ぎふの女の中学生がはだかんぼの同級生女の写真をイジメ送信で少年院送りみたいなニュースみた。けど、じぶんがこの地域で育った感想をいえばこんなのこのあたりでも普通にやってるがみつかってないだけだと確信する。きたいばにイジメというのはもう完璧にありまくったし、それは馬鹿すぎる教師が半分くらい煽ってるのだ。ターゲットを教室で規定するみたいな、「この人はおかしいですね、みなさん」みたいな空気とか平気でつくるし、中学ともなれば教室裁判みたいな事態へ発展させて公開処刑とかしてた。絶望的にクソな学校で、教師があれなので誰にも相談できなかった。このへんの親は狂信者みたいなもんで、教師=聖職みたいな古代幻想をひきずってるから手に負えない。
要は「チクり相談所」みたいのを、メアドでもいいから市がもっとくべきだと思う。で、めっちゃ周知しまくる。現状では私の提案とかいかにも相談するには手軽じゃなさすぎる手段しかなく、もっといえば目安箱の方が重要なわけだ。俳句ポストはこの問題へは風流すぎて使えないだろう。
そういうあきらかなチクり奨励策がなければ隠蔽しかしない市民性だ。逆にいえばムリにでもチクりまくること、たとえば市の広報へ投稿する、あるいはじょいふるとかああいう市報系の情報誌へ寄稿しまくる、実際子どもがどれだけそういう判断力あるかったらほぼ足りないだろうから、その場合は親へチクって事態を解決した実例をおおやけにほめて、チクればチクるほど世の中は良くなるのだという事例へするしかない。
しかしそうなったらそうなったで、特にこのへんの土着した子ども系の女はまちがった使い方をするだろう。これも自分が地域のニンゲンを長く観察してきたから予想できるが、たとえば無知のあまり本来はすぐれた業績をわざとわるく言うとかそういう悪用もばんばん起こるはずだ。
具体的には重要な訴訟を準備している誰かの家庭の機密情報をもらして事前に正しい行いをわるくわるく言ってつぶそうとするとかね。しかしそういうのは情報漏洩と言うし、プライバシーの侵害と言い、立派な犯罪だ。要は「何もしないよりは、サイアク中のサイアクの事態を避けれる可能性が上がる」点でしか推奨できない。だからそういうチクり相談所へ置くのは、最低でも市外、できれば県外の有識者(法律の知識とカウンセリング系心理学の資格があるような)をもちいるべきだ。そうでないとこの人物すら悪意をさとれないというか、きたいば的偏見を平気でつづける危険性が高い。特にこのへんの教養のきの字もないうえ気が荒いだけのどうしようもないイバ女か、水戸くさい簡単な刺激で怒りまくる冷静さの足りない県民性をせおった年長の男性。この二者をゼッタイにそういうたちばへ置いてはいけない。置けば悲劇だ。
教員募集のラフさはもうなにを言っても市の教育関連職員が阿呆なら救えないというか、ああいうイジメ先導をしている教師が現に現役で市内の学校でめしをくってるわけで、これはもう本当に絶望するしかない。だからここいらのクソすぎる学校へ行くな、行く奴は覚悟しろというのは当然で、あとはどう市の教育委員会を責めて責めて責めまくり降伏させるかしか道はない。どれだけ責めても責めすぎはない。必ず言い訳、校内犯罪の隠蔽、かつ言い逃れが末路だ。それがこのクニのもとの教育体質で、ひどい場合は教師集団自身がみつからないような暴力をふるって(あるいは最低でも暴言での生徒脅しで)状況を悪化させたがる。実際、自分が体験してきたとおり弱い立場の生徒へは暴力で物をいわせていたのだからこれは間違いない。
水戸黄門のみすぎで暴力を肯定しており、土台あたまがおかしいのだ。まったく救えない場合は教員を裁判所へ訴えるしかないし、やはりこの地域ではそうしてのみイジメは最終的解決にいたるはずだ。
2010年6月29日
2010年6月28日
田園のまちづくり計略
あれだけの田園面積がさっさと売りに出されたわけは、その方が儲かりそうだからというにすぎない。要は農業の方が儲かればヒトは単純でそっちをやる。つまり中心市街でもなけりゃ田園地帯の方が市の景観でも情趣面でもいいというなら、民主的な市政の工夫でそっちのが儲かるように誘導するしかない。この手は早い方がいいとみた。
どうせ潰れれば荒地になってかえってすべてがわるくなるので、今後も車道沿いの農家が目先だけみて資本家に売る=実質では田園が乱開発でつぶされる可能性が高い。しかも数年で潰れるのは目に見える。国道沿い、中心市街地でも同じ現象が起きたのだから当然予想内だ。飽きればなんの留保もなしに打ち捨てられ、ただの薄汚れた救えない荒地が残される。
まるでこの世知辛すぎる半開社会での、どいなか底辺ミニスカorタバコ高生の端から終ってる末路の様だがそれはいうまい(言っている)。ま、居直って勉強をつづけてくれれば希望もあるはずだ。まれなのぞみと書いて希望。
で、農業でこの辺が儲かるためには一つしか道はなく、それは産直ブランド化だ。しかもそれには筑波とか、茨大農学部がすでにある土浦とか、ああいう高い化け学技術系の発展が約束されてる土地でもいまんとこないから、追い着き追い越すには「めずらしい品種」を育てるしかない。技術は平凡かもだが目の付け所が違う、という意味でのブランド化しかないというわけだ。
ガラス工房とかいうのもそういう地域性というか、こまやかな自然環境のせいで美意識がするどい点を活かしていこうという姿勢がみうけられる。というかそれしか今んとこ発展のための手段もなにもないのだ。磯高は下限がひどいのでたまたま入った秀才は大変だろうが、大抵の大秀才は周辺の別の進学校から都心へ出てってしまうので、やからにでも分る品種改良をみちびくしかない。だから高度な技術よりは、趣味のよさに懸けるしか今のところはない。
産直というのは、常磐自動車道一本で運ぶにも福島浜どおりから県央と西は栃木までが限度だろう。こないだあおもりの出稼ぎの方がきてたと書いたが、あれは遠出すぎてこの辺の雰囲気が理解できてない感じが失敗っぽかった。梅雨に手作りリンゴjuice売ろうってのが、スーパー間の競争が少ない地域との理由差でもある。
つまりはキタイバの農協がめずらしい品種がありますよ、という売り方でいきのこるのが妥当。市のホムペにあやめを減反でも植えましたという利口な記事が載ってたが、そういうことでしょう。高萩駅前みたいなのが想定内の末路。それ以前にあれらの将来の荒地へどうやって気候に合った特別な品種を育てられるかが優先事項。生花でも当然いいだろうし、なにかバイオマスみたいな分野へ投入する雑穀でもありえる。
とにかく身近に高級な化学農法みたいな知識をもってきてくれる機関が今あるでもないわけで、いわきでは一部にみられる大規模ハウス栽培の導入とかを煽るのも、多分農地面積でいえばいわきや県央以南よりずっと不利なのでありえない。狭い面積ゆえかえって繊細な育て方ができましたみたいな焦点を狙うしかないと見る。
どうも近代の市史の方角としては美術・芸術関係者が来る機会が多い土地柄みたいだし、転作系なら生花市場をねらうのが理にかなうのではないか。
それならまさに田園としか言えないわけで、咲いてる状態でも綺麗なので、画家も詩人にも大うけなのはまちがいなく、情操教育というもっぱらの磯高生への課題にも合致する。
��ま、花咲いてるだけでは話にならないがなにも咲いてないよりは蜂や蝶みたいなものでましに感じるかも。それならおはなしにならん犬じゃねーんだぞな抱きつき如きを人前で誇示されてもかなわん話なので、詩やら曲やらの一つも高校生の分際でつくりだす確率があるわけ。)
むしろ公園と兼ねてその共有地化した農園内に入るにちょっとした入場料(百円とか。年間パス千円とか)とって常駐管理するとかね。
そういう場所もひたちなか海浜公園の改良バージョンだが、どっかにはありそうなものだ。そうすりゃ開発前提の中心市街地への、遠出客のついでの回遊効果も十分ある。つまり生花市場を兼ねて、ああいう田園地帯をなんらかの広域な構想で守ってく方がいい気がする。
もしほっとけばあのへん高層住宅とか乱立しかねないし、そうなったら日立あたりの山あいみたいなのと変わりなくなってきて、この辺の独自さが保てない。
つーかもともとの考えが綺麗なので自慢できるところを伸ばそうって話だから、このへんを先々に超大都市の仙台超え一大都会にしちゃいたい人には話が通じないかもしんないが、それならそれでどうやって港町系の横浜や神戸や上海のあの規模に勝つかって話だがまるっきり大幅に遅れてしまってるし、人口比の将来予測からしてもよほどの天変地異がなけりゃそれはありえないし、個人的にも嫌。人口がふえれば、今でさえもっと生活排水浄化で川とか海辺をキレイにしたいのにますます汚くなるわけだから。
育てる品種としてははじめはもとここいらの山奥に群生してた水芭蕉、あやめ、あかねからはじまって菖蒲、かきつばた、或いは市の花のしゃくなげ、或いは県花のバラでこういうのを豊富なイギリス或いは市でつながりあるニュージーランドあたりからえりすぐりでもらってきて(もちろん強壮すぎる外来種は比弱な在来種を駆逐しがちだから、最大限の慎重さと事前研究を前提にして)、いずれは独自品種の確立をめざして徐々に交配の知識へ進む、というこの辺りではないか?
よくみればいろんな花が咲いてる市なので、海・山・川のコーナーみたいにすれば単にとってきて植えただけでもとても多彩に見えるだろうし、実際におどろくほど多彩なのだ。もともと群生してたのは、ここいらの気候で合ってるから生えてたのだと思う。だからそれをきっかけにするのが賢い。
それとも大昔に誰かがわざわざ植えたということもないのだろうけど。誰かがこういう将来を見越してあそこまで種を持ってったのだろうか? かもめが。という。
あと滋賀のどっかの女性の市長がいるところで菜種の栽培でバイオマス発電やってたから、「輪作」というアイデアをとりいれれば、いちねんじゅう咲かねばならんもんじゃないのが世阿弥もいう花というものなので「有閑期に菜種」はありだと思う。それで市のエネルギーくらいはタダ同然でまかなえる話にこれからまちが縮小すれば、なると思う。循環型という市の計画にもあってるし。
が、生花市場にもライバルな既得権が千葉の南房総はじめ結構いるわけで、相当戦略的・計略的というか巧妙にやらないと失敗しておわりだ。市でやるならそれは市民全員に責任かかってくる話で、農協へあらましだけ提案しておわりのが気楽かも。
おもっき市営でやろうとすると、経営的にはほぼ百パー失敗する。甘えるから。つまり必ず経営そのものは、株保有権をのぞいて委託でやらないとゼッタイ長くは続かないはず。青少年の家も経営がうまく行かずに潰れてしまったわけで、これは予言できる。
どうせ潰れれば荒地になってかえってすべてがわるくなるので、今後も車道沿いの農家が目先だけみて資本家に売る=実質では田園が乱開発でつぶされる可能性が高い。しかも数年で潰れるのは目に見える。国道沿い、中心市街地でも同じ現象が起きたのだから当然予想内だ。飽きればなんの留保もなしに打ち捨てられ、ただの薄汚れた救えない荒地が残される。
まるでこの世知辛すぎる半開社会での、どいなか底辺ミニスカorタバコ高生の端から終ってる末路の様だがそれはいうまい(言っている)。ま、居直って勉強をつづけてくれれば希望もあるはずだ。まれなのぞみと書いて希望。
で、農業でこの辺が儲かるためには一つしか道はなく、それは産直ブランド化だ。しかもそれには筑波とか、茨大農学部がすでにある土浦とか、ああいう高い化け学技術系の発展が約束されてる土地でもいまんとこないから、追い着き追い越すには「めずらしい品種」を育てるしかない。技術は平凡かもだが目の付け所が違う、という意味でのブランド化しかないというわけだ。
ガラス工房とかいうのもそういう地域性というか、こまやかな自然環境のせいで美意識がするどい点を活かしていこうという姿勢がみうけられる。というかそれしか今んとこ発展のための手段もなにもないのだ。磯高は下限がひどいのでたまたま入った秀才は大変だろうが、大抵の大秀才は周辺の別の進学校から都心へ出てってしまうので、やからにでも分る品種改良をみちびくしかない。だから高度な技術よりは、趣味のよさに懸けるしか今のところはない。
産直というのは、常磐自動車道一本で運ぶにも福島浜どおりから県央と西は栃木までが限度だろう。こないだあおもりの出稼ぎの方がきてたと書いたが、あれは遠出すぎてこの辺の雰囲気が理解できてない感じが失敗っぽかった。梅雨に手作りリンゴjuice売ろうってのが、スーパー間の競争が少ない地域との理由差でもある。
つまりはキタイバの農協がめずらしい品種がありますよ、という売り方でいきのこるのが妥当。市のホムペにあやめを減反でも植えましたという利口な記事が載ってたが、そういうことでしょう。高萩駅前みたいなのが想定内の末路。それ以前にあれらの将来の荒地へどうやって気候に合った特別な品種を育てられるかが優先事項。生花でも当然いいだろうし、なにかバイオマスみたいな分野へ投入する雑穀でもありえる。
とにかく身近に高級な化学農法みたいな知識をもってきてくれる機関が今あるでもないわけで、いわきでは一部にみられる大規模ハウス栽培の導入とかを煽るのも、多分農地面積でいえばいわきや県央以南よりずっと不利なのでありえない。狭い面積ゆえかえって繊細な育て方ができましたみたいな焦点を狙うしかないと見る。
どうも近代の市史の方角としては美術・芸術関係者が来る機会が多い土地柄みたいだし、転作系なら生花市場をねらうのが理にかなうのではないか。
それならまさに田園としか言えないわけで、咲いてる状態でも綺麗なので、画家も詩人にも大うけなのはまちがいなく、情操教育というもっぱらの磯高生への課題にも合致する。
��ま、花咲いてるだけでは話にならないがなにも咲いてないよりは蜂や蝶みたいなものでましに感じるかも。それならおはなしにならん犬じゃねーんだぞな抱きつき如きを人前で誇示されてもかなわん話なので、詩やら曲やらの一つも高校生の分際でつくりだす確率があるわけ。)
むしろ公園と兼ねてその共有地化した農園内に入るにちょっとした入場料(百円とか。年間パス千円とか)とって常駐管理するとかね。
そういう場所もひたちなか海浜公園の改良バージョンだが、どっかにはありそうなものだ。そうすりゃ開発前提の中心市街地への、遠出客のついでの回遊効果も十分ある。つまり生花市場を兼ねて、ああいう田園地帯をなんらかの広域な構想で守ってく方がいい気がする。
もしほっとけばあのへん高層住宅とか乱立しかねないし、そうなったら日立あたりの山あいみたいなのと変わりなくなってきて、この辺の独自さが保てない。
つーかもともとの考えが綺麗なので自慢できるところを伸ばそうって話だから、このへんを先々に超大都市の仙台超え一大都会にしちゃいたい人には話が通じないかもしんないが、それならそれでどうやって港町系の横浜や神戸や上海のあの規模に勝つかって話だがまるっきり大幅に遅れてしまってるし、人口比の将来予測からしてもよほどの天変地異がなけりゃそれはありえないし、個人的にも嫌。人口がふえれば、今でさえもっと生活排水浄化で川とか海辺をキレイにしたいのにますます汚くなるわけだから。
育てる品種としてははじめはもとここいらの山奥に群生してた水芭蕉、あやめ、あかねからはじまって菖蒲、かきつばた、或いは市の花のしゃくなげ、或いは県花のバラでこういうのを豊富なイギリス或いは市でつながりあるニュージーランドあたりからえりすぐりでもらってきて(もちろん強壮すぎる外来種は比弱な在来種を駆逐しがちだから、最大限の慎重さと事前研究を前提にして)、いずれは独自品種の確立をめざして徐々に交配の知識へ進む、というこの辺りではないか?
