2014年5月18日

史学

『天狗党檄文』と『弘道館諸生の建言書』

天狗党檄文
 尊王攘夷は神州之大典なる事、今更申迄も無候得共、赫々たる神州開闢以来皇統綿々御一姓、天日嗣を受嗣せられ、四海に君臨ましまし、威稜之盛なる實に萬國に卓絶し、後世に至ても北條相州之蒙古を鏖にし、豐太閤之朝鮮を征する類、是皆神州固有之義勇を振ひ、天祖以来之明訓を奉ぜし者にして、實に感ずるに餘りあり。東照宮、大猷公には別て深く御心を被為盡、數百年大平之基を御開き被遊候も、畢竟尊王攘夷の大儀に本づかれ候儀にて、徳川家之大典、尊皇攘夷より重きは無之様相成候は、實に由々敷事ならずや。然るに方今夷狄之害は1日1日に著しく、人心は目前の安を偸み、是に加るに姦邪勢に乗じ、庸儒權を弄し、内憂外患日増に切迫致し、叡慮御貫之程も無覚束、祖宗之大訓振張之期も無之、實に神州汚辱危急今日より甚しきは無之、假初にも神州之地に生れ、神州の恩に浴するもの、豈おめおめと傍觀坐視するに忍んや。僕等幸に神州之地に生れ、又幸に危難之際に處し候上は、不及ながら一死を以國家裨補し、鴻恩之萬分に報じ可申と覚悟仕候。仍て熟慮致候處、必死之病は固より尋常薬石の療する所にあらず、非常之事をなさざれば、決て非常之功を立る事を得ず、況や今日に當り上は聖主の宸襟を奉尉、下は幕府之英斷を助け、従来の大汚辱を一洗するの於をや。是に於て痛憤難黙止、同志之士相共に東照宮之神輿を奉じ、日光山に相會す。其志誓て東照宮之遺訓を奉じ、姦邪誤國之罪を正し、醜虜外窺之侮を禦ぎ、天朝、幕府之鴻恩に報ぜんと欲するにあり。嗚呼、今日之急に臨み、誰か報効之念なからんや。又誰か夷狄之鼻息を仰ぎ、彼が正朔を奉ずるに忍んや。既に報効之志を抱き、又夷狄狡謀を憤利ながら、おめ々々として因循姑息に日を送り、徒らニ神風を待候儀、實に神州男子の耻ならずや。冀くは諸國忠憤之士、早く進退去就決し、同心戮力し、上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州之威稜、萬國に輝候様致度、我徒の素願全く此事にあり。東照宮在天之神霊御照覽可被遊、夫将た何をか陳せん。

弘道館諸生の建言書
 乍恐先君烈公告志篇を著して廣じ士民へ諭し玉ふ。其第一條に忠孝之本意を延させ玉ふ。次に人々天祖東照宮の御恩を報んとて悪く心違ひ、眼前之君父を指置、直に天朝公邊へ忠を盡さんと思はば、却て僭亂の罪遁れ間敷旨を述させ玉ひし事、我藩の臣子たる者、何れも心得可罷在事に候所、近来狂暴の士民等尊皇攘夷之名を借て累代厚恩の君上を指置き、各其身の分限を忘れて天朝の御明德を奉誣、他国浮浪の悪徒をかたらひ、國中無罪の良民を苦め、徳川家御親藩の臣下として妄に将軍家を輕悔し、昇平之至恩を忘れて反亂の大逆を企、無體之暴論ヲ以て數々君上に奉逼、種々の流言を作りて、多く異論の良臣を退け、賄賂を貪り私黨を張り、祖宗之法度を破り士民の禮分を廃し、加之東西に奔走しては公武の御中を奉妨、上下之情を壅塞して君臣の通路を絶ち、其外、の悪行不遑枚擧、是を以て先君烈公の御遺志と稱し、我水國眞の義勇を轉じて虎狼之國となし、貪亂無禮の盗民を集めて忠孝篤實の世臣を用ひず、終には、一國の君臣上下悉く反亂之賊に堕ん事眼前にて、士民之耻辱千載之汚名無此上、君子之身分決て等閑に可相過時節に無之且我々是迄日々弘道館に出入し、文武の業を勤めて以て君上の恩に報せん事を謀る。今此時に當て國之逆臣を除き、賊之横行を制するに非んば、何を以てか地下に烈公に見へ奉らん。依之面々忠憤難黙止、自然一同集會仕上は、共に心を一にし、力を合せ是非黒白を明し、是を天下に明にし、年来之誠心を相達し、眼前君上之御配慮を可奉安、一同の本意に御座候。依て此段申上置候以上。

参考資料
瀬谷義彦『幕末の宣伝戦』茨城歴史館講座史料
幕末水戸藩の顛末。2014年5月閲覧。