単一理説の吹込みが政治行動の偏りと極端化につながるという一般政治史の真相をかんがみれば、哲学部はつくるべきではない。それは各人の思想に留め、実証で確認しきれない個々の立法権利者たる倫理判断の問題、つまり立法会議へのわたくし民からの批評の能力とされねばならない。
たとえばミルが助言した売春禁止法への意見(⇒売春の自由は存在しない。なぜなら男性の不品行が原因ならそれ自体が公共の福祉と矛盾している、という忠告)みたいに。それこそ哲学ということ、個人の思想の自由の正当な行使となる。
哲学は批判的、つまり実証される知識同士をくらべて判るためのものだから一律に教えこむことはできない。西周による‘学’つきの訳語はあたかも勘違いさせやすいがphilo?sophyは極論すれば自由な習慣、あるいは単に「智恵」の意味しかない。智恵はゆたかな判断をできる物わかりよいひとへの称号なので、教え込みえない。
理性はいつも自由でなければならない、と鴎が言ったとかいわないとか。勿論ジョナサンではない。
市場干渉をできるだけは否む寛容経済のもとで行政の実行問題は、選出した行政人とその部下にまかせておかねばならない。職業的な専用の哲学者はどうしても特定イデオロギーをもつ政党により御用化しやすく、大学の中では権威づけられやすいので危険なのである。
同じく、いまの県政が県知事号令?で道徳の授業とか一斉に平気でやってるのはやばい。
再びミルがいう様、「過去の思想の事実」にかぎって、誰がなにを考えていたか、いまはそれへどう考えてられいるかという「文献上の事実」のみを教えるのが賢明だ。それなら特定の理説への狂信、つまり単一宗教を県政偏見からうえつけられる可能性、偏見を伴う理説の解釈学化を回避できる。
というかこの回避のさがをどれも実証できない虚偽を含む暫定理説間の比較検討の習慣でみにつけられる。
過去の思想からより優先しておしえられるものの選択権利は、むしろ政府に関わりある教育委員会の外部に置かれたほうがいい。でないとかたよってしまいかねないのだし、ハイデガーとナチズムの正当化講義だけされても内からは文句いえないっぽく、まことにいまの体制化はやばい。
やはり学校では実証科学しか教えないほうがいい。地球内の人類へは自然知識は域内で似た法則性をともなってほぼ共通の智恵となるから。