先日、台風で偕楽園の方の左近の桜が倒れた。皇室と水戸家の因みなど知る由もない商人上がりの大井川知事は、あっという間に跡形もなく片付けてしまった。或る県民がツイッター上で再び宮内庁に働きかけ植樹させてほしいと言っていた。私はあの忌々しい差別と虚栄の塊、京都との縁が切れてほっとした。
大井川氏は水戸学の素養が全く無く、この面では偕楽園を強制的に一部有料化するなど完全に伝統破壊者である。シュンペーターかぶれが商売の領域ならいいが、水戸家の御前に居ながら文政領分でなら傍ら痛い。その或る県民がどうか私が傷ついたのは当知事を不躾に択ぶ浅はかな一部県民の無思慮さだ。
大井川氏にあの桜の象徴的な意味がわかるとは思えないので、恐らく再植樹されないか、全く見当違いに客寄せパンダの笹でも植えると思うが、義公の嘆く姿が確かに私には見えるので、いずれなんらかの形で現代水戸学者らは、県政により事務的に撤去された桜の魂を祭るべきだろう。
野分経て皇下した桜木を伐る槌音を聴く水戸の町
のわきへてすめらくだしたさくらぎをきるつちおとをきくみとのまち
2019年9月13日
2019年9月12日
情報非対称性から県外人に誤解されている方が精確に知られているより優れている
以前から述べているが、わが県は東京都民や県外人からほぼ全く盲点になっている。まるでステルス状態だ。だからテレビ等でとりあげられても、彼ら都民全般の悪意の投影となっていて、我々の現実も理想も少しも捉えられていないと、都内メディアで日々実感している筈だ。
今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。
例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。
ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。
今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。
例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。
ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。
2019年9月5日
鋭角横断歩道への改修
鋭角横断歩道は車両から歩行者を見つけやすくなるらしく、茨城県内、北茨城市内でも同様の交差点におきかえていくケインズ政策をとるのが望ましい。
愛知県で導入後、26か所について設置前後1年で、事故件数が17件から8件に減った。但し道路標示の補修、LED化なども併せて行われているのでその影響も考えられるという。
愛知県で導入後、26か所について設置前後1年で、事故件数が17件から8件に減った。但し道路標示の補修、LED化なども併せて行われているのでその影響も考えられるという。
2019年8月9日
文化的主導権
茨城で0歳の頃から育ってるからかもしれないが、食べ物を粗末にするな、という躾が無意識に刷り込まれているらしく、発酵食品にせよ何にせよ揶揄の文脈で食べ物を侮辱する人みると、自分は寛容なので何にせよ流しているのだが、時間がたち相手の発言をおもいだすと度し難い義憤の様なのが湧いてくる。
義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。
私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。
既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。
今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。
朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。
アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。
私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。
これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。
義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。
私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。
既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。
今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。
朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。
アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。
私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。
これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。
2019年6月25日
昼間に役所が鐘を鳴らすのは騒音公害にあたる説
北茨城市役所が鳴らしている昼間の鐘(雨情童謡のメロディ)は、夜勤の人や夜型の人にとって昼間の安眠を乱されるのだから一種の公害にあたるのではないだろうか。試みが行われたはじめは気づかなかったが。以前から昼12時には消防署がサイレンを鳴らしていたけど、震災を期に設置された市役所の災害用拡声器で、新たに午後6時頃に童謡が流される様になった。この点で、別の方法で通電を確かめるのが次善ではないか。尤も、西洋などでもこの種の公共の鐘の音というのは伝統的にあるに違いないけど、昼間中心主義という考え方は既に遺伝子レベルで夜型の人がいるのが分かっている以上、時代遅れと思われる。
