2024年4月22日

高萩駅前公園案

高萩駅前の元ヨーカドーがたっていた広大な空き地は、高萩駅前公園として市が買い取って今のうち、市民の憩いの場として、立派に整備すべきだとおもわれる。
 つくば市界隈が今の所TX沿線で開発ラッシュだが、いづれは水戸以北にも波及効果があるとおもわれ、高萩市の様にどちらかといえば商店街自体が衰退している様にみえる自治体も、駅前に大きな集合住宅などが建設される様になるだろうと思う。したがって、それまでに駅前に空いている敷地を公園として確保しておいた方が市民の生活上にゆとりと、市自体に品位をもたらすだろう。

2024年4月21日

茨城県の高級化路線での農村観光特化とありのまま戦略

奈良時代の朝廷は東日本最古の文献『常陸国風土記』で茨城県を陸の幸、海の幸、山の幸に全ての家々が恵まれた天国だと語った。この事は、県民世論調査の生活満足度がずっと7割以上だった統計でも、一県民たる現実の生活実感としても今も昔も変わらない。第一次産業や第二次産業の強さは現実の特徴だ。
 だが西日本衆愚や南関東衆愚はこれとは真逆の風評を広める。また彼らは京都府、北海道、沖縄県をむやみやたらに褒めちぎり、首都圏北3県(うち2つは豊かさから親王任国だった)と佐賀県を攻撃し続けてきた。これらは、日本の大都市部の商人一般は英国王室の様な田園趣味がなく、下品で搾取的な証拠だ。

 無教養な人々は旅行代理店のなすがまま、有名観光地を巡る様な団体行動をしがちである。この事は甚だしい観光公害が起きている京都市内では特に顕著だ。
 他方、文化的素養のある人々はなんらかの深いゆかりある史跡など、決して有名ではないが重要な意味の場所や、何気ない日常を見て回る傾向にある。

 茨城県は今後も京都市を反面教師として無教養でケチな一見さん観光客を呼び寄せる様な施策をすべきではまずありえない。この点はブランド総研の魅力度調査(真偽不明な会員アンケートの類で信用性は酷く薄い)が生活満足度の逆指標になっている事、寧ろ観光公害の目安になっている事でも明らかと考える。

 ブランド総研の魅力度とは、存在するか怪しい特定会員アンケートの体裁をとる印象操作で、常に自治体いづれかを陥れ悪だくみの共犯東京マスコミと風評被害を煽って集団虐めを行い、自治体コンサル業で国税を盗み取る、田中章雄という悪魔的サイコパスが捏造した当たり屋的吹っかけ詐欺だ。
 日本人一般は批判的思考の教育を国ぐるみで怠っており付和雷同の衆愚なので、東京マスコミにひとたび扇動させれば簡単に事実と異なる印象操作を信じ込む。だからこそ田中は彼以外だれもいっていない適当な順位を社内で捏造して自治体から国税を盗みとるマッチポンプ詐欺に、嘗て長らく気づかれずにいた。
 茨城県庁は田中の違法紛い風評被害詐欺を無料宣伝効果狙いで利用してきた面があったが、コロナ明け観光公害をみる限りその利用価値は失われたとみるべきだ。
 田中の詐欺手法は今後も大きく変わる事はない筈なので(当人が暗愚で風評詐欺の自覚もない)、逆に県内観光を高級化路線にきりかえるべきだ。

 茨城県の観光業がGDPに占める割合は約1%と低い*1。県民自身の生活満足度が低下する程の一見誘客は、この点からも望ましい施策ではない。
 現状のままリピーター優遇や、一度の消費額を増やす関連消費の工夫で、東京圏から日帰りもでき、自然と食の豊かさを気軽に体験できる農村観光に特化すべきである。
 
 たとえば愛知県のジブリパークとか、千葉県のディズニーランドの様なテーマパークの大規模集客は点と点を結んでしまい関連消費が起きづらい。他方、農村の間に開いた個人事業レストランに立ち寄りつつ自然を巡る旅の時には、途中の道の駅などで関連消費が起き易い。また団体客もきづらく住民と調和する。

 訪日観光客の割合は現状の茨城県はまだ少ないが*2、今後よりふえてきたとしても、英語、中国語などの看板を敢えて立てずに、自然なままにしておいた方がよい。異国情緒を味わうには下手に観光地化せず普段の現地人がくらす田舎を巡る方が、外国人にとっても一般に気分がでて、ずっとよいものだからだ。

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参考資料:
1) 「観光消費が本県にもたらす経済波及効果分析 (平成23年及び平成24年)」平成26年3月、茨城県商工労働部観光物産課、茨城県企画部統計。PDFの18ページ。
https://pref.ibaraki.jp/kikaku/tokei/fukyu/tokei/betsu/sangyo/documents/2013kanko-report.pdf
2) 同PDFの28-29ページ。

茨城県内主要観光地でのごみ収集のロボットによる自動化・半自動化と、ポイ捨て厳罰化、およびごみ捨て有料化案

@k_ooigawa
 茨城県庁は過剰観光対策として、つくばで実証実験中で、同市スタートアップDoog(ドーグ)が開発している自動追跡ロボット*1などでのごみ収集を省力化目的に試すべきです。まずは偕楽園など県立公園や県庁で始め、同じ費用でごみ収集回数をあげるべきです。
 もう県外の過剰観光の地域では、溢れるごみで居住性が低下し住民流出が起きてしまっています。これを防ぐにごみ収集頻度を高める必要があります。

 また県有施設のうち隘路などで収集しづらい所では、資料運搬ドローンを使った回収も当然考えられ、これらの半自動化費を観光税によって賄うべきでしょう。

 ほか、ごみ箱以外へのポイ捨てには、県条例を強化し罰金・懲役を強く科し、観光客にもその旨を周知する案内板をたてるべきです。かつ、悪質な事例がみられる所では監視カメラ・監視ドローンなどで県の雇った保安員が見回りすべきです。

 それと、茨城県内の主要観光地(例えば茨城空港やひたち海浜公園、偕楽園)周辺では、ごみ捨てを有料化し、県収益から環境美化費にあてるべきでしょう。ごみを持ったままだと特に外国人観光客がそれ以上日本円で割安に買い物できません。よってかなり高額でも進んで捨てたがると思われます。

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参考資料:
1) ドーグ配布資料 https://doog-inc.com/documents/
サウザーベーシック https://doog-inc.com/wp-content/uploads/2023/03/ThouzerBasic_20230322.pdf
サウザーEシリーズ https://doog-inc.com/wp-content/uploads/2023/10/ThouzerEseries_20231013.pdf

2024年4月19日

自然エネルギー輸出推進と、持たない原発の茨城県単位での潔い豹変撤退論

米国カリフォルニア州は、100%再生可能エネルギーで賄えている時間帯のある日がほとんどになったという。過剰な日中発電は蓄電池によって、夜間電力に使える。

 自然を使ったこれらの適応は極めて優れて先進的な事なので、元々電力輸出県である茨城県も同様以上の技術的状況を今後も工夫して作り上げるべきである。
 また、原発は東電事故をみるからに持続不可なので君子豹変し潔く県単位で撤退し、原発抜きの最も経済的な電力構成を工学上探り続けるべきである。

