蓮田一五郎(はすだ いちごろう、天保4年3月5日(1833年4月24日)-文久元年7月26日(1861年8月31日))は、幕末の水戸藩士。桜田十八士の一人。水戸藩寺社方手代。名は正美。幼名は仙之介。市五郎は誤記とされる[1]。墓所は茨城県水戸市松本町の常磐共有墓地。明治22年(1889年)5月靖国神社に合祀[2]。贈正五位。
人物
蓮田一五郎の父・蓮田栄助宗道は水戸の町方同心、扶持7石で私塾を開き師弟を教育していた。栄助は42歳で一五郎と姉2人そして妻を残して亡くなったので、蓮田一五郎の祖父で老いた蓮田栄吉の腕に一家4人の命は繋がれていた。栄吉は小柄だが高潔の士風で町方同心に再勤、にも関わらず蓮田家計は苦しく、一五郎の母と姉は裁縫の賃仕事をし、また一五郎は11、2歳頃から紙の煙草袋を貼って100枚12文の収入を得て家計を補っていた。孫の教育を等閑にしなかった栄吉は、玉川立蔵[3]という者の塾に一五郎を入門させたが、一五郎は家計が足りず十分に通えなかった。一五郎はこれらの窮乏があって朝4時に起き、夜は10時頃まで内職をしてもなお苦学に励んだ。一五郎は、母が節制のため灯火を消して彼も床に就いたようにみせてから、母姉の熟睡を見計らって起き出し、灯火が漏れないよう行灯に衣服をかけながら読書、暁まで徹夜する事が常だった。母は行灯消滅の多さから燃料を一五郎が使っていると知り、火吹き竹で一五郎を打って叱ったが、一五郎はこれを恨まず却って己の非行を謝った。一五郎は翌日から彼の食事を減らしてその料金を灯火代に宛ててくれるよう請いなお読書を続けた為、母は彼の夜間の読書を許した。灯火より学習用の紙や筆、墨などは容易ではなく、水戸・馬喰町の小泉屋という油紙問屋の主人は一五郎の苦学に感じ、商品の上包みの紙を何度も蓮田家へ送り届けた。また一五郎の母の生家であった水戸・下町の沼田屋にいた彼の伯母(一五郎の母の姉)は、彼の学資に毎月2朱ずつの金を2年ほど贈った。また一五郎親類の塙重任も何かと彼を補助した。本を購うのは更に困難の為、一五郎は茅根伊予之介や会沢正志斎の蔵書を借りて書き写して読んだが、一五郎14、5歳の頃からその数は数百巻に及んだ。明治19年(1886年)の水戸大火でその大半は潰えたが、なおそのうち30巻余りは蓮田家にあったという。また一五郎が16歳の頃謄写した『日本外史』は香川伯爵の家、会沢正志斎による注疏の『孝経』一部が古澤介堂の家に珍蔵されていたという。一五郎は18、9歳頃に詩、歌、書道など年長者を驚嘆させるほど上達し、算数や絵画をこなせるほど多藝のたちだったようである。一五郎にとって独学不可の武芸は貧困ゆえ励めず我慢していたが、一五郎宅の向かい隣に住んでいた武士(武士は姓)某という友人から金子健四郎という師匠[3]に話をしてもらった。健四郎は天下の剣術に銭はいらないと言った為、一五郎は15歳頃から健四郎の門下で稽古、3年程で人に秀でた腕前となって、無念流の印可を受けた[4]。
一五郎・母のもう一人の姉は、裕福な家に嫁ぎ何不足なく暮らしていた。この姉に一五郎と同じ年ほどの娘(一五郎のいとこ)がいたが、その娘はお絹といい、評判の美人で若い時は気遣い者だった。一五郎11歳の頃、彼がこの伯母の所へ客に呼ばれて行くと、その晩にお絹が「一ちゃんは貧乏人の子で麦飯ばかり食べているから色が黒い」と言った。子供心にも非常にこれをくやしく思った一五郎は1里(約3.9キロメートル)ほどの道を夜半に一人で、我が家へ帰ってきた。それから彼は叔母の所へ進んでいかなくなり、たまに使いにやられても直ぐに立ち帰るようにしていた。その後、一五郎が15歳のときこの伯母の家へ遊びに行くと、お絹が絵本を出し「一ちゃんは絵が上手だから一枚、お姫様の絵を写しておくんなさい」と言った。一五郎は「よしよし」と言ったきり中々描かなかったので、お絹が焦れて「お茶菓子を奢ってあげるというのに、なぜ描かないかね。早くお写しよ。こんな事でもなければ一ちゃん達はお茶菓子なんか食べられないわね」と言った。一五郎はこれを聴くとお絹の差し出した絵本を滅茶苦茶に引き裂いてしまい、「お絹さんはなにかにつけて貧乏の俺を馬鹿にするが、俺は金持ちになりたくない、今に神様になってお前に拝ませてくれる」と言って彼女を散々に罵った。お絹は泣いて悔しがった為、伯母も駆け寄り「まあまあ、お前がたは年甲斐もない、どうしたことだ」と聞いた。今度は一五郎がくやし涙をはらはらと流して、帰って行ってしまった。それきり、お絹のいるうち一五郎は伯母の所へ出かけなかった。桜田門外の変の後、明治22年(1889年)5月に一五郎が靖国神社へ合祀される事になると、当時70近い白髪頭で新政府・将校の婦人、且つ昔かれの喧嘩相手だったお絹は「とうとう一ちゃんに拝まされました」と、思い出多き当時の事を語った[5]。
また一五郎は雷が嫌いだったが14、5歳頃、雷鳴中に仏前で裃をつけ跪き、物言わず礼拝していた為その理由を人が尋ねたところ、「男子非業の最期は君子の道ではなく、もとより君国の為には惜しむべからざる命だが、落雷で死んだとあっては残念なので神仏の加護を祈っている」と答えた[6]。
一五郎は孝心が深く、育ての親だった祖父や母の怒りに触れず、衣服なども大抵自分で始末、少しでも母や姉の手を省こうとしていた。一五郎は出入りの際には必ず手をつかえ、祖父と母に告げた。彼は食事の度に「お蔭様にて御飯を頂きまして」と礼を言った。また彼は祖父や母の心を傷ましめることを憂い、たまたま病気になってもこれを両人に告げなかった。彼は夜更けに家族が仕事を措くころ祖父と母の足腰を揉み疲れを和らげてやり、彼らが熟睡するのを待ってから己は勉強に取り掛かった。また彼は成長後に友人宅に呼ばれ珍しいものを御馳走になった時、自分は一品も手をつけず持ち帰って祖父と母へ勧めた。彼は元来寡黙だったが、途切れとぎれに昼間見聞した面白そうな話を祖父と母に聞かせ、彼らの心を慰めた。彼は祖父や母が病気の時には一晩中寝ずに看護し、夜中に3、4里(約11.8~15.7キロメートル)も遠くに馳せ、普段彼らが好んでいた品などを買ってきて彼らへ勧めた等、孝養に心を尽くした[7]。
ある年、かねて恩をうけてきた沼田屋の伯母[8]が大病であると蓮田家へ告げてきた。一五郎は驚いて早速、伯母の所へ見舞いへ行ったが、その夜から毎晩丑三つ時(深夜3時頃)になると彼の姿が見えなくなった。家族は変だと思ったが謹直な一五郎の事なので特に詮議はしなかった。のち、彼が師走(12月)の寒空の下、蓮田家の裏の井戸にて垢を払った足で17日間、半里(約2キロメートル)先の愛宕神社へ参拝、伯母の病が癒えるよう祈願していた事が分かった為、彼の親切を感じ伯母は涙を流して喜んだ[7]。
一五郎の祖父・栄吉は孫をどうにか出世させたく、その祈願に栄吉の好んだ煙草を廃していた程だった。一五郎が16歳のころ栄吉は80歳余りと高齢だった。栄吉は一五郎を自らの代わりに町方同心の代番へ立てた。ここに一五郎は初めて3両2人扶持にありついて世間へ出て人と交わったが家計なお足りず、内職を止める事ができないままだった。一五郎は間もなく同心勤めをやめた。というのは、そのころ打ち首1人に立ち会えば5両の手当てがある、とした同心らは進んでこれに勤めていたが、一五郎は一度お役目で否応なくこれに立ち会ったが、その残忍な職務は一五郎の清高な性質に合わなかったからだった。一五郎は「あんな役目はとても人間のする事ではない」と言っていた。その後、塞翁が馬と寺社方の手代があてがわれた一五郎は5石2人扶持で家計も少し楽となった上、前職の町方同心と異なってそれなりに文字のある人物と会う事になった為、彼はこの職が気に入り勉強、盛んに奉職した[9]。
一五郎は酒を少々嗜んだ。彼は銚子に一杯も呑めば酔い、平生はごく寡黙な人物でも多少喋ったが、その語る事は必ず楠公(楠木正成)の忠誠だった。一五郎は楠公の話になると徹夜でも語り止めなかった。その為、一五郎が楠公談をしだすと、友人は袖を引き自らの口元を隠し酔った一五郎にさとられないようにした上で、「そりゃまた例のが始まったぞ」と言った。一五郎の楠公談は人々の間で当時すこぶる有名だった[10]。
この頃、一五郎は静神社長官で弘道館内・鹿島神社神官の斎藤監物(桜田十八士の一)と出会い、非常な感化を受けた。ところで常陸沿海には繰り返し外国船が現れていた折で、大津浜事件以後に幕府は異国船打払令を出し、水戸藩内では尊皇攘夷論が興されていた。黒船来航に当たり孝明天皇のみならず日本国中の輿論が攘夷を期待した[11]が、幕吏はこの朝命を拒むばかりか却って尊皇攘夷を主張した前水戸藩主・徳川斉昭を常陸郷里へ幽閉、しかも幕府にとってそれと疑わしい者を粛清した(安政の大獄)。この暴政に忠憤を得た一五郎は斎藤らの江戸義挙計画に賛同、挺身その当派へ加わった[12]。安政7年(1860年)2月11日、一五郎は江戸へ向かって家を出たが、祖父・栄吉は亡くなった後、母は56歳、水戸・金町にいた一五郎の姉は35歳、次の姉(清子)は32歳、一五郎は26歳の時だった[9]。
一五郎は母と姉にそれとなく別れを告げ江戸へ出たが、彼が安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変に至る間に作った和歌が複数残されている[13][14]。
たらちねにまたも逢瀬おうせの關せきなればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき
あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ
かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり [15][16]
安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田義挙の直後、負傷した一五郎は同士と脇坂家へ自訴し、その夜に細川家へ、のち幕吏方へ引き渡された。細川家滞在中の取り調べで、彼は得意の絵により『桜田戦闘図』[17]を描き残した。このとき彼は故郷の母と姉へ訣別書を残し、また彼の幼児から世話になった塙重任へ後の事を頼んだ書を残した[18]。これは母への深い感謝と礼、姉への心遣い、世話になった伯母と塙への厚意を述べてあるもので、彼が人目を忍びながら二度書き初めては、執筆半ばで落涙に沈んでしまって上手く書けず、三度目にして漸く仕上がった由も記してある。この書の中で彼は、「人の一命は限りあるもの、死すべき時生きるもあり、生きるべき時死ぬもありて、仏家がいう前世の約束事、天命であり、昨年10月に大病を煩った自分は病死するより天下の為に死ぬこそ本望、御母さまは却って心をいれかえられ、かつ人間世界の常なきをお悟り遊ばしこの道お諦めのほどくれぐれも願い上げまする」と、今生に訣別している[19]。幕府からの尋問中、彼は幕吏の池田頼方より狼藉(桜田門外の変)の趣旨を問われ、委細を尽くしてある『斬奸趣意書』[20][21][22]でご承知ありたい旨、池田へ申し述べた。幕吏側では前水戸藩主・徳川斉昭を冤罪に陥れるつもりで誘導尋問を繰り返したが、それを悟っていた一五郎の方は「もし前君(斉昭)の内命にて掃部頭様(井伊直弼)を討つなら水戸藩に立場ある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた[23]。また彼は獄中で、『蓮田市五郎筆記』[24]にこの取調べの仔細を記した。彼はこの筆記を残した意図について、「幕吏の横暴はいうまでもないが、老公(斉昭)へ冤罪を帰そうとする気炎も幕府方にあり、自分(一五郎)の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らない為、幕吏による取調べの大意を書にしたためた」と自ら記した[25][26]。彼はこの間、幾つかの詩歌[27]を残したがその中の一つに、次の歌があった。
世の為と思ひつくせし真心は天津み神もみそなはすらむ[28]
一五郎は文久元年(1861年)7月26日送られた伝馬町獄舎で、幕吏の手により同志ら6名と共に斬首された[29][30]。彼が29歳の時だった。
辞世
故郷の空をし行かばたらちめに身のあらましをつげよかりがね
(別紙に)
孝道了忠信士 水 府 家 臣
文久元年七月二十六日[31]
脚注
1 常磐共有墓地の蓮田一五郎墓碑より。岩崎p123。
2 岩崎p120。
3 桜田烈士の一人、森山繁之介は蓮田一五郎と共に、文武を玉川立蔵と金子健四郎に学んだ。一五郎は繁之介の2歳年上だった。岩崎p123。
4 岩崎p115-118。
5 岩崎p118-120。
6 岩崎p118。
7 岩崎p121。
8 かつて学資を送ってくれた一五郎の母の姉。沼田屋は一五郎の母の実家。
9 岩崎p122。
10 岩崎p123。
11 福沢諭吉によると、当時の日本国中の輿論はすべて攘夷だったという。福沢p183。
12 『近世義勇伝』、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
13 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
14 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
15 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
16 岩崎p275によると、一五郎が幽囚の間に母を思い、国事を憂う情を寄せた詩歌。
17 岩崎p285、扉の頁にある絵。
18 岩崎英重によると、「これを読んで泣かざる者は人でない」という。岩崎p282-283。
19 岩崎p276-282。
20 桜田烈士『斬奸趣意書』、2014年4月閲覧。
21 太田p182-194。
22 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
23 この箇所は、岩崎p245。『蓮田市五郎筆記』(『評定吟味書』)による蓮田への尋問の詳細は岩崎p243-294。
24 この筆記を、岩崎英重は『評定吟味書』とも言っている。これらの書簡集は、塙重任から三条実美の手を経て、「忠魂義魄櫻田烈士蓮田市五郎遺物」と書簡集を納めた箱に大書され木戸孝允家にあったという。また塙はこの一五郎筆記(評定吟味書)を事前に写しておいたが、この写しは明治42年(1909年)11月28日栃木県庁で特別大演習の際、母姉への訣別書と共に明治天皇から閲覧されたという。岩崎は「事ここに至っては蓮田一五郎の霊も無涯の天恩を地下に感泣したであろう」と記している。岩崎p285。
25 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
26 岩崎p248。
27 岩崎p287-289。
28 岩崎p289。
29 蓮田は同士6名と共に斬首された。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
30 ニコニコ大百科、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
31 文久元年(1861年)10月のある日、絹八丈の小袖、墨染めの法衣を着た50歳ばかりの僧侶が蓮田家を訪ね、「拙僧は蓮田氏から頼まれて居る物が御座って、今日持参仕った」と一封の書を懐中から取り出し、一五郎の姉・清子へ渡した。清子が座敷に入って母へその封書を渡して再びそこへ戻ると、僧侶は既にいなかった。一五郎の母娘は封書を開けると彼の辞世と別紙に戒名が現れたので驚き、日暮れまでその僧侶を探したがどこの宿にもいなかった。がっかりして引き返した母娘は、一五郎の遺物を仏壇へ納め香花をたむけ、なお彼の回向にその夜を明かした。岩崎p287。
参考文献
岩崎英重『桜田義挙録 維新前史 下編』吉川弘文館、1911年
太田龍『長州の天皇征伐』中央精版印刷、2005年 ISBN 4-88086-189-8
福沢諭吉『福翁自伝』岩波書店、岩波文庫、1978年 ISBN 4-00-331022-5