また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。
また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。
2019年6月18日
北茨城市立大学案
北茨城市に必要なのは大学だと思う。公設民営大学、又は公立大学を作るのが穏当ではないか。なぜ日本全体の少子化の中でそう思うかだが、寧ろ少子化だからこそ、若い世代を呼び寄せる環境づくりが必要といえるからだ。
自分が経験した限り、大学が集中している都内は、学生にとって望ましい環境では全然なかった。雑多な情報が多すぎ学業に集中できないのはいうまでもなく、犯罪率などの風紀も大変よくない。というか東京都が日本で一番悪い方に属する。そもそもお金の面でも物価地価が高すぎるので、わざわざ都内で勉学しようとするのは自分から地獄に入って行くみたいなものだ。
それに比べ、北茨城市はどうだろう? 自分が0歳からくらしている経験則あるいは気候図などの知識では、ここは自然環境面ではほぼ理想的といえる。今更いうまでもないが、海・山・川・湖などに囲まれ、小都市もあって、まあ欠けているところがない。一言でいえば綺麗な自然で、夏は涼しいし冬も暖かく、春は穏やかで秋も爽やかである。他県なり市外と全然違うところとして、梅雨なんてのも海から山へ風が吹いて常に湿気払いをしているせいと思われるがさして湿度があがらず、とても過ごし易いばかりかどっちかといえば心地よいくらいで、太平洋側で普段は乾いているからじめじめしていないし、豪雪地帯では全然ないため雪も化粧みたいにすぐ融けて行くから単に美しいばかりで除雪に困る筈もない。地価も物価もさほど高くないのでエンゲル係数(食費の負担率)も低いだろうし、いわゆる商業地がそこまで大きくないから学生を誘惑する場所も基本的にない。学業に集中し易いというのは自分自身が生活した限り絶対に間違いない。勿論、都内にくらしたのと比較しても遥かに北茨城の方が学業する為に優れた環境といえる。
ではなぜこちらに大学がなくて都内に大学が集中しているのか? 答えは日本人全般が「群れる」習性が激しくあって、原因は脳内セロトニン・トランスポーターの遺伝的な少なさだと思われるのだがとかく合理性を無視し、都心に突っ込んで行きやすい。が海外の大学をみれば殆どの名門大学は、筑波大学くらい、もしくはもう少し田舎の環境にあるのが確認できる。海外の一流大学と、日本の大学群を比べたら、日本の方が質が低いといわれているし、実際に研究の質という意味でも、学生の質という意味でもそうなのではないか? 理由の一端は、明治政府が旧帝大なり国立大を各地の主要都市に作らせたことにも原因があると思う。学生が各地の中心的商業地に集まったらどうなるか。当然、商業地で消費して遊ぶに決まっている。だから学業をろくにしなくなったのだ。ディズニーランド行く感覚で大学を消費地、いわゆるレジャーランドにしてしまっているわけだ。特に若いうちは孔子が君子三戒でいうよう性愛に魅せられやすく、東京の性風紀は江戸時代以来最悪でもある。九鬼周造『いきの構造』式に都民はそれを誇ってさえいるから文化圏自体が他と違うのだが、少なくとも学業を完成させる方向性と、警察に逮捕されるまで集団乱倫するのは全く逆の方向性でしかないでしょう。これはいっておくけど、なぜ早慶の国際大学ランクが全然低いかというと正にこういう風紀の悪さがあるせいだ。まじめに勉学するつもりがない人達がブランド欲しさに大量流入しているが、大学の資金源になっているからろくに勉強してなかろうと完全放置されているわけです。まあ形骸化である。
ニューヨークのコロンビア大学みたいな例外はあるだろうけど、オックスブリッジみたいに田舎町の中で川辺なんか散歩しながら友人と議論や、思索や、学究に耽るというのが世界標準の理想的学問環境なのであり、いわゆる大学町というのは本来そうなっているべきなのである。もっというと、そもそもその種の大学のモデルである西洋の主要大学というのは、神学部が古典的な基礎なので、いわゆる修道士の為の組織だったわけだ。上述のよう明治以後の日帝が、近代工業を推進するべく旧帝大を作ったのとは根っこからして違っているから、日本の大学って一般に静かな環境にないのだ。無論、日本でも中にはそういうのもある。茨城でいう筑波大も確かにこの点では些か人工的ではあるが(寧ろ人工的な面で、通常の大学町にはない広大さや開放感もあるけど)、日本国内では最も世界の主要大学一般に近い類型を目指した例だけど、要は都市型大学ではない田園都市、または生活必需品は十分そろうくらいの田舎町の中に「学問に全力で集中できる環境をおもんばかって」、静穏な場をつくるのが長期的にも学際的熟慮というものだ。
少子化なので学生が集まらない、という考えは分かるが、自分がみるところ少子化は永遠に続くわけではない。この現象は日本全体の経済がうまくいっていない為の副作用で、簡単にいうと大企業と自民党が企業献金を通じ癒着しきっていて、彼らは日本全体の中流の生活状況を向上させるという目的を忘れ、小泉政権(特に竹中平蔵氏が政策ブレーンになって)以後と思うが新自由主義を導入して格差拡大路線に行ってもどってこない。いいかえれば日本全体の衰退とひきかえに、金持ちをますます金持ちにし、貧乏人をますます貧乏人にするという経済循環そのものが巡らなくなる構造を、大企業と自民党が共謀してつくっていった。当然これは少数派の利益を全体の利益に優先する判断にすぎず、いわゆる堕落した少数政治の代名詞である寡頭政治、ここでは自民党寡頭政治なわけだ。日本人の一般大衆がこの構図に最初から気づくほど賢ければ、当然、他の主要先進国同様、少子化がここまで深刻化していない。今後、否応なくこの新自由主義路線の失敗は修正されざるをえない。
投資家のジム・ロジャースがいうよう移民導入でアメリカ風の社会構造を、現安倍政権は目指している様だが、文化素(ミーム)の多様化を進める点で別に移民を入れるのが悪いと私は思わないからそれはいいとして(余りに移民コミュニティが巨大化してきたら、移民法みたいなもので、帰化していない人達の国民への害を減らす何らかの制限を加える必要は出てくると思うが)、問題は非正規雇用法が不安定な労働者ほど賃金が低い状態を放置していることである。できるだけ早く非正規雇用法を撤廃し不安定な労働者の雇用条件を安定化させるか、さもなければ不安定な非正規雇用者の方により高い賃金を与えねばならないという風に法を改善するか、どちらかだ。一言でいえば中流の最多性を復活させる必要がある。これは帰化した人達、もしくは移民そのものも含めての話だ。すなわち、大企業と自民党の癒着関係による二極化の推進が否定されるにしたがって、徐々に少子化は改善に向かい、維持できる人口動態へと戻って行くのが予想される。日本国民全般がそこまで利口ではないとしたら、少なくとも茨城県、又は北茨城市の範囲で中流の豊かさを取り戻す方へ経済政策を先進させないといけない。
総じて、上記の経過を辿って出生率は回復し、経済のしくみに導かれて過去と同等以上のくらしができる状態になり続けるだろうから、その際、市内に定着する若い世代の数が多ければ多いほどこの市の将来は明るいといっていい。学生が多いのもその一つだけど(ここでは今後、日本で必要だろう成人学習の文脈は後回しにしておく)、もっと大事なのは仕事場が市内にあることだ。しかし経済資本が集まってくる最初の原因は、私のみるかぎり文化資本の蓄積なのではないかと思う。よく学ぶ学生が沢山いたら、そこから飛び出して(スピンアウトして)独立した事業体ができるのがありうる話だ。いずれにせよ、学業は一般に低所得者を量産する方には進まない。市内の産業を高度化する方に行く筈だ。だから北茨城市立大学の様なものを構想し、行政が将来を慮って市内に若者を集める方途をとるべきだ。
私個人は私立大学の形で自分が将来作れるかなと思っていたんだけど、費用や文化の違いという面で、私立大以外にも公立の大学があった方がいい。現時点で学校の形は変容していて、ネットに講義流し、テストも時間区切ってオンラインで完結みたいになっていく流れだなと私は洞察している。費用面でも放送大学形式が最も経済合理的なのは目に見えている。だからもし私がなんか私大つくるなら、恐らくオンライン完結型になるだろうなと思うし、それはいわゆる普通の大学ではないでしょう。なので公立大学という、普通に住んで広大なキャンパスへ講義に通う形の大学もあった方がいいと思う。なぜなら学生コミュニティができ易いから。
学生時代に同じか似た志をもつ仲間ができるのはそれなりに役立つだろうし、アリストテレスがいう友情は、正にその種の広義の哲学(知恵を愛する)仲間がお互いに中庸を弁えた善い友人であれば永続するといっているわけで、旧キャンパス型大学の存在意義はそれがほぼ全てといえるのではないでしょうか。教授の人柄に触れるみたいなのとか、研究施設を借りるとかもあるでしょうけど、総じてこういうのは師事したり、研究所に入れば大学以外でもできるので。
自分が経験した限り、大学が集中している都内は、学生にとって望ましい環境では全然なかった。雑多な情報が多すぎ学業に集中できないのはいうまでもなく、犯罪率などの風紀も大変よくない。というか東京都が日本で一番悪い方に属する。そもそもお金の面でも物価地価が高すぎるので、わざわざ都内で勉学しようとするのは自分から地獄に入って行くみたいなものだ。
それに比べ、北茨城市はどうだろう? 自分が0歳からくらしている経験則あるいは気候図などの知識では、ここは自然環境面ではほぼ理想的といえる。今更いうまでもないが、海・山・川・湖などに囲まれ、小都市もあって、まあ欠けているところがない。一言でいえば綺麗な自然で、夏は涼しいし冬も暖かく、春は穏やかで秋も爽やかである。他県なり市外と全然違うところとして、梅雨なんてのも海から山へ風が吹いて常に湿気払いをしているせいと思われるがさして湿度があがらず、とても過ごし易いばかりかどっちかといえば心地よいくらいで、太平洋側で普段は乾いているからじめじめしていないし、豪雪地帯では全然ないため雪も化粧みたいにすぐ融けて行くから単に美しいばかりで除雪に困る筈もない。地価も物価もさほど高くないのでエンゲル係数(食費の負担率)も低いだろうし、いわゆる商業地がそこまで大きくないから学生を誘惑する場所も基本的にない。学業に集中し易いというのは自分自身が生活した限り絶対に間違いない。勿論、都内にくらしたのと比較しても遥かに北茨城の方が学業する為に優れた環境といえる。
ではなぜこちらに大学がなくて都内に大学が集中しているのか? 答えは日本人全般が「群れる」習性が激しくあって、原因は脳内セロトニン・トランスポーターの遺伝的な少なさだと思われるのだがとかく合理性を無視し、都心に突っ込んで行きやすい。が海外の大学をみれば殆どの名門大学は、筑波大学くらい、もしくはもう少し田舎の環境にあるのが確認できる。海外の一流大学と、日本の大学群を比べたら、日本の方が質が低いといわれているし、実際に研究の質という意味でも、学生の質という意味でもそうなのではないか? 理由の一端は、明治政府が旧帝大なり国立大を各地の主要都市に作らせたことにも原因があると思う。学生が各地の中心的商業地に集まったらどうなるか。当然、商業地で消費して遊ぶに決まっている。だから学業をろくにしなくなったのだ。ディズニーランド行く感覚で大学を消費地、いわゆるレジャーランドにしてしまっているわけだ。特に