2024年4月17日

大井川和彦茨城県知事へXであてた、観光公害防止と茨城県民の生活の快適さ保護目的での、茨城県観光税条例・制度案

@k_ooigawa
観光公害の問題が発生する前に、宿泊税、その他の観光税条例又は制度を茨城県単位で作っておいて、既に他都道府県では起きている、県民自身の生活がおびやかされるのを先回りして防ぐべきです。そこで得られた税収で、ごみ回収、トイレ清掃、案内など観光地美化の行政予算を捻出すべきです。
 円安がおさまったり、日本国・茨城県へ大幅に観光客の流入がみられなくなったら、何度も時代と状況に応じて、柔軟に税率やそのかけ方をかえられる条例・制度にすべきでしょう。県民にとって公害とはいえず、むしろ望ましい調和がみられる中庸程度に、税率・かけ方を計算づくで調整するのが吉と思います。

2024年4月14日

茨城県企業・個人献金禁止条例案

OECD過半数やフランス、米国、カナダの様な企業献金禁止法*1を通せない日本人衆愚は、特定企業の私利で自民党に裏金政治をさせ、大手企業の操る都内大手マスコミに煽られ、自ら道徳的に善い判断する能力や訓練をも決定的に欠いているため善悪を完全に取り違え、国事に絶えず致命的損害を与えて恥じない。

 県外の多数派衆愚を相手にせず、ロビー活動による利益誘導で金権政治を招く企業献金は茨城県議会で全国へ率先垂範した条例によって禁止すべきである。
 またOCED過半と同様に*2、パーティ券収入などでの個人献金も茨城県条例で先んじて禁止し、政治活動は全て公開され公衆に監視された公費のみで許可する様にすべきである。本来は公知公徳の高い人物が金の不足で落ちてしまうとおおやけに害があり、議員や首長らの選出にあたっても不公平になるからだ。

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参考ページ:
1) https://jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-02-19/2024021902_02_0.html
2) https://oecd.org/tokyo/newsroom/political-finance-needs-tighter-regulation-and-enforcement-says-oecd-japanese-version.htm

2024年4月8日

藤田東湖『弘道館記述義』にみられる敬天愛人思想の起源

敬天(または敬神)・愛民・尚武は藤田東湖の唱えた倫理学の3概念で、1845-1847(弘化2-4)年に書かれた『弘道館記述義』にくり返し現れる常陸国統治の理想だ。
 また彼は同著で「好生愛民(コウセイ アイミン)」との言い方で、生物への愛も貴人のもつべき徳と語っている。

 西郷隆盛が明治時代の1890(明治23)年になってのち「敬天愛人」といいかえ、心酔し師事していた藤田思想を『南洲翁遺訓』で援用しているのが事実だろうし、中村正直も西郷よりまえの1868年(明治初年)の『敬天愛人説』で同語彙をキリスト教と水戸学に由来する共通部分としてやはり援用していると考えられるが、概念および語彙として元は、幕末期にすでに広く人口に膾炙し、学校の教科書に使われていた藤田の倫理学説だった。

海外諸邦文物尤備者莫西土若焉西土教亦一以孝為本、自厥國王以達於庶人、但若國王則又有所謂敬天事上帝者

拙現代語訳:
海外の色々な国々はとりわけて文物を幅広く備える者がなくとも、もし西方に西方の教えがあればそれはまたおやおもいをもととしているでしょう。そこの国王から庶民まで、おのずと天を敬い、上帝すなわち神や天子につかえる者であるはずです。
――藤田東湖(藤田彪(たけき))
『弘道館記述義 上巻』(1845-1847(弘化2-4)年成立。引用元は1883(明治16)年5月、小川活版所、5ページ)

上之人以好生愛民為德

拙現代語訳:
生きものを好み民を愛するのをすぐれた人は美徳とみなします。
――藤田東湖
『弘道館記述義 上巻』(同7ページ)

神皇經綸之迹、以後世之名述之、則其要有三焉、曰敬神、曰愛民、曰尚武

拙現代語訳:
神代の皇帝の統治事跡として、後世でも名を述べられるそのかなめは3つほどあります。一つは神を敬う事。一つは民を愛する事。一つは武をとうとぶ事です。
――藤田東湖
『弘道館記述義 上巻』(同9ページ)


2024年4月3日

県内での帰化手続き簡素化と外国人労働者待遇改善論

不法滞在者の取締りは必要だが、そもそも安倍晋三独裁時に技能研修生の名目で低賃金労働者を大量移民させたのが主因で、元々多少騙された人々も混じっているだろうから一部は被害者だったとも考えうる。
 茨城県は帰化手続きの簡素化や、外国人労働者待遇の改善を同時に図るべきだ。
 また有徳の移民は有益だ。

学費・生活費無償化を目標とする茨城県内全国立大の私立化策

東京や山背始め、大学が集まっている地域では名門大学の愚者や悪人の愚痴を、低教育歴の賢者や善人の英知より優遇するとの認知不協和低減の為の差別が罷り通っている。このため膨大な社会的無駄が生じ、その不経済ぶりは完全に公害級になっている。学歴差別をもたらす教育制度は一般に有害なのである。
 重要なのは知徳技自体や知性、徳性、感覚などの能力だけである。教育歴が形骸化していれば全く意味をなさない。寧ろ教育用公費がかかる分だけ、公害な無能の証でしかない。だから学歴差別を制度化するいかなるものもなくさなければならない。また学歴信者は人生単位で必ず損害するだろう。

 京都市は学生街として衰退の一途を辿る。それは教育産業の総社会収支が負な一証だ。賭博より少し位はましな暇潰しというのが大学教育の経済実態で、単なる学術研究自体と分けて考えられねばならない。
 寧ろあるべきなのは教育の自由競走で、発達支援に最適な技組みを自ら選べる学習費の低廉化である。

 主に大学教育は学費収入が目的の商売で、偏差値入試の難易度などで銘柄化する事により、学位の箔を売り物にしている。だがこれらは無駄の制度化にすぎない。
 大学法人自体が別の収入源を確保できれば必ずしも学費をとる必要はないのが明らかである。学位販売業も同じく研究者の誤用や酷使にすぎない。

 茨城県の全大学はまず米国の私大に倣い、院生に生活費を与えられるよう投資や寄付など別の収入源を探るべきだ。次に、学生の学費と文化生活費も大学側が無償拠出できるまで、損益計算書で公費収入除く収益を極力正にしなければならない。大学法人の自助努力を促すべく県内全国公立大を私立化すべきだ。

2024年3月29日

世界一美しい市

僕は僕の市を世界一美しい市にしたい。既に僕の目にはそうみえているので、今後も順調に美化を続けていけば、必ずや世界で傑出して圧倒的に一位と必ず遍く認められるのは確かに思う。もうカードは揃っており、あとは単にそれを並べかえながらゲームを続ければいい。しかも、僕はそのゲームが一番得意だ。