よくみればいろんな花が咲いてる市なので、海・山・川のコーナーみたいにすれば単にとってきて植えただけでもとても多彩に見えるだろうし、実際におどろくほど多彩なのだ。もともと群生してたのは、ここいらの気候で合ってるから生えてたのだと思う。だからそれをきっかけにするのが賢い。
それとも大昔に誰かがわざわざ植えたということもないのだろうけど。誰かがこういう将来を見越してあそこまで種を持ってったのだろうか? かもめが。という。
あと滋賀のどっかの女性の市長がいるところで菜種の栽培でバイオマス発電やってたから、「輪作」というアイデアをとりいれれば、いちねんじゅう咲かねばならんもんじゃないのが世阿弥もいう花というものなので「有閑期に菜種」はありだと思う。それで市のエネルギーくらいはタダ同然でまかなえる話にこれからまちが縮小すれば、なると思う。循環型という市の計画にもあってるし。
が、生花市場にもライバルな既得権が千葉の南房総はじめ結構いるわけで、相当戦略的・計略的というか巧妙にやらないと失敗しておわりだ。市でやるならそれは市民全員に責任かかってくる話で、農協へあらましだけ提案しておわりのが気楽かも。
おもっき市営でやろうとすると、経営的にはほぼ百パー失敗する。甘えるから。つまり必ず経営そのものは、株保有権をのぞいて委託でやらないとゼッタイ長くは続かないはず。青少年の家も経営がうまく行かずに潰れてしまったわけで、これは予言できる。
2010年6月27日
おかしな話なので
かもめ界も大変だなとおもわれるでしょうが、きのうのつづき。
きたいば的な民営ビジョンとしておもうに、やはり学術先進田園都市みたいなものが目標だと思う。仙台を抜くというのは出し抜くやつらを出し抜くことなので、ある種の成果で最先端に立ってしまう。
西日本の果ての山口県という場所がある。昔は長州といわれてた場所だ。そこは維新のころイギリスと関わったので、かなり先鋭な文化を盗めた。スコットランドまで秘密裏に藩士を留学させてたりね。が、ぼくかもめの目でいえば、山口と張れみたいなのはない気がする。
文化の構成が違いすぎ、目指すべき地点も違う。毛利元就の時代から、山口付近は「反幕府」という姿勢で貫かれてる。その辺がもうわれわれとはとても違うので、これは決定的に将来像も違うはずだ。
より詳細にいえば徳川方と秀吉方では文化面でも大きく違ってしまった。大坂に根城があった人物と、三河出の江戸住まいでは影響を与えやすい地域も東西に分かれた。で、やはりわれわれは(というよりか、かもめの一匹は)秀吉文化に親しんできてないのでどうも考え方が違う。反幕府というのも実感がないのがその証拠だろう。中にはそういう人もいるだろうけど。
結論からいうと、歴史の流れからすると幕権を、つまり当時の実質的政権を尊ぶのは当然に思える。だからライバルはその流れの中にいるので、長期的には山口はライバルでない。遠すぎる上、文化が目指している地点が違いすぎる。東京に負けるなという意味がよく分らないし、勝つ動機づけも土地の歴史には特にあるでもない。
強いていえば佐竹減封とかだがそれは徳川家のあらたな伝統でうちけされている。つまり単なる伊達にゃあ負けてられねえという気持ちは湧きやすいが、徳川打倒というのはよく分らん。いいじゃんとすら思うし。関西から遠いので京都文化に親しんでないのが地域の特徴で、国際化にあたっても特別な利点な訳だ。
その意味で、今は素朴路線でやってるがやはり首都圏に近いだけに永遠に素朴一本でやってけるとはいいきれないだろう。本当の素朴(というか未開)とはムラの外のことは何も知らないわけで、テレビみてる以上はその影響下に入ってしまう。
普通に駅前まで多摩や横浜から旅人か誰か(善人悪人含む)が来れる地点にあるのだし、いくら鄙びた世界にしようと思っても平気で入ってこられるほど交通方法が開放されてる以上ムリだ。交通の用地になりやすい海辺の土地とはそういうものだし、ある意味で地元人にされている天心からして中央美術界の人物だったのだから、以前から完璧な鄙社会ではないのだ。
ぼくが言いたいのは、「田園都市でありながら先進化」するのは可能で、それは仙台都市圏のいろんな例を参照しつつ小柄な目立たなさを長所に、巧妙に出し抜くみたいな方法で大体オーケーだろうってこと。
先進の定義によるかもだが、大都市equal先進ではないはずだ。それに商業化equal先進ともいいきれない。まえも書いたが(かもめペンで)、規模じゃなく質をめざせばいいだけ。市域エコバック必須とかはその例。あの都市の規模でそれはしにくいのだ。
もっぱら重要なのは、どう市民の学問・教養の底上げするかってことだろう。仙台と比べて見劣ってるか、決定的に遅れそうなのは今んとこそこかなって感じだ。他はあまり変わらないし、美術館の出来とか自然自体の綺麗さではずっと勝っている。ぼこぼこビル建てまくったり地下鉄ぼこぼこ通すのはどうなのと思えるくらいの。
こないだ書いたが(かもめペンで)、放送大学を市庁舎か、又は図書館の自習室・視聴覚室あたりで常時流すくらいはしてもいいのではないか。(内容がわるいものではないので童心つぶすみたいなことにはまずならないはず。そもそもできのいい中高生以上しか興味をもたないだろう。)
首都圏では普通に流しているので、単に地上波では電波がここまで届いてないだけで利用は誰でもできる。どっか関西のガッコが校内で自由閲覧用にながしてた。そんなのやっていいのだ。設備投資費も、もし図書館設置なら簡単なテレビと受信用のアンテナだけだし数十万単位でおしまいだろう。できれば磯高の利口なタイプが利用できるように高校と単位互換で市が協働か相談できれば最善かもしれないが。
放送大学そのものは国が運営主体らしいからあまり潰れるおそれはないが、万一その設備が将来つかえなくなる可能性をかんがえておけば、市庁舎から市内広域まで飛ばすよりは図書館にきてる自習生とかもどうも結構いることだし、そこへ簡単なテレビ器具だけ設けとくほうが合理かも。もしその受信が不可になっても別のつかいかた、たとえば映像資料の閲覧に転用できるだろう。
きたいば的な民営ビジョンとしておもうに、やはり学術先進田園都市みたいなものが目標だと思う。仙台を抜くというのは出し抜くやつらを出し抜くことなので、ある種の成果で最先端に立ってしまう。
西日本の果ての山口県という場所がある。昔は長州といわれてた場所だ。そこは維新のころイギリスと関わったので、かなり先鋭な文化を盗めた。スコットランドまで秘密裏に藩士を留学させてたりね。が、ぼくかもめの目でいえば、山口と張れみたいなのはない気がする。
文化の構成が違いすぎ、目指すべき地点も違う。毛利元就の時代から、山口付近は「反幕府」という姿勢で貫かれてる。その辺がもうわれわれとはとても違うので、これは決定的に将来像も違うはずだ。
より詳細にいえば徳川方と秀吉方では文化面でも大きく違ってしまった。大坂に根城があった人物と、三河出の江戸住まいでは影響を与えやすい地域も東西に分かれた。で、やはりわれわれは(というよりか、かもめの一匹は)秀吉文化に親しんできてないのでどうも考え方が違う。反幕府というのも実感がないのがその証拠だろう。中にはそういう人もいるだろうけど。
結論からいうと、歴史の流れからすると幕権を、つまり当時の実質的政権を尊ぶのは当然に思える。だからライバルはその流れの中にいるので、長期的には山口はライバルでない。遠すぎる上、文化が目指している地点が違いすぎる。東京に負けるなという意味がよく分らないし、勝つ動機づけも土地の歴史には特にあるでもない。
強いていえば佐竹減封とかだがそれは徳川家のあらたな伝統でうちけされている。つまり単なる伊達にゃあ負けてられねえという気持ちは湧きやすいが、徳川打倒というのはよく分らん。いいじゃんとすら思うし。関西から遠いので京都文化に親しんでないのが地域の特徴で、国際化にあたっても特別な利点な訳だ。
その意味で、今は素朴路線でやってるがやはり首都圏に近いだけに永遠に素朴一本でやってけるとはいいきれないだろう。本当の素朴(というか未開)とはムラの外のことは何も知らないわけで、テレビみてる以上はその影響下に入ってしまう。
普通に駅前まで多摩や横浜から旅人か誰か(善人悪人含む)が来れる地点にあるのだし、いくら鄙びた世界にしようと思っても平気で入ってこられるほど交通方法が開放されてる以上ムリだ。交通の用地になりやすい海辺の土地とはそういうものだし、ある意味で地元人にされている天心からして中央美術界の人物だったのだから、以前から完璧な鄙社会ではないのだ。
ぼくが言いたいのは、「田園都市でありながら先進化」するのは可能で、それは仙台都市圏のいろんな例を参照しつつ小柄な目立たなさを長所に、巧妙に出し抜くみたいな方法で大体オーケーだろうってこと。
先進の定義によるかもだが、大都市equal先進ではないはずだ。それに商業化equal先進ともいいきれない。まえも書いたが(かもめペンで)、規模じゃなく質をめざせばいいだけ。市域エコバック必須とかはその例。あの都市の規模でそれはしにくいのだ。
もっぱら重要なのは、どう市民の学問・教養の底上げするかってことだろう。仙台と比べて見劣ってるか、決定的に遅れそうなのは今んとこそこかなって感じだ。他はあまり変わらないし、美術館の出来とか自然自体の綺麗さではずっと勝っている。ぼこぼこビル建てまくったり地下鉄ぼこぼこ通すのはどうなのと思えるくらいの。
こないだ書いたが(かもめペンで)、放送大学を市庁舎か、又は図書館の自習室・視聴覚室あたりで常時流すくらいはしてもいいのではないか。(内容がわるいものではないので童心つぶすみたいなことにはまずならないはず。そもそもできのいい中高生以上しか興味をもたないだろう。)
首都圏では普通に流しているので、単に地上波では電波がここまで届いてないだけで利用は誰でもできる。どっか関西のガッコが校内で自由閲覧用にながしてた。そんなのやっていいのだ。設備投資費も、もし図書館設置なら簡単なテレビと受信用のアンテナだけだし数十万単位でおしまいだろう。できれば磯高の利口なタイプが利用できるように高校と単位互換で市が協働か相談できれば最善かもしれないが。
放送大学そのものは国が運営主体らしいからあまり潰れるおそれはないが、万一その設備が将来つかえなくなる可能性をかんがえておけば、市庁舎から市内広域まで飛ばすよりは図書館にきてる自習生とかもどうも結構いることだし、そこへ簡単なテレビ器具だけ設けとくほうが合理かも。もしその受信が不可になっても別のつかいかた、たとえば映像資料の閲覧に転用できるだろう。
2010年6月26日
けさおもいついた
カン違いされると困るが、けさ思いついたに、きたいば方針の基本姿勢としては「仙台にマンマーク」してりゃいいのではないか? これは作戦としてはまちがいないと思った。
なんでかっていうと、この辺りって地政的にいわきとひたちの間の圏なのでその両方の文化に影響を受けやすいわけだが、そのどちらも考えようによっては関東圏と東北圏の中間地帯にある。要するに属してるのは名目上も関東だけれど、東北へはどこより目がつけやすい。半分あしをふみいれるかいれないかの要害の地にいると言っていいだろう。
だから雨情の祖父が宿命を背負ったみたいに伝統的にもそうなのだろうが、仙台圏との最北端としての通訳か諜報になる可能性が高い。結論から言うと、関東の戦略としては覇権は持っておきたいわけだから、そのへんはわれわれとしても協力すべきでしょう。
が、われわれ自身の利害からいえば関東に染まりきるのもどうかと感じるふしがどこかにあるはずだ。なにせ半分以上いわきに親しんでるし、商業や観光にもつながりがつよいのは事実で、ある種甘えさせてもらってさえいるので(たとえばいわき市立図書館でもキタイバラキは隣接自治体あつかいしてもらったりしてるわけ。頼んだのでもないだろうに、おそらく好意から)。
ということで、われわれの使命としては自分らとして東北最大の都市な仙台には関東圏の一員として最大限注視せよみたいな所にある気がした。なんでこれを思ったかっていうと、ビジネスホテルアーバンに停まってた車のナンバーが横浜・多摩、で水戸だったから。そんな遠くから何の用事か? いくらなんでもわざわざこの関東の最果てまで。
われわれとして仙台に決して自由にプレイさせなければ関東への貢献は多大なものがあると見た。(その意味で、水戸や東京ふくめわれわれは基本的に関東系の都市とは張らなくていい気がする。張ってもそっち方面の政治・経済界の伸び幅で勝てる確率はほとんどない。
