2018年3月15日

卑屈な客を避ける事

 茨城という名義に対する反応で、相手の品性がわかる。この名義へ差別的にふるまっている相手は第一に下賎で、第二に無教養である。我々はこの県、常陸国の偉大な歴史と尊厳を知っており、茨城に無礼を働く相手はそれをしらないのだし、よく知らない相手を軽侮や差別する時点で人格的に劣悪であるばかりか、もし知っていて非礼を働いているなら二重に悪辣だからだ。つまり、茨城という言葉は嘗て先住権蹂躙の侵略罪業を行った皇族閥を含め、相手の品格のリトマス試験紙に使える。
 ブランド総研の田中章雄や、この会社の会員、そして東京マスコミは、非常に品性下劣で無知な人々だという事が明らかである。人品には貴賎がある。自分に劣る相手とのつきあいは自分に害がある。魅力度調査という母数集団の限られた疑似統計による虚報とか、傲慢な都内マスコミの都鄙差別に基づいて、負の後光効果から偏見をいだき、向こうから差別的に扱ってくる相手というのは、確率において先ず100%卑しく、愚かな相手に違いない。田中は特定都道府県を差別する確証バイアス情報でカネを稼ぐ、という極めて卑しい生業を行ったに過ぎないが、我々の側は長い間この不当な人権侵害と地域差別を受け、日々状況を観察し尽くした末、汚名を着せられるという一見した不合理とは逆に、我々にとってごく好都合な徳目をみいだすに至った。虚報の偏見に洗脳され易い無知蒙昧な差別主義者を、単に我々の出身地名、居住地名を表すだけで遠ざける効果があるのだ。その種の悪人とつきあうな、という自衛に、魅力度という確証偏見は確かに使える。事実、私の人生経験上も、茨城県に偏見をもち差別してきた相手は、例外なく卑賎で愚かな、つきあう価値のない人々だった。即ち、北海道、沖縄、京都や東京といった地域を偏見に基づきひいきしている人々も救いようがなく下劣なのだろう。
 たとえこの種のテストの利用法をしらないとしても、無意味に差別してくる相手と自分からつきあおうとする鼓舞は無い筈なので、自然にその愚人卑人から遠ざかる結果になってきたのではないだろうか。茨城という言葉は天皇による人権侵害と日本人虐殺の史実という非常に独特の語源をもっているし、一般にはこの様な負の印象を与えかねない語源の名義を己につけはしないのであって、その事をも知らない相手が、或いは都内の悪意ある下衆なマスコミの偏見報道に簡単に染まって、無色透明な相手を罵るとしたら、天皇家同然に人の痛みがわからないばかりか罪なき人を殺害して驕る最悪の蛮族だという証拠になる。
 今上天皇は弟に常陸宮という親王任国の慣例による名義づけをしたわけだが、水戸藩尊皇志士の多大な犠牲からなった近代化と対照的に、水戸学を悪用し水戸藩を踏み台にした薩長藩閥以後の茨城県域への皇室やその母体である日本政府からの冷遇ぶりは目に余るものがあるし、平成以後はネットで田中を含む西国移民や都民らが凄まじく悪意ある差別偏見を茨城へ持っている事も実証された。よって貿易を除けば下品な県外南蛮西戎とつきあう価値は無いことになるが、松陰や西郷、木戸孝允にみられた通り、一見敬ってくるようにみせかけ内情を偵察し、松陰や木戸は倒幕論に転向し水長同盟を裏切り、西郷は戊午・倒幕の偽勅を皇族閥に書かせ首都圏で内乱させるなど、のちに悪意を込めて平気で裏切って茨城に汚名を着せ、ありとあらゆる害悪を為す、という手の込んだ悪人も薩長からやってきた厳然たる史実があるわけで、単なる差別主義者より余計に、茨城を表向き敬ってくる面従腹背の相手は疑わしいと考えるべきだ。

 たとえば国民主権と尊皇論は政教分離原則の前で二律背反し、或る場合に一方を取ればもう一方は取れないので根本から矛盾している。尊皇と愛民を国体論で統一した烈公と藤田東湖の思想が、松陰の中華皇帝風一君万民論の影響が弱まった戦後政府で影響力を回復し、象徴天皇という徳川時代の大義名分的な体制に国政はとりあえずおさまっているとはいえ、天皇皇族の政治利用によって公卿的な京都人寡頭政をめざす京都市門川大作・京都府山田啓二の両首長が省庁再編に介入している上に、松陰を神格化する長州閥原理主義の残滓である日本会議や神道政治連盟議員が再び天皇主権による帝国主義を復活させようとしている為、また事態は複雑化してきた。
 茨城という名義は、黒坂命を含む皇族閥という飛鳥時代に大陸・半島から移民してきた一部の弥生人や任那人、百済人らが、先住権者の日本人を一方的に虐殺したという、天皇家の侵略罪業を表している。と同時に、水戸家が尊皇論を藩士へ植えつけた経緯として、殉死した尊皇志士がこの県では極めて多く、特攻隊員や皇道派の人々を含め、極大の自己犠牲による忠誠の証拠が山ほどあるにもかかわらず、今日の皇室含む日本政府や東京都・京都府京都市といった天皇を政治利用中の後援者、そして天皇制に依存し或いは神道に帰依する日本国民からの軽視、蔑視、差別がある、という矛盾した情報が読み込める。したがって茨城史を知る者にとってこの2文字の情報量は非常に大きいわけだが、何も知らない人にとって、この文字は「茨」という苦難に満ちた路程を意味する茨の道なる慣用句の他あまり使われないため、少なくとも日本では好印象をもって捉えられない傾向があるのか、悪解釈からの偏見や確証バイアスに基づく差別的汚名をひたすら着せてくる衆愚が続出するわけだ。

 全てを鑑みると、 たとえ維新胎動を僭称し、奥羽越や徳川領、北海道と沖縄、他の東亜諸国を犠牲に幕末の内乱罪を美化する、薩長土肥の様に利己的なだけの明治右派であれ、たとえ弥生時代以後に日本人を奴隷化してきた中国移民の天皇家であれ、又その手先であった全華族やその末裔であれ、これらの人々は過去から現代に至るまで自分の事しか考えていないし、他人に害悪を与えて平気でいるばかりか逆に貶めている性質の人達であり、その種の利己主義者が飛鳥時代頃から徐々に全日本を王朝とか宮中とか殿上とか幕府とか政府とか宮内とか名乗る暴力団の集まりから支配正統性の偽装で洗脳してきた。これらの人々について脳科学的には遺伝子上、線条体ドーパミンD2受容体密度が低い(自己優越の錯覚をもち易い)とか、共感知能が低いとか、教育上、利他主義が軽視されているとか、天皇家や公卿公家、薩長土肥のやった悪事を合理化して教わってその洗脳を批判できていないとか、色々な理由があるだろう。またこの洗脳を受けて平気でいる日本人衆愚のがわには、脳のセロトニントランスポーター数が遺伝的に少なく常に不安を感じ無意味に群衆化し易いとか、それに加えて受けた教育上、数の暴力や強弱を善悪と誤認し易いとか、弱肉強食や勝てば官軍を信仰していて善き敗者とか、負けるが勝ちとか、判官びいきを理解し辛いしその立場にたとうとしない、また事大主義の傾向があって当時の政府や権力者、多数派に媚びを売るとか、そもそも卑屈だとか、こういう性格的傾向があるといえるだろう。
  我々が茨城という烙印によって相手のもつ内心の反応を分析し、見分けられるのは、冒頭に示したよう、これら下品で日本史に刻まれた過去の経歴が悪い人々か、それとも、冷静で科学的にわが県の事績を踏んで貴族的に我々と接する相手か、あるいは、悪意をもってわが県の内情を探るつもりがあり、将来にわたっても裏切る可能性がある相手か、である。法則として、茨城という言葉に対する反応が
1.差別的な時 → 下衆
2.中立的な時 → 無知な人
3.敬仰的な時 → 知識人
4.敬仰的かつ卑屈な時 → スパイ(あるいは裏切る可能性がある人物)
といえるかもしれない。ここでいう卑屈とは、相手が自分から下手に出てくることだ。自ら卑屈にふるまう事を心地よいと感じる人は先ずいないので、敬仰的かつ卑屈なのはその態度が下心を含むと示しているし、本心では見下しているからわざと卑屈にふるまって相手の弱点を探ろうとしているか、面従腹背で相手を侮っている、つまり慇懃無礼か、いずれかである。松陰や西郷はこの種の奸賊で、弘道館で藤田らに教えを請う卑屈に思えるふるまいの後、わが県に及ぼした災いは最大だった。150年もこの二者を寛容の精神で水戸藩士がもてなしてしまった災厄は続いているのだ。
 おもてなしだの観光立国だのが、己の権力維持の為アメリカへ媚びる円安誘導目的の安倍晋三や、賄賂五輪の東京都、古都誘客の京都から唱えられ、財政基盤が脆弱な各地の自治体も同調する傾向にあるが、わが県の経験則からいえるのは、招かざる客がもたらす災いのすさまじさからいって、決して非選択的な来訪者歓迎はよい結果を伴わないと確信できる。日本含む世界には悪意ある人物、根っから性悪な人物が数多いて、天皇家や皇族、原発をもってきた都民、薩長の人物がそうであったよう地域破滅の原因になる。我々は北茨城市や茨城県に公益をもたらす人とのみつきあうべきで、上述の分類によれば、少なくとも平成日本で最多なのは下衆、次が無知な人であり、知識人はつくば市があるとはいえ相対的に数が少ない。裏切る可能性がある人物という意味では自民党の国会議員や皇室が現にそうであるし、実際に隣県の状況をしりながら原発再稼働を推進したり、差別主義者のたかる中華思想の都内から暴利して何一つ還元せず、わが県民を裏切り続けている。上述の分類ではスパイが最悪であって最も気をつけねばならず、我々にもたらす災いを考えれば、最大限排斥されるべき相手である。次が下衆であるが、この人々はもともと偏見や無知を悪意で糊塗する卑しい連中であって、そうであるからには進んでわが県に用はないから、観光業にとっても好ましい客でなくわが県を訪れるだけ害悪である。そうすると我々が集客するべき標的は、第一に定着と観光どちらについても我々の公益になる可能性が最高の知識人や教養人であり、第二に無知な人である。ただし、無知な人だけでなく知識人の中にも道徳心がなく利己的なだけのスパイに転化する者もいるので、結局、集客フィルターは誰に対しても必要だ。既に田中や都内マスコミによる洗脳下の下衆は最初からつきあう相手としては元より集客対象から外すべきだが、それ以外の人々については、卑屈で利己的な人物かどうかを見分けるのが重要である。端的にいうと、卑屈な態度で生きている人は人格的に劣悪であって、利己的な人物がわが県についてある程度より知識を持っている状態のとき内心を隠すため慇懃無礼な態度をとる筈だから、この点で疑わしい相手を遠ざける事がとりあえずのフィルターになる筈だ。たとえば大政奉還を記念しながら水戸市はじめ、行方市、北茨城市を呼ばなかった現京都市長は第一に下衆か無知であり、第二にこれから何かを調べてがわが県を訪問すれば先ず確実に慇懃無礼な態度をとる事だろうが、この卑屈な態度をとる人がわが県の為になる可能性は万に一つもなく、却って自分の事しか考えていない証拠である。従って専ら呼ばずばこまいが、例え機会があってもこの市長はつきあうべきでない相手、自ら忌避し、遠ざける必要がある相手なのが明らかである。
 又上述のよう便宜的分類をいくらしたところで、相手が完全に理解できるものでもないから、我々にいえるのは誰とでもつきあったり、誰でもいいから集客しようという考えは一切捨て、品性において我々以上の人物にのみ親しむべきだという事だ。

茨城県政の三大革新

 つくば市の駅前にみられる通り、TXの常磐線との接続で起きる必然として、ストロー効果で県央の商店が東京圏にとりこまれ衰退する。大井川氏が新幹線誘致構想を前高萩市長小田木氏へ述べていたと私は記憶しているが、JR自身の常磐線やTXの磁気浮動化で十分な技術改良なので、新幹線停止駅に古河駅を加える運動(或いは既に行われている地下鉄延長誘致)程度の話にとどまる筈だ。実際、首都圏の鉄道網と接続してしまうと茨城側にはマイナス面も大きかったし、今後とも大きいだろう。守谷市の場合は埼玉・千葉・神奈川の様ベッドタウン化で人気を博したのだろうが、これは茨城都民を増やす結果にはなっても茨城側に雇用や経済発展を生まないし、県内商圏自体が吸い取られてしまう。
  TXを水戸へ延線させようとする県内商人は、県内雇用を生む勝算がないのに、全国同然の前轍を踏もうとしている。つまり我々にとって重要なのは茨城県内へいかに超東京的な為事・生活環境を作るかであり、北央まで東京圏にとりこまれる事では決してない。
 少なくとも自分がみる限り、茨城県の近未来は東京圏より遙かに発展した三大都市が連なる独自の道であり、それは茨城圏、常磐圏など別名で呼ばれ、東京圏とは峻別されている筈だ。この三大都市は専ら日立、水戸、つくばであり、三商圏とそれぞれの間の交通網をいかに整備するかが重要である。西日本や北日本、茨城県外の日本人らはテレビをはじめとしたマスメディアやアニメ漫画といったサブカルチャーに洗脳され、そこで理想的に捏造された東京圏の虚像を妄想して、飛んで火に入る夏の虫として南関へたかってくる。都内の最悪の住環境での地獄的東京生活で心身とも打ちひしがれ、理想と現実のギャップで憂鬱症になる、パリ症候群ならぬ東京症候群を発症する。いうまでもないことかもしれないが、都会とはどこもその様なものだ。我々が行うべきなのは、東京圏含む全世界の都市圏の欠点を完全に克服しきった、宇宙のどこよりも優れた生活圏を着実に作っていく事で、それは前知事時代を含め既に多かれ少なかれ行われ来た。人間が快適域として生活上の欠点を克服し得る住環境とは、大都会でも大自然でもなく、田園、郊外、里山、田舎、中小都市、或いは単に(街か町の文字で)まちといわれている中間地帯にあって、これらは都心と自然という両極端の非人間性をもちあげた状態である。しかし経済原則たる集積の利益と、環境保全たる自然保護が無用な訳ではなく、人間は少なくともこれらの都市と自然の両極間を合理的に行き来できるうえに中間的な場所に居住地をもっている状態、即ち、住環境にあっては自然現象をある程度制御しながら人に快適な面を利用しながら、商業化された雑多な都会へは用があるとき快適かつ素早く、利便性高く、容易に出たり入ったりできる生活形態が一般に望ましいのだ。東京都民含む南関人や、京阪神や福岡を含む西日本の東京メディアバイアスに犯された人々、また札幌や仙台人を含む北日本の人々、或いはサブカルみすぎのオタク外人は、この中庸的という意味で優れた生活環境に関する洞察を余り明白にもっていないからこそ、東京という虚構のスラムへ無駄に憧れる。時には現徳島県知事や京都市長・京都府知事のよう田舎コンプレックスを爆発させて「vs東京」なるキャンペーンを打ったり自文化中心主義で世界の中心ぶったり差別化ごっこで逆行し、また都民自身もメディア喧伝完了と踏んで優越的欺瞞のナルシシズムへ同一化しながら中身の空っぽな東京中華思想に耽って、愚か者の偏見をかき集めた魅力度だの田舎だの都外だの23区外だの別の区への無意味な差別観をばら撒き、悪行三昧しているのだ。都内が舞台の漫画アニメの様な人生に憧れる幼稚な外人は、現実の多かれ少なかれ悲惨で窮屈な東京暮らし、或いは変型版では京アニ洗脳での同様な京都暮らしでそれが偶像崇拝だったと気づいた時には、もう移民相手の都内商人や京都商人からふんだんに大金を貪られた後であって土台手遅れである。端的にいうと天皇家が彼ら衆愚の盛んに真似る偶像なわけだが、この人達の都心に暮らしながら別荘地を巡るという中華皇帝を模倣した生活様式が、劣っているのだ。なぜなら都心は過密や自然破壊のため汚染されており、不衛生で生活に不適かつ不快だからであり、別荘地を近隣の自然の中にもっていたとしても普段の生活面での害毒を補うに足らないし、逆に自然の中は非人間的かつ不便なので長く留まれないから。一般国民が郊外に居住し、まれに自然に親しみつつ都会に通勤したがるのはそれが生活上最も快適で、合理的だからである。つまり茨城県がつくるべき環境とは、自然と都会を残しながら両者を調和させた郊外で結ぶ事であり、いま現在、日本人一般の生活環境に対する趣味は宮内庁発記者クラブをはじめ都内中華マスコミによる醜い洗脳の為か極々悪いので、既に快適な住環境において東京圏より先に進んでいる茨城県含む首都圏北部を認識することすらできていないのである。西日本人の東京コンプにうろたえた様子や、都民の凄まじいうぬぼれと高慢をしっていれば、およそ今後とも、かれらにはできないだろう。哲学が理解できなければ相手は彼らより上位の存在であって、価値観含む存在そのものを認知できない。
  具体的に今後我々がつくるべきなのは、茨城空港を巡る日水筑三大都市圏での仕事づくりと、県内各地からそこに通じる大動脈交通網だといえる。核シェルターを兼ねた重厚なコンクリートチューブを地下に通す県道や、地下鉄網が必要ではないだろうか。またTXを東京側からみるのでなく、茨城側からみて、いかに茨城の為に利用するかだけ考えればよい。その為には筑波、水戸、日立が世界で最も優れた職場や学校の町になる事が優先されるべきで、税制面で起業家を優遇し、世界で最も起業や会社・資産移転をし易い自由人主義的施策の為に、想定される商法面での全規制撤廃が必要である。TXを水戸まで延伸させる場合、首都圏人口を丸ごと水戸ーつくば間に引っこ抜きつつ更に全世界から吸引するつもりで、先に水戸か日立へ遷都を行ってからするべきだ。つまり県北県央に人口流入の誘引がない段階で延伸をするのはただの悪手で、東京の植民地として埼玉、千葉、神奈川のあとに加わるだけの結果になってしまう。全世界人類が必然に茨城県央、県北で生活したくなるしかない鼓舞が首都圏との交通網の完全整備に先立たねばならない、というのがこの小論の結論だが、いわばストロー効果に対してコップ作りに集中せよというわけだ。
 じゃあもっと具体化すればそのコップがなんなのか。次の点が全て具備されるべきだ。
1.茨城ではBI(基礎所得)がもらえるので生存権が保障される
2.茨城では金融所得に課税がなく寄付にも無課税なので投資と慈善が進む
3.茨城では起業資金を出世払いで借りられるのでベンチャーリスクが世界一とりやすい
これら茨城県庁が率先すべき三大革新は若年層を主とした全世界の人々が夢を見られる環境の最低条件である。同時に、命を害する不安の源泉であって子育てに最大公害の上に防衛上の致命的弱点である原発を日本で最初に廃炉成功する事は、ひとさまを呼び込むのに先立つ第一前提だというほかない。過ちて改めざるを過ちという。むしろ、大井川氏を含むこれまでの茨城県民は東京都民と日本政府、一部の自民党員、そして日本原電の株主共から完全に騙されてきたのであり、お人よしの田舎者の命を我欲のため換金している原発ヤクザとは、金輪際、断固として即座に、縁を切らねばならない。君子豹変。極悪人と手を組む者も極悪人たらざるを得ない。
 もしこれらの革新を県庁が遅々として行わなければ、北茨城市が単独で先行実験し、県北発展の礎となるべきだ。なおここでいうBIで負の所得税として、高所得者が払い、中所得者は払いも貰いもせず、低所得者がもらうという累進化をはかるか、それとも単なる全員一律で生存所得を保障するかだが、どちらが望ましい結果をもたらすかについて社会実験が必要だ。財源を全市民分の生活保護費とし、期間を区切り二通りやってみて、市民アンケートや経済状況の変化からより優れた方を残せばいい。

2018年3月12日

和歌山県政の模範点

 和歌山県では、リスク分析付きの避難場所表示、携帯・スマホやデジタルFMを使った災害情報発信、災害時に被災地に派遣する要員を予め任命しておく災害機動支援隊や瓦礫処理システム、芝居でない実践型防災訓練、災害復興計画の事前策定、などを行っていて、世界で唯一地震の実測データを使って全県で津波浸水予測ができるという。
 更に、和歌山県知事の仁坂吉伸氏は『稲むらの火』の説話にみられる濱口梧陵の行動から学んでいると思われるのだが、すなわち津波来襲後に自らの畑の藁を燃やし暗闇の中で村人へ避難路を示した史実から(物語のなかでは、津波に気づいた五兵衛が、わざと高台にのぼって稲を燃やした。火事が高台の方でみえたので、火事をとめるため、高台へのぼって来た村人は、しらずしらず津波から守られた、という話から)、仁坂氏も和歌山で予想される津波災害時に、どこまで被害があるかを事前に計画し、その後の復興計画まで立てて災害に備えているという。なぜなら復興に遅れるほど被災前までの回復が不可能になってしまうため、被災後にすぐ県民へ行動の筋道を与えられ、しかも津波によって町の一定の部分が破壊されてしまえば都市計画なども真新しくできる為だという。
 仁坂氏は他に、日本の企業が新卒しか採用しない悪習というべき慣行をもっているため、その時点以後に就業の機会を失ったり、転職者の人々の為の「第二の就活サイクル」を作り、多くの企業や団体に協力を願って新卒就活サイクルの終わる9月の後、10月から2月にかけ、企業等に改めて中途採用の求人を出してもらい、それを集めて宣伝や就職イベントなどをどんどん行って、新卒以外のひとびとが就職を決めやすくしているという。さらに、一度民間企業で働いた元公務員などが再び公務員にもなれるよう、年齢制限などを廃し、中途退職者に就業の機会を与えるとともに、民間の知恵を公務に生かすようにしているという。
 これらの事はそのまま茨城県や北茨城市が習い、真似るべき事だといえるだろう。仁坂氏は名君だといえる。
 茨城や愛知もそうだが、旧徳川の支配地は薩長イデオロギーに染まった東京マスコミから不当な差別を受けたり軽視されたり、偏見で虚報されたりするのが常だが、和歌山も決して例外ではなさそうで、いかに善政徳政を行っても、或いは和歌山県民にとって望ましい内容でも、東京の報道では少しも取り上げられない事を仁坂氏は随筆の中で苦慮しておられた。この憂慮は茨城県が長い間被ってきた、都内からのありとあらゆる偏見虚報についてもほぼ全く同様で、むしろ和歌山の方が東京から遠い分ましであって、我々の場合は直接都内から県知事選のときだけ内政干渉に来て県内自治を破壊し尽くし、その後はケロッと忘れて平気でいる自民党系のテレビ政治屋国会議員だらけという有様である。茨城県がやる事為す事なんでも悪解釈し、善意を悪意で受け取るばかりか、善政を悪政かのように罵っておきながらその茨城県側で行われた政策は、内閣府とか国土交通省とかの日本政府側の事業であったという事が茨城空港の開港、日本原電の東海第一第二原発、筑波学園都市事業以外にも腐るほどある。要するに都民や都内マスコミは正真正銘の馬鹿なわけだが、馬鹿であるのみならず品性は最低級の下賤であるから、都外を天皇だか政府だか大企業だかを後光にした空虚な自己優越感に基づいて完全に無意味に見下す有様であって、この種の衆愚をかかえた東京都知事の苦労が並々ならぬものである事も、恥知らずにも垂れ流す都政の乱れっぷりで全国放送されている。そしてその都民の醜態は、当然ながら、我々の地方自治や日常の平穏な暮らしより遙かに堕落している。簡単にいえば、東京都は既に衆愚政状態なのであって、その事は国政についても同様だ。
 和歌山の様にしっかりとした地方自治を行っている自治体こそ、日本の本位であり、わが県わが市も和歌山県知事の徳政を模範にし、災害から就職までの対策を自発的に十二分に完成させていなければならない。東京や日本政府が何度ぶっ潰れようが、わが県わが市がしっかりした賢民良官のもとで自治領土を守り切っていれば、何の心配もいらない。和歌山県政はその事を教えてくれている好例だ。

2018年3月11日

石川県知事の再多選から導かれる結論

 石川県知事谷本正憲氏が7選され、前茨城県知事橋本昌氏の6選を超過した。しかし、見ての通り、全ての自民党議員も都内マスコミも全く何の批判も非難もしていない。谷本氏を自民党が推挙していたからである。自民党の国会議員や地方議員達は、茨城県知事選挙の時には「多選の弊害」と罵り、それまで散々お世話になってきた橋本氏をひたすら侮辱していた。特に小泉進次郎氏、石破茂氏、野田聖子氏の三者は地方自治権と何の関係もない、他県選出の国会議員の分際で、県内各地で当時の知事を散々罵った。このうち小泉進次郎氏については、復興担当大臣として茨城県知事橋本氏の世話になっていたにもかかわらずだ。これら以外に菅義偉氏はこの時期に故梶山静六氏の墓参りに来てマスコミの前で橋本氏を罵り、大井川和彦候補を支援するとし、示威行動ととられかねない言行をとっていた。これらすべてを鑑みると、わざわざ党規を乱してまで多選中の安倍晋三氏の元で、各自民党議員が口々に唱え都内マスコミを扇動していた「多選の弊害」という虚偽の理屈は、完全に国民県民を騙す悪意ある自民寡頭主義の戯言であったと理解できる。
 大井川知事が大真面目に多選の弊害を防止すると述べているのは余りにうぶであって、現に石川県では7選という30年近くに渡る長期独裁が実現しているし、その後援をこれまた長期独裁中の安倍という党首がやっている。これらに加えて、125代という狂った超長期独裁中の天皇明仁あるいは天皇家、皇室と名乗る一族も、象徴という名義で日本政府に寄生し続けている。大井川氏は一体何をどう見てこれら自民党寡頭政治や、都内マスコミ、邪教祖天皇、それらにあおられた日本衆愚の偽善や欺瞞を言い訳できよう。もし長期政権が本当に腐る必然があって変えねばならないのなら、既に茨城県知事については叶ったのだから、次期からは石川県知事、自民党首、天皇のいずれかの地位の世襲多選を全力で一挙破壊してもらわねば理屈が立たぬではないか。それとも、自民党員や天皇その他の日本衆愚と一緒で、単なる利己心の為に「多選の弊害」という嘘をついて、都道府県知事とか、最後の将軍とかの善政徳政を人格批判していたのだろうか?

 答えを聴くまでもなく、これら衆愚は単なる利己心の為に虚偽の理屈を並べ立てていたのだ。自民党は腐敗しきった寡頭政党に過ぎず、己の権力増長の為ならどんな嘘でも述べて全ての人を騙してきたし、最悪の場合疑獄や冤罪、共謀罪、どんな悪しき権力濫用、違憲違法反人道行為だろうと平気でやってきている。現に党首の安倍氏をみるがいい。天皇明仁が国事行為を超えた違憲立法を国民と内閣、立法府に実質的に押し付けた現実をみるがいい。そしてこの悪魔的最悪政治は何も今に始まった事ではなく、飛鳥時代に天皇が身を起こした時代からはじまり今に至る。なるほど、大井川氏の言う通り。「多選の弊害」があるなら、それは天皇家にはじまるのである。長期政権になればなるほど腐敗する。その通り。だからこそ名目的地位という偽装を施し、退位法やら侵略内乱の命令やら、独裁権力をほしいままにする為に手先の信者を散々私利私欲を満たす使い捨ての道具に用いてきたわけだ。歴代将軍も歴代首相も、今の安倍氏でさえ、本当はこの「多選の弊害」を最も身に宿した悪魔的教祖、天皇の操り人形に過ぎず、いずれ潰されるし、その事を知らぬ日本人衆愚のがわも搾取対象の奴隷として騙され放題、平城遷都以来1300年にもわたってこの邪教政治から被害にあいつづけてきたのだ。大井川氏は確かにアメリカ帰りのごくごく単純なアメリカ模倣を正義と奉る人物なのかもしれない。もし彼が本当にこれら日本政治の真相を知っていて、単なる政権与党の自民党に後押しされた、人権侵害につながる違憲な嘘の理屈である「多選の弊害」を述べたのならだが。
  ここまで事態がこじれまた暴かれてしまったからにはもう遅い。我々国民を欺き、自民や天皇に媚びを売る卑怯な衆愚にも重ねて媚びを売り、中身のない虚偽と悪意からの扇動を弄して国政県政市政に干渉するというなら、この様な腐敗した政治体制は全て何一つ容認できないであろう。天皇も日本政府も上皇制度を復活させて全国を京都中華思想で差別しかかっている京都市政も京都府政も、いや、自民党という寡頭的悪党も、その悪党に後援されている大井川知事も、石川県知事も、何一つ信用できないという事である。信なくば立たず。安倍氏をみるがいい。嘘八百をつきまくり、長州閥原理主義の権力亡者としてTPP不参加詐欺を行って不安な衆愚を扇動し、遂に売国極まって民の天たる食料危機まで招いている。餓死だらけになる悪政。この状態をみるにつけ、天皇も亡ぼされ、日本政府も亡ぼされ、自民党も亡ぼされ、京都市も亡ぼされ、京都府も亡ぼされ、東京都も亡ぼされ、石川県も亡ぼされ、自民党や天皇の腐った長期多選の弊害悪疫が及ぶ全国地域が亡ぼされていくであろう。福島県をみるがいい。わが県に置かれた原発が東京都の日本原電株式会社の持ち物であって、わが県民は全員が致命的危険の犠牲なのである。それなのに、投票者の過半の支持を受けたはずの知事が命の危険と生活を奪う不幸の塊を県民におしつけるとは何事なのか。勿論、悪意である。自民党という寡頭政の背骨を失わない為に、県民の命を売り飛ばしている。金欲しさのさもしい考えだと思われる素振りをして、原発推進派という他人の命を換金したがる極悪人共に付け入る隙を与えている。だからこそ、坂本龍馬などという売国テロリストを模範だと述べたのだ。恐ろしい腐敗。一選目の数か月目で既でこれほど腐敗した知事がどこにいるだろう? 石川県知事30年長期弊害も日本国天皇1300年長期弊害も真っ青というべきだ。いや、これは言い過ぎかもしれない。本当に腐敗して発酵しきっている天皇家や、谷本氏、そして薩長藩閥の暴力蛮政の末裔であらしゃる安倍氏や麻生氏にも、大井川氏より遙かに腐敗している等という現実は、到底受け入れていただけないであろう。なぜなら、日本という国とその国民性そのものが、天皇家の長期支配という弊害で腐り切ったもので埋め尽くされているのだからである。
 なるだけ近いうちに、天皇、自民党、日本政府、石川県知事、これらのうち、大井川氏のいう「相場観」から、「多選の弊害」を伴う人物を除去しなければならないであろう。そして京都市だろうと京都府だろうと東京都だろうと、天皇が住まう場所について何一つ公共に関わる政治上の地位を与えてはならぬ。金輪際、天皇が日本の政にかかわることはゆるさぬ。それはいうまでもなく、世襲という変装を施した「多選の弊害」の権化たる皇族閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる自民党員安倍晋三含む自民党閥全員であり、「多選の弊害」の権化たる石川県知事谷本正憲氏を当然含むであろう。これらをきっかりと果たすことこそ、わが県民の地方自治権を侵害しまくった自民党、都内マスコミ、日本人衆愚にとってのせめてもの前茨城県知事橋本昌氏へ着せた汚名への償いというべきだ。橋本氏がいかに県民の為を想った善政をしていらせられたについて既知の者にとって、これら皇室、安倍氏含む自民党、谷本氏らの解職は当然の事というべきだ。そして「相場観」などとどうとでも印象操作できる虚偽の弁を述べて前知事の人格を名誉毀損した大井川氏についても、最大限の罰として謝罪を要求しなければならず、その後はすぐに仕事をやめていただこう。仮にいくら有能だとはいえ、党利党略を国民県民の地方自治権より優先する大悪党の支援を受けた悪代官では県民が何をされるか分からない。信がない者を相応の地位につけてはならない。疑わしい事が完全に晴れ、「多選の弊害」という法律にない虚偽による人格毀損ついての罪を完全に裁くまで、我々は天皇家含む皇室、安倍氏含む自民党閥とその操作を受けている日本政府、都内マスコミ、日本人衆愚、そして谷本知事や大井川知事を疑う必要が絶対にある。これらの人々は我々国民を根底から欺こうとして嘘の言行をおこなっている。多選の弊害が最もある天皇、安倍家、麻生家、石原家、小泉家、石川県知事、これらの蛮族は自民党寡頭政治の推進及び容認を通じ、己の多選並びに世襲の弊害という悪業について何一つとして自己批判していないのに、世襲の政治家でもなければしっかりと地方自治権のもと県民の為を想う愛県政治を行っていらせられた前知事橋本氏を誹謗中傷の限りを尽くして貶め、或いは貶めさせたのである。悪代官大井川氏に至っては、極悪自民党が県知事選挙に際し収賄罪を犯した事について正直に指摘していた北茨城市長豊田稔氏を第一に選挙戦中に、第二に前高萩市長市政報告会で名指しで中傷さえし、抗議文について無視を決め込んでいる。断じて全員ゆるすべきではない。これら政道を乱している大悪党共が全滅するまで宇宙の果てまで追いつめて責め続けねばならぬ。
 先ず国民の象徴と名乗っている皇室が全政務と国事行為をやめ二度と日本政府に関わらず日本国税に寄生しない事を憲法並びに国際法、そしてわが国の暗黙知において確約しなければならぬ。京都市、京都府、その他いずれの場所についても箔付け、権威づけ、特権や後光の間接享受あるいは背乗りのため皇族の末裔が居住する事を許可してはならず、いかなる地位もなく残った皇族の末裔は滅亡まで未来永劫、一般国民と同等の立場で基本的人権を超えたいかなる特権もなしに生活せねばならない。次に地方自治権を侵害し続けてる大悪党自民党閥は長州閥安倍家を含み全員が解体分離され解党せねばならず、今ある日本政府はこれらの腐敗勢力なしにわが県において新政府を樹立、抜本から再構築されねばならぬ。石川県知事は7選という多選の弊害が明らかでありながら再選されてしまっている。前茨城県知事が多選を理由に職を追われた以上、この知事についても国政の名において罷免が絶対に必要である。最後に、自民党閥と共に虚偽の弁によって選挙戦を行い国民県民の自治権を侵害しかつ前知事や北茨城市長の名誉を棄損侵害した大井川知事はリコールによって現職を解任されねばならず、新知事選挙を大井川氏抜きで、また自民党から如何なる干渉も無しに、断固として即断即決で実行しなければならない。罷免後の大井川氏については前知事橋本昌氏と北茨城市長豊田稔氏へ謝罪文の公共への提示と然るべき賠償、そして両者への名誉回復措置を命じるべきである。

2018年3月7日

幸福論

 平成の資本主義に欠けていたのは、カネを己の属した社会へ還元する為に儲ける、あるいは己の社会をよりよくする為に働く、という利他に包括された自利という見方である。この利他に含まれる自利は、功利主義の命題、最大多数の最高幸福 The greatest happiness of the greatest numberによく現れている。仏教語でいう抜苦与楽は、功利主義をいいかえたものだと解釈できる。
 幸福を大まかに分類すると、 主観的幸福、客観的幸福、またそれらの中間にある中庸的幸福に分けられ、主観幸福の本質は没頭、客観幸福の本質は比較、中庸的幸福の本質は社交である。
 没頭とは或る人が夢中で熱中できる作業が、チクセント・ミハイによってflowと定義されている没我状態を生み出すことである。ここで、思考を言語や観念の抽象的行動と定義すると、没頭しているとき脳の中ではその人の学習サイクルが、ドーパミン(目標設定)、アドレナリン(興奮状態)、オキシトシン(目標達成)の循環で、広義の行動に関する難易度が快適域から大きく外れないまま(つまり難しすぎでも易しすぎでもない)、ほぼ最適化されて回されているのだと考えられる。この状態を生み出す脳内作用はしばしば行き過ぎたり、自他の生命維持に害をもたらす事もあり、その場合には嗜癖 Addictionとか、狭義の中毒 Poisningと定義されていることもあり、また日常語において何らかの嗜癖が行き過ぎて当人に害がありさえする場合、比喩的な意味で広義の中毒と言う場合もある。いずれにしても、主観的幸福はそれが何らかの自害性を含む自利ではあるにせよ、極端なら害他性や公害を伴う時もあり、このうち、自己への有益性にある程度の自害性を含むとして、自他へ共に有益な場合が最善の没頭、自己のみに有益で他に無益無害な場合を次善の没頭、自己のみに有益で他に有害な場合を悪しき没頭と定義できる。没頭は哺乳類に近似した生物にあって脳が快楽の輪を回し続ける事を指すので、ここでいう主観幸福は、非常に狭義ではむしろ快楽追求性という方がふさわしく、脳のない生物の場合は、細胞の持っている嗜癖の傾向にまで分解される。
 また客観幸福は、国連が幸福度として示している指標や、各種の統計に表れている様な、他の人と比べてのみ認知される、主に物質的な状態を指す。但し、主観の介在する疑似統計、つまり価値観や好感といった印象操作が可能な誰かの感じ方の調査は、意図や見方によって評価が変動するものなので、ここには含まれない。
 中庸的幸福は、或る個人が自らの没頭できる対象について、他者と比較しながら社交できる時に感じる状態の事であり、狭義ではこれが或る仲間や共感を生み出す、好ましい人間関係形成の原因である。一般にこの作用をcommunicationとか、やりとりとか、通信といい、情報はこの通信という目的を媒介するものである。

 ところで、幸福を公私に分類すると、 私的幸福は自由によって最大化され、公的幸福は保障によって最大化される。ここでいう自由は個人が他人に害がない限り自らの趣味を完全に満足させる没頭経験を最大化する事を意味し、保障は自らに害をなす他者からの苦痛を最小化する法律と倫理両面からの公的保護を意味する。
 具体的にそれぞれの特徴を定義すると、先ず私的幸福については、上述の主観幸福の内、自他へ有益な没頭状態を最大化する事が私的幸福の最高程度と考えられる。また最大多数の最高幸福をあわせみると、最善の私的幸福は功利性への没我であると考えられる。ここで功利性という言葉は、utilityをutilitarianisticに解釈した場合の概念であり、狭義では有用性、広義では多目的性を指し、使用 useを語源にもつこのutilityという単語を、単に自己にとって有益なだけではなく他者にとっても有益である様な状態に適用するものである。カントのいう義務は、時に自分に害があっても利他行為を追求せよと命じる点で、幸福を超越している概念であると考えられるが、この義務の功利性というものは、良心の満足という没我の究極状態として得られるのだと再定義できる。一般に、この義務の功利性を、我々は自己犠牲や献身と呼んでいる。もしマズローの欲求階層を引用すると、自己実現の上位段階として定義されている自己超越とは、私的幸福の充足の果てに、最も満たしがたい欲求として利己性の克服という、小脳の司る本能(仏教語でいう煩悩、精神医学でいう自我)を大脳の理性(精神医学でいう超自我)が完全に征服した状態が見いだされる事と定義できる。新渡戸稲造が『武士道』で定義している義の概念は、同書での義士の定義にみられるよう、この理性的な利他主義者が自己犠牲的にふるまう際に最高度の状態を指すと定義されている。切腹、諌死、仇討ちといった義行は、この義務の功利性の最高段階として嘗て侍に認識されてきたのであり、私的に解釈されるときは単に義、公的に解釈されるときは忠義といわれ、一般的には正義という言葉で定義されてきた。言語や図像、観念、身振りといった抽象度の高い概念の操作を広義の行動、具体的に自らの体を動かすという狭義の行動と定義し、これらの行動を包括して言行と定義すると、ロールズの格差原理における最不利者の利益最大化という原則は、我々が善行と呼ぶ言行一般のうち、無償で分け隔てのない森羅万象への慈しみを指す概念である、agapeに最も近い言行の理念である。つまり、私的幸福は何らかの没頭対象への極度の心酔の果てに、慈善と自らの言行が一致している状態で最終段階へ達すると考えられる。なぜなら人類のもっている脳の究極の使い方とは、単なる本能をより合理的に満たす為の社会行動の道具として生まれただろう初期の大脳を、徐々に功利性を満たすべく改良し、最後には我々が全徳の存在と想定する神的な慈善の担い手として、超人類的な進化へともっていく事だからだ。人類が聖人と見なしてきた人徳者達は、彼らの置かれた環境下での私的快楽をそれぞれの節制によって見限り、自己超越的な利他、その中でも勧善懲悪ともいわれる利他の言行に嗜癖を持っていた人々であり、しばしば救世主願望に憑り付かれてもいた。ある時点、ある場所で最不利者をさらに不利にする事は虐めと定義できるが、この弱肉強食から最も遠い人格が、慈善へ没頭する者だといえると共に、我々のうちの弱者がなぜ宗教を信じるかの訳として、聖人は自己犠牲の傾向の為に遺伝的に最希少種となり易く、同時代の同じ場所に存在する確率は極めて低いので、偶像として観念化された慈善の言行者を想定し救いや助けを求める事のみが心理的な頼りや支えになるからだ。そして人によって信じる宗教が異なるのは、彼らの学習環境下で見つけられた最慈善者が異なるからであり、無宗教の人がいるのは、この最慈善性を体を持たない単なる抽象概念と捉えているか、そもそも慈善に興味がない利己的な人物であるか、どちらかであろう。またこの抽象概念をある思想形態、考え方、Ideologieと捉えると、一切の主義や思想を信じていない人物、つまり無思想の者に大脳が働いていて成人している場合、善悪を本能を超えて判定したりしなかったりするだろうから、その言行についての矛盾度は最大であり、人類は矛盾度の高い情報量を認識できないものとみなすので、この人については殆ど理解されないだろう。無宗教かつ無思想で、単に状況に応じて考え方を変えている様な状態に最も近いのは、本能以外の嗜癖を持たない幼児の状態であり、幼児の語る事が理路から最も遠いのは矛盾度が甚だ高いからである。また、幼児を裁判官に置いた場合の社会的混乱を想定すればわかる様、無思想とは無秩序な言行を意味し、その対極にある最慈善は秩序度の最高段階を意味するといえる。さて、この秩序の度合いとしてみた慈善度を比較的なものと考えると、或る社会集団の慈善度は構成する人々の平均的な功利性に由来しているので、よりよい社会を私的幸福の面から批評すると、その構成員の内できるだけ多数が、功利性の高い没頭癖を持っている状態を指す。没頭癖の社会的側面を広義の仕事あるいはその語源である「する事」、没頭癖そのものの能動的側面を趣味と定義すると、利他度の高い趣味を評価するには他者の立場が必要だが、一般にこの趣味を極める為には他人に害がない限り邪魔や干渉をされない自由が前提となる。なぜなら誰かがこの功利性をより強度の高い段階で見いだす為には、当時一般的に考えられている低俗な趣味の傾向を逸脱する必要があるからであり、また単に私的満足だけを目的にし全然公益性がない没頭の場合についても、当人がそれを超えた私的幸福をみいだせない限り、その人にとって主観幸福を満たせるが故に有益である。自己犠牲は義務の履行に際して自害性と利他性が共に最大の場合を指し、この実践について他人からの強制は単なる拷問に過ぎないので、当人の意思に基づく自由が必要である。但し、この自由が認められる為の最低限度の条件は、他人に害がない事であって、もし他人に害をなす傾向の趣味であれば、その外部不経済の程度に応じて法的あるいは倫理的な制限が社会から与えられることになるだろう。また単に自害性を含む趣味であるなら、他人がその人に与えられるはずの公益性を縮減する程度に応じて、直接の制御から間接的な残念まで、何らかの干渉が想定できるだろう。麻薬の販売と使用や、売買の主体が共に自主的な性売買、或いは自傷癖等の自虐的な嗜癖で想定される被害は、第一に当人達の健康、経済、対人関係にもたらす自害性の程度であり、第二にそれらの行為によって間接的に起きるミラー・ニューロンの模倣効果による公害性、特に幼児等の模倣を通じた負の学習の結果、自害性のある嗜癖あるいは依存症が自他に広まる害他性、第三にそれらによって特定の人のもたらすはず公益性が減り、場合によっては不可逆的に減耗する事であるといえる。よってこれらの自由は程度こそあれ、或る個人またはその社会の共通認識として制限されるが、その制限度はもたらす公害度と正に相関しているといえる。
 最後に、公的幸福である保障が意味するのは、私的幸福が快楽の積極的な最大化を意味するのと異なって、単に苦痛の最小化であるといえる。なぜならそれぞれの個人は各々何について快を感じるか、何に没頭できるか趣味が異なる傾向にあり、もし普遍的、一般的、大衆的な趣味を追求すれば、それは一部の人を余り満足させない事になるからだ。他方で苦痛を最小化する事については本能に近い程度に応じて人類一般にある程度の共通性をみいだせ、場合によっては他の生物も含めて、苦痛を感じる脳内物質、ブラジキニンなどが働く機会を抑制する事によっているといえる。社会的支援や偽薬が苦痛を和らげると経験的に仮説づけられている事から、公的支援が確実に受けられると安心できる場面では、人はより不幸を最小化できると考えられる。我々が高福祉の実現した社会にみいだしている種類の幸福のうち、最も消極的な面は、この社会保障の充実であるといえる。例えば治安維持は公害から与えられる苦痛の逓減であり、原発等の危険施設の廃止や事故を起こす可能性の高い自動車や道路についての法的統制、災害への備えは将来与えられるであろう苦痛の最小化である。ところで侵略戦争の否定を謳う憲法その他の法規は自他のうち特に他人に与える筈の苦痛を最小化するものであり、単に戦争放棄の法は、最小限度の自己防衛を除けば、戦争時に自他が伴う苦痛を事前に最小化しようとするものである。究極的戦争放棄としての非暴力主義は、それが同時に抵抗的なら非暴力不服従となって少なくとも主権の侵害や拷問によって与えられる自己への苦痛を拒否し、服従的なら無条件降伏となり想定される苦痛の回避をも放棄する事になる。また帝国主義や侵略主義を信じる者は己の行う侵略戦争を是認して自他に苦痛を与える邪悪な権謀術数主義者であり、このうち自らの侵略のみを是認し他者の抵抗や主権、自己防衛を否定する者は他人の苦痛を自らの快楽と考える悪魔崇拝者である。これら戦争に関する態度のうち、公的幸福の面からみれば、自侵略を是認し他防衛を否定する悪魔崇拝者が最悪、次悪が自他の侵略を是認する権謀術数主義者であり、無条件降伏がその次に悪質で自他に無責任な態度である。対して、非暴力不服従は十分に防衛が行えない時の次善であり、一般的な自己防衛のみを是認する戦争放棄は最善のふるまいであり、ここには侵略戦争の否定が含まれている。個別自衛の名目で侵略を行う事は侵略に含まれる権謀術数的な次悪に過ぎず、集団自衛の名目で侵略を行う事はそれを共謀する事であるから、次悪より邪悪さと罪の程度がより酷いものである。集団安全保障の名目で、国連が命じる多国籍軍が米軍と共謀し、特定の国や集団の独立を侵害したり圧力を加えている場合、それらの少数派の苦痛を最大化する事に他ならないので、悪魔崇拝的な最悪であると認定できる。この様な場合の国連組織や米軍は、少なくとも国連に属するか否かに関わらず、現に独立を主張しているか独立をめざす少数派の諸権利を認容しなければならず、独裁政権といった名目で、王政に類した単独支配を行っている集団を諸国から除外するべきでは全くない。王政か独裁政かは或る単独者が支配する政体についての主観的評価、つまり肯定的に王政と尊称するか、否定的に独裁政と蔑称するかによるのであり、これらの評価は国連や米軍の主体である外部者のみが行って十分とはいえない。なぜなら異なる考え方に基づく政体を構成員が自ら選び取っている場合、この政体が他の政体と組織において全く異なるとしても、また規律や法、風習、慣習、文化、風俗について他国や他集団の価値観と隔たりが大きいとしても、外部者がその政体を自らの理想が実現しているとみて賛美するか、己の属する政体と引き比べて理解不能さのあまり過度に差別するかは、単にそのひとの主観的価値づけにすぎない。したがって国連や米軍その他いずれかの国、集団が、言動や象徴的表現などの抽象的次元や行動という具体的次元のいずれかまたは両面で、世界のどれかの集団自治を侵害する場合、このおこないは単に安全保障を破壊するだけではなく、内政干渉による侵略の害、苦痛のばらまきそのものである。日本国内で東京都民や京都府民、奈良県民、あるいは薩長土肥ら西軍が、大和王朝の萌芽がみられた飛鳥時代以来、天皇と共謀し行ってきた苦痛のばらまきも、この自治権侵害という大悪行に他ならず、これらの内政干渉を行った公害の程度に応じて、それぞれの国や集団あるいは個人は法的、倫理的制裁を業の次元で受けねばならない。

 結局、上述の自由に関する私的幸福とあわせみれば、単に私的趣味を追求する為の自由の程度と、社会保障は両立し得るのであり、自由は個人が他者に害をなさない限りの最大限の権利確保によって、保障は社会的不公平や自由市場における競合の結果生じたなんらかの不平等について最不利者へ最大の、比較不利者への累進的な調整による。因みに、最有利者への最大の負担、比較有利者への累進的負担の度合いは、それらを行ってもなお、それぞれの状態の最有利、比較有利が維持されていれば、十分なのである。自由人主義や新自由主義が誤っているのは、これらの最有利、比較有利さとは、他のより不利な人々と比べてのみ認知される状態なのだと知らないが故に、市場競争の結果生じる高所得や高収益性、高売上高、高株価、高生産性等の有能性についての指標を絶対化しているせいなのである。いいかえれば、最有利者や比較有利者が徴税され、その分が最不利者や比較不利者へ調整済みの状態でも、或る資本についてそれらの構成員らの順位付けが変動しない限り、保障の為の累進課税は十分行われるべきなのである。特に、所得格差の大きな状態では最不利者を含む比較不利者らがそうでない相手に嫉妬を感じ易く、この嫉妬感情は脳内では苦痛と区別されていない為に、何らかの努力や工夫の末にも到底匹敵しえないほど集団内での格差が広がりきっている場合に、不利な側が感じる苦痛は不幸の原因に他ならない。単に市場の問題に還元すると、管理価格の形成や談合、企業連合等で示される独占や寡占が進めば進むほど消費者利益もまた害されていくが、単に消費者に対する害だけではなく、競争相手がいない状態の優越企業は株主や経営者を主とした資本家にとっても、より投資収益率の高い投資対象をみいだす比較優位の機会を失うために、有害である。また政府の問題でいえば、世襲による血縁者支配や、特定の地域や家系、学閥などによる門閥支配がはびこっていればいるほど、公徳に欠けた人物あるいは無能な上位者が組織全体の有効性を害する場合が頻出するので、天皇や皇帝、王爵の位を含む公職世襲を廃止したり、地域、家系、学閥等の門閥による就職を無差別化する必要がある。他方で、公職の任期が長いほど腐敗し易い為にその期間を事前に制限するという法は、その集団で公徳の高い人物が単独か少数な時に、より不徳な人物が代位してしまう為、決して合目的でない。これは世襲や寡頭とも捉えられる前権力者の血縁者が優越して公徳的であった場合も含み、政治において役割を決める際に為すべきなのは、いかなる人物も公徳の質や程度に応じてその職に選ばれるべき、という厳選である。選挙や解職の手続きが滞りなく簡素化され、極めて公平公正な事が必要十分であり、これは多数支配の場合だけでなく、単独支配や少数支配の場合にも、王や貴族が何らかの手段で選ばれ、また辞める事がいつでも可能でなければならない。

2018年3月4日

茨城観光地不足仮説

 最初に結論を述べると、
1.魅力度調査は主に、県外国民の調査対象者にとって憧れの観光地という意識度である。
2.したがって対象者含む大衆一般に訴える、傑出した県内観光地を国内へ伝達する必要がある。
3.観光地化の副作用をかんがみると、この場所は県内一か所に集中するべきである。
4.まずはネモフィラの丘を茨城と完全に紐づけ国内に宣伝し(茨城の丘と改名するのも有効か)、さもなくば大衆観光地を作るしかない。
5.我々が魅力度差別で学びうるのは、虚報の分析による問題解決そのものである。
 上記の抽出について、以下に詳述する。
 重農主義や農本主義を否定し、重商主義や資本主義を妄信する、という平成日本人の一般的妄信は、明治期以来の富国強兵論を継続的に狂信する、薩長イデオロギーに原因があるといえる。この考え方は天皇家のいる東京を中央政府、つまり中華と考え、そこに近いほど上、そしてそこから遠い農村を収奪対象として差別的に侮蔑する、日本的都鄙差別の直接的起源の一つである。そしてこの薩長イデオロギーの奥にあるものは、水戸学から松陰や西郷が薩長の利己の為に剽窃した神道原理主義である。天皇を神格化し、天皇に近い存在ほど上で、そこから遠いほど下と考えるこの狂信的民族宗教は、近くは首都圏北部への全国からの魅力度差別や明治から昭和にかけての日亜侵略をもたらし、遠くは弥生時代以来の政教一致による天皇独裁政をもたらしてきた、と仮定しよう。
 2018年3月4日付茨城新聞の論説で、蓮見孝氏は謙譲の美徳を無視し、自慢という反儒学的な言行を茨城県民へ勧めているが、江戸時代以前の本州・徳川文化、武士道とは異質な北海道に儒教的価値観が根付いていないのは当然だし、逆に謙虚や謙遜を美質と考えるだろう常陸国水戸の後継が君子の道ではない自慢をする様に退化すると思うのも、文化人類学的に間違った見解だと思われる。『論語』で孔子がいう「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」を実践しているからこそ、日本国民にすら茨城県のもつ数多の美質は有名でないのであり、烈公が積極的に蝦夷地開拓にのりだし間宮林蔵が最北部まで測量した史実をあわせみても、今日の北海道民が屈託なくお国自慢に耽るのは、儒教的徳目を未経験なうぶさであり、また異なる文化だというべきだ。
 上述の天皇制的華夷秩序とあわせみると、北海道と沖縄は首都圏から遠く、東京や京都という天皇家在住や遺跡を誇る中華思想的な場所から離れているにもかかわらず、日本の平均的な民衆一般から魅力があるとみなされている。つまり、これらの事例と茨城や福島の置かれた状況を鑑みれば、平成日本人の刷り込みには、明治から平成にかけての薩長藩閥と天皇家の体制による、徳川派支配地への印象操作や差別や偏見による迫害を通じた事実上の国民弾圧があると仮定できる。日本人の無意識にある薩長イデオロギーと神道原理主義が、天皇制を通じて、茨城県民という徳川御三家からの専制支配に遭っていた民衆を、更に痛めつけ差別している、というわけだ。これがブランド総合研究所・田中章雄による、日本国民の一部の意見を抽出した、魅力度差別の最も根底にある原因だと、仮に考える事ができる。客観的にみて、茨城県のもっている観光や居住における価値は十分高いものがあるからだし、もし日本国民一般が首都圏北部やこの県の美質について無知だとしても、本質的原因は別にあると考えるのが妥当である。ランキングが変動しないのは一定の偏見や物の見方に関する盲点を、日本国民の調査対象者らが維持する方が快適だと考えているからであり、いいかえれば茨城県を筆頭に、栃木、群馬、佐賀といった地域を見下げて、低価値とみなし差別し続ける事、それと対照的に北海道、沖縄、京都を見上げて贔屓し続ける事が、それらの調査対象になっている日本人らの或る願望に合致する、としよう。しかしここで佐賀県という薩長土肥の肥前国の末裔が登場し、薩長イデオロギーと矛盾をきたす。つまり、徳川派迫害や薩長史観はこの魅力度差別の直接原因ではない可能性がでてくる。
 魅力度差別願望の元凶を掘り当て、その患部を完全に治癒しないかぎりは、茨城をはじめとしていずれかの都道府県が田中章雄一派に扇動された衆愚から深刻な被害を受ける事は必定だ。上述の分析から新たに提出できるのは、日本国民一般は大自然や大都市ではない、田園や郊外の風景を見下げて差別しているのだ、という仮説である。現実には大規模な郊外型店舗が小さな商店や職場としての工場と共に遍在する中小都市は生活の利便性に長けているだろうし、人にとって過ごしやすい程度に整えられた田畑や里山は単に生産的で多機能面で人間を守っているばかりか心を癒す調和的環境であり、人の手の入っていない極端な大自然や、逆に満員電車や物価地価の高騰しているまずい水や空気の悪さが特徴の過密都市より、生活の為に魅力的である。このことは、茨城県守谷市、茨城県常陸太田市がともに、民間調査で住みやすい街、住みたい田舎で1位を得ている事から、統計面でも一定の信頼度で実証されるはずだ。よって前の橋本昌茨城県知事が、ブランド総研の魅力度調査は観光地としての評価であると仰っていたが、この分析が最も的確だったということになりそうである。
 最終的にいえることは、魅力度調査とか地域ブランド調査いう名前をつけられているが、諸々の背景と結果から分析すると、このブランド総研による調査は観光地としての魅力を日本人民衆の一部にききとるものだというわけである。前知事は生活大県をめざし、茨城県民自身の幸福を最大化しようと考えていた。だからこそ、県外人にとっての観光先としての茨城を後回しにする結果をもたらし、これが我々自身の生活空間としてのわが県の盲点になっていた、と結論づけることができる。この仮説を大衆的観光地不足仮説、あるいは単に観光地不足仮説と定義すると、茨城県がとるべき対策は次のような事だ。
 第一に、京都市民がふえつづける観光客にある種辟易し、実際に犯罪率増加や交通問題等がおきてきているだろう事、また所得面からみれば北海道や沖縄が殿様商売のごとく努力なしにやってくる観光客へ収入依存状態になっている一部の業者がいるだろう事、という観光地化に伴う暗面をあわせみると、これまでと同じく、茨城県民というこの地域の生活者にとって最善な、世界一幸福な県をめざす事が大前提でなければならない。確かに魅力度差別を受け続ける事は不愉快であり、この種の心無い偏見は誤解や悪意に満ちているから、県内外の衆愚をますます増長させるし、そもそもマズロー欲求階層でいう承認欲を既存の県内観光について無知な人との話題や観点において君子道徳式の自己抑制による合理化でしか満たせないので、自己満足にとどまるというある種の貴族的ないし高潔な態度が県民全般に要求されてしまうということだ。もし蓮見氏の述べるよう北海道民がそうしている風に、素でお国自慢でもしようものなら、県内外の東亜人一般はやたらに自慢される事への武士道的・儒教的解釈から多かれ少なかれ相手を軽蔑すると思われるし、むしろ相手を知ろうとする意欲をなくしたり、ますます差別するかもしれない。日本国の本州文化ではいまだに謙虚が尊ばれ、あまりに自慢する自己中心的な人は有名にはなっても、決して好意で遇されるとはいいがたいのが現実であって、この面ではある程度似た謙譲の美徳が存在するイギリスの中上流や儒教圏の読書人階級の様な特殊な例かもしれないが、必ずしも全人類的に謙遜が無意義とはいえない。卑屈の対義が傲慢で、中庸が謙虚であるとすれば、我々茨城県民がこれまで水戸徳川文化を通じて涵養されてきた儒学、水戸学、武士道を通じた謙遜という特質は、なるほど今日世界的にまれであるにせよ、今後も維持されるだけの道徳的完成度があるし、聖価値が十分にあると自分は思う。
  第二に、我々は既に幾多の観光地をもっているし、長く住んできた県民自身はそれを多かれ少なかれしっているが、これらが県内外の日本人、特にブランド総研の調査対象者になっている数百人にとって競争相手である他都府県に比べて魅惑的ではない、というのが、問題なのである。ターゲットとなっている調査対象者であるブランド総研会員をブランド総研自身が公開していないので、我々がとれる対策はまずブランド総研に対して何らかの手段でこの会員を具体的にひきだし、その対象者が好む観光地の傾向を探り、それにちょうど適合する観光地を県内につくりだしてそれらの人々へ鼓舞情報を植えつける事である。もしこの対象者を直接知るすべがないなら、ブランド総研自身と契約し、カネの力で直接伝えさせる事が次善の策かもしれない。そしてこれらが不可能ならターゲットを具体化できない為に、最も非効率的になるが、最後の手段として調査対象年齢になっている全国民から満遍なく憧れる観光願望をひきだし、その理想を茨城県内に移植実現すること、そしてこの観光誘客の情報を全国民へ最大限ばらまく事である。
 第三に、観光地づくりにあたっては、県内の或る地点に集中するべきという事である。もしかすれば、SNS拡散効果を企図し、写真写りのよいネモフィラの丘だけをひたすら美化し喧伝する事で十分なのかもしれない。この地点がかつては県民への事故被害が起きた米軍基地だったのであり、県民自身の自主的な返還運動、そして徹底した美化の努力によって今日の美しい姿をとるに至った、という物語伝達も日本の若年層の傾向である右傾心情に訴えかけるだろうし、米国を含めた世界中へも茨城県民の望む万民の為の平和と幸福の象徴として有効であると考える。県民からの働きかけでここを「茨城の丘」と改名する事も有効である。茨城の由来になった天皇軍による侵略被害の悲劇から、復興と平和への願いという同じ文脈にこの負のイメージをもつ名義を忍び込ませることも、何らかの工夫でできるかもしれない。その理由を以下に詳しく述べる。安倍政権の行っている全国観光地化政策の実態は米国への媚びを目的にした円安誘導を正当化する事であり、実質的には、製造業にせよ観光業にせよ日本を外人に安売りしているのである。これによって日本全体は貧乏になる。製造業が国内産業に占めるGDPの割合は全体の20%と決して多くないし、それどころか日本のGDPの7割以上が内需依存、つまり今の日本において円安の恩恵を受ける輸出がGDP全体に占める割合は少ないからだ。結局なぜ安倍晋三がこの方途をとるかというと、米国に媚びを売る事による権力保持と、株価つりあげとあわせて期待される経団連からの献金が目当てなのだろう。また観光業を主要産業にしている地域は、北海道、沖縄、奈良、或いは京都にみられるよう一般に所得が低い傾向にあり、(奈良は大仏商法といわれるよう)向こうからやってくる客を次々よびこむ歴史遺産を飯の種にしていると産業開発の努力を怠る傾向もでてくるのだろうから、別要因もあるかもしれないがギリシアの様に財政破綻した例すらある。フランスは世界一の観光国だが、観光業を主要産業にするつもりがある様には見えないのであって、それは賢明なのだ。つまり、今の茨城がそうなるようにはみえないにせよ県内産業全てを観光に依存するほどの観光推進の行き過ぎをはかれば、副作用として治安悪化、周辺を外来者がうろつく事の心理的不安、マナーやルールの違う国々から来た人や旅の恥をかき捨てる人々からごみを捨てられる事による汚染(毎日山ほどのごみが捨てられていくパリに顕著である)など、複数の問題が生じうることだ。農地は繊細だからこれらから致命的影響を受けやすいので、日本一の農地面積・農家数をもつ県として、観光地づくりの副作用を他人の振りから最初に勘案して後に、県内の特定地点、特異点にこの施策を集中するべきだということだ。また魅力度調査の対象者は決して教養人に限定されるものではないので、六角堂、弘道館、偕楽園、西山荘、筑波山などの歴史学的な好奇心に訴える貴族的観光地は、世界遺産にするには十分有効かもしれないが、卑俗な趣味にすぎない大衆一般を魅了するには不適格だろうということである。この点からもネモフィラの丘をひたすら前面に出してインスタ映えしたがる通俗勢を席捲し、更にこれを超える観光地を、県内特定地点に絞ってもっぱら開発すべきということである。ネモフィラの丘は国立公園内にあるから、あまりその外を汚す心配もないし、ごみについては国税で処理されるので安心できるが、何らかの働きかけでこの観光地を保存しなければならないだろう。つまり、一か所に絞って外部に出ないような観光客隔離政策が、県内観光地の開発にあたって前提的である方がよいというわけだ。ちなみに県内の観光業者とは別の話だが、我々自身は生活するうえで県内の観光地について特に不満に思ってもいない事が県民世論調査からもわかっているのだから、田中章雄とブランド総研という汚名やスティグマ、風評被害をばらまく差別発生の元凶が死亡するなり倒産解体されれば、その時点でまた我々の幸福に対する価値観を再点検するべきということになるだろう。飽くまで茨城県と茨城県民への田中章雄による魅力度調査を種にした差別を防止し、我々の名誉と承認欲を多かれ少なかれ害する結果を招かない為の便宜的な観光地づくり対策であり、その目的が我々の幸福と相反しないよう、また将来にわたって合理的であるよう考えるべきである。
 最後に、これらの対策は茨城県自身の問題を直接解決する可能性があるに過ぎないが、田中章雄とブランド総研が倒れない限り、将来にわたって別の都道府県へ東京からの報道を通じ次々魅力度差別が起き続けることから、わが県民が非常に長い時間をかけてあらゆる状況を分析し、全県民の知力と行動を尽くし試行錯誤によって問題解決をしようとしてきた経験は、今後も虚報やポスト真実による被害を受けていく全人類にも重要な勇気を与えるであろう。我々が受けた差別を解消できたら、その後も、悪意ある無知な民衆や虚報から差別と偏見の被害に遭い続けている全人類へ、我々のしてきた経験則から何らかの助け船を出せるよう我々自身が成長できるかもしれないし、それこそが田中章雄のもたらした魅力度差別に打ち勝つ事で我々が得た最大の経験値になるであろう。

2018年3月2日

脱覇道論

 Americanism(アメリカ人主義)は均質化を生み出し、移住による相互参照や、自らの道徳的価値観に合う地域への編入を妨げてしまう。Globalism(地球主義)はアメリカニズムの商売面である。またこれらはモンロー大統領以来の孤立主義からの逸脱でもあり、ヘーゲル的な覇権、即ち世界精神という名で、自由やdemocracyなる、ある種の中華思想を焼き直す覇道を目指し、世界の警察として各国へアメリカに都合がよくそれらの国々に不利な、或いは普遍的不徳な制度を内政干渉や間接・直接の軍事征服によっておしつけていく。在国米軍はアメリカニズムのヘーゲル的側面である。
 対して国連や地域連合は少なくともアメリカの覇道に異を唱える試みであり、部分的に成功してきた。普遍的正義の観点によれば、個性のない地域は何らかの文化的変異を保存せず、学び合いのきっかけを欠落させているので、アメリカ人主義や地球主義、そしてヘーゲル主義の覇道はいずれも不正となる。
 日帝時代は明治から昭和前期までとすると、松陰『幽囚録』の侵略主義に基づく長州閥や中華思想による天皇家、或いは植民地主義によりイギリス帝国などの欧米諸国がめざしアメリカが現在代行している覇道は、地球各地の制度的均質化がむしろ、発展と進歩の芽を摘んでしまうという落ち度の為に、時代遅れである。畿内や京都を自称し全国を下位者と差別する自文化中心主義をもつ京都府や、首都として都鄙差別による華夷秩序もどきを傲慢に主張している東京都は、国内での小型のヘーゲル信者であり、既に敗れた考え方に固執している地方公共団体といえる。
 これらの傾向は、まとめて覇権主義あるいは覇道という概念と上位互換できるだろう。
 安倍晋三は長州閥と皇族財閥を兼ねる人物として、アメリカ主義の背後にある日本操縦者ら資本家の利己心に媚びを売りながら彼個人の利権を維持している。なおかつ、彼は三菱軍産を通じ彼の兄・寛信に利益誘導し、やがて日本軍の復活や米国によるアジア内乱の誘致へ自衛隊を派遣させ、松陰的侵略主義を復活させる、米政府の覇道に共鳴しているといえるだろう。勝てば官軍という薩長藩閥の野蛮な論理は、アメリカ軍が世界最強の軍備と証明されている限り、明治やそれ以後の侵略・内乱史を成功体験と西日本の各地域や日本政府から植え付けられた西日本の人々の信仰であり続け、この為に覇道を前提とする米軍は薩長土肥をはじめとする西日本人一般の模範とみなされている。島津家や天皇家に琉球王位を簒奪され、日米両軍に蹂躙された沖縄県の歴史的文脈はこれら西軍と異なる為に、西軍信者あるいは自文化中心主義者であろう大阪府警や自民党長州閥と必然に摩擦を生じる。総じて、これらの過ちも覇道妄信の末路である。
 茨城という言葉は、奈良からの天皇軍による侵略と、先住の日本人への一方的迫害を由来にしている。この2文字は関東地方という山城国・京都府や奈良県から見た華夷秩序的で地域差別的な意味を伴う用語と相俟って、自らを中央や中華と過信する傲慢を戒めるのに役立っている。これら茨城や関東という言葉は常陸国、茨城県や首都圏にもともと5万年以上住んでいる日本人にとって、関西地方に2800年前頃から移民してきた中国・朝鮮半島に住んでいた人々からの単なる偏見に基づいた差別と侮辱であり、東北(畿内からみて東の国の北)や河北(白河より北)、陸奥(朝鮮語で奥)、東京(京都から見て東の僻地)といった関西人がつくった数々の中華思想的差別用語にも同様に現れている。いいかえれば、京都中華思想や東京中央思想、これらの震源である天皇家の中華思想といった覇道に対し、反骨心、すなわち自らを中心と考え他の文化圏を軽視する驕りへの戒めとして我々はこれら、茨城や関東という脱中央的な言葉を記憶しているべきだろう。これらの言葉を用いて多かれ少なかれ茨城県や関東地方を見下げてくる人々を、我々は不屈の精神でひたすら名実ともに打ち負かし続けねばならない。最終的に我々を全世界が当然の如く敬仰し尽くすまで、あらゆる面で現茨城県の領域を聖域とし、我々自身が全世界で最も貴い見地に立って全地域に住む全ての人々や全生命への慈悲として勧善懲悪を司る威風を完全に確立する迄、我々自身の存在を神格に類した全知全能全徳へ漸近させ続けねばならない。

福祉主義論

 効率を害さず、腐敗を防いだ高福祉な地域に茨城県や北茨城市をする為には、公共事業費を最大限、競争的に民間委託する事(これは、郵政に見られたような業務の財源自体を民間に手渡す民営化では必ずしもない、なぜなら最不利者への慈善事業には必ずしも収益性がないからだ)、無差別的で公正公平な公務員採用を図るため民間人や公務員自身が通報する事による簡素化した免職手続きを皇族を含む全ての公務構成員にいかなる特別扱いもなしに適用する事の2つが重要である。
1. 公共事業費の民間委託、非公益的事業の民営化
2. 公務員を無差別的かつ公平に解職可能
 以下にこれらのわけを詳述する。
 資本主義あるいは営利が自己目的化した状態は、社会福祉という弱者や貧者の救済を無視している。 自由人主義(Libertarianism)が有害なのは寄付や慈善を行う誘因がないまま政治的調整の効果を無視すると、全体の相対貧困化が進むからである。いいかえれば過剰資本が相対不利者から順に社会還元される誘因が、資本主義にも必要である。嘗てこれは宗教や政府によっていたが、前者がお布施として内発動機、後者が徴税として外発動機に基づいているにせよ、いずれも福祉の完成に対しては不十分であり、しかも新自由主義的体制のもとではこれらの調整的正義の形はより軽視される傾向にある。しかも資本主義者や自由主義者は、自己責任論を弄して配分的正義への偏重で十分だとか、そもそも調整は正義ではないと述べる。部分的正義が配分と調整の両方を含む限りこれら低俗さの無知やそれと見分けのつかないほど狡猾に偽装された悪意はいうまでもないが、一部の経済学者と名乗る自由主義信者らの空想内でさえ、市場経済が過度に万能化されている。なぜならこれらの人は相対貧困という概念を知らないかその重要性を故意に無視なり軽視していて、格差の固定が第二封建制度に他ならず、しかも世界史上最悪の極端な独占により致命的な独裁と維持不能な乱費による環境破壊、そして奴隷化された労働者への差別を必然に導出すると予想だにしていなかったか、他人の苦痛を見る事を楽しみにする偽善的知性として単なる悪魔に過ぎないのだ。
 日本国の単位でこれは天皇制による皇族財閥の独裁を意味している。徴税権を独占し政府に寄生したこの宗教権力者らは、資本収益と経済成長の両方から暴利を占める唯一の幕府である。国際的には租税回避を通じた別の財閥が存在し、(エドワード・スノーデンによれば、米CIA・英MI6、イスラエル・モサドがユダヤ国家保護のため共謀し中東におけるスズメ蜂の巣作戦The hornet’s nest strategy、つまり反イスラム内乱を国際的に実行させていると噂されるよう)アジア内乱の誘致による武器輸出入や原発に名を借りた核拡散等をはかっている軍産複合体の背後にある政商勢力なのだろう。地球規模でみれば、いまある天皇家はこれらの軍産閥の一つに過ぎない。また三菱財閥は、高知県(土佐国)出身者が坂本以来行ってきたこの内乱・侵略などの戦争誘致による軍閥であるといえるし、安倍家は晋三の兄である安倍寛信が三菱商事社長を務め、皇族財閥と三菱財閥の両方を兼ねている上に、明治内乱を理想視しているので、米英イスラエルと共に極東における蜂の巣を擾乱している最中に緊急事態条項の制限下で独裁体制を完成させる事を野望しているといえるだろう。
  調整的正義を回復するには、資本主義、自由主義、自由人主義、新自由主義などの市場原理論を拒否なりその欠点を批判的に再解釈する必要がある。経済力はある観点からは他人から貪るという悪意の程度である。市場は、経済力がない即ち悪意のない一般人のうち、最も利他的な人としての最善者を最冷遇する。つまり市場は人でなしに過ぎないのだ。人でなしを万能と論ずる人々は、需給の一致による産費の最適化が、営利にすぎず慈善でないが故に、社会的不公平に基づく嫉妬の苦痛や不幸の蔓延と結び付いていると認識できない。自己目的な営利活動は天国を永久につくりえず、無限に地獄を掘り続ける。
  調整的正義を何らかの愛国心や身贔屓(びいき)と結びつける事、たとえば愛郷主義Patriotismや地域主義Regionalismは、それが外部との差別化、差異化に基づいている限り地域紛争の原因になるが、少なくともそれらが本来の古代政治の姿である。いわば内外の別を何らかの理由に基づいて行い、自らの属する領域内をその外より優良化しようとする縄張り意図は、その領域が外部に比べ自らに快適だからであり、地域間の移動と再所属が可逆的にできれば、相互参照による意外の発見や個の適応の為にそれは少なくとも発展や進化の原因でもある。初めは開祖と小集団から成った全宗教も、村が拡大した国と同様に、地域主義単位あるいは縄張り単位の種類として存在する。結局、地球規模あるいはそれを超えた何らかの単位での調整と、世界的調整の違いは、縄張りにどの程度の寛容性を持たせるかという意識問題でしかない。そして国連、国、県、郡、市町村、家、世帯、個、或いは連合や州、区、果ては星や銀河といった単位集は、いずれも所属優先的な身びいきを図る際の単位でしかない。つまり地域主義的な調整をはかろうとする意図のいずれも、空観的な汎神等価視や、博愛、慈悲に基づく普遍的救済心と比べて卑小な自利である。但し、脱所属的な地域主義、たとえば国際主義や無政府主義、他集団尊崇による反骨、他集団を美化する外集団崇拝、外敵を利した自集団または他集団への裏切り等、地域主義には無数の多岐があり、必ずしも利己性の発露ではなく、自集団が他集団に比べ利他道徳的に劣っている時の啓蒙、修身・斉家・治国・平天下といったより利他的な余裕をもつ為の自己啓発等の複雑な利他性も含んでいる。東京や京都にみられる自文化中心主義や中華思想、自民族中心主義、或いは右翼一般にみられる民族主義や愛国主義だけが地域主義の形ではなく、それらは地域主義が堕落した姿である。ある人が一定の土地に適応して暮らしているとき、この土地と人に完全な対応関係はない。よって地域主義の本体は適応と、その恒常性を保とうとする自己統治であると分かる。そして宗教や政治思想が多様化した今日、調整的正義を再現する為には、適応をはかる他者との間に働くなんらかの地域主義やその単位が利己に閉じるのではなく、むしろ無限の利他を目指す世界的正義に開かれている必要がある。だから害他的憎悪演説や、自己中心的なnationalism、自衛を名目にした侵略内乱等の戦争、天皇家にみられる性差別や人種差別、薩長藩閥による徳川方の地域や所属者への侮辱や迫害、京都や東京による中華思想的な都鄙差別の傲慢などはみな根底的に不正である。抽象的定義としての世界的正義は、具体的現実においては、地域を通じた最不利者の救済と、最有利者の監査あるいは制御になる。よって或る人が地域主義的であっても、自地域を優先すべきかどうかは、時と場合によっているだろう。
 鳩山由紀夫が「日本列島は日本人だけの所有物ではない」 と発言し物議を巻き起こしたが、ある人格が他国の土地を保有したり、多重国籍がある人がいたり、外国人参政権が部分的なり完全に存在する様な国々が存在している為、単に現実的にみてこれは真だが、自民族中心主義をもつnationalistが自集団優先の観点からこれを悪解釈し売国呼ばわりをした。たとえば山口県は百済人や弥生人が入植してきた土地であり、日本の先住人である縄文人やアイヌ、琉球人が主に保有している訳ではない。したがって山口県民を民族浄化したり、国外追放したり日本列島から排斥したりする事が最も愛国的で民族主義的な事になる。しかし実際にこれを行う事に日本人は失敗してきたばかりか、逆に明治期以後、日本列島は山口県出身者(広義の長州閥)から、内乱を行うテロリズム、恐怖政治によって大規模な侵略を受けてしまった。不思議な事にというべきか、無知ゆえにというべきか、安倍政権を称揚する自称保守達はこのテロリストの末裔というべき山口県選出・出身の晋三を首相にしようとしている。それどころか、天皇家の先祖も諸々の状況証拠から弥生人や百済人だから、本来の日本人ではない。つまり平成日本の一般的右翼、民族主義者、愛国主義者、保守主義者らは、その言行において、日本の本来の先住権を持つ人間ではない他民族や他集団への外部集団贔屓と、自集団内差別や冷遇をひたすらしているし、それら外来者或いは移民、帰化人の支配権強化は却って自集団の支配を弱めるため自害的で、致命的に矛盾している。この様に時代や場所によって自他の集団や領域、縄張りを意味する観念そのものが変動している。結局、鳩山の述べた国際的友愛の観点からの冷徹な所有概念は、政治学的には真理である一方で、平成時代に右傾していた一部の自民族中心的な利己主義者達の不評を買ったわけだ。しかし平成右翼一般の基調は学問的真ではなく、非科学的妄想を含めた唯の自己愛的な利己であると分かれば、なぜこの日本国という全体主義的地域概念が欺瞞的かつ偽善的であるか、さらに俗受けを狙う大衆媒体が結束的自画自賛を都鄙差別的にくりかえすかも理解できよう。それは人口の多い国内自治体の集団が自己愛や利己心を満足させ人気を取りカネを儲ける為の衆愚的意図。大衆迎合によっているので、ただのpopulismがなぜる業なのだ。全体主義的大衆迎合の合理化が日本国や日本という地域単位信者の脳内妄念として無意識に定義されている絶対善なのであり、この目的から外れる事物をその人は排除しようとする。恐らくその根源原因は、日本列島に暮らす人々が遺伝的に恒常セロトニン値(セロトニン・トランスポーター数)が世界一程度に少ない不安脳からくる、自己目的な群衆化の傾向である。個人主義や真の自由人主義は、平成日本では大衆迎合に相反するため排除される傾向にある。勿論、この群衆は群れられさえすればいかなる害毒もいかなる暗愚卑賎も正当化していくので、半面が衆愚である。小泉進次郎が大衆迎合的人気政治の傾向をもっているのは、安倍による利己的独裁政の次にも、自民党閥が衆愚政の政党であり易い状況を形作っている。進次郎信者の様なポピュリストらは非群衆性や個人性を悪と認定したがる為、大都市圏にますます集密化し衆愚政治を自慢するが、この結果たる悪疫を避けるには地域単位を脱時代・脱場所的に見る脱地域性を上位認知しながら、群集心理の利点を取り汚点を避ける事だろう。要は、世界的調整の部分適用として政府や政党が構想されるのであり、過度に富裕な人は羨望される事にも指数関数的に急激に慣れ(フェヒナーの法則によれば、感覚量は刺激強度の対数に比例する。E=KlogR、E=KR、E: 感覚量、K: 定数、R: 刺激強度)無感覚・無感動化するので、金持ちの一部が蓄財分を慈善に回す事によって受け得る感謝や単なる良心の満足がそれに代わるという社会学的見地によれば、最貧者や最不利者を恵もうとする社会的利他性、つまり正義は、富裕度の応用として実践される。裏返せば相対貧者や相対不利者が害他的を含み利己的になり易いのは、その時点で保有する資産や成長率を見込んだ収益見込みに余裕がないからである。文化資本の不利はますます無知や浅学を促進する圧力でもあり、階級固定をよびこみやすい。例えば新自由主義者や自由人主義者といった資本主義の利己的分派が生じるのは、調整的正義に関する無知と、市場原理万能論を信じる非論証性であり、これらは共感知能や普遍的正義としての一般善に欠けている事、つまり文学や社会学、哲学といった後自然学的・人文学的な認知の不足に由来している。他方で北欧諸国が社民的福祉国家を維持できるのは地域住民の平均文化資本を充実させ易い条件があったからであり、日本国民一般の中で独裁政と社会主義が混同されているのはGHQ含むアメリカ政府からの洗脳や外圧を批判的に再解釈する知性やその為の自由教養が欠けているからである。茨城県の単位が、その世間で一般幸福を高めたければ、わが県民の中に郷土愛に基づく富裕な慈善家や、より功利的・福利的な政治体制を作る自由教養人を、質量ともに充実させねばならない事になる。
 県内市場を政府にとって無干渉的で、自由で、開放的に保つ事すなわち配分的正義と、そこで暮らす最も不利な立場に置かれた人の福祉を公的扶助によって充実させる事すなわち調整的正義は、調和的正義として両立されるべきである。
 正義はいついかなる場合にもあてはまる普遍的正義と、時と場合によって異なる部分的正義に分類され、更に部分的正義は配分的正義と調整的正義に分けられ、配分的正義と調整的正義の中庸に見出されるのが調和的正義である。
普遍的正義ー部分的正義
部分的正義ー配分的正義、調整的正義、調和的正義
 上記の正義の定義によれば、政府が行うべきなのは調整的正義である。対して、政府が自由主義的になり営利的になると、競合性としての市場原理は最不利者や最も経済力のない人、最も利己的でない人を冷遇し易くなり、場合によっては外部不経済としての公害を及ぼし、政府の実入りにならない限り反省しない。東京電力による世界最悪の原発公害にもかかわらず、その暴利を占める東京都や日本政府での生活を変えようとしない今日の安倍政権や自民党閥、皇族閥はこの不正な状態に陥っていると解釈される。と同時に、日本の一般大衆は教養や判断力の不足、そして群衆化し易い遺伝的性質の為に不安がり、改善を怠ってこれらの旧体制に固執している。一方で、政府や役所を含む公共団体即ち公社は、税収という恒常収入が警察の武力や軍事力を背景にした強制力としてもたらされ、特別な努力や工夫なしに維持されてしまうので、(パーキンソンの法則に言われる様)非効率組織として膨張し易い。日本人一般が社会主義組織の欠点とみている主要な点はこの浪費性にあり、独裁政や寡頭政と民主的・議会的な社会主義を混同している人(にもかかわらず天皇家の事実上の独裁や自民党寡頭政治を信奉する人)は無知か悪意である。もし効率的な高福祉を目指せば、福祉や教育をはじめ公共事業費を競争市場における民間事業者に計上すればよい。仮に癒着や票田化した賄賂による特定の民間事業者への非効率な委託が行われれば、その地域の福祉状態は、別のよくやっている地域に比べ低下する。ここで幸福を、自らの望むことを夢中かつ自由に中毒的に行い得る程度としての主観幸福、他者と比べた諸々の生活状態としての客観幸福、両者を含む快適な社交的状態としてみいだされる中庸幸福に分類すると、巨視的には地域政府単位間の客観幸福度としての福祉状態は、単に比較競合的に理解される事になる。公的扶助の為にある地域での最貧者が別地域の最富者だったり、障害支援の有無の為ある地域の最有利者が別地域の最不利者となる様な事は、客観幸福の落差で生じている。移住の自由が維持されているなら、低福祉な地域から高福祉な地域へ引っ越す事で客観幸福の度合いは向上するので、政府を地域全員が参加する公社として一種の企業体とみなせば、調整的正義の度合いとは、この公社に代表或いは代理として参加する一般・特別の公務員(及び広義で特別公務員たる皇族)がどれだけ公徳的か、そしてどれだけ財源と有能な民間事業者を確保できるかによっている。
 鈴木荘一が『明治維新の正体――徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』で述べている様、水戸学の本質に万民平等の考え方があったという意見には一理あり、それは烈公による『弘道館記』の忠孝一致の概念や、尊皇・愛民思想の中に原型的にみいだされる訳だが、平成時代までの政治的実例を鑑みると、松陰を通じて中国の皇帝制から移植された一君万民論は決して道徳的でも合理的でもない。明治から平成までの天皇制は変則的な物で、弥生時代以前、天皇侵入未然の日本人共和政としての縄文時代・石器時代を含めると、皇族を含む全ての公務員は地域の構成員が何らかの公正な方法で免職させられねばならない。天皇は南北朝の交代や平成までで8人10代の女性・女系天皇、桓武の母系を含め血統をいれかえてきたのであり、水戸学的万代一系論、つまり天皇とは正室によるのではない養子を含む単なる代によって維持されているという現状認識に基づけば、なおかつ今の天皇家が弥生時代以後の渡来人の末裔として本来日本列島の大部分の主権をもっており先住権をももつはず縄文系日本人のY染色体ハプログループD系統の男系遺伝子ではないだろうと想定される事からも、天皇の地位には人種的にも性別的にも、いかなる混血も認められるといえる。天皇制が廃止される時代にあっても、又皇室や皇族閥その他華族等の勲位の一切を含めて、公務員が民間人によって解雇できない状態はすべて不正の温床であり、調整的正義を怠らせその公務員自身が最不利者への奉仕より利己をはかる原因になる。したがって、少なくとも茨城県の単位においては、仮に将来の日本国やその他の国々もそうなるとしても、皇族や王侯貴族その他のいかなる末裔をも含め、全公務員が全構成員に対する職責違反、つまり公共の福利に反する場合に、公平公正な裁判その他の手続でいつでも辞めさせられる状態が確保されねばならないし、それは安倍内閣の策定した緊急事態条項を撤廃させる義務を意味し、憲法その他の法規下で皇室への特別扱いや性別を含む人種的差別をも廃止させるべきと示している。独裁政、寡頭政、衆愚政の原因なのは、議員や裁判官、公共学校における教員、公共施設の従業員、その他いかなる公社に属するこれらの公務員についても職務上の怠慢や不正があった時に免職される危険性がない事によっているのである。
 まとめると、効率を害さず、腐敗を防いだ高福祉な地域に茨城県や北茨城市をする為には、上記のうち、 公共事業費を最大限、競争的に民間委託する事(これは、郵政に見られたような業務の財源自体を民間に手渡す民営化では必ずしもない、なぜなら最不利者への慈善事業には必ずしも収益性がないからだ)、無差別的で公正公平な公務員採用を図るため民間人や公務員自身が通報する事による簡素化した免職手続きを皇族を含む全ての公務構成員にいかなる特別扱いもなしに適用する事の2つが重要である。
1. 公共事業費の民間委託、非公益的事業の民営化
2. 公務員を無差別的かつ公平に解職可能
民営化が有効なのは全体奉仕としての公共性、つまり最不利者にとっての公益を満たさない不要事業についての整理や外部化であり、競争的な事業者選択によって効率性をはかる民間委託が有効なのは無駄の嵩み易い公共事業全般に対して言えることだといえる。政府や役所が株式を買う事は、その目的としての公共性を十分に満たす時に、財務収支の一部であるといえる。又この2つの目標に照らせば、資本主義や自由人主義、新自由主義といった市場経済の開放性は、より単位が小さく、部分の奉仕者たる企業や個人事業者にとっての考え方であり、社民主義や社会主義は、不要の事業についての民営化や非効率な事業についての民間委託を含む政府の考え方であるという事ができる。そして資本主義的市場、自由競争市場と、民営化・民間委託を中心とした社民主義や民社主義、一般的社会主義は両立できるという事ができる。これらに反するのは、解職できない公務員利権としての官僚主義や皇族自身の世襲暴利を永続化する為の天皇制、そして自由市場の効率を害して政府銀行(日銀等)や一般企業に干渉する(安倍政権にみられる)国家社会主義や自民党独裁、自民党閥寡頭政治、或いは自己責任論を弄して弱肉強食を正当化したがる政治的自由主義、そして政府自身が保有する公社を拡大していく共産主義である。平成の日本国民一般が社民や民社を含む社会主義と共産主義を混同し、自由民主主義や保守(明治保守、薩長藩閥、明治寡頭政治)と名乗る皇族閥寡頭制を妄信しているのは、アメリカ政府からの同調圧力という内政干渉があるとはいえ、単なる政治・経済学的無知によるのである。また社民と民社の違いは、社民は広義で共産を含むが民社は含まない、という事が原則の様だが、これらが市場統制的な面を含む限り、市場や金融へ容易に介入し株価をつりあげたり労賃や報道への圧力をかける安倍と安倍が党首時点の自民党も広義の社会主義者、特に国家社会主義者であるといえる。すなわち、この論考でいう高福祉化は狭義で民社主義に他ならないが、これらの用語はともに社会主義という言葉を含み、一般に誤解を呼びやすい為に、私は通常、福祉主義Welfarismという言葉を用いるべきだと考える。福祉主義の立場からみれば、部分最適をはかる自由市場や、相対不利者を恵む民間委託や公務員の浪費を省く積極的な民営化はともに両立する一方で、夜警国家やサンディ・スプリングス市のよう極小政府をめざす完全民営化論や、弱者に対する福祉政策のきりすて、金融緩和の名目で日銀が過剰に株を買い上げ株価を釣り上げたり労賃低下を招く非正規雇用法を通しながら労賃上げを経団連に圧力したりするアベノミクスと称する市場介入・市場壊乱の矛盾は否定される。厳密にいえば、安倍政権はアメリカからの内政干渉を避け権力維持の為にアメリカの日本操縦者や米政府の戦略に従属する行動をとっており、量的緩和の名目でのGPIFや日銀の買い上げによる日経平均株価のつり上げは、ゼロ金利政策で日本人投資家にも投資を促している日銀の黒田総裁やNISA制度等で若年層を含めた資産形成の不安をあおる金融庁と財務大臣の麻生太郎による意図如何に関わらず、特にアメリカ系の外国人投資家によって既に買収されてきていた日本企業を日本勢を養分にしアメリカのバブル崩壊までに売り抜けさせる為の米犬的媚び、つまり安倍晋三個人の生前の権力欲を満たすため日本人の貯金をアメリカ系投資家に吸い上げさせる売国策、そして自民党の主要財源である経団連からの献金を募る為の金権政治的腐敗に他ならない(因みに北朝鮮危機を煽る事での独裁政の完成や軍産閥の形成は、米軍産複合体のみならず安倍の兄・寛信の属する三菱財閥への利益誘導でもある)。また人種的な差別と宗教的偏向、品位を名目にし世襲の浪費利権を含む公共税収に寄生した独裁政治体制たる天皇制や、強制的で定期的な党首交代や三権分立的権力の制限を含まず皇族閥や軍産閥等の世襲政治家、今日でいう安倍晋三や麻生太郎、石原伸晃が両院を独裁した党首の地位を延長させようとする自民党閥寡頭政治あるいは皇族閥寡頭政治はともに利己的かつ非公共的なので否定される。なおかつ、官僚主義的な国家公務員の利権を維持する為の体制、つまり国家社会主義や、神道原理主義による洗脳を通じ信者や皇族血縁者の権益を最大化しようとする結束主義Fascismや全体主義、皇族に近いほど優遇しようとする弥生・百済系移民中心の民族主義や、中華思想的な東京・京都主義は否定される。中華思想が否定されるので大都市部の住民を過疎地や郊外、田園部の住民より優遇する理由もなく、群衆化自体も少数派の迫害という意味で公害なので大都市優越論や都鄙差別、即ち日本型華夷秩序も否定される。福祉主義の観点からは、出身や人種、民族によらず地域の公益、最不利者への傾斜的調整が公共事業の目的なので、帰化人や外国籍居住者についても、ただ乗りの行き過ぎや害がない限り最大限の人権を認めねばならず、よって公用語は我々の地域が既存事実として用いている言語であるべきだ。公用語を確定する事は新奇性や少数派への抑圧につながるので、法定しなくていいことになるだろう。

2018年3月1日

日立建国論

 日本国の近い滅亡を予期し、今日の茨城県は主権を確保し独立、日立国として単独で国連に参加する。この為に金融業を根幹に据え、今日の茨城県民には年少期から早期の金融教育を導入しておく。日立国の人口規模は、日立、水戸、筑波の三大都市圏に人口集中を図り、広大な農地と共存する事で一千万人を目安にする。
 また国連参加後は、国際調整税を国連会議で主張し、より貧しく恵まれない国々を優先し公的に支援する地球的体制をつくるべきである。

2018年2月25日

遷都準備論

 今後30年以内に首都圏南部及び水戸市で震度6以上の揺れが起きる確率は80%と見積もられている(調査研究推進本部・地震調査委員会資料(平成29年4月))。
 この事実は、 首都圏は一度壊滅する事を示している。その際には巨大な復興特需が起きるだろう。茨城にとって重要なのは、他の首都圏と自己を差異化し、この際の損害を最小化し、特需による利得を最大化する事だ。前提として東海第二原発の廃炉が必須だが、次に為すべきは遷都を、安全圏化しつつ新政府に有利な県内へ行わせる為に全ての手筈を整えておくことだ。先ず復興庁や国交省らを動かし、県内の耐震・制震・免震化を助成金によって最大限おこない、液状化で住みようがなくなる首都圏南部と完璧にすみ分ける。次に東南海地震によって破滅する東海道と異なり、災害に絶対的安全を確立するべきである。

2018年2月24日

日立国論

 今の日本国民全般はマスメディアやサブカルチャー、また文科省の与えた教育等、東京都に洗脳された情報環境を通じたものの考え方や見方をする。そしてセトロニン・トランスポーター数の少ない脳の遺伝的変異をもっていて、この為に群衆化を自己目的に行い、周囲の日本人一般と見なした集合意識へ同調したがる。この東京発の情報環境下での全体主義集団心理が魅力度報道をはじめとする一切の日本人の典型的偏見や差別を生み出している。又、彼らにとってこの偏見や差別を自己批評的にのりこえる事は極めて困難なばかりか、恐怖のあまり吐き気を催す体験であり、科学的真や道徳的善をはじめ、美醜や価値判断の一切を集合的他者と見なせる多数派世間に頼り、自分自身でこの国家規模の洗脳から抜け出す勇気も意欲もない。逆に、日本国民全般は、積極的に東京のマスメディアや政府、その他ネット世論等、周囲に同調できる多数派集団と見なした相手へ、卑屈なまでに追従したがる。
 少なくとも、ブランド総研の田中章雄はじめ、都民の一切にとって、他県を差別や偏見で塗り固めて貶める事は、単なる商売であって、それによる法的・倫理的制裁が政府機関や世間から行われない限り、罪も恥も全く感じないであろう。この決まった千人程度のブランド総研会員に対する主観的なイメージ調査を毎年くりかえす事による稼業は、田中章雄にとってもその他の日本国民にとっても門地差別エンターテインメントとなっており、その集団虐待の対象がどの自治体になろうと、単にストレス解消の為の特定自治体に属する一部国民への汚辱ゲームとしか日本人全般は考えないであろう。この決まった会員を対象にしても、その他の人々を対象にしても、田中章雄やマスコミの主要関係者が住まう東京都が47位になる可能性が十分に低いので、いわば絶対的安全地帯から不利な条件に置かれた日本人に汚名を着せ差別と偏見で侮辱する事を、これら一部都民は生業にし、その他の衆愚的日本人も半ば悪意で同調しているのである。
 上述のことを十分に省みると、具体的に問題を解決するには、
1.田中章雄と総合ブランド研究所を地上から除去するか、
2.東京都のマスコミ各社に差別・偏見の報道を禁じる法制を布くか、さもなければ
3.日本国民全般の遺伝子を地上から除去するか、
これらの3つのうちどれかしかないように見える。1で田中章雄の寿命によって解決する場合をいえば、この特定自治体への差別・偏見による商売が終わるにはあと10年以上かかるかもしれない。それ以前に、田中が事故、病気、その他の事件で死亡した場合は、もっと早く、この報道公害が終わるかもしれない。3で日本国民全般という差別や偏見を厭ったり情報の批評的理解力に欠けた同調脳を持った衆愚をこの世から民族浄化する場合については、米中軍や国連軍等による大規模な戦争が起きたり、何らかの天災、或いは疫病の流行等で、一網打尽にしたりする事が考えられる。2の差別偏見の報道公害を防止する道筋については、自由圏においてかなり難しい事ではあるが、安倍政権ならやりかねないという意味で、国政と内閣に強く訴える事はかなり有効といえようが、報道公益への弾圧の糸口にもなる諸刃の剣ともなりうる。
 大井川知事を含め、茨城県民も日本国民も、この問題が報道公害や日本人の衆愚的集団虐待の悪意という、構造的な差別問題なのを自覚していない。そしてそもそもこの集合無意識が出てくる源泉は、神道という奈良発の弥生系民族宗教と、その教祖である天皇という象徴的権威が都心に住んでいるという都鄙差別の構造である。この根底にあるのは、遣隋使以来、天皇が中国風の中華思想を模倣し華夷秩序を述べてきた事にあり、いわば「京都思想」と言える当時の天皇が住む大都市における自文化・自民族中心主義と、その蔑視対象であり搾取対象としての田園地帯という神道的帝国主義そのものといえる。逆に、イギリスは荘園領主以来の紳士や郷紳の貴族政治が上院に維持され、イングランド国王は連邦各地を封土として特権階級に付与するという形式をとるので、近代都市よりむしろ田舎地帯が尊く、美しく、守られるべき原風景という国風や民情をもっている。明治以後の日本人全般は田舎や農地を頭ごなしに差別し、農民階級をも蔑視し、都心部での商人生活や官吏が格上の存在だという一種の妄想をもっている。もしこの事が中国の文化構造の忠実な移植なら、なぜ日本や中国に限って、イギリスの価値観が植民地を通じて世界では一般的なのに対して、これほど極端な都鄙に対する価値観の違いが生まれたのか。この都鄙差別の根本原因をとりのぞく事こそ、唯一、わが県民がこの世界において誉れ高き誇りと気高い名誉をとりもどす最初にして最後の手段と言う他ない。それは、水戸学において貫かれていた尊皇考を否定し、のりこえる事に如くはない。
  中華皇帝の模倣者として奈良で奈良時代に捏造された、奈良人の先祖たる中朝系の特定弥生人崇拝の新宗教は、それまで日本に遍在していた自然崇拝を、中国風の多神教に染めて、いわば在来日本人を奈良の中朝移民の奴隷に仕立てようとした。この自然崇拝と、神道という新しい多神教は、歴史の長さにおいて数万年の開きがあり、別の信仰形態である。実際、明治時代に天皇政府が強要するまで、アイヌはこの原型的自然崇拝を維持していた。最低でも3万年以上日本列島に住んできた縄文民族こそ本来の先住権をもつ本州の日本人であり、天皇の先祖であろう弥生民族は、今から7000年前の弥生時代に侵入ないし侵略してきた異民族であったのだし、この末裔たる天皇も我々日本人の直接的な先祖とはいいがたい。外来目線でいえば征服者、日本目線でいえば侵略者の天皇を天皇自身と共犯的に、政府権力にとりこんできた歴代将軍や首相は、自ら執政する都心を神格化・偶像化させ、礼拝なり崇敬させる事によって日本人の帰順や服従を宗教的な洗脳や情報操作によって誘導してきた。つまり現時点の安倍晋三氏も、或いは側近にいる麻生太郎氏も、かつての華族や公卿連中、徳川家や毛利家、島津家の様に天皇と血縁・親戚関係を結ぶ事で、自らの政治的権威を絶対化しようとはかっている。そして茨城県、かつての常陸国並びに下総国が東京都民や日本国民全般から、意識的にせよ無意識的にせよ魅力度報道にみられるよう実質的な差別対象にされている理由といえば、この薩長藩閥と天皇家の東京政府における血族支配体制による、旧徳川家の強権的支配地への冷遇に違いない。勿論、徳川氏も天皇の親族であったが故に、その権力を確固たるものとするべくして、家康の代においても、義烈・慶喜公の代、水戸家においても皇族との縁戚関係が結ばれていた。勿論、単に民放テレビ局をもっていないから外部に知られていないとか、まだ知られていないだけとか適当な理由をひねりだして、薩長閥、皇族閥による徳川支配地への差別をなかったことにしようとする者がいるのは理解できなくはないが、尾張こと名古屋市が都市の魅力度で最低と同じく差別されている事についてかんがみても、また福島や新潟、青森といった奥羽越列藩同盟側の主要な地域に東電や日本原電による原発災厄が準備されているのは、明らかに西軍からなる日本政府関係者、及び日本国民全般からの悪意によるものだとみなす方が自然な証拠におもう。これが被害妄想であるというのは簡単だが、現実に福島原発事故時の菅直人、それ前後の安倍晋三という山口県出身の長州閥首相をみるに、これらの人々は明らかに明治イデオロギーによる日本国内の旧徳川方への侵略内乱罪含むありとあらゆる嫌がらせと悪意を、全く恥じたり罪と反省する気配がないどころか、心底からの悪で暴挙をしているというべきなのである。勿論、これらの手先に実行させてはいるにせよ、天皇家が真の悪の親玉なのはいうまでもない。端的に結論をいうと、茨城県が再び常陸国として国内及び世界に名誉を回復するには、天皇家と薩長藩閥による日本政府を一旦滅ぼし去り、新政府を現茨城県内に茨城県勢から樹立し、その新政府において、常陸国(日立国)を立国、完全に日本国から独立し直す事しか道のりはなさそうである。上述の1~3の選択肢のうち、1について田中章雄の死後、報道を通じて散々洗脳された日本人衆愚は相も変わらず茨城県を偏見と悪意から差別し、侮辱し続けるかもしれない。また2について、東京の報道がどれほど悪意と偏見、差別、虚偽と暴挙に満ちていても、結局は県外人のmedia literacyや文化人類学的な他地域への批評的理解力が低いままなら、別のさらに邪悪な洗脳を受けて同じ差別をくりかえすだけであろう。これは県内に限っては然るべき教育によって改善しようものの、神道的中華思想、京都思想を持った衆愚にあっては全く希望はない。現東京政府がいかに全国民へ博愛精神やそれぞれの地域文化や伝統に対する理解と敬意を教え込もうとしたところで、天皇独裁あるいは将軍専制による都鄙差別という二千年間にも及ぶ愚民化・奴隷化政策のあとで、どれほど民情の回天に時間がかかるだろう。そもそも弥生時代以後の日本各地は、おもに縄文人と弥生人の間で、あるいは弥生人間での内乱が平均150年単位でくりかえされてきており、その混血がかなり進んだ今日にあっても、150年前の戊辰戦争が最後の両民族間での内乱だというべきである。この様な内乱が起きる理由は、日本の先住人と、弥生系侵入者との間にはY染色体ハプログループに関する限り遺伝的距離が7万年も離れていて、弥生人は既に住民のいた大陸・半島から排斥されたり何らかの訳で移住して無人の西日本に植民した以上、そもそも日本人の為に移民してきたわけではないので呉越同舟に過ぎない事、その上考え方や感じ方といった文化にあまりに違いがあり、日本や東南アジアの肥沃な大地に狩猟採集生活をしてきた縄文人の共和的利他主義に対して、おそらく不毛な草原地帯の続く北アジアや中国朝鮮に暮らしてきた弥生人の簒奪的利己主義というその傾向の真逆さは、長らく日本国内の武力を伴う摩擦の原因になっている。はっきりいえば、この傾向は性格遺伝子の違いに由来している可能性もあるので、相互の本性自体を変える事はおそらく難しいであろう。勿論、個人の単位では利他的弥生人や利己的縄文人の末裔も存在し、文化の詳細にはもっと複雑な地点もあるだろうが、ここで単純化して理解した両者の違いが、結局は薩長や西日本人の人々の自己賛美と東国蔑視、そして東京に来た彼ら弥生系移民の末裔による自己崇拝と、周辺の田園地帯や工業地帯を朝貢する農奴・奴隷の居住区とでも言いたげな、中華官僚的差別意識を生み出している原因なのである。この華夷秩序において自己神格化をはかってきた天皇の様に、弥生人が歴史的にもっている利己性や簒奪性という傾向は、平成時代においては農工の侮蔑と士商の賛美という二極化をもたらした。なぜなら、東京に入ってきたこの天皇家という簒奪者や薩長土肥京の末裔たる華族・官僚連中はひたすら周辺国民を暴力や権力濫用で収奪すればいい、あるいは政商の癒着によって暴利すればいいと解釈したからである。岩手出身の先住日本人の民主政治を冤罪にかけてまで冤罪報道・疑獄する割に、山口出身の中朝移民といえそうな人物だとか奈良に帰化したその末裔による違憲行政や金権政治の数々を称賛する東京以西の衆愚を鑑みよ。これらの人々は、端的にいって純粋に利己的にふるまう事を本性に基づいてしているだけで、日本人全般を奴隷化する事に何の疑問もないからそうしている。他方で、日本人全般は、もし彼らが先住人の血筋を引いていれば猶更、もともと利他的で共和的な平和文明を数万年にわたり国内で維持してきた種族であるから、これらの横暴を働きたがる独裁者・寡頭政治家らを一種の内に秘めた反抗心を保ちながらも、むしろ許容してしまうのである。『古事記』に記録されたところ以前にも、古墳時代以前においてこの侵略者たる弥生人集団と戦った各地の長は間違いなくいたし、それ以後も、天皇家が悪意をもって抹消してきた数多の先住日本人達の長、そして住民らがいた。靖国神社が慶喜公の末裔である徳川宮司において尊皇親幕の会津合祀や、徳川派への裏切りや濡れ衣の果てに最後には長州閥にも抗った西南戦における薩摩閥の合祀を行おうとしたところ、一部の山口県民の利己のみが目的の長州閥原理主義右翼がそれを非難したわけだが、この背後には、天皇の独裁権に反抗する者を徹底して差別し汚辱し歴史的に抹消しよう、という利他心を一切もたない完全悪の邪教神道の教祖・天皇による悪意が横たわっている。そして弟への常陸宮という親王任国の名義づけを天皇家が踏襲しながらに、天皇支配の平成政府下の民衆が、当の茨城県を軽侮し、差別し、偏見により蔑視する事は、それが天皇崇拝と国民蔑視、結果としての都心崇拝と田舎蔑視という神道教義の実践段階だと考えているからに他ならないのである。しかも、長州閥独裁政権下で日本人衆愚がこの卑しい差別心と邪教崇拝の邪念から蔑視対象にしているのは、常陸水戸や尾張名古屋といった旧徳川御三家の歴史と伝統が息づいている地域なのである。
 これが魅力度報道の決定的な民族精神分析であって、 大井川知事が単純に考えている様な外部に知られていない、という宣伝効果だけでは決して説明できない事なのだ。司馬遼太郎ら明治賛美の長州閥原理主義または神道原理主義右翼らは、その尊皇考や象徴天皇の体制論が当の水戸に直接由来している事など、全く知らない。逆に統一日本による欧米からの植民侵略を防ごうとした専守防衛理論たる正義の水戸学を、天皇を箔づけにした利己の権力簒奪の為の倒幕イデオロギーや侵略内乱の松陰植民地主義の正当化に悪解釈し、明治以後の内外侵略や神道原理主義的創氏改名・廃仏毀釈等の天皇帝国主義に至らせたのが、薩長藩閥を主とした西軍と天皇家である。この事も、利他的傾向をもつ縄文文明の末裔としての水戸の平和主義やそれを支援した奥羽越列と、利己的で害他的な傾向を恥もしなければむしろ誇ってさえいる弥生系移民の末裔の西国諸地域に対極的にみられる傾向の摩擦だといえる。滋賀出身の原田伊織は幕府の忠臣を述べてありながら天皇家や徳川家に攻撃した、忠義の点で日和見的な行動を幕末にとった井伊家を正当化する為に、浅薄な悪解釈で水戸学を非難しているが、一言でいえばろくに文献を読んでもおらず、その思想体系について何も理解していないといえよう。これらの全ての悪意は、徳川宗家が戦国時代の末期に内治を完成させ、江戸時代を通じて行った専制政治への恨み、そして水戸家の尊皇を貫いた慶喜公が天皇を守り大局的判断で第二の関ヶ原というべき東西主力軍の内乱分裂により日本の欧米による植民侵略を避け、自己犠牲的に継いだ宗家や一橋家、自らの実家水戸家の地位を捨ててまで祖国防衛を両立すべく禅譲した事への無理解・誤解と悪解釈、或いは暴力至上主義や反平和主義からの罵詈雑言や讒言、侮辱が原因だといえる。日本人衆愚が水戸家や水戸学、徳川慶喜の立場を理解するには程遠いが、それは薩長藩閥中心主義、薩長史観、明治史観、天皇史観によって禅譲した慶喜や徳川家への敗者の烙印を押し続け、しかもこの利他的な、本来の意味で純日本的な行動原理を、本性から理解しえない弥生民族の末裔という生まれも育ちも悪い移民集団による無理解・誤解・悪解釈の偏見と差別によって迫害しよう、というのが、天皇家、安倍家、麻生家、そして日本政府や日本国民全体ぐるみでの悪しき目的なのである。要するに、これらの水戸の徳川家による政治は、実際には我々茨城県民、そして常陸国民におしつけられたものである。我々は自らそれを選び取っては全然いない。我々の土着の支配者は佐竹家だったのであり、それ以前には武田家や伊達家など様々な群雄が割拠していたのであり、さらに遡れば純日本人達が平和文明を建国していた。徳川氏は群馬、愛知経由で武蔵・江戸に出てきて、そこから佐竹を退けさせて徳川家の末裔を我々の領地におしつけてきた。そしてこの支配に逆らったとみなされた、生瀬村の事例にあるよう、単に役人もどきの詐欺に騙されただけでも、水戸徳川氏の軍によって村ごと惨殺され消されてしまったのである。この様な厳格な支配体制下で何とか生き抜いたうえ、忠義に基づいて最大限、祖国防衛の為の利他行動に死力を尽くしたのが水戸と茨城の先人であって、天狗党も諸生党も含め、その後の全ての人々も含め、単に常陸一国、下総国のことだけを考えていたのではなく、むしろ会沢正志斎や藤田東湖、桜田義士や芹沢鴨らのよう、今日の日本全体を思い、日本と言う国号を実質的に制定した烈公や、象徴天皇や議会政治の直接の祖である慶喜公のように、明らかに普遍的政治道徳に基づいた正道を辿ってきたのは、薩長土肥でも京都でも広島でもなく、それどころか攘夷が不可能なのに征夷大将軍という防衛省の役割を放棄して義勇軍の天狗党を弾圧をしたり西郷と島津の暗躍で冤罪にかけられた水戸へ疑獄内乱を起こし自己崩壊を招いて江戸・東京でもなく、茨城こと常陸国の人々なのである。
 全国民から収奪したカネや財物を消費するので商人が集まった都心に住まう中韓移民の天皇が主で、その侵略犯に農作物や工業製品を貢納するのが日本先住の国民であり、この飛鳥時代以来の日本人差別に基づく腐敗した独裁政の主従関係は、今をもって終わりを告げた。確かに水戸の徳川家は、5億年以上続く常陸の全史に重要な時代を作り、特に歴史学の分野で一家言を作り、儒教や国学を大成した偉大な史書や派生した思想をもたらしたし、それは常陸を含む日本全体の近代化の原理となって統一国家を形成し植民地侵略を防いだし、殖産興業や愛民思想に基づいた仁政徳政の事績は常陸を全国二の農業大県にしたし、烈公が発展させようと考え命名した北海道も全国一の農業県になった。これらは農本思想に基づいた民を慈しむ儒教的仁政の理想と水戸学者によって宮中祭祀に復活した新嘗祭に象徴される秋津洲の瑞穂の国を体現しているし、私以外の誰も水戸家の偉大な貴族性をもはや評価していないとしても、私は最大限に彼らの理想的な統治者としての資質を理解しているつもりだ。ユネスコが弘道館と偕楽園の構想に今は無き武士の平和国家を守る清冽な気概をみてとれないとしても、もし義烈両公が今日の常陸を見渡せば、恐らく民の努力に感激し、彼らの理念が忠実に再現されていったその後の発展史に満足する事だろう。敵の辱めを受けぬ前に水戸城を焼き払った高潔においても、慶喜家を歓待しその最期を常陸国水戸において畏敬の念において見送りえた事の忠節においても。一方で、日本国民全体から貶められ辱められた武士道と常陸水戸の地位は、いかなる手立てをとろうと最高の名誉をもって復活されねばならないし、その為には、県外のいかなる日本国民を犠牲にしようが、もはや躊躇も寛恕もいらない。なぜ県外人が茨城県民の名誉を貶めるか、辱めるかと言えば、彼らの無知のみならず、当の常陸人によって確立された尊皇の理念を衆愚が誤解し、君民一和、尊皇愛民どころか天皇を崇め国民を蔑んでいるからであり、挙句の果てに食のありがたさや農工尊重の念をも忘却し東京商人のカネ儲けと腐敗官僚の贅沢を卑しい町人都民の扇動によって偏重しているからに他ならない。この事態の根源原因は天皇という邪教祖なのも、又明らかである。義公は皇国史観を通じ古代王朝の末裔としての天皇を神格化し、妻である皇族を通じて水戸徳川氏の尊皇愛民の副将軍たる地位を確固たるものにしようとしたのだろう。だが、その尊皇精神こそが衆愚の都心妄信と田舎蔑視の原因となっているのなら、これはもはや主権者たる茨城県民自身のただの本末転倒の自損に過ぎないのであって、今や我々は尊皇主義を破却しなければならない。一体、この宇宙のどこに差別される為に悪しき侵略者の教祖を崇める愚か者がいるだろう。日本国民という県外衆愚に我々の名誉がけがされない為には、天皇や日本政府と手を切り、たとえ一県なりといえども一国として再び独立し、自律自衛の軍事増強の為に富国強兵を徹底し、県外国外からの内政干渉のそしり一切を完全に排除する事が必要だ。県外の天皇政府に財政的に依存していたり、日本政府からの軍事的支配を受けている事こそ、わが常陸の国民が自らの自律を侵害されている原因に違いない。
 もし日立国が独立後も、外人がわが国をそしり、貶め、辱めてきたとしたら、その事を歯牙にかける必要は全くない。わが国がその歴史と伝統において傑出した偉大さを保ち続けている事が重要なのであり、それには国民一人が自らの尊厳を宇宙で最も高い次元に保ち、尽忠報国と主権の権化であればそれで十分である。日本国という烈公が植民地化を防ぐべく名付けた単位は、期限切れのものとなり、わが日立国の前に滅び去る事になるだろう。現時点では誇大妄想と受け取られる見解にみえるだろうが、私は必然の未来を見通し、単に近い将来の世代から見れば当然の事実を述べているにすぎない。日立国外人は我々自身とは関係がない。単に、必要なのは主権を完全に樹立し、それを永遠にたもつ為の軍事独立に他ならず、この為には300万国民全員が最後の1人になるまでゲリラ戦を続け、日立国の独立の為にあらゆる手を尽くす事が最善だ。またこの独立を維持する為の武器の開発を何より最優先とし、ひたすら各国の軍事を学習し続けるべきである。金融業を国家産業とし、ここで得た利潤は全て、日立国の尊厳を自律によって守るべく、軍事費に費やす覚悟がいる。金融軍事大国が、茨城県の後裔たる日立国の執るべき方途である事を明記しておく。なぜなら、武士が発祥し最後の将軍の末裔が亡くなったこの常陸は、正真正銘の武士の国であるからだ。この武士道を完成させる事こそ、首都水戸に託された使命だといわねばならない。日本国民にいかに侮辱され罵られ偏見で差別を受けても、我々自身が誇り高き正道を辿ってさえいれば、完全に無視できる。その正道こそ、常陸あらため日立を国家として日本から独立させ、我々国民自身による国民の為の本来の共和国家を統治する事である。抑圧者・弾圧者・侵略者・内政干渉者である日本国民こそ、我々日立国民の敵に他ならない。天皇は敗れ、亡び去る。日本政府は廃れ、消え去る。その後に残るのはわが国だけである。我々は今から、偉大な先人たちのあとを継ぎ、我が国が世界中から正しく理解され、尊敬され、最も名誉ある国民の一人であるとひたちの全員が見なされる事を当然と考え、その為にもてる限りのあらん限りの死力を尽くさねばならない。国外の衆愚を我々が脳ごと取り換える事はできない。いくら説得しようが宣伝しようが、明治イデオロギー狂信者や、水戸学の尊皇論を誤解し神道京都思想で田舎蔑視して恥じぬ愚民愚官愚皇になにをいおうが無駄である。これらの愚者、卑人はサルと考え、完全無視が唯一の対処法である。代わりに、我々自身がいかなる理想の幸福を、いかなる理想の福祉を、いかなる理想の尊貴なる永遠国家を作りうるか、そして最大の力と正義をもって我が国日立を軍事的に防衛し続けられるか、試さねばならないのだ。

2018年2月23日

磁気浮上式滑走部による常磐線とTXの電磁浮動化

 常磐線の各列車、スーパーひたち、TXにIronLev社の磁気浮上式滑走部を採用し、後に県内企業がこの磁気浮動式滑走部を改良した特許を再取得してグローバル展開を図るべきである。これによって通勤通学時間を短縮でき、県内へ過剰人口流入中の首都圏における住宅と職場の建設を誘致、開発特区にできる。又それにあたっては、私鉄を呼び込むべくJRの鉄道を民間事業者に共有するよう国会議員と法制に働きかけるべきだ。TXを水戸駅まで延線する事も、県南から県央まで人口流入をはかる事になる。

イタリアのスタートアップであるIronLevが2018年2月に発表した特許は、すべて「メイド・イン・イタリー」の磁気浮上式走行装置だ。最大の特徴は、既存の線路で使えるよう考案されている点にある。新しくレールを敷設することも、列車を設計し直す必要もない。車輪をIronLevが開発した磁気浮上式の滑走部に交換するだけでいいのだ。
「滑走部を列車に取り付けるだけで、つまり新しい車両をつくらなくても、世界中の150万km以上の鉄道路線を利用できるようになります」とIronLevの社長、アドリアーノ・ジロットは説明する。
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IronLevの磁気浮上式滑走部を活用した列車では、消費電力がより小さくなると見込まれている。環境保護につながるだけでなく、レールの摩耗も少なくなるため、レールの製造と維持にかかるコストも低減できるだろう。
ジロットは「パッシヴ磁気浮上の原理により、10キロの重量を持ち上げるのと同じ力で10トンの車両を動かすことができます。使われる唯一のエネルギーは、車両を動かすためのものだけです。路線によっては、そして技術の発展の度合いによっては、音速より速く走行できるでしょう」と主張する。https://wired.jp/2018/02/23/ironlev-from-italy/

2018年2月21日

安倍独裁下での茨城県政論

 アリストテレスのいう部分的正義について平成の現在にあてはめて解釈すると、配分に偏り過ぎた拝金主義や自由人主義(libertarianism)、調整に偏り過ぎた労働主義や生保主義(生活保護主義)はいずれも合目的ではない。配分と調整の両極をもちあげた中庸、即ち調和といえるのは、民社主義や社民主義だといえる。民社または社民主義による高福祉化にあたっては、官僚制の弊害を避ける為、民営化が同時セットでなければならない。
 また以下にその理由を詳しく説明するが、非正規雇用法の撤廃あるいは改善によって、非正規労働者の方が正規労働者より給与が高くなるよう企業に義務付ける事が第一に必要な施策だろう。なぜなら、非正規雇用法を通した小泉政権と、その後裔としてさらに金融緩和を非正規雇用法撤廃より先に行い中流没落を招いた安倍政権を主とした自民党が、平成の日本経済及びその百年の計たる国政に深刻な失敗を招いた第一原因である。一言でいうと自民政治が失敗しているわけだが、その理由の最たるものが、アメリカかぶれの竹中平蔵が新自由主義を小泉・安倍両政権下で日本に導入しようとし、先進国でアメリカに次ぐ相対貧困大国にしてしまった上、社民的福祉化も社会主義への偏見や、麻生・安倍という皇族閥の既得権益維持の為の保守信仰、または安倍の親米的保身によって怠ったので、国民全体の低所得化によって人口減少による国家衰退が決定的になった事だ。竹中はパソナグループによる人材派遣業で政商としてしこたま儲けたが、途中で自らの政策的失敗に気づき北欧を称賛しだすころまでおこぼれ理論を本気で信じていたのである。
 2018年段階で安倍独裁とその支持者達は日本の拝金化を極端に進めているが、それは経済ではない政治の調整的役割を理解していないからであり、いいかえれば彼らは調整的正義を認知しない衆愚だといえる。拝金は社会的不公平を拡大し、多数を占める人々の相対貧困化を進め、低教育・低教養の蔓延は階級移動を妨げるので、民衆一般に客観的幸福度が低くなる。安倍政権下で日本国内衆愚中に結束主義的愛国心の強調が見られるのは、批判的思考の欠如からくる無思考と生得的に少ないセトロニン・トランスポーター数による不安脳の故に自己目的な群衆化の確証偏見を強化してしまうと同時に、北朝鮮・韓国・中国の軍事的脅威を強調する安倍の仮想敵扇動による独裁権力強化の作戦から更に不安脳を煽られているからであろう。つまり、平成の労働者達が安倍独裁下での拝金的な格差拡大政策が彼らに不利で彼らの信じる労働主義と対立しているのに肯定するのは、およそ、独裁者を結束的に狂信する事が最も複雑な社会状況を考えたり、社会批評的に解析しなくて済むからである。 平成末期はこの様な衆愚政状態だったと後世に知らせる事は有益だ。幕末から明治に薩長土肥、京都、芸州(広島)等の西軍が松陰の無政府的侵略主義に染まり、天皇が帝国主義を狂信し大規模な内乱・侵略罪を働いた事を、東京以西の西南地方が美化しだす時、そこには覇道、即ち権謀術数主義による暴政の絶対化が必ず含まれている。これらの西南地域の民族は、弥生時代以後にユーラシア大陸の中国江南地方界隈や朝鮮半島から移民してきた弥生人と言われる人々の末裔が主だが、この人々は元来が日本侵略によって生存圏を得てきた歴史を罪悪視しておらず、究極のところ暴力による野蛮の勝利を経験的に信じている。いいかえれば、西南地方から東京地方の人々は一般に利己を利他より、善悪より強弱を重要と考え、縄文時代以前の日本における、およそ身分平等な原始共産制を経験していないので、社会的公平や正義に基づく徳政が存在する事や、その功利性、福祉性を信じていないのだ。安倍晋三の様に、東京生育の長州閥を自称する人物が独裁政、社会的不公平や違憲行政を拡大する暴政や悪政と呼べる不正の数々を行っていても、それを疑問視しないどころか協賛する西南地方の民衆は、弥生民族としては天皇を教祖の神輿とした、弥生人達の長による絶対政治が行われれば、その内容より形式に満足するのだと理解できる。特に、西日本の右派の中で、尊皇主義者慶喜の天皇への禅譲を徳川政府の自己敗北と解釈し内乱を起こした明治時代を理想視する薩長土肥らの自己過信によって、この天皇を玉として担いだ長州閥独裁原理主義は極端になっている。西日本の民族にとって、内乱・侵略罪を起こした明治時代は、日本征服あるいはアジア侵略の成功体験と解釈されてしまっている上に、それを単なる利己的・害他的な植民地主義のなせる、欧米の傀儡としての内乱だったとか、アジア同胞を裏切った我執の誤謬だったとか、神道原理主義による狂騒的な混乱だったと反省する理由は、西南地方の人々にとっては存在しない。東京都にとって、今日の天皇制を正当化する事は、都民の権威を強化すると想定されており、この薩長史観に沿った司馬遼太郎の小説に殆どを拠ったNHK大河ドラマの歴史解釈の構造をみればわかるよう、西軍正当化と徳川時代における新渡戸的武士道の否定、東京の成立は一体化している。九州地方大分県から江戸・東京へ出てきた福沢諭吉が薩長幕府たる明治政権の成立後に、『脱亜論』で欧米崇拝と中朝蔑視を述べた事は、薩長藩閥の残滓たる安倍独裁を支持する右翼の中でいまだに生きている。しかもこの明治イデオロギーは、CIA諜報だった岸信介の孫としての安倍の従米的意図との協働で、沖縄への負担をはじめとした在日米軍の脱法的間接統治状態の維持強化や、安倍の生育した東京を除き東北・東日本一般へのTPP押しつけでの農業冷遇、更に武士道に基づいて徳川擁護に回った会津を主とした福島県で安倍が検査を怠らせた結果起きた原発事故からの復興の無視と対比的な安倍の生育地東京での賄賂五輪といった権力濫用をもたらしている。端的にいうと、安倍晋三という人物は、同じく長州閥を気取っていた菅直人と同様、山口県の毛利が西軍の大将だった戦国時代以来の、戦国の最終勝利者たる徳川統治下の社会への復讐心、幕末から明治にかけての侵略・内乱罪の暴政正当化、そして戦中戦後に岸以来の対米追従による自民党内外での長州閥独裁権力の維持、またそれらの根底にある吉田松陰『幽囚録』で示されているアジア侵略による植民地主義、これらの意志傾向をもつ長州閥原理主義者なのであるということができる。なぜこの人がそれほど絶対的な独裁権力欲にこだわるかといえば、この長州閥原理主義を正義と混同しているからである。社会をよりよくする為の政治とか、政治学的な知恵に基づいた行政という考えは、安倍という人の中ではかけらもない。それ故に違憲行政を平気で行うし、立法の長と自称して恥じず、反長州閥的な国民を徹底的に冷遇し、独裁権力を妨げる追従者すら冤罪にかけて罪とも思わないのである。一言でいうと、幼稚な上に狂信的なサイコパスなのだろう。安倍と麻生は、一度政権から転落し、絶対的独裁者になり続ける事でしか、祖先崇拝を満足させる自己血統崇拝の自尊心を、それは自称名門の虚栄心なわけだが、保つ方法はないと考えたのだろう。しかし、問題はこの狭量な祖先崇拝を通じた自己愛しか目的のない精神病質を首相に仕立てている日本国民の一定数であって、それらの人々は消極的な理由で自民党という多数派政党を支持しているが、実際には明治寡頭政の美化と当時以来の犠牲の隠蔽という西日本人の利己心と悪意ある弥生民族主義者の右翼に欺かれているが、それに悟って自己修正するほどの知力も公徳に関する意思もない。父たる裕仁の敗戦がトラウマの明仁は起こりうる侵略戦争可能な安倍新安保法制下での戦争、または戦争憲法下での戦争責任逃れの為か、違憲立法を命じて、天皇が政府以上の独裁権力をもつ真の独裁者であると示してしまった。それは明仁が宮内庁経由で鳩山政権下で内閣の命令に背き、当時の民主党内の小沢一郎の国事行為解釈に苦言を呈するばかりか、宮内記者会経由で小沢を冤罪にかけた時点で、多かれ少なかれ見え隠れしていた事だが。結局、平成衆愚は天皇明仁から安倍内閣の全員、また自民党から右翼まで一貫して、長州閥原理主義に洗脳された、勇気や政治理解のない集団だった。大阪等の大都市に北朝鮮スパイがスリーパーセルとして潜在しているという確証のない流言をテレビ番組でばらまきつつ安倍独裁に媚びを売る発言で売名する東大閥の御用学者とか、安倍昭恵夫人と親密になる事でネットメディア番組で対立政党の党首を私的かつ無礼な質問で公に侮辱して右翼の下卑た歓心を買い売名する慶応卒の御用学者とか、或いはもっと酷いもので共謀罪において多少の冤罪も仕方ないといいながら安倍独裁にテレビ番組で媚びを売る大阪出身の人気お笑い芸人とか、こういった南蛮人或いは電波芸者は単に独裁者へのすり寄りを売名の道具にしているというほかないが、日帝下での狂ったような独裁政礼賛の結果、亡国致命傷の原因になったのと同様の連中が、衆愚の無思考や群衆化したがる不安脳の結束的狂信を更に煽る、これらの学歴や経歴をたねに保身と売名を図るべく徹底的に政権称揚していた衆愚扇動者だったのを記録しておく。
 今後、社民党が与党になる時まで、国政の迷走は続き、衆愚は安倍独裁下での長州閥原理主義がもたらす不幸な格差社会と天皇制・官僚制の腐敗にまきこまれていく。だが労働者階級は無教養や、政治学的無知によって無思考に陥り、御用学者やテレビ芸人といった連中を通じ、この傾向を東京政府権威化の道具とする都内スポンサーに牛耳られた都内マスメディアからの扇動もあって、安倍の導入する移民と進む非正規労働者への置き換えや人件費削減の為の低賃金化の元で競合する。特に、ゆとり世代といわれる、削減され簡易化された義務・高等教育を受けた20代~10代後半の人々は学業成績が国際比較及び他の世代との比較で低下しており、媒体偏見に対する批判力が弱く洗脳され易い上に、大多数が2chまとめサイトを通じた匿名ネット右翼暴徒を仲間と見なし共感しており、世界の政治体制に無知である上に、実質的には軍事占領された属国だが単純に世界一の先進国と思っているアメリカ追従を理想視している。この為、自己の能力を過信する人々にあってはビル・ゲイツやウォーレン・バフェット等の億万長者やドナルド・トランプを頂点とする拝金が、自己の能力を卑下する人々にあっては無職やニートを自尊心の為に差別する為の同調集団としての労働が、又これらのアメリカ追従的人生観を満足させる為の自民党閥及び安倍独裁の狂信を通じた愛国主義が、ゆとり世代の信仰におきかわっている。そのうえ彼らは長州閥原理主義や薩長土の征韓論を通じ、またネット右翼を同類とみなして、明治寡頭政からの侵略被害を受けた中国や韓国、北朝鮮といったアジア諸国を、差別対象にしている為、この愛国主義を強化する民族主義や人種差別が当然だと考えている。敢えて不幸を増産する存在とみれば、これらのゆとり世代の人々の大多数は若害である。しかし日本はこれらの必然的な革新に対して反動的な存在の存在如何に関わらず、少なくとも安倍独裁や自民党閥が解体されたり、その明治主義の本体ともいえる天皇制の瓦解などがない限り、やはり急激に衰退していくであろうし、ピケティがいうようその日本滅亡の傾向は既に決定的なところまで進んでしまっている。仮に、安倍自民が移民によって欧米の模倣を図っても、右傾したゆとり若害との間で、低学力地帯としておもに東京以西の西南地方で民族排斥の憎悪や、暴力団の多い九州界隈では暴徒による内紛がくりかえされるであろう。アメリカは世界最悪の相対貧困国として反面教師だが、日本の衆愚には相対貧困の概念が理解できず、途上国最低級の貧困と、日本人貧困層を比較し自国贔屓の虚栄に耽る事で米国風の資本主義を妄信し、資産の二極化を合理化しようとし続けるであろう。
 では日本国の近未来はすべてが絶望的なのか。対策といえるのは、地域連合や、県の単位に連邦的権限を最大限に復権させる事である。我々でいう常陸国の単位で、或いはそれより小さな市町村の単位で、賢明な体制を実現していく事だ。日本国という明治イデオロギーの単位を否定する事はその第一歩として、必須だ。自由人主義は政府の最小化をはかり、調整的正義を無視する点で、決して理想的ではない。だからおもに資本家が、この考えに基づいて遊牧的に租税回避地へ資産を移動させたり、自ら移住したりして政府から逃れようとする事は必然だとしても、現実的に可能なのはサンディ・スプリングス市の様な政治業務の民営化である。それと同時に、地球規模でいう国連や、国の単位から、この自由人特区に何らかの徴税が図られていきやすいのが当然ともいえるから、結局、ある地域住民の中央値的富裕さが、その周囲と比べ大きく富裕な時により配分的で投資・自由人的、逆に周囲と比べ貧困な時に調整的で生保・労働的になるのであって、これらが生じるわけは、おもに地域住民の一般的な金融literacyである。北茨城市や、茨城県がいかに年少或いは時代的に早期からの金融教育を重視するべきかがこれで理解できる。縮小していく日本経済下で生保や労働を保つのは容易ではなく、何らかの資本収益がその財源となるだろうことは疑いようがないからである。尤も、仮に超拝金的都市が生まれても、我々はそこを理想郷と見なす事は恐らくないだろう。人類の知能には生まれつき何らかの偏差や特性が生じるし、ほぼ全構成員が金儲けの巧い人でできている社会より、単に多様性の高い社会の方が、行動や考えの偶有的な組み合わせによって発展的になりうるだろうからだ。調和的正義が十分に実現された社会とは、構成員の何らかの特徴について中央値をとったとしても、認容される個性の幅の裾野が極めて広いままで成立している世間であって、単に資本家らが租税回避的な利己心の為に集密しただけの地域ではないのであろう。今日の茨城県単位で、或いは最低でも北茨城市の単位で、国政における長州閥原理主義者達や、自民党閥からの影響を最小化するか、緩和しながら、拝金や労働に偏らない社民化をはかる事、しかも官僚の天下りなど行政との癒着を避ける民営化を前提に福祉の向上をはかり、県民市民に対しては金融教育の早期実践を行い、投資収益率の高い生業へ自由人を集中させていく事が、維持できる社会として日本亡国から常陸国を救済する道のりである。現状の我々の国の致死的な欠陥は、安倍独裁下では特に、貧困層への冷遇や、皇族閥の優遇といった資産格差に基づく身分差別によって、国民一般の生存権が蹂躙されている事だ。生活保護の権利は腐敗した行政によって完全になおざりにされ、それどころか、変死扱いを煽る警察とつるんで多くの貧民が国家単位で集団自殺に追い詰められている。中国大陸からの移民としての天皇は飛鳥時代以来の傲慢によって、国民を納税奴隷と見なしこの状態を変える気はないどころか、自らの子孫をのみ人種的に優遇する。原発を田園部に設置し、そこで暮らす我々の生命と財産を害し、皇族閥の暮らす都市圏や、商業圏から退けて恥じないのも、神道邪教祖としての天皇の中華思想の為であり、或いは金満的商人の害他的で貪婪な我執の為であり、金権政治に陥った皇族閥と自民党閥の癒着の為である。これらの県外勢力の影響を、茨城県民は自らの安全を守る為の強い独立心と誇りによって完全に排除しなければならない。東海第二原発を茨城県内に立地させ再稼働までさせたがっている日本原電は茨城県の会社ではないし、その資本は全国の電力会社の物に過ぎず茨城人のものではない。即ち、これらの県外人達は、茨城県民の命を犠牲に、自分のカネを儲けようと言うだけなのである。この事は、自らの子孫の地位と権力の永続的維持にしか目的を持たない天皇家についても同様だと断定できる。

2018年2月19日

県北の公共施設共同利用案

 北茨城市長は新高萩市長と早期に直接会談し、地方自治はそれぞれの自治体の市町村民の為に、お互いにできるかぎり協力して行う事を確認するべきである。また、県内で最大の人口流出度である日立市と、高萩・北茨城の両市は通勤圏としても、多賀郡としての古代からの歴史伝統上も、日立関連の産業上も密接な関係にある為、将来的には日立地区という広域自治体に合併される事を見越して、日立市やいわき市とも共同で連携してそれぞれの保有する文化的・経済的資源の共有をはかるよう提案する。たとえば五浦美術館での展覧会、市立図書館や雨情記念館、商工会館、ふれあいセンターなど市の公共空間でのイベント、とおりゃんせ温泉の共通パス、工業団地や市営住宅の相互提供と共同出資による開発、或いは駅前の再開発にあたっての日立市街地・高萩市街地・北茨城市街地にわたる共通のコンセプトによる共同設計などを提案する。図書館の利用券やバス等は相互利用できるよう共通規格化する(将来的には県央、県南、その他の県外でも利用できるように計画する)。また、市役所での住民票移動等の手続きも県北3市+いわき市間でできるだけ電子化し、簡略化・民営化するようにするべきである。

2018年1月28日

鮟鱇の生命倫理

魚は痛みを感じる、と科学者はいう(Fish do feel pain, scientists say)
魚が痛み感じる能力 ヒトの新生児や早産児以上であると判明
エビやカニなどの甲殻類は痛みを感じることができる可能性が高い
 上述の記事によれば、魚類や甲殻類には痛覚が存在する為、鮟鱇の吊るし切りという調理法については、それ以前に確実に気絶させ死なせておく事が、生命倫理の点から望ましい事になる。市内外の漁協にこのことを周知させるべきだろう。

2018年1月20日

ひたち大動脈論

 茨城県を世界で最も移民の割合が多い、世界一人口の多いの大都市にする事で人口減少をカバーし、全世界の発展を茨城を中心に担う事を期さねばならない。専ら第一公用語を日本語(茨城弁ないし首都圏方言を含む)、第二公用語を英語と条例で定義、近いうちに第三公用語を中国語と定義する事が必要になるだろう。
 これにはTXを水戸まで延伸した上で、筑波~水戸間の県有・国有地を開発、大規模な分譲化と宅地造成を行い、東京圏を遙かに超えた世界最大のメトロポリスを水戸~筑波~日立の大動脈上につくりださねばならない。この常陸中央大動脈と茨城空港を再び高速鉄道その他の交通機関で結び、世界の国際ハブ空港を接続する事で、世界中の人々が東アジアに出入りする際の主要な玄関口となる事を計画する。常磐線とTXを特急で直通運転し、更にリニアを敷設する事でユーラシア大陸の発展を日の出ずる国である日立が中心となる状態にもっていかねばならない。この常磐リニアは北海道の間宮海峡を通じてロシアと接続させ、西は福岡から朝鮮半島を経由する事で、大陸との連絡通路となるだろう。岩城には国際宇宙ステーションが立地するだろうから、茨城県は世界最大の都心として、宇宙とアジアの玄関先として機能する。
 これらを実行するにあたって、早速、県名を「ひたち県」に改名する事が有益かつ有徳だ。 これが本来の国名であるばかりか、気分を刷新する結果になるからだ。都道府県令が解消され、本来の連邦にもどった暁には、ひたち国にするのがよい。この際の漢字はひた道に由来する常陸と、義公の銘に由来するとされる日立があるが、国名漢字としては日立の方がわかりやすく、Orient・東洋の原義である日の出ずる場所という字義にも合致するので、日立のほうがよいかもしれない。

常磐線出産運動

 常磐線で子供を産んだ女性と現場にいた看護師を茨城県、千葉県、福島県の各自治体は愛でたい事として表彰し、常磐圏で出産する事を奨励するキャンペーンを打つべきである。

北茨城市立図書館の改善

 北茨城市立図書館の1階部分は浸水時に児童書が全滅する状態にある。ピロティはル・コルビジュエの近代建築5原則に基づけば、自動車社会によってよごれた地上から生活を切り離す、という目的をもって考えられた鉄筋コンクリート造の手法だったわけだが、この建造物についてはその役割を放棄して、単に河川敷と連続的な開放空間を作る為に使われてしまっている。以前の図書館建築の方が、地上階を浸水に備えて1メートル以上高くしていたようだったので、まだ危機に備えていたといえるだろう。
 また図書館長の責任回避のためか、現図書館も屋上庭園を市民に開放していないのも疑問が残る。
 図書館を3階以上に増築し、児童書をこの3階以上に備え付け、またさらに屋上庭園を足す事によって、浸水対策をするべきだと自分は思う。新築後にこの様な改良をしなければならないのは非効率だが、市役所の建築計画の理解不足によったのだから致し方ない。

2018年1月16日

大井川知事の一連の言動についての分析

 東日本大震災(2011年3月11日)時に、茨城県内で最大の被害を受け、唯一死者を出したのが北茨城市だった。そして県全体のみならずこの市の復興にも尽力してきたのが、橋本昌氏と豊田稔氏だった、というのが事実である。特に橋本昌氏は県全体に関わることだが、原発立地県かつ電力供給圏である権利を当時の日本国政府に訴えて計画停電の範囲から県を外した功績が大きい。豊田稔氏の初動は橋本昌氏に比べ鈍かったように見えたが、いわき市からの避難者を徐々に受け入れていったり、防災放送を作ったり、堤防を強化したり、被災者用の公営住宅を建設したりしてきた。復興庁や天皇行幸に関連しても橋本氏と豊田氏は密に連携して県の復興をはかってきた。
 対して大井川和彦氏はこの間何をしていたかと言えば、ドワンゴの役員をしていた。
 恩義の観点からいえば豊田氏が橋本昌氏を選挙戦において支持する事は当然だといえよう。むしろそのような立場にあった人物が、ドワンゴ役員が突如県知事選に名乗りをあげたとき、県知事選で支持を支援しない、などという事は先ず考えられないし、もしあったとしたらサイコパスだと疑われるだろう。その上、2017年8月16日常陸大宮市役所広場での豊田稔氏の茨城県知事選挙橋本まさる候補への応援演説の冒頭で豊田氏自身が述べているよう、豊田氏が当時、県の市町村会長をしていた経緯から、常陸大宮市長の三次真一郎氏に「是非あなた(豊田稔氏)が(橋本まさる選挙対策本部長を)やれ」と指摘されたためにその役割を引き受けた、という事らしい。くりかえすが、県内で最大の被災地であって心身に傷を負っている北茨城市の長が、震災から最も世話になった、という恩がある以上、橋本昌氏の支持をする事は自然といえる。またこの演説内で述べられているとおり、自民党幹事長や大臣等を歴任した梶山静六氏が当時の県知事選で橋本昌氏を支持せよと命じた事から、豊田稔氏は橋本氏との信義が長い。それにもかかわらず、静六氏の息子である梶山弘志氏は、安倍晋三氏の元にある現自民党の意向を受けてその橋本昌氏を裏切るような命を自民党県議に与えている。この梶山弘志氏の橋本昌氏への不義を、演説の後半で豊田氏は常陸大宮市の聴衆に訴えている。そして自民党が茨城県にある日本国民の為より、党利党略を目的にしている事をこの自民党側の御都合主義的翻意の背理法的論証により指摘している。
 対して震災当時、高萩市長だった草間吉夫氏は2014年に退任した。小田木真代氏はこの後に入った元県議である。元々小田木氏は県議だったが、彼女の父も県議である。選挙期間中に大井川氏に会談を申し込まれ、その後に大井川氏を支持する事に決めた為、市町村会と相反した形になった。過去の記事でとりあげたことだが、大井川氏は高萩市長の小田木真代氏と選挙前、個人的に会食していて、そこで小田木氏は茨城県内に新幹線を通したいという大井川氏に、小田木氏の父親がその様な人物であったし、(新幹線敷設が父の)夢だったなどと述べていたらしい。
 では大井川氏がどのような意図で次の高萩市長選の会合において示されてるよう、平成30年1月5日(金)茨城県知事定例記者会見(文面)で豊田氏から抗議されたような「植民地発言(「植民地」という言葉を用いて、県北地域の発展は高萩市を中心に考え、他市町を軽視するような発言をした)」をしたのだろうか。
抗議文などによると、大井川知事は昨年末、小田木真代・高萩市長の市政報告会で、壇上から二度にわたり、豊田市長を指差し、「市長は逃げた」などと発言した。実際は、知事選前に、大井川知事が豊田市長に応援依頼のため面会を求めたが、公務出張のため面会を断ったという。ーー東京新聞:「知事の言動 名誉毀損」 選挙戦しこり 北茨城市長が抗議文:茨城(TOKYO Web)
この新聞記事がもし真実だとすれば、2017年度末の高萩市政報告会の場で、大井川氏は豊田氏に対して名誉毀損罪を行ったのだ、という事になる。
(大井川)知事:(豊田市長の抗議文に)書いていてあることは概ね事実だと思いますし,別にそんな大きく取り立てて騒ぐような話ではないと思っていますけれども。ーー平成30年1月5日(金)茨城県知事定例記者会見(文面)
このように、大井川氏自身も、名誉毀損罪について自認しているようでもある。名誉毀損罪とは、
(名誉毀損)
 230条
   1項 公然と事実を摘示し,人の名誉を毀損した者
      →(その事実の有無にかかわらず)
      3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金ーーhttp://park.geocities.jp/funotch/keiho/kakuron/kojinhoueki3/34/230p1.html
この様な罪を容易に犯してしまっている、という事は、端的に言えば大井川和彦という人がドワンゴのニコニコ動画のコメント弾幕にみられる「インターネット上の匿名犯罪文化」から県政に飛び入りした事と密接に関連しているように思われる。自分がみてきた限りニコ動は川上量生氏(川上氏は「マストドン(オープンソースのミニブログ)の中で、「えっ? 東海村って茨城県だったの? 静岡県だと思ってた。」と発言した、愛媛県出身者である)が主導し元がYouTube動画をコピーし、MAD化するという違法またはグレーゾーンの増長から現れ、西村博之氏(西村氏はこの動画の中で茨城県を「ださい」と侮辱している、神奈川県出身者である)が2ch的な匿名コメントを導入した。この経緯からも読者はわかるだろうが、ドワンゴの主な事業であるニコニコ動画とは、一種の地下文化として違法すれすれのことを、ベンチャー起業家という立場から、人格的に心もとないという意味で若い不良達がやってきたのである。単純にいうとクソガキ達の金儲けである。そして大井川氏は水戸一高、東大、経産省、マイクロソフト・アジア、ドワンゴを経て、県知事に立候補した人物なのである。マイクロソフトまでは理解できるが、最後のキャリアにドワンゴを選んだというところに、自分を含めてネット文化にある程度詳しい人は疑問符をつける事は間違いない。だがそれが杞憂ではなかった、という事が、豊田氏に対する大井川氏の一連の対応からどうやら一定の確度でわかった、という結果になった。要するに大井川氏はまだ子供すぎるのである。大井川氏は何といっても軽口を叩きすぎるし、名誉毀損に類する事を公然と壇上から発言する、選挙期間中の攻撃についても豊田氏は第三者として客観視して見ても自民党県連の橋本昌氏への不義理や(県議への自民党本部からの賄賂を含む)地方自治権の侵害についての指摘にとどめているのに比べ、大井川氏の方は安倍政権や自民党本部同様に、これまで自民党と親密で長いつきあいもある橋本氏や、義に基づいて言動していることが明白な豊田氏ら市町村会への直接的で敵対的な侮辱を行っている。これが事実である。
 国政にも日本史にも世界史にも深い関心をもって茨城県政を観察している者の目には明らかな事だろうが、安倍家を含む長州閥や天皇家という存在は、権力志向の悪政を何とも思わない人々である。天皇家の先祖を含むのだろう弥生人達が弥生時代に日本列島への侵略を始めてから、この事実は変わらない。徳川家はこの状況を変えようと努力したが、長州閥の裏切りや、天皇家の不義理によって被害者になった。安倍家や天皇家の中では暴力による覇道の方が、徳政善政による王道政治より重要なのである。さもなければ、単に安倍家や天皇家が徳川家や私より徳に劣っているか、どちらかだ。何といっても、これら長州閥や天皇一門は侵略犯に他ならず、日本国土やアジア一帯への植民地化を行ってきているのはこれらの弥生系移民達なのである。大井川氏が選挙期間中に植民地発言をしたのは、彼が最も相手側に言われたくない発言であろう「自民党(や天皇家ら日本政府側が地方に彼ら悪党)の植民地を作ろうとしている」という批判を無意識に避ける為に、なぜか、たまたま震災の経緯から市町村会長と選対本部長を任されていた小さな市の市長に濡れ衣を着せた、ということのようだ。
 自分は全く公正に、場合によってはこの問題に絡んでいるいずれの人をも善悪について裁くつもりで調べて、検証したわけだが、結論をいうと、
大井川氏「(豊田氏が)火をつけて回っている」「(豊田氏からの抗議文について)ばかばかしい」
と述べている事は、全く以て大井川氏自身が2017年度末の高萩市政報告会の場で行った言動についていえることなのであり、彼の仁義や相手の立場をおもんばかるEQを含む公徳の修養面での未熟さについていえることではないだろうか。豊田氏がなぜこのような抗議をしているかといえば、上述した様に、震災前後を含めた長い茨城県や日本国、常陸国、人類史の歴史の流れの中で、苦労した時に世話になった人物への恩義を欠かさない、という事は、後世の為に人道的であるからだろう。しかし大井川氏の方は、自民党本部の安倍氏らを含めてまだ人間的におさなすぎるので、豊田氏らの道義的理解においつかず、大井川氏が同様の言動をするなら相手を敵とみなして攻撃する場合だ、という主観に基づいた実に幼稚な解釈をして、うらみに侮辱で返している。その背後には、大井川氏は新しい事業に果断に挑戦する事がアドレナリン等やドパミンの脳内物質を生み出すという脳科学的原則に基づくのだろうが、次々新しい経歴に進出する勇気や利点がある一方で学習済みとなり飽きてしまえば長続きしない、という性格的欠点があるとも解釈できるわけだが、どうせ長い付き合いにならないであろう老いた相手(豊田氏や橋本氏)に対して、十分な政治上の功績があるか(これは長いほど県民・市民から支持された期間が長いのだから当然あるのだが)について無知であるのに勢いだけで蹴落とそうとする、その場限りの行動原理があるのかもしれない。
 ブランド総研にイメージアップ大賞の特別賞を与えた、という奇策が、大井川氏が県知事に就いてから起きた、県政上の革新である。しかし、全体の奉仕者と公務員法に定義されている知事が、特定の市町村に肩入れして、他の市町村を自身への選挙戦での事情から相対的に冷遇する発言、またはそう受け取られる考えをもっているとしたら、この人は民間気分で公務を行ってしまっており、全ての県民から納税を受けて生活している、そして公僕としてそれら全県民という主権者に奉仕するのが役割である、という政治的本義を、大井川氏は見逃しているといえよう。また、豊田氏がもし抗議文を彼個人の名義で出した場合、それは私事としての名誉毀損への抗議なのか、公務としての名誉毀損への抗議なのかを峻別する必要がある。様々な経験を経て成熟した政治家である豊田氏が単なる私怨で大井川氏に抗議文をあてつける、という事は想像の限りありえないことであるから、北茨城市が茨城県政から排除され冷遇される、といった不条理を、茨城県民の一員である北茨城市民らが被ることがあってはならない、という義務心から、直接、県知事あてに、さきの高萩市での大井川氏の言動について、抗議を行ったのであろうと思われる。豊田氏の大井川氏あての抗議文の真意は(公開されていないので読めないが)、北茨城市民という(福島県からの避難者を含む震災によって傷を負ったままの)茨城県民を冷遇してはならない、それは知事としての分を逸脱した言動である、高萩市長が仮に選挙戦において大井川氏を支持していようがいまいが、北茨城市長が選挙戦において大井川氏を支持していようがいまいが、これらの自治体について、県知事たるものは差別や厚冷遇をおこなうべきではない、それが公をつかさどるよう任されている者の務めでなければならない、したがって、名誉毀損に関しての疑義はさておき、この公の分についての反省を求める、といった事ではないか、と一県民・市民として推測する。そしてこの公の義務に大井川氏が理解及ばず、一民間企業人であったときのよう、組織内の権力闘争によって能力に基づいた差別をおこない、自分の子分となる者を厚遇し、(今回の様、必然の恩義に基づいて)そうでなかった者を冷遇するようでは、政道が歪むばかりか、善なるものが虐げられ悪しき者が尊ばれる腐敗政治の結果、くにが敗れる、という、安倍晋三氏や自民党本部にあてても同様の指摘ができる抗議なのであろうとおもわれる。
 現実的にいって、現時点の自民党員は岸信介という発祥から長州閥の党首独裁体制(或いは吉田茂に連なる麻生家という皇族閥、薩長藩閥による寡頭政治体制)になっている、操作しやすい傀儡を地方自治におしつけて、相も変わらず侵略罪の正当化や徳川家や東アジアへの裏切りを天皇家という邪教祖をもちあげることでくりかえす、という旧態依然な集団蛮行をしているにすぎない。だからこの邪悪な衆愚を背後にして居丈高な大井川氏の権力基盤は、単に自民党とその背後にいる移民宗教家の天皇という儚い暴力団達に由来している。日本国民の殆どは神道にテレビ政治や皇国史観を含む日本史を通じて洗脳され、神道教祖や自民党という多数派政党が正義と信じて疑わない状態だろうが、彼らの政治理論は単なる侵略蛮行の正当化という脆すぎる欺瞞に過ぎない。つまり大井川氏のよって立つところも、実際は彼自身の私徳、公徳的な未熟さをシリコンバレーIT革命の熱波を受けた戦後アメリカ化で安倍自民党や天皇家の米犬至高の波を利用して糊塗している、といった程度の資本主義もしくは労働者主義的なものなのである。シュンペーターの革新理論がアメリカ資本主義や実用主義と混じってシリコンバレー起業家らのよりどころになってきたわけだが、大井川氏の脳内にあるマインドセット、思考の型はこういう意味でわかりやすく、資本主義によるアメリカ化、または多数政治による天皇制の維持を考える、安倍家、麻生家ら自民党閥、或いは米国傘下での民主化による勢力維持を目指してきた皇族にとっても都合がいい。茨城県南の人々は東京圏に一部含まれ物理距離が近い為に、資本主義化に追随するか更にその流れを先導する事が是と単純に信じているのだと思われる。
 最後にこの一連の問題についての自分の見解を付け加えるが、国政のレベルでいう皇族、自民党、安倍・麻生両家の寡頭政治体制は侵略罪の正当化という脆弱な基盤に立っている砂上の楼閣であるから寿命が近いと自分には見える為、遠からずこれらの勢力によって牛耳られた国政は崩れて別の体制に切り替わるだろう。したがってその時点での大井川氏の政治権力の理論的根拠は自民党閥が背後にいなくなった資本主義の容認になるだろうが、現時点の資本主義は格差拡大にこそ働けどますます弱肉強食を広めていく、という配分にかたよった非政治的思想であるから、北欧を主とした社民主義諸国のように政治的に調整を図る賢明な国々に比べて国民の福祉、生活程度、客観幸福の状態が低下し、遠からず反面教師になる。今の時点でもアメリカという世界最大の相対貧困大国が模範だ、と思っている人は、時代遅れの人だけであろう。当然、安倍氏や皇族といった野蛮な性質をもつ侵略主義者が信じている、米英追従の潮流が国民の不幸に直結する事から、賢明な国民性であるほど、相対貧困率が先進国でアメリカに次ぐ現日本も失敗例という事はとうに気づいている。つまり、資本主義盲従という昔ながらのアメリカ追従は、トランプ大統領が諸国の笑いもの、裸の王様であるようもう全く通用しなくなっているのだが、大井川氏はこのアメリカ型資本主義の単純な追随者である事が問題なのである。配分、調整の中庸にある調和がめざすべき政治道徳なのであると私はこのブログの中で述べた。政治が世の仕組みのなかで行うべき仕事は調整にある。ある産業構造について適応度を偏差値化した場合、あらゆる事業についてその数値を集計した結果、分布がほぼ標準偏差に漸近すると仮定すれば、中央値から約半数はより無能、約半数はより有能となるわけだが、このうちより無能と判定される側に税による補填をおこなって慈善的社会を強化し、再挑戦の機会を常に維持し次の産業構造転換時への再適応を担うランダムな不適応行動群を多様化したまま保持しておくことが、調整的正義の目的である。アメリカは多数政治によってこの面を補うか、少なくとも正当化しようとしてきたのだが、低福祉が進み過ぎた為に国民の不平不満が高まっているとされる。豊田氏が大井川氏に対して疑義を呈しているのは、北茨城市はどう見ても人口5万人程度の弱小市なのであって、その小さな市政を担っている人物が震災という致命的な事態において世話になった、新人時から長く仕えている橋本昌氏を裏切りようもない事から、大井川氏のその場限りの浅薄な判断において長幼の序を少しも顧みず名誉毀損して済まそう、という無礼が公儀に反するであろう、という抗議であると同時に、調整的正義を軽視するアメリカかぶれの大井川氏の姿勢に対する本質的過ちの指摘ではないだろうか。むしろ弱小市こそを一切の政治家らは支援し、手助けしなければならない。強い立場の者をますます強くするのなら、商業で十分だからである。

2018年1月11日

北茨城市立図書館の屋上庭園

 北茨城市立図書館は、屋上庭園を全市民に常時開放し、ボランティアによって植栽を加えることで、市民憩いの場とするべきである。