2024年3月20日

北茨城市の要点

北茨城市民の中央値の可処分所得を世界一位にし、それを永世維持し続ける。なぜなら文化予算はこの余裕から生まれるから。

北茨城市美術品寄贈条例案

北茨城市は、美術品のその時点での市場査定価格がある場合、同市への寄贈についてその市場査定価格と同額の減税措置をする税法を条例でつくるべきだ。そのことによって目利きの美術収集家が市内に生まれ、普段から美術品が集まってくる市になるうえに、市の財政も楽になる。なぜなら、寄贈された美術品を展示・保管しきれないときには市場で売却すればいいからだ。またこの制度を有効に使うには市場価格が上がっていく美術品を持っている方が有利になるので、市がしばらく展示後に、もし売却した時点でも価格がもっと上がっている事が多くなって財政を楽にさせるだろう。

2024年3月4日

𝕏で県の教育委員会と知事あてに送った『茨城県教育制度全面自由化への提言』の写し

@k_ooigawa
@edu_ibaraki
  全て茨城県内公立校は民営化し、県庁は生徒一人あたり必要な義務教育費を一律支給で、政府による教育市場の競争阻害、教育の自由侵害や、世帯間不公平を根本的に解消すべきです。
 また私立校への税補助は税制乱用による不公平な助長にすぎず、即座にやめるべきです。
 県庁による教育無償化も、全国民に必要な義務教育をこえた補助については教育市場の競争阻害になるにすぎないので、一切は有害で、やるべきではありません。

2024年2月29日

𝕏で自分が出してみたクイズ

さてクイズです
「欧米列強の植民地侵略をアジアから追い払った天下の副将軍のお膝元といえば?」
ヒント 
難易度10 飛虎将軍 
難易度9 風船爆弾 
難易度8 尼港事件 
難易度7 神風特攻隊予科練 
難易度6 在日米軍射爆撃場・ネモフィラの丘 
難易度5 最後の将軍・尊王攘夷 
難易度2 納豆 
難易度1 ホーリーホック

𝕏で茨城県の魅力について自分が知らない人へ力説した内容の写し

いやずーっと前から、そうですね。最低でも記録ある限り奈良時代から、大和朝廷が書いた東日本最古の文献である『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』で「茨城県は天国だ」とはっきり書かれていたり、最近でも平成時代から県の世論調査で、県民は約8割以上住み心地良いと言っているのが事実の方です。
 あなたも茨城県民かもしれないけど広いので、なんとなくもしかしたらあなたは最南部の方かもですが、私は都内に暮らしたり方々旅行しておもうに、住み心地の良さの点ではこの県は大昔から傑出して良い方だと自信を持つべきでしょう。
 要するに観光に頼らなくてもやっていけるので地味で目立たないだけ。

 それに、近年の人口増だとずっと全国一位はつくばやつくば未来あたりです。つまり茨城県の自治体。しかも外からわざわざ引っ越してくる人が多い。それは住民票登録や戸籍などでわかる人口動態という国のデータになる客観的事実なので、ブランド総研こと自治体コンサル会社のいつもの偏見報道で隠せない。

 冷静に見てほしい。
 雄大な太平洋も、夕暮れに紫に輝くつくば山も、静まりかえった果てしない水の上に雁や白鷺たちが飛んでいくかすみがうらというあの静かな湖畔のくらしも、あるいはつくばというアジアで最も博士の集まる国際研究都市も、サムライの伝統を誇る水戸も、FF7の未来みたいな日立もある。

 大体、川にかぎっていえば日本1広くて勇壮なのは利根川で、茨城県にある。何度もその上を通ってきているけど、確かに全国にあれほどまるで海のように広い川はない。しかもその周りに広がるあの地平線までの黄金の稲穂。感動した。
 なぜ奈良時代の朝廷の役人が天国と言ったか。瑞穂の国の理想だからだ。

2024年2月11日

幼児性愛者の教員資格停止

「小・中・高校教員に精神科受診を義務づけ、幼児性愛者だった時は教員資格を与えない」
というのが、憲法の秩序を壊してまで幼児性愛者らの自由権を一部制限するより、最も効果的に子供が狙われる割合を減らせそう。そういう条例を作ればいい。

教員の違法「猥褻行為」発生率は平均より7~8割、統計的有意に高い。
――『教員の精神的健康への一視角――教員による「わいせつ行為」は多いか――』榊原禎宏、京都教育大学紀要 No.116、2010年

2024年2月10日

茨城県名「ひたち」か「日立」変更案の、知事・県・茨城新聞あて𝕏投稿写し

@k_ooigawa
@Ibaraki_Kouhou
@ibarakishimbun

常陸はよみづらい上「ひたみち」説の当て字なので、県名をひらがなの「ひたち」にするか、一般に使われ外国でも通じる義公(水戸黄門)由来の「日立」にしましょう。
 茨城はもと郡名で、明治時代の県庁所在地に由来し、全体を象徴する伝統ある県名にはふさわしくないです!

2023年1月19日

原発処理(汚染)水海洋放出に関わる大井川和彦茨城県知事への連続ツイート群の写し

   2023年1月16日、大井川知事(@k_ooigawa)宛て

 一茨城県民です。
 全国民の多数派が、原発処理水(汚染水)の海洋放出に反対してます*a *b。

 原発処理水は「トリチウム」を除けません。しかし60年間、保管すれば半減期でほぼ安全になります*c。

 もし今年(2023年)春までに海洋放出すれば、日本国民の多数派民意に逆らう行政となり、ことに国際社会から明白な人権侵害とみなされるのは確かです*d。

 国連と共に、県民の手づから日本政府へ「革命権」「抵抗権」が実力行使されるのを避け、海洋放出は遅らせて下さい。

   2023年1月19日、大井川知事(@k_ooigawa)宛て、その2

 直近(2023年1月13日)の知事定例記者会見をみて再度報告させて頂きます。
 恐らく知事は、現行の処理(汚染)水問題について「科学的」状況と、「政治的」状況を混同されてると思います――それは政府としてかなり危険な結末を招きます。以下手短に説明します。 

 まず政府はよく「科学的」に間違えます――例えばハンセン病患者へ断種・隔離政策をし人権を踏みにじった事があったり(癩予防法など)、水俣病・イタイイタイ病・四日市喘息といった外部不経済を過小評価してしまったり等が過去の実例です。

 したがって「科学的」事実として、専ら「政治的」状況を無視し、反証的に考える必要があります――つまり「政治的」に不利でも真実に立脚し、事態を考え直さない限り、人類は似た過ちを繰り返すという事です。

「科学的」事実は、図の通り、トリチウムの生物濃縮を減らすには海洋放出の時期を送らせるのが現実的選択肢という事です*1。
 一方、政府はただのトリチウム水を、生物濃縮する有機結合型トリチウムと悪意か無知で混同しながら*2 *3、安価な選択肢として海洋放出を東電に急かされてます*4。

 政府が基準値以下なので安全、とする言説は、

1.トリチウム水(HBO)の影響と、有機結合型トリチウム(OBT)の影響を、悪意(害意か事情通または両方)で混同させる

2.一度の被曝の影響と、生物濃縮*5や長期にわたる多重被曝*6の影響を、悪意で混同させる
と二重の悪意に基づいている。

 他の核種のうち物理的半減期が5730年の「炭素14」のよう、長期被曝下で生物のDNA損傷に至り、細胞壊死か突然変異が保存される可能性がある*7物質を取り除く技術は、未確立*8。
 よって「外部不経済の内部化」の論理によれば、政府は公害発生前にそれらの環境放出を防止する義務があります。