が仙台は大型な相手だが、立地そのものがわれわれきたいばと大変似ており、単に人口が多いだけで前も書いたが「教養の質」みたいな点ではかえって向こうのが不利な条件にある気がする。東北はやはり奥の細道の世界なので、首都圏の情報はほとんど一足遅れてしか入らないのだ。それがわれわれの、都心により近く小回りが利くからずっと有利な点だろう。)
性格として自由にやりたい仙台にとってはその内情や戦法をいつの間にか見透かされるみたいでややこしい相手かもしれんが、地域ごとの競争とは結局そういうものではないか。作戦勝ちが基本だろう。ちょっといわきへ行けばすぐ東北圏の主要情報は手に入るのだから。われわれは仙台へ照準してつねに動向を何歩か先駆けるようにしてれば失敗しないと見た。
どうでもいいことだが、ツバメはとてもかっこいい鳴き方をする。けさ聞いた。あの体格でああ鳴くとは。かもめもちょっとビビるほど鋭い。
なんでかっていうと、この辺りって地政的にいわきとひたちの間の圏なのでその両方の文化に影響を受けやすいわけだが、そのどちらも考えようによっては関東圏と東北圏の中間地帯にある。要するに属してるのは名目上も関東だけれど、東北へはどこより目がつけやすい。半分あしをふみいれるかいれないかの要害の地にいると言っていいだろう。
だから雨情の祖父が宿命を背負ったみたいに伝統的にもそうなのだろうが、仙台圏との最北端としての通訳か諜報になる可能性が高い。結論から言うと、関東の戦略としては覇権は持っておきたいわけだから、そのへんはわれわれとしても協力すべきでしょう。
が、われわれ自身の利害からいえば関東に染まりきるのもどうかと感じるふしがどこかにあるはずだ。なにせ半分以上いわきに親しんでるし、商業や観光にもつながりがつよいのは事実で、ある種甘えさせてもらってさえいるので(たとえばいわき市立図書館でもキタイバラキは隣接自治体あつかいしてもらったりしてるわけ。頼んだのでもないだろうに、おそらく好意から)。
ということで、われわれの使命としては自分らとして東北最大の都市な仙台には関東圏の一員として最大限注視せよみたいな所にある気がした。なんでこれを思ったかっていうと、ビジネスホテルアーバンに停まってた車のナンバーが横浜・多摩、で水戸だったから。そんな遠くから何の用事か? いくらなんでもわざわざこの関東の最果てまで。
われわれとして仙台に決して自由にプレイさせなければ関東への貢献は多大なものがあると見た。(その意味で、水戸や東京ふくめわれわれは基本的に関東系の都市とは張らなくていい気がする。張ってもそっち方面の政治・経済界の伸び幅で勝てる確率はほとんどない。
が仙台は大型な相手だが、立地そのものがわれわれきたいばと大変似ており、単に人口が多いだけで前も書いたが「教養の質」みたいな点ではかえって向こうのが不利な条件にある気がする。東北はやはり奥の細道の世界なので、首都圏の情報はほとんど一足遅れてしか入らないのだ。それがわれわれの、都心により近く小回りが利くからずっと有利な点だろう。)
性格として自由にやりたい仙台にとってはその内情や戦法をいつの間にか見透かされるみたいでややこしい相手かもしれんが、地域ごとの競争とは結局そういうものではないか。作戦勝ちが基本だろう。ちょっといわきへ行けばすぐ東北圏の主要情報は手に入るのだから。われわれは仙台へ照準してつねに動向を何歩か先駆けるようにしてれば失敗しないと見た。
どうでもいいことだが、ツバメはとてもかっこいい鳴き方をする。けさ聞いた。あの体格でああ鳴くとは。かもめもちょっとビビるほど鋭い。
教員評価制度での解雇促進は必要不可欠です
クソ高生が反省しているふしはまったくない。またつるんでタバコ。つまり学校教員のレベルが最低級なので、生活指導とか言って人前でdisるとかタバコやってるやついるらしいじゃないか!とかほざいて殴る体育教師(←こいつが最もバカなのだが)とか、そのレベルなのはまちがいない。
あの名実共に最底辺高校生なのだから上等で高貴な理屈でなぜ彼らの行いが非行と呼ばれるのかを理解させたりはできない。現状は郷英どころか迷惑高校であろう。まじで。
そこで提案だが、最底辺高のくせに希望実現とかかっこつけて確立した自主性もない年齢層へ単位制度なんか導入してるくらいなんだから同姿勢で当然できるはずだが、ふつう一流以上の大学には必須の「教員評価制度」を導入して出来損ない体育会系のどうしようもない救えない教員をどんどん解雇してったらどうか。そんなの市内の某学校にはどんどん来ててサイアクだった。
理不尽な暴力しかふるえない歪んだ性格の、あと何年勤続してくるか分らんサイアクのやつらだった。なぜあんなのが教員やってるんだ? というのは教員免許がさほど難しい課程でない国側の制度のゆるみがあるうえ、市の雇用基準が教育なめてるというか安っぽすぎるので底辺教師がくるわけ。
で漸次、試みを市内の小中学までは家庭からの評価書提出の義務と、市議会員か情報公開制度での公的閲覧の原則で広げるといい。そうすれば家庭と子供の連携も緊密になり、地域による教師の評価という点で、現状の学内でどんなクソすぎる自称指導の暴力が日常か(自分がそこで育ったのだからよーく分るクソさ加減だ)を、市でもおおやけにしていけるはずだ。
��これ書いてから思ったが、それでも市民平均のああいうミニスカ放置親レベルでは、ある意味で歪んだ評価がでてくる確率が高い。つまり好き嫌いとか。下らんが、それが民というものの本性でもあるのだから、公開市議会以上、市内外のよく選考した有識者と出てきた評価書を洗い出す手間がいるかも。これをしないと理不尽な解雇が今度は起きる気がするが、何もしない現状の喫煙習慣放置高よりはよくなるはずだ。)
新陳代謝が必須。前から書いてるが最底辺高校しかない市を愧じろって話で、修士は前提、普通にイギリス英語(つまり本場というか本家本元)という国際語を母語としており、可能なら博士号自主退学以上の教員を雇用するがいい。ポスドク問題を注意深く観察していれば、たとえば筑波か仙台あたりになぞそんなのいくらでもあまってる。優遇措置など銘うちゃ3秒でできる仕事量でありこれしか子世代以降の市民の生き残りがないという真理が理解できれば容易だろうに。
この平和ぶった未成年犯罪放置(喫煙教唆の罪も法規範内だ)の極悪社会ではその程度の厳しさがなければ、まじで美人副市長あたり(?)に財政牛耳られて終る。歴史の一般論として言って、滅亡する国はこういう形で後宮的位置づけにある女性の権勢でことごとく判断をまちがえて自滅していくのだ。西太后の朝鮮王朝、邪馬台国の卑弥呼、エジプトのクレオパトラ。数え上げればいとまがない。
要するに、近代のアメリカの女性優遇の行きすぎが支配者の性格を要する政治的思考力に向いていない男女同権をひろげてきたので、これに騙された国は確実に落ちぶれる。一体、史上で成功した政治家の何人が女性だったろうか。それは星屑分の砂の中に埋まったダイヤくらい「ほぼゼロ」なのだ。結論からいえばサッチャーしかいないし、あれも単に能動的な施策っつーより以前のイギリス伝統の放任経済へゆりもどしした田中まきこ的気丈婦なので成功といいきれるか疑問だ。思想を要さないので誰でもできたかもしれない。
それが嘘だと思えば磯原海岸であしたじゅう潮干狩りするがいい。その歴史の重層を、単なる遺伝勘定のみならず十分理解した方がいいだろう。おちてるものといってカモメの屍骸であり、それが厳しい自然の掟というものなのだ。かもめは死ぬ。一刻の猶予もない。
あの名実共に最底辺高校生なのだから上等で高貴な理屈でなぜ彼らの行いが非行と呼ばれるのかを理解させたりはできない。現状は郷英どころか迷惑高校であろう。まじで。
そこで提案だが、最底辺高のくせに希望実現とかかっこつけて確立した自主性もない年齢層へ単位制度なんか導入してるくらいなんだから同姿勢で当然できるはずだが、ふつう一流以上の大学には必須の「教員評価制度」を導入して出来損ない体育会系のどうしようもない救えない教員をどんどん解雇してったらどうか。そんなの市内の某学校にはどんどん来ててサイアクだった。
理不尽な暴力しかふるえない歪んだ性格の、あと何年勤続してくるか分らんサイアクのやつらだった。なぜあんなのが教員やってるんだ? というのは教員免許がさほど難しい課程でない国側の制度のゆるみがあるうえ、市の雇用基準が教育なめてるというか安っぽすぎるので底辺教師がくるわけ。
で漸次、試みを市内の小中学までは家庭からの評価書提出の義務と、市議会員か情報公開制度での公的閲覧の原則で広げるといい。そうすれば家庭と子供の連携も緊密になり、地域による教師の評価という点で、現状の学内でどんなクソすぎる自称指導の暴力が日常か(自分がそこで育ったのだからよーく分るクソさ加減だ)を、市でもおおやけにしていけるはずだ。
��これ書いてから思ったが、それでも市民平均のああいうミニスカ放置親レベルでは、ある意味で歪んだ評価がでてくる確率が高い。つまり好き嫌いとか。下らんが、それが民というものの本性でもあるのだから、公開市議会以上、市内外のよく選考した有識者と出てきた評価書を洗い出す手間がいるかも。これをしないと理不尽な解雇が今度は起きる気がするが、何もしない現状の喫煙習慣放置高よりはよくなるはずだ。)
新陳代謝が必須。前から書いてるが最底辺高校しかない市を愧じろって話で、修士は前提、普通にイギリス英語(つまり本場というか本家本元)という国際語を母語としており、可能なら博士号自主退学以上の教員を雇用するがいい。ポスドク問題を注意深く観察していれば、たとえば筑波か仙台あたりになぞそんなのいくらでもあまってる。優遇措置など銘うちゃ3秒でできる仕事量でありこれしか子世代以降の市民の生き残りがないという真理が理解できれば容易だろうに。
この平和ぶった未成年犯罪放置(喫煙教唆の罪も法規範内だ)の極悪社会ではその程度の厳しさがなければ、まじで美人副市長あたり(?)に財政牛耳られて終る。歴史の一般論として言って、滅亡する国はこういう形で後宮的位置づけにある女性の権勢でことごとく判断をまちがえて自滅していくのだ。西太后の朝鮮王朝、邪馬台国の卑弥呼、エジプトのクレオパトラ。数え上げればいとまがない。
要するに、近代のアメリカの女性優遇の行きすぎが支配者の性格を要する政治的思考力に向いていない男女同権をひろげてきたので、これに騙された国は確実に落ちぶれる。一体、史上で成功した政治家の何人が女性だったろうか。それは星屑分の砂の中に埋まったダイヤくらい「ほぼゼロ」なのだ。結論からいえばサッチャーしかいないし、あれも単に能動的な施策っつーより以前のイギリス伝統の放任経済へゆりもどしした田中まきこ的気丈婦なので成功といいきれるか疑問だ。思想を要さないので誰でもできたかもしれない。
それが嘘だと思えば磯原海岸であしたじゅう潮干狩りするがいい。その歴史の重層を、単なる遺伝勘定のみならず十分理解した方がいいだろう。おちてるものといってカモメの屍骸であり、それが厳しい自然の掟というものなのだ。かもめは死ぬ。一刻の猶予もない。
2010年6月24日
あるおしえ
これは奇想天外なアイデアにおもえるだろうから市の教育委員長とかには到底いまんとこ通じないだろうが、今後の市の人口がふえる可能性はゼロでしかもへたに行政が手出しして不自然にふえたらふえたで下愚がふえる(本来は社会淘汰か、生活保護いきの層がふえちゃう)わけで、つまり賃金形態上高いレベルにいる稼ぎ手、人口扶養力が減る社会構成は負けである。
以前より貧乏になった人たちが大量にあふれても幸福なおもむきには思われないでしょう。
でそのアイデアの核心は、「市の教育をぜんぶ英語化する」こと。これは価値あるというか、これしかないと思う。ユニクロがけさの毎日新聞系のニュースで発表した内情だが、これは勝ちたければまねるしかない。
負けてもいいじゃんという人は日本語で教育すればいい。しかし、日本人が英語おぼえたからって日本語でなくなるかって、それはない。俳句さえつくれればいいみたいな話である。
書物そのものが日本語で書かれてる間は文語としての日本語は完全には消えないはずだ。話される確率は減るかもしれないが、われわれのいまでいう古語もそうだったのだから文句は言えない。
要は進学先をつねに海外に見据えること、しかもできたらイギリスの一流大かアメリカのそれ、以上を目指すには英語堪能が大前提で、これには子供のころから英語で囲う教育環境しかありえない。で、市で校内は英語ですという原則で締めたら数人は救い手がでてくるかも。
