2011年1月30日

日立市立大学院大学の構想

日立市に一億の寄附が確約されたという記事があったけど、自分が思う最善の使い道は市立大学院大学などの建設を通して、いわゆる研究者への投資材料にすることだ。特に、工学の素は理学分野の偶有結合なので、できるだけ学際さをもつ理学専攻の大学院づくりが用いるにはいいとは思う。もつ日立市にとって。
がいままでの大発明者は学者タイプではなかった(器用さは知識量に正比例するとは限らない)ことから、職人系や技術者系の一般市民にも気軽に出入りし易いタイプの。セジマ氏の設計は明るく開放的なのでたてもの的には最も向いている。

次の議論は重要な社会学やそれ系の哲学の命題なのだが、「教育への投資は必ずしも経済上の返済へのそれではない」。つまり過剰投資になる場合もある。いわゆるオーバードクター問題もこの典型。
 又、マイケル・スペンスなどの経済学者がシグナリング(符号づけ)を正当化する理論をはやらせている。要は高い学歴への企業側の差別的人事や選り好みは符号が優秀さの目安になる限り合理的だというかなり単純な命題だ。
言うまでもないがこれはそもそも矛盾している。なぜならシグナルはそれ自体が社会的優秀さすなわち有能さの目安ではないからこそ特定の学習成果の証を誇示させるものだからだ。全く学習過程なしに同じ成果を上げる者(事実上はより手際よくということだが)は天性が勝る分だけより優れているといえる。

例。もしアインシュタインが小学校も卒業していなかったら人々は彼の理論を優秀さの証とみなさないか?

実はこのシグナリング理論は上の「教育投資の非十分条件さ」と連環している。結局、符号あれど無能、という場合その文化形質へのえり好みは事実上、無駄にして無益な作業でありいわゆる奇形化への前兆になっていく。
��生物学でいうランナウェイ仮説(暴走仮説)というものがある。孔雀の豪華すぎるとべない羽みたく「使えなさ」も自己目的化されると連続して配偶者側、特に雌からえり好まれつづけてしまうという理論だ。
 もし社会人事にもこの仮説が多少あれ当てはまれば、中身は使い物にならないが一定の学習課程への従順さだけが淘(と)がれた奇種、つまり「科挙種」が形成されそれは同系配偶により加速され、いずれは自身の無能さの故に淘汰され敗退するであろう。官僚主義の暗い面といえる。)

これらの見解は、自分の出すとりあえずの結論をいえば、『社会淘汰に任せよ』ということにおちつく。
法違反者への警告刑罰や、道徳行動の価値を無視はしないが、その根底な規律では特定の理説やイデオロギーへ偏向させず社会内での自由放任状態をまっとうに続けてさえいければ、無能さを覆い隠す偽のシグナリングも自然に奇種化へつながりやがては一連の役立たない習性ごと敗退し消えてしまうものだろう。
裏をかえせば最もよくないのは、群れを司る政治側がなんらかの特定イデオロギーで社会統制やら市場操作、あるいは市民干渉をはじめることだ。公共投資を否むわけではない。公共福祉に反する自由すなわち公害や我侭(わがまま)も規制されねばならない。が単に、いまの菅政権が平気でやっている新卒待遇への贔屓のひきたおしなどわたくし企業間(勿論、学校もいまや法人なのだから)の人事問題へ介入しないことだ。公私分別が必要。
いいかえれば権利に於いて公私混同さえしなければいい。それこそが最も不自然な社会につながる限り最もおろかしい結末をもたらす筈だから。例えば植民地侵略や優生学の実践にかつてみられた類いの特定人種や形質への虐待とか。*1

もし女性に本当のかしこさがあれば、表面的なステータスや立派そうな学歴、こういったごまかしではなく真実の有能さを配偶者選びへの目安にするだろう。そして擬態された符号ではなく真実にすぐれた結果を残す血統書きにその名が入るだろう。
 日立が理学系の大学院大学*2をもし築けばそこへ研究者系の誘因が生じる。最低でも雇用は生まれるわけだから。
しかし、真に重要なのは他を勝る研究結果を残し実績を上げる事だから、世間に流行している学歴による能力擬態と軌一となってはいけない。なぜなら科挙種化による敗退へのわだちでしかないから。故に、自分がいち北茨城市民として思うに「開かれた大学院大学」みたいな先進的なモデル事業を期待する。一億だから気をつけてつかわないとすぐなくなる規模とは思うけど。

ちなみに北茨城市民は日立市内の図書館からは書籍を借りれない。早速門戸を閉じられていますね。

*1生物学のはやりでいう群淘汰思想の社会化はきわめて危いということ。
*2理学の土台は数学・物理学・生物学であり、その上の基礎として天文学・化学・社会学がある。新たな発明に役立つ素はこれらにある。故に設計や経営マネジメントなどの開発系の応用要素は先進工業地帯としての日立市場そのものに任せた方がうまくいく。

2011年1月26日

メディアのかたより

やはり東京というか江戸メディアは国際常識からとても外れていて「信用に足らない」。東京系のマスメディアのみで情報摂取している人々のあたまは9割がた狂っており東京偏見で洗脳されているといえる。

旧連合国からみた原爆ネタに激怒している方が笑える。何を深刻に批判したつもりになっている江戸メディア連中なのだろうか。自分らがアジアで何をしたかも、大英帝国やアメリカ人、フランス人らが植民地で何をしたかもわかった上で原爆ネタ返しとかなら真っ当とおもうが。
冗談の才能がないとは恐ろしいことだ。考えに余裕がないということだから。本当に反応すべきなら「で? 捕鯨船は引き返したの」というところだ。之で受けるなら本物だろう。

やはりBBCを入れるべきだ。あきらかにレベルの大変ひくい江戸系マスコミよりはるかにすぐれた見識を示していると言っていい。
 国際的というのは民族史も含めて全てを冷笑できる立場。国を客観視できればあんな些少な問題で大騒ぎするのは馬鹿げており、国際人権規約にまつわる精神的苦痛への遺族保障でも大使館経由で要求したほうがよっぽど為になる。

2011年1月24日

工場への定期検査条例案

以前、旧応援団blogで指摘されていたので市の広報が取材ははじめたみたいだけど、工場の排出物質なり原材料なり排出熱量なりを市の側で計算するか、かなり頻繁に定期検査する義務づけを条例で決めた方がいい。公害物質の定義も独自で決めたらいい。
工場ぬしがわからの提出義務では虚偽も十分可能性があるので駄目だが。
中郷インターチェンジ辺にも誘致したらしいが、一切中が伺いしれない独特な立地の工場も実は市内にはあり、極論すれば「非常に危険」である。

ひとたび事件が起こればもう手遅れだ。負のイメージがついてしまった某公害事件の市と似た轍を踏むわけにはいくまい。これまで共存共栄できていた風にみえたのも、小規模で比較的初歩な技術の産業ばかりだったからだろう。瓦づくり級の。

大体に於いて定期立ち入り検査の人員づくりだって一つの雇用創出なのだからやればやるほどよい。過剰なほどやればいい。安全率があがってもあがりすぎはない。
研究所のたぐいへ民間委託することもできるが、できるだけ癒着の可能性がない県内ナイシ近隣諸地域へ依頼すべきだ。それが誘因となって化学系学術能力の向上へもつながるだろうから。

2011年1月23日

No title

自分の経験からいうのだが、不況の最下点のころは学校の中がすさまじく荒れる。いじめは当然あるし、何より酷いのは教師が抑圧されているそのはけ口を生徒への八つ当たりにするところだ。要するに教師が暴力暴行なりを平気でしてくる。無知な生徒へ。

僕の場合、磯原中学校なるところで密室暴行を受けた。そのときの教師は 八重樫一夫 高野陽子 そしてもう一人は新任の若い体育教員系の男だった。その人物をみれば分かる。
彼らは僕らを一室に閉じ込め、正座させ、暴言を吐き、自白を強要し、脅し、挙句には僕ら生徒の頭などを殴る蹴るの暴行をし、僕を含む生徒の名誉毀損および侮辱をし、スリッパを投げつけ、黙秘権を蹂躙し、嘘をついて難を逃れた生徒を見逃しにし、虚偽含む自白を僕らへ強要させた。冤罪を含む暴行を当の教師から受けてあまりの不条理に涙を流した未成年者の僕らからの反論はすべて封じ、密室でくりかえしくりかえし頭ごなしに怒鳴りつけて少しも恥じていなかった。今も恥じていないに違いない。
彼らが生徒指導という名目でこれらの罪業を犯しながら、僕を含め不安定な思春期にあった我々の心の傷つきすなわち「精神上のストレス障害」へは一分たりとも賠償をしなかった。これは真実だ。

 僕がこういう経験をしたことから、いまの現状の磯原中学校その他の義務教育環境でも、同様よりさらに最悪な罪業が平気で犯されていると自分は確信している。倭人とはその程度の生き物なのだ。閉じた輪にいれこめばどんな罪でも少しも反省せずに行う。だから、我々がすべきことはその「風穴」をつねにあけ続けること、つまり外部批判と内部告発を徹底して続けることだ。

いま現状、あの頃の僕とおなじく磯原中学校その他の市内の義務教育環境で死ぬほど傷つきストレスのあまり自殺しようと感じている子がいるとすれば、その実情をどんな小さなことでもいいので、外部へ表現してほしい。このブログのコメント欄でも当然いい。とかく、親へ告げても駄目なら市や教育委員会へ、それでも通じないなら県へ、県でも駄目なら国へ、国でも駄目なら外国へ、大国へ国連へ、とその風穴を広げて悪邪をあからさまにしてしまうしかないのである。
いまの市でいう
http://www.city-kitaibaraki.jp/modules/government/index.php?content_id=41
このコメント欄へ本当にあったわるいことを書きつけるだけでも少しでも違ってくる。
��1年に3回「広報北茨城」に掲載の「私の提案」専用用紙のほか、
��「市長へのファックス 0293-30-1350」や「手紙」、下記の「メールフォーム」でもお受けしています。
こう書いてあるので手紙でも上告すればその教師への解雇なり厳罰なりが及びうるだろう。

以前の記事でも描いたが以下再掲する
県への相談はこのアドレス
keisoumu2@pref.ibaraki.lg.jp

警察安全総合相談センター
月曜日~金曜日8時30分~17時15分
��土日および祝日は留守番電話対応)
029-301-9110

他にも内閣府の総合相談窓口があった。
http://www8.cao.go.jp/youth/soudan/index.html

最終的にこれらによってあれらの教育機関をつくっている政の方が刑事罰の方面で動かなければ、まちがいなく自ら民事訴訟に及ぶしかない。

 自分はあの頃、その『起こったことを表現する』という行動に思いが至らなかった。だから今まで逡巡してしまったのだが、今となっては確かに分かる。あの頃の自分は無知だった。そして自己表現によって状況が変わるということが、子供らしさのあまり悟れなかっただけだった。

もしあの頃にもどれるなら、あの段階で某教師三人をあいてどって訴訟を起こせばよかったのだ。ただ一人でもその行動を起こせばすべてはもっと善くなったかもしれなかった。しかし自分は強い内向性のためにそれを抑圧して表に出すことはなかった。同じ様な性格をもった市民性に理解は及ぶので、出来る限り表現能力を高める工夫をしてほしい。詩をよむなり文芸を知るなり、あるいは美術音楽そのほか現にある表現の実例をみてまねる。既存の言葉、これをまねて自分の内面を表明するだけで状況は変わるものなのだから。人権として表現の自由は保障されているのであり、特に学校という閉じた社会でなにがあったかを精確に表ざたにしなければならない。あれは時によって、あるいはつねに悪の巣なのだから。

2011年1月22日

工学

 空気撹拌の機能もかねて、既存の扇風機の首をほぼ90°頭上迄あげられる様造るべき。エアーサーキュレイターを別に買うのはあまり合理的でない。

2011年1月20日

磯原経済学

 従来の経済指標では、
1.中古耐久財の取引(仲介業者なし)
2.市場価格のない財や奉仕
3.公共奉仕
4.持ち家の評価(家賃除く)*1
5.質の向上(つまり物量的でない向上)*2

は、算入されない。これらを磯原指標となづける。かねまわり中心社会からの脱却は、このことだったと定義できる。
��域内総生産\域内総所得)-磯原指標以外の価値
この値が高ければ高い程、その社会の実質家計は良い、と言える。こうして家計が豊かになることは必ずしも金回りのよくなることではないのだ。

*1 近代日本の特殊事情として、持ち家は経年劣化しか評価されない。しかし、イギリス等をみれば寧ろ「経年優化」と呼ばれるだろうantiqueの価格の方が優先されている。故に、主観的価格としても、今後の日本の住宅様式に依ろうとも、持ち家への評価は磯原指標に入る。
*2 質というのは、特に装飾や性能。機械や芸術含む。同じ物量をもった品物がこれらの質に於いて向上しても経済指標には算入されてこなかった。

人生の目的論

この世の目的は、「真理」だと思う。真理とは何かといえば、それは実証的数値だ。

http://file.kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/dd04c9f0.gif (市総人口の統計予測)
http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/513/ (『かばの舞台裏』より)

これは一つの真理であり、否定する数値が出ない限り確かにそうなる。
 なぜ真理が目的かといえば、それだけが人類の繁栄の源だから。
この統計を知った者だけが正しい行動を取れる。そして真理の収集に遅れた者が衰退し、或いは絶滅する。

大学というしろものがある。けどその本質は論文制作だ。
大学には栄枯盛衰がある。だから大学やそこでえられる学歴はこの論文制作の付属物でしかない。
論文には形式(つまり書き方)があるが、みて容易にまねできるものでしかないし、守らなくてもよい。それらの書き方には時代の流行はあるが、重要なのは「真理を記述してある」こと。法則や統計など実験でくりかえし検証できる数理の記述方法にはいろんなものがあるが、どれもよくまとまった論文をつくりあげる為でしかない。
つまり、優れた論文を書き上げる為の条件づけ、癖づくりの為だけに大学や大学院へ進むまでの教育機関は本来あるので、決してそれらへの進学行動が目当てではない。優れた論文さえ書ければ、一切の教育機関はなくてもいいと言える。但し、多くの場合は、同種間競争のよい側面を伴いがちなので同じ研究意図をもった人々は集まった方が効率がいいということにすぎない。

結局、真理を探求することが人生の目的。その論文を集める習性こそ、彼らを繁栄に導く。北茨城にあってもやはり同様。


追記・この小論は極論すぎるとおもう向きもあるだろうし、実際にそうかもだが、この小論で書いた人生の目的は「科学の時代」が終わったあとでやっと突き抜けられるものだろう。いまの段階では工学からみちびかれた各種の製品や奉仕をもちいて、より進歩した生態から社会的に搾取される、という資本経済の国際環境があるので、それにのりおくれるか先んじるかの違いしか生存競争のなかみはない。カントがいう『合目的性』はそれ自体が目的である美を一般の他のいきものや生態とおなじくめあてとしているが、残念ながらそれは遅かれ早かれ駆逐される価値観らしい。ただこの進展のなかでつかの間みられるのが美という一種の中庸的極点ということなのだろう。
わかりやすくかけば、川の流れはたえずしてその流れはもとの淀みにあらず、ゆえに川のうつくしさはいまのうつくしさにあらず、ってところだ。この川の流れそのものは「科学の時代」がつくりだしているのであり、その源が尽きる(科学の進歩が終わる、又は計算に限界がくる)ときまで美というものは気のせいでしかない。むしろこの美に気をとられないようにしている生態のほうがかえって目的を穿つ機会がふえてくる。それは上流からながれだしたどんぶらこっこな桃がどこでも桃なのに似ている。重要なのはこの「桃」つまりうえの小論でいう「真理」であり、この真理があればあるほどその川は美にちかづく。
 かなり抽象論ってか形而上論になったが、カンタンにまとめれば勉強せよということなのだろう。
そうすることで川はよりよく流れだし、淀みなく社会的な美としての経済を主導し推進させていく。結局、真理はその社会経済という生態をみちびきくる素であり、この素が沢山あるほど場所が潤う。だからこの小論でいう目的は、学術およびそれをくみたてた社会の素を目的とみたてていることになる。その意味では原理的だ。文明原理的といえる。こういうわけで「非文明主義者・反文明主義者」にはこの論拠へは納得できない点が多いだろうし、実際タヒチに渉ったゴーギャンや奄美大島へ渉った田中一村みたいなかねもちや否定文明人はいたので、仮に従った方がよいか部分的に従わざるをえないにせよ従わなくともよい。
よりよい素をもっているほどそれをつくりあげた姿がゆたかになるのもまた確かなので(但し十分条件ではない。なぜならより大きな集団がなければ当経済がはやる社会の総体は小さいからだ)、プラトンのイデア論に似ているがこの真理目的論は一種の価値観として科学の時代のものだといえそう。そして実際の国際社会な闘争がそうなので、科学の時代がおわるまでは支配的理説になってる可能性が高い。
ということで、次の時代の価値観がこの真理目的論をのりこえていくのを望む。尤もそれには先ず真理目的論をみにつけ、生き残るしかないわけだが。

2010年12月13日

買収者からの自然環境保護のこと

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101212-00000002-sh_mon-bus_all

引用
~~
なぜ人気? 中国人、日本の森林を相次いで買収

外国人が日本の森林の買収を進めている。この数年、日本の森林の価格は下落を続けており、今が底値と判断した海外投資家が購入するケースが多い。また、水源として利用しようと考える海外企業もあるようだ。

日本の森林を買収する外国人の中でも、特に中国人の動きが目立っている。

河川の汚染が進む中国では、汚染が水不足に拍車をかけているといっていい。中国人が日本の森林の買収に動く背景には、こうした事情がある。

 日本は資源のない国だといわれているが、実は森林と水に恵まれた有数の資源国である。そのことに気付いた外国人は、今後も日本の森林の買収を続けるとみられている。

 これに対し林野庁は都道府県にヒアリングを開始し、情報収集に努めているという。しかし、それだけでは買収を止めることはできない。諸外国のように、外国人や外国法人の土地所有について地域を限定したり、事前許可制をとるなどの制限を設ける必要性がありそうだ。

~~

こういうわけで、これが事実なら結構やばい。今までの市民性をみていると、或いは明治期以来の国民性といってもいいが、非常に「金目の誘惑に弱い」人らなので、目先の損得に踊らされて簡単に先祖伝来の土地をてばなしたり、最低でも貸し出したりしそうだ。つまりは、いま目にしている「ああ多賀の山並みよ(市民歌参照)」もあっというまに買収されて、まったく景観も無視の巨大な取水場になってすぐ放置されぼっこぼこに破壊されかねない。

国有林の法律みたいのは情報が伝わればつくられるとおもうが、県有林や市有林みたいな『公共自然』については、行政の長が交代しても簡単に売却できない条例で縛るといいと思う。私有地については口出ししがたいが、倫理感に期待すると同時に、啓蒙というか、山川海、原っぱの綺麗さを盛んに小中学校の義務教育段階から叩き込むべきではないだろうか。
これは教育委員会が自然賛美の方法を講じるところからはじまる。俳句もいい方法だと思う。俳句は季語が重要だから、かならず周囲の自然に敏感になる。俳句の制作を、国語の授業のあいまに取り入れるとか、こういうことでもかなりちがってくるというか、この北茨圏のすさまじく繊細な自然を尊ぶ心情が織り込まれてくると思う。大体、雨情にせよそういう自然風土にはぐくまれた人であり、実際にそれほど自然環境がすばらしいのが間違いない。

2010年12月6日

北茨の人生論

シュムペーターや高橋和夫氏の説に、戦争階級原因論があり、わかりやすくいえば戦争をなりわいにした階級ができあがってしまうと自動的に戦いつづけてしまうという話。

 これをおしひろげて社会活動の全般が「習性」からできあがっていくとすると、それ専用の階級ができあがると、自動的にその業をくりかえす、と定義できるはず。
いわば『社会的成果階級原因論』がとなえられる。わかりやすくいえば習い性となる、ってことなのだが。

だから、この市におなじ社会法則をもしあてはめると、結局この市がもっとも重視すべきは科学研究の習性ではないだろうか。科学の祭典もあったが、やはりあの方向性が最もすぐれている。

雨情の説に、科学知識のこまかなあれこれは純粋な童心とは相容れないってな話がある。全集の書簡集・講演集の巻にのってる説話だけど。が、自分の意見をいえば、それは相容れないのではなく「調和させれる別の能力」なのだ。科学知識の詩をよめ、という者はいない。
詩は表現のおもしろさを問うのであり、科学知識そのものは自然認識のくわしさを問う。この二つは別々の発生をもつのであり、両立させることもできるし分けることもできる。

かもめ泣く空ににじむは秋の夕焼け
かもめ鳴く空ににじむは秋の夕焼け

この二つの句をくらべて、かもめは泣きませんよ、ってのが科学知識の立場であり、泣くから眼がにじむんですねってのが詩の立場。この二つは別の立場だが、かといって必ずしも専門科学者が「泣く」の句に感動しないのではない。そういうわけ。

 もし専用の階級をつくる利点がもっとも高いなりわいをいえば、こういう道理で科学の研究家だろう。哲学あたりはむしろ水戸辺にたくわえられやすいのでわざわざ北茨がする必要性は薄い。また、息抜き程度ならわかるが、スポーツ設備を強度につくりすぎるのもまずい。
運動競技ってのはそれ自体が目的化すると勝手に阿呆というか、あんまりあたまがよくない体だけ過剰に健康なタイプをひきつけて市の教養の平均値をその運動バカのせいで引き下げる傾向がたしかにある。これは私立の学校でスポーツクラスと特別進学クラスの生徒が全然中身ちがうみたいなもんだ。

詩心は大切にした方がいい。しかし、自分の北茨人としての経験上、実はその心のこまやかさ、繊細な心情という特徴をもっとも強化しやすい習慣が「科学知識の研究」なのだ。これによって今までよりさらにこまやかな詩心ができあがる。

月の出るそらに輝く星屑よ

この程度の俳句が、科学知識の装飾によって

満月の裏に広がる宇宙のネオン

このくらい詠めるほど細かくなる。(どちらの句がすぐれているかは不明だが、童謡に感じ入るほどの心のこまやかさという長所をばあいによって強調しやすいのはたしか。単なる無知無学のままでは、どんなうまれついての天才も天然ボケとみわけがつかない危うさがある。)
だから北茨の市がもっとも大切にすべきは、長所をさらにのばす科学知識の研究の習慣をさまざな条件づけで与えて行くことだろう。茨城圏全域にいえる欠点とも言える「教養なさ」もそれでかなり補完されるはず。

2010年12月3日

県州制度の構想

いばらき域での経済的優勢を失わないのに、有効なのは州の制度を県と市のあいだに挟むことではないか? これは「県州制度」と仮になづける。

 で、具体的には先ずは水戸州として県央地域を一括する。東海村あたりから石岡以北迄で。他に、県北は日立州としてまとめ、県南はむかしの藩名から新治州とする。もしかしてこの州だけ経済力がつよくなりすぎるなら、鹿島州と新治州に分けてもいい。それは県内総生産か総所得の値、およびそれらの将来予測から割り出せばいい。
 で、おおまかにこの水戸州・日立州・新治州って分け方で、各行政の財政権益を一括りにしてしまう。なぜこれが有益かというと、たとえば図書館にかけられる金額をみればわかる。
いわきがどうして財政に恵まれているかいえば、その大きさからだ。比べていばらきの全域は、細分化されすぎていて大きな施設などはどうしても分散投資になり個々への分配量が弱まってそれぞれの施設が貧弱になってしまう。

こういうわけだから、今でいう市町村の単位は飽くまでも州の中から代表をえらびだす自治範囲という扱いにし、普通の財政はすべて州単位での決定にまかせてしまえばいい。と同時に、これらの州単位での交通路(LRTなりリニアモーターカーなり路面電車なりセグウェイやレンタルサイクルの優遇なり交通バスのフリーパスなり車線拡幅なりバイパスなり)を建設県債などで充実させること、でそれぞれの行き来を頻繁にさせる。

具体的に日立州の話にすると、大津からだいたい大甕辺までが一つの単位になり、その中で基本的な行政機能の立地をみな日立の中心市街辺に集めることで、とりまく個々の市町村はそれぞれのちいさな単位で必死に経済効果を追求する必要性が弱まるので行政の考える負担が軽くなり、もともと別の才能を伸ばすべき文化なり学術なり信教なり教育なり農林なり漁業なりに集中投資できる土壌にかわるだろう。要は市町村ごとの分業が今より進む。
学校というか大学専門学校等の高等教育機関も、茨工を中心として日立に集めることで若者が日常的に入ってき、今までより中心市街が活性化されるだろう。図書館もまずは日立へ通う生徒学生社会人が殖え、結果としてバイト雇用やら、ついでの買い物での消費やらも促進される。
常陸太田市あたりは以前の経緯からむしろ日立よりは水戸州にくりいれた方が心情的に親しいかもだから、その辺の判断はまかせる。日立州のたちばはどっちかといえば工学的な進歩主義なので、超保守派のおわす太田あたりは必ずしも意見があわない可能性もあるし。

水戸州は心配ないが、新治州では土浦と筑波のすみわけがいるかもしれない。で、経済は土浦、研究は筑波、工業は鹿島だって感じになり、結局は土浦に基本的な機能は集まるかもだが、場合によっては一部の図書館等の公共施設は筑波側に委託しても問題はないだろう。鹿島が孤立しない様、臨海鉄道あとの交通路みたいのは工夫すべきかもだが。

 とかく、こういう風に、さっきあげた水戸州・日立州・新治州の単位ごとで『産業別の集積』を利用して各市町村の中心圏へ、いわゆる経済的中枢をまかせきってしまう。これで県内の広域にわたって、今までよりも財政の改良がもちいられる筈。使える単位が大きくなるからだ。

2010年11月30日

深夜営業規制のはなし

この市の議会議院がどう感じてるかしらんが、自分の目にはあの駅前あたりの飲み屋はきったねーと感じる。きょうも駅の出入口あたりに高校生だかあたりが吐きちらしたなんだかわからん汚いのがあったみたいだけど、あんなろくでもないアジアン臭い飲み屋なんか放置しとくから酔いどれのろくでなしが出てくるんだよ。出てくるんだよ、としかいえない。
つまりさっさと規制しろってわけ。何一つ良いことはない。これは本当のはなし、勿論あれだってくだらん本やらサブカルやらと似たアジアちっくなきったねー文化なんだろうが、なにも貴べないばかりかなければないほどよい。どうせはしたがねしか回らんのだ。

 要はよる8時からは深夜営業許可を出さないべきだ、しかし、そんなの不便だってのなら最悪で10時までゆるしてやってもいい。しかしそれ以後はなにも許可しなくていいと思う。
そんなの現代に逆行してるとおもうだろうが、逆行じゃなくて先導してるのだ。夜は寝ろ。そういうことだ。
そのかわり朝は夏4時なり冬5時なりから営業していいことにすればいい。それでまともに売上とりかえせ。町をよごして深夜営業もないもんだ。そして酒などのまず、高尚な哲学論議でも日夜闘わせ娯楽にすればいい。こういうことも深夜営業なぞ許可してるかぎりは擬似都市生活に陥るだけなので、永久無理にきまってる。
あんなきたねー飲み屋つくったり、高校生からすぐ発情したりそもそも理性が欠けている人種なのだから。もとエミシの磐城なぞもっとひどい。隣接してるのが災厄だ、しかし被災をさける対策だけは条例で可。

日本人は情に流され易い性格がどうもある様だからどれほど「厳しい倫理課題」を科しても科しすぎない。これが真理だ。深夜営業規制しようと日本人は日本人だから、あのきったねーじめっぽい飲み屋みたいなのつくる卑しい人種はどっかへ逃げるだけのはなしだ。もっとじめじめした南方なり山陰なりへ。

2010年11月28日

きたいばニュース

きのう科学の祭典というすばらしいイベントがあった。しかし、ワンダーグーは規制すべきだ。なぜ市はあんな不良企業の猥褻物陳列罪を放置するのだ? 基礎に遵法意志がないのなら公職につくな。

 あと、落書きがけされちゃったけどあれはあれでさみしい。
感情の消えた機械の世界じゃないのだからそれなりの落書き程度あってもいいとおもう。勿論下品なのはみんな嫌だが。落書きそのものを洗練させていくって道もある。このあたりはあたまの古く、かたまった人物が市政の実務領域から去ってもらえねば公的には実現しにくいだろうけどいずれは。
きのきいた落書きも芸術であり、重要なのはそれができるある程度の公的スペースがあるべきってことだろう。

2010年11月23日

IT基盤のたくみさ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101123-00000014-zdn_m-mobi

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山口県萩市の市役所ロビーにソフトバンクWi-Fiスポットを提供

��D Mobile 11月23日(火)16時57分配信
 山口県萩市とソフトバンクモバイルは、萩市市役所のロビーに公衆無線LANサービス「ソフトバンクWi-Fiスポット」を導入することを明らかにした。

 今回のソフトバンクWi-Fiスポット導入は、観光振興、文化教育振興、情報通信基盤の整備を目的として行われている「萩・情報維新プロジェクト」の一環として実施されるもの。今後は、萩市内の宿泊施設、官公庁施設、観光地周辺店舗を中心に、2010年度内に市内約100カ所、2011年度に市内約 200カ所まで設置カ所を増やす予定だ。
~~~~

↑こういうわけで、特定の無線ラン点だけつくれれば、全域に引いてその維持費を負担させられるよりは合理的なのがわかる。以前からここでも、私設応援団のほうでも再三指摘されてたのに、市議会議員のだれも発言しなかった。
市長の判断はにぶい。光ケーブル事業をなぜわざわざこの市が推進させねばならないのかも不明だ。なにもNTTの社員が多いわけでもあるまいし。

 やはり知識がないとは末おそろしいことなのだ。損を買ってもきづけない。
すでにいわき市立総合図書館にはウィファイの実例がある。あんなものをいくつも設けるだけで、全面敷設よりも高い効率がえられるのはあきらか。市役所員のなかに勉強会でもあれば、もっとIT基盤への理解も深まったろう。いまからでも最悪に遅くはない。国の光の道構想は一進一退してるが、基本的にLANスポットが主流になってくのはたしかと思う。

2010年11月9日

地域ブランドのはなし

県税が使われてるので注意すると、茨城がブランドの魅力度で向上させようとしてるのに無関係な対策をしてもなんにもならないし、しかも官僚主義な役人なぞにイメージアップなぞ到底不可能だ。

具体的にいうと、白い恋人とか八ッ橋みたいな『有名商品』がこの指標の素なのだ。そういう認知度の高い商材があると地域ブランドの魅力度に反映されるしくみだ。まちがっても県の魅力ではない。商材の有名無名についての調査だったということだ。

 たとえば常陸牛やら吉原殿中やらほしいもやら立派な商品はある。言うまでもないが、皮がふかふかになっちゃって味は変わってしまったけど磯原饅頭もこの一種だし、じゃんがらとか八千代おこしもある。こういうものを茨城産としてたくみに売り込むと、上述の指標に反映されてくるということだ。

けど、まえからかいてるが必ずしも“有名商品をもっている都道府県”が立派で徳の高い地域かといえばそれはちがう。そこに、乃ち地位のよさと商材の有名無名とに相関関係はない。
全然有名な商品はなくとも非常によい理想的環境の地域があったとしよう。これもそのブランド総研から魅力度で最低の値をつけられるが、まったく逆に進むべきだ、ということがわかるだろう。重要なのは『よい場所に住む』ことで、どうでもいい商材ごときの人気ではない。これはいばしんの煽り屋も理解せねばならない。

で、結局どうやって商材を売り込むかいえば、一番いいのは特産品としてお土産市場で成功してるところの真似からはじめることだ。工夫はそこに付け加えればいい。
 具体的にいえば、白い恋人は「そこでしか売らない」ことで旅行者がおみやげに必ず買うってしくみをつくったのが成功要因だった。この道理をとれば、吉原殿中は水戸でしか売らないべきだ。ほかの場所へ輸出してはいけない。水戸にきた人にだけ売る。これで超一流の特産品のおみやげとして尊敬されるだろう。
他の品物も同じく、口コミでのひろまりを重視し、特に口コミ広げやすい女性層をあいてにそのお菓子などの特産品を各市の限定地域でしか売らないことにするのだ。なお持ちがわるいというか、一週間とか数日しかもたない様な希少価値のあるおみやげ商材ならなおいい。おすそ分けが発生し、口コミになりやすいから。

で、自分的には磯原まんじゅうは前のふかふかしてない皮のがよかったから前のにかえしてほしい。あまり工夫しすぎないほうがいいような素朴商品というものもあるわけだ。ほしいもとか。まえでいう北茨城市立図書館のしおりもそうだ。
天然記念物的なものは手をくわえないほうが希少。花園牛とかもたべたことないけど、この一種なのかもしれない。
さらにいうと、有名だからいい商材とはいいきれない。地味ながら最高峰のもの、有名無実よりは確かにこの方がいい。どこで売ってるのかもわからないが天心焼きとかもその一種だろう。

2010年11月8日

コンクリートの町の批評

 水戸大工町なるところを打ち放しコンクリートで有名な建築家に頼むつもりらしいが、絶対にやめたほうがいい。水戸市民が運動を起こしてでもだ。もしつくるなら十分に燃えない工夫をした木造か、最低でも鉄骨を隠したガラス張りの建物にした方がいい。

水戸も灼熱の町にさせたいのだろうか? しかし、南蛮虫の温床になるだけでなにもいいことはない。ヒートアイランドのおそろしさをなめるべきでない。熱帯社会では人間は異なる習性に染まる。それは我々の文化を破壊する。

うそだと思うなら東南アジアを旅してみるがいい。我々とは民度も生活体験も生活様式も違う。単に、北ぐにには北ぐにのやり方がある。寧ろ涼しければ涼しいほどよい場所だ、茨城圏域は。

追記:あるいは妥協策としてできる限り屋上や壁面緑化によって熱の溜まり具合をゆるめる、ってのもあるが、それにも限界があるのであり、想定できる限り風通しをよくしてもらうとかは必要条件。まちの暑さはよい結果をつくらない。

市政の基本

かねを稼ぐのが悪なのではなく、稼ぎ方が問題。

立派な俳句で億万長者になった人は、パチンコ大王にくらべりゃそりゃ立派だろうし、天文学解説書で印税くらしの大学者にくらべれば薄っぺらい芸能人の贅沢はとるにたらない。そういうことだろう。

 結局、富裕とは「うらみわけ」なのだ。ほかより能力のすぐれた人へお礼を一杯あげて、「あいつ金持ちなんだぜ」と言ってうさをはらす。だからこういう社会では暴力沙汰は起きにくいだろう。貧乏人が喧嘩するものだから。

このよに共通貨幣経済がおこってしまってから、それを土台からいなめないかぎり人々はこのルール内でふるまうしかない。だから、市場を統治するルールの制定こそ、市政のかなめなのだろう。ろくでなしの商いをゆるす市とゆるさない市では、長い目でみればその市でそだつ者の品格を多いに違えてく。

 こういうわけで、国家資格にすら到底あたいしないインチキ施術でしかない東洋風の整体稼業なぞ、決してゆるすべきではない。もしそれをしなけりゃならないなら、きちっと医師国家資格のもとでやればいい。これは真理だ。市政はここをきちっと取り締まってもらわないと。

2010年11月6日

最低の整体いちば

ついに整体やがでかい看板まで出しはじめた。マルトの前。ろくでもない。

市は、整体やを虱潰しにまずつぶすべきだ。自分のしってる限りで3件ふえている。それはおどろくべきスピードの増殖だ。この短期間で目立つところで3件、裏にはこの倍あるとかんがえれば、あと数年、たとえば3年で6^3=36×6=216件以上はまた増える。こんなにふえないとおもうかもしれないが理論的にはそうなってもおかしくないペース。

保健所と、市の都市計画課、および民生員による隅々までの調査でそれらの営業状態をすべてもれなく把握せねばならない。そして一つずつ条例規則違反としてつぶしていくのだ。さもなくばここもあっというまに奴らに汚染されるに違いない。

 たかはぎでも早速被疑かけられたみたいだが、きたいば圏でもかならずこれに類比できる事件がつぎつぎ起こるにちがいない。整体と銘打ってやってるのはワンダーグーやコンビニや本屋やネットのろくでもないサイト級の最低最悪の循環への漸近である。それがうそだとおもうなら、抗議派系の欧米のいなかに行ってこんな店が一見もないのをみてこい。まったく救えない倭人。どこまでも底抜けに堕落しようとする。黄門様じゃないが、絶えず徹底した成敗がいるのだ。控えおろう倭人ども!

光ケーブル問題の訴追

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010102200822&rel=y&g=soc
から引用

��~~
高速通信、利用率が低迷=総務省に改善求める-検査院

 都市部と過疎地などの地域間デジタルディバイド(情報格差)解消のため、インターネットなどのブロードバンド回線を国の補助で整備する高速大容量通信設備事業で、住民の加入が進まず、利用率が低迷していることが22日、会計検査院の調査で分かった。事業には2007年度までの6年間に補助金約26億円が投入されており、検査院は総務省に利用率向上を図るよう改善を求めた。
 検査院が13道県で整備された135事業で利用状況を調べたところ、利用率の平均は17%で、全国平均でも49%だった。(2010/10/22-19:14)
��~~

↑ほらね。あれだけ注意しといたのに。市の行政幹部は、というか市長は収支勘定と言うものがないのだろうか? 本当に本当に困る。こっちは110万稼ぐのにも必死でやらねばならないのに、損失をますばかりの過剰設備に勝手に大金(一億超)をつかってしまうつもりなのだから、いますぐにでも反省したら計画を変更し最大限に縮減してもらいたい。だれでも潰れる市にいつまでもつきあうつもりはない。もしトップが注意をきけないほど愚劣すぎるなら、次は罷免しか手はない。
 それに、いくら光ケーブルとはいえ、次は量子コンピューター用の別の回線(真空回線状のものだろう)が発明される。もう実現まであと一歩の所まで工学的にはきてるのだから、僻地ケーブル維持費で市の財政を遠い将来まで圧迫するのは目に見えている。話にならない行政! かもめの話題にすらあがらない。自分以外。

はっきりいって、関本まで通してほしかっただけなんだろう。まったく救えない市長。浅ましい利己心のために自分の住んでる市の財政を陥没させる気だろうか。一億超あればどれだけ立派な「市民パソコン」を図書館に設けられたかわからない。隣のいわきの立派な図書館をみてこいと言いたい。行政人に知恵がないとこの市の財投みたいなみじめな末路をつっぱしる。悪例退散!

2010年11月5日

市内での需給

わざわざ教えてあげるのもどうかともおもうけど、ヤマダ電機のやつが本をうりだしている、にも関わらずあの内容では売れるはずない。街の本屋ともワンダーぐーとも競合するから。

ワンダーぐーはエンタメってか娯楽系にかたよった商品展開を得意としてるらしいので、たとえば都市部にあるジュンク堂みたいな専門書は置けないし、街の本屋は街の本屋で専門書だけ置くと一般客が入らなくなるだろうから経営が傾くかもしれず容易に冒険しがたい。
 つまりは、ヤマダ電機はどこでもこのセット小売りの方式でやってるみたいだが、このきたいば圏なら専門書、特に学術書を置くことだ。そうすればほかとも競合しない上、重宝がられる。

きたいば人は意外と、というか当然というか高文化の才能がある。だから一旦そういう文化が目に入れば必ず適応する。ヤマダ電機でなくとも誰かが学習参考書以上の学術系専門書を売ればあっという間に市内にとりこまれるだろう。

図書館でも大冊歴史書とかが平気でリサイクルされてるのをみれば、水戸学の余波はこの地域へも「勉強好きの文化」をいくらか及ぼしていると思われる。実際、漫画は衰退産業なので近く滅びるにちがいない。
自分がみていたあれだけあったゲームセンター類も消えていったので、あんなくだらん低文化が流行の波できえうせない可能性はまったくない。ただでさえ少子化なのだから、大人が読む重い本が実は需要面から最も生き残り易いのだ。金もオジオバがもちまくってるしひまをもてあましてるのだから。

恥広報への桜田門外ノ変論

けさのテレビで県の広報がくだらないハッスルぶりをみせつけてたが、情けないうえ様にならないのでむしろ浪士が襲撃しろってレベルだった。

まえもかいたが、ジャパンやヤポンなぞ星中の好奇の的なのだからそん中でめだたないから気にする方がおかしい。めだたない方がずっといい。魅力度が低いとか福井人調査員に言われても褒められてると思え。こんな目立つ国民の中でさらに目立つのなど恥だ。

 落ち着いた魅力というものも当然ある。だからくだらん宣伝広報なぞ潰すがいい。県に実力があればなんの問題もなく、無知な国民の方がいずれ馬鹿さを恥じることになるのだ。