 上記で示した通り、日本政府・茨城県庁は原発処理(汚染)水に関し、「科学的」事実に即した国民福祉をごまかし、「政治的」目的(特に東電にそそのかされての目先の金銭勘定)でその真実を覆い隠し、政治道徳上の義務を怠っているのが確かです。

 また上記で示した通り、最終的には「革命権」「抵抗権」行使が合法かどうか、実際になんらかの政治行動が行われてから、裁決を国際司法裁判所に持ち込む結果になるでしょう。国内法には同規定はなく、かつ公海汚染は国際問題だからです。

 既に国連の「有害廃棄物に関する特別報告者」バスクト・トゥンジャク(Baskut Tuncak)氏によって、事態は国際的かつ大規模な人権侵害の問題だと指摘されていました(アーカイブ)。
 国内旧政府側の悪意は上記のよう明らかなので、私は臨時新政府を法的・倫理的に容認します。

 国内法には刑法に「内乱罪」規定があり、具体的暴動とその扇動を含む新政府樹立には制約があるものの、平和裏に作られた政権に制約はありません。よって私は、処理(汚染)水の海洋放出を強行しようとする旧日本政府・旧茨城県庁に、統治上の合法さを認めません。
 新政府側を旧政府側が武力弾圧した場合、我々は国連人権機関と国際司法に訴えます。さもなくば常磐圏の各人民と旧日本国民一般の主権が侵害されるのは明らかだからです。
 知事が自民党の後押しで今の政権を持ったのは重々知ってますが、旧政府側に着くなら訴訟前に退陣をお願いします。

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以下参考資料
a) https://alterna.co.jp/28277/

b) https://asahi.com/articles/ASP135S0CNDJUZPS001.html

c) https://s.japanese.joins.com/JArticle/268977?sectcode=A00&servcode=A00

d) https://greenpeace.org/japan/uncategorized/story/2021/03/17/50653/

1)第16回ALPS小委員会資料4「表4.処分開始時期と処分量によるタンクに貯蔵されている処理水の処分期間(処分終了時期)の試算例」
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/016_04_01.pdf
『東電福島第一原発 汚染水の危機2020』ショーン・バーニー、グリーンピースドイツ、2020年10月、21頁
https://www.greenpeace.org/static/planet4-japan-stateless/2020/10/ba82306e-radioactivewater_jp_fin.pdf

2)"Tritium Dynamics in Mice Exposed to Tritiated Water and Diet"Rodgers, David W. Health Physics 63(3): September 1992, pp.331-337
https://journals.lww.com/health-physics/Abstract/1992/09000/Tritium_Dynamics_in_Mice_Exposed_to_Tritiated.9.aspx

3)厚労省ホームページ、 食品中の放射性物質への対応、よくある質問、東日本大震災関連情報、「Q4」の回答
https://www.mhlw.go.jp/shinsai_jouhou/shokuhin_qa.html

4)『事故処理費用、40年間に35兆〜80兆円に』日本経済研究センター、2019年3月7日https://www.jcer.or.jp/policy-propos-als/2019037.htmhttps://www.jcer.or.jp/policy-proposals/2019037.html

5)"An updated review on tritium in the environment" Eyrolle, F. et al. Journal of Environmental Radioactivity, Volume 181, January 2018, pp.128-137
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0265931X17307956?via%3Dihub

6)"Permissible Levels of Tritium in Man and the Environment"R. V. Osborne, Radiation Research, Vol. 50, No. 1, April 1972, pp.197-211
https://www.jstor.org/stable/3573479

7)フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)発行「放射性核種ファクトシート炭素-14と環境」
https://www.irsn.fr/EN/Research/publications-documentation/radionuclides-sheets/environment/Pages/carbon14-environment.aspx

8)『黒鉛減速型炉における中性子照射黒鉛の炭素14』藤井貴美夫・松尾秀人 (共同研究)、日本原子力研究所、JAERI Review 2002-034、2002年12月
https://inis.iaea.org/collection/NCLCollectionStore/_Public/37/002/37002407.pdf
引用:
3.3 炭素性の分離方法
「炭素同位体の分離技術に関する研究は圏内でも多く行われているが、炭素14の分離や濃縮については限られていて、報告はほとんど見当たらない。」

3.3.2 炭素 14の分離への適用
「炭素 13、炭素 14等の炭素同位体の濃縮や分離技術に関して、化学的方法、物理的方法、機械的方法等について調査した結果、化学的方法についての研究開発が比較的進んでいることが明らかになった。
 炭素14の分離に対する重要性は各国共通の認識と理解されるが、この分野の研究論文は少ない。したがって、炭素14の分離や濃縮には、安定同位体であり、医療分野での用途がある炭素13の分離方法を応用することから始めることになる。」
引用終わり

2023年1月18日

マスク着用の例外措置について

台湾や日本など東亜勢はコロナ禍の成績(低感染率)が欧米諸国より相対的によいが*1、その原因の一つにマスク着用率の差があるなら、欧米諸国の脱マスク主義に日本人を従わせようとする茂木健一郎氏、三浦瑠麗氏らは善悪アベコベの社会壊乱論者といえる。

 茂木氏は三浦氏を庇う形で、日本人一般のマスク着用率への執着が極端に過ぎると述べているが*2、集団間でマスク着用率の高さと低感染率に一定の正相関があると考える方が科学的なので、脱マスク主義を感染対策として或る国民単位で一般化してよいわけではない。

 マスク着用率が一般的に高い方が或る集団での低感染率を達成するのに一般的に好都合なのは明らかなので、死亡率の低い子供社会(例えば学校生活で、広い校庭にて遊ぶ状況)の場合や、アレルギーや肌の調子でマスク着用に不都合な症状を持つ者など、例外措置について緩和的対策を講じる事で十分である。

―――

1) 『要因Yについて』https://kitaibarakics.blogspot.com/2021/08/y.html
2) 『茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第3025回「マスク着用が感染防止に統計的に有意な効果があったとしても、それは唯一の評価関数ではない」』https://togetter.com/li/2051962

2023年1月17日

渋沢栄一『徳川慶喜公伝』自序(拙訳、未完)

   一 徳川慶喜公伝 編纂事情(とくがわよしのぶこうでん へんさんじじょう)

 私が徳川慶喜公(とくがわよしのぶ こう)の御伝記(ご でんき)の完全なものを終生の事業として作りあげたいと思ったのは、決して偶然ではない。私一身の特別な境遇にその動機を発し、いろいろな事情からますます、その心を強くしたのである。
 だれかがこのご伝記を読み「なるほどそうだったのか」と合点(がてん)するには、私がこの事業を思い立った原因から説いてこなければ、そこへ至った経緯はおそらく他人には理解されえないだろうと思う。

 もともとわたしは商売が本業。優美な文才もなく、またご伝記を編纂(へんさん)するほど史学の素養もない。なのに、ここに大胆にも自分の名で後世に伝える大著述をなすつもりなのは、実におこがましい話である。

