2014年5月14日

常陸国孤高論

 我々県民がなぜ、自慢や宣伝をしたがらないかといえば、理由には大まかに2つある。一つは常陸国史の悲劇性であり、もう一つは謙遜の徳目である。
 常陸国史は過去の茨城県民が平和に暮らしていても(茨城郡条)、武器を取り独立を目指して努力しても(平将門)、深慮を凝らして慎重でも(佐竹氏)、偉大な考え方を持ち積極的な忠義を行っても(水戸徳川氏)、全て悲惨な目に合うという悲劇性を示している。この常陸国史の背景にある悲劇性は悲劇というものが常にそうである様に、常陸人の栄達さから来ているのかもしれない。アリストテレス『詩学』の定義では、悲劇とは優れた人物が不運な目に遭う事による鬱屈の浄化である。いわゆる悲しみの涙がこれにあたる。この様な情動は、少なくとも理由がなければならない。
更に、我らがいかに善良かつ優秀でも、江戸の役人の手になるとされる『人国記』『新人国記』や、福井出身の田中章雄による「都道府県魅力度調査」に見られる様、われらの大人しさや善意に付け込む者から却って悪意ある曲解や誤解、誹謗中傷を受ける傾向もある。悲劇性を一層強めるこの構図は、『源氏物語』のヒロインである浮舟が茨城県育ちの常陸介の娘であった事にも象徴的であり、初代リーズデイル男爵アルジャーノン・ミットフォードによれば「真の貴族」であった水戸育ちの徳川慶喜は常陸国外の俗世では殆ど理解されず、却って犠牲的役回りをさせられたのにも、常陸国風の悲劇性という歴史背景があるのかもしれない。
 誤解や悪意ある外部者からの中傷を受ける要因でもあるが、儒学に備わっていた「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」の徳目は、我々が水戸学者と呼ばれるほど哲学的になればなるほど益々、我らを謙虚に仕立てていく。確かにこの徳は貴族主義的であり、一層の事我らを外部者から理解しづらくする。いわば我らが面紗、ヴェールをかけた状態になるのだ。自己表現を抑制し、しかも自慢を好まないという貴族主義的性質のため、茨城発信側のマスメディアは日本で最も未熟であった。茨城県民がいるのかいないのかすら外部に認識されていないのに、首都圏でさえ上位もしくは分野によっては日本のトップである茨城県の実力と、それを知らない外聞もしくは自己評価に大幅なギャップがあり、この落差がしばしば急激な摩擦を生んできた。幕末の他の国内地域との間で、桜田門外の変、坂下門外の変、第一次東禅寺事件、
天狗党の乱、大政奉還、江戸開城という摩擦が生じたのは有名である。というより、明治維新自体がこの落差の解消として生じたとしても過言ではない。慶喜公『昔夢会筆記』「将軍職を襲ぎ給いし事」によれば、年齢にして30歳の彼は既に将軍職を継いだ時点で、日本のため家康公の興した幕府を日本のため自分が葬る、と決意していた。この様な考え方を、大政奉還1867年から124年後の常陸国外の人達は、現代に至ってすら全く理解できない様である。彼ら外国人の利己主義的思考原則によると、彼ら外国人と戦争しないのは臆病だからであり、彼ら外国人の様にとかく出世したがるのが人間、命を惜しむのが人間だと彼らはいう。幕末の水戸藩史を知る者は、この様な常陸国外の人間の妄言がいかに猛烈な錯誤なのか、どれ程までに浅はかで愚昧なのかに呆れ、場合によっては悲嘆するであろう。
 つまり、常陸国人というのはそれ程までに、日本において特別な洞察をもつ、思慮ぶかい人間達なのだ、と結論する事ができる。713年編纂721年成立『常陸国風土記』の時点で既に四六駢儷体を使いこなせる教養が地元人にあった事が証明されており、その後の水戸学、筑波研究学園都市の形成にもこの常陸国人の特別な賢さという特徴は受け継がれている。問題は、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、という事の方にある。しかもそれが極端なのだ。福地桜痴によると、阿部老中に諭された烈公は徒な攘夷論者ではなく、士気を鼓舞する為の深慮の上で、表向きは攘夷を主張しつづけるべし、という立場だったという。この様な遠慮は直情怪行の徒に理解されるべくもない。我らにとって必要なのは、寧ろこの様な洞察力を自分自身の為に用いる事だろう。儒学の影響を諸に受けた常陸国風は義を重んじ過ぎた。その真面目さが深刻なほど、固有の学力が高いほど却って水戸武士道は義へ向かってひたすら突き進んだ。
我らはこの為に、利を重んじた薩長勢、西日本諸藩とは正反対の道へ進み、結果として薩長藩閥によって国政にまつわる数多の利権を彼らから奪われていった。現代日本の価値観は憲法の幸福追求権にみられるよう薩長史観の影響を受け、義の理解を重んじていないので、欧米風の利己主義を第一としている。この為に益々、水戸学的風土が保存され、忠義を重んじた茨城県の立場は不利になっていく。しかもこの様な外部からの誤解や更なる讒言、名誉毀損へも、君子らしく甘んじて反論しようともしない。ここにも、常陸国史の悲劇性という構造が繰り返されているといえよう。そしてこの様な常陸性は、いわば恐るべき風儀の構造としてわれらの宿命を背後から縛り付けているのだ。我らにできる事はこの恐るべき宿命に対して、ブッダの様な悟りを得る事だろうと我は思う。ブッダは独りで歩めと言った。茨城県は世界で最も高貴な県として、ひたすら己の高尚さを守り抜く事が、未来世代の為に最大の貢献であろう。