一 徳川慶喜公伝 編纂事情
私が徳川慶喜公の御伝記の完全なものを終生の事業として作りあげたいと思ったのは、決して偶然ではない。私一身の特別な境遇にその動機を発し、いろいろな事情からますます、その心を強くしたのである。
だれかがこのご伝記を読み「なるほどそうだったのか」と合点するには、私がこの事業を思い立った原因から説いてこなければ、そこへ至った経緯はおそらく他人には理解されえないだろうと思う。
もともとわたしは商売が本業。優美な文才もなく、またご伝記を編纂するほど史学の素養もない。なのに、ここに大胆にも自分の名で後世に伝える大著述をなすつもりなのは、実におこがましい話である。
けれどもこの御伝記編集が、私への天からの使命なはずだとの深い直感と、是非この書物を完璧たらしめ後世の人に十分こころして読んでもらいたいとの尽きせぬ熱望とは、編纂をはじめたあとで、さらに深く、厚くなったよう感じている。
いまや手伝ってくれている諸氏の懸命な努力により、ご伝記を脱稿するに至った。
ついてはこの事業がどんな精神のみなもとから流れ出たか明らかにし、まず全巻のはじめに置いて、それを序文とするのが最も適当だろうと私なりに考え、ここに徳川慶喜公伝編纂事情を事実、ありのままに述べるのである。
二 私、渋沢栄一がどうして慶喜公にお仕えする事になったか
埼玉の農家の長男だった私は、江戸に出て剣術の手ほどきを受けると、黒船来航以来すでに生じつつあった幕末政変へ家出同然に身を投じつつあった――なにしろそんな私には、元の農民に帰って、田んぼの間で安穏と老いることができない事情がある。それならいっそ身を国事にゆだねよう。侍になるなら、賢い主君をこそ特にえらんで、仕えたてまつるべきだろう。
さいわい同時代に、理想どおりの徳川慶喜公がいる。若かりし私は、わが一身、この公に生涯仕えるがよろしかろうと決心し、翌年、はじめて一橋家の家来となったのである。
さてひとたび慶喜公を主君といただいた以上、命果てるまで臣下の分を尽くさなければならぬ。貞節な婦人はいちど夫をもてば、必ずや操を2つにも3つにも分けたがらないだろう。
ましてや君臣のあいだはいわゆる三世の義――すくなくとも三世代にわたって恩義を尽くすべき心の約束を結ぶもので、当然たやすい筈もない。と私なりの覚悟を決めたのだ。
でまかせな心で出仕さえできればあとはどうなってもいいや、などと浅い料簡ではなかった。
三 公の将軍家ご相続――渋沢は弟君にご随行でフランスへ立つ
その後、慶喜公は徳川宗家(徳川家の本家)をご相続なされ、つづいて将軍職をご拝命になったので、私も一橋家から幕府に召しかかえられ、幕臣となった。
すると、君臣のあいだがらには変わりはないとはいっても、たがいの身分の差がはなはだしくなって、これまでのよう親しく公(慶喜公のこと)のお考えやお気持ちを知る機会も少なくなり、私の思いをお伝えするのも難しい状況がやってきた。そうかとおもえば、公とお話することすらできなくなってしまった。
そんななか、公は、幕府滅亡の危機が迫ってから宗家を継がせられることとあいなった。
これは公にとって実に不利なご地位に立たれることになった、と私は感じ、すこぶる憂慮にたえなかった。
わが君はこれほど明らかな利害得失がおわかりにならないおかたではない。
またお側にいる補佐の重臣も、滅亡しかかっている幕府を相続する事態が、公にとって大いに不利だ、と予想できないはずもない。
公のご実家にあたる水戸家(水戸の徳川家)の家来であるところの侍に、原市之進という、公の優秀な側近がいる。識見も学問も、立派な経歴も相当に有るのはまちがいない原氏がお側にはべっていて、なにゆえ公へ相続はおやめになるようお諫め申さぬかと私は思った。私は原氏と直接会うと、宗家相続反対と進言した。けれども、私の切なる意見は遂に、幕府に採用されないのだった。このときの私の落胆はたとえようもないほどだった。