 けれどもこの御伝記編集が、私への天からの使命なはずだとの深い直感と、是非この書物を完璧たらしめ後世の人に十分こころして読んでもらいたいとの尽きせぬ熱望とは、編纂をはじめたあとで、さらに深く、厚くなったよう感じている。
 いまや手伝ってくれている諸氏の懸命な努力により、ご伝記を脱稿するに至った。
 ついてはこの事業がどんな精神のみなもとから流れ出たか明らかにし、まず全巻のはじめに置いて、それを序文とするのが最も適当だろうと私なりに考え、ここに徳川慶喜公伝編纂事情(とくがわよしのぶこうでん へんさんじじょう)を事実、ありのままに述べるのである。

   二 私、渋沢栄一がどうして慶喜公にお仕えする事になったか

 埼玉の農家の長男だった私は、江戸に出て剣術の手ほどきを受けると、黒船来航以来すでに生じつつあった幕末政変へ家出同然に身を投じつつあった――なにしろそんな私には、元の農民に帰って、田んぼの間で安穏と老いることができない事情がある。それならいっそ身を国事にゆだねよう。侍(さむらい)になるなら、賢い主君をこそ特にえらんで、仕えたてまつるべきだろう。
 さいわい同時代に、理想どおりの徳川慶喜公がいる。若かりし私は、わが一身、この公に生涯仕えるがよろしかろうと決心し、翌年、はじめて一橋家(ひとつばしけ)の家来(けらい)となったのである。

 さてひとたび慶喜公を主君といただいた以上、命果てるまで臣下の分を尽くさなければならぬ。貞節な婦人はいちど夫をもてば、必ずや操(みさお)を2つにも3つにも分けたがらないだろう。
 ましてや君臣のあいだはいわゆる三世の義――すくなくとも三世代にわたって恩義を尽くすべき心の約束を結ぶもので、当然たやすい筈もない。と私なりの覚悟を決めたのだ。
 でまかせな心で出仕さえできればあとはどうなってもいいや、などと浅い料簡(りょうけん)ではなかった。

   三 公の将軍家ご相続――渋沢は弟君(おとうと ぎみ)にご随行でフランスへ立つ

 その後、慶喜公は徳川宗家(とくがわそうけ)(徳川家の本家)をご相続なされ、つづいて将軍職をご拝命(はいめい)になったので、私も一橋家から幕府に召しかかえられ、幕臣となった。
 すると、君臣のあいだがらには変わりはないとはいっても、たがいの身分の差がはなはだしくなって、これまでのよう親しく公(慶喜公のこと)のお考えやお気持ちを知る機会も少なくなり、私の思いをお伝えするのも難しい状況がやってきた。そうかとおもえば、公とお話することすらできなくなってしまった。

 そんななか、公は、幕府滅亡の危機が迫ってから宗家を継がせられることとあいなった。

 これは公にとって実に不利なご地位に立たれることになった、と私は感じ、すこぶる憂慮にたえなかった。
 わが君はこれほど明らかな利害得失がおわかりにならないおかたではない。
 またお側にいる補佐の重臣(じゅうしん)も、滅亡しかかっている幕府を相続する事態が、公にとって大いに不利だ、と予想できないはずもない。
 公のご実家にあたる水戸家(水戸の徳川家)の家来であるところの侍に、原市之進(はら いちのしん)という、公の優秀な側近がいる。識見も学問も、立派な経歴も相当に有るのはまちがいない原氏がお側(そば)にはべっていて、なにゆえ公へ相続はおやめになるようお諫(いさ)め申さぬかと私は思った。私は原氏と直接会うと、宗家相続反対と進言した。けれども、私の切(せつ)なる意見は遂に、幕府に採用されないのだった。このときの私の落胆はたとえようもないほどだった。

 何かほかの思案はないか、と考えていたところへ、公の弟君(おとうとぎみ)・徳川民部大輔卿(みんぶ の たいふ きょう)(水戸家の次期当主、徳川昭武(あきたけ)公。以下、民部公子(みんぶ こうし)、民部、或いは単に「公子」。当時14歳)が、本国(日本)代表としてフランスで開かれる万国博覧会に参列される予定があり、私もその随行を命じられることになった。
 私はもとより先見の明などというほどの知識はないけれども、つらつら将来の形勢を予想するに。到底幕府が権勢を持続できないのは明らかだとしても、政変の終局がどうなっていくかについて、私には全く五里霧中(ごりむちゅう)のままであった。いづれにせよ、自分はこのばあい海外にでて、公子を擁護して時勢を待つが善かろうと思案を定めた。
 ただし公使がお伝えになるところ、随行者にはほかにも上級の人がいて、私はただ荷物の取り扱い、金銭の出納、文書記録の処理をする、いわゆる雑用役であった。けれども、心の底には、いつかはこの公子の補佐をするつもりだ、との抱負で仕えたのである。
 かくて私は慶応3(1867)年の正月に横浜を立ってフランスへ渡航。博覧会終了のあと、公子のお供でヨーロッパ各国を巡回中、本国で公は幕府の政権を天皇家へ返上なされた。
 この政変が追々電報もしくは新聞などで海外に伝わってきたが、ことに驚いたのは鳥羽・伏見の出来事であった。

   四 順公薨去(こうきょ)にてやむなく帰国

 第一に政権返上がどんなご趣意であろうかとの疑念を持っているところへ、そんな開戦のことを聞いては、なにゆえに公はかかる無謀のことをなされたかという強い心残りをもたざるをえなかった。
 当時の私の考えでは、もはや事ここにいたって本国は一旦分裂して群雄割拠の世となるであろう。さすれば今すみやかに帰国しても効き目はない。むしろ公子を擁護して費用のあらんかぎり留学し、公子も私もともに相当の学問を修業し、将来に報いるほかに採るべき策はないと考えて、どこまでも踏みとどまっているつもりであった。

 その後、水戸中納言・徳川慶篤(よしあつ)候(常陸国水戸藩10代藩主。順公)の薨去(こうきょ)により、公子が水戸家をご相続されることになって、フランスへお迎えの人がきた。
 私としては、これは従来同藩で紛糾していた政党闘争の結果で、順当のご相続とはいえないから、諫めておやめさせ申しあげたいとは考えた。けれども、既に藩論は定まっており、公子のお迎えとしてきた者も強情の人々であったから、諫争の無用なることに悟って、私も一行と共に帰国することにした。
 ここにおいて私の希望はことごとに齟齬(そご)してむなしく帰朝したのである。それが慶応4(1868)年すなわち明治元年の11月であった。

   五 なにゆえ公は、薩長両藩と戦わず、お退(しりぞ)きあそばされたか

 かくて横浜の埠頭に帰着したあとは、百事滄桑(ひゃくじ そうそう)の歎(たん)――海が桑畑となり、桑畑が海になったよう何もかも変わってしまい、あまりの時勢変化のめまぐるしさへ、愕然(がくぜん)とした。なかでも慶喜公のご境遇については、去年出発のときと今日とわずかに一年半の歳月しかたっていないのに、かくも変化するものかと、最も無量の感慨に打たれた。

 公はこのときすでに駿府(静岡県)へ引退し、お隠れになっておられたので、私は直接拝謁(はいえつ)もできなかった。公のご心事(しんじ)を二三の知人に聴いてみても十分に了解できない。
 もう時勢のなりゆきを見抜かれ政権を返上なされたからには、公はなにゆえ鳥羽伏見で戦端を開かれたのか? たとえ公のご意中に戦を求めようとは思い召さぬでも、大兵を先供(さきども)として入京すれば、防御の薩長の兵と衝突の起こるのは必然の理である。それほどのことをご察しなさらぬはずはない。
 果たしてご察しなされたとすれば、やむをえねば戦も辞さぬ覚悟であったようにも思われる。そんなとき何の為に大阪から急に、軍艦でご帰東なされたであろうか?

