2011年2月20日

理説と政治

これまでの人類史を省みると、特定の理説かイデオロギーをもたずにやってきた政治集団が戦争に勝つ確率が高かった。理説なしでは国がなりたたないのかもだが、理説が一つへ結晶してきた時は複数の理説が錯綜している時よりも結果が悪くなっている。

殆ど歴史学のはなしだが、この「単一理説悪因説」は知恵としてもっててもいい。その罠におちいった場合、集団が多様な意見や衆議の中からよりよい選択をとるという臨機さad hucさがきえているはず。
慶喜公の例をひくと、臨機さがあれば最悪の事態を避けることができる。それが熱い人の間で全然評価されてないどころか小ばかにすらされてるのが冷笑もの。ウィキペディアよめばわかる。で、もし攻勢にあたってはより合理的な選択をとれるだろう。

この市政のいまの問題は、いわゆる集団浅慮かgroup thinkの罠に平気でおちいってる愚民さにある。注意はくりかえしたにも関わらず自浄努力で、あの全員協議会なる実質な市長独裁のうら手順は回避できていない。この全員というところがいつもいつもくせものなのだ。一丸とは鰯の癖であり最弱ということ。
一部が崩されたらおわりな全体最適化をしているから、合理的選択をたえざる議会での質疑応答から柔軟にえらびなおすことができず、別にえらばれてるのでトップダウン式にいつきやすい市長のまちがった独断であれ、そのまま実行されてしまうのである。言うまでもないが迷惑をこうむるのは市民自身。
誰であれ、一市長の面子など市民らの合理性よりはまったくどうでもいい瑣事細事にすぎない。それは公事ではなく私事に属するのだから。日記に悔しいとかあっぱれとか書けばいい。もし市長がかわれば何もなかったことになる一時の感情、苟も自己反省なき子供じみた正当化にすぎない。ときに埋没費用こみの。
大人の市長なら、まちがった時には素直にその道筋を修正し、まちがいを説明すれば済む。それだけで全てがよくなる。全能人などいない。大体、市税をもらい市の為に働く義務があるわけで、まちがったら修正しないのは単なる迷惑行為である。勿論、市がまだ致命的な誤りをしていない前提でいうが。

最近みてたところでは割と無益くさいふれあいセンターの豪華観覧席への4000万だかの出費と、光ファイバー回線を総務省の一進一退の動向を十分まてずに2億近くつかって急いで全体配置させてしまったという二カ所の、財政不合理があった。説明責任か言い分をきいてもない。なぜ使うかの理由が、情報隔離の脱却程度や映画文化の振興とかいう有り体のたてまえしかない。これを修正させなかったのは市議会の機能が十分でないからだ。事細かにといつめ、矛盾があれば罷免権を手にやめさせるべきなのだ。

 極論すると議員以外が市議会で質疑できる、「外部質疑制度」がもうけられるといい。勿論十二分に時間を割いて、市議会の場で。
さもなくば牛耳られた市議会本番で面前と市長の理説を批判なり脱構築できるのは相当の度胸で党派ぎらいの狷介人だけだろう。勿論そういう人が必要なのだが。

 最初の学説にもどるが、「理説はあとづけ」でいい。これが人類史の奇妙な真実だ。だから勝って勝って勝ちまくることが全ての前置きにある。それさえも行えない人種は滅ぶのだ。その後に、生き残りの正当化のためにこそ理説が唱えられるのだし、そういうときしか政治は本質で成功しない。