2011年2月10日

市政のあやまった優先判断への苦言

市からの答弁で「書籍電子化はあとまわしだ」みたいな発言があったが、これはまちがいと言っていい。

小さく、縮小するのがまちがいない市だからこそ教養度が最優先課題なのだ。他のなにより。4000万かけてふれあいセンターの映画観覧席に授かり効果満点の娯楽出費した上、これからも1、2億を映画製作(どうかんがえても私事である)にポケットマネーで投資するおつもりなのをお忘れになられたわけではあるまいが。

 くりかえすが、あと50年後の北茨城は5000人規模のまちになるしかなく、それはほぼ必然で、いかに出産祝いとかで早熟ヤンキー層をふやそうとかわりない。かれらは所得階層の関係で上位に位置する可能性も低く、結局は余り要員として各種の3K的労務につかわれるが、国内からさえも敗退していく確率のもっとも高い層である。希少価値もない。ふやそうとすれば10代なかばで勝手にふえてしまう。社民主義的市政方針はだれが出しているのだ? 止めた方がいい。なにも立派なことにならないのだから。

重要なのは、所得階層の上位数を市の単位でさえふやす工夫だ。市政としては市場介入や社会淘汰への干渉をやめ(だから当然、子供手当てやら出産祝いやらへのあとおしも市税の使い道とみればかしこくないのだが)、「教養度を高める」あらゆる方法を率先とるしかない。

そして書籍の電子化など、単に二名くらいITリテラシーがゼロではない標準的職員が一ヶ月ほど勤務時間をさけば十分できる程度の仕事量でしかないのであり、市の側など館員へ命令しておくだけで済むわけだから、優先度からいえば最高に高い。他になにが彼らの中で優先なのか問い詰めたらよかった。遅れるほど我々全員に不利な政策と態度である。

 教養度、というとき符号化理論の側面はいれてない。しかし、大企業や政府が学歴選好の差別を合理化している間は、市場全体としては符号化を無視しきっても有利とはならない。個人の自由とは別に、うまく「学歴符号化の利用」をほどこす方が政策そのものとみれば適応度があがるのは仕方ない趨勢だろう。もちろん、それを目的とみなすのは能力擬態をふくむがゆえに社会淘汰の方式としては浅はかと知った上で。
つまりは、市をみわたして後天的学歴獲得ができるかぎり試行錯誤なしに容易となる様に、『教育投資への底上げ』としてもっとも経済的な各種の学力向上への環境条件をあたえつけるのが、これからの市政の最大の課題なのである。擬態された能力と本物の才能はその高度な環境の中でこそ問うがいい。さもなければ、縮小均衡どころか貧乏かつ低文明度のドウシヨウモナイ市にどんどん漸近してしまう。実際、さらなる僻地ではそうならざるをえない場所がかぞえきれないほどあるし実際そうなるだろう。一刻の猶予もない。書籍の絶対量が少ないからこそ、また図書館の規模が空間的に小さいからこそ、電子図書館化はきたいばらきでは最優先課題なのである。まちがいない。

書籍をスキャンしてPDFファイルをホームページ上にアップロードすればよく、ダウンロード・キーに図書館でいまもつかってるカードの番号を入力させればいいだけだ。すこしのITリテラシーがあれば一日でできる。著作権の問題については、「著作権表記」を出版社名と著者名でコピーライトふればいい。別に法的問題はない。なぜならいまの段階でも人々はそれを借りて読んでいるわけで、実態に変化はないのだから文句のつけようがないのだ。無限に公開さえしなければ著作者の権利は守られている。
もし著作者や出版社が文句をつけてきたら、ダウンロード・キーを登録制度にし(つまり何冊借りている状態かを把握できるタイプにし)、「1週に10冊まで」といまの貸借権とおなじレベルまで譲歩すればいいが、すでに実現した電子図書館もあるのだから、まずそういう事態にはなりえない。
なにより図書館側はすでに一度書籍を購入しているのだから、かれらとしても文句はいいがたいわけである。もしそうしてくれば、より電子化に進んだ態度をもつ出版社を我々が選好すればいい。で案の定 出版社協会みたいのが全体として圧力をかけてくれれば、さらに一般な書籍ばなれが進むだけのことにすぎないのでかえって庶民としてはうれしい。電子版のほうが安上がりに届くのが、アマゾン・キンドルやグーグル・ブックス、アイパッドの普及ですでに明らかなのだ。資本を偏って持てる出版社におもねる必要は寸分もない。