何かほかの思案はないか、と考えていたところへ、公の弟君・徳川民部大輔卿(水戸家の次期当主、徳川昭武公。以下、民部公子、民部、或いは単に「公子」。当時14歳)が、本国(日本)代表としてフランスで開かれる万国博覧会に参列される予定があり、私もその随行を命じられることになった。
私はもとより先見の明などというほどの知識はないけれども、つらつら将来の形勢を予想するに。到底幕府が権勢を持続できないのは明らかだとしても、政変の終局がどうなっていくかについて、私には全く五里霧中のままであった。いづれにせよ、自分はこのばあい海外にでて、公子を擁護して時勢を待つが善かろうと思案を定めた。
ただし公使がお伝えになるところ、随行者にはほかにも上級の人がいて、私はただ荷物の取り扱い、金銭の出納、文書記録の処理をする、いわゆる雑用役であった。けれども、心の底には、いつかはこの公子の補佐をするつもりだ、との抱負で仕えたのである。
かくて私は慶応3(1867)年の正月に横浜を立ってフランスへ渡航。博覧会終了のあと、公子のお供でヨーロッパ各国を巡回中、本国で公は幕府の政権を天皇家へ返上なされた。
この政変が追々電報もしくは新聞などで海外に伝わってきたが、ことに驚いたのは鳥羽・伏見の出来事であった。
四 順公薨去にてやむなく帰国
第一に政権返上がどんなご趣意であろうかとの疑念を持っているところへ、そんな開戦のことを聞いては、なにゆえに公はかかる無謀のことをなされたかという強い心残りをもたざるをえなかった。
当時の私の考えでは、もはや事ここにいたって本国は一旦分裂して群雄割拠の世となるであろう。さすれば今すみやかに帰国しても効き目はない。むしろ公子を擁護して費用のあらんかぎり留学し、公子も私もともに相当の学問を修業し、将来に報いるほかに採るべき策はないと考えて、どこまでも踏みとどまっているつもりであった。
その後、水戸中納言・徳川慶篤候(常陸国水戸藩10代藩主。順公)の薨去により、公子が水戸家をご相続されることになって、フランスへお迎えの人がきた。
私としては、これは従来同藩で紛糾していた政党闘争の結果で、順当のご相続とはいえないから、諫めておやめさせ申しあげたいとは考えた。けれども、既に藩論は定まっており、公子のお迎えとしてきた者も強情の人々であったから、諫争の無用なることに悟って、私も一行と共に帰国することにした。
ここにおいて私の希望はことごとに齟齬してむなしく帰朝したのである。それが慶応4(1868)年すなわち明治元年の11月であった。
五 なにゆえ公は、薩長両藩と戦わず、お退きあそばされたか
かくて横浜の埠頭に帰着したあとは、百事滄桑の歎――海が桑畑となり、桑畑が海になったよう何もかも変わってしまい、あまりの時勢変化のめまぐるしさへ、愕然とした。なかでも慶喜公のご境遇については、去年出発のときと今日とわずかに一年半の歳月しかたっていないのに、かくも変化するものかと、最も無量の感慨に打たれた。
公はこのときすでに駿府(静岡県)へ引退し、お隠れになっておられたので、私は直接拝謁もできなかった。公のご心事を二三の知人に聴いてみても十分に了解できない。
もう時勢のなりゆきを見抜かれ政権を返上なされたからには、公はなにゆえ鳥羽伏見で戦端を開かれたのか? たとえ公のご意中に戦を求めようとは思い召さぬでも、大兵を先供として入京すれば、防御の薩長の兵と衝突の起こるのは必然の理である。それほどのことをご察しなさらぬはずはない。
果たしてご察しなされたとすれば、やむをえねば戦も辞さぬ覚悟であったようにも思われる。そんなとき何の為に大阪から急に、軍艦でご帰東なされたであろうか?