それすら出ないならこの地域産で文化教養人はあきらめ、天心の場合みたいに他から輸入してくるしかないだろう。冷酷なようだがこれが真実で、あの統合後磯高生では勝つも負けるも勝負にすらなっていないのですよ。笑われるための勝負ならいいところいくだろうが、それすら本場大阪には数で負ける。つまり現状の生徒では(きわめてまれな一部の突然変異をのぞいて)どうしようもないのだ。
『きたいば市内の教育は英語で』。これはできるだけ急いで採用するをえる。カモメからいきのこるには貝すら歩くので、人が歩かねば話にならない。啄ばまれてからではおそい。がおー
以前より貧乏になった人たちが大量にあふれても幸福なおもむきには思われないでしょう。
でそのアイデアの核心は、「市の教育をぜんぶ英語化する」こと。これは価値あるというか、これしかないと思う。ユニクロがけさの毎日新聞系のニュースで発表した内情だが、これは勝ちたければまねるしかない。
負けてもいいじゃんという人は日本語で教育すればいい。しかし、日本人が英語おぼえたからって日本語でなくなるかって、それはない。俳句さえつくれればいいみたいな話である。
書物そのものが日本語で書かれてる間は文語としての日本語は完全には消えないはずだ。話される確率は減るかもしれないが、われわれのいまでいう古語もそうだったのだから文句は言えない。
要は進学先をつねに海外に見据えること、しかもできたらイギリスの一流大かアメリカのそれ、以上を目指すには英語堪能が大前提で、これには子供のころから英語で囲う教育環境しかありえない。で、市で校内は英語ですという原則で締めたら数人は救い手がでてくるかも。
それすら出ないならこの地域産で文化教養人はあきらめ、天心の場合みたいに他から輸入してくるしかないだろう。冷酷なようだがこれが真実で、あの統合後磯高生では勝つも負けるも勝負にすらなっていないのですよ。笑われるための勝負ならいいところいくだろうが、それすら本場大阪には数で負ける。つまり現状の生徒では(きわめてまれな一部の突然変異をのぞいて)どうしようもないのだ。
『きたいば市内の教育は英語で』。これはできるだけ急いで採用するをえる。カモメからいきのこるには貝すら歩くので、人が歩かねば話にならない。啄ばまれてからではおそい。がおー
まちの戦略
事実上、経済発展でまちおこし、というのはきたいば的にナシなんじゃないだろうか。そういう方向性はもう諦めていい。だから、カモメとしていえるのは(いえない)かばさんが半分本気でゆってた(ゆわない)、「若者よびこんで勝ち組だぜ路線」はもうありえない。これはおもいきって切ってった方がいいはずだ。
ゼッタイにこのまちの規模では経済発展でウハウハには向いていないし、ありえないうえ、だれもよろこばない。
ぼくはカモメだけにいろんなまちをみてきたが、南の世界は特に人がふえる適所なので必ず経済発展をめざしていく。しかしそれが幸福かといえば、ちがう。かれらとしては「東京と隣町に負けたくない」みたいな考えしかないまま経済発展したがるわけで、まちのビジョンとか住み心地とか景観とかは後手なのだ。
要するに、我々が東京以南と経済規模で張ろうとするのはおもっきしまちがっている。規模じゃなくて、「経済の質」ならまだわかる。
要は個々の家計が豊かになるということはまだ可能で十分ありえるだろう。それには個々の家庭の教養が高ければよい。
それで安易な安物買いをせず、彼らがうまく商売をしているかぎりはとにかく量産量産で行ってる人らよりもまち全体としてみれば豊かな世界になっているふしもあるはずだ。
かば氏が発表してた高精度の予想統計、あと50年後には5000人規模のまちになる、というのはほとんど確かな未来ではないだろうか。
たしかに戦後の成長だけをみてきたひとらには想像つかないだろうが、実際、今後も無人化店舗みたいなのがふえてきまくるわけで今は雇用されてるバイト従業員も全然いらなくなってく。と、農林水産の事業者・工場警備員・教員・専門技能職・役人、大きな数としてはこのあたりしかまず残ってこなくなる。
��第三次産業種は都市部へ集積するので、ここいらでいえば東京か水戸か仙台へと流れ続けて若者ごと地方からはどんどんと消滅する。)
通販と流通の合理化の拡大は特に小売店舗あたりを直撃するので、そういうのはいわゆる再開発ビルみたいなのによりあつまって(いわきラトブみたいに)なんとか生き残りをはかっても厳しいだろう。商店街の会誌とか出してるみたいだけど、今後もっと結束してってもそこの内でも必然の淘汰は避けられない。
で、かもめ的に見えることと言って、南側が勝ち組で他は負けですね、かといえば必ずしもそうならないだろう。数で勝ってるから個々の生活が豊かとは考えづらい。ウサギ小屋に住んで満員電車ってる勝ち組がなんの勝ちなのかフメイである。
だから、きたいば的には市民憲章にもありますが『教養主義まち計画』しか道はないだろうと思う。経済発展路線はすべて失敗する。その路線ではいわきにすら勝てる見込みはない。
しかも技術の日立が隣の隣には控えてるのだから、これも企業規模から言ってもいまさら追いつけるかといって成員の性格から言ってもそんなのやだよ(茨城人的短気さから言ってもコツコツまじめな理工系の好きなタイプばかりとは思えん)、となると思うし、あの高校生らが日立マンになるとしても出世出世で行くとは到底思えない。
まったく井の中の蛙なので高校で遊んでる自覚ないまま勉強しどきの貴重な青春期をテキトーに橋の下でいちゃついちゃった連中が、世界の一流企業の出世頭をめざしたり、めざせる確率すらほとんどないし、冷酷だが学力から言ってもきびしすぎる。アメリカ留学組ばかりで固められたエリート企業のサム○ンがライバルで、つまり「ない」のだ。派遣まっしぐらである。
で、ここまで突き詰めてくれば道はやはり教養主義にあると思う。個々の市民が非常に教養高い場合だけ、経済規模として量ではてんでおはなしにならないが、家計規模では南のどの地域にも負けないことになる…可能性もゼロではない。
で、その戦略というか作戦なのだが、たとえば仙台市なんかおもっきし半分は大学町みたいな大きさなので、東北全体からの求心力から言っても教育事業ではこの市がおっつくつかって、それは突然変異があろうと全体数としては時間がかかりまくるだろう。
きたいば市に通ってる平均的高校生からしても学力面で到底やばいのは目に見える。もちろん例外もあるだろうが、茨城にはほかにも筑波や水戸があるので求心力の面でも現在の条件は不利だ。
ということは、とても巧妙にやらない限り、教養主義化させてくにしても(もちろんそこにしか道はないっぽいので振り返ることはできないわけだが)うまく行くとは限らない。
かもめ的には5000人規模になったときに、過半が教養層な場合だけ、このまちというか市は成功したことになると思う。そんなことがありえるかって、そりゃやり方次第である。最大限に教養を尊びそういうのをもたらす人(知識文化人)を優遇すればいい。
で、教養が高いという意味でだけ優秀な若者がなつかしさ(というかどこより優遇される好条件)のあまり再帰してくれれば、全体の経済規模ではおはなしにならない小国だが、個々の家計ではほかの地域よりずっと豊か、という未来がありえる。それ以外は失敗した未来ということだろうと思う。かもめ的にはね。
結論をいえば、超利口にやるしかないし、それには学問芸術文化教養の担い手を盛り立てまくるしかない。そういうのに惹かれて寄ってくる精選された文化教養人をできるだけ定着させてこそ平均的市民性の質は高められる。
だから天心雨情大観をやたらほめまくってる市政の方向性自体は正しいと見た。それしか道はないのだから、ほめすぎはない。
自然が繊細でこの上なく綺麗なのはまちがいないので、それをさかんに美化する文化人を大量に定着させれば、単なる観光地としてではなく(観光地はかならず荒れるので自然保全からいえばのぞましくない。芭蕉のせいもあるのか、有名になりすぎちゃった松島あたりをみてくれば分る)、教養文化面での算出からして持続した発展ができるまちになるかも。珍しい風物があればあるほど人はそれを乞いに来る。
要は個々人が生計にあたって利口すぎるなら数は少なくとも人口扶養力の面で沈没することはない。その意味での5000人の勝ち組もある。迷惑でしかないバカ高生はバシバシ流出してもらう方がありがたいほどだがそれは言うまい(言うまでもない。かもめ的には、勝手に出て行く程よいのが見通せるし、市がいきのこるためには家計の質から言ってもジャマなので出て行くしかない。
そういう小規模で再生産率の高い家庭は大都市の下町に集まっていくだろうし、格差社会ではなんらかの設備面でもそうするしかないはずだ。要は貧困者用の住宅がある場所を求めるし、それは地価の急落した都心の足元にしかない。
情報だが、生活保護費の給付が数千円単位で多少ゆたかな千葉のとある市へ東京からホームレスが入り込みすぎて困るという話があって、大多数の負け組みはそういう行動形態をみにつけるしかいきのこりはないのが現実だろう)。
で文化教養面でエリート中のエリートの居場所になる場合にだけとても小規模の地方だが、ここいらは「調和した田園都市の感じのよさ」で尊敬されるかもしれぬ。
ていうか勝てなくてもいいや、という意見があるとおもうが、その意見は50000人から5000人に(つまり4万5千人が淘汰されるように明らかに)なってくあと25年後の段階でまわりを見ればだれかれ無職放免しかいないような状態になれば、誰もこわくて言えないはずだ。単に儲からないどころか若いほど食い詰めているわけだから。
万一の可能性として中央政府が福祉国家をめざしだすかもしれない。そうなると今も政治通に議論されてるが一律でバウチャーみたいにしたお金を政府が配りますみたいにならないともいえないが、問題は、仮にそうなったとしても市からの流出人口自体は決してとまらないだろう。
日立工場も将来は縮小か中国・東南アジアへやるのが基本で、となると国内空洞化はこの地域をもいまは安穏としてるがおもっき直撃してくる。よって上記の作戦は有効でありつづけるだろう。福祉国家にもし近づいたとしても地域のなんらかの振興そのものは重要なので。
完全に福祉国家にした北欧でも高度に民主的自治が考えられてるのは、そうでないとすぐ状態は悪化するからなのだろう(あるニュースでは実際、英吉利なんかより学力も低下しだしたらしい。つまり「努力なくして成果なし」なのだ)。働かなくてもいい社会でまじめに働く者は損をするわけで、勉強も高福祉でタダならするかって全然しないのがニンゲンといういきもの。いまの磯高生をみてればだれでも分る話だが。全然勉強する気がない。我々の国税で学校にやってるわけだが。下愚は追い詰めれば追い詰めるほどよい。
われわれ選良かもめ界(綺麗な海岸にすみつく層です)ではそういうことはない。海を見つめてるだけじゃないのですよ。飛ぶ練習とか。
ゼッタイにこのまちの規模では経済発展でウハウハには向いていないし、ありえないうえ、だれもよろこばない。
ぼくはカモメだけにいろんなまちをみてきたが、南の世界は特に人がふえる適所なので必ず経済発展をめざしていく。しかしそれが幸福かといえば、ちがう。かれらとしては「東京と隣町に負けたくない」みたいな考えしかないまま経済発展したがるわけで、まちのビジョンとか住み心地とか景観とかは後手なのだ。
要するに、我々が東京以南と経済規模で張ろうとするのはおもっきしまちがっている。規模じゃなくて、「経済の質」ならまだわかる。
要は個々の家計が豊かになるということはまだ可能で十分ありえるだろう。それには個々の家庭の教養が高ければよい。
それで安易な安物買いをせず、彼らがうまく商売をしているかぎりはとにかく量産量産で行ってる人らよりもまち全体としてみれば豊かな世界になっているふしもあるはずだ。
かば氏が発表してた高精度の予想統計、あと50年後には5000人規模のまちになる、というのはほとんど確かな未来ではないだろうか。
たしかに戦後の成長だけをみてきたひとらには想像つかないだろうが、実際、今後も無人化店舗みたいなのがふえてきまくるわけで今は雇用されてるバイト従業員も全然いらなくなってく。と、農林水産の事業者・工場警備員・教員・専門技能職・役人、大きな数としてはこのあたりしかまず残ってこなくなる。
��第三次産業種は都市部へ集積するので、ここいらでいえば東京か水戸か仙台へと流れ続けて若者ごと地方からはどんどんと消滅する。)
通販と流通の合理化の拡大は特に小売店舗あたりを直撃するので、そういうのはいわゆる再開発ビルみたいなのによりあつまって(いわきラトブみたいに)なんとか生き残りをはかっても厳しいだろう。商店街の会誌とか出してるみたいだけど、今後もっと結束してってもそこの内でも必然の淘汰は避けられない。
