2011年1月20日

人生の目的論

この世の目的は、「真理」だと思う。真理とは何かといえば、それは実証的数値だ。

http://file.kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/dd04c9f0.gif (市総人口の統計予測)
http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/513/ (『かばの舞台裏』より)

これは一つの真理であり、否定する数値が出ない限り確かにそうなる。
 なぜ真理が目的かといえば、それだけが人類の繁栄の源だから。
この統計を知った者だけが正しい行動を取れる。そして真理の収集に遅れた者が衰退し、或いは絶滅する。

大学というしろものがある。けどその本質は論文制作だ。
大学には栄枯盛衰がある。だから大学やそこでえられる学歴はこの論文制作の付属物でしかない。
論文には形式(つまり書き方)があるが、みて容易にまねできるものでしかないし、守らなくてもよい。それらの書き方には時代の流行はあるが、重要なのは「真理を記述してある」こと。法則や統計など実験でくりかえし検証できる数理の記述方法にはいろんなものがあるが、どれもよくまとまった論文をつくりあげる為でしかない。
つまり、優れた論文を書き上げる為の条件づけ、癖づくりの為だけに大学や大学院へ進むまでの教育機関は本来あるので、決してそれらへの進学行動が目当てではない。優れた論文さえ書ければ、一切の教育機関はなくてもいいと言える。但し、多くの場合は、同種間競争のよい側面を伴いがちなので同じ研究意図をもった人々は集まった方が効率がいいということにすぎない。

結局、真理を探求することが人生の目的。その論文を集める習性こそ、彼らを繁栄に導く。北茨城にあってもやはり同様。


追記・この小論は極論すぎるとおもう向きもあるだろうし、実際にそうかもだが、この小論で書いた人生の目的は「科学の時代」が終わったあとでやっと突き抜けられるものだろう。いまの段階では工学からみちびかれた各種の製品や奉仕をもちいて、より進歩した生態から社会的に搾取される、という資本経済の国際環境があるので、それにのりおくれるか先んじるかの違いしか生存競争のなかみはない。カントがいう『合目的性』はそれ自体が目的である美を一般の他のいきものや生態とおなじくめあてとしているが、残念ながらそれは遅かれ早かれ駆逐される価値観らしい。ただこの進展のなかでつかの間みられるのが美という一種の中庸的極点ということなのだろう。
わかりやすくかけば、川の流れはたえずしてその流れはもとの淀みにあらず、ゆえに川のうつくしさはいまのうつくしさにあらず、ってところだ。この川の流れそのものは「科学の時代」がつくりだしているのであり、その源が尽きる(科学の進歩が終わる、又は計算に限界がくる)ときまで美というものは気のせいでしかない。むしろこの美に気をとられないようにしている生態のほうがかえって目的を穿つ機会がふえてくる。それは上流からながれだしたどんぶらこっこな桃がどこでも桃なのに似ている。重要なのはこの「桃」つまりうえの小論でいう「真理」であり、この真理があればあるほどその川は美にちかづく。
 かなり抽象論ってか形而上論になったが、カンタンにまとめれば勉強せよということなのだろう。
そうすることで川はよりよく流れだし、淀みなく社会的な美としての経済を主導し推進させていく。結局、真理はその社会経済という生態をみちびきくる素であり、この素が沢山あるほど場所が潤う。だからこの小論でいう目的は、学術およびそれをくみたてた社会の素を目的とみたてていることになる。その意味では原理的だ。文明原理的といえる。こういうわけで「非文明主義者・反文明主義者」にはこの論拠へは納得できない点が多いだろうし、実際タヒチに渉ったゴーギャンや奄美大島へ渉った田中一村みたいなかねもちや否定文明人はいたので、仮に従った方がよいか部分的に従わざるをえないにせよ従わなくともよい。
よりよい素をもっているほどそれをつくりあげた姿がゆたかになるのもまた確かなので(但し十分条件ではない。なぜならより大きな集団がなければ当経済がはやる社会の総体は小さいからだ)、プラトンのイデア論に似ているがこの真理目的論は一種の価値観として科学の時代のものだといえそう。そして実際の国際社会な闘争がそうなので、科学の時代がおわるまでは支配的理説になってる可能性が高い。
ということで、次の時代の価値観がこの真理目的論をのりこえていくのを望む。尤もそれには先ず真理目的論をみにつけ、生き残るしかないわけだが。