ついで有栖川宮が大総督として東征の際に、公はひたすら恭順謹慎するばかりか、惟命(おもい と いのち)これ従う、とご決心なされたのはなぜであろうか?
幕臣中に相当の知識も胆力もあって、武士の意気地やむをえぬとの覚悟を持った人をも断然と排斥し、怯懦といわれ暗愚と評せられても、いささかも弁解せぬというご決心までなされたのはなぜであろうか?
これらの公のご挙動は、私には実に了解に苦しむところであった。
私はフランス滞留中、または帰国の船中などで、ときどき本国からの通信をみて、公のご動作に関しあまりに不がいなきありさまを憤慨し、天皇に対してはどんなことも犠牲にせねばならぬという公のご趣意はご尤もではあるけれども、実際は薩長二藩がことを構え、朝命をねじまげ無理に幕府を敵としたのである。幕府がもし力でこれを制しえれば、いわゆる勝てば官軍で、薩長側が却って朝敵となることは元治元年・蛤御門の先例が歴然である*1。これは道理から論じても事実からみても、はなはだ明瞭だと信じていたから、公のおぼし召しのほどを何分にもよく了解しえなかった。
*1 1864年 蛤御門の変、禁門の変の事。
六 主君へ忠義――わが一身、新政府へ仕官せず
帰朝のあとは自己一身の処置が先決問題で、種々様々に苦心した。
もとが農民出身の地位・声望もなき一青年で、社会へ大きな責任を持ってはいなかったけれども、人は権勢にへつらわず、情義に厚い行動で一生を送らねばならぬということは、少年のときから、厳しい父から庭訓(家庭のしつけ)よって深く骨髄に染みていた。またいささか書籍をも読み、われも志士なりと自分で自分の一身に責任を持つからには、正義と人道によっていかねばならぬことは、終始こころがけていた。
こうも時勢が変遷した上は、残念ながら維新政府(明治新政府)には奉仕せず、三世を契った慶喜公のために、自己の一身はもう世に無きものと諦めるべし、と観念した。
その年の冬、私は駿府へ行き、久々に公へ拝謁した。
七 公への再拝謁
公の幽居・宝台院に出たのはちょうど夕暮れのことであった。
私は行灯の前に端座して公のご出座を待っているあいだ、わび住まいのご様子を見回した。
昨年お別れ申したときとは実に雲泥の相違と、私がそぞろ暗涙にむせびいるところへ、公が座に入らせられた。
一通りのご機嫌うかがいをおわると、覚えずかねての宿疑(以前からの疑問)が口へ出て、政権返上のこと、またその後のご処置はいかなるおぼし召しであらせられたか、いかにしてこのようなお情けなきご境遇には、おなり遊ばされたか、とお尋ねもうしたところ、公は泰然として
「いまさら左様の繰り言はかいなきことである。それよりは民部が海外に於ける様子はどうであったか」
と、話題をほかへ転ぜられた。私も心づいて、公子のお身の上のことどもをつまびらかに言上した。
久しぶりで公のご無事を拝したのはかぎりなく嬉しかったが、胸裏に貯えた宿疑は、ついに解ける機会がなかった。
八 阿正の志操に感動する
さて私は、明治2年の元日をば駿府(この年6月から静岡と改称)で迎えて、商法会所の創設に奔走し、故郷から妻子をも呼び寄せた。この地に永住する心組みであった。
この間に、会所の用事で東京へ出たときの一話がある。
私はある日『山陽遺稿』を買い求め、一読した。
烈婦阿正の伝に至って中心に一種の感動を生じた。
おもうに、阿正は夫の死後、親戚の勧めに応じてまた嫁いでも、不義でも不貞でもない。しかし彼女の心はそれを快く思わぬから、両夫にまみえず貞節を遂げようとした。すると親戚からなんとしてでも再婚するよう強迫され、阿正ははかなくも、どうしようもなくなって自殺した。