で、かもめ的に見えることと言って、南側が勝ち組で他は負けですね、かといえば必ずしもそうならないだろう。数で勝ってるから個々の生活が豊かとは考えづらい。ウサギ小屋に住んで満員電車ってる勝ち組がなんの勝ちなのかフメイである。
だから、きたいば的には市民憲章にもありますが『教養主義まち計画』しか道はないだろうと思う。経済発展路線はすべて失敗する。その路線ではいわきにすら勝てる見込みはない。
しかも技術の日立が隣の隣には控えてるのだから、これも企業規模から言ってもいまさら追いつけるかといって成員の性格から言ってもそんなのやだよ(茨城人的短気さから言ってもコツコツまじめな理工系の好きなタイプばかりとは思えん)、となると思うし、あの高校生らが日立マンになるとしても出世出世で行くとは到底思えない。
まったく井の中の蛙なので高校で遊んでる自覚ないまま勉強しどきの貴重な青春期をテキトーに橋の下でいちゃついちゃった連中が、世界の一流企業の出世頭をめざしたり、めざせる確率すらほとんどないし、冷酷だが学力から言ってもきびしすぎる。アメリカ留学組ばかりで固められたエリート企業のサム○ンがライバルで、つまり「ない」のだ。派遣まっしぐらである。
で、ここまで突き詰めてくれば道はやはり教養主義にあると思う。個々の市民が非常に教養高い場合だけ、経済規模として量ではてんでおはなしにならないが、家計規模では南のどの地域にも負けないことになる…可能性もゼロではない。
で、その戦略というか作戦なのだが、たとえば仙台市なんかおもっきし半分は大学町みたいな大きさなので、東北全体からの求心力から言っても教育事業ではこの市がおっつくつかって、それは突然変異があろうと全体数としては時間がかかりまくるだろう。
きたいば市に通ってる平均的高校生からしても学力面で到底やばいのは目に見える。もちろん例外もあるだろうが、茨城にはほかにも筑波や水戸があるので求心力の面でも現在の条件は不利だ。
ということは、とても巧妙にやらない限り、教養主義化させてくにしても(もちろんそこにしか道はないっぽいので振り返ることはできないわけだが)うまく行くとは限らない。
かもめ的には5000人規模になったときに、過半が教養層な場合だけ、このまちというか市は成功したことになると思う。そんなことがありえるかって、そりゃやり方次第である。最大限に教養を尊びそういうのをもたらす人(知識文化人)を優遇すればいい。
で、教養が高いという意味でだけ優秀な若者がなつかしさ(というかどこより優遇される好条件)のあまり再帰してくれれば、全体の経済規模ではおはなしにならない小国だが、個々の家計ではほかの地域よりずっと豊か、という未来がありえる。それ以外は失敗した未来ということだろうと思う。かもめ的にはね。
結論をいえば、超利口にやるしかないし、それには学問芸術文化教養の担い手を盛り立てまくるしかない。そういうのに惹かれて寄ってくる精選された文化教養人をできるだけ定着させてこそ平均的市民性の質は高められる。
だから天心雨情大観をやたらほめまくってる市政の方向性自体は正しいと見た。それしか道はないのだから、ほめすぎはない。
自然が繊細でこの上なく綺麗なのはまちがいないので、それをさかんに美化する文化人を大量に定着させれば、単なる観光地としてではなく(観光地はかならず荒れるので自然保全からいえばのぞましくない。芭蕉のせいもあるのか、有名になりすぎちゃった松島あたりをみてくれば分る)、教養文化面での算出からして持続した発展ができるまちになるかも。珍しい風物があればあるほど人はそれを乞いに来る。
要は個々人が生計にあたって利口すぎるなら数は少なくとも人口扶養力の面で沈没することはない。その意味での5000人の勝ち組もある。迷惑でしかないバカ高生はバシバシ流出してもらう方がありがたいほどだがそれは言うまい(言うまでもない。かもめ的には、勝手に出て行く程よいのが見通せるし、市がいきのこるためには家計の質から言ってもジャマなので出て行くしかない。
そういう小規模で再生産率の高い家庭は大都市の下町に集まっていくだろうし、格差社会ではなんらかの設備面でもそうするしかないはずだ。要は貧困者用の住宅がある場所を求めるし、それは地価の急落した都心の足元にしかない。
情報だが、生活保護費の給付が数千円単位で多少ゆたかな千葉のとある市へ東京からホームレスが入り込みすぎて困るという話があって、大多数の負け組みはそういう行動形態をみにつけるしかいきのこりはないのが現実だろう)。
で文化教養面でエリート中のエリートの居場所になる場合にだけとても小規模の地方だが、ここいらは「調和した田園都市の感じのよさ」で尊敬されるかもしれぬ。
ていうか勝てなくてもいいや、という意見があるとおもうが、その意見は50000人から5000人に(つまり4万5千人が淘汰されるように明らかに)なってくあと25年後の段階でまわりを見ればだれかれ無職放免しかいないような状態になれば、誰もこわくて言えないはずだ。単に儲からないどころか若いほど食い詰めているわけだから。
万一の可能性として中央政府が福祉国家をめざしだすかもしれない。そうなると今も政治通に議論されてるが一律でバウチャーみたいにしたお金を政府が配りますみたいにならないともいえないが、問題は、仮にそうなったとしても市からの流出人口自体は決してとまらないだろう。
日立工場も将来は縮小か中国・東南アジアへやるのが基本で、となると国内空洞化はこの地域をもいまは安穏としてるがおもっき直撃してくる。よって上記の作戦は有効でありつづけるだろう。福祉国家にもし近づいたとしても地域のなんらかの振興そのものは重要なので。
完全に福祉国家にした北欧でも高度に民主的自治が考えられてるのは、そうでないとすぐ状態は悪化するからなのだろう(あるニュースでは実際、英吉利なんかより学力も低下しだしたらしい。つまり「努力なくして成果なし」なのだ)。働かなくてもいい社会でまじめに働く者は損をするわけで、勉強も高福祉でタダならするかって全然しないのがニンゲンといういきもの。いまの磯高生をみてればだれでも分る話だが。全然勉強する気がない。我々の国税で学校にやってるわけだが。下愚は追い詰めれば追い詰めるほどよい。
われわれ選良かもめ界(綺麗な海岸にすみつく層です)ではそういうことはない。海を見つめてるだけじゃないのですよ。飛ぶ練習とか。
こないだですよ
ばか高生の話でおもいだしたのですが、こないだ磯原駅から日立までこのへんじゃみたことないチャラ男みたいなのがのってきました。
ああいうのもいるんだ、とわるい意味で(いい意味での発見が自然の繊細さしかない土地とはどんなだ)発見。
しかし、某マンションふくめ下手に都市化してほしくないですね。かもめは海岸というか浜を好む。というのは関係が半分しかないですが。
わたしながれカモメ役が子供のころはゴキブリといういきものをみたことがなかった。それが鉄筋コンクリマンションとかができだしたころからきた。情報によればコンクリは熱をためるので熱帯のいきものでも生息できちゃうらしい。
キタイバラキは寒いというか涼しいのが特徴なのでこういうクールじゃないのは出てって欲しいんです、かもめは海が見たい。それだけなんです。すで。
まあ土地もっててお金あましてる方は財産の運用面であそばせとくわけにゃいくまいとお思いなんでしょうけれども、ああいうチャラ男(ホスト? 日立にホストあるわけ? うざい)がなぜこんな童心ゆたかな町にくるのかフメイ。まじで雨情に反する。
消えろとまでは言わないが、こなくていい。そんなの新宿に住めば早い話だ。べつにみやまカラスしか呼んでないですって話。
えきまえにマンションというのは周辺駅からの帰宅客をねらうんでしょうね。あきらかに定住するにはちょっとな、ってたてかたですし。けど、かもめ的にはあんなのくるくらいならそんなのなくていいですって感じ。
追い出すようなことばっか言ってるようですが、茨城とはそういうところだ(尊攘論の本場)というばかりじゃなく、まじで繊細な自然が傷むのでそのへん注意で。ただでさえ傷つきやすい自然環境なのだから相当注意しとかないとぶっこわされてはたまらない。
アイデアとしては、かば氏も言ってた若者向けアパートを市営とかで安くすればいいじゃんというのはどうかとおもいます。あんなホストがきていいまちになるとはとても思われない。さびれても文化的上質さを守りたい。要は天心系の文化人ならゆるせる。
というわけで、感じのいい簡易アトリエ用地・アトリエ貸し家屋みたいなをいつ浦のすみっこに格安でつくっときますよとか、市選の句集が駅で売ってるんですよ(すずめの涙であれ)とかそれレベルでいいはずだ。漁業参加してもらって定住してくれてもいいんですよ、農業体験の先がありますよでもいいだろう。雇用がないんだから。
しかし、安易な都市化、しかも東京のまねだけはやめてほしい。つまらん上にくだらん。ホストは忌ね。あんなの連れでへんな飲みや系女としかくっつかんのでなんもいいことにゃならぬ。都市計画上、眺めわるくなるだけのえきまえにマンション乱立もどうかと思うわけ。市井のかもめにそこまで分るとは! にゃー(ねこではない)
ああいうのもいるんだ、とわるい意味で(いい意味での発見が自然の繊細さしかない土地とはどんなだ)発見。
しかし、某マンションふくめ下手に都市化してほしくないですね。かもめは海岸というか浜を好む。というのは関係が半分しかないですが。
わたしながれカモメ役が子供のころはゴキブリといういきものをみたことがなかった。それが鉄筋コンクリマンションとかができだしたころからきた。情報によればコンクリは熱をためるので熱帯のいきものでも生息できちゃうらしい。
キタイバラキは寒いというか涼しいのが特徴なのでこういうクールじゃないのは出てって欲しいんです、かもめは海が見たい。それだけなんです。すで。
まあ土地もっててお金あましてる方は財産の運用面であそばせとくわけにゃいくまいとお思いなんでしょうけれども、ああいうチャラ男(ホスト? 日立にホストあるわけ? うざい)がなぜこんな童心ゆたかな町にくるのかフメイ。まじで雨情に反する。
消えろとまでは言わないが、こなくていい。そんなの新宿に住めば早い話だ。べつにみやまカラスしか呼んでないですって話。
えきまえにマンションというのは周辺駅からの帰宅客をねらうんでしょうね。あきらかに定住するにはちょっとな、ってたてかたですし。けど、かもめ的にはあんなのくるくらいならそんなのなくていいですって感じ。
追い出すようなことばっか言ってるようですが、茨城とはそういうところだ(尊攘論の本場)というばかりじゃなく、まじで繊細な自然が傷むのでそのへん注意で。ただでさえ傷つきやすい自然環境なのだから相当注意しとかないとぶっこわされてはたまらない。
アイデアとしては、かば氏も言ってた若者向けアパートを市営とかで安くすればいいじゃんというのはどうかとおもいます。あんなホストがきていいまちになるとはとても思われない。さびれても文化的上質さを守りたい。要は天心系の文化人ならゆるせる。
というわけで、感じのいい簡易アトリエ用地・アトリエ貸し家屋みたいなをいつ浦のすみっこに格安でつくっときますよとか、市選の句集が駅で売ってるんですよ(すずめの涙であれ)とかそれレベルでいいはずだ。漁業参加してもらって定住してくれてもいいんですよ、農業体験の先がありますよでもいいだろう。雇用がないんだから。
しかし、安易な都市化、しかも東京のまねだけはやめてほしい。つまらん上にくだらん。ホストは忌ね。あんなの連れでへんな飲みや系女としかくっつかんのでなんもいいことにゃならぬ。都市計画上、眺めわるくなるだけのえきまえにマンション乱立もどうかと思うわけ。市井のかもめにそこまで分るとは! にゃー(ねこではない)
バカ高生自治の2
ばか高生についてのつづきだが、すくなくとも市政で可能なのは、市内に二つあるあのビジネスホテルへは高校生らしき、というか未成年は泊めないよう最初から縄張っとくのは当然必要だ。これすらやらないようではゴミのまちである。
で、東京人買春集団の下劣さを予知しておけば、ここいらから常磐線で水戸~いわきまでのどこかのそういう宿泊場所へとうろついてるバカ高生をもってくくらいはやるだろう。ということで、県政にも同様の依頼がいるわけだ。
ビジネスホテルへ不審な未成年(但し服装含めて偽る可能性は十分予想できるので、「身分証の提示と厳正チェック」を徹底させる通告をしておく必要ある)を泊めさせたら罰金と禁固以上の刑で処する刑事法関連条例を、県といわき市で採択させるべきだろう。これすらやらないようではお話にならない。犯罪煽る県など潰すしかないではないか?