 ついで有栖川宮(ありすがわのみや)が大総督として東征の際に、公はひたすら恭順謹慎するばかりか、惟命(いめい)(おもい と いのち)これ従う、とご決心なされたのはなぜであろうか?
 幕臣中に相当の知識も胆力もあって、武士の意気地やむをえぬとの覚悟を持った人をも断然と排斥し、怯懦(きょうだ)といわれ暗愚と評せられても、いささかも弁解せぬというご決心までなされたのはなぜであろうか?
 これらの公のご挙動は、私には実に了解に苦しむところであった。
 私はフランス滞留中、または帰国の船中などで、ときどき本国からの通信をみて、公のご動作に関しあまりに不がいなきありさまを憤慨し、天皇に対してはどんなことも犠牲にせねばならぬという公のご趣意はご尤もではあるけれども、実際は薩長二藩がことを構え、朝命をねじまげ無理に幕府を敵としたのである。幕府がもし力でこれを制しえれば、いわゆる勝てば官軍で、薩長側が却って朝敵となることは元治元年(げんぢ がんねん)・蛤御門(はまぐりごもん)の先例が歴然である*1。これは道理から論じても事実からみても、はなはだ明瞭だと信じていたから、公のおぼし召しのほどを何分にもよく了解しえなかった。

*1 1864年 蛤御門の変、禁門の変の事。

   六 主君へ忠義――わが一身、新政府へ仕官せず

 帰朝のあとは自己一身の処置が先決問題で、種々様々に苦心した。
 もとが農民出身の地位・声望もなき一青年で、社会へ大きな責任を持ってはいなかったけれども、人は権勢にへつらわず、情義に厚い行動で一生を送らねばならぬということは、少年のときから、厳しい父から庭訓(ていきん)(家庭のしつけ)よって深く骨髄に染みていた。またいささか書籍をも読み、われも志士なりと自分で自分の一身に責任を持つからには、正義と人道によっていかねばならぬことは、終始こころがけていた。
 こうも時勢が変遷した上は、残念ながら維新政府(明治新政府)には奉仕せず、三世を契った慶喜公のために、自己の一身はもう世に無きものと諦めるべし、と観念した。
 その年の冬、私は駿府へ行き、久々に公へ拝謁した。

   七 公への再拝謁

 公の幽居・宝台院(ほうだいいん)に出たのはちょうど夕暮れのことであった。
 私は行灯(あんどん)の前に端座して公のご出座を待っているあいだ、わび住まいのご様子を見回した。
 昨年お別れ申したときとは実に雲泥の相違と、私がそぞろ暗涙(あんるい)にむせびいるところへ、公が座に入らせられた。

 一通りのご機嫌うかがいをおわると、覚えずかねての宿疑(しゅくぎ)(以前からの疑問)が口へ出て、政権返上のこと、またその後のご処置はいかなるおぼし召しであらせられたか、いかにしてこのようなお情けなきご境遇には、おなり遊ばされたか、とお尋ねもうしたところ、公は泰然として
「いまさら左様(さよう)の繰り言はかいなきことである。それよりは民部が海外に於ける様子はどうであったか」
と、話題をほかへ転ぜられた。私も心づいて、公子のお身の上のことどもをつまびらかに言上(ごんじょう)した。

 久しぶりで公のご無事を拝したのはかぎりなく嬉しかったが、胸裏に貯(たくわ)えた宿疑は、ついに解ける機会がなかった。

   八 阿正の志操に感動する

 さて私は、明治2年の元日をば駿府(この年6月から静岡と改称)で迎えて、商法会所の創設に奔走し、故郷から妻子をも呼び寄せた。この地に永住する心組みであった。
 この間に、会所の用事で東京へ出たときの一話がある。

 私はある日『山陽遺稿』を買い求め、一読した。
 烈婦阿正の伝に至って中心に一種の感動を生じた。

 おもうに、阿正は夫の死後、親戚の勧めに応じてまた嫁いでも、不義でも不貞でもない。しかし彼女の心はそれを快く思わぬから、両夫にまみえず貞節を遂げようとした。すると親戚からなんとしてでも再婚するよう強迫され、阿正ははかなくも、どうしようもなくなって自殺した。
 狭い女気といってしまえばそれまでであるが、私は貞操の志の堅いところに彼女の心意気を認めてやりたい。また山陽がこれを激賞したのは、誠に心地よきことであると思った。

 私も当時、彼女の心意気に感じて、『読烈婦阿正伝』との漢文一篇を作った。この原稿は今もなお保存してある。
 この漢文を友人にも示したところ、杉浦蘐(けん)堂もと甲府徽典館(きてんかん)の儒員もした人で、外国奉行調役・杉浦愛蔵氏の父という老人がみて、
「貴下はこういうご覚悟であるか」
といわれた。
 これは私が新政府に仕えぬ意思を悟ったものとみえた。

   九 朝廷のご沙汰について――わが義憤

 おもうに王政維新の偉業は、近因を公の政権返上に発したのである。 
 それなのに、なぜか公に以後ご謹慎をお申しつけなされたことも当然そうだが、われら旧臣の目からみて、朝廷による公へのお仕向けはあまりに、お情けない。
 究極の所、これは要路にいる人々の冷酷さが致すところである。
 そう思えばおもうほど私は、特にそのころ政界にときめく人々の挙動に、甚だしい嫌悪の念を起こした。私には公の逼塞(ひっそく)のご様子がみるに忍びぬ様に思われ、まこと悲憤慷慨(ひふんこうがい)にたえなかった。
 その時に作った拙作にいわく

維新偉績欲無痕 
剔抉未知探本原
公議輿論果何用 
千秋誰慰大冤魂 

訓読の例:
イシンのイセキ ヨク ムコン
テッケツのミチ タン ホンゲン
コウギにヨロン カ なにヨウ
センシュウ スイイ ダイエンコン

読み下しの例:
維新の偉大な業績は、痕(あと)をのこすことさえ欲しない。
だれかがその未知の本源を探って、抉(えぐ)りだそうともしない。
公議も輿論(ヨロン)も果たして、何の用があるという。
千の秋がすぎても大冤罪(だいえんざい)をされたままの、わが主君の魂を、いったい誰が慰めてくれるのだろう。