狭い女気といってしまえばそれまでであるが、私は貞操の志の堅いところに彼女の心意気を認めてやりたい。また山陽がこれを激賞したのは、誠に心地よきことであると思った。
私も当時、彼女の心意気に感じて、『読烈婦阿正伝』との漢文一篇を作った。この原稿は今もなお保存してある。
この漢文を友人にも示したところ、杉浦蘐堂もと甲府徽典館の儒員もした人で、外国奉行調役・杉浦愛蔵氏の父という老人がみて、
「貴下はこういうご覚悟であるか」
といわれた。
これは私が新政府に仕えぬ意思を悟ったものとみえた。
九 朝廷のご沙汰について――わが義憤
おもうに王政維新の偉業は、近因を公の政権返上に発したのである。
それなのに、なぜか公に以後ご謹慎をお申しつけなされたことも当然そうだが、われら旧臣の目からみて、朝廷による公へのお仕向けはあまりに、お情けない。
究極の所、これは要路にいる人々の冷酷さが致すところである。
そう思えばおもうほど私は、特にそのころ政界にときめく人々の挙動に、甚だしい嫌悪の念を起こした。私には公の逼塞のご様子がみるに忍びぬ様に思われ、まこと悲憤慷慨にたえなかった。
その時に作った拙作にいわく
維新偉績欲無痕
剔抉未知探本原
公議輿論果何用
千秋誰慰大冤魂
訓読の例:
イシンのイセキ ヨク ムコン
テッケツのミチ タン ホンゲン
コウギにヨロン カ なにヨウ
センシュウ スイイ ダイエンコン
読み下しの例:
維新の偉大な業績は、痕をのこすことさえ欲しない。
だれかがその未知の本源を探って、抉りだそうともしない。
公議も輿論も果たして、何の用があるという。
千の秋がすぎても大冤罪をされたままの、わが主君の魂を、いったい誰が慰めてくれるのだろう。
慶喜公の冤罪をば、誰が慰めてくれるであろう。廟堂(朝廷、天皇政体。大日本帝国政界)の人々のいう公議も世論も、口ばかりでは何の用もなさぬ。この公をば、かくも幽暗のなかに閉蟄せしめて置いて、ほかの人々がしきりに威張りちらすのは甚だ以てけしからぬ、と私は憤慨したのである。
さりながら前に疑問とした政権返上のご趣意、ならびに鳥羽伏見の出兵とその後のご謹慎と、余りにつりあいが取れぬ点は、何としても了解しえなかった。
十 かねてからの宿願どおり私が公務員を辞めた経緯
ところが、明治2年の11月、私は大蔵省に召され*1、余儀なく新政府に奉仕する身となってしまった。このため再び東京に移住しなければならなかった。
*1 天皇大権の名による。
このころから公のご謹慎も少しく解け、これまでのごとく宝台院の一室に幽居せられぬでもよろしいということになったから、私はひそかにこれを喜んだことであった。
私は前にも述べた如く、一旦覚悟した身の、新政府の官吏となるのは余儀ないこととはいえ実に不本意だと思っていたから、大蔵省からのお呼び出しについて静岡藩庁へ辞退の取り次ぎを請求した。けれども、藩庁では朝命(天皇の命令)に背くことになるから取り次ぎできぬといわれた。
しまいに私は東京へ出て辞令を拝受してしまったが、いつでも機会があったら辞職致そうと考えていた。
仕官のあとひと月ばかり経って大隈(大隈重信)大蔵大輔の築地の邸を訪い、官を辞したいと請願した。
そのときの大隈氏の答えは実に巧妙であった。
その趣旨は、「今日の維新の政治は、あたかも高天原に百万年の神たちが神つどいに集まったようなもので、この神々が新たに日本を造りつつある。君もやはり一柱の神の仲間である。ゆえに静岡藩もなければ薩摩も長州もない。そんな小事を論じては困る。君も最初は階級制度を打破しなければならぬといって奮起した人ではないか。今日はその理想に向かって進むのだ。ところが自分は維新には関係ない人で、また徳川公に深い縁故があるなどと小節に汲々とするのは殆ど道理に合わぬではないか。なにゆえこの日本をわが物と思ってくれぬか」という大きな議論をかぶせられ、私の請願は許してくれない。
