2020年3月15日

茨城は都鄙の最美な中庸をめざす自治体説

今気づいたが、都内で田舎差別している人達の正体って、いなかだとなんらかの意味でカーストが下級だった人達が都会デビューしたつもりなのでは?
 過去の自分が属していた子供(又は老父母や親族)の世界を「ダサい」ものと分類し、無理やり都会生活を合理化しているつもりなのではないだろうか?
 自分はそういういなか社会の階級みたいなもの、具体的にいうと足が早い子供とかいわゆる不良の方が早く発情期になって恋愛なり性行為なりをして子供を産み、地元の工場とかに就職し、はたちくらいで既に家庭をもつみたいなのが中心的な世界を余り詳しくは知らないが、一端は公立の小中学で見ていた。
 で、高校以後は磐城や東京(池袋や新宿)で予備校や専門学校を経験し、大学は色々調べ、後に茨城大学内の放送大に入ったのだが、総じて都会社会や国内大学の位階制も観察したので一端はわかる。
 双方をわかった上で、都会人の方が虚栄心に満ちていて俗物で、馬鹿だと断言できる。
 特に一度も都会に出たことがないまま生まれて生きて死ぬ類の純粋いなか人の方は、確かに都会の位階制を知らないままで生きているのだが、はっきりいって、その都会序列って全面的に俗悪な物で、中身は何もないから知らない方がいい。僕はそっちの序列もずっと分析してきたからいえるけど、虚無である。
 単に虚無虚構虚栄なだけではない。都会的序列はもっと根本から邪悪で、その内部では人が非人間化されている。さらにいうと物化されているし、学歴・所属・収入・門地などなどの差別は無論、血でおもいっきり差別とかされてすらいる。天皇を頂点とし、人を人とも思わず不躾に差別しまくるだけの世界だ。
 一方、いなか的序列はもっと素朴である。いや僕が少しみたのは完全などいなかではなくて、中くらいのいなかまちの社会的あり方と思うけれども、先ず早熟な方が偉いことになる。しかもそれも純愛(性が物化している都会とはまるで違う、正真正銘の純愛界である)の面で発情が早いほど偉い扱いになる。
 そしてその中くらいのいなか的社会秩序では、高卒で就職し当の純愛相手(不思議な事に早熟な方が肉体が健康的で、性的にも魅力的に見える)と別の家をつくるのが、常識であり、また偉い事になっている様に見えた。まあこれも一端しかみてないから確定的なことはいえないが総じてそうなのではないか?
 僕はいわゆる限界集落的どいなかの社会は知らないのでそれについては何もいえない。近くに中小都市があるくらいの茨城最北部の田舎町社会は0歳から磐城に出る15まで生まれ育ったのである程度、内容や秩序のあり方がわかる。要はよかれあしかれ素朴な世界で、ある種無知ではあるが悪意がない。
 これに対して、大体はたちくらいから都心部(新宿副都心)の学校通ってたのでそっちの社会秩序も垣間見たが、思いっきり邪心がある。特に子供とかのレベルでそうである。江戸っ子流儀で東京人ってまあまあの地位の家でも素で性売買罪しているし、はっきりいうとその意味でごく不潔な文化になっている。
 しかも都会社会は中流以上だとある意味もっと酷く俗物的で、上流と張り合う必要があっていつも虚勢はらないといけない。そうでないと自分が見下されて苦痛だからだ。それで海外旅行いきました~とか、インスタ映え的な浪費自慢とか、借金しながらバイオリン修行どすえとかをやっているのである。