で、現行犯の規定として木刀とかそういう銃刀法に触れない撃退武器での自衛も可能にしておく方がいい。交番が少なすぎるし田舎交番なのでボケすぎて連絡すれば即来る気勢が見えない。犯罪起こるかそこで、ってくらい立地が遠すぎるのでこれも中心市街地へ真っ先に移動させるべきだ。
で、勢い余って反抗中に撃退してしまっても法的には自警団側を救済できるようにしておくべきだろう。共有認識として「バカ高校生の厚生」というのを市民の共通課題とおもうべきで、そうならまたこれか、みたいに見られるのが普通になるだろう。つまり磯高批判を世論にしなければ。
さすがに堕落を放置しろってこともないだろう。迷惑なだけなので。
で、ここまで対策しとけばリスクの方が高いのでわざわざ東京人犯罪者集団がここまで入ってきて悪さをしにくる確率自体は減るに違いない。で親ごとバカなのは出て行くだろう。住んでる利点がなくなるのだから。
で、東京人買春集団の下劣さを予知しておけば、ここいらから常磐線で水戸~いわきまでのどこかのそういう宿泊場所へとうろついてるバカ高生をもってくくらいはやるだろう。ということで、県政にも同様の依頼がいるわけだ。
ビジネスホテルへ不審な未成年(但し服装含めて偽る可能性は十分予想できるので、「身分証の提示と厳正チェック」を徹底させる通告をしておく必要ある)を泊めさせたら罰金と禁固以上の刑で処する刑事法関連条例を、県といわき市で採択させるべきだろう。これすらやらないようではお話にならない。犯罪煽る県など潰すしかないではないか?
で、現行犯の規定として木刀とかそういう銃刀法に触れない撃退武器での自衛も可能にしておく方がいい。交番が少なすぎるし田舎交番なのでボケすぎて連絡すれば即来る気勢が見えない。犯罪起こるかそこで、ってくらい立地が遠すぎるのでこれも中心市街地へ真っ先に移動させるべきだ。
で、勢い余って反抗中に撃退してしまっても法的には自警団側を救済できるようにしておくべきだろう。共有認識として「バカ高校生の厚生」というのを市民の共通課題とおもうべきで、そうならまたこれか、みたいに見られるのが普通になるだろう。つまり磯高批判を世論にしなければ。
さすがに堕落を放置しろってこともないだろう。迷惑なだけなので。
で、ここまで対策しとけばリスクの方が高いのでわざわざ東京人犯罪者集団がここまで入ってきて悪さをしにくる確率自体は減るに違いない。で親ごとバカなのは出て行くだろう。住んでる利点がなくなるのだから。
2010年6月22日
またも
またクソ高生がきてタバコやっていった。
まあ、最底辺高だけになにを注意しても親からして馬鹿すぎて救えないというのは、カモメの目にすら見えるわけで、下愚はどうしようもない。
なにが問題かって、以前はあれ系はキタコーだったのでまちはわりかし平和だったのか。平和と言ってもキタイバっつか茨城だけに窓ガラス割りました級に荒れてはいたのだが、今度は発情系は来るわタバコも頻発だわで救いようのなさが何倍にもましている。簡単にいえばムカデ連中である。たとえだが。
ムカデヤスデゲジは本当に駆除してしまうしかない。教育が駄目なら宗教しかないが、それすら駄目なら法で駆除するほかはない。マジで迷惑している。朝から晩から、高校生といえば発情かタバコ、要はまちの厄介者なわけだ。どうしようもない。
学校には何度連絡してもなんの意味もない。大体、磯中からしてあれだ。水戸黄門みて威張り方をまねる級の、どうしようもない馬鹿教員が生徒をぶん殴るとかそういう指導であり、なぜタバコをするのかどうしてそれが規制されているのかすら知らないのだ。無知は罪。暴力で指導しているので、怒られなければどんな悪さでもする。
以前は菓子の袋をみちばたに捨ててく級の高校生しかいなかった。今はどうだ。最底辺中の最底辺キタコーとすみわけて欲しい。これがまちびと唯一の願いだが、どういうわけだか少子化なのであんなのがウヨウヨきちゃう。ほんと、どうしようもない。警官も駅の向こうで車と川みてけーってくってなもんで、町の治安がどうとかてんでおかまいない。そもそもいい加減飲み屋もとりしまれと思う。くだらないスナックがふえまくっているが誰も規制しようとしない。いかにクソ市かって話。ま、かもめがdisってもかもめだけに風の詩だ。
なにかいいアイデアはないだろうか
まあ、最底辺高だけになにを注意しても親からして馬鹿すぎて救えないというのは、カモメの目にすら見えるわけで、下愚はどうしようもない。
なにが問題かって、以前はあれ系はキタコーだったのでまちはわりかし平和だったのか。平和と言ってもキタイバっつか茨城だけに窓ガラス割りました級に荒れてはいたのだが、今度は発情系は来るわタバコも頻発だわで救いようのなさが何倍にもましている。簡単にいえばムカデ連中である。たとえだが。
ムカデヤスデゲジは本当に駆除してしまうしかない。教育が駄目なら宗教しかないが、それすら駄目なら法で駆除するほかはない。マジで迷惑している。朝から晩から、高校生といえば発情かタバコ、要はまちの厄介者なわけだ。どうしようもない。
学校には何度連絡してもなんの意味もない。大体、磯中からしてあれだ。水戸黄門みて威張り方をまねる級の、どうしようもない馬鹿教員が生徒をぶん殴るとかそういう指導であり、なぜタバコをするのかどうしてそれが規制されているのかすら知らないのだ。無知は罪。暴力で指導しているので、怒られなければどんな悪さでもする。
以前は菓子の袋をみちばたに捨ててく級の高校生しかいなかった。今はどうだ。最底辺中の最底辺キタコーとすみわけて欲しい。これがまちびと唯一の願いだが、どういうわけだか少子化なのであんなのがウヨウヨきちゃう。ほんと、どうしようもない。警官も駅の向こうで車と川みてけーってくってなもんで、町の治安がどうとかてんでおかまいない。そもそもいい加減飲み屋もとりしまれと思う。くだらないスナックがふえまくっているが誰も規制しようとしない。いかにクソ市かって話。ま、かもめがdisってもかもめだけに風の詩だ。
なにかいいアイデアはないだろうか
なんかこないだ
これも思い出したが、こないだ天心美術館いったときのはなし。
あの館内付属きっさってんで、べつに他意ない親子がベランダというかテラスにおかれたあの何気ないテーブルとイスに座ろうとしたら、「注文しないと駄目なんです」的に追い払われてた。しかし、これも高が薄給オバハンバイトだから機転もきくまいといえばそれまでなのですが(県立だけに県が募集し雇ったんだろうか?)、だーれもいないんですよ。お昼すぎもお昼過ぎで、べつに混んでもない。しかも寒空です。
別に決まりだろうがなんだろうが、そこに座ってかるくお食事してもらったところでなにが減るというのだ。そりゃケチ心がへるかもしれない。それに、しょせん箱物予算のうっちゃり先だから収益なぞどうでもいいのかもだが、さすがに冷たいにも程があるではないか。
あの軽装できてたんで地元の方だろうが、もしも、とっても遠くからわざわざ出かけてきた方がああいう扱いされたら、そりゃ「やっぱりね。これだから茨城は」と思うだろう。内心ね。かもめの私すら思った。
実際、なにも損するでもないし(テーブル拭くしごとがそんなに面倒か? 輸入したイスごとぶち壊されそうな客かなんとなく察しはつくだろうに)、むしろ「ほかのお客さんがこられるまでは座って下すってかまいませんよ」というのが税で県民自身が補填してる公営機関なら特にだが、本道ではないんでしょうかい。なにをケチってたのだろうか。
なんであれ問題が起こればそこで考えればいい話だ。あたまが固まりすぎて機転という考えがない。黄門様にもああいう態度で接するなら理解できるが、それでぺこぺこ、市民にゃ冷遇ときた日にはなんのための民主主義であろうか。お上からさずかってきた空疎な理念で、実感ない田舎市民だと反論されたうぐいすさんよ、それはそうだ。けどあのさみしげな松の鳴る音には分るでしょう。
松籟いわく「貧富で差別するな」と。
というわけでは決してないだろうが、その後、寒空のした向こうのベンチで食べにくそうにあの野外テーブル席訪問者はこまごまと昼食をしておられた。合掌。別にあの店員おばさんの意図として金目に訴えたわけではないのだろうが、茨城系の人物はかならず頭が固まりすぎてて規則を盲目に守れば自分が安全だと思いこんでいる。個人の自由というものを知らない。ナチスか?
わざわざ茨城系の人物、というのは、そういう人に県内で特に会いまくってきたからだ。他の地域にはないお堅さである。悪い意味で。
ま、こういうのもぶち切れずにはおかないんでしょうね。だからカモメ語で書いてます。よめたらすごい。
規則厳守にゃいいところもあるんでしょうけど、悪さが際立つ場面だった。要は時と場合によるのだ。
で、あの見回り員もどうなんだろうと思った。警備員あれだけ配置して、なにかされたんだろうか? さすがに監視カメラつきの隠れ広場でひとときたりとも安心できる者はおるまい。サイショから人を疑ってかかるというのは、キタイバ人がどれだけ性悪かを逆説的に証してしまう。実際ほっといたらあっという間に器物破損されるんでしょうかね?
もしなにも起きたことがないのにあれだけ警備員を「うろうろ」させる経費をつぎこんでるってのは、県の意向なのかもしれないけど、なにかさきゆき不吉である。誰だって憎まれ場所に疑われながらおそるおそる通うなんてことはないだろう。
要は、もっとずっと寛容に運営すべきだろう。
立地は将来崩れおちそうな崖っぷちだが眺望面で持ってる間は、集客したあとでどうもてなすかも重要な気がする。さすがにもと隠居場所だけに、足しげく通うのは難しいので、一回くるごとに相当優遇しないとリピーターはいなくなる。
赤字でも県が出すって公算なら、その負担はやはり我々の租税だ。浅すぎる。
というわけで、効率的かつ寛容で奉仕精神にあふれた運営をのぞむ。市もその辺りは、程度あれ立地面で管轄させられてるのだから相当仕切るべきではないか。おばさんバイトにせよ、いばらきにありがちな堅苦しすぎるタイプを重鎮化させとくのは半面で問題だ。かもめ的意見でいうと、できたらいわきから採用したらいい。いわきの女性は一般にいばらき系より愛想がいいし(というか心象が厳しすぎずおおらかである)、若干元気すぎるがキタイバ系ほどヤンキー的に気が強いでもない。御三家な藩内にも苦労はあるのだ。
あの館内付属きっさってんで、べつに他意ない親子がベランダというかテラスにおかれたあの何気ないテーブルとイスに座ろうとしたら、「注文しないと駄目なんです」的に追い払われてた。しかし、これも高が薄給オバハンバイトだから機転もきくまいといえばそれまでなのですが(県立だけに県が募集し雇ったんだろうか?)、だーれもいないんですよ。お昼すぎもお昼過ぎで、べつに混んでもない。しかも寒空です。
別に決まりだろうがなんだろうが、そこに座ってかるくお食事してもらったところでなにが減るというのだ。そりゃケチ心がへるかもしれない。それに、しょせん箱物予算のうっちゃり先だから収益なぞどうでもいいのかもだが、さすがに冷たいにも程があるではないか。
あの軽装できてたんで地元の方だろうが、もしも、とっても遠くからわざわざ出かけてきた方がああいう扱いされたら、そりゃ「やっぱりね。これだから茨城は」と思うだろう。内心ね。かもめの私すら思った。
実際、なにも損するでもないし(テーブル拭くしごとがそんなに面倒か? 輸入したイスごとぶち壊されそうな客かなんとなく察しはつくだろうに)、むしろ「ほかのお客さんがこられるまでは座って下すってかまいませんよ」というのが税で県民自身が補填してる公営機関なら特にだが、本道ではないんでしょうかい。なにをケチってたのだろうか。
なんであれ問題が起こればそこで考えればいい話だ。あたまが固まりすぎて機転という考えがない。黄門様にもああいう態度で接するなら理解できるが、それでぺこぺこ、市民にゃ冷遇ときた日にはなんのための民主主義であろうか。お上からさずかってきた空疎な理念で、実感ない田舎市民だと反論されたうぐいすさんよ、それはそうだ。けどあのさみしげな松の鳴る音には分るでしょう。
松籟いわく「貧富で差別するな」と。
というわけでは決してないだろうが、その後、寒空のした向こうのベンチで食べにくそうにあの野外テーブル席訪問者はこまごまと昼食をしておられた。合掌。別にあの店員おばさんの意図として金目に訴えたわけではないのだろうが、茨城系の人物はかならず頭が固まりすぎてて規則を盲目に守れば自分が安全だと思いこんでいる。個人の自由というものを知らない。ナチスか?