私もその説のいかにも快活雄大であるのに服して、それならば先ずできるだけ勤めてみましょうと答え、素志を翻して当分官務に奉仕する考えを定めた。さりながら当初思い定めたことゆえ、数年ののち遂に強いて大蔵省を辞めて、宿望を遂げるようになった。
そのときに述懐の一絶を得た。
官途幾歳費居諸
解印今朝意伝舒
笑我杞憂難掃得
獻芹留奉萬言書
訓読の一例:
カント キーサイ ヒー キョーショ
カイイン コンチョウ イーデンジョ
ショウガ キーユウ ナン ソウトク
ケンキン リュウホウ マンゲンショ
読み下しの一例:
のぞまず官途に居るうち、はたして幾つ、いたづらに歳を費やしたろう。
今朝やっとわたしをしばっていた契約の印が解け、のびのびとおもいを伝えることができた。
わたしには、笑ってただの杞憂だと、かねてからのこころざしを掃いさってしまい難い。
つまらない野草の芹ほどのものではあるが、わが主君へ私なりの忠義を尽くしささげ奉るつもりで、万言の書をあの官界に留めおいてやったのだ。
これは辞表を提出したとき、時勢を論じた一篇の奏議をたてまつったことを申したのである。
十一 辞官のち、みたび公に仕える――公の明治政界との断絶
私が東京で官にいるあいだは思う様に往復することもできなかったが、自由の身になったあとは銀行用で大阪へ往復の折には、必ず静岡におわす公へ伺候*1と定めた。
*1 貴人のそばで奉仕する。目上の人へご機嫌うかがいに参る。さぶらう。
私は紺屋町のお住まいへも数回参らせていただき、のち深草町にご新邸ができてからは、その方へもたびたび伺候させていただいた。
伺候の数のますごとに公と親しくお話もできる様になり、ご慰藉として時候にかなう品物などを持参したり、また落語家・講釈師などを連れてお慰め申した事もあった。
私が官をやめたあとで、始めて公と拝謁したときのことだ。
私が在官中の見聞を話題とし、三条実美、岩倉具視または大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允などという諸公の話を申し上げると、慶喜公はいつも素知らぬ風をなされ、話題をほかに転ぜられる。公は全く政界のことを見聞せられるのを避けたまうご意思であると私は悟ったから、その後はいささかも政治にわたる事をば申し上げなかった。ただ、いつか公然と社会に公もお顔出しができる様になったらさぞ喜ばしいであろうが、そういう機会がいつくるか、または、到底こぬであろうかと、私は常にあせりながら気を揉んでいた。
けれども、公のご伝記を編纂して後世に残そうとの考えは、その頃まだなかった。
十一 疑義の氷塊――公の真意を知り、臣・渋沢、感服つかまつる
こうして追々と歳月を経るに従って、公の政権返上のご決心は容易ならぬことであったのだ、と私はあらためて思うようになった。
と同時に、鳥羽・伏見の出兵はまったく公のご本意ではなく、当時の幕臣の大勢に軍師としていただかれ、やむをえずに出たご挙動であった、と分かってきた。
はたしてまた、そこでしかけられた戦をやり遂げようとすれば日本は実に大乱に陥る。またたとえ幕府の力で薩長その他の諸藩を圧迫し得るとしても、国家の実力を莫大に損する。ことに外交の困難を極めている際にそんなことをしては、皇国を顧みざる行動となる、と公が悟られ、東帰された旨が、私などにも分かった。
またここに至っては、みずからの決断を弁解するだけ却って物議をまし、なおさら事が紛糾するから、愚と言われようが怯と嘲られようが、恭順謹慎で一貫するよりほかはない。薩長から無理に仕掛けた戦ではあるが、向こうが天皇を頂いている以上は、その無理を通させるのが臣子の分である――と、こう公はご覚悟をなされたのだと私がようやく理解したのは、実に明治20年以後のことであった。
以来、おりおり公に拝謁し直接お話しも伺い、またいろいろな人々からの談話をも聞き、これらをまとめあわせ前日の疑念がますます解けるようになってきた。
たとえばさきには怯懦の疑いがあったが、もしも鳥羽・伏見の戦いがはじまったあのとき公が小勇に駆られ、卒然として剣と盾をとって起たれたならば、この日本はいかなる混乱に陥ったか――。公へまことに国家を想う衷情(うそ偽りのない真心)があればこそ、こうして今に至っても、あのとき朝廷へ恭順、とのご決断をひとことも言い訳せずにおられるよりほか、どんな処置のしかたもなかったのである、と、しみじみ私は理解した。
公が国を想うご思慮の深遠なることは、わたくしどもの平凡な考えが及ぶところでは到底なかったのだ、と私は深く感激した。
公がこのようなお心であのような態度でおいでになられ、ご一身を犠牲になされる苦衷(苦しい胸の内)のほどは、人に語るべきところでない。却って他人から逆賊と誣いられ、怯懦と嘲られても、じっとお堪えなされて、終生これらの心無いことばや無道の仕打ちへ弁解もなされぬ。公はなんとご立派にして、実に偉大なるご人格ではあるまいか、と尊敬の念はいよいよ、ますます切なるのであった。
十二 福地桜痴氏への依頼
旧友の福地桜痴とは、ときどき幕末のことを討論したこともあった。
明治26年の夏から秋ころ、帝国ホテルで催されたとある宴会のあと、私は同氏と維新の政変について語り合った。
そのとき私は、心のなかに温めていたとある構想を、私以外の他者へ始めて言いだしてみた。
「慶喜公の偉大なご事績を本の形にはできませんか。あの大冤罪をうけていらっしゃる魂を世の中におしえて、後世にも伝えておかないといけませんから。なんとかして、慶喜公の冤罪を雪ぐ工夫はありませんかね」
福地氏はこれよりまえ次のよう私へ申された事があった。
「江戸幕府の歴史を編纂したいと思ってるんですが、誰も書かせてくれる者がいません。ちゃんとした整った史書を完成させようとしたら、そうとう費用が必要でしょう。私の願いは、公明正大な筆づかいで、慶長・元和の初まりから、慶応・明治おわりまでの史実を書いて置きたいんですね。維新が起きてから出た史書では、とかく徳川家をわるくいい、事実じゃない嘘を言い立てる誹謗中傷だけを書く本が、世の中にいくらでも出回ってますでしょう? 後世へ真実を見誤らせますから。大変残念に思ってます」
確かにそうだとはいえ、彼の江戸幕府史の完成までにかかる手間暇は容易な事ではないように思われ、私は遂にこのための費用工面へ同意していなかったのだ。
帝国ホテルの会話中、私は福地氏の以前のこの発言をおもいだし、同氏の構想を一部ひきつげるのではないかと思いついた。そこで、同氏へ江戸幕府最後の将軍のご伝記編纂主任役をひきうけられるか問うたのである。
「慶喜公のご伝記をくわしく調べておきたいんですが、あなたのご健筆で、どうか編纂の主任を引き受けられませんか」
ときに福地氏は「きっとやれます、お引き受け致しますから」と確かに答えたが、とっさに方法を、その場でくわしく論究するまでには進まなかった。
十三 平岡準蔵氏をへての公へのお伺いとそのご内慮
私がご伝記を編纂するにあたって、中身を世におおやけにはしないにしても、第一に公のご許諾を得なければならない――公へお伺いをたて、編纂の可否を見定めないうち、自分勝手に着手するわけにはいかぬ。
そこで私は平岡準蔵氏をへて、公のご内慮を伺うことにした。
そのころ平岡氏は東京で米殻商(米屋)を経営していた。同時に彼は、公のご家政のことにも熱心に尽力し、藩庁のころから公のため少額の剰余金蓄積の方法を講じ、私の経営する銀行でこの利殖を謀り、私もまた自己の財産と同じ観念でこれを取り扱っていた。
私は、平岡氏が常に公と昵近して――お親しみになっている事を知っていたので、同氏にさいわい逢ったとき、詳細にご伝記編纂の意見を述べ、「是非とも公からご許諾を得たいと思うが、君はどう考えるか」と問うた。平岡氏は非常に喜んで、「それはまことに親切な事だ。どうぞ首尾よく成就したいものである。福地氏は立派な文学者と聞いており、公にも全くお知らせできない様な人でもないから至極適当の人と思う。但し公のご同意の有無は測り難いが、ともかくも申し上げてみよう」と答えた。
その後平岡氏が静岡から帰っての話に、「公はご許諾がない。どうぞやめてくれ」と仰せられた。私が「なにゆえ左様にお厭いなされますか」と伺うと、世間に知れるのが好ましくないとのことであったという。よって更に平岡氏とご相談の上、
「必ず世間には知られぬよう、深く私の筐底――箱の底に納めて置きます、私どもはもとより公の千年のご寿命を望むけれども、人生自古誰無死であるから、ご死後に発表するものとしたならば、お厭いなくも思われます。今の間に存在する史実を集め、せめては記料にても遺して置かねば、遂に真相を失って、後世に誤謬を伝える事と存じます。つまり私の期待するところは、現世にあらずして百年ののちにあるから」
と、再応平岡氏を通して伺うと、それほどの熱望ならば承諾はするが、世間におおやけにするのは、死後相当の時期に、ということであった。
十四 未公開の調査開始。福地氏の江戸幕府全史様式説
これから極めて内々で調査にとりかかったが、しかし旧幕臣の古老には種々の実歴談を聴かねばならぬ。
朝比奈閑水(元・甲斐守、昌広)は外国奉行をも勤めた人、またその実父は12代将軍の御小納戸頭取を勤務して、当時の大奥の事を熟知した人であった。その他、駒井朝温(元・甲斐守)。松平勘太郎(元・大隈守)。浅野氏祐(元・美作守)。杉浦梅潭(元・兵庫頭)などという人々にも就いて、段々とその実歴や伝聞を調査した。独り幕閣に列した諸家に就いても、事実の探索に着手した。
さてそのご伝記の体裁はいかにすべきかということについて、福地氏の説はつぎのものであった。
是非とも幕府を根拠にして書くが宜しい。おもうに当時の公は全くご一身に国家の安危を荷われたのであるから、幕末史と公のご伝記とは相離るべからざるものである。殊に外国のことがまたご一身の変化にも最も強い関係をなしているから、それらの事実はなるべく丁寧に調べなくてはならぬ。もとより、徳川家が幕府として政権を執ったのは、家康公が覇府を江戸に開かれてからであるが、またその前から論ずれば、関が原の戦勝から徳川の威力はすでに天下を制御すべきほどになって、遂に大阪を滅し、公家・武家の諸制度を定めて幕府は確立したのであるから、幕末の政変に論及するにはどうしても遡って家康公の幕府を立てた時の精神およびその形式をも調査して、完全にその根源を研究し、最後に於いて幕府がそれだけの権力を持っているものを、なぜ公はいわゆる「敝屣を棄てるが如く(まるでボロボロになった靴を捨てるが如くに、価値のある物事を惜しげもなく捨て去る。成語・棄如敝屣)」にせられたのかと、篤と吟味して置かねば、趣旨が明らかにならぬ。ゆえ公のご伝記といっても、直接公のご一身に属する本伝と、前提に属する前期と、両様の順序を以て調査せねば、結局に至って明晰に論断し難いと思う、という説であった。
私はそれでは大変に手間のかかることと思ったけれども、筆を執る人が切に主張することだから、遂にその意見によって起草してみてくれろと委託した。
(つづく)