2011年2月4日

市立大学の新図書館空間代替案

非常に単純な案なので余りうけいれがたいかもしれないが、前からおもってた市内やここ付近のひとらの教養の底上げという課題へ、最もいいのはあの市立図書館をそのまま簡易大学設備へと流用してしまうことだ。

市立系の大学案は投資と返済にギャップがあるのでこの規模の小さな市では今のところ大都市より不利で、かつ難しいのが施設費用の工面だ。周辺の市へ共同運営を条件に資金協力をお願いする方法もあったのだが、そうしなくてもできる案をおもいついた。
 よそおいより「実をとる」という大方針へかえれば、あの図書館をそろそろ増設か補修か増築か改築かするっていういまの時に、ついでにけっこういい講師室、或いはもちはこべる椅子程度を並べたみたいな簡易な講堂をもうけてそこで定期講義をはかってもらえばいいということにきづいた。
ふれあいセンターを無理矢理つかうという手もあるが、その種の文化講演会や演劇みたいなのとは別に「本格的定期講義」をしてもらう機会があればいい。
実際、市内の学校を退いた先生が研究会として図書館の一室を利用していたことはあったのだからそれを国際化し、聴講できる権利を交通できる周辺地域へ大幅に公開すればいいというわけだ。
この市民圏の特性としてはじめは様子見でぽつぽつとしか集まらない可能性があるが、繰り返し講演してもらえばその知識が市内に到来した分だけ市内ふくむ周辺の國はかしこくなるに違いない。

自学自習スペースはどうせもうけるはずだろうから、一番いいとおもうのは開架書庫をふくむ巨大な一室空間みたいにしてその一角で公開講義をしてもらう日常習慣をつける。これで、ひとりでにひらかれた教養の土壌ができあがるとみた。重要なのは同じ講義をうけた人々の輪、友人関係、哲学的友情ができるということだ。
で、日頃の勉強は無料でみれる放送大学を受信できる視聴覚ブースが複数あればいい。はっきりいって普段の学習というものは選良が一人でさっさとする方が効率がいいもの。どうせ競争社会なのだから意欲ある人だけやればいい。同級生から足をひっぱられるという公立系の学校の欠点もこれで解消できる。
��学業の補完は福祉国家式に甘えさせるのではなく、個々人の意欲にまかせた自学自習によって賄うべき。)

定期試験や学位授与という機能は各自がその求めに応じていろんな機関をつかえばいい。そういう掲示をしておけば済む。学位認定の機関もあり、放送大学へ実際に入るとか、TOEFLやTOEICなりセンター試験ほか各種資格試験なり、論文投稿先としての学術誌なりある。独創の為にいわゆるゼミ形式が万能とはいいきれない。同時代に共通な学問の基礎は真似るしかないだろうが、それは他の講義を聴きに行くなり教授への質問時間に行うといい。

 以上の様にすれば大学の施設がになっている本質な機能はえながら、ほぼ費用は節減できる。なにより図書館増設の機会を一工夫するだけで大幅に市の勢いを改善できる。一室空間という意味では妹島氏らがつくったラーニングセンターが参考になる。
あの種の開放的なたてもので、国内の人にかぎらず超一流な教授(彼らは意欲や依頼目的に感じ入るのであって必ずしも金銭の額めあてで講演するわけではない)に公開講義をいつも依頼するだけでいいのだった。その意味では館長か秘書へ最低でも学芸員資格以上の、できたら学識者として一級の素養がいるだろうけど。
研究会とかサークル活動とかは外部で勝手にいとなまれるものだろうし、この自習中心方針なら、いまの試験難卒業易な日本内の各大学にはびこってる変な新入生勧誘やら遊びほうけみたいな堕落世界も興りえないだろう。

市長が映画製作費の一、二億をぽんとポケットマネーで出してくれる太っ腹な市だからこそうまれた案。なにしろ共用パソコンや無線LANホットスポット概念さえない。光ケーブル敷設のサンクコスト(埋没費用)による後付けの正当化はみなかったことにし、『初期投資分の回収費用は諦める』ことにした方が合理的。
副市長の握った財布の紐が、一連の無謀な選択みたく外部監査機能をもってないのがこわい。かもめや私民の指摘にそれを依存しないでできるだけはやく支出チェック機能を導入してもらいたいところ。癒着をめあてとしない質のいい引退した社長(投資家ではない)や有能な経済学者が行政組織外部のご意見番にいればいいのだが。