わざわざ茨城系の人物、というのは、そういう人に県内で特に会いまくってきたからだ。他の地域にはないお堅さである。悪い意味で。
ま、こういうのもぶち切れずにはおかないんでしょうね。だからカモメ語で書いてます。よめたらすごい。
規則厳守にゃいいところもあるんでしょうけど、悪さが際立つ場面だった。要は時と場合によるのだ。
で、あの見回り員もどうなんだろうと思った。警備員あれだけ配置して、なにかされたんだろうか? さすがに監視カメラつきの隠れ広場でひとときたりとも安心できる者はおるまい。サイショから人を疑ってかかるというのは、キタイバ人がどれだけ性悪かを逆説的に証してしまう。実際ほっといたらあっという間に器物破損されるんでしょうかね?
もしなにも起きたことがないのにあれだけ警備員を「うろうろ」させる経費をつぎこんでるってのは、県の意向なのかもしれないけど、なにかさきゆき不吉である。誰だって憎まれ場所に疑われながらおそるおそる通うなんてことはないだろう。
要は、もっとずっと寛容に運営すべきだろう。
立地は将来崩れおちそうな崖っぷちだが眺望面で持ってる間は、集客したあとでどうもてなすかも重要な気がする。さすがにもと隠居場所だけに、足しげく通うのは難しいので、一回くるごとに相当優遇しないとリピーターはいなくなる。
赤字でも県が出すって公算なら、その負担はやはり我々の租税だ。浅すぎる。
というわけで、効率的かつ寛容で奉仕精神にあふれた運営をのぞむ。市もその辺りは、程度あれ立地面で管轄させられてるのだから相当仕切るべきではないか。おばさんバイトにせよ、いばらきにありがちな堅苦しすぎるタイプを重鎮化させとくのは半面で問題だ。かもめ的意見でいうと、できたらいわきから採用したらいい。いわきの女性は一般にいばらき系より愛想がいいし(というか心象が厳しすぎずおおらかである)、若干元気すぎるがキタイバ系ほどヤンキー的に気が強いでもない。御三家な藩内にも苦労はあるのだ。
カモメ語のひとりごと
さっきなんとなくおもいついたんですが(かもめは朝が早い。というか寝てない?)
俳句ポストっておもしろいことはオモロイんでっすが(関西かっ)、
その何百句もの投稿って、どうなっちゃってんだろう。ほんの御めがねにかなった一部しか
氷山の一角しかとりあげれないままだと、そりゃ投句もへりゆくだろう。要は市役所員の只見だ。
というわけで、「市選の句集」を売り出すか只で配布すればもっともりあがるし、セイの法則(=供給過剰があらたな需要をうみだす)で俳人も移り住むかもしれない。詠み放題というのは生活費の足しにならないのであり、趣味に終る。それはそれでいいのだろうけどね。目的からして世代交流というわけだ。
それが予算からムリそうなら、単に市報にすみっこでもなんでも、毎号独自基準で選句掲載すれば市民な意欲としてもつづくのでないか。で本名掲載の可否を既存用紙にかきくわえる手間はかかるかもしれないけど、今度いつか増刷するときにそれもひまな職員(いない)がちょちょっとやればいいのであり。どうです、かもめ的なアイデアだろうに。
カーカー(カラスのまね)←つまらない
俳句ポストっておもしろいことはオモロイんでっすが(関西かっ)、
その何百句もの投稿って、どうなっちゃってんだろう。ほんの御めがねにかなった一部しか
氷山の一角しかとりあげれないままだと、そりゃ投句もへりゆくだろう。要は市役所員の只見だ。
というわけで、「市選の句集」を売り出すか只で配布すればもっともりあがるし、セイの法則(=供給過剰があらたな需要をうみだす)で俳人も移り住むかもしれない。詠み放題というのは生活費の足しにならないのであり、趣味に終る。それはそれでいいのだろうけどね。目的からして世代交流というわけだ。
それが予算からムリそうなら、単に市報にすみっこでもなんでも、毎号独自基準で選句掲載すれば市民な意欲としてもつづくのでないか。で本名掲載の可否を既存用紙にかきくわえる手間はかかるかもしれないけど、今度いつか増刷するときにそれもひまな職員(いない)がちょちょっとやればいいのであり。どうです、かもめ的なアイデアだろうに。
カーカー(カラスのまね)←つまらない
2010年6月21日
かもめ情報論
http://news.livedoor.com/article/detail/4839078/?p=8
きたいば公費をひとりあたま110万ちかくつかって山間部の僻地住民へ光ケーブル施設してあげます議論について、参考になりすぎる頁をみつけたので転用。
以下引用です。
��~~
池田:ユニバーサルサービスの問題については、たぶん総務省の考え方と孫さんの考え方は少し近いと思います。僕を含めた多くの経済学者の意見は違いますが。なぜかといえば、たとえば料金を全国一律に1400円としましょうか、その値段でやるとしも、離島とかのいわゆる「条件不利地域」はどうでしょうか。今年の3月だったか、小笠原諸島に光ファイバーを全部引いたわけですね。八丈島からだいたい800kmくらい。小笠原諸島の人口は2500人しかいないのに、100億円かけて、そのうち60億円が政府が出しているんだけど、100億円を2500人にサービスしているから、1人当たり400万円の税金をつぎ込んでいるわけです。孫さんの仰る新会社は、この小笠原諸島にも例外なく引かれるわけだから、100億円かけて2500人にサービスするということが行われるわけですよね。この場合、一人当たり400万円のコストがかかってしまいます。
これを仮に1400円の料金で小笠原にサービスをするとすると、100億円のために「1400円×●年分」のコストを東京都民が負担してるわけですね。それは政府の税金じゃないけど、経済学でいう「隠れた課税」となります。つまりユニバーサルに同じ値段でサービスするということは、一番条件のいい人に課税する形となり、厳密な意味での法的な課税ではなくても、実質的には課税をすることになってしまいます。なぜそれがよくないかというと、それこそこれから新興国との競争は激しくなるというのに、東京の一番都心にある企業が結果的に小笠原のコストを負担することになると、競争としては劣位に置かれるんですね。よってグローバル競争の中で、日本の競争の一番エッジに立つ企業が、いわば、僻地のコストを負担することによって足を引っ張られてしまうおそれがあるということです。
孫:まあそれを公金を使ってやらないといけないというと、また議論が長くなるのですが。税金を1円も使わないで、上場会社としていままでに2600億円の赤字だった部分が、3500億円の黒字になって実現できるのであれば、損する人はいないわけですね。
池田:それでは東京都民が損をしてしまうんです。たとえば小笠原の 100億円というのは東京都民が負担しているわけですね。それが国ではなくて民間のお金だとすると、このケースで言えばアクセス回線会社が小笠原諸島に 100億円払って、それを他の都市の利用者に散らして負担してもらうわけですよね?
孫:池田さんの理屈で行くと、小笠原諸島とか田舎の人とかに住んでいる人たちは当然、1か月に10万円も100万円も通信代を払えないので、結局置いてけぼりになるわけですよね。
池田:でも小笠原諸島の場合、通信衛星も放送衛星も通じているわけですよね。
孫:僕が申し上げているのは、いまメタルサービスが1400円で引かれていて、そのメタルが大赤字を出しているわけですから、それよりは光に置き換えたほうが赤字は減りますね、ということ。料金体制をどうすべきは、少なくとも僕は別途に議論のあるところだと思っています。
なおかつ私の思想として、田舎に生まれてしまった、あるいは離島に生まれてしまった子供が、生まれながらにして光を前提としたクラウドサービス、教育が受けられない、医療のクラウドが受けられない、いうのはあまりに可哀想すぎるということです。だから僕は「基本的人権」だということを申し上げているんですね。そういう切り捨てられる人を出すのはあまりにも忍びないと。切り捨てずにちゃんとやれるのであれば、そのほうがベターで、いま現在はNTTがちゃんと議論をされた上で、法律でユニバーサルサービス義務ということで、メタル回線は1400円で全国、離島も含めて提供されているわけですから、そのメタルと同じ1400円で光に置き換えると、まず第一段階それをやるべきでしょうというわけです。
��~~
↑この議論は、「足を引っ張られる都市の住民」と「負担してほしい僻地の住民」という大昔から進歩陣と保守陣でくりひろげられがちだった問題に言及している。
で、わたしカモメの意見を申しませば、かば氏(筆名)がおっしゃってた「まず無線LANから飛ばしなおす」方が今の段階では合理的ではないかと。ソフトバンクや国がまじで光の道構想とやらにのりだせば(というかのりだすのはまず間違いない。原口大臣のポジション参照)、きたいば人が勝手に負担しちゃったウン億の公費はまったくぽしゃんになります。ソフトバンクか国の公団が、ほっといても全国一律で光ケーブルひいてくれる将来があったのに、あーあとなる。
某女性議員が感情論で、かわいそうだからやってあげましょうよ、的次元で出したアイデアなんだろうけど、はっきりいってあんまり賢い話ではなさそうで。100Mbps程度無線で十分。これが真理だろう。しかも山間部までもしケーブル通してやったところで、利用者が何人いるかってほぼ皆無だと予想する。町合いですらADSL回線利用者すら少ない情報過疎な現状を冷静に分析した方がいいでしょうに。要は、ほぼ完全に無駄な施策なので議論しなおした方がいい。かもめの意見ですが。
きたいば公費をひとりあたま110万ちかくつかって山間部の僻地住民へ光ケーブル施設してあげます議論について、参考になりすぎる頁をみつけたので転用。
以下引用です。
��~~
池田:ユニバーサルサービスの問題については、たぶん総務省の考え方と孫さんの考え方は少し近いと思います。僕を含めた多くの経済学者の意見は違いますが。なぜかといえば、たとえば料金を全国一律に1400円としましょうか、その値段でやるとしも、離島とかのいわゆる「条件不利地域」はどうでしょうか。今年の3月だったか、小笠原諸島に光ファイバーを全部引いたわけですね。八丈島からだいたい800kmくらい。小笠原諸島の人口は2500人しかいないのに、100億円かけて、そのうち60億円が政府が出しているんだけど、100億円を2500人にサービスしているから、1人当たり400万円の税金をつぎ込んでいるわけです。孫さんの仰る新会社は、この小笠原諸島にも例外なく引かれるわけだから、100億円かけて2500人にサービスするということが行われるわけですよね。この場合、一人当たり400万円のコストがかかってしまいます。
これを仮に1400円の料金で小笠原にサービスをするとすると、100億円のために「1400円×●年分」のコストを東京都民が負担してるわけですね。それは政府の税金じゃないけど、経済学でいう「隠れた課税」となります。つまりユニバーサルに同じ値段でサービスするということは、一番条件のいい人に課税する形となり、厳密な意味での法的な課税ではなくても、実質的には課税をすることになってしまいます。なぜそれがよくないかというと、それこそこれから新興国との競争は激しくなるというのに、東京の一番都心にある企業が結果的に小笠原のコストを負担することになると、競争としては劣位に置かれるんですね。よってグローバル競争の中で、日本の競争の一番エッジに立つ企業が、いわば、僻地のコストを負担することによって足を引っ張られてしまうおそれがあるということです。
孫:まあそれを公金を使ってやらないといけないというと、また議論が長くなるのですが。税金を1円も使わないで、上場会社としていままでに2600億円の赤字だった部分が、3500億円の黒字になって実現できるのであれば、損する人はいないわけですね。
池田:それでは東京都民が損をしてしまうんです。たとえば小笠原の 100億円というのは東京都民が負担しているわけですね。それが国ではなくて民間のお金だとすると、このケースで言えばアクセス回線会社が小笠原諸島に 100億円払って、それを他の都市の利用者に散らして負担してもらうわけですよね?
孫:池田さんの理屈で行くと、小笠原諸島とか田舎の人とかに住んでいる人たちは当然、1か月に10万円も100万円も通信代を払えないので、結局置いてけぼりになるわけですよね。
池田:でも小笠原諸島の場合、通信衛星も放送衛星も通じているわけですよね。
孫:僕が申し上げているのは、いまメタルサービスが1400円で引かれていて、そのメタルが大赤字を出しているわけですから、それよりは光に置き換えたほうが赤字は減りますね、ということ。料金体制をどうすべきは、少なくとも僕は別途に議論のあるところだと思っています。
なおかつ私の思想として、田舎に生まれてしまった、あるいは離島に生まれてしまった子供が、生まれながらにして光を前提としたクラウドサービス、教育が受けられない、医療のクラウドが受けられない、いうのはあまりに可哀想すぎるということです。だから僕は「基本的人権」だということを申し上げているんですね。そういう切り捨てられる人を出すのはあまりにも忍びないと。切り捨てずにちゃんとやれるのであれば、そのほうがベターで、いま現在はNTTがちゃんと議論をされた上で、法律でユニバーサルサービス義務ということで、メタル回線は1400円で全国、離島も含めて提供されているわけですから、そのメタルと同じ1400円で光に置き換えると、まず第一段階それをやるべきでしょうというわけです。
��~~
↑この議論は、「足を引っ張られる都市の住民」と「負担してほしい僻地の住民」という大昔から進歩陣と保守陣でくりひろげられがちだった問題に言及している。
で、わたしカモメの意見を申しませば、かば氏(筆名)がおっしゃってた「まず無線LANから飛ばしなおす」方が今の段階では合理的ではないかと。ソフトバンクや国がまじで光の道構想とやらにのりだせば(というかのりだすのはまず間違いない。原口大臣のポジション参照)、きたいば人が勝手に負担しちゃったウン億の公費はまったくぽしゃんになります。ソフトバンクか国の公団が、ほっといても全国一律で光ケーブルひいてくれる将来があったのに、あーあとなる。
某女性議員が感情論で、かわいそうだからやってあげましょうよ、的次元で出したアイデアなんだろうけど、はっきりいってあんまり賢い話ではなさそうで。100Mbps程度無線で十分。これが真理だろう。しかも山間部までもしケーブル通してやったところで、利用者が何人いるかってほぼ皆無だと予想する。町合いですらADSL回線利用者すら少ない情報過疎な現状を冷静に分析した方がいいでしょうに。要は、ほぼ完全に無駄な施策なので議論しなおした方がいい。かもめの意見ですが。
2010年6月20日
そういえば
ワ○×ーグ○×というのが生えてきて、だいぶ小中高生が入ってる。
で、こないだこれも様子見に行ったのだが、なにが話にならないかって、品揃え。
なんのしなぞろえかって、教養書が皆無。すべてマンガ雑誌とDVD。くだらん。いかに市民レベルが最低級かを実証する。あれでなりたってるらしいし。
��Dだけならまだわかるが、ピ○×△ートなきキタイバにはあれ、と、これは過疎すぎる話だ。おとなが行く場所ではなかった。
ゲーム機とかはとても破格だが、むかしからこの一帯にゃーああいう系の中古転売やが入ってきては出て行った。つまり売れないか、売れてもすずめの涙なのだ。放課後に中学生がきておためしゲームやって中古ソフト買うレベルではおそらく店舗規模の大盤振る舞いからして成り立たないと見る。
とにかく、本屋は一個敗退してのち、この町は教養という要素がますます減退してしまった。キタコーとまじってからもっとひどい。高校生といえば犬かと思う。あちこちで放課後のみならず発情してカップルでひっついている。
おや含め親戚にもおそらく本格的な勉学という経験がないのだ。大学もないし、将来はあのコ○×バイト級のビジョンしかないからだし、それならそれでまじめならまだ許せるがもとがもとの血統なので茨城のいなかにありがちな暴走族末端コースまっしぐら。どうでもいいが。
暴言におもえるかもしれないが、しょせんはながれかもめの小話なのでききながせばいい、風に。
しかし首都圏との学力格差はまじで深刻だ。こないだ六角堂んとこにある記念館みたいな、天心の展示してるところにいたオッサンが東大でなきゃな! とかほざいてたというかおっしゃってたが、庶民がその次元じゃはなしにならん。東大出たクズは山ほどいるのだ。
というのは冗談だが、ありていの学歴さえめざさない次元では専門学校卒のアインシュタインになる気勢は皆無。塾いって大学で遊んで帰ってきても、なんの功績もあげなければ高萩三英傑にすら劣るのだ。
シンプルに大学行けと言うより、勉強しないのを恥じれば? という。茨城人にありがちだが、批判されると極度に怒る。闘犬か。これでは永遠に東京以下と蔑まれて終わりだ。水戸学の風土もこの北国までは届かないと見え、ちっとも勉学を奨励する気がまちそのものに欠けている。詩はいいのだ、奨励せずとも自然とかが他の土地よりめずらしく綺麗なら勝手に俳人詩人がでてくるのだから。
戦争した途端、知識の次元で負けるというのを自覚させた方がいい。もちろんスポーツ競技ふくめ。
無法な暴走行為で発情では永久にチューリングマシン以下の知能で終わりだと悟るべきだ。もし今後の縮小財政下でも清貧に甘んじてわらび食らって餓死するつもりならそれでもいいのかもしれないが!
かもめ的にはあきれる。で、放送大学でいいのでカネある市あたりが共同アンテナ買って市役所からまとめて24時間再配信すればいい。そうすればわざわざ少子化時点でリスク高い大学設置などせずとも、今ある設備相当でも、地上波で教養促進ができる。個人的にはあの書店しかないまちでも暮らせてる次元じゃどうでもいいことに使う可能性の方が高い、光ケーブルによる山間部の過剰情報化なぞよりそっちが優先だ。まず知識がなさすぎる。
大体首都圏ではタダで流してるものを流用しない方がおかしい。田舎ものらしく損しかしないだろう。
で、こないだこれも様子見に行ったのだが、なにが話にならないかって、品揃え。
なんのしなぞろえかって、教養書が皆無。すべてマンガ雑誌とDVD。くだらん。いかに市民レベルが最低級かを実証する。あれでなりたってるらしいし。
��Dだけならまだわかるが、ピ○×△ートなきキタイバにはあれ、と、これは過疎すぎる話だ。おとなが行く場所ではなかった。
ゲーム機とかはとても破格だが、むかしからこの一帯にゃーああいう系の中古転売やが入ってきては出て行った。つまり売れないか、売れてもすずめの涙なのだ。放課後に中学生がきておためしゲームやって中古ソフト買うレベルではおそらく店舗規模の大盤振る舞いからして成り立たないと見る。
とにかく、本屋は一個敗退してのち、この町は教養という要素がますます減退してしまった。キタコーとまじってからもっとひどい。高校生といえば犬かと思う。あちこちで放課後のみならず発情してカップルでひっついている。
おや含め親戚にもおそらく本格的な勉学という経験がないのだ。大学もないし、将来はあのコ○×バイト級のビジョンしかないからだし、それならそれでまじめならまだ許せるがもとがもとの血統なので茨城のいなかにありがちな暴走族末端コースまっしぐら。どうでもいいが。
暴言におもえるかもしれないが、しょせんはながれかもめの小話なのでききながせばいい、風に。
しかし首都圏との学力格差はまじで深刻だ。こないだ六角堂んとこにある記念館みたいな、天心の展示してるところにいたオッサンが東大でなきゃな! とかほざいてたというかおっしゃってたが、庶民がその次元じゃはなしにならん。東大出たクズは山ほどいるのだ。
というのは冗談だが、ありていの学歴さえめざさない次元では専門学校卒のアインシュタインになる気勢は皆無。塾いって大学で遊んで帰ってきても、なんの功績もあげなければ高萩三英傑にすら劣るのだ。
シンプルに大学行けと言うより、勉強しないのを恥じれば? という。茨城人にありがちだが、批判されると極度に怒る。闘犬か。これでは永遠に東京以下と蔑まれて終わりだ。水戸学の風土もこの北国までは届かないと見え、ちっとも勉学を奨励する気がまちそのものに欠けている。詩はいいのだ、奨励せずとも自然とかが他の土地よりめずらしく綺麗なら勝手に俳人詩人がでてくるのだから。
戦争した途端、知識の次元で負けるというのを自覚させた方がいい。もちろんスポーツ競技ふくめ。
無法な暴走行為で発情では永久にチューリングマシン以下の知能で終わりだと悟るべきだ。もし今後の縮小財政下でも清貧に甘んじてわらび食らって餓死するつもりならそれでもいいのかもしれないが!
かもめ的にはあきれる。で、放送大学でいいのでカネある市あたりが共同アンテナ買って市役所からまとめて24時間再配信すればいい。そうすればわざわざ少子化時点でリスク高い大学設置などせずとも、今ある設備相当でも、地上波で教養促進ができる。個人的にはあの書店しかないまちでも暮らせてる次元じゃどうでもいいことに使う可能性の方が高い、光ケーブルによる山間部の過剰情報化なぞよりそっちが優先だ。まず知識がなさすぎる。
大体首都圏ではタダで流してるものを流用しない方がおかしい。田舎ものらしく損しかしないだろう。
かもめのなきごえ
はまのお月は ふたつじま
てらされて おまんじゅう
まふゆのうみべに花火とは こりゃびっくり
としよりのとしがちぢみあがる こりゃおおきな大砲か
ざぶんざぶんと まよなかのお月さまは
やまみつまんじゅう ながめておれば
かもめのなきごえ クォーククォーク
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なかごう
かもめ的におもうに、なかごーの上桜井といいますか、
田んぼだったあたりの開発ペースは異常ですね。素で
ほとんどうっちゃれ級のはやさだ。
とちうればお金ははいるでしょうが、田んぼはもどらない
ちいさなこどもがみちばたで、あのショッピングセンターまえで
じくじく地面いじくってあそんでたんですが、ぼくかめも的にいうと
孟母三遷というところじゃないですか? ま
なかごうあたりにおすまいの方にとってはたいへん便利なんでしょうね
くぉーくくぉーく
しの計画でーみてたらー
なかごーのえきのむこうに開発するみたいでした。なにするんでしょう
長久保赤水の碑とかながごーえきまえにちゃんとありますし、
いまはたかはぎっこにぶんどられてっけど、あのあたり
むしろとっかえせばいーんじゃないってかんじっす。かめも的にはです。うん。かもめのメモ
ま
市政ですけど。かもめ政治にはむりなこった。とんでるたけだもん
なかごーなかごー、赤水のいえはあそこだよ
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majimeni
しょせんはかもめ、ながれかもめ
船頭小唄じゃありませんが、なもなきながれかもめのブログ
あーあー かもめはね
かもめのめのね みてるのよ
かもめのめのね こどもなら
ひゅーひゅーかぜふく はまのすな
なみうちぎわ の はま ふぶき
やままでとべば とびすぎて
つかれてへばる はまのうた
はー
こないだ、北茨城私設応援団ブログでみたんですが
http://kitaibaraki-guide.cocolog-nifty.com/blog/のです
まちの活気のために やすうりしなよ、って
しまってる市街地のあき店舗とかね
けどねーもともときたいばらきってやるきないんじゃない?
というわけでは当然ないが、かもめ的にいいたいのは、
やすうりするとヘンなのはやるんでーやめてほしい
かといってー磯高生とかキタコーといっしょになってうざいしー
クォーククォーク(なきごえです。コドクな)
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かといってー磯高生とかキタコーといっしょになってうざいしー
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市政のこと
個人的意見としかいいようがないのですが、「全員協議会」とよばれてる、本会議の直前にひらかれてるはなしあいはできたらやめてくださったほうがよろしいかと。これはただのかもめのジョナサン(じゃない)の意見でして、ききながされるとおもいます。けど、かもめにはかもめの意見があるのです。おかしなはなしだ、クォーククォーク
なんでそうおもうかといいますと、集団思考というものがあって、反論できにくいようなだれもにみられてない場所だととっちめるといいますか、意見いいにくいんで、本会議に支障あるんじゃないかとおもうんです。ほんま。いえ、本田じゃないです。サッカー日本代表、あっはっは。まけましたね、水戸ホーリー発句
なんでそうおもうかといいますと、集団思考というものがあって、反論できにくいようなだれもにみられてない場所だととっちめるといいますか、意見いいにくいんで、本会議に支障あるんじゃないかとおもうんです。ほんま。いえ、本田じゃないです。サッカー日本代表、あっはっは。まけましたね、水戸ホーリー発句
たしかに
文字はちいさめですが、ファイアフォックスというしゃれたブラウザーつかえばでかくできます。北茨城私設応援団という優秀なブログなんかも、そうやってでかくして読んでます。よろしく。どうでもいいはなしですが。