 で。思うに田舎差別をデフォルトでやってる東京人なり都会人もどきって、総じていうと、そういう俗物社会に加わる事にした、方々のいなかから出てきた人達である。誰の事といわずとも東京人ってほぼ全員がそうであろう。天皇すら奈良だの京都から3代前くらいに出てきた殺人教祖さんである。
 この人達は群れて、素朴ないなかの人達の無知をいいことに、うそばかりつく。さもトカイの方が優れているとか、自分達の方が上位者だとか、いなかはダサくてなにもないとか、都会で金儲けで贅沢三昧で楽しい事ばかりだとか、ぜんぶ完全なウソなんだが、本気でそういうウソを百も千もくり返している。
 自分は地獄みたいな都内で、スラムとしかいえない環境で、なぜかれら東京にでてきている全国いなかの人達がウソばかりつくのか謎でしょうがなかった。けど郷に入れば郷に従えでなんとなく調子あわせ観察し、分析していた。
 結局いまにしてわかったのは、かれらは完全に悪意でそうしているのである。
 都会人はやはり、いなかの人達と別の無知なので、ドイナカなり中くらいの田舎町なり、田園地帯や郊外なり中小都市なりの美質をまったくしらない。虚栄心のなかで夜郎自大に耽るばかりでなにも学ぼうとしない点では、一応トカイの情報を見聞きしているいなかの人達より遥かに劣っている馬鹿である。
 つまり、いなかの人、トカイの人、どちらも見比べ自分にいえるのは、おもに悪いのは明らかに都会人の方だ。かれらは悪意で差別をまきちらし、自己正当化の虚栄心から出自を隠そうとして、純粋都会化しているかのよう偽装し自集団礼賛・他集団蔑視のウソをつくのだ。おのぼり的行動様式なのである。
 逆に、純粋いなか人はそういう悪意ある都会人(中身は全国のいなかから出てきたおのぼり)の頻繁にというか日常的についているウソを見破れない事がある。それは都会の内情に無知で、メディアで都会中華思想で流される明らかなウソ情報をうのみにしているせいなのだ。ここで無知はある種の罪といえる。
 裏返せば、先住人的なものというか、完全無知でトカイの汚すぎる内情をしらない純朴の極みといえる純粋いなか人には、現代、希少性があるともいえるので、ある意味そういう人達に都内のどうしようもない堕落しきった事情なんて教えない方がいい場合もあるかもしれない。

 が。僕のくらしている茨城県みたいに飽くまで首都圏内で、2つとなりに東京がある位置だと、完全に無知のままでいる方が難しい。特に情報はテレビつければ先ず全部入ってくるしネットでも一瞬で伝わるからだ。距離が近すぎるから純粋どいなかにはなりづらい環境にあるといってもいい。
 この場合は、僕みたいに、都内の事情も全部知悉しきった上で、それを批判的に検証し、あしき面を避け、よき面をとりいれ或いはもともともっていた美質を維持促進し、総じて都会らしさの暗面をのりこえて生きるのが現実的かもしれない。自分は無意識にやっていたが。
 まずトカイ情報(というかあらゆる情報)を極力全てとりこんだ上で、それに流されず、飽くまで第三者として善悪、美醜、真偽、聖俗、あらゆる面で批判批評しきる必要があるだろう。
 このとき純粋どいなか者ではなくなる。それは文化の位置取りとしては仕方ない。が飽くまで自己本位に考えるべきだ。
 よくある類型なのが、神奈川とか千葉、埼玉みたいに、なんでもかんでも東京に従属してしまっている文化である。あるいは仙台とか大阪、京都みたいに東京を優劣感まじりにまねしている文化である。また、静岡、愛知、福岡みたいに都会化に憧れている文化である。どれも茨城的なものではありえない。
 我々の属しているのは都会的なものの邪悪な面を十二分に分析しきった上で、なおかつ、純粋ドイナカ的なものに留まらず、都会と田舎の中庸に最適な美質を作ろうとする様な文化である。概念として田園都市くらいしかふさわしい言葉がまだないが、造語すればトカイナカ的なものといえる。
 それは東京人・京都人がもっている類の(天皇や将軍に由来した)虚栄心を飽くまで避けるものであり、同時に、例えば高知のインフルエンサーがやっている類の逆張りド田舎自慢的なものも避けるものであるだろう。その種のイナカ暮らし自慢も所詮、裏返った中華思想にすぎない。
 純粋ドイナカの欠点(不便さとか、よくしらないが閉鎖性があるとかいわれる)も、純粋都心(犯罪率の高さとか風紀の悪さ)も、茨城的な都鄙中庸文化にそぐわない。トカイの悪さもイナカのよさも知った上で、都会のよさをとりこみ、イナカの悪さをなくしていくのが我々の社会づくりの目的というべきだ。