域内所得をあげることは、人口密度の漸次な低下とすこしも矛盾しない。磯原所得となづけた値にしても同じく、所得水準の決定的な高さということが前提となってのみ働く。
教養水準を高めるのは所得水準の決定的な高さよりも、相関するが或いは優先度に於いてすこしばかり低いかもしれない。やばくなりそうな趣の家の姿も全然皆無というわけではないので。言うまでもないが、市政自体の瞬間消費的な娯楽への過剰出費はお話にならないとして。
しかしながら雇用の面、また仕事の面で知的啓発の度合いと多く所得は比例すると考えられ、要するに「よい教育をうけた者はよい所得にいたる」連鎖反応が底流としてある。しかし、よい所得があればよい教育をうけるとは限らない。
だから、域内所得の向上へ決定的な必要条件なのはその地域での教養環境の高さなのだ。これが全ての前提にある。その後、よい所得が多くの場合 連鎖してくるものなのだ。
仮に域内所得の高い、しかし教養環境の低い場所に一人二人まれに金持ちがいたとしよう。かれらが二三世代のちにそうでありつづけられる可能性は非常に低いのが十分予想できる。逆もしかり。
要するに
教養環境は高い域内所得の必要条件
かつ
高い域内所得は教養環境の十分条件
ゆえに
教養環境と高い域内所得は教養と所得との善循環の必要十分条件
こう考えれば、図書館の設備投資をケチるのは最低最悪のやりくちだと分かる。それは貧困の連鎖につながりこそすれ、すこしも徳がないどう仕様もない劣等生を時が経つほどふやすばかりである。
人口密度をあげようとする市長の判断は、これらをよめば100%誤りだと断言できよう。きわめて単純に人口密度増大は総税収増、という目論みがあるのだろうが、不幸や貧困の連鎖とひきかえであるのを自覚しておられるのであろうか。いやはや独裁者風な暴利の悪意としかおもわれませんね。市が繁栄するのは人口数によってではなく、文明度によってなのである。
鴎にすら悟られている。それより図書館設備と奉仕の充実や、息抜き用に運動場や校庭の全面解放と無償の整備(勿論、民生員などへの税の再分配とかで)を率先行うがいい。なにより市の為に。
あと、ここ最近保健センターの裏手というかあの市民運動場へ抜ける道路の汚れかたがまことにひどい。上述の居場所以外で育てられたトラック運ちゃん共がおバカすぎ、ぽいぽいつぎつぎごみをすててなんとも感じていない。罰金制にし、かれらの毎朝毎晩の現行犯で一人あたま数万円ずつ徴税したらそれらの用費もすぐまかなえるに違いない。通学路なのに。こういうわけで人口密度イコール幸福でもないのがわかろうというもの。かれらが大金持ちならなおさら。