2011年2月21日

県内大学の改組論

県内の大学進学以降の過程での発明発見を誘発するに、国立大系の文理別の体制をつくりなおし共通試験での総得点のみをとえばどの分野課程へも自在に進学できる様にし、しかも年に数回以上試験を行い、その内のいちどでも必要得点以上をとれれば合格あつかいにするといい。

いまの国立大ってか旧帝大中心の受験システムは、戦後の型にはまったあまり使えない官僚をつくりあげるには向いている‘完全な科挙最適’だが、これは官僚主義の推進にしかつかえないといい加減さとるといい。そしてここにかかってる機会費用こそ次世代産業への資本転換が停滞する最悪の元凶。
米英での、特に米での発明、英での発見の多さはより柔軟で多岐な進路がとおる社会の教育組織に因果がある。
英のケンブリッジとオックスフォードさえ自由に生徒がえらべる(つまり得意な)二三教科の試験しかないらしく、しかも多くの学生が入学前に一年間の休みをとる。これはいわゆる受験疲れからくる学生放蕩の発生をさけさせていて、大陸旅行が慣習だった時代からつづいているらしく、広く社会奉仕や観察をさせる見聞旅の過程で一般世間を眺めさせ、リフレッシュした頭で勉学にふたたび励むためのもの。*1
新卒至上主義な新品人材はこづめ生産過程への盲信では永遠にでてこれない習慣で、ノーベル賞級で大騒ぎする大馬鹿民族どもは猛省すべきである。鴎いわくね。というか鴎はしゃべりませんが。

なぜ東大から決定的発明発見がでないかをみれば、そこが官僚主義システムへの最適化組織だからで、実際につかえない石頭も非常に輩出してるのでこれは明らか。といっても東大さまさまだからばれてはないみたいだが、
天下りをしてなんとも感じないのは馬鹿のほか形容がない。まあそれがいいすぎなら、科挙野郎といえる。フランスか中国か。

東大生が受験馬鹿か受験天才のあつまりゆえ広い視野や包括的総合判断力をみにつける機会が少ないとの指摘はかなり昔からあるが、これは科挙にならった官僚育成システムがそうさせている。茨城県がまねする理由は特にない。
まねしたいひとをとめる権利もないが、官僚育成が至上命題なら専用の科挙大学でも県政自身でつくれば如何が?
それとももうあるのでしょうか? まこと旧帝大様様でござります。ふざけているのではない。

平和主義のもとでは科学技術面での進展が決定打となる。よって文理の別を即刻撤廃し、進路の多岐と試験制度への古風な固定観念、つまり年末一括で行う科挙な方式を改めるべき。学制や教育委員会とかがやらねば自分で。その流れを率先つくるべし。

で、学生であれ外部生、飛び級趣味者、社会人、無職や主婦であれ試験の機会を簡単な費用さえ払えば何度でもうけられる私営的な体制へかえる。
��もし体制が先にうごかねばわれこそは、って先鋭が別個にテスト機関とか生徒や先生、塾講師協会からのクラブをつくってでも流れをつければ次第におおむね組織がわもそうせざるをせなくなるはず。どちらにせよ営利団体らにすぎないので。)
 今のところはセンター試験しか特にないみたいだから仕方ないが、いずれは私立で多様な傾向をもつ試験機関を県内進学可能な公認試験機関へ一定条件で格上げさせ、それらの型にはまらない学資から、より多彩な知的才能をいかせる県の世界へつくりこまねばならない。

順位制度に似た特定の学識階層の固定化はなによりさけるべきで、なぜならそうなるといわゆる儒教階級の罠にはまってかれらの自己神格化がはじまり、学歴社会の暗面はびこり東大中心なアカデミズム政争に、茨城県内の大学ら教育組織さえまきこまれ、で関東一円の停滞にいたるだろう。すでにその序曲はあるのだろうけど。
この真逆に進めば大いなる栄えの発展が導かれるわけ。

とかくあの受験緊張感はのどもとすぎれば系だが、若い精神には無駄な緊張であり、まだ先がある学習過程でのストレスはまったく無益すぎる。そのつかれる分の神経を、より多元な教養と異分野学習へつかえれば皆どれだけ賢いかわからぬ。
自己目的な受験勉強というのは無益か最低でも愚劣な科挙風習であり*2、本質なのは「より高度な発明発見への基礎をつける」ことだ。官僚は受験した段階又は修学の証拠を自らの箔づけに利用してるにすぎず、本末転倒なのである。
ゆえに試験される範囲の学資がこの基礎と合致か調和するばあいにかぎって、受験会社も市民はつかえばいい。
 もし官僚世界に一生で一度もかかわらない人間なら、まったく受験など行わない方がいい。そしてビルゲイツをこえる起業家に先陣きってなればいい。ならなくてもいいけども。しかしそれには決定的な技術革新をみちびくたしかな知慮がいる。だから勉学はいつも重要。単に自主自由な意欲からの勉学が。

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*1 尤も、アダムスミスの様な否定論者もいる。たしか国富論の中にあった。曰く大陸で遊んできて悪い習俗をみにつけるだけだと。まあアダムスミスは東北人みたいなものなのでそれも一理ある。石川啄木とか太宰治みたいのみてれば、超田舎者はいきなり大都会へ出してはいけないのだろう。故に「信頼できる家庭教師同伴」かなんかを勧めてたかないか。実際、浪漫主義時代の理想論な教育書として有名な『エミール』でもそうしてた。だから一律に勧められるものではなく、ある程度しっかりした子供へしかその大陸見聞みたいな息抜きの旅行はおこなわせてはいけなく、道徳心がよわそうな子は自宅住まいの近場に置いて、少し旅行にいく位にしておいた方がいい。
しかし学習意欲の維持にリフレッシュ効果が詰め込み効果より大きいのは、北欧の学校、小学校から中学校の間かに補修年度をもうけていることでもわかる。今の日本の学校システムはストレートを尊びすぎているのはまちがいない。

*2 最高にみつもっても共通知識をたしかめる手段にすぎず、才能とみても暗記を主としている間は学術進展の為に害しかない。もし教科書やネットを道具として試験問題を解かせるとしても、一回にかぎって時間制限をもうける意味がないし、あるとすれば暗記家畜つまり悪い意味で官僚をつくることだけだ。
それなら官僚専用の課程をつくればよく、柔軟で独創な洞察をまえおきとする科学や技術への基礎づけには害しかない。「官僚育成課程と学者育成課程は分けられねばならない」。