慶喜公の冤罪をば、誰が慰めてくれるであろう。廟堂(ちょうどう)(朝廷、天皇政体。大日本帝国政界)の人々のいう公議も世論も、口ばかりでは何の用もなさぬ。この公をば、かくも幽暗のなかに閉蟄(へいちつ)せしめて置いて、ほかの人々がしきりに威張りちらすのは甚だ以(もっ)てけしからぬ、と私は憤慨したのである。
 さりながら前に疑問とした政権返上のご趣意、ならびに鳥羽伏見の出兵とその後のご謹慎と、余りにつりあいが取れぬ点は、何としても了解しえなかった。

   十 かねてからの宿願どおり私が公務員を辞めた経緯

 ところが、明治2年の11月、私は大蔵省に召(め)され*1、余儀なく新政府に奉仕する身となってしまった。このため再び東京に移住しなければならなかった。

*1 天皇大権の名による。

 このころから公のご謹慎も少しく解け、これまでのごとく宝台院の一室に幽居せられぬでもよろしいということになったから、私はひそかにこれを喜んだことであった。

 私は前にも述べた如く、一旦覚悟した身の、新政府の官吏(かんり)となるのは余儀ないこととはいえ実に不本意だと思っていたから、大蔵省からのお呼び出しについて静岡藩庁へ辞退の取り次ぎを請求した。けれども、藩庁では朝命(天皇の命令)に背くことになるから取り次ぎできぬといわれた。
 しまいに私は東京へ出て辞令を拝受してしまったが、いつでも機会があったら辞職致そうと考えていた。

 仕官のあとひと月ばかり経って大隈(おおくま)(大隈重信(おおくま しげのぶ))大蔵大輔(おおくらたいふ)の築地の邸を訪(と)い、官を辞したいと請願した。
 そのときの大隈氏の答えは実に巧妙であった。
 その趣旨は、「今日の維新の政治は、あたかも高天原(たかあまはら)に百万年の神たちが神つどいに集まったようなもので、この神々が新たに日本を造りつつある。君もやはり一柱の神の仲間である。ゆえに静岡藩もなければ薩摩も長州もない。そんな小事を論じては困る。君も最初は階級制度を打破しなければならぬといって奮起した人ではないか。今日はその理想に向かって進むのだ。ところが自分は維新には関係ない人で、また徳川公に深い縁故があるなどと小節に汲々とするのは殆ど道理に合わぬではないか。なにゆえこの日本をわが物と思ってくれぬか」という大きな議論をかぶせられ、私の請願は許してくれない。
 私もその説のいかにも快活雄大であるのに服して、それならば先ずできるだけ勤めてみましょうと答え、素志を翻して当分官務に奉仕する考えを定めた。さりながら当初思い定めたことゆえ、数年ののち遂に強いて大蔵省を辞めて、宿望を遂げるようになった。
 そのときに述懐の一絶を得た。

官途幾歳費居諸
解印今朝意伝舒
笑我杞憂難掃得
獻芹留奉萬言書

訓読の一例:
カント キーサイ ヒー キョーショ
カイイン コンチョウ イーデンジョ
ショウガ キーユウ ナン ソウトク
ケンキン リュウホウ マンゲンショ

読み下しの一例:
のぞまず官途に居るうち、はたして幾つ、いたづらに歳を費やしたろう。
今朝(けさ)やっとわたしをしばっていた契約の印が解け、のびのびとおもいを伝えることができた。
わたしには、笑ってただの杞憂(きゆう)だと、かねてからのこころざしを掃(はら)いさってしまい難い。
つまらない野草の芹(せり)ほどのものではあるが、わが主君へ私なりの忠義を尽くしささげ奉(たてまつ)るつもりで、万言の書をあの官界に留めおいてやったのだ。

 これは辞表を提出したとき、時勢を論じた一篇の奏議をたてまつったことを申したのである。

   十一 辞官のち、みたび公に仕える――公の明治政界との断絶

 私が東京で官にいるあいだは思う様に往復することもできなかったが、自由の身になったあとは銀行用で大阪へ往復の折には、必ず静岡におわす公へ伺候(しこう)*1と定めた。

*1 貴人のそばで奉仕する。目上の人へご機嫌うかがいに参る。さぶらう。

 私は紺屋町のお住まいへも数回参らせていただき、のち深草町にご新邸ができてからは、その方へもたびたび伺候させていただいた。
 伺候の数のますごとに公と親しくお話もできる様になり、ご慰藉(いしゃ)として時候にかなう品物などを持参したり、また落語家・講釈師などを連れてお慰め申した事もあった。

 私が官をやめたあとで、始めて公と拝謁したときのことだ。
 私が在官中の見聞を話題とし、三条実美、岩倉具視または大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允などという諸公の話を申し上げると、慶喜公はいつも素知らぬ風をなされ、話題をほかに転ぜられる。公は全く政界のことを見聞せられるのを避けたまうご意思であると私は悟ったから、その後はいささかも政治にわたる事をば申し上げなかった。ただ、いつか公然と社会に公もお顔出しができる様になったらさぞ喜ばしいであろうが、そういう機会がいつくるか、または、到底こぬであろうかと、私は常にあせりながら気を揉んでいた。
 けれども、公のご伝記を編纂して後世に残そうとの考えは、その頃まだなかった。

   十一 疑義の氷塊――公の真意を知り、臣・渋沢、感服つかまつる

 こうして追々と歳月を経るに従って、公の政権返上のご決心は容易ならぬことであったのだ、と私はあらためて思うようになった。
 と同時に、鳥羽・伏見の出兵はまったく公のご本意ではなく、当時の幕臣の大勢に軍師としていただかれ、やむをえずに出たご挙動であった、と分かってきた。
 はたしてまた、そこでしかけられた戦をやり遂げようとすれば日本は実に大乱に陥る。またたとえ幕府の力で薩長その他の諸藩を圧迫し得るとしても、国家の実力を莫大に損する。ことに外交の困難を極めている際にそんなことをしては、皇国を顧みざる行動となる、と公が悟られ、東帰された旨が、私などにも分かった。
 またここに至っては、みずからの決断を弁解するだけ却って物議をまし、なおさら事が紛糾するから、愚と言われようが怯と嘲られようが、恭順謹慎で一貫するよりほかはない。薩長から無理に仕掛けた戦ではあるが、向こうが天皇を頂いている以上は、その無理を通させるのが臣子の分である――と、こう公はご覚悟をなされたのだと私がようやく理解したのは、実に明治20年以後のことであった。

 以来、おりおり公に拝謁し直接お話しも伺(うかが)い、またいろいろな人々からの談話をも聞き、これらをまとめあわせ前日の疑念がますます解けるようになってきた。
 たとえばさきには怯懦の疑いがあったが、もしも鳥羽・伏見の戦いがはじまったあのとき公が小勇に駆られ、卒然として剣と盾をとって起(た)たれたならば、この日本はいかなる混乱に陥ったか――。公へまことに国家を想う衷情(ちゅうじょう)(うそ偽りのない真心)があればこそ、こうして今に至っても、あのとき朝廷へ恭順、とのご決断をひとことも言い訳せずにおられるよりほか、どんな処置のしかたもなかったのである、と、しみじみ私は理解した。
 公が国を想うご思慮の深遠なることは、わたくしどもの平凡な考えが及ぶところでは到底なかったのだ、と私は深く感激した。
 公がこのようなお心であのような態度でおいでになられ、ご一身を犠牲になされる苦衷(くちゅう)(苦しい胸の内)のほどは、人に語るべきところでない。却って他人から逆賊と誣(し)いられ、怯懦と嘲られても、じっとお堪えなされて、終生これらの心無いことばや無道の仕打ちへ弁解もなされぬ。公はなんとご立派にして、実に偉大なるご人格ではあるまいか、と尊敬の念はいよいよ、ますます切なるのであった。

  十二 福地桜痴(ふくちおうち)氏への依頼

 旧友の福地桜痴(ふくち おうち)とは、ときどき幕末のことを討論したこともあった。

 明治26年の夏から秋ころ、帝国ホテルで催されたとある宴会のあと、私は同氏と維新の政変について語り合った。
 そのとき私は、心のなかに温めていたとある構想を、私以外の他者へ始めて言いだしてみた。
「慶喜公の偉大なご事績を本の形にはできませんか。あの大冤罪をうけていらっしゃる魂を世の中におしえて、後世にも伝えておかないといけませんから。なんとかして、慶喜公の冤罪を雪(そそ)ぐ工夫はありませんかね」

 福地氏はこれよりまえ次のよう私へ申された事があった。
「江戸幕府の歴史を編纂したいと思ってるんですが、誰も書かせてくれる者がいません。ちゃんとした整った史書を完成させようとしたら、そうとう費用が必要でしょう。私の願いは、公明正大な筆づかいで、慶長・元和の初まりから、慶応・明治おわりまでの史実を書いて置きたいんですね。維新が起きてから出た史書では、とかく徳川家をわるくいい、事実じゃない嘘を言い立てる誹謗中傷だけを書く本が、世の中にいくらでも出回ってますでしょう? 後世へ真実を見誤らせますから。大変残念に思ってます」
 確かにそうだとはいえ、彼の江戸幕府史の完成までにかかる手間暇は容易な事ではないように思われ、私は遂にこのための費用工面へ同意していなかったのだ。

 帝国ホテルの会話中、私は福地氏の以前のこの発言をおもいだし、同氏の構想を一部ひきつげるのではないかと思いついた。そこで、同氏へ江戸幕府最後の将軍のご伝記編纂主任役をひきうけられるか問うたのである。
「慶喜公のご伝記をくわしく調べておきたいんですが、あなたのご健筆で、どうか編纂の主任を引き受けられませんか」
 ときに福地氏は「きっとやれます、お引き受け致しますから」と確かに答えたが、とっさに方法を、その場でくわしく論究するまでには進まなかった。

   十三 平岡準蔵氏をへての公へのお伺いとそのご内慮

 私がご伝記を編纂するにあたって、中身を世におおやけにはしないにしても、第一に公のご許諾を得なければならない――公へお伺いをたて、編纂の可否を見定めないうち、自分勝手に着手するわけにはいかぬ。
 そこで私は平岡準蔵氏をへて、公のご内慮を伺うことにした。

 そのころ平岡氏は東京で米殻商(べいこくしょう)(米屋)を経営していた。同時に彼は、公のご家政のことにも熱心に尽力し、藩庁のころから公のため少額の剰余金蓄積の方法を講じ、私の経営する銀行でこの利殖を謀り、私もまた自己の財産と同じ観念でこれを取り扱っていた。
 私は、平岡氏が常に公と昵近(じっきん)して――お親しみになっている事を知っていたので、同氏にさいわい逢(あ)ったとき、詳細にご伝記編纂の意見を述べ、「是非とも公からご許諾を得たいと思うが、君はどう考えるか」と問うた。平岡氏は非常に喜んで、「それはまことに親切な事だ。どうぞ首尾よく成就したいものである。福地氏は立派な文学者と聞いており、公にも全くお知らせできない様な人でもないから至極適当の人と思う。但し公のご同意の有無は測り難いが、ともかくも申し上げてみよう」と答えた。
 その後平岡氏が静岡から帰っての話に、「公はご許諾がない。どうぞやめてくれ」と仰せられた。私が「なにゆえ左様にお厭(いと)いなされますか」と伺うと、世間に知れるのが好ましくないとのことであったという。よって更に平岡氏とご相談の上、
「必ず世間には知られぬよう、深く私の筐底(きょうてい)――箱の底に納めて置きます、私どもはもとより公の千年のご寿命を望むけれども、人生自古誰無死であるから、ご死後に発表するものとしたならば、お厭いなくも思われます。今の間に存在する史実を集め、せめては記料にても遺して置かねば、遂に真相を失って、後世に誤謬を伝える事と存じます。つまり私の期待するところは、現世にあらずして百年ののちにあるから」
と、再応平岡氏を通して伺うと、それほどの熱望ならば承諾はするが、世間におおやけにするのは、死後相当の時期に、ということであった。

   十四 未公開の調査開始。福地氏の江戸幕府全史様式説

 これから極めて内々で調査にとりかかったが、しかし旧幕臣の古老には種々の実歴談を聴かねばならぬ。
 朝比奈閑水(元・甲斐守、昌広)は外国奉行をも勤めた人、またその実父は12代将軍の御小納戸頭取を勤務して、当時の大奥の事を熟知した人であった。その他、駒井朝温(元・甲斐守)。松平勘太郎(元・大隈守)。浅野氏祐(元・美作守)。杉浦梅潭(元・兵庫頭)などという人々にも就いて、段々とその実歴や伝聞を調査した。独り幕閣に列した諸家に就いても、事実の探索に着手した。

 さてそのご伝記の体裁はいかにすべきかということについて、福地氏の説はつぎのものであった。
 是非とも幕府を根拠にして書くが宜しい。おもうに当時の公は全くご一身に国家の安危を荷われたのであるから、幕末史と公のご伝記とは相離るべからざるものである。殊(こと)に外国のことがまたご一身の変化にも最も強い関係をなしているから、それらの事実はなるべく丁寧に調べなくてはならぬ。もとより、徳川家が幕府として政権を執ったのは、家康公が覇府を江戸に開かれてからであるが、またその前から論ずれば、関が原の戦勝から徳川の威力はすでに天下を制御すべきほどになって、遂に大阪を滅し、公家・武家の諸制度を定めて幕府は確立したのであるから、幕末の政変に論及するにはどうしても遡って家康公の幕府を立てた時の精神およびその形式をも調査して、完全にその根源を研究し、最後に於いて幕府がそれだけの権力を持っているものを、なぜ公はいわゆる「敝屣(へいし)を棄てるが如く(まるでボロボロになった靴を捨てるが如くに、価値のある物事を惜しげもなく捨て去る。成語・棄如敝屣(き じょ へい し))」にせられたのかと、篤(とく)と吟味して置かねば、趣旨が明らかにならぬ。ゆえ公のご伝記といっても、直接公のご一身に属する本伝と、前提に属する前期と、両様の順序を以て調査せねば、結局に至って明晰に論断し難いと思う、という説であった。
 私はそれでは大変に手間のかかることと思ったけれども、筆を執る人が切に主張することだから、遂にその意見によって起草してみてくれろと委託した。

(つづく)