、ということになる。このpercentageそのものは全体主義的な眼によれば深刻な印象をあたえない解析結果だが、現実にあの公害によってたしかにその数の増加がみられるはず、というのはおそらく疑い様がなく、したがって今のところ「大規模公害」以外に一つの名前のない大企業による犯罪だろう。
より微視的にみれば、(現在~2041年または2061年まで; 最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間から、5万人の全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間のあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障害をもった子がふえていく、というのは決して万人から見ても軽い事由ではない。そもそもそれ以外にも身体被爆による甲状腺癌などのかなりの発生可能性とつねなる精神的抑圧がある。
市にとってもそれらの健康被害にたしかにあたるおおくの想定できる事象があった場合、かなり深刻な打撃なのはたしかだろう。どれほどの賠償があってもこの痛手そのものは広域にわたる除染の著しい困難さから、農作地の除染をするまで、あるいは山菜や家庭菜園など自然由来の食物を摂取した市内の人々へかなり長年にわたってつづくはず。
よって、個人は無論、市及び県、国はその提供する農作物や食品へ計測器や方法を含めて線量表示を義務付け、想定できるかぎり簡単な除染法を紹介し、それを即刻おこなってできるかぎり内部被曝量を最小化する必要がある。
おもな変更点は、
・東京電力株式会社の遠い将来へおよぶ大公害によって先天的に障害をうけたと定義できる、今後うまれてくる市内人口の予測を、5万人の全市民あたりこれからさき50年間で160人増加だったのを139人増加(21人分減)と、資料から推察できる精度を高くした。
・ダーウィニズム(進化論)の観点からかれらへの最大限に慈悲深い社会体制が、同時に世の中の役に立つ、という面での社会的選択効果をはたらかせつづけるべき、という人類の中の心身の不健全への過保護を戒めた。
・追記に、上述の増加わりあいから年間約3人、つまり市内で想定できる新生児の数全体のうち毎年1%の先天性障害の発生率上昇、についての算定を記した。
・結論として、「線量をすべての食品へ表示すべき」。そうすれば幼く若い者は線量を注意深くみずからにとっての安全度からえらびぬけるし、壮年以後や老人はあまりそれをきにせずとも農耕地方を支援できる。販売業者は無論、市及び県、国も積極的にそうしなければならない。つかった計測器の種類や計測方法もつけて。
再計算部分を変更したほかはまえの記事とほぼおなじものなので、これらの点をみてとれれば、以前の記事を読んだ方は(計算のたしかめ、詳細をみたい等のめあてなければ)もう一度以下をくわしくよみなおす必要はない。
―――
資料1. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
資料2. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
ここで、http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、
37 000 Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?) ∧ 1000bq=1kilo bq
15Ci(Ci/?)=37 000Bq(Bq/㎡) ×15=555 000bq(Bq/㎡)
555 000bq(Bq/㎡)=555kilo bq(Bq/㎡)
∴
37k Bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?)
555k bq(Bq/㎡)=15Ci(Ci/?)
上の二つの資料をみくらべると、
北茨城の広域は 資料2(15ページ、参考4) より、セシウム137の沈着量について最大で100k bq(Bq/㎡)。
つまり、北茨城(及び、地図上で青色のある地域)は1Ci(Ci/?)~15Ci(Ci/?)の範囲内。
⇒
千人あたり (3.87+4.57)/2= 平均4.22人から (6.90+7.07)/2= 平均6.985人 へと、事故後の頻度増加 (51+83)/2=平均67% の新生児についての先天性障害頻度の上がり、がおそらくこの市内でも起こる可能性がある(‘おそらく’、というのは、今回の事故以後は除染や、地産食品をよけたり暫定基準値食品などでのなんらかの対策をしている人民がいるかもしれないので、情報の不足したベラルーシ共和国のときよりは被害がすくなくなるかもしれないからだ。)
ただし、今回これからもとりえるあきらかな対策として、過去の記事の中の計算によれば、初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめ、受胎後8~25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という二つの対策を確実にとっていればそこからすくなくとも知能遅滞については確率が減ることになる。
もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、上述の値の平均をとって、そのうち
50 000人=1 000人×50
∴
6.985×50-4.22×50=349.25-211=138.25≒139人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この139人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの139人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この139人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ偏見をもたず優しくすべきはうたがいない。多くの社会条件のつくりあげ、たとえば車椅子をつかった生活の為のまちづくり、電車や交通機関、周辺自治体含む各種の公共機関を立派に整備すること、該当する医療福祉と各種養護施設へのおもに賠償からきた投資、もおそらく必要だろう。運行されるバスの低床車への買い替えをお願いし市民一丸でうながし、店のいりぐちや道路の陥没やすきまのゆるい傾斜路化、駅ホームのエレベーター完備への募金、これらは今後必要性がたかまるはず。
どの個人も集団の一員であることからこれらの公共費用高への強制的発言は偽善的ではないかという観点へは、もし冷たく現実的なダーウィニズムにもとづけば、彼らのほとんどは他者の擁護なしには生活していけないかもしれない不具とそのために集団にとってはおそらく負担がかさむゆえ、その血統を我々全体が他よりあえて優先的に維持する必要はないかもしれないが、彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない、とみなすべき。そして万一にではあるが、彼らのなんらかの五体健全に比べれば不具合に該当する特徴の為に、かえってそのための栄養と神経が集中した別の器官に宿った特別な才能がいちじるしい社会的有用性をもつばあいがありえる。
―――
追記: http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/04/tokei/H22toukeisyo/uid000004_20100910091524fda32087.pdf (市民課、常住人口調査)の9ページ、「人口動態」を参考にすると、現行の新生児は市内で毎年約300人、今回の震災で転出がふえたという統計はいまのところはないが、かりに目算で50人分の出産人口が市外へ転出した、とかんがえると、
平成23年(2011年)度の産児を 250人 と仮定
上述の 50年で139人の先天性障害の増加率は、139/50=2.78(人/年)つまり年間約3人と算術できる。
よって、市内で懐妊された産児のうち
(2.78/250)×100%=278/250%=1.112%
≒1%の増加がみられるはず。
つまり、確率でのみいえば、過去の人類の歴史経験からみちびける最大のばあいでも、新生児全体数のなかに毎年いままでよりも1%の先天性障害の発生率上昇がみられる、ということになる。このpercentageそのものは全体主義的な眼によれば深刻な印象をあたえない解析結果だが、現実にあの公害によってたしかにその数の増加がみられるはず、というのはおそらく疑い様がなく、したがって今のところ「大規模公害」以外に一つの名前のない大企業による犯罪だろう。
より微視的にみれば、(現在~2041年または2061年まで; 最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間から、5万人の全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間のあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障害をもった子がふえていく、というのは決して万人から見ても軽い事由ではない。そもそもそれ以外にも身体被爆による甲状腺癌などのかなりの発生可能性とつねなる精神的抑圧がある。
市にとってもそれらの健康被害にたしかにあたるおおくの想定できる事象があった場合、かなり深刻な打撃なのはたしかだろう。どれほどの賠償があってもこの痛手そのものは広域にわたる除染の著しい困難さから、農作地の除染をするまで、あるいは山菜や家庭菜園など自然由来の食物を摂取した市内の人々へかなり長年にわたってつづくはず。
よって、個人は無論、市及び県、国はその提供する農作物や食品へ計測器や方法を含めて線量表示を義務付け、想定できるかぎり簡単な除染法を紹介し、それを即刻おこなってできるかぎり内部被曝量を最小化する必要がある。
2011年10月25日
磯原言語学
ちがう言葉をつかうためにおぼえねばならない単語数の重複は、それ専用のmoduleを脳へinputせねばならないかぎりCPU非効率をおよぼす。
単語そのものが一個にきめられればこの損失はおきない。*1
だから、日本人が全員bilingualになれ、といった教育方針はこの時点で矛盾している。重複の省力化をほどこしたCPUが処理できる情報量は同程度の性能、つまり同等の大きさの脳同士でもより多いはず。
文法事項は語順問題へ返る。それらのならびかえで生じるすれちがいが熟語表現をとるので、かならずしも語学が脳やその思考回路をゆたかにするわけでもない、となる。いわばこれらの文法的多重事項は脳の中のinput programの冗長性にすぎない。
おそらくこの場合の冗長性は、ちがう出自の者へ解読しやすいならびかえを行える、という「翻訳回路」を言語setにくみこむだけだろう。そしてある科学的達成や、それに類した単純性の数理的分析だけをするかぎり翻訳回路はそのCPU性能の目的最適化の為には負担でしかないだろう。
これらの推論に誤りがなければ、文科省の方針な英語の必修化は単に教養的な選択課目でしかないべき(きわめて幼児の際から)、となる。
英語の国際語としてのいまの覇権的地位も、英語を母語とした使用者らにとっての利己か便宜でしかない、と単に科学上からはいえる。*2
そしてこのprogram言語の効率を参照にした、ことばの真理から、みずからの体系とはおおはばにちがった相手とのやりとりは専門の翻訳者や通訳をつかい、教育のなかでは子女の親にとって外国語学習を自由採択としできればやらない方がよい成果をあげられる、ということがわかる。その方が脳というCPUの効率があがるのだから。*3
ちなみに、日本語のばあいは視認性や省略をのぞいて、発音setの単位となっている「五十音(いわゆる仮名)」の単位で仕事をするのが最も効率的という面白い理論がでてくる。このばあいのみ重複が最小、かつ単語が一つだからだ。つまり、漢語や英語の思考回路は仮名によるそれより日本語にとって一段効率が落ちる。それらには子音や文字としての不確定さがのこるからだ。これらのしばしば日本語へ編入される既存で外来の要素は日本語にとっては装飾的なものなのだろう(おそらくカタカナが利用される場合も)。
だからある極点まで効率化が日本語の中ですすめば、むしろ最も単純な仮名ことば(これからつくられたりおもいだされたりするものふくむ)が過半以上になるだろう。そして分かち書きとよばれる英語でそうしている文字と文字のすきまで単語の区切りをしらせつつ記述する手だてが、漢字をつかうより効率面でもよい場合が(きわめてすくない非常に単純な略字、つまり月や山くらいの絵文字にちかい象形字の出現確率のひくい例外をのぞいて)ほとんどだろう。
ちなみに、自分は磯原にある図書館で小さな女の子が紙芝居を一文字ずつ結構大きな声でかなりゆっくり朗読しているところから、これらをひらめきとして導けた。幼稚園かその前の年齢だろうけど、あの子には感謝する。
―――
��1 かつ、意味の最少最多則(最も少ない発音の量と表記のbyteで最も多くの誤解されない意味をとる為の言葉が経済的)からできるだけ簡易な単語がえらばれるといい。
��2 英語によるやりとりは付け加えられた能力としては(特にイギリスの旧植民地とそこから独立した各国圏での仮のcommunicationへ)しばしば重宝だが、必須ではない、という発見は日本語使用者へまったく新しく、これまでつくりあげられてきた明治維新組の下士層によってうえつけられてしまった自らの母語への劣等文化視というあしき偏見からの解放を約束している。翻訳文化はこの翻訳回路をもつ脳をつかった情報貿易業として栄えてきたが、単に科学の意味のみに限っていえばどの言語で説明されても同じものとなるはずだ。それらの間に生じるlossはすべての異なる単語間に翻意が存在できるかぎりありえず、一種のゆるやかな期間内でのとりちがえや勘違いの差延でしかない。たとえばrevolutionは再回転、という字面の単語だが「進化」にあてたためすこしのとりちがえや既存の単語がその文化内でもっていた意味との干渉が起きるが、ひとしい物事をさすかぎり結局は同じことにすぎない。
��3 こうして、なぜ外国語学習をしないアメリカとイギリスの人達のなかに高度な科学力をもった脳が多いかが理解できた。同様のことをすれば北茨城人の中にも想定できるだけ無数に天才的頭脳をはぐくめるはずだ。はじめから通訳者なしにおおはばにちがう言葉のひととやりとりしない、とそのinputをできるだけ捨てれば、そして同時にそのための労力を理数へ注げば脳がおおはばに効率化する。そしてこの点からみると、文科省の教育方針から自主的に離脱し、わが子へは英語で0点をとれ、漢文漢字もできなくていい、そのかわり数学だけは満点をとれと教えればいいことになる。ただし、このひとはもしひとりきりなら母語、この国でいえばおおよその日本語が通じる範囲でしか深いcommunicateできないかもしれないが、脳の効率として各国で必要とされるそれにまさる効果がえられるのはあきらかだ。同時に、英語圏が広いという有利さは英語が母語のひとたちへのみ通じるのだから、すでに母語が英語でないひとたち、またはこれからも英語だけで暮らす予定のないひとたちが科学的思考を効率よく行うためには英語学習は損失といえる。そして驚くべきことは、この英語学習の不要さを翻訳可能なすべての言語圏でおしすすめた方がかえって各地の効率的科学からえられる恩恵を英語圏の人々すらえられる、というところだ。同様に、かなり政治的な問題につながってしまうわけだが、薩長土肥や天皇家などの明治テログループがクーデターによる悪意ある転覆で周辺侵略を方針とした際にことなる体系のことばの人らへ日本語教育をしようとしたことも、この世界の思考効率という面から誤りだったし、今後もそうなると結論できる。同時に、いまや日常語も方言がきえつつあるのですこし些細なことでもあるが、方言での思考の方が英才教育のためにはよい、となる(ただし、本をよめるという能力については書かれた言葉、文語だけを標準語でした方が効率的という部分はいまのところ流通シェアの面からかなりそうかもしれないが。これも将来的には、単に効率達成という経済力学のためだけにばあいによっては標準語から方言への翻訳業のおかげであたらなくなるだろう)。「他語での学習は不経済」だから。
単語そのものが一個にきめられればこの損失はおきない。*1
だから、日本人が全員bilingualになれ、といった教育方針はこの時点で矛盾している。重複の省力化をほどこしたCPUが処理できる情報量は同程度の性能、つまり同等の大きさの脳同士でもより多いはず。
文法事項は語順問題へ返る。それらのならびかえで生じるすれちがいが熟語表現をとるので、かならずしも語学が脳やその思考回路をゆたかにするわけでもない、となる。いわばこれらの文法的多重事項は脳の中のinput programの冗長性にすぎない。
おそらくこの場合の冗長性は、ちがう出自の者へ解読しやすいならびかえを行える、という「翻訳回路」を言語setにくみこむだけだろう。そしてある科学的達成や、それに類した単純性の数理的分析だけをするかぎり翻訳回路はそのCPU性能の目的最適化の為には負担でしかないだろう。
これらの推論に誤りがなければ、文科省の方針な英語の必修化は単に教養的な選択課目でしかないべき(きわめて幼児の際から)、となる。
英語の国際語としてのいまの覇権的地位も、英語を母語とした使用者らにとっての利己か便宜でしかない、と単に科学上からはいえる。*2
そしてこのprogram言語の効率を参照にした、ことばの真理から、みずからの体系とはおおはばにちがった相手とのやりとりは専門の翻訳者や通訳をつかい、教育のなかでは子女の親にとって外国語学習を自由採択としできればやらない方がよい成果をあげられる、ということがわかる。その方が脳というCPUの効率があがるのだから。*3
ちなみに、日本語のばあいは視認性や省略をのぞいて、発音setの単位となっている「五十音(いわゆる仮名)」の単位で仕事をするのが最も効率的という面白い理論がでてくる。このばあいのみ重複が最小、かつ単語が一つだからだ。つまり、漢語や英語の思考回路は仮名によるそれより日本語にとって一段効率が落ちる。それらには子音や文字としての不確定さがのこるからだ。これらのしばしば日本語へ編入される既存で外来の要素は日本語にとっては装飾的なものなのだろう(おそらくカタカナが利用される場合も)。
だからある極点まで効率化が日本語の中ですすめば、むしろ最も単純な仮名ことば(これからつくられたりおもいだされたりするものふくむ)が過半以上になるだろう。そして分かち書きとよばれる英語でそうしている文字と文字のすきまで単語の区切りをしらせつつ記述する手だてが、漢字をつかうより効率面でもよい場合が(きわめてすくない非常に単純な略字、つまり月や山くらいの絵文字にちかい象形字の出現確率のひくい例外をのぞいて)ほとんどだろう。
ちなみに、自分は磯原にある図書館で小さな女の子が紙芝居を一文字ずつ結構大きな声でかなりゆっくり朗読しているところから、これらをひらめきとして導けた。幼稚園かその前の年齢だろうけど、あの子には感謝する。
―――
��1 かつ、意味の最少最多則(最も少ない発音の量と表記のbyteで最も多くの誤解されない意味をとる為の言葉が経済的)からできるだけ簡易な単語がえらばれるといい。
��2 英語によるやりとりは付け加えられた能力としては(特にイギリスの旧植民地とそこから独立した各国圏での仮のcommunicationへ)しばしば重宝だが、必須ではない、という発見は日本語使用者へまったく新しく、これまでつくりあげられてきた明治維新組の下士層によってうえつけられてしまった自らの母語への劣等文化視というあしき偏見からの解放を約束している。翻訳文化はこの翻訳回路をもつ脳をつかった情報貿易業として栄えてきたが、単に科学の意味のみに限っていえばどの言語で説明されても同じものとなるはずだ。それらの間に生じるlossはすべての異なる単語間に翻意が存在できるかぎりありえず、一種のゆるやかな期間内でのとりちがえや勘違いの差延でしかない。たとえばrevolutionは再回転、という字面の単語だが「進化」にあてたためすこしのとりちがえや既存の単語がその文化内でもっていた意味との干渉が起きるが、ひとしい物事をさすかぎり結局は同じことにすぎない。
��3 こうして、なぜ外国語学習をしないアメリカとイギリスの人達のなかに高度な科学力をもった脳が多いかが理解できた。同様のことをすれば北茨城人の中にも想定できるだけ無数に天才的頭脳をはぐくめるはずだ。はじめから通訳者なしにおおはばにちがう言葉のひととやりとりしない、とそのinputをできるだけ捨てれば、そして同時にそのための労力を理数へ注げば脳がおおはばに効率化する。そしてこの点からみると、文科省の教育方針から自主的に離脱し、わが子へは英語で0点をとれ、漢文漢字もできなくていい、そのかわり数学だけは満点をとれと教えればいいことになる。ただし、このひとはもしひとりきりなら母語、この国でいえばおおよその日本語が通じる範囲でしか深いcommunicateできないかもしれないが、脳の効率として各国で必要とされるそれにまさる効果がえられるのはあきらかだ。同時に、英語圏が広いという有利さは英語が母語のひとたちへのみ通じるのだから、すでに母語が英語でないひとたち、またはこれからも英語だけで暮らす予定のないひとたちが科学的思考を効率よく行うためには英語学習は損失といえる。そして驚くべきことは、この英語学習の不要さを翻訳可能なすべての言語圏でおしすすめた方がかえって各地の効率的科学からえられる恩恵を英語圏の人々すらえられる、というところだ。同様に、かなり政治的な問題につながってしまうわけだが、薩長土肥や天皇家などの明治テログループがクーデターによる悪意ある転覆で周辺侵略を方針とした際にことなる体系のことばの人らへ日本語教育をしようとしたことも、この世界の思考効率という面から誤りだったし、今後もそうなると結論できる。同時に、いまや日常語も方言がきえつつあるのですこし些細なことでもあるが、方言での思考の方が英才教育のためにはよい、となる(ただし、本をよめるという能力については書かれた言葉、文語だけを標準語でした方が効率的という部分はいまのところ流通シェアの面からかなりそうかもしれないが。これも将来的には、単に効率達成という経済力学のためだけにばあいによっては標準語から方言への翻訳業のおかげであたらなくなるだろう)。「他語での学習は不経済」だから。
2011年10月24日
茨城学
典型的な水戸っぽ気質。日本全国でみわたすと、以前御三家が置かれていた地域はこれにちょっと近い民俗の性質があるみたいだ。他の民俗も茨城とはすこしたちがちがっていたりして、部分的にはかなり重なるがかならずしもまったく同じ性質ではない様だ。
が、自分が茨城県の地域でかなり長く一連のできごとを観察していてわかったことは、彼らの行動原理は「その同質性の高い仲間うちの利益」だけをはかっているということだ。
ものすごく単純化すると、仲間同士の利益をはかろうと同質性行動をしてしまう習癖こそが、この根であるということができる。もっといえば、もしかれらがほかの地域国家と比べても良い仲間といえる非常に学識深く知能の高いひとびとと普段から人格的親交をむすんでいれば、もともとかれらがある同質性行動をする可能性は低まるといっていいかもしれない。
要するに、かれらの大部分はただ周りのひとと徒党を組んだり適宜に協調しあっているだけなのだが、その周りのひとのために、自動的に悪さといえる失敗行動にふみこんでしまう可能性がある、これが哲学性の欠点と結論することができる。勿論、このなかまがよい仲間であったばあいは確実に成功に到達するだろう。
この茨城的点、つまり在来のたちといわれるだろう部分を改良するには、「想定できるかぎり最大限に人工の流動性を(できれば選良的に)高め、その異質性を広域に均衡させて低知能なひとびとの為だけの社会行動を消失させていく」のが最善の手だ。これによって、茨城とそこに住み続けているひとびとのもっている同質性はかなりつよく緩和される。
人口流動化の例から我々が先取権をとりたければ、可能な限り選良を導入した方がよい、となるだろう。しかも想定できる限り大多数。これが行われるためには、もしそれが可能ならだが、全世界で最も多い大学数というのが一つの目安かもしれない。これは現在にとっては高すぎるハードルかもしれないから、それより一つ目標をさげれば全国で最も多くのノーベル賞受賞者数(出身、在籍どちらも含む)、というのがあり得る効果への伸びではないかとおもう。これさえもむずかしければ、自分にかんがえつくかぎり次善の策としては(現在覇権的な英語圏を第一とした)海外留学者数の最大多数さ、かもしれない。
これらにくらべはるかに最も簡単なものとしては、英語圏をおもとした「英語を主とした国際語による。できる限り優秀な、できれば博士か最低でも修士以上の経歴を伴った各科の)教師」をきわめて多数、またはすべての茨城圏内学校の主要なポストへ導入、できたらそれを各校に義務づけることではないか(すでに日本で第一外国語の地位にあるEnglish Assistant Teacher枠を含み、それをこえて。この枠そのものもたしかにかなり重要だからそういう人数以上を死守すべきだが。なぜならつかえない英語、いわば科挙英語というのが受験社会の日本では衆目一致する国際化の弱点なのだから。
おそらくもっともよいのは主要な戦勝国としての英米からだろうけど、たとえばカナダやニュージーランドほかの英語圏または基本的な国語の通じる諸外国でも非常な厚遇条件を前提にその中でもかぎりなくよい人物をえらんでの雇用契約を広域ですれば、彼らが外国人であって在来のもの、在来種のみによってはぐくまれ得てきた性質とかなり違った血統であればこそ、茨城のひとびとのもってきた同質性は彼らの用いる文化のみならず定着での混血によっても容易に改良されていくだろう。
が、自分が茨城県の地域でかなり長く一連のできごとを観察していてわかったことは、彼らの行動原理は「その同質性の高い仲間うちの利益」だけをはかっているということだ。
ものすごく単純化すると、仲間同士の利益をはかろうと同質性行動をしてしまう習癖こそが、この根であるということができる。もっといえば、もしかれらがほかの地域国家と比べても良い仲間といえる非常に学識深く知能の高いひとびとと普段から人格的親交をむすんでいれば、もともとかれらがある同質性行動をする可能性は低まるといっていいかもしれない。
要するに、かれらの大部分はただ周りのひとと徒党を組んだり適宜に協調しあっているだけなのだが、その周りのひとのために、自動的に悪さといえる失敗行動にふみこんでしまう可能性がある、これが哲学性の欠点と結論することができる。勿論、このなかまがよい仲間であったばあいは確実に成功に到達するだろう。
この茨城的点、つまり在来のたちといわれるだろう部分を改良するには、「想定できるかぎり最大限に人工の流動性を(できれば選良的に)高め、その異質性を広域に均衡させて低知能なひとびとの為だけの社会行動を消失させていく」のが最善の手だ。これによって、茨城とそこに住み続けているひとびとのもっている同質性はかなりつよく緩和される。
人口流動化の例から我々が先取権をとりたければ、可能な限り選良を導入した方がよい、となるだろう。しかも想定できる限り大多数。これが行われるためには、もしそれが可能ならだが、全世界で最も多い大学数というのが一つの目安かもしれない。これは現在にとっては高すぎるハードルかもしれないから、それより一つ目標をさげれば全国で最も多くのノーベル賞受賞者数(出身、在籍どちらも含む)、というのがあり得る効果への伸びではないかとおもう。これさえもむずかしければ、自分にかんがえつくかぎり次善の策としては(現在覇権的な英語圏を第一とした)海外留学者数の最大多数さ、かもしれない。
これらにくらべはるかに最も簡単なものとしては、英語圏をおもとした「英語を主とした国際語による。できる限り優秀な、できれば博士か最低でも修士以上の経歴を伴った各科の)教師」をきわめて多数、またはすべての茨城圏内学校の主要なポストへ導入、できたらそれを各校に義務づけることではないか(すでに日本で第一外国語の地位にあるEnglish Assistant Teacher枠を含み、それをこえて。この枠そのものもたしかにかなり重要だからそういう人数以上を死守すべきだが。なぜならつかえない英語、いわば科挙英語というのが受験社会の日本では衆目一致する国際化の弱点なのだから。
おそらくもっともよいのは主要な戦勝国としての英米からだろうけど、たとえばカナダやニュージーランドほかの英語圏または基本的な国語の通じる諸外国でも非常な厚遇条件を前提にその中でもかぎりなくよい人物をえらんでの雇用契約を広域ですれば、彼らが外国人であって在来のもの、在来種のみによってはぐくまれ得てきた性質とかなり違った血統であればこそ、茨城のひとびとのもってきた同質性は彼らの用いる文化のみならず定着での混血によっても容易に改良されていくだろう。
2011年10月23日
かば氏とのやりとりの経過2
これらの事態(http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548に詳しい)の進展について、ふたたび一連のできごとを省察してみるに、
結局、かば氏としては「できるかぎりカモメの善意からの忠告は耳に入らなかったことにし、その後のカモメからの誤解をとくための話し合いもパスし、できればすべてをかばが全面的に正しくカモメがまちがっていることにして済ませてしまいたい」というある安易な手順でやりすごそうとしているのかもしれない。
まあ、(相当に人間関係へ誠実な者でもなければ、*1)ありそうなことだ。
そして自分がおもうことには、「相手へ人格毀損を働くことは(公益に類した、人格ではなく公務についての指摘でもなければ)全般として自己の人格の尊厳への毀損でもある」って真実だ。これは人格権とでもいえるだろう。この権利を他人について尊重しない者は、当然、社会のさまざまな場面でその者の人格権も主張できない場でしか生きていくことが出来ないだろう。
わたしは豊田稔氏という個人は、はっきり言って信用している。この人は非常に若いときから懸命に市のために働いてきたのであり、その祖先も同様だった限り、きわめて市を益するための利他的行動について信用性が高く、そのために我々の大多数はこのひとをいまのところ市長の座にえらんでいるわけだ。(*2)
しかし、自分が再三指摘しているのは、きわめて急速な情報化・知識化の、どっちかっていうと都心・都会での進展に比べ、どんどんとその趨勢からとりのこされつつあるこの市政および市場がまきこまれている資本主義系の世界観からすると、この豊田氏のかんがえかたは幾らか時代遅れになりつつあり、したがって「公務の責め」に十分応え得るかというとはっきりいって疑問符だということです。これはあの震災の一連の記事を参照にしてもらうとわかりやすいかもしれないが、第三者その他の観察者の眼にはかなりはっきりと映っていたことだった。彼が市民主義や利他性のもちぬしだと仮定できるとしても、その高齢などの要因のためにその既存の地位へのしがみつきもしくは任期継続がかえって市の損失となりえる可能性があるとおもわれざるをえなかった。5人が亡くなったことは、わたしにとっては悲痛のかぎりでもあったから、これはもっとやりようがあったろうという意味で、やはり最終責任は防衛者としての行政の現長に求めざるをえないのが現実だ。
その職責に耐える能力がお歳にして十分なら、もっと迅速かつ優良に市内のさまざまな落ち度は改良されていいはずなのだから。
もっともわかりやすくいえば、おそらく世代交代が必要だ。その速度が遅すぎる。これが社会そのものの混沌と衰退の原因でもあるのだろう。定年退職がない行政の責めは、それがゆえに新陳代謝が一層おそくなる傾向を持つ。ひとことでいえば自主引退、ご隠居という水戸黄門イデアがあまりにこの国から忘れ去られ、欠落している。結果として持たざる若者が非常に追い詰められ、深刻な世代間対立の一歩手前まできているほどだ。くわえて、この土建的風土が残存する地方の政治風土では一層その遅さ、遅れの面がきわだってきてかなりとりかえしのつかない状況におちいりつつある――すくなくとも、自分がカバ氏という市民活動家的(もしくは、一般的に職種または仕事の種類をみなしてそれにかなり類似している活動を含むだろう)ひととしばらくやりとりしてみても、この方も随分と努力はしているみたいだが、大勢の文明から遅れていることはどうも疑えそうもなかった。権利や法益や人格さらには批評という概念を、おおむかしの野蛮時代のサル山での共闘なんかに比べてそれほど認識していないのだ。一歩の遅れではない。
これらすべてをかんがみ、わたしが「公務の責め」という面から、市民の自由な創作活動にイデオロギーを注ぎ込む様な子分作りをしようとしているふるい型の遅れた政治家もしくはそのたちを含む扇動家らしき者を、市の足を引っ張る劣等因として指摘し、進度をむけかえ励ましたのはおおよそ正しい判断だったとおもえてならない。第一、それですら豊田氏本人の人格的尊厳はわたしにとっても重要なことがらなので一向に触れるきがないにせよ、大変に流動性の低く失業率の高くなっている閉塞的資本空間の市内でめのまえでおきている風営法違犯の悪辣な子女壊乱さわぎを放置しながらまったく無関係の一小説屋をほめたてるなどという逸脱は、もし公務員の代表者足るべき地位にして万一あるとすればだが公衆の高覧に値する事例だと確信している。かれらの大多数は貧困ラインに届くかどうかというところで自らの個性をもっとも社会福祉に益したかたちでいかせる生業をもとめてさまよいつづけている。もう任期は確実なんて浮気加減で遊んでいるばあいとは、到底おもえないのだ。
農林漁業がどうなるのにせよ、国家の先導層として正しく世界の公益と神の恩恵に合致した盛業を志すのが、もっとも古くから大国としての関東圏にあって、首都の一角を担う者の使命だ。仮に大多数の国民にとって検査を十分にしたとして、なおかつ一切の(外部からのコピーライターやコンサルタントの招聘と手助けを加えてなお)心配と危害のおそれのためにそれらの必要(*3)がないとすれば、広域の県民がみずから鋤をタブレット端末にもちかえて産業の興隆に貢献できなければならない。いつまでも風評にこだわって大多数の国民ならびに世界の諸民族諸国民にとって安全への懸念のある品物を売り続けようとしても多くの人が感心するとはおもえない。より重要なのはみずからの力で仕事を興し、その公益への報徳のために世界の人民がより安楽に暮らせる様はかることではないか。
―――
��1 我々はしばしば地方人の人間性へ期待しすぎる。おそらく、古代の高貴な伝説を中国史書から勉強してきたのがその原因だ。どの世界であっても非常にまれな例外でなければ、隠者らしき地方住みの人物に公徳に類した大観またはその時点での国際常識の定着を見ることはできないし、彼らの持っている知識や技能も決して飛びぬけて利口と言うほどではないだろう。
然るべき能あってなおかつ相当に人間関係へ誠実な者でもなければいざこざへの適切な人格的処理を期待するのは彼らを取り巻く環境とそこではぐくまれ得る才にとって過度と言うものだ。自分はこの市内のある人物に期待をかけすぎていたのだろうし、彼の一見誠実そうにみせているものは、論語でいう郷原(地元の偽善)にすぎなかったのだろう。
ある現実主義者が述べる様に、自然の長は最も枯れた土地である都会に才能を集め、最も豊かな地方の風土には敢えて悪種を集めてしまったらしい(犯罪率などを見返せば、総体とみてあるいはこの分析も、単なる教養に落ち度のある地方者との接触に際した一連の事象への便宜的合理化にすぎないかもしれない、多くの実例をとれないかぎりこの一般論化はまだ危険だが。少なくともこの社会的分類学は「適応性にまつわる地域間民俗差」へ少しの予備的観点または正否どちらかの発見を与えるかもしれない。おそらく大きな原因は、特定の情報量の集積度ではないかと思える、したがって移動費がますます節減されていく情報化では文化越境についての多くの予想外の事態が生じ得るとも推察できる。この事例もその一つ、知識及び情報格差から来た摩擦だった可能性がある)。
この状況を仮に説明すれば「幸福の平衡」として、都会のものには人間づきあいよさを、田舎のものには土地の清浄さを分け与え、それらの両立はなり難くなっているとかんがえることができる。しかし、多くの場合に人はこれらの両立を求めて努力を重ねているのだろうが。
――なおこれら観点へは自分の観察から経験的知見がある。御茨城県知事殿は、自分の見る限りきわめて博識で能力もごく高い。海外からも褒賞されるのは当然だ。こういう人物をみるにつけ、旧常陸の国と言う首都圏に入った領域は地方と都心の両方の特徴を兼ね備えているか、少なくとも両方が急速に混合し易いという条件下にあるとおもう。或いは自分もそういう社会構成に関わっている一人かもしれない。
��2 そして実際に一市民もその点、つまり市の利益の為に彼が行動しやすいだろう、って観点の真実性については吝かではない。勿論これは大抵の地方の長と同じ土地か地場資本の固定性が原因の一つだろうし、それが新世代から見ると地縁を軽く見て広域メディア戦略を駆使している様な斬新な型に比べて若干古びれても悪びれてもいるので新鮮味に欠け、革新的行政人たる先進性はないのだけれども。
この点で、めだった革新首長としてかなり果敢な判断をつみかさねてきている高萩の草間市長は、この市政にとってはかなり参照や参考に足るとおもえてならない。代替電源も用意しなければアナログ的時代遅れの防災無線設置で元の木阿弥にならないんですか、ってレベルの出遅れた後進性を現職の北茨城市の市長自身ならびにその行政機能は構成員らの高齢さも相まって悲しいほどもっている。しかも平気で、というのが日立の北にあって末おそろしいことなのですが。
��3 つまり、茨城がかなり長くそうしてきた首都圏へのもっとも安価で流通費用の低い、安全な食品、それらの加工地を含む原材料の提供先。もしこの為に需要よりかれらの機会損失が高くなれば、我々にとっても所得の高度化がみられるはずなのだから、我々自身の緊急時の食料源の絶対確保という条件つきで助成による産業構造の大胆な転換をはかれる。
結局、かば氏としては「できるかぎりカモメの善意からの忠告は耳に入らなかったことにし、その後のカモメからの誤解をとくための話し合いもパスし、できればすべてをかばが全面的に正しくカモメがまちがっていることにして済ませてしまいたい」というある安易な手順でやりすごそうとしているのかもしれない。
まあ、(相当に人間関係へ誠実な者でもなければ、*1)ありそうなことだ。
そして自分がおもうことには、「相手へ人格毀損を働くことは(公益に類した、人格ではなく公務についての指摘でもなければ)全般として自己の人格の尊厳への毀損でもある」って真実だ。これは人格権とでもいえるだろう。この権利を他人について尊重しない者は、当然、社会のさまざまな場面でその者の人格権も主張できない場でしか生きていくことが出来ないだろう。
わたしは豊田稔氏という個人は、はっきり言って信用している。この人は非常に若いときから懸命に市のために働いてきたのであり、その祖先も同様だった限り、きわめて市を益するための利他的行動について信用性が高く、そのために我々の大多数はこのひとをいまのところ市長の座にえらんでいるわけだ。(*2)
しかし、自分が再三指摘しているのは、きわめて急速な情報化・知識化の、どっちかっていうと都心・都会での進展に比べ、どんどんとその趨勢からとりのこされつつあるこの市政および市場がまきこまれている資本主義系の世界観からすると、この豊田氏のかんがえかたは幾らか時代遅れになりつつあり、したがって「公務の責め」に十分応え得るかというとはっきりいって疑問符だということです。これはあの震災の一連の記事を参照にしてもらうとわかりやすいかもしれないが、第三者その他の観察者の眼にはかなりはっきりと映っていたことだった。彼が市民主義や利他性のもちぬしだと仮定できるとしても、その高齢などの要因のためにその既存の地位へのしがみつきもしくは任期継続がかえって市の損失となりえる可能性があるとおもわれざるをえなかった。5人が亡くなったことは、わたしにとっては悲痛のかぎりでもあったから、これはもっとやりようがあったろうという意味で、やはり最終責任は防衛者としての行政の現長に求めざるをえないのが現実だ。
その職責に耐える能力がお歳にして十分なら、もっと迅速かつ優良に市内のさまざまな落ち度は改良されていいはずなのだから。
もっともわかりやすくいえば、おそらく世代交代が必要だ。その速度が遅すぎる。これが社会そのものの混沌と衰退の原因でもあるのだろう。定年退職がない行政の責めは、それがゆえに新陳代謝が一層おそくなる傾向を持つ。ひとことでいえば自主引退、ご隠居という水戸黄門イデアがあまりにこの国から忘れ去られ、欠落している。結果として持たざる若者が非常に追い詰められ、深刻な世代間対立の一歩手前まできているほどだ。くわえて、この土建的風土が残存する地方の政治風土では一層その遅さ、遅れの面がきわだってきてかなりとりかえしのつかない状況におちいりつつある――すくなくとも、自分がカバ氏という市民活動家的(もしくは、一般的に職種または仕事の種類をみなしてそれにかなり類似している活動を含むだろう)ひととしばらくやりとりしてみても、この方も随分と努力はしているみたいだが、大勢の文明から遅れていることはどうも疑えそうもなかった。権利や法益や人格さらには批評という概念を、おおむかしの野蛮時代のサル山での共闘なんかに比べてそれほど認識していないのだ。一歩の遅れではない。
これらすべてをかんがみ、わたしが「公務の責め」という面から、市民の自由な創作活動にイデオロギーを注ぎ込む様な子分作りをしようとしているふるい型の遅れた政治家もしくはそのたちを含む扇動家らしき者を、市の足を引っ張る劣等因として指摘し、進度をむけかえ励ましたのはおおよそ正しい判断だったとおもえてならない。第一、それですら豊田氏本人の人格的尊厳はわたしにとっても重要なことがらなので一向に触れるきがないにせよ、大変に流動性の低く失業率の高くなっている閉塞的資本空間の市内でめのまえでおきている風営法違犯の悪辣な子女壊乱さわぎを放置しながらまったく無関係の一小説屋をほめたてるなどという逸脱は、もし公務員の代表者足るべき地位にして万一あるとすればだが公衆の高覧に値する事例だと確信している。かれらの大多数は貧困ラインに届くかどうかというところで自らの個性をもっとも社会福祉に益したかたちでいかせる生業をもとめてさまよいつづけている。もう任期は確実なんて浮気加減で遊んでいるばあいとは、到底おもえないのだ。
農林漁業がどうなるのにせよ、国家の先導層として正しく世界の公益と神の恩恵に合致した盛業を志すのが、もっとも古くから大国としての関東圏にあって、首都の一角を担う者の使命だ。仮に大多数の国民にとって検査を十分にしたとして、なおかつ一切の(外部からのコピーライターやコンサルタントの招聘と手助けを加えてなお)心配と危害のおそれのためにそれらの必要(*3)がないとすれば、広域の県民がみずから鋤をタブレット端末にもちかえて産業の興隆に貢献できなければならない。いつまでも風評にこだわって大多数の国民ならびに世界の諸民族諸国民にとって安全への懸念のある品物を売り続けようとしても多くの人が感心するとはおもえない。より重要なのはみずからの力で仕事を興し、その公益への報徳のために世界の人民がより安楽に暮らせる様はかることではないか。
―――
��1 我々はしばしば地方人の人間性へ期待しすぎる。おそらく、古代の高貴な伝説を中国史書から勉強してきたのがその原因だ。どの世界であっても非常にまれな例外でなければ、隠者らしき地方住みの人物に公徳に類した大観またはその時点での国際常識の定着を見ることはできないし、彼らの持っている知識や技能も決して飛びぬけて利口と言うほどではないだろう。
然るべき能あってなおかつ相当に人間関係へ誠実な者でもなければいざこざへの適切な人格的処理を期待するのは彼らを取り巻く環境とそこではぐくまれ得る才にとって過度と言うものだ。自分はこの市内のある人物に期待をかけすぎていたのだろうし、彼の一見誠実そうにみせているものは、論語でいう郷原(地元の偽善)にすぎなかったのだろう。
ある現実主義者が述べる様に、自然の長は最も枯れた土地である都会に才能を集め、最も豊かな地方の風土には敢えて悪種を集めてしまったらしい(犯罪率などを見返せば、総体とみてあるいはこの分析も、単なる教養に落ち度のある地方者との接触に際した一連の事象への便宜的合理化にすぎないかもしれない、多くの実例をとれないかぎりこの一般論化はまだ危険だが。少なくともこの社会的分類学は「適応性にまつわる地域間民俗差」へ少しの予備的観点または正否どちらかの発見を与えるかもしれない。おそらく大きな原因は、特定の情報量の集積度ではないかと思える、したがって移動費がますます節減されていく情報化では文化越境についての多くの予想外の事態が生じ得るとも推察できる。この事例もその一つ、知識及び情報格差から来た摩擦だった可能性がある)。
この状況を仮に説明すれば「幸福の平衡」として、都会のものには人間づきあいよさを、田舎のものには土地の清浄さを分け与え、それらの両立はなり難くなっているとかんがえることができる。しかし、多くの場合に人はこれらの両立を求めて努力を重ねているのだろうが。
――なおこれら観点へは自分の観察から経験的知見がある。御茨城県知事殿は、自分の見る限りきわめて博識で能力もごく高い。海外からも褒賞されるのは当然だ。こういう人物をみるにつけ、旧常陸の国と言う首都圏に入った領域は地方と都心の両方の特徴を兼ね備えているか、少なくとも両方が急速に混合し易いという条件下にあるとおもう。或いは自分もそういう社会構成に関わっている一人かもしれない。
��2 そして実際に一市民もその点、つまり市の利益の為に彼が行動しやすいだろう、って観点の真実性については吝かではない。勿論これは大抵の地方の長と同じ土地か地場資本の固定性が原因の一つだろうし、それが新世代から見ると地縁を軽く見て広域メディア戦略を駆使している様な斬新な型に比べて若干古びれても悪びれてもいるので新鮮味に欠け、革新的行政人たる先進性はないのだけれども。
この点で、めだった革新首長としてかなり果敢な判断をつみかさねてきている高萩の草間市長は、この市政にとってはかなり参照や参考に足るとおもえてならない。代替電源も用意しなければアナログ的時代遅れの防災無線設置で元の木阿弥にならないんですか、ってレベルの出遅れた後進性を現職の北茨城市の市長自身ならびにその行政機能は構成員らの高齢さも相まって悲しいほどもっている。しかも平気で、というのが日立の北にあって末おそろしいことなのですが。
��3 つまり、茨城がかなり長くそうしてきた首都圏へのもっとも安価で流通費用の低い、安全な食品、それらの加工地を含む原材料の提供先。もしこの為に需要よりかれらの機会損失が高くなれば、我々にとっても所得の高度化がみられるはずなのだから、我々自身の緊急時の食料源の絶対確保という条件つきで助成による産業構造の大胆な転換をはかれる。
2011年10月21日
この記事(かばファンさんコメントへの意見交換)についての特別な再掲
http://kamomenome.exblog.jp/14720140/
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
この空虚な中心への観点へは、明治以後の徹底欧風化方針へのさまざまな言説もそうだがしばしば、すこし指摘があったとはおもう。たとえば漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、まったくなおすべきかも不確定ではあるが一つの特性だろう。が、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でmultitude:マルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護がいる。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。評価すべきは自分であり、また市民を含む身近な他人でもある。
まったく遠い他人からの評価(見栄、外面、肩書き、表彰)がいいばっかりに、全滅した集団は一体その世界で羽ばたきまくった結果をどうおもうだろうか? これはとべなくなった多くの鳥についてかもめ含む鳥類が日ごろ見返している点でもある。いきのこりへ重要なのは過度の見栄えより個人的達成、適応性の向上、実力の貫徹なのだと。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
この空虚な中心への観点へは、明治以後の徹底欧風化方針へのさまざまな言説もそうだがしばしば、すこし指摘があったとはおもう。たとえば漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、まったくなおすべきかも不確定ではあるが一つの特性だろう。が、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でmultitude:マルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護がいる。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。評価すべきは自分であり、また市民を含む身近な他人でもある。
まったく遠い他人からの評価(見栄、外面、肩書き、表彰)がいいばっかりに、全滅した集団は一体その世界で羽ばたきまくった結果をどうおもうだろうか? これはとべなくなった多くの鳥についてかもめ含む鳥類が日ごろ見返している点でもある。いきのこりへ重要なのは過度の見栄えより個人的達成、適応性の向上、実力の貫徹なのだと。
2011年10月20日
条例に罰則規定の必要
条例で風営法16条へ該当している広告・宣伝(当然、この県外または隣県での営業活動についての募集も含む)への罰金およびその後も改善されなければ量刑の規則をつけるべきだ。
某氏の様に、この国法の第一条にある目的を理解していない人物も散見されるので、具体的罰則が必要。仏作って魂入れず状態になっているわけだから。
某氏の様に、この国法の第一条にある目的を理解していない人物も散見されるので、具体的罰則が必要。仏作って魂入れず状態になっているわけだから。
生物としてみた社会の考察
http://kamomenome.exblog.jp/14773983/
この記事をきっかけに、すこし自分の社会生物学的解釈をかいてみたい。
動物生態の知識で、r-k戦略というものがいわれてる。
r: reproduce strategy
k: kapacity strategy
というもので、高校の生物でならった範囲では、相変異というのに該当するところだ。
イナゴでいうと、過密層ではk戦略型の変異をおこし広域へ拡散するのに向いた姿になるのにくらべ、そうでない地点ではr戦略型の単純なすがたをとっている、ということかもしれない。
さらに、a戦略というものがこれらの中間戦略としてあてはまりそうと考えられる。
a: ad hoc strategy
このばあい、生態は加速度的に進化へつながる変異を起こすだろう、という観点にもとづいた理論だ。キャパシティー戦略の中では「過密」に適応するにすぎず、さらには生態異常によって個体におよぶ健康異常で増殖がおさえられるが、一般的リプロデュース戦略下では似た変異が拡充するにすぎない。これらの中間地点でのみ、なんらかの特定能力についてもちつづけた選りぬきが起こりえる。
で、人間界におとしこむ(これは、キリスト教の国教化圏では人間を動物視させてしまうタブー理論なわけで十分進んだとはいえないが)と、
小売を中心とした商業気質はすべて、人間のr戦略なのではないか。かれらはきわめてはやくよのなかへ出て行ってすぐ配偶をみつけるために行動している(無意識であれ)。それにくらべて、この市場のとりしまりを行う役人はk戦略者なのではないか。かれらは「最大の群れ」をひきいることで、r戦略者を財産調整という名目で収奪的に利用した収税能力をたかめてくらしている。これらのあてはめがかなり正しければ、どちらの傾向でもないが特徴的な学術気質のみがa戦略的といわれねばならない。
つまり、結論づければ人類に於ける進化に該当する形質、姿はおよそ学術能力の発展としてしかみられはしないだろう。より一般語にちかづけると、我々の中でしばしば文化人とよばれている者はこのa戦略者にすぎないのだろう。
特に、五感についての大半の進化はおわっているので、人類が特定のすがたをよりつよく好み続けているかといえば、知性、もしくは単に知能ではないのか。この「知能への好み」は、いくらか前は哲学界として選択的要因にあったが、いまではそれら形而上学(=答えのでそうにない言葉遊び)は徐々に敬遠され、実証できる科学の世界が舞台として繁栄している。特に先進国の中では、かなり決定的に。我々や先進国の文民が、ノーベル賞というものについてもっているある思念といおうか、一定の見方は、結局この「知能への好み」な可能性が高い。そうでなければ、ただのちょっとした人類の中の変異傾向への褒賞がそれほど有名でありえるだろうか?
これは残酷な観点でもあるが、うまれつき知能の高下というものが十分ありえるのだろう。後天的学習に依存している科学や学問の世界。これはなおかつ、その中でもつよい淘汰の圧力がかかり、うまれつきあたまのよくできそうな個体へのみ、環境がよければ恵む様な知性やその結果としてあらわれる重要な知識をまず宿らせる。これは個人的な経験だが、自分は以前、常磐線のスーパーひたちのなかで、母親から静かにしなさいと叱られている少年をちらっと見たことがあった。その子は、黄色人種の幼児にありがちかもしれないが、見た目はとてもお猿さんに似ている。しかし、叱られてしゅんとしたのか、かわいそうに頭をかかえておとなの座席にうずくまっていた。かれらは東海駅で降りたのだけれど、あの光景から自分がみてとったのは、素朴な観点ではあるが、「猿から進化してきた人類の雄性形質は、もしうまくいけば知能への好みをまっとうしようとする」という事実であり、一連のできごとはその証左におもえた。少年はヒトにうまれついていなければ(というのもありえない話ではあるけど)、あの年頃らしく元気に車内をはしりまわったにちがいない。ヒトであったがため、母親も子もヒトらしくより知能的にふるまう様、否応なく躾けられていたわけだ。
生後の学習にもかなり依存しているという点で、学問あるいは学ぶ、ということに平等主義の面から希望がもてるのはたしかだが、同時に育ちに値する「教育環境の不平等さ」はぬぐいきれない。そしてそれは単なる政治体制や社会体制をも包み込んだ、補集合的問題だ。
接待業に従事する女性、これなんてr戦略の最たる形質なのはほとんどうたがえないとおもう。かれらの傾向としてもった主目的は、生物の戦略とみればできるかぎりはやく再生産的に増殖することだ。かねさえもらえればなんでもいい。それが、かれらの違法をなんともおもわず、すこしも学術や文化に感心をもたず、いいかたを改めずにいえばサルのごとくにすばやく発情してその同種をふやそうとする一切の無謀で早熟な性行動の数々は説明しているとおもうのだ。
この観点からもr戦略者ではない個体にとってはそれに類するすべての行動はかれらにとっての害や失敗行動にちかづいていくのだし、さらにはそのばあい、公共の福祉を向上させることで地域をすみごこちよくしその人口密度をあげるのに貢献するk戦略者、つまりは市政や公共の奉仕者らk戦略者へも反するか、最悪のばあいかれらを害する内容をもってしまう。つまり、「知能への好み」を人類がなんらかの決定的矛盾に直面してやめないかぎり、その進化の程度はすなわち、いかに学術面での伸びをその集団のなかの複数の個体がもっているか、によっている。手短な話が、進化した人類かどうかはかれらのあたまのよさに依存している。これが社会生物学としていまの段階の各人類をみわたしてみたとき、真理ではないかとおもう。
ダーウィンが『人類の起源』でのべていた、女性が古い段階の人類の特徴を示す、劣った人種に近いみたいなかなりフェミニストに反する意見は、特に女性一般が雄性形質でそうであるごとく強い誇示の舞台をもたないときに彼女らの「母体」としての機能を維持するための、配偶者選択と育児労力の必要最小性から心身についてかなりの文化段階を経てなお適応的だから、または今までそうだったからなのではないか。だから、人類では、もしこういう女性がつよい知能の高さをもたないおおくの集団では、女性からの性選択(結婚相手の見定め)が十分にはたらいてきたとおもわれる。その機構が阻害または逆転されて、社会的慣習でゆがめられ変形させられていたとき、女性自身にも逆選好としてつよく知能の高下または才能の表現がとわれる場面がおおくなってきただろうし、これからもそうなるはず。
しかし、総合してみると、人類にあっても雄性間の競争または遊戯や規則をともなった競い合いのばめんの多さはこの「知能への好み」が特に、男性にあって特徴をもちやすく、そのばあいに強くあたまのよい子孫がめばえてきやすい、と教えているとおもう。たとえばノーベル賞受賞者たちをどれほどの人類が批判的・非難的・嫌悪的・忌避的、要は心底きらってるだろうか?
この点だけみても、法的規律によって、地域や民族集団や家族によって差がつきやすい教育環境をできるかぎり向上させ、かれらにとって先取りとなるよりよく豊富に学習できる社会をつくろうとする努力は決して無駄や浪費ではないし、むしろその社会にとってはもっとも大きな課題の一つだろうとおもう。
『社会のよしあしは子どもの教育環境を見よ』。こういうかなり飛躍した鑑識も、以上の知識から推論すれば、あるいは十分なりたつのではないか。
そしてこれらをまとめると、我々は自由主義経済のもとにあっても、教育についてだけはできるかぎりその生まれの不平等をなくすために無償で、想定できる限り最高のものをほどこすべき、と教えているらしい。なぜならば、うまれつききわめてかしこく生まれた子が、完全によくない環境の為そのpotentialをほとんどいかせずに終わるときの損失は、うまれつきかしこくない子が過剰な財産のために伸び幅のないまま大袈裟な学位をひっさげて暮らし、世間を誤解させ混乱させ不条理をうみだすのにくらべても比類がなく残念だからだし、その様な社会は才能もしくは天才を二度とうみだせないかもしれないという意味では、つくりとして世界の幸福な発展にとっては残るべき星のもとにない様におもう。
人種差別や所得格差への数々の批判と非難、これらは生得的差別がその後の環境にまで延長されたとき、社会そのものへひどい損害をあたえてしまうという集団防御の本能や本性をしめしているのではないか。そしてうまれにかかわらず、よきそだちのために十分な天性を発揮できた、人類の状態を改善する才能へついて我々が持つ尊崇の念は、かれらの出世がよろこばしく又その福祉の増進を約束するがゆえに、また性選択や社会選択が有効にはたらいているという証拠でもあるがゆえにより一層賞賛にあたいするのだろう。
もし知能の発達がことばや記号の工夫で数々のimageを我々の人生のなかにのこしていくものだとして、出世や成功の傾向が堕落や失敗のそれにくらべて因果応報に於ける我々のなかの本能的平衡感覚にあたえる影響は大きくちがっている。我々が努力家や天才の飛躍にいだく希望や未来への明るい展望は、その逆に悪質や悪意のある多くのしわざの為におちぶれ、頽廃していくみじめな人々へもつ納得とは異質ではないか。これらは、科学であれ所詮は記号や図式のあつまりでしかないといった分類と認識の限界に於いても、人類のなかで賞賛とかほまれが、本来の位置におちつくためには或る経験的集団無意識が発揮されねばならない、と教えているらしい。そしてこれこそ道徳や倫理とよばれてきた確証的ではないながらもその集団に共通の経験則集合ではないだろうか。
形而上学という困難な課題についてとりくんできた多くの人とおなじわだちをふもうとせずとも、この経験則集合が特定の民族語彙にふくまれてとりこまれているかぎり、知能の発達、知能への好みもその集団特有のすがたをとる様になるだろう。だから、そこで記号化しやりとりできる知識人らのもっているすべての学識は、その社会集団のなかで懲罰の理由づけへ援用されるがためにすべて有益だと結論できる。
道徳とは社会集団の経験則集合からきた一定の判断傾向ならびにそれを及ぼす知能への好みである。
知能への好みがどこで暴走をやめるかはわからない。今のところその限界はみえてない風で、おそらく全人類で最も先鋭的な一人なスティーブン・ホーキング氏はブレーンワールドとか、いまの経験的知識によってはなかなか実在するとはおもえない数十次元の世界を本格的に構想しているらしい。しかし、西洋文明が我々に教えたところによると、「実証的知識」、具体的には天文・物理・化学・生物・社会、これらの分類に該当する数学で説明できる分野は、ほかの認識にくらべて比較してまちがえたり大きく予想を外したりすることがすくないという経験則があった。だからノーベルの遺産でつくられた罪滅ぼし賞も、文学賞と平和賞をのぞけばこれらの基礎的科学に集中している。そして、全体としての人類がこころみてきたところによれば、これらの認識をふかめる知能への好みは、どちらかといえば我々の文明を誤解や迷妄から、無知からくる多くの悪意から救うのだった。その経験則、つまり科学を使用できる才能へのかなりの好みは、いまの先進国の多くで共有されつつあり、実際、かれらがもし生き残れればほかの惑星へ進出してもある程度より維持されていく可能性が高いだろう。
もし、もっとすぐれた認識の体系があらわれ、かつての朱子学や儒学の様にそれらの再学習がほとんど重視されない時代や世界、社会構成に至っても、この好みは「議論や考察、学習と実験のための才能」としてある大人しさと真面目さをもった気質をかれらの姿のなかに遺す。その方向への好みは、まったくそれらを経験しなかった文化に比べれば、社会的選択行為による広域な人類の改良、すくなからず、現在までに人類が地球内でおかれてきた集団間競争の必然な結果的性質ではないかと思える。職業の合理化にともなう分業の必要がきわめてたかまったとき、学識の為だけの変異はよりつよく選り好まれることになったし、かれらの変異がほかの脳をあまりつかわない仕事みたいには機械によってかなり代替しにくいとわかったとき、この知能のよい人への尊敬は文明化にとって(実際の記録の才の上でも)バックアップとしてはたらいた。
そしてその経過がかなりの期間つづけられれば、きわめてことなった、最低でも二種類のちがいがはっきりと人類の種のなかにみられるはずだ。器用で、理解がはやく、利口でおとなしい変異は文明化された人類におおくみられ、粗野でぶっきらぼう且つ乱暴でききわけのわるい変異はそれが遅れた人類に残存していく。しかも、おそらくこの異なった方向への変異は、人類が野生に於ける長命化の手段をおおくもたないという条件のためいまのところすこしも縮まる余地がないか、すくなくとも予測される範囲内で文明化された側におおくの資源と幸福の為の資産をめぐんでいる。
この二種類の変異とかれらの気質を用いる知能への好みへのつみかさねは、最終的にはいまみられる人種とよばれてきたすこしの差異をさらに決定的にことならせ、もっとも有利な変異をうみだすのではないか。そしてそれは文明化された側から生じやすい。
もし知能への好みが特徴づけられねば、人類はその他の感覚器や生態の変化しかへることはないだろう。そのために、現在いとぐちがみられるrobotや機械製作の才能がそれ以上、高度に進化していくことも確率として低いはずだ。幸か不幸か、かれらがおおく宇宙進出することも考えづらいかぎり、この知能への好みと工学の恩恵による一層の励ましは少々の抵抗勢力や失敗行動もみられるにせよ、とてもかしこい者、理知的に秀でた者を雄性形質の理想形としてますます強化しつつ宇宙のどこかへと移住圏を拡大していくのではないか。そしてある政治領域もふくむ、特定の社会集団はこのつよいa戦略タイプへの好みのために地球的生活にあきたらず、より広い世界と世間をめざして進んでいくかもしれない。単に好奇心のためだけにせよ、あるいは生活の必要に駆られたにせよ。
なお帝国主義や植民地主義が否定されてきた理由づけも、これらで、要するにk戦略からの拡充はかならずしも人類の安寧に寄与しなかった、という社会集団間の駆け引きでときあかせる。つまり一定の割合では侵略行動や殲滅行動が起こってきたにせよ、多くの場面では「文化的進出」の成否がのちの当社会集団に於ける選択的効果を決定づけるということ(勿論、それ自体が生存数に決定的という証明はまだ手元にないが、社会的な同性間競合の過程ならびに性選択上はそういわれざるをえない)。
暴力や群れによる植民でこの侵略を行った種は、すくなくとも一定数の他人種らの絶滅行為をおこなったのち生存圏を拡大できたが結局いまのところは、全人類の中で最大数の群れを率いることまではできなかったし、民族らの独立を担保できもしなかった。それらの植民地経営についての不経済性は政治的意図としては国際連盟とその後の連合に於ける戦勝国の過半数を維持し、おおくの島々に同一種を起源に持つ勢力を分散できたというかなり複雑な政策的成果をあげたが、ときに、文化的完成にとっては足枷かもしれない。信用というものが世界の中で最も得難い銘柄ならば、侵略を被った側がそうでない側に比べて侵略者への根源的信用をする可能性は低くなる。
福沢ら侵略煽動家に反する岡倉による明治の皮肉「戦争をはじめた途端に我々を先進国と呼ぶ様になった」は、この信用性についてのある社会的洞察からみちびかれている風に思う。社会的ジレンマについてのゲーム理論でいうと、協調は先に裏切った側とするのを損失とし、すくなくとも裏切らない側と手を組むのはその集団内で損失を買う確率が低い。この同族集団性は同時に、数々の欠点や費用をもってくるが、おそらくアジアは一つという岡倉スローガンそのものは、この長期的損得にまつわる社会生物学の目からいえば、単に日本の美術工芸の珍奇性の維持は汎アジア様式への裏切りのばあいより総合とした対西洋貿易の際の利得にまさるはず、という審美的判定にもとづいている。だから政治的意図ではなく、美術工芸品の輸出貿易的潜在能力についてのいいおよびが、その汎アジア的美術論にはくっついている。こうしてすべてをみかえすと、南系アジア人のなかにおおくみられるまともな人格的尊重心またはもっとも基礎的な信仰を持った人間へは生理的嫌悪感を及ぼす身売りに類した稼業への市民からの拒否や非難の反応は、r戦略者としての遅れたアジアへの批判や嫌悪を含めa戦略者として当然の反応だと思う。なぜなら「当時の工芸品」についての価値観とそれらはすこしも齟齬する所ないばかりか、すでにそれらの古美術品に審美的および文化的な経済価値が十分みこめないとすれば、我々はそれらを珍重しなければならない理由などないし、さらには政治的意図から堕落した無宗教性をうけいれねばならないわけもない。文化段階がすぐれているまたは経済合理的なかぎりその生存のための規則が多くほかの文明圏へもうけいれられる可能性が高いとすれば、それらの浮気に労力と金銭をとられる劣った変異は淘汰され排除されてもなんら問題はないだろう。
この記事をきっかけに、すこし自分の社会生物学的解釈をかいてみたい。
動物生態の知識で、r-k戦略というものがいわれてる。
r: reproduce strategy
k: kapacity strategy
というもので、高校の生物でならった範囲では、相変異というのに該当するところだ。
イナゴでいうと、過密層ではk戦略型の変異をおこし広域へ拡散するのに向いた姿になるのにくらべ、そうでない地点ではr戦略型の単純なすがたをとっている、ということかもしれない。
さらに、a戦略というものがこれらの中間戦略としてあてはまりそうと考えられる。
a: ad hoc strategy
このばあい、生態は加速度的に進化へつながる変異を起こすだろう、という観点にもとづいた理論だ。キャパシティー戦略の中では「過密」に適応するにすぎず、さらには生態異常によって個体におよぶ健康異常で増殖がおさえられるが、一般的リプロデュース戦略下では似た変異が拡充するにすぎない。これらの中間地点でのみ、なんらかの特定能力についてもちつづけた選りぬきが起こりえる。
で、人間界におとしこむ(これは、キリスト教の国教化圏では人間を動物視させてしまうタブー理論なわけで十分進んだとはいえないが)と、
小売を中心とした商業気質はすべて、人間のr戦略なのではないか。かれらはきわめてはやくよのなかへ出て行ってすぐ配偶をみつけるために行動している(無意識であれ)。それにくらべて、この市場のとりしまりを行う役人はk戦略者なのではないか。かれらは「最大の群れ」をひきいることで、r戦略者を財産調整という名目で収奪的に利用した収税能力をたかめてくらしている。これらのあてはめがかなり正しければ、どちらの傾向でもないが特徴的な学術気質のみがa戦略的といわれねばならない。
つまり、結論づければ人類に於ける進化に該当する形質、姿はおよそ学術能力の発展としてしかみられはしないだろう。より一般語にちかづけると、我々の中でしばしば文化人とよばれている者はこのa戦略者にすぎないのだろう。
特に、五感についての大半の進化はおわっているので、人類が特定のすがたをよりつよく好み続けているかといえば、知性、もしくは単に知能ではないのか。この「知能への好み」は、いくらか前は哲学界として選択的要因にあったが、いまではそれら形而上学(=答えのでそうにない言葉遊び)は徐々に敬遠され、実証できる科学の世界が舞台として繁栄している。特に先進国の中では、かなり決定的に。我々や先進国の文民が、ノーベル賞というものについてもっているある思念といおうか、一定の見方は、結局この「知能への好み」な可能性が高い。そうでなければ、ただのちょっとした人類の中の変異傾向への褒賞がそれほど有名でありえるだろうか?
これは残酷な観点でもあるが、うまれつき知能の高下というものが十分ありえるのだろう。後天的学習に依存している科学や学問の世界。これはなおかつ、その中でもつよい淘汰の圧力がかかり、うまれつきあたまのよくできそうな個体へのみ、環境がよければ恵む様な知性やその結果としてあらわれる重要な知識をまず宿らせる。これは個人的な経験だが、自分は以前、常磐線のスーパーひたちのなかで、母親から静かにしなさいと叱られている少年をちらっと見たことがあった。その子は、黄色人種の幼児にありがちかもしれないが、見た目はとてもお猿さんに似ている。しかし、叱られてしゅんとしたのか、かわいそうに頭をかかえておとなの座席にうずくまっていた。かれらは東海駅で降りたのだけれど、あの光景から自分がみてとったのは、素朴な観点ではあるが、「猿から進化してきた人類の雄性形質は、もしうまくいけば知能への好みをまっとうしようとする」という事実であり、一連のできごとはその証左におもえた。少年はヒトにうまれついていなければ(というのもありえない話ではあるけど)、あの年頃らしく元気に車内をはしりまわったにちがいない。ヒトであったがため、母親も子もヒトらしくより知能的にふるまう様、否応なく躾けられていたわけだ。
生後の学習にもかなり依存しているという点で、学問あるいは学ぶ、ということに平等主義の面から希望がもてるのはたしかだが、同時に育ちに値する「教育環境の不平等さ」はぬぐいきれない。そしてそれは単なる政治体制や社会体制をも包み込んだ、補集合的問題だ。
接待業に従事する女性、これなんてr戦略の最たる形質なのはほとんどうたがえないとおもう。かれらの傾向としてもった主目的は、生物の戦略とみればできるかぎりはやく再生産的に増殖することだ。かねさえもらえればなんでもいい。それが、かれらの違法をなんともおもわず、すこしも学術や文化に感心をもたず、いいかたを改めずにいえばサルのごとくにすばやく発情してその同種をふやそうとする一切の無謀で早熟な性行動の数々は説明しているとおもうのだ。
この観点からもr戦略者ではない個体にとってはそれに類するすべての行動はかれらにとっての害や失敗行動にちかづいていくのだし、さらにはそのばあい、公共の福祉を向上させることで地域をすみごこちよくしその人口密度をあげるのに貢献するk戦略者、つまりは市政や公共の奉仕者らk戦略者へも反するか、最悪のばあいかれらを害する内容をもってしまう。つまり、「知能への好み」を人類がなんらかの決定的矛盾に直面してやめないかぎり、その進化の程度はすなわち、いかに学術面での伸びをその集団のなかの複数の個体がもっているか、によっている。手短な話が、進化した人類かどうかはかれらのあたまのよさに依存している。これが社会生物学としていまの段階の各人類をみわたしてみたとき、真理ではないかとおもう。
ダーウィンが『人類の起源』でのべていた、女性が古い段階の人類の特徴を示す、劣った人種に近いみたいなかなりフェミニストに反する意見は、特に女性一般が雄性形質でそうであるごとく強い誇示の舞台をもたないときに彼女らの「母体」としての機能を維持するための、配偶者選択と育児労力の必要最小性から心身についてかなりの文化段階を経てなお適応的だから、または今までそうだったからなのではないか。だから、人類では、もしこういう女性がつよい知能の高さをもたないおおくの集団では、女性からの性選択(結婚相手の見定め)が十分にはたらいてきたとおもわれる。その機構が阻害または逆転されて、社会的慣習でゆがめられ変形させられていたとき、女性自身にも逆選好としてつよく知能の高下または才能の表現がとわれる場面がおおくなってきただろうし、これからもそうなるはず。
しかし、総合してみると、人類にあっても雄性間の競争または遊戯や規則をともなった競い合いのばめんの多さはこの「知能への好み」が特に、男性にあって特徴をもちやすく、そのばあいに強くあたまのよい子孫がめばえてきやすい、と教えているとおもう。たとえばノーベル賞受賞者たちをどれほどの人類が批判的・非難的・嫌悪的・忌避的、要は心底きらってるだろうか?
この点だけみても、法的規律によって、地域や民族集団や家族によって差がつきやすい教育環境をできるかぎり向上させ、かれらにとって先取りとなるよりよく豊富に学習できる社会をつくろうとする努力は決して無駄や浪費ではないし、むしろその社会にとってはもっとも大きな課題の一つだろうとおもう。
『社会のよしあしは子どもの教育環境を見よ』。こういうかなり飛躍した鑑識も、以上の知識から推論すれば、あるいは十分なりたつのではないか。
そしてこれらをまとめると、我々は自由主義経済のもとにあっても、教育についてだけはできるかぎりその生まれの不平等をなくすために無償で、想定できる限り最高のものをほどこすべき、と教えているらしい。なぜならば、うまれつききわめてかしこく生まれた子が、完全によくない環境の為そのpotentialをほとんどいかせずに終わるときの損失は、うまれつきかしこくない子が過剰な財産のために伸び幅のないまま大袈裟な学位をひっさげて暮らし、世間を誤解させ混乱させ不条理をうみだすのにくらべても比類がなく残念だからだし、その様な社会は才能もしくは天才を二度とうみだせないかもしれないという意味では、つくりとして世界の幸福な発展にとっては残るべき星のもとにない様におもう。
人種差別や所得格差への数々の批判と非難、これらは生得的差別がその後の環境にまで延長されたとき、社会そのものへひどい損害をあたえてしまうという集団防御の本能や本性をしめしているのではないか。そしてうまれにかかわらず、よきそだちのために十分な天性を発揮できた、人類の状態を改善する才能へついて我々が持つ尊崇の念は、かれらの出世がよろこばしく又その福祉の増進を約束するがゆえに、また性選択や社会選択が有効にはたらいているという証拠でもあるがゆえにより一層賞賛にあたいするのだろう。
もし知能の発達がことばや記号の工夫で数々のimageを我々の人生のなかにのこしていくものだとして、出世や成功の傾向が堕落や失敗のそれにくらべて因果応報に於ける我々のなかの本能的平衡感覚にあたえる影響は大きくちがっている。我々が努力家や天才の飛躍にいだく希望や未来への明るい展望は、その逆に悪質や悪意のある多くのしわざの為におちぶれ、頽廃していくみじめな人々へもつ納得とは異質ではないか。これらは、科学であれ所詮は記号や図式のあつまりでしかないといった分類と認識の限界に於いても、人類のなかで賞賛とかほまれが、本来の位置におちつくためには或る経験的集団無意識が発揮されねばならない、と教えているらしい。そしてこれこそ道徳や倫理とよばれてきた確証的ではないながらもその集団に共通の経験則集合ではないだろうか。
形而上学という困難な課題についてとりくんできた多くの人とおなじわだちをふもうとせずとも、この経験則集合が特定の民族語彙にふくまれてとりこまれているかぎり、知能の発達、知能への好みもその集団特有のすがたをとる様になるだろう。だから、そこで記号化しやりとりできる知識人らのもっているすべての学識は、その社会集団のなかで懲罰の理由づけへ援用されるがためにすべて有益だと結論できる。
道徳とは社会集団の経験則集合からきた一定の判断傾向ならびにそれを及ぼす知能への好みである。
知能への好みがどこで暴走をやめるかはわからない。今のところその限界はみえてない風で、おそらく全人類で最も先鋭的な一人なスティーブン・ホーキング氏はブレーンワールドとか、いまの経験的知識によってはなかなか実在するとはおもえない数十次元の世界を本格的に構想しているらしい。しかし、西洋文明が我々に教えたところによると、「実証的知識」、具体的には天文・物理・化学・生物・社会、これらの分類に該当する数学で説明できる分野は、ほかの認識にくらべて比較してまちがえたり大きく予想を外したりすることがすくないという経験則があった。だからノーベルの遺産でつくられた罪滅ぼし賞も、文学賞と平和賞をのぞけばこれらの基礎的科学に集中している。そして、全体としての人類がこころみてきたところによれば、これらの認識をふかめる知能への好みは、どちらかといえば我々の文明を誤解や迷妄から、無知からくる多くの悪意から救うのだった。その経験則、つまり科学を使用できる才能へのかなりの好みは、いまの先進国の多くで共有されつつあり、実際、かれらがもし生き残れればほかの惑星へ進出してもある程度より維持されていく可能性が高いだろう。
もし、もっとすぐれた認識の体系があらわれ、かつての朱子学や儒学の様にそれらの再学習がほとんど重視されない時代や世界、社会構成に至っても、この好みは「議論や考察、学習と実験のための才能」としてある大人しさと真面目さをもった気質をかれらの姿のなかに遺す。その方向への好みは、まったくそれらを経験しなかった文化に比べれば、社会的選択行為による広域な人類の改良、すくなからず、現在までに人類が地球内でおかれてきた集団間競争の必然な結果的性質ではないかと思える。職業の合理化にともなう分業の必要がきわめてたかまったとき、学識の為だけの変異はよりつよく選り好まれることになったし、かれらの変異がほかの脳をあまりつかわない仕事みたいには機械によってかなり代替しにくいとわかったとき、この知能のよい人への尊敬は文明化にとって(実際の記録の才の上でも)バックアップとしてはたらいた。
そしてその経過がかなりの期間つづけられれば、きわめてことなった、最低でも二種類のちがいがはっきりと人類の種のなかにみられるはずだ。器用で、理解がはやく、利口でおとなしい変異は文明化された人類におおくみられ、粗野でぶっきらぼう且つ乱暴でききわけのわるい変異はそれが遅れた人類に残存していく。しかも、おそらくこの異なった方向への変異は、人類が野生に於ける長命化の手段をおおくもたないという条件のためいまのところすこしも縮まる余地がないか、すくなくとも予測される範囲内で文明化された側におおくの資源と幸福の為の資産をめぐんでいる。
この二種類の変異とかれらの気質を用いる知能への好みへのつみかさねは、最終的にはいまみられる人種とよばれてきたすこしの差異をさらに決定的にことならせ、もっとも有利な変異をうみだすのではないか。そしてそれは文明化された側から生じやすい。
もし知能への好みが特徴づけられねば、人類はその他の感覚器や生態の変化しかへることはないだろう。そのために、現在いとぐちがみられるrobotや機械製作の才能がそれ以上、高度に進化していくことも確率として低いはずだ。幸か不幸か、かれらがおおく宇宙進出することも考えづらいかぎり、この知能への好みと工学の恩恵による一層の励ましは少々の抵抗勢力や失敗行動もみられるにせよ、とてもかしこい者、理知的に秀でた者を雄性形質の理想形としてますます強化しつつ宇宙のどこかへと移住圏を拡大していくのではないか。そしてある政治領域もふくむ、特定の社会集団はこのつよいa戦略タイプへの好みのために地球的生活にあきたらず、より広い世界と世間をめざして進んでいくかもしれない。単に好奇心のためだけにせよ、あるいは生活の必要に駆られたにせよ。
なお帝国主義や植民地主義が否定されてきた理由づけも、これらで、要するにk戦略からの拡充はかならずしも人類の安寧に寄与しなかった、という社会集団間の駆け引きでときあかせる。つまり一定の割合では侵略行動や殲滅行動が起こってきたにせよ、多くの場面では「文化的進出」の成否がのちの当社会集団に於ける選択的効果を決定づけるということ(勿論、それ自体が生存数に決定的という証明はまだ手元にないが、社会的な同性間競合の過程ならびに性選択上はそういわれざるをえない)。
暴力や群れによる植民でこの侵略を行った種は、すくなくとも一定数の他人種らの絶滅行為をおこなったのち生存圏を拡大できたが結局いまのところは、全人類の中で最大数の群れを率いることまではできなかったし、民族らの独立を担保できもしなかった。それらの植民地経営についての不経済性は政治的意図としては国際連盟とその後の連合に於ける戦勝国の過半数を維持し、おおくの島々に同一種を起源に持つ勢力を分散できたというかなり複雑な政策的成果をあげたが、ときに、文化的完成にとっては足枷かもしれない。信用というものが世界の中で最も得難い銘柄ならば、侵略を被った側がそうでない側に比べて侵略者への根源的信用をする可能性は低くなる。
福沢ら侵略煽動家に反する岡倉による明治の皮肉「戦争をはじめた途端に我々を先進国と呼ぶ様になった」は、この信用性についてのある社会的洞察からみちびかれている風に思う。社会的ジレンマについてのゲーム理論でいうと、協調は先に裏切った側とするのを損失とし、すくなくとも裏切らない側と手を組むのはその集団内で損失を買う確率が低い。この同族集団性は同時に、数々の欠点や費用をもってくるが、おそらくアジアは一つという岡倉スローガンそのものは、この長期的損得にまつわる社会生物学の目からいえば、単に日本の美術工芸の珍奇性の維持は汎アジア様式への裏切りのばあいより総合とした対西洋貿易の際の利得にまさるはず、という審美的判定にもとづいている。だから政治的意図ではなく、美術工芸品の輸出貿易的潜在能力についてのいいおよびが、その汎アジア的美術論にはくっついている。こうしてすべてをみかえすと、南系アジア人のなかにおおくみられるまともな人格的尊重心またはもっとも基礎的な信仰を持った人間へは生理的嫌悪感を及ぼす身売りに類した稼業への市民からの拒否や非難の反応は、r戦略者としての遅れたアジアへの批判や嫌悪を含めa戦略者として当然の反応だと思う。なぜなら「当時の工芸品」についての価値観とそれらはすこしも齟齬する所ないばかりか、すでにそれらの古美術品に審美的および文化的な経済価値が十分みこめないとすれば、我々はそれらを珍重しなければならない理由などないし、さらには政治的意図から堕落した無宗教性をうけいれねばならないわけもない。文化段階がすぐれているまたは経済合理的なかぎりその生存のための規則が多くほかの文明圏へもうけいれられる可能性が高いとすれば、それらの浮気に労力と金銭をとられる劣った変異は淘汰され排除されてもなんら問題はないだろう。
2011年10月11日
いいシェルター
http://newcosmopower.com/menu1.html
このリンク先にあるシェルターは、津波用家庭型としてはかなりできのいい方だとおもう。
ふたたび海岸沿いにすむひとは購入して、いざとなったら入ると確認しておけば、このあいだと同程度のそれでもしなないはず。ただ、火に弱いだろうから火事にはつかいものにならず、素材が薄いので放射能にも効果はうすいだろう。瓦礫がもえてまきこまれるとか以前に脱出できれば津波が引くまでもつかも。
このリンク先にあるシェルターは、津波用家庭型としてはかなりできのいい方だとおもう。
ふたたび海岸沿いにすむひとは購入して、いざとなったら入ると確認しておけば、このあいだと同程度のそれでもしなないはず。ただ、火に弱いだろうから火事にはつかいものにならず、素材が薄いので放射能にも効果はうすいだろう。瓦礫がもえてまきこまれるとか以前に脱出できれば津波が引くまでもつかも。
2011年10月10日
高度成長ではしゃいだ報い
こないだ大量にすてられてしまったブラウン管テレビ、あれはチューナーを電機店が大量に卸して、あわせて4000円から一万五千円くらいでセット販売しなおせばそれなりに需要もあったろうし、通販すればかなり広範囲に売れたはず。
原価がマイナスどころかひきとり費でプラスだったうえその処理費も省略できたのだからおおきなビジネスチャンスだった。
市内ほかの業者が知恵を回せば、つぎの似た様な機会をいかせるはず。
なにかしら、高度成長期の世代はscrap&buildが大好きな傾向があるのでほかにも似た「まだ十分使える大量廃棄物」をいくらでもうみだしてくるだろう。新病院建設もその側面がかなりある大規模公共事業だ。
��DPの数値が幸福感よりもすきな人達へはどんな忠告も無意味なのだから、本来の道具を飽くまでつかいこなせるのは(いきのこっていれば)それより上か、ジュニアをのぞく下の世代に多数いるはず。
これは冗談やカモメ談になってないが、団塊はかれら自身もスクラップされつつあり実際、定年制や年金崩壊でされてるので自業自得ともいえるが、とばっちりをうけたあとの被害がすさまじい(自然破壊によるダメージ量からの治癒不能さ)ので、よりのぞましいのはほかの世代がなんらかのてだてでかれらの横暴粗暴を批判的に囲い込むことだ。当然この市も例外でない。綺麗なすなはまをかえせ、とどれほどカモメ連合が日本人へさけんでも浜通りのあそこいらにゃ二度と入れないのではおはなしにならないのだから。
「パンの耳」という品物があったのだが、そういう考え方は戦中を経験したひとたちが世界を去るにしたがって失われてしまったらしい。
大量生産大量消費にひたりきった団塊の世代の罪深さは、悲惨で深刻な放射能汚染と大量の処理先もない危険きわまる放射能廃棄物、そして被爆による甲状腺などの癌患者やこれからうまれてくるかもしれない胎児被曝で心身不満足な将来世代、しまいには除染されず生態系へ流出したながらく消えない放射能の影響をも一切の電気無駄遣いの果報もなくおしつけられ、負担させられている者にとっていまさら語るまでもないけど。
つまりは、経済率(=複利耐久財/瞬間消費財%)の低さはその社会体制が不完全もしくは未完成だったと示している。この際に生じた浪費はあまりにひどければ公害、すくなくとも迷惑とよばれており、来世あるいはかれらの将来世代へ罪科としてのこされる。この点で、よごしてしまったとりかえしのつかない環境のなかで不幸そうな子供をながめては決して心おだやかに死ねないというのも現世の報いだろう。
原価がマイナスどころかひきとり費でプラスだったうえその処理費も省略できたのだからおおきなビジネスチャンスだった。
市内ほかの業者が知恵を回せば、つぎの似た様な機会をいかせるはず。
なにかしら、高度成長期の世代はscrap&buildが大好きな傾向があるのでほかにも似た「まだ十分使える大量廃棄物」をいくらでもうみだしてくるだろう。新病院建設もその側面がかなりある大規模公共事業だ。
��DPの数値が幸福感よりもすきな人達へはどんな忠告も無意味なのだから、本来の道具を飽くまでつかいこなせるのは(いきのこっていれば)それより上か、ジュニアをのぞく下の世代に多数いるはず。
これは冗談やカモメ談になってないが、団塊はかれら自身もスクラップされつつあり実際、定年制や年金崩壊でされてるので自業自得ともいえるが、とばっちりをうけたあとの被害がすさまじい(自然破壊によるダメージ量からの治癒不能さ)ので、よりのぞましいのはほかの世代がなんらかのてだてでかれらの横暴粗暴を批判的に囲い込むことだ。当然この市も例外でない。綺麗なすなはまをかえせ、とどれほどカモメ連合が日本人へさけんでも浜通りのあそこいらにゃ二度と入れないのではおはなしにならないのだから。
「パンの耳」という品物があったのだが、そういう考え方は戦中を経験したひとたちが世界を去るにしたがって失われてしまったらしい。
大量生産大量消費にひたりきった団塊の世代の罪深さは、悲惨で深刻な放射能汚染と大量の処理先もない危険きわまる放射能廃棄物、そして被爆による甲状腺などの癌患者やこれからうまれてくるかもしれない胎児被曝で心身不満足な将来世代、しまいには除染されず生態系へ流出したながらく消えない放射能の影響をも一切の電気無駄遣いの果報もなくおしつけられ、負担させられている者にとっていまさら語るまでもないけど。
つまりは、経済率(=複利耐久財/瞬間消費財%)の低さはその社会体制が不完全もしくは未完成だったと示している。この際に生じた浪費はあまりにひどければ公害、すくなくとも迷惑とよばれており、来世あるいはかれらの将来世代へ罪科としてのこされる。この点で、よごしてしまったとりかえしのつかない環境のなかで不幸そうな子供をながめては決して心おだやかに死ねないというのも現世の報いだろう。
2011年10月9日
かもめのするどい目
http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/1548/#comment
このURLの先にある記事は、様々な意味で秀逸だ。というのも、コメントが面白いことになっている。
自分のカモメ的観察眼(なにしろ海上から獲物をとらえることにかけては比類もない)によれば、これはもにょもにょのひと、要は市役所のとある特別な部屋でごにょごにょしてるひとではないかとおもえてならない。カモメ的推測にすぎないが。しかし、カモメのえものをとらえるときの鋭さだけは信用していい。命がかかっているのだ。
証拠もある。「世界に羽ばたく」という表現を、この人物が最近連用してるのをカモメはカモメだけにじーっと観察していた。この羽ばたきというのがフシギな表現なので、ますますめだつ。
かんがえてもみてほしい。ここは世界の一部ではないのか? カモメが世界以外に飛ぶか? まれにもジョナサン・リビングストンしかそうすることはないのではないか。
科学的業績が政治の具になる、というのはまったく純粋科学、むかしは哲学といわれていた形而上学的欲求の堕落でしかない。とはいえ、これを本格導入したのはかのニュートンというのが歴史の皮肉かもしれないが。
現代科学といおうか、かなり先端的領域でもアカデミズムの中ではなお政争という側面が大変つよい仕事といわざるをえないのも、近代文明の限界だとおもう。ウィキペディアがそれに一石を投じたのはたしかだけど、今度はこれはこれで信憑性や低俗性という点にいろいろと問題をつくりあげてしまった。
とかく、科学の進展(知識という分野のひろがり)にとって政争は邪魔でしかない。政治は政治でやってほしい。市民の自由の領域へ公人が(公務以外に於いて)安易に入ってくるなかれ! つねに、文化の発展は自由の中で、私人の創造力の羽ばたきによってより強く生じてきた。
ハンドルネーム・かば氏にはありんこじみた生ぬるい地下循環器の功績はあるが、あれほど不自然に褒めちぎるのはカモメ下ろしじみた、ありえない政争の悪質なてだて(すくなくとも、そう見てとりやすいイデオロギー的な偶像化の言説)しかみいだせない(*1)。そういう市民干渉、自由の阻害をするとようやくそだってきているすこしばかりの私的知識追求の余地もすぐに衰退してしまうだろう。これは歴史的にみたとき本当のこと(権力濫用の余地が市民の自由を阻害し、文化を破壊した)なので、あえてこうしてさらし者にするしかない。まるではまべにうちあげられた魚のごとくに。
��もし、これらがすべて単なるかもめらしい勘違いであったとして、すくなくとも権力濫用による干渉の余地らしき兆候を、第三者へしらせる効果だけはあると考えられる。なぜなら、もしすべてが単なる勘違いでしかなかったとすれば、その指摘を無視すればよいだけだ。これらは単なる推測なのだから。)
公務に属したひとは、できるかぎりその能力をすべて公務のみにそそいでほしい。この衰退しつつある手狭かつ袋小路化しつつある僻地になにも余裕などないはずだ。現に小学校のすぐちかくに風営法抜けがみられることからこの市域での条例の改良と、以前から指摘されている裁判所の自製、これもすぐ必要なことではないか。
市民のあいだにおりてきて、できないものを異様にはげましてその競争心をあおるみたいなかもめ下手なまねはどうかしないでほしい。
��現実に、すべてはかもめじみた推測のまちがい(=つまり、ある扇動的コメンターは市民間言論干渉に権力維持や指摘者排他の面から参与していない)にすぎず、この市の公務員のかたがたが少したりとも公私混同などしてないことを願っているが。)
かば氏はできないのではないだろうが、多少ライトノベルじみたSFを書くのが趣味なのだから仕方ない部類の寄り道である(*2)。いちカモメとしてのメッセージですが。
―――
��1 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、なおすべきかも不確定な特性だろうが、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でマルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護だろう。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。
��2 これについてかば氏から当冒頭に引用した先で謝罪または言及せよとの指摘あり。しかし、本当にできないのではないうえ多少ライトノベルじみたSFというのはそのとある作品の様式性について言い及ぶために必要な語彙だし、それに特におかしな言い方ではないと思う。これらのなんらかの形式論的観点が公衆一般の批評というより、芸術学的分類にさらされたことのない立場から聞き分けがたいのかもしれない。同時に、それらの作品が一般公開されているかぎり、やはり批評についての表現の自由も広域に認められざるを得ないのだろう。さもなければ特定の虚構へは一切の意見や指摘ができず、原理主義のばあいにしばしばそうなごとく、おおきな信仰の堕落や誤解のつみかさねへつながりかねない。
ライトノベルはそれ自体が商業出版の枠組みに依拠し自立自存しているのだし、実際、かかれたものの、たとえば登場人物の名などかば氏の書いた多くのフィクションは、現実に現存している人間とは離れた名が多かったりする面かなりそれに近いものが多いと思う。そして、一切の芸術表現は、すべての人類にとって寄り道の様なものだろうと考えることもできる。それによって何事かが達成されるかといえば、単に慰めやできるかぎり高度な娯楽、趣味の格付けという位置づけをこえてはされないか、すくなくとも各芸術表現の枠にはまりつづけてその中での多様な表象がみられつづけるにすぎない。文芸ならば文芸として。
追記: われわれはつぎの言葉をおもいかえす必要がある。『真理の前では争いは永遠にやむ。真理の前ですべての人間は平等である。』
てみじかにいって、実証科学(英語で言うpositivism)が特にアカデミックな世界で名誉のための闘争みたいな体をとる様になったのは、中世から近世ヨーロッパ、特に英独仏の封建社会において国権そのものから、意図をもって平民の出世手段に援用されたのが原因らしい。その微妙な位置づけは、ヨーロッパでもアメリカでも「神学」なる分野一つをみれば理解できよう。これは真理の領域にとっては邪道だとかんがえていいとおもう。
��かずかずの聖書をうみだした時代にくらべれば、われわれは多くの情報に接し、その比較検討の機会にすこしはめぐまれているのだから、冷静にこの識字環境の変化をみなおせば、おおむかしの聖者によってつくりあげられた教義が、部分的にであれ破綻してきがちなことは容易に想像できるはずだ。古典的倫理の尊重を目的とした原理主義と、とにかく本当のことがしりたいだけの科学は、ひとつの文化のなかでもうまく折り合っていく方がいい。たとえば国生み神話で淡路島誕生とか、いまの天皇はどうかんがえてるのかしらないけど、それによって日本列島がなくなりもしないし、その非科学言説をおおっぴらに文字記録でものこしてきた証拠で天皇なるものの価値もしくは人格的評価がさほどおちるわけでもない。)
モチロン、scienceといわれていて、いまはかなり広い文明圏でもっとも使えそうだとおもわれている、やり取りしてて劣化性のかなりすくない言葉の体系にもそれ自体に限界がある。おそらくだけど、人類がうみだしてきた科学でのどれよりもつかえる記号やそのひきだしをもっている知的生命は、果てもほとんどわからない宇宙広しといえるのできっといるのにちがいない。その確率はどっちかといえば、(∞分の1以上なのだから)高いとおもう。(われわれの大部分は数理読解力がそれほど高くないことはそのすでにあるシステムが不完全、または複雑すぎ難解すぎる、としらせているっぽくおもう。すらすら高度な数式を読めるひとがあまりいない、とは漢字のむずかしすぎるたちによくにている。いまでは、ものすごい時間をつかわねばその大部分を再学習できない漢字・中国文字というものは煩雑に発達しすぎた、あるいは遅れてしまった記号だともおもわれているが、一昔まえはそうではなかった様に、いまの人類の数学、すくなくともその記号群の読み書きのルールはあまりにむずかしすぎるという点で欠点があるのだろう。科学のことばである数理はかぎりなく単純で、最もつかいやすい身近で日常的なルールにまとめられるべきだ。これはラッセルとかがちょっとまえにやろうとしてた数学基礎論とかさなるはなしで、現時点でもっとも先端的な科学の分野でもあるっぽいけど。)
で、これらのために科学の宗教化とか科学万能論はあやうい。「知れたことしか分からない」という、後天的学習にかなり依存している、いつでもかわりうる現在の教科はどれも地球人の、しかも特定の地球人の偏見かもしれない。
おもいかえせば、ジェームズらアメリカのpragmatistが使えるかぎりで使おうぜ、その程度のものだよ、と科学をとらえなおしたのはもっとも冷めてもいるし、すくなくとも現時点でかなり広域の現代文明にくらすひとに妥当なかんがえかたではないか。
ここからは自分の私的意見(カモメ見ではもはやない)だが、知識というものは客観的価値ではないか。それは共有財産みたいなものであり、だれかの私的所有物としては重すぎる荷物なのかもしれない。火が酸素で燃えるとか原子核崩壊が大きなエネルギーを生み出すとかは、人類の技術やその生活環境へおよぼした影響がはなはだしい。だから、真理はあたらしい世界のいりぐちとしてできるかぎり広く共有されるべきではないか。そのことがかえって、みずからの属した集団に酬いることとなるとしてもだ。(哲学語でいうと、仮言命法が目的ではなく、定言命法の為に知識を散種せよ。)
人類史は道具の優越によってほかの人種や民族をほろぼしたり、駆逐した者たちがいたのをしめしている。この悪性は、おそらくこれから先もあまりかわらないだろう。われわれが他の動物をどうあつかっているかをみれば人類のけものらしさは同類へもかなり発揮されるのにも納得できる。(シーシェパード(海の牧羊犬)は大津港沖のイギリス船を皮肉交じりに見るもしくは見てきた同類であれ、もしも鯨漁でもはじめたあかつきには、オーストラリアの観光資源をまもるという利己的動機をテキトウな口実でぬりかため、動物的に駆逐したがりかねないのがこの一つの証拠となりうるだろうか。)
つまり、利己的にかんがえれば(そしてそれがどうやら単純生物の基本原理だとして)、「工学の優越は、ほかの人種を滅ぼし去る原動力になりえる」。これらの慈悲深く、信心深い者を大いに悲観させそうな理屈は、にもかかわらず拮抗した道具の力の間でのみ人類の永遠平和やその講和がありえる、とも教えている。平和を希求しており、善良な意思と教養ある判定力を持つか少なくとも持ち得る者ならなおさら、先ず自らが道具の優越に立つべきだと知らせる。もしそうでなければどの理論もどの理想もどの慈愛も無残に、戦争と侵略の意思(しかも、あいてに信じられている利己的な正義)によって打ち砕かれるだろうから。
旧約聖書の時代、それを書いたひとびとが物語らせた知恵の実の神話は、同類のあいだに争いを及ぼした大きな原因が知恵にあったとしらせている、と私は解く。しかし、この構図は、実ははるか以前の類人猿よりもっと昔から続けられてきた生き物のさがだった様だ。現代文明に生きるわれわれすらその絵図から逃れ出られたわけではない。しかし、すくなくとも以前より穏やかな争いにとどめようとする工夫は数多くされた。その一つが後天的知識の追求だった、と捉えても大きく外れていない。
なぜなら、この階級や集団や個人はイデオロギーからごく遠いうえ有用性が高いとおもわれがちなので、旧態依然たる政争とはちがって生命が保護されてきたのが真相だからだ。さらには後天的学習に依存する、という面では(生物とみた種のちがいとは逆説的に)、生後の努力次第でどんな出自でも向上できる余地があり、したがって差別からの自由を保証したのでかつては封建社会からの避難所になったし、いまでいえば格差社会や資本主義の矛盾からの安全地帯となりえるはずだ。他方ではガリ勉という揶揄語がしめしている様、貴族社交にとっては二次的付属物だとその知識度はおもわれているのが国際事情ではある。しかし、学問の徒が貶められることは決してない。もしそうする者がいても、なおかつ性選択の機会におろかものが逆の傾向をえりごのんだとしても、かれらは末孫までみなおのれの悪徳のためその身に損害をこうむるだろう(類人猿と人類の違いを見逃しても以前より複雑化した社会から尊敬をうけることはない、さらにはサルがヒト社会に敵うこともない)。
いずれにせよ総合してみれば、「知の優越はその命を守る」と言うほかない。だから、今後とも人類が人類であるかぎりは、程度問題として、この原則にそって多くの歴史は進むのだろう。
多くの親がほとんど本能的にみえるほど、子供へ勉強、より精確な言葉にすると学習を勧めるのはこういうわけがあったのではないだろうか。それが子の命を本当に助けるらしいのだから。
��修行とか求道ということばはもとは仏教語っぽいけど、勉強ということばにも似た響きがある。これらは極東のことばの中では、真理の追求を志したガウダマ・シッダールタの姿勢から来ている風に思う。いまでは仏教になってしまった仏陀のしごとの本質は、単に当時のインド界隈の学者・知識人・ホモサピエンス性ではなかったか、というきもする。いまではEnglishのひろがりでも有名なイギリスという国、もしくはイングランドという地域。これも似た様な真理の追求者、そしてその成果をあげた者を一定数以上もったことで一躍文化史の舞台に踊り出てきたという感じがする。どちらにせよ、人類史は真理の追求者へ最終的にはかなりの栄誉で酬いる傾向をもっている。つまり人類は知性をかなり好んでいる、といえる。
一方で、その追求者の身へ同時代の大多数からの無理解やばあいによっては迫害というのもどの時代にもみられる一過性の現象だが、現代まで来ると、これはひともさまざまな事例をへてかしこくなってきたので言論の自由や表現の自由という法的名目で保護されており、むかしほどひどくはないか、最低でも、公的社会の上では大げさにはみられなくなったりかえって都市圏では変わった意見の持ち主こそありがたがられている様だ。結局、アカデミズムの巣のなかでのみこの政争じみた追放劇はしばしばきらわれがちな悪習として観察できるくらいに近代は進んできた。この市にやってきた岡倉も、(おそらくはまもなく失われそうなアジアの独自性への郷愁と一種の孤立による希少性をみてとった巨視的文化観から)古風な和式の美術工芸スタイルを維持しようとしたため、明治政府の全面的欧風化方針とかみちがいをきたした、当時の審美論についての一種の国内的被迫害者だったとかんがえていいだろう。
しかし、‘茶の本’への評価でも当時すでにあった国内絵画への欧米からの評価でも、むしろ岡倉こそが「欧米風」の美術史の視点をほかの同時代人よりずっとつよくもっていたのが真実らしい、というのがわかるひとにはごく面白い所なのだが。これも、岡倉が英語文献にはやくから親しめる進んだliteracyとそのために教育されていた点に一つの要因がありそうだけど。)
このURLの先にある記事は、様々な意味で秀逸だ。というのも、コメントが面白いことになっている。
自分のカモメ的観察眼(なにしろ海上から獲物をとらえることにかけては比類もない)によれば、これはもにょもにょのひと、要は市役所のとある特別な部屋でごにょごにょしてるひとではないかとおもえてならない。カモメ的推測にすぎないが。しかし、カモメのえものをとらえるときの鋭さだけは信用していい。命がかかっているのだ。
証拠もある。「世界に羽ばたく」という表現を、この人物が最近連用してるのをカモメはカモメだけにじーっと観察していた。この羽ばたきというのがフシギな表現なので、ますますめだつ。
かんがえてもみてほしい。ここは世界の一部ではないのか? カモメが世界以外に飛ぶか? まれにもジョナサン・リビングストンしかそうすることはないのではないか。
科学的業績が政治の具になる、というのはまったく純粋科学、むかしは哲学といわれていた形而上学的欲求の堕落でしかない。とはいえ、これを本格導入したのはかのニュートンというのが歴史の皮肉かもしれないが。
現代科学といおうか、かなり先端的領域でもアカデミズムの中ではなお政争という側面が大変つよい仕事といわざるをえないのも、近代文明の限界だとおもう。ウィキペディアがそれに一石を投じたのはたしかだけど、今度はこれはこれで信憑性や低俗性という点にいろいろと問題をつくりあげてしまった。
とかく、科学の進展(知識という分野のひろがり)にとって政争は邪魔でしかない。政治は政治でやってほしい。市民の自由の領域へ公人が(公務以外に於いて)安易に入ってくるなかれ! つねに、文化の発展は自由の中で、私人の創造力の羽ばたきによってより強く生じてきた。
ハンドルネーム・かば氏にはありんこじみた生ぬるい地下循環器の功績はあるが、あれほど不自然に褒めちぎるのはカモメ下ろしじみた、ありえない政争の悪質なてだて(すくなくとも、そう見てとりやすいイデオロギー的な偶像化の言説)しかみいだせない(*1)。そういう市民干渉、自由の阻害をするとようやくそだってきているすこしばかりの私的知識追求の余地もすぐに衰退してしまうだろう。これは歴史的にみたとき本当のこと(権力濫用の余地が市民の自由を阻害し、文化を破壊した)なので、あえてこうしてさらし者にするしかない。まるではまべにうちあげられた魚のごとくに。
��もし、これらがすべて単なるかもめらしい勘違いであったとして、すくなくとも権力濫用による干渉の余地らしき兆候を、第三者へしらせる効果だけはあると考えられる。なぜなら、もしすべてが単なる勘違いでしかなかったとすれば、その指摘を無視すればよいだけだ。これらは単なる推測なのだから。)
公務に属したひとは、できるかぎりその能力をすべて公務のみにそそいでほしい。この衰退しつつある手狭かつ袋小路化しつつある僻地になにも余裕などないはずだ。現に小学校のすぐちかくに風営法抜けがみられることからこの市域での条例の改良と、以前から指摘されている裁判所の自製、これもすぐ必要なことではないか。
市民のあいだにおりてきて、できないものを異様にはげましてその競争心をあおるみたいなかもめ下手なまねはどうかしないでほしい。
��現実に、すべてはかもめじみた推測のまちがい(=つまり、ある扇動的コメンターは市民間言論干渉に権力維持や指摘者排他の面から参与していない)にすぎず、この市の公務員のかたがたが少したりとも公私混同などしてないことを願っているが。)
かば氏はできないのではないだろうが、多少ライトノベルじみたSFを書くのが趣味なのだから仕方ない部類の寄り道である(*2)。いちカモメとしてのメッセージですが。
―――
��1 かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
世界に羽ばたく、ということばが使われる場面によっては、またその文脈でが多い訳だが、そう発言する国民の主体性のなさ、あるいは名誉勘定の空虚さを示している。美人投票の様に他者からいわれればどうとでも自分の個性を変える、固有性を否定する。この日本病、又は敗戦病とでもいえる自己確立なさ、自己本位の欠如、独立自尊の欠けは一つの名前のない失敗ではないだろうか。
かば氏のツイッターでこの「世界に羽ばたく」が一般語彙ではないか、という指摘に対して応えて。
漱石が『私の個人主義』の中で伝えようとしている事も、かなりこの部分にちかいとおもう。特に、日本という国号に至った経過をうらがえせば、このしまぐにに在来しているひとびとは他人から、特に大きな外国(すくなくとも文化先進国とおもっている相手)からの評価をきにしすぎる傾向がある。逆輸入というものが生じて、日本ではやる理由もそれだろう。この癖はある民族性でもあるらしく簡単にはなおらないし、なおすべきかも不確定な特性だろうが、ジョン・ブルやアメリカ中部の市民の様にこの性質がいたるところは「過剰流動性」というものだ。世論になびきやすいという意味でマルチチュードという標語であてられている層にもちかづきやすくなる。
これらへ意見できるとすれば、震災直後の記事でも書いたけど、集団主義的性向の悪影響を避けるには「個性」「個人」を出来得るかぎり最大限に人権として尊重する法益、その文化体制、風習風儀の保護だろう。もし赤の他人の評価へ盲目に従ったばかりに母集団の多様性を失うとすれば、それこそ失敗といわれねばならないだろうから。世界的評価、というのもこの点からみれば大したものではない、と言われていい。信じるべきは個性であり、個人個人の自己実現の集積でしかない。
��2 これについてかば氏から当冒頭に引用した先で謝罪または言及せよとの指摘あり。しかし、本当にできないのではないうえ多少ライトノベルじみたSFというのはそのとある作品の様式性について言い及ぶために必要な語彙だし、それに特におかしな言い方ではないと思う。これらのなんらかの形式論的観点が公衆一般の批評というより、芸術学的分類にさらされたことのない立場から聞き分けがたいのかもしれない。同時に、それらの作品が一般公開されているかぎり、やはり批評についての表現の自由も広域に認められざるを得ないのだろう。さもなければ特定の虚構へは一切の意見や指摘ができず、原理主義のばあいにしばしばそうなごとく、おおきな信仰の堕落や誤解のつみかさねへつながりかねない。
ライトノベルはそれ自体が商業出版の枠組みに依拠し自立自存しているのだし、実際、かかれたものの、たとえば登場人物の名などかば氏の書いた多くのフィクションは、現実に現存している人間とは離れた名が多かったりする面かなりそれに近いものが多いと思う。そして、一切の芸術表現は、すべての人類にとって寄り道の様なものだろうと考えることもできる。それによって何事かが達成されるかといえば、単に慰めやできるかぎり高度な娯楽、趣味の格付けという位置づけをこえてはされないか、すくなくとも各芸術表現の枠にはまりつづけてその中での多様な表象がみられつづけるにすぎない。文芸ならば文芸として。
追記: われわれはつぎの言葉をおもいかえす必要がある。『真理の前では争いは永遠にやむ。真理の前ですべての人間は平等である。』
てみじかにいって、実証科学(英語で言うpositivism)が特にアカデミックな世界で名誉のための闘争みたいな体をとる様になったのは、中世から近世ヨーロッパ、特に英独仏の封建社会において国権そのものから、意図をもって平民の出世手段に援用されたのが原因らしい。その微妙な位置づけは、ヨーロッパでもアメリカでも「神学」なる分野一つをみれば理解できよう。これは真理の領域にとっては邪道だとかんがえていいとおもう。
��かずかずの聖書をうみだした時代にくらべれば、われわれは多くの情報に接し、その比較検討の機会にすこしはめぐまれているのだから、冷静にこの識字環境の変化をみなおせば、おおむかしの聖者によってつくりあげられた教義が、部分的にであれ破綻してきがちなことは容易に想像できるはずだ。古典的倫理の尊重を目的とした原理主義と、とにかく本当のことがしりたいだけの科学は、ひとつの文化のなかでもうまく折り合っていく方がいい。たとえば国生み神話で淡路島誕生とか、いまの天皇はどうかんがえてるのかしらないけど、それによって日本列島がなくなりもしないし、その非科学言説をおおっぴらに文字記録でものこしてきた証拠で天皇なるものの価値もしくは人格的評価がさほどおちるわけでもない。)
モチロン、scienceといわれていて、いまはかなり広い文明圏でもっとも使えそうだとおもわれている、やり取りしてて劣化性のかなりすくない言葉の体系にもそれ自体に限界がある。おそらくだけど、人類がうみだしてきた科学でのどれよりもつかえる記号やそのひきだしをもっている知的生命は、果てもほとんどわからない宇宙広しといえるのできっといるのにちがいない。その確率はどっちかといえば、(∞分の1以上なのだから)高いとおもう。(われわれの大部分は数理読解力がそれほど高くないことはそのすでにあるシステムが不完全、または複雑すぎ難解すぎる、としらせているっぽくおもう。すらすら高度な数式を読めるひとがあまりいない、とは漢字のむずかしすぎるたちによくにている。いまでは、ものすごい時間をつかわねばその大部分を再学習できない漢字・中国文字というものは煩雑に発達しすぎた、あるいは遅れてしまった記号だともおもわれているが、一昔まえはそうではなかった様に、いまの人類の数学、すくなくともその記号群の読み書きのルールはあまりにむずかしすぎるという点で欠点があるのだろう。科学のことばである数理はかぎりなく単純で、最もつかいやすい身近で日常的なルールにまとめられるべきだ。これはラッセルとかがちょっとまえにやろうとしてた数学基礎論とかさなるはなしで、現時点でもっとも先端的な科学の分野でもあるっぽいけど。)
で、これらのために科学の宗教化とか科学万能論はあやうい。「知れたことしか分からない」という、後天的学習にかなり依存している、いつでもかわりうる現在の教科はどれも地球人の、しかも特定の地球人の偏見かもしれない。
おもいかえせば、ジェームズらアメリカのpragmatistが使えるかぎりで使おうぜ、その程度のものだよ、と科学をとらえなおしたのはもっとも冷めてもいるし、すくなくとも現時点でかなり広域の現代文明にくらすひとに妥当なかんがえかたではないか。
ここからは自分の私的意見(カモメ見ではもはやない)だが、知識というものは客観的価値ではないか。それは共有財産みたいなものであり、だれかの私的所有物としては重すぎる荷物なのかもしれない。火が酸素で燃えるとか原子核崩壊が大きなエネルギーを生み出すとかは、人類の技術やその生活環境へおよぼした影響がはなはだしい。だから、真理はあたらしい世界のいりぐちとしてできるかぎり広く共有されるべきではないか。そのことがかえって、みずからの属した集団に酬いることとなるとしてもだ。(哲学語でいうと、仮言命法が目的ではなく、定言命法の為に知識を散種せよ。)
人類史は道具の優越によってほかの人種や民族をほろぼしたり、駆逐した者たちがいたのをしめしている。この悪性は、おそらくこれから先もあまりかわらないだろう。われわれが他の動物をどうあつかっているかをみれば人類のけものらしさは同類へもかなり発揮されるのにも納得できる。(シーシェパード(海の牧羊犬)は大津港沖のイギリス船を皮肉交じりに見るもしくは見てきた同類であれ、もしも鯨漁でもはじめたあかつきには、オーストラリアの観光資源をまもるという利己的動機をテキトウな口実でぬりかため、動物的に駆逐したがりかねないのがこの一つの証拠となりうるだろうか。)
つまり、利己的にかんがえれば(そしてそれがどうやら単純生物の基本原理だとして)、「工学の優越は、ほかの人種を滅ぼし去る原動力になりえる」。これらの慈悲深く、信心深い者を大いに悲観させそうな理屈は、にもかかわらず拮抗した道具の力の間でのみ人類の永遠平和やその講和がありえる、とも教えている。平和を希求しており、善良な意思と教養ある判定力を持つか少なくとも持ち得る者ならなおさら、先ず自らが道具の優越に立つべきだと知らせる。もしそうでなければどの理論もどの理想もどの慈愛も無残に、戦争と侵略の意思(しかも、あいてに信じられている利己的な正義)によって打ち砕かれるだろうから。
旧約聖書の時代、それを書いたひとびとが物語らせた知恵の実の神話は、同類のあいだに争いを及ぼした大きな原因が知恵にあったとしらせている、と私は解く。しかし、この構図は、実ははるか以前の類人猿よりもっと昔から続けられてきた生き物のさがだった様だ。現代文明に生きるわれわれすらその絵図から逃れ出られたわけではない。しかし、すくなくとも以前より穏やかな争いにとどめようとする工夫は数多くされた。その一つが後天的知識の追求だった、と捉えても大きく外れていない。
なぜなら、この階級や集団や個人はイデオロギーからごく遠いうえ有用性が高いとおもわれがちなので、旧態依然たる政争とはちがって生命が保護されてきたのが真相だからだ。さらには後天的学習に依存する、という面では(生物とみた種のちがいとは逆説的に)、生後の努力次第でどんな出自でも向上できる余地があり、したがって差別からの自由を保証したのでかつては封建社会からの避難所になったし、いまでいえば格差社会や資本主義の矛盾からの安全地帯となりえるはずだ。他方ではガリ勉という揶揄語がしめしている様、貴族社交にとっては二次的付属物だとその知識度はおもわれているのが国際事情ではある。しかし、学問の徒が貶められることは決してない。もしそうする者がいても、なおかつ性選択の機会におろかものが逆の傾向をえりごのんだとしても、かれらは末孫までみなおのれの悪徳のためその身に損害をこうむるだろう(類人猿と人類の違いを見逃しても以前より複雑化した社会から尊敬をうけることはない、さらにはサルがヒト社会に敵うこともない)。
いずれにせよ総合してみれば、「知の優越はその命を守る」と言うほかない。だから、今後とも人類が人類であるかぎりは、程度問題として、この原則にそって多くの歴史は進むのだろう。
多くの親がほとんど本能的にみえるほど、子供へ勉強、より精確な言葉にすると学習を勧めるのはこういうわけがあったのではないだろうか。それが子の命を本当に助けるらしいのだから。
��修行とか求道ということばはもとは仏教語っぽいけど、勉強ということばにも似た響きがある。これらは極東のことばの中では、真理の追求を志したガウダマ・シッダールタの姿勢から来ている風に思う。いまでは仏教になってしまった仏陀のしごとの本質は、単に当時のインド界隈の学者・知識人・ホモサピエンス性ではなかったか、というきもする。いまではEnglishのひろがりでも有名なイギリスという国、もしくはイングランドという地域。これも似た様な真理の追求者、そしてその成果をあげた者を一定数以上もったことで一躍文化史の舞台に踊り出てきたという感じがする。どちらにせよ、人類史は真理の追求者へ最終的にはかなりの栄誉で酬いる傾向をもっている。つまり人類は知性をかなり好んでいる、といえる。
一方で、その追求者の身へ同時代の大多数からの無理解やばあいによっては迫害というのもどの時代にもみられる一過性の現象だが、現代まで来ると、これはひともさまざまな事例をへてかしこくなってきたので言論の自由や表現の自由という法的名目で保護されており、むかしほどひどくはないか、最低でも、公的社会の上では大げさにはみられなくなったりかえって都市圏では変わった意見の持ち主こそありがたがられている様だ。結局、アカデミズムの巣のなかでのみこの政争じみた追放劇はしばしばきらわれがちな悪習として観察できるくらいに近代は進んできた。この市にやってきた岡倉も、(おそらくはまもなく失われそうなアジアの独自性への郷愁と一種の孤立による希少性をみてとった巨視的文化観から)古風な和式の美術工芸スタイルを維持しようとしたため、明治政府の全面的欧風化方針とかみちがいをきたした、当時の審美論についての一種の国内的被迫害者だったとかんがえていいだろう。
しかし、‘茶の本’への評価でも当時すでにあった国内絵画への欧米からの評価でも、むしろ岡倉こそが「欧米風」の美術史の視点をほかの同時代人よりずっとつよくもっていたのが真実らしい、というのがわかるひとにはごく面白い所なのだが。これも、岡倉が英語文献にはやくから親しめる進んだliteracyとそのために教育されていた点に一つの要因がありそうだけど。)
2011年10月8日
ひまわりの徳
したの記事によると、効果ありませんというのは精確ではないし、ちょっとかんがえ違えをしている。
あれだけ広大な汚染された山河をすべて、人の手でキレイにすることは不可能だ。そのために、2000年の期間をみつもって、できるだけ広大な敷地へひまわりのたねを空からまくべきなのだ。
現代人はかんがえが浅く、その展望がみじかすぎる。2000年など、全生物の歴史にくらべても、人類史にくらべてすらそれほど長い期間ではない。いまから2000年後の常磐圏の命運をにぎっている植物なのはまちがいない。だからNGOでも行政でも個人でも、この「放射能を微量ながら毎年吸収してくれる」ありがたいひまわりを、人間がはいりこむのは困難な汚染地一帯にまいておくべきだ。それが将来の人類その他から感謝されることになるだろう。
したの記事はこうかきかえるべきだ。「わずかながらたしかに効果があった…」と。人為が自然の治癒力にまさるなどとおごるべきではないだろう。もしそうでなければ、人間の入り込めないあまりに広大なあれだけの汚染をどうやってとりのぞこうというのか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00965.htm
��~~
ヒマワリ除染、効果ありませんでした…
福島第一原発の放射能漏れ事故を受けて土壌汚染の除去実験を行っていた農林水産省は14日、放射性セシウムを吸収するとされていたヒマワリには「ほとんど効果がない」との実験結果を発表した。
表土を削り取る手法には効果があったものの、大量に発生する汚染土をどう処分するか、課題が残る形だ。
実験は今年5月から福島県飯舘村などの農地計約70アールで、〈1〉表土を削り取る〈2〉水でかくはんし、流す〈3〉表土と地中の土壌を入れ替える〈4〉ヒマワリなど植物に吸収させる――の4種で実施した。
このうち、最も効果が薄かったのが〈4〉で、5月に種をまき、8月に開花したヒマワリの場合、土壌1平方メートル当たり約107万ベクレル含まれていた放射性セシウムのうち、吸収できたのは約2000分の1の520ベクレルにとどまった。
一方、表土の削り取りでは、地表から深さ約4センチまで除去した場合、同セシウムの地表の濃度は25%に低下。牧草などが生えている場合は表土3センチを削ると濃度が3%にまで低下した。表土と地中の土を入れ替えた場合は、全体量は減らせないものの、地表の同セシウム濃度は低減できた。
��2011年9月15日09時09分 読売新聞)
��~~
あれだけ広大な汚染された山河をすべて、人の手でキレイにすることは不可能だ。そのために、2000年の期間をみつもって、できるだけ広大な敷地へひまわりのたねを空からまくべきなのだ。
現代人はかんがえが浅く、その展望がみじかすぎる。2000年など、全生物の歴史にくらべても、人類史にくらべてすらそれほど長い期間ではない。いまから2000年後の常磐圏の命運をにぎっている植物なのはまちがいない。だからNGOでも行政でも個人でも、この「放射能を微量ながら毎年吸収してくれる」ありがたいひまわりを、人間がはいりこむのは困難な汚染地一帯にまいておくべきだ。それが将来の人類その他から感謝されることになるだろう。
したの記事はこうかきかえるべきだ。「わずかながらたしかに効果があった…」と。人為が自然の治癒力にまさるなどとおごるべきではないだろう。もしそうでなければ、人間の入り込めないあまりに広大なあれだけの汚染をどうやってとりのぞこうというのか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00965.htm
��~~
ヒマワリ除染、効果ありませんでした…
福島第一原発の放射能漏れ事故を受けて土壌汚染の除去実験を行っていた農林水産省は14日、放射性セシウムを吸収するとされていたヒマワリには「ほとんど効果がない」との実験結果を発表した。
表土を削り取る手法には効果があったものの、大量に発生する汚染土をどう処分するか、課題が残る形だ。
実験は今年5月から福島県飯舘村などの農地計約70アールで、〈1〉表土を削り取る〈2〉水でかくはんし、流す〈3〉表土と地中の土壌を入れ替える〈4〉ヒマワリなど植物に吸収させる――の4種で実施した。
このうち、最も効果が薄かったのが〈4〉で、5月に種をまき、8月に開花したヒマワリの場合、土壌1平方メートル当たり約107万ベクレル含まれていた放射性セシウムのうち、吸収できたのは約2000分の1の520ベクレルにとどまった。
一方、表土の削り取りでは、地表から深さ約4センチまで除去した場合、同セシウムの地表の濃度は25%に低下。牧草などが生えている場合は表土3センチを削ると濃度が3%にまで低下した。表土と地中の土を入れ替えた場合は、全体量は減らせないものの、地表の同セシウム濃度は低減できた。
��2011年9月15日09時09分 読売新聞)
��~~
2011年10月6日
水戸藩史からみた歴史学
きのうあたりの新聞の天声人語の欄にのってたはなしだけど、慶喜公への評価が不当に低いのが本当に悲しい。その意味でも、司馬遼太郎の罪深さは末路無いものに思う。
ドナルド・キーンの様な後世の文学の研究者へもかれが与えた小説史観の影響、しかもおそらく悪影響は大きい。
自分は幕末史を新政府軍側、旧幕府軍側の両方から見直してみても、やはり新政府軍側には卑劣さや卑怯さがあると感じる。旧幕府軍側は忠誠の為に戦ったが、新政府軍は野心の為にそうした。
ドナルド・キーンは帰化アメリカ人として、‘明治?その生涯’という近年の英語の本でかなり新政府軍側の肩をもつ論述をしている。その中でも、慶喜公は(高踏的水戸学への無知からその複雑な態度をおとしめる司馬史観を踏襲して)不敵な野心家に書かれている。
しかし、少なくとも水戸一高の生徒や弘道館の理解者以上はこれらが単なる誤解だと分かる(というより、水戸学とよばれている日本史についての哲学がある程度わかれば誰でも)。
この誤解があるかぎり、つまり情報の非対称さがのこるかぎり、日本人の大多数やその他の外国人は大衆へ膾炙した司馬小説史観を数多のドラマなどからも信じ込んでいくかもしれない。
“心底誠実な忠義の者を野心家としておとしめ、単なる出世欲と野心だけのテロリストをあたかも国家の英雄の如く書き付ける。”
司馬遼太郎のやったこの人心へあたえた風説の一事は、後生の歴史家がどこかで必ず再考し、起きた道の歪みはとりのぞかれねばならないはず。
宇都宮默林という広島の僧が、吉田松陰へ吹き込んだ覇道と王道という儒教の解釈学、要は「物の言いよう」があの幕末の悲劇とその後の侵略史をつくった。なぜ家康公の時代にかれが朝鮮侵略などのルートを辿らなかったのかは歴史家の考証に待つが、武力で鎮圧しなければ支配の正当性を保てなかった意味で薩長土肥や当時の開国派の公家と、明治以降の天皇に王道としての定義を与えることはできないだろう。
戦国時代の乱立へ統一した権力を与えたのが家康公だったとすると、さらに以前の鎌倉時代まで一貫して武家の本懐は「本来は天皇がつかさどるはずの防衛者としての職責」を代行することだった。これが水戸の弘道館で江戸時代によく研究され、見出だされてきた日本史の本質だった。
大義名分論といわれる、当時の国際的科学知識としての朱子学や中国の史学の援用で説明された使命観はそこにあった。そして現実の弘道館がほかの藩学の校舎や校風とことなって偉大で特別なのは、この日本独自の正史を初めて定義した点にある。というのもこの独創性は文化史からも日本を独立させうる面で歴史的だからだ(正史、要は実証性の高い過去の歴史学的文献がその国家や地政を伝統あるものとして保証する)。
信憑性が明らかでない日本書記や古事記のそれ(文字の独占によって神話化された日本民族の発祥)とも異なる、現実的歴史観を慶喜公へもたせたのは水戸の学問だった。そして「行く末も践みな違えそ秋津島大和の道ぞ要なりける」という斉明公の碑からも知られ得る皇室への忠誠は、結局、一棟梁の代行がかりそめの物で、天皇自身が防衛軍を指揮するのが最善であると教えている。そしてこの面で現代へ警鐘を鳴らしつづけているともいえるだろう。なぜならもし天皇に職分がなければその空位に等しいのだから。同様に、民衆自身の自主防備も警察権力により否定されている以上この空転は国民への守り手のなさのゆえ、致命的に危険でもある。
��尤も、王政の形式化をほどこしてきた国々では、現実には儀式の為にしか皇帝や王室の理由もなくなってはいるが。今の日本でも象徴ということばでごまかされてはいるが、御璽の形式としては同じ事と言える。日本のそれが特殊なのは、古代の神聖政権風の政教不分離(より正確にいえば、政治と教育のみならず、政治と宗教の不分離)な前近代性が、単なる形式以上に社会のあちこちで残っている事だ。これが政宗分離をこころざす国歌についての議論につながっている。形式のみをみれば、カトリックを日本化すれば天皇制になるといえば外国にも理解できるかもしれない。この問題点がある限り、日本での尊王論はすべて形式論にすぎないし、そうでなければならない。)
より現代の水準の科学や歴史学と矛盾しない様にこれらをまとめると、征夷大将軍という名分(肩書き)で天皇がまかせてきた武家の本意は、第一次の元冦時に公家によって暴露された無策や無様な仕事しなさ、無能にもとづく頽廃した搾取体制を否応なく肩代わりするという、公務員本来の職責の追求だった。この征夷大将軍という大義が武士を維持してきたし、今も国民の無意識に潜在している。
だから、自分の様に明治維新とかれらが名付けた国民へ向けてのテロリズムや、それ以後の侵略史には正義の平衡をみいだせずにいる人間がいるというのは、そしてそういう者が大義名分のない筋書きである司馬遼太郎の書いた小説からきた多くの物語に、違和感や嫌悪感をもよおすというのはありそうなことだ。
古事記の茨城郡条からくる名辞でもわかるが、決して古代のヤマト民族は王道のためにその王朝を築いたわけではないだろう。それはエビスやらエミシやらクマソやらアイヌとして、奈良に土着したヤマトが蔑もうとした相手へも必ずしもあたらない。
だからヤマト民族の支配正当性のために宇都宮默林や吉田松陰をたきつけた覇道批判は、そもそもヤマト民族へあてられねばならなかったはずであり、かれらの職責を代行してきた立派な心がけの武家を排除した、というのは、歴史の眼でみればどちらかといえば悪徳なのが間違いないと思う。もしきちんと防衛者としての仕事を、天皇と皇室、公家や国司がまっとうできていればそもそも武家政権が成立したはずもない(それはたとえばイギリスという国で議会政治がなぜ発祥したかも照らしあわせている)。
自分がおぼえている不穏性、つまり司馬小説史観の蔓延が後世へ及ぼす悪禍はその正当性のなさ、根本哲学のなさ、理念のなさ、単なる野心や成り上がりの肯定、不正や卑劣の肯定など悪徳とよばれるだろう数々の符号と合致している。
もし以上の考察がかえりみられることがあれば、近現代に日本がやってきたこと、その中で起きた悲惨な事件の数々は大義名分よりも野心をとった明治天皇に真因があると見抜かれ得るだろう。当時の摂政と関白がそのかわりの判断をしなければならなかったとすれば、なおさら彼の代に歴史の断層が生じたと思えてならない。
実際、文献を見比べ史跡と実例をつぶさに観察すれば、福沢諭吉や坂本龍馬、西郷隆盛や木戸孝允ら下士は武家にありながら職責を逃れ野心を抱き中央政権へ攻撃を加え内外と策謀し相互にも裏切りを働いたのに比べ、徳川慶喜や芹沢鴨、近藤勇や沖田総司は仲間と忠誠を誓って自らの職責へ忠実だった。
この一連の考察も、長い歴史の中では答えが出ることだろう。
もし神ほどの長さで日本史とその中で行われた業を見返す者なら、容易に集団行動にともなう優秀性を淘汰できるはずだ。
もしある偶然が、薩英戦争と下関戦争の敗軍へ手に入りえない武器をもたらすという奇事を起こさなければ、単なる一時の錯綜の為に民族のたちやその道徳を失わせることはないだろう。そして私および我々の観察を悲しませる多くの裏切り者への賛美は、歴史の神が正義の平衡にともなった一定の報いを与える事でやむであろう。
なぜ内乱をともなう近代化をしなければならなかったか? それは野心家の悪意をこうむる人知にしか知りえないだろうし、実際に近代化の手続きを見返せば、‘倒幕の密勅’の様なはなはだしく人間の誠意と精神にもとる策謀は、遅かれ早かれそれを行おうとした人々に破滅を及ぼすに違いない。
自分にとっての大きな慰めは、慶喜公の後半生が(幼時の慧眼による将軍職への消極的姿勢、つまり「失敗するならはじめからやらない方がよい」と言う、当時の幕府から抑えこまれてきた水戸藩の石高と備え得る実力に比べた重責への忌避感から彼自身望んでいたのだろうが)、穏やかなものだったらしいことだ。明治天皇やその側近らの帝国主義を迎える時代のその後とは好対称な彼の生涯が我々へおしえている人類史の真実は、歴史の神が嘘をつかない、という一点にある。
歴史小説家や歴史物語手が罪深い存在でもありえる、という点は本居宣長による虚構(脚色によって迷信や勘違いを及ぼす仕組み)の持ち上げ以後も、雨月物語の冒頭にある上田秋成の批判程度にしか、日本の文化面ではほとんど指摘されていない。だが、それらの歪み、つまり歴史観の錯誤は巨視すれば民族主義でしかない以上、必ずや正史としての実証科学を歴史検証に用いる者の前に滅びゆくであろう。
かつて人類が洞窟のおくの暗闇で語り手に耳を傾けた時代の慣習は、文字記録が実現しえなかったという条件があるにせよ、風説つまり噂の領域での伝言ゲーム的解釈の歪みへ無意識のつけいる余地を与える以上は決して史実にまさり得る普遍性を伴いえないだろう。
ドナルド・キーンの様な後世の文学の研究者へもかれが与えた小説史観の影響、しかもおそらく悪影響は大きい。
自分は幕末史を新政府軍側、旧幕府軍側の両方から見直してみても、やはり新政府軍側には卑劣さや卑怯さがあると感じる。旧幕府軍側は忠誠の為に戦ったが、新政府軍は野心の為にそうした。
ドナルド・キーンは帰化アメリカ人として、‘明治?その生涯’という近年の英語の本でかなり新政府軍側の肩をもつ論述をしている。その中でも、慶喜公は(高踏的水戸学への無知からその複雑な態度をおとしめる司馬史観を踏襲して)不敵な野心家に書かれている。
しかし、少なくとも水戸一高の生徒や弘道館の理解者以上はこれらが単なる誤解だと分かる(というより、水戸学とよばれている日本史についての哲学がある程度わかれば誰でも)。
この誤解があるかぎり、つまり情報の非対称さがのこるかぎり、日本人の大多数やその他の外国人は大衆へ膾炙した司馬小説史観を数多のドラマなどからも信じ込んでいくかもしれない。
“心底誠実な忠義の者を野心家としておとしめ、単なる出世欲と野心だけのテロリストをあたかも国家の英雄の如く書き付ける。”
司馬遼太郎のやったこの人心へあたえた風説の一事は、後生の歴史家がどこかで必ず再考し、起きた道の歪みはとりのぞかれねばならないはず。
宇都宮默林という広島の僧が、吉田松陰へ吹き込んだ覇道と王道という儒教の解釈学、要は「物の言いよう」があの幕末の悲劇とその後の侵略史をつくった。なぜ家康公の時代にかれが朝鮮侵略などのルートを辿らなかったのかは歴史家の考証に待つが、武力で鎮圧しなければ支配の正当性を保てなかった意味で薩長土肥や当時の開国派の公家と、明治以降の天皇に王道としての定義を与えることはできないだろう。
戦国時代の乱立へ統一した権力を与えたのが家康公だったとすると、さらに以前の鎌倉時代まで一貫して武家の本懐は「本来は天皇がつかさどるはずの防衛者としての職責」を代行することだった。これが水戸の弘道館で江戸時代によく研究され、見出だされてきた日本史の本質だった。
大義名分論といわれる、当時の国際的科学知識としての朱子学や中国の史学の援用で説明された使命観はそこにあった。そして現実の弘道館がほかの藩学の校舎や校風とことなって偉大で特別なのは、この日本独自の正史を初めて定義した点にある。というのもこの独創性は文化史からも日本を独立させうる面で歴史的だからだ(正史、要は実証性の高い過去の歴史学的文献がその国家や地政を伝統あるものとして保証する)。
信憑性が明らかでない日本書記や古事記のそれ(文字の独占によって神話化された日本民族の発祥)とも異なる、現実的歴史観を慶喜公へもたせたのは水戸の学問だった。そして「行く末も践みな違えそ秋津島大和の道ぞ要なりける」という斉明公の碑からも知られ得る皇室への忠誠は、結局、一棟梁の代行がかりそめの物で、天皇自身が防衛軍を指揮するのが最善であると教えている。そしてこの面で現代へ警鐘を鳴らしつづけているともいえるだろう。なぜならもし天皇に職分がなければその空位に等しいのだから。同様に、民衆自身の自主防備も警察権力により否定されている以上この空転は国民への守り手のなさのゆえ、致命的に危険でもある。
��尤も、王政の形式化をほどこしてきた国々では、現実には儀式の為にしか皇帝や王室の理由もなくなってはいるが。今の日本でも象徴ということばでごまかされてはいるが、御璽の形式としては同じ事と言える。日本のそれが特殊なのは、古代の神聖政権風の政教不分離(より正確にいえば、政治と教育のみならず、政治と宗教の不分離)な前近代性が、単なる形式以上に社会のあちこちで残っている事だ。これが政宗分離をこころざす国歌についての議論につながっている。形式のみをみれば、カトリックを日本化すれば天皇制になるといえば外国にも理解できるかもしれない。この問題点がある限り、日本での尊王論はすべて形式論にすぎないし、そうでなければならない。)
より現代の水準の科学や歴史学と矛盾しない様にこれらをまとめると、征夷大将軍という名分(肩書き)で天皇がまかせてきた武家の本意は、第一次の元冦時に公家によって暴露された無策や無様な仕事しなさ、無能にもとづく頽廃した搾取体制を否応なく肩代わりするという、公務員本来の職責の追求だった。この征夷大将軍という大義が武士を維持してきたし、今も国民の無意識に潜在している。
だから、自分の様に明治維新とかれらが名付けた国民へ向けてのテロリズムや、それ以後の侵略史には正義の平衡をみいだせずにいる人間がいるというのは、そしてそういう者が大義名分のない筋書きである司馬遼太郎の書いた小説からきた多くの物語に、違和感や嫌悪感をもよおすというのはありそうなことだ。
古事記の茨城郡条からくる名辞でもわかるが、決して古代のヤマト民族は王道のためにその王朝を築いたわけではないだろう。それはエビスやらエミシやらクマソやらアイヌとして、奈良に土着したヤマトが蔑もうとした相手へも必ずしもあたらない。
だからヤマト民族の支配正当性のために宇都宮默林や吉田松陰をたきつけた覇道批判は、そもそもヤマト民族へあてられねばならなかったはずであり、かれらの職責を代行してきた立派な心がけの武家を排除した、というのは、歴史の眼でみればどちらかといえば悪徳なのが間違いないと思う。もしきちんと防衛者としての仕事を、天皇と皇室、公家や国司がまっとうできていればそもそも武家政権が成立したはずもない(それはたとえばイギリスという国で議会政治がなぜ発祥したかも照らしあわせている)。
自分がおぼえている不穏性、つまり司馬小説史観の蔓延が後世へ及ぼす悪禍はその正当性のなさ、根本哲学のなさ、理念のなさ、単なる野心や成り上がりの肯定、不正や卑劣の肯定など悪徳とよばれるだろう数々の符号と合致している。
もし以上の考察がかえりみられることがあれば、近現代に日本がやってきたこと、その中で起きた悲惨な事件の数々は大義名分よりも野心をとった明治天皇に真因があると見抜かれ得るだろう。当時の摂政と関白がそのかわりの判断をしなければならなかったとすれば、なおさら彼の代に歴史の断層が生じたと思えてならない。
実際、文献を見比べ史跡と実例をつぶさに観察すれば、福沢諭吉や坂本龍馬、西郷隆盛や木戸孝允ら下士は武家にありながら職責を逃れ野心を抱き中央政権へ攻撃を加え内外と策謀し相互にも裏切りを働いたのに比べ、徳川慶喜や芹沢鴨、近藤勇や沖田総司は仲間と忠誠を誓って自らの職責へ忠実だった。
この一連の考察も、長い歴史の中では答えが出ることだろう。
もし神ほどの長さで日本史とその中で行われた業を見返す者なら、容易に集団行動にともなう優秀性を淘汰できるはずだ。
もしある偶然が、薩英戦争と下関戦争の敗軍へ手に入りえない武器をもたらすという奇事を起こさなければ、単なる一時の錯綜の為に民族のたちやその道徳を失わせることはないだろう。そして私および我々の観察を悲しませる多くの裏切り者への賛美は、歴史の神が正義の平衡にともなった一定の報いを与える事でやむであろう。
なぜ内乱をともなう近代化をしなければならなかったか? それは野心家の悪意をこうむる人知にしか知りえないだろうし、実際に近代化の手続きを見返せば、‘倒幕の密勅’の様なはなはだしく人間の誠意と精神にもとる策謀は、遅かれ早かれそれを行おうとした人々に破滅を及ぼすに違いない。
自分にとっての大きな慰めは、慶喜公の後半生が(幼時の慧眼による将軍職への消極的姿勢、つまり「失敗するならはじめからやらない方がよい」と言う、当時の幕府から抑えこまれてきた水戸藩の石高と備え得る実力に比べた重責への忌避感から彼自身望んでいたのだろうが)、穏やかなものだったらしいことだ。明治天皇やその側近らの帝国主義を迎える時代のその後とは好対称な彼の生涯が我々へおしえている人類史の真実は、歴史の神が嘘をつかない、という一点にある。
歴史小説家や歴史物語手が罪深い存在でもありえる、という点は本居宣長による虚構(脚色によって迷信や勘違いを及ぼす仕組み)の持ち上げ以後も、雨月物語の冒頭にある上田秋成の批判程度にしか、日本の文化面ではほとんど指摘されていない。だが、それらの歪み、つまり歴史観の錯誤は巨視すれば民族主義でしかない以上、必ずや正史としての実証科学を歴史検証に用いる者の前に滅びゆくであろう。
かつて人類が洞窟のおくの暗闇で語り手に耳を傾けた時代の慣習は、文字記録が実現しえなかったという条件があるにせよ、風説つまり噂の領域での伝言ゲーム的解釈の歪みへ無意識のつけいる余地を与える以上は決して史実にまさり得る普遍性を伴いえないだろう。
2011年10月4日
東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数
��. http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
��. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
この二つの資料をみくらべると、
千人あたり3.87人から7.07人へと、事故後の頻度増加83%の新生児についての先天性障害頻度の上がり、はおそらくこの市内でも起こるとおもわれる。もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、そのうち7.07×50-3.87×50=353.5-193.5=160人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この160人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの160人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この160人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ優しくすべきはうたがいない。彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない。
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1533-40/www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lazjuk-J.html )
��. http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf
そなえ( http://megalodon.jp/2011-1003-1537-23/radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/09/1910_092917_1.pdf )
この二つの資料をみくらべると、
千人あたり3.87人から7.07人へと、事故後の頻度増加83%の新生児についての先天性障害頻度の上がり、はおそらくこの市内でも起こるとおもわれる。もし約5万人とした市内の全人口が、これから50年後までにすべていれかわるとおおめにみつもると、そのうち7.07×50-3.87×50=353.5-193.5=160人、の先天性障害の人口増が想定できる。
この160人(実際にはそれよりすこし少ないかもしれないが)は、事実上、東京電力株式会社によって先天的に障害をうけた、と定義できる。その全賠償責任は東京電力株式会社にあり、基本として我々にはない。
もし周辺のくにぐにへすさまじい被害をおよぼした東京電力株式会社による大公害がなければこの160人は、おそらく五体におおきな歪みもなく生まれ育ったのだから。
と同時に、この160人がおよそ想定できるという条件は除染や、食物への注意によっても完全に払拭しきれるとはかぎらないのが現実なのだから、「福祉制度の充実」という面で、(仮にそのすべての費用を公害の主体かつ大金持ちである東京電力株式会社へ負わせるとしても)我々が市内で障害や異質な身体条件をもった他者へ寛容に、できるだけ優しくすべきはうたがいない。彼らはみずからの不摂生のためにではなく、単に東京電力株式会社という企業法人の悪徳によって害をうけたのだから彼らにはこの点で罪がない。
2011年10月2日
屋根用ソーラーシート
屋根にかぶせてるシート、これはすでにあるが、ソーラーシートとして加工して販売する。被災の有無にかかわらず、ソーラーパネルより手軽で軽く、安価に仕上げられるはずだから。ビニールシートの表面に加工できればいい。あとは量産体制と、そのこまかな工夫で屋根をおもとする面へ抑えやすくする。また、できるだけ簡易な変換装置(コンバーター)を込みで販売する。家庭用電源のコンセントに変換させるだけの。
この製品はかなり丈夫なら軍事用や登山など屋外活動にもつかえるだろう。
この製品はかなり丈夫なら軍事用や登山など屋外活動にもつかえるだろう。
2011年10月1日
茨城の怒りの正しい矛先
この放射性物質降下量の統計リンクをみると、茨城県のひたちなか市はすべての地域で最大な結果となっている。この調査の事実性はわからない(誰が制作したかも不明だがネットの一部に流通している)が、すくなくとも「茨城県民が東京電力株式会社へどれだけ怒っても怒りすぎはない」のが100%まちがいない。
あるネット上に出回っていた資料は次の様なもの(誤字と資料からの引用の不精確さはこっちで修正した)
―――
放射性物質降下量 3月18日~5月7日までの累積
https://spreadsheets.google.com/spreadsheet/pub?hl=en&key=0AjgQ0pwrXV8YdGJORHAzdi1qMlFldUMwRkl4V3VfN0E&hl=en&gid=0 より
単位はMBq/km^2
1位 茨城県(ひたちなか市) 212728
2位 東京都(新宿区) 84940
3位 山形県(山形市) 68692
4位 埼玉県(さいたま市) 68593
5位 栃木県(宇都宮市) 61348
6位 千葉県(市原市) 45786
7位 福島県(福島市) 24151
8位 群馬県(前橋市) 21846
9位 岩手県(盛岡市) 8216
10位 山梨県(甲府市) 8006
11位 神奈川県(茅ヶ崎市) 5772
圏外 チェルノブイリ 3844
―――
そもそも震災当日からしばらく、まぎれない歴史の真実として、その会社そのものがこの最大の被災地を無視し停電させようとしたのだ。その時点で桜田門外かって次元の話である。ござる。*1
国の調査結果は暫定基準値でごまかそうとしているが、実際のチェルノブイリ以後では我々のくらしていた「強制退去」の範囲でそこで生産された作物を摂取していた者には多くの障害が発生したのがまちがいないのだから、もはや時代の科学水準から言ってもだましきれるものでは決してない。はっきりしているのは、この暫定基準値とやらがどれほど批判されてもされすぎはなく、そもそも安全性を保証するためのしくみではなく、単に賠償責任を悪意ある資本家が逃れようとする意図で決められているという点である。
だから何世代かかってもかならずや全賠償責任を東京電力株式会社という法人ならびにその業務をうけつぐ法人格に該当する者へ徹底追及しきるべきだ。なぜなら、特にこの資料(ならびに少なくとも各都道府県の発表した計測値)が教える如く、現実にわれわれの郷土はまったく悪意しかない第三者、つまり東京電力株式会社からチェルノブイリ事故をこえたレベルに汚染されたのである。しかも我々には恩恵は何一つも、まったくなくだ。これは完全なる大公害であり、死でつぐなってすら足りない大事件であり大事故、しかも十分な想定できる危機への備えを怠って利潤をおいもとめた悪人らによる人災なのだ。
追記:『国が設定した暫定基準値安全精度の検証』
食品別と放射能別の微差を除いて単純計算では、
500Bq/kg=0.011μSv/kg
(∵http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg
2000Bp/kg =0.044μSv/kg
∴ 500Bq/kg=0.011μSv/kg )
ここで、一日の摂取kgを2kgと仮定し、われわれ「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝は0.022μSv。
×365(日) = 8.03(μSv)
かつ、http://overview.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html
http://no-micro-wave.seesaa.net/category/9975142-1.html
これらの資料から
一日の摂取kgを2kgと仮定し、同様に「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝量は9.8μSv×2kg=19.6μSv こちらの方が厳しい値なので採用し、
×365(日) = 7154μSv = 7.154mSv すなわち 年間に最大7ミリシーベルト の内部被曝がありえる。現実にこの場合は少ないとしてもまったく不注意のままだと起こりえることも確かだろう。国の暫定規制値で想定している年間5mSvは、仮にそのまま20年間生活したときに放射能危機の閾値なしモデルによれば、発癌あやうさの上昇がありえると臨床例からはっきりしている100ミリにいたるという判断(20年間、現地で摂取されるのが今日のままの食品でなければ何とかなる)からきていると考えられる。
追記:『暫定基準値食品を継続的に摂取した場合の(チェルノブイリ事故時では強制避難域にある地域における)健康被害の精度ある数理予測』
http://kamomenome.exblog.jp/13553115/ と http://kitaibaraki-guide.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/9-kitashio-c6b0.htmlから、毎時2マイクロシーベルトを通常の空間被曝量とみつもると、この地域での年間被曝量は1.8ミリシーベルトを計測しうる。
=1.8mSv/y
これまでの(すくなくともこの市域の)累積被曝量は http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSvなので(ここには計測されていなかった3月12日のはじめのメルトダウン時そのものの値が含まれていないのに注意すべきだ。この計算では除くが、のちに(独)日本原子力研究開発機構から発表されたWスピーディの拡散予測データでは厳密には3月12日時点でも周辺住民に被曝量がみつもられるところから、軽視したり無視すべき値ではない。精確な数値が出れば更に加えねばならない)、+0.6ミリシーベルトとして、総被曝量は
=1.8mSv/y + 0.6mSv = 2.4mSV
つまり、前述の年間7mSvという食品による内部被曝量はここに加えられねばならない。
もし年間での変動率をとれば
1.8mSv/y + 7mSv/y = 8.8mSv/y
が、すくなくとも想定できる基本的な年ごとの被曝量(内部被曝を含む)。
仮に現在の暫定基準値のままで通常の食生活を続けて行けば、
100mSv-0.6mSv=99.4mSv
99.4mSv ÷ 8.8mSv/y = 11.295...y ≒ 11y
∴はやくとも11年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
同様の計算手段でさらに、乳幼児や幼児は4~6倍の被曝による影響があるとしてより厳しくみつもると、
100mSv - 0.6mSv × 6 = 100mSv - 3.6mSv = 96.4mSV
96.4mSv ÷ (8.8mSv/y ×6) = 96.4mSv ÷ 52.8mSv/y = 1.825...y ≒ 2y
つまり、幼児の場合は同様に2年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
ちなみに幼児において食品のみは外部の汚染されていないものからとりいれ、空間線量のみでの100ミリ超えを予測すると
96.4mSv ÷ (1.8mSv/y × 6) = 96.4mSv ÷ 10.8mSv/y = 8.925...y ≒ 9y
よってこれは現在の状態がつづけば、という仮定だからほかの原発をふくめ再臨界でよりひどい被害をともなったり、あるいは逆に収束しきった場合はのぞくが、既に出生してくらしている幼児と乳幼児についてかれらの9年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
また96.4mSv ÷ 1.8mSv/y = 53.555...y ≒ 54y ∴成人の場合は54年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
これらの計算結果は、現在の政府方針が賠償責任のがれを優先させ、国民の命をすこしも、あるいはほとんど重視していないという悪質な性質をしめしあわせている。もし本当に子を持つ親なら、この予測をできる能力があれば、すくなくとも幼児については強制避難を宣言するべきだ。*2
さらに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3の「蓋然性に関する検討(被曝量と胎児の障害との相関について)」から胎児に生じうる重度の知能遅滞について広島大の例をひけば、暫定基準値ぎりぎりの食事を続けていたという場合を想定すれば4.4%というかなり高い確率がありえる、と考えられる(この調査では5mSvが閾値なのでもしまったく暫定基準値ぎりぎりに達した食品摂取をしなければ0.8%の発生確率。率として3.6%の、胎児の被曝による危機増加があった)。要は、すくなくとも(市内であれ市外であれ)継続的に暫定基準値ぎりぎりの食品を摂取しつづけると、もしそれが妊婦であった場合その出生児には3.6%分の重度の知能遅滞が、人類の過去の経験として発生しうる、といえる。だから逆にいえば、この市内で生活していても初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめれば、知能遅滞の発生率が特段に上昇する事は経験的かつ過去の臨床例からありえない。*3
さらに安全策をとれば、受胎後0-7週、または26-40週で被爆した人では知能遅滞した新生児発生率の上昇は全く見られなかったという経験から、受胎後8-25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という次善のてだてが有効だろう。
こうして、致命的な健康へ及ぼし得る悪因と危険は実は空間線量よりも、‘暫定基準値’という賠償逃れの画策(もし当人ら経産省の高官による確率的危機の軽視がその原因だとしても)であざむかれた汚染食物による内部被曝量だと認識できる。
暫定基準値食品は非人道的な対応である、という面はどれほど強く経産省の事実上の内部組織な状態が続いている原子力安全保安院が非難されても足りない(倫理の堕落という一点へ)し、結局は大公害をおこした主体の東京電力株式会社こそそのすべての賠償責任が追求される相手でなければならない。もし東京電力株式会社さえ自然と人間を(かれらがつくりあげた経済という相互奉仕の為の共通貨幣取引にとっての)めさきの利潤より第一にかんがえるまっとうにして常識ある法人格なら、すべて経産省とその組織の一部であった原子力安全保安院の退廃もみられなかったはずなのだから。ちなみに無限責任会社な以上、かれら法人格を構成するすべての成員(当然、株主総会での経営参与権から株主を含める)の全財産はこの無限責任の範囲に入る。
―――
��1 まあはっきりいえば某都知事ひとりが震災直後に、悪しき利己本性全開に賤しさ極まりないジャイアニズム示したって話にかぎりなく近い(事実上の首都という大義を悪用して被災地を先に停電させようとした。なおかつ以前から仙台都市圏へ教師の奪取などの悪質な警戒を示しておきながら、かなりの悪意ある文脈から単なる自然災害をおのれの悪徳と生前の悪行悪業にかこつけ天罰とほざいた。それらにくわえ、震災直後からみずからの出身地である神戸市の議員と密着して大阪府知事と、避けようもない東北の天災の弱みに付け込む第二首都構想をその都市圏のみの方向で進めさせようとしてきた)が、それは彼の小説と同じくいつものごとくなのでこの際問うまい。結局、現在の日本最大の商業地としての人口過剰な東京都民の総意へ再三示される残念な民度といおうか文明度、市民度の課題にすぎないので多くの読者もしくはかもめ(ハマっ子ではない)にはいわずもがな。それはそれとして、どちらかといえば真の問題はマスコミのほとんどがこの不善(東京資本の横暴もしくは電気を用いた報道権力の濫用)をすこしも認識できなかったことだ。はなはだしい被災をともなった痛々しい歴史の教訓だが、「ジャイアンに付き従う者はおのずとその従僕となる」のである。
この点でも関東圏をこえて人類史の王道を保つ為に、茨城資本が独自のマスメディアを構築し、可能なかぎりその勢力を国際化しておくのが絶対に有力で必需。さもなくばいつでも同じ最悪さが国内で暴走しえるので。なお関西や中京、ほか九州のメディア、あるいは山口県あたりの某資本もこの点では十分な信頼性をもたないか、すくなくとももてていなかった。なぜならほかの下らない番組へはスポンサー契約したり震災直後も平気でかなりくうものにも困りかけていた被災地へ宣伝しておきながら関東の諸番組への冷遇や被災した企業への値切りを平気そうにしたし、それ以前に尊きものをパロディあつかいにからかっているCMを自慢したり、さらには避けようもない公害の犠牲になった善意の農家そのものを揶揄した。かといって東京資本がなにやってたかといえばこっちはこっちで余震に震える死んだ人のいる被災地へAKB選挙ワイドショーを大のおとながみんなでやっててなおひどかった、コメンテーターの悪質なお世辞なんかほとんど死んだ方がいいみたいに見えた。これらのすべては悪徳しか示していないと見えるし、実際に自分の観察が正しければ彼らにはほかの海外(すくなくとも先進国)のマスメディアよりはるかに低い程度のmoralityしかみいだされなかった。辛うじて関西の一部のニュース番組では、中央官僚と中央政府へのほどひどいあてつけや愚弄が徹底したみられた、また近場からきた役者を福島県へ直接配置させ取材した(あるいは当役者からのオファーに着いて行っただけかもしれないが)くらいのはなしだった。
これらの歴史的検証からは、すくなくとも日本国内のどこかしらの他人の資本に頼って公正なマスメディアをつくろうとしてできるものではない。先ずみずからつくりだすにくわえ、海外のマスメディア、特にBBCやCNNとも組み独自の「透明性の高く、偏見の少ない」報道をできる社会体制を築き上げるしか道はない。たとえば茨城新聞すら、現地の市井の一もしくは複数市民とはまったくちがった見方といおうか、当時の新聞をたどればわかるが一週間音沙汰もなかったなにやってんだ市長、税払ってるのはこっちだ、市役所員は市民奉仕そっちのけで保身と官尊民卑でどっち向いてるをなぜだか英雄視させる「事実・客観的真実・真相と異なった」物語みたいな矛盾じみた記事を書いていたのである(おそらく彼ら既存茨城の人口流動性の低さによる環境収容されたいつもの同族意識からの肩を持った偏見で。しかしそれは公正ではないし、かえって相手にもよくないわけだ。「真実の友情とは相手の善を責める事である」)。かれらの実力のなさにくらべて誤解をまねくばかりか真実性をもあまり含んでいない偏見報道によって公式化されれば、すべてはますます危険。震災直後も書いたが、この自治体は高萩市に異論がなければ日立市に編入させた方が善い。職員の知的程度と公僕意識が低すぎるから。勿論、北茨城市そのものには童謡がうまれたことでもわかる平穏素朴な田園都市としての独自のよさがあるが、市役所の職員や高萩署の警察官の低い程度にはその為のすべての条件がととのっていると思えてならない、というかととのっている。たとえば日立北区として広域市政を日立市役所の一部の部署でやってもらうか、すくなくとも日立市役所へその仕事の方向性決定本部、計画局を統合すべきだ。それで役人は自分らよりすぐれた人材をみるにつけすこしは程度が上がるだろうし、日立市そのものにとっては仕事量そのものはどうせ同じ別の市の人たちがやるのだからあまりかわらないが財政規模の拡大によってとりえる選択肢が広がる。
でこれらの実例はすべて資本主義報道の限度、もしくは利潤追求によっては決してjournalist個人の持ち得る強度の真実性を持てないと教える。だから、記者クラブもそこからでて派生していった枝葉のごとき借り物情報では、完全に真相をうがった記事にはならないという集団主義的会社からの報道の仕組みの限界があるわけだ。(当然、当時のツイッターでいくらかみられたことだが、逆にそれを記す個人の質が低い場合は実証的ではないかえってひどい虚偽やかたよった誇張、デマとよばれるだろうそれをもゆるしてしまう問題点があるのだが。)
とかく東京系マスコミではNHKだけは偏った意見や番組を避けていただけいくらかましだったが、残念なことに当時の内閣のひどい状態が反映され、某長官は事実上の虚偽(メルトダウンはしていない)を毎日毎日テレビ会見で流していた。かんがえてもみれば一国の政府、しかも一応は先進国といわれているそこがうそを平気でつきまくったというのがあのときの真実だった(ついた当人の意思にかかわらず)のだから、まことに日本という場所、特に公的機関の紛れ様もない悪質性もしくは愚鈍には注意がいる。なぜ困難な国家試験をへてもそういう体制しかとれないのか、科挙の幣風をまざまざとみせつけるには日中韓の儒教化された国々ほど適切な汚れ役はいないだろう。かれらの中でのよしあしも、また世界規模の政府単位や先進国間では井の中の蛙というわけだ。とはいえフランスやイギリスの官僚制が日本のそれより断然な合理性をもつともいわないが、日本よりはその科挙制からくる特徴が緩和されているのも確からしい(フランスは微妙だが、特にイギリスの内閣と首相直轄機関が学者を外部から招く慣習)。
つまり、その時点の中央政府あるいは国家政府に頼った報道体制はきわめて危険でいつでも情報操作されてしまうというのが歴史の真相だったし、なおかつこの外注はすべてその地域資本、都道府県の偏見に侵され悪用されるのが世界の現実ということだ。アメリカWhite Houseの構築している特定の政府ににぎられるおそれのない独立した情報機器、というものが市民権の意義には絶対に必要だとどれほど強調してもたりない。しかもこうして、日本ではその必要性はかぎりなく高い。
��2 どうしてもできないとき、こどもへ重度の喫煙者かかれらと同居程度の身体の健康への負荷を科している事になる。次のページの「人体に対する影響」を参照せよ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D。
��3 ちなみに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4によれば、通常ありえるダウン症の発生率は母親の出産年齢が25歳で1/1200≒0.08%、30歳で1/880≒0.11%、35歳で1/290≒0.34%、40歳で1/100≒1%、45歳で1/46≒2.17%という研究報告があるらしい。ここからも3.6%の発生確率の上昇という、5mSvの胎児被曝による閾値からの重度知能遅滞の増加率はかなり大きな健康被害になるのがたしか。それはまちがいなく、公害か人災での賠償や、つぐないの対象となりえるものであり、追跡した県内や市内、ならびに東京を含め東日本一帯在住者への健康調査が必要極まりない。かりにこの3.6%の増加がみられた出生児についてこうして緻密に調査をつづけ責任追及しつづけないと、いまの東京電力株式会社の体質では寡占企業特有の傲りから責任を軽視しかれらへの賠償と、ながらくのこころからの事故への謝罪とその反省と体制改善努力から逃れるだけだ。
さらに、ここで臨床医学的にとっている仮説のたちばは、「経時治癒仮説」か「すこしずつなおる仮説」というべき、年間に5ミリシーベルトへ一度に到達しなければその時点までの傷はからだが癒すはず、なるとある楽観をともなった観測だ。もしそうでなければ、生涯の蓄積率として多くの宇宙や航空従事・医療従事の被爆者はそれが原因でおそらくいままでにも亡くなっているはずだからだ。もし運よくこれらの仮説がこの事故のあとで我々の犠牲によって検証されることになるならば、後世の人類は蓄積線量についての臨床例をその医師行為のなかで応用できる、よりはっきりした知見に近づくだろう。
あるネット上に出回っていた資料は次の様なもの(誤字と資料からの引用の不精確さはこっちで修正した)
―――
放射性物質降下量 3月18日~5月7日までの累積
https://spreadsheets.google.com/spreadsheet/pub?hl=en&key=0AjgQ0pwrXV8YdGJORHAzdi1qMlFldUMwRkl4V3VfN0E&hl=en&gid=0 より
単位はMBq/km^2
1位 茨城県(ひたちなか市) 212728
2位 東京都(新宿区) 84940
3位 山形県(山形市) 68692
4位 埼玉県(さいたま市) 68593
5位 栃木県(宇都宮市) 61348
6位 千葉県(市原市) 45786
7位 福島県(福島市) 24151
8位 群馬県(前橋市) 21846
9位 岩手県(盛岡市) 8216
10位 山梨県(甲府市) 8006
11位 神奈川県(茅ヶ崎市) 5772
圏外 チェルノブイリ 3844
―――
そもそも震災当日からしばらく、まぎれない歴史の真実として、その会社そのものがこの最大の被災地を無視し停電させようとしたのだ。その時点で桜田門外かって次元の話である。ござる。*1
国の調査結果は暫定基準値でごまかそうとしているが、実際のチェルノブイリ以後では我々のくらしていた「強制退去」の範囲でそこで生産された作物を摂取していた者には多くの障害が発生したのがまちがいないのだから、もはや時代の科学水準から言ってもだましきれるものでは決してない。はっきりしているのは、この暫定基準値とやらがどれほど批判されてもされすぎはなく、そもそも安全性を保証するためのしくみではなく、単に賠償責任を悪意ある資本家が逃れようとする意図で決められているという点である。
だから何世代かかってもかならずや全賠償責任を東京電力株式会社という法人ならびにその業務をうけつぐ法人格に該当する者へ徹底追及しきるべきだ。なぜなら、特にこの資料(ならびに少なくとも各都道府県の発表した計測値)が教える如く、現実にわれわれの郷土はまったく悪意しかない第三者、つまり東京電力株式会社からチェルノブイリ事故をこえたレベルに汚染されたのである。しかも我々には恩恵は何一つも、まったくなくだ。これは完全なる大公害であり、死でつぐなってすら足りない大事件であり大事故、しかも十分な想定できる危機への備えを怠って利潤をおいもとめた悪人らによる人災なのだ。
追記:『国が設定した暫定基準値安全精度の検証』
食品別と放射能別の微差を除いて単純計算では、
500Bq/kg=0.011μSv/kg
(∵http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg
2000Bp/kg =0.044μSv/kg
∴ 500Bq/kg=0.011μSv/kg )
ここで、一日の摂取kgを2kgと仮定し、われわれ「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝は0.022μSv。
×365(日) = 8.03(μSv)
かつ、http://overview.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html
http://no-micro-wave.seesaa.net/category/9975142-1.html
これらの資料から
一日の摂取kgを2kgと仮定し、同様に「強制避難」域の一帯に最もありえる危機としてすべて暫定基準値ぎりぎりに汚染されたものだったとすると、1日あたりの内部被曝量は9.8μSv×2kg=19.6μSv こちらの方が厳しい値なので採用し、
×365(日) = 7154μSv = 7.154mSv すなわち 年間に最大7ミリシーベルト の内部被曝がありえる。現実にこの場合は少ないとしてもまったく不注意のままだと起こりえることも確かだろう。国の暫定規制値で想定している年間5mSvは、仮にそのまま20年間生活したときに放射能危機の閾値なしモデルによれば、発癌あやうさの上昇がありえると臨床例からはっきりしている100ミリにいたるという判断(20年間、現地で摂取されるのが今日のままの食品でなければ何とかなる)からきていると考えられる。
追記:『暫定基準値食品を継続的に摂取した場合の(チェルノブイリ事故時では強制避難域にある地域における)健康被害の精度ある数理予測』
http://kamomenome.exblog.jp/13553115/ と http://kitaibaraki-guide.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/9-kitashio-c6b0.htmlから、毎時2マイクロシーベルトを通常の空間被曝量とみつもると、この地域での年間被曝量は1.8ミリシーベルトを計測しうる。
=1.8mSv/y
これまでの(すくなくともこの市域の)累積被曝量は http://kamomenome.exblog.jp/14066284/ より、3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSvなので(ここには計測されていなかった3月12日のはじめのメルトダウン時そのものの値が含まれていないのに注意すべきだ。この計算では除くが、のちに(独)日本原子力研究開発機構から発表されたWスピーディの拡散予測データでは厳密には3月12日時点でも周辺住民に被曝量がみつもられるところから、軽視したり無視すべき値ではない。精確な数値が出れば更に加えねばならない)、+0.6ミリシーベルトとして、総被曝量は
=1.8mSv/y + 0.6mSv = 2.4mSV
つまり、前述の年間7mSvという食品による内部被曝量はここに加えられねばならない。
もし年間での変動率をとれば
1.8mSv/y + 7mSv/y = 8.8mSv/y
が、すくなくとも想定できる基本的な年ごとの被曝量(内部被曝を含む)。
仮に現在の暫定基準値のままで通常の食生活を続けて行けば、
100mSv-0.6mSv=99.4mSv
99.4mSv ÷ 8.8mSv/y = 11.295...y ≒ 11y
∴はやくとも11年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
同様の計算手段でさらに、乳幼児や幼児は4~6倍の被曝による影響があるとしてより厳しくみつもると、
100mSv - 0.6mSv × 6 = 100mSv - 3.6mSv = 96.4mSV
96.4mSv ÷ (8.8mSv/y ×6) = 96.4mSv ÷ 52.8mSv/y = 1.825...y ≒ 2y
つまり、幼児の場合は同様に2年後には最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
ちなみに幼児において食品のみは外部の汚染されていないものからとりいれ、空間線量のみでの100ミリ超えを予測すると
96.4mSv ÷ (1.8mSv/y × 6) = 96.4mSv ÷ 10.8mSv/y = 8.925...y ≒ 9y
よってこれは現在の状態がつづけば、という仮定だからほかの原発をふくめ再臨界でよりひどい被害をともなったり、あるいは逆に収束しきった場合はのぞくが、既に出生してくらしている幼児と乳幼児についてかれらの9年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
また96.4mSv ÷ 1.8mSv/y = 53.555...y ≒ 54y ∴成人の場合は54年後には、空間線量のみでも最初の(発癌を含む)健康被害の具体的臨床例が発生する可能性がある。
これらの計算結果は、現在の政府方針が賠償責任のがれを優先させ、国民の命をすこしも、あるいはほとんど重視していないという悪質な性質をしめしあわせている。もし本当に子を持つ親なら、この予測をできる能力があれば、すくなくとも幼児については強制避難を宣言するべきだ。*2
さらに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3の「蓋然性に関する検討(被曝量と胎児の障害との相関について)」から胎児に生じうる重度の知能遅滞について広島大の例をひけば、暫定基準値ぎりぎりの食事を続けていたという場合を想定すれば4.4%というかなり高い確率がありえる、と考えられる(この調査では5mSvが閾値なのでもしまったく暫定基準値ぎりぎりに達した食品摂取をしなければ0.8%の発生確率。率として3.6%の、胎児の被曝による危機増加があった)。要は、すくなくとも(市内であれ市外であれ)継続的に暫定基準値ぎりぎりの食品を摂取しつづけると、もしそれが妊婦であった場合その出生児には3.6%分の重度の知能遅滞が、人類の過去の経験として発生しうる、といえる。だから逆にいえば、この市内で生活していても初年度である今年に年間2.6ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝、そして来年度以降も年間3.2ミリシーベルト以下の食品からの内部被曝にとどめれば、知能遅滞の発生率が特段に上昇する事は経験的かつ過去の臨床例からありえない。*3
さらに安全策をとれば、受胎後0-7週、または26-40週で被爆した人では知能遅滞した新生児発生率の上昇は全く見られなかったという経験から、受胎後8-25週というこの胎児にとって被曝に敏感で重要な期間には妊婦が一切の食物を無被曝のものへきりかえる、という次善のてだてが有効だろう。
こうして、致命的な健康へ及ぼし得る悪因と危険は実は空間線量よりも、‘暫定基準値’という賠償逃れの画策(もし当人ら経産省の高官による確率的危機の軽視がその原因だとしても)であざむかれた汚染食物による内部被曝量だと認識できる。
暫定基準値食品は非人道的な対応である、という面はどれほど強く経産省の事実上の内部組織な状態が続いている原子力安全保安院が非難されても足りない(倫理の堕落という一点へ)し、結局は大公害をおこした主体の東京電力株式会社こそそのすべての賠償責任が追求される相手でなければならない。もし東京電力株式会社さえ自然と人間を(かれらがつくりあげた経済という相互奉仕の為の共通貨幣取引にとっての)めさきの利潤より第一にかんがえるまっとうにして常識ある法人格なら、すべて経産省とその組織の一部であった原子力安全保安院の退廃もみられなかったはずなのだから。ちなみに無限責任会社な以上、かれら法人格を構成するすべての成員(当然、株主総会での経営参与権から株主を含める)の全財産はこの無限責任の範囲に入る。
―――
��1 まあはっきりいえば某都知事ひとりが震災直後に、悪しき利己本性全開に賤しさ極まりないジャイアニズム示したって話にかぎりなく近い(事実上の首都という大義を悪用して被災地を先に停電させようとした。なおかつ以前から仙台都市圏へ教師の奪取などの悪質な警戒を示しておきながら、かなりの悪意ある文脈から単なる自然災害をおのれの悪徳と生前の悪行悪業にかこつけ天罰とほざいた。それらにくわえ、震災直後からみずからの出身地である神戸市の議員と密着して大阪府知事と、避けようもない東北の天災の弱みに付け込む第二首都構想をその都市圏のみの方向で進めさせようとしてきた)が、それは彼の小説と同じくいつものごとくなのでこの際問うまい。結局、現在の日本最大の商業地としての人口過剰な東京都民の総意へ再三示される残念な民度といおうか文明度、市民度の課題にすぎないので多くの読者もしくはかもめ(ハマっ子ではない)にはいわずもがな。それはそれとして、どちらかといえば真の問題はマスコミのほとんどがこの不善(東京資本の横暴もしくは電気を用いた報道権力の濫用)をすこしも認識できなかったことだ。はなはだしい被災をともなった痛々しい歴史の教訓だが、「ジャイアンに付き従う者はおのずとその従僕となる」のである。
この点でも関東圏をこえて人類史の王道を保つ為に、茨城資本が独自のマスメディアを構築し、可能なかぎりその勢力を国際化しておくのが絶対に有力で必需。さもなくばいつでも同じ最悪さが国内で暴走しえるので。なお関西や中京、ほか九州のメディア、あるいは山口県あたりの某資本もこの点では十分な信頼性をもたないか、すくなくとももてていなかった。なぜならほかの下らない番組へはスポンサー契約したり震災直後も平気でかなりくうものにも困りかけていた被災地へ宣伝しておきながら関東の諸番組への冷遇や被災した企業への値切りを平気そうにしたし、それ以前に尊きものをパロディあつかいにからかっているCMを自慢したり、さらには避けようもない公害の犠牲になった善意の農家そのものを揶揄した。かといって東京資本がなにやってたかといえばこっちはこっちで余震に震える死んだ人のいる被災地へAKB選挙ワイドショーを大のおとながみんなでやっててなおひどかった、コメンテーターの悪質なお世辞なんかほとんど死んだ方がいいみたいに見えた。これらのすべては悪徳しか示していないと見えるし、実際に自分の観察が正しければ彼らにはほかの海外(すくなくとも先進国)のマスメディアよりはるかに低い程度のmoralityしかみいだされなかった。辛うじて関西の一部のニュース番組では、中央官僚と中央政府へのほどひどいあてつけや愚弄が徹底したみられた、また近場からきた役者を福島県へ直接配置させ取材した(あるいは当役者からのオファーに着いて行っただけかもしれないが)くらいのはなしだった。
これらの歴史的検証からは、すくなくとも日本国内のどこかしらの他人の資本に頼って公正なマスメディアをつくろうとしてできるものではない。先ずみずからつくりだすにくわえ、海外のマスメディア、特にBBCやCNNとも組み独自の「透明性の高く、偏見の少ない」報道をできる社会体制を築き上げるしか道はない。たとえば茨城新聞すら、現地の市井の一もしくは複数市民とはまったくちがった見方といおうか、当時の新聞をたどればわかるが一週間音沙汰もなかったなにやってんだ市長、税払ってるのはこっちだ、市役所員は市民奉仕そっちのけで保身と官尊民卑でどっち向いてるをなぜだか英雄視させる「事実・客観的真実・真相と異なった」物語みたいな矛盾じみた記事を書いていたのである(おそらく彼ら既存茨城の人口流動性の低さによる環境収容されたいつもの同族意識からの肩を持った偏見で。しかしそれは公正ではないし、かえって相手にもよくないわけだ。「真実の友情とは相手の善を責める事である」)。かれらの実力のなさにくらべて誤解をまねくばかりか真実性をもあまり含んでいない偏見報道によって公式化されれば、すべてはますます危険。震災直後も書いたが、この自治体は高萩市に異論がなければ日立市に編入させた方が善い。職員の知的程度と公僕意識が低すぎるから。勿論、北茨城市そのものには童謡がうまれたことでもわかる平穏素朴な田園都市としての独自のよさがあるが、市役所の職員や高萩署の警察官の低い程度にはその為のすべての条件がととのっていると思えてならない、というかととのっている。たとえば日立北区として広域市政を日立市役所の一部の部署でやってもらうか、すくなくとも日立市役所へその仕事の方向性決定本部、計画局を統合すべきだ。それで役人は自分らよりすぐれた人材をみるにつけすこしは程度が上がるだろうし、日立市そのものにとっては仕事量そのものはどうせ同じ別の市の人たちがやるのだからあまりかわらないが財政規模の拡大によってとりえる選択肢が広がる。
でこれらの実例はすべて資本主義報道の限度、もしくは利潤追求によっては決してjournalist個人の持ち得る強度の真実性を持てないと教える。だから、記者クラブもそこからでて派生していった枝葉のごとき借り物情報では、完全に真相をうがった記事にはならないという集団主義的会社からの報道の仕組みの限界があるわけだ。(当然、当時のツイッターでいくらかみられたことだが、逆にそれを記す個人の質が低い場合は実証的ではないかえってひどい虚偽やかたよった誇張、デマとよばれるだろうそれをもゆるしてしまう問題点があるのだが。)
とかく東京系マスコミではNHKだけは偏った意見や番組を避けていただけいくらかましだったが、残念なことに当時の内閣のひどい状態が反映され、某長官は事実上の虚偽(メルトダウンはしていない)を毎日毎日テレビ会見で流していた。かんがえてもみれば一国の政府、しかも一応は先進国といわれているそこがうそを平気でつきまくったというのがあのときの真実だった(ついた当人の意思にかかわらず)のだから、まことに日本という場所、特に公的機関の紛れ様もない悪質性もしくは愚鈍には注意がいる。なぜ困難な国家試験をへてもそういう体制しかとれないのか、科挙の幣風をまざまざとみせつけるには日中韓の儒教化された国々ほど適切な汚れ役はいないだろう。かれらの中でのよしあしも、また世界規模の政府単位や先進国間では井の中の蛙というわけだ。とはいえフランスやイギリスの官僚制が日本のそれより断然な合理性をもつともいわないが、日本よりはその科挙制からくる特徴が緩和されているのも確からしい(フランスは微妙だが、特にイギリスの内閣と首相直轄機関が学者を外部から招く慣習)。
つまり、その時点の中央政府あるいは国家政府に頼った報道体制はきわめて危険でいつでも情報操作されてしまうというのが歴史の真相だったし、なおかつこの外注はすべてその地域資本、都道府県の偏見に侵され悪用されるのが世界の現実ということだ。アメリカWhite Houseの構築している特定の政府ににぎられるおそれのない独立した情報機器、というものが市民権の意義には絶対に必要だとどれほど強調してもたりない。しかもこうして、日本ではその必要性はかぎりなく高い。
��2 どうしてもできないとき、こどもへ重度の喫煙者かかれらと同居程度の身体の健康への負荷を科している事になる。次のページの「人体に対する影響」を参照せよ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D。
��3 ちなみに、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4によれば、通常ありえるダウン症の発生率は母親の出産年齢が25歳で1/1200≒0.08%、30歳で1/880≒0.11%、35歳で1/290≒0.34%、40歳で1/100≒1%、45歳で1/46≒2.17%という研究報告があるらしい。ここからも3.6%の発生確率の上昇という、5mSvの胎児被曝による閾値からの重度知能遅滞の増加率はかなり大きな健康被害になるのがたしか。それはまちがいなく、公害か人災での賠償や、つぐないの対象となりえるものであり、追跡した県内や市内、ならびに東京を含め東日本一帯在住者への健康調査が必要極まりない。かりにこの3.6%の増加がみられた出生児についてこうして緻密に調査をつづけ責任追及しつづけないと、いまの東京電力株式会社の体質では寡占企業特有の傲りから責任を軽視しかれらへの賠償と、ながらくのこころからの事故への謝罪とその反省と体制改善努力から逃れるだけだ。
さらに、ここで臨床医学的にとっている仮説のたちばは、「経時治癒仮説」か「すこしずつなおる仮説」というべき、年間に5ミリシーベルトへ一度に到達しなければその時点までの傷はからだが癒すはず、なるとある楽観をともなった観測だ。もしそうでなければ、生涯の蓄積率として多くの宇宙や航空従事・医療従事の被爆者はそれが原因でおそらくいままでにも亡くなっているはずだからだ。もし運よくこれらの仮説がこの事故のあとで我々の犠牲によって検証されることになるならば、後世の人類は蓄積線量についての臨床例をその医師行為のなかで応用できる、よりはっきりした知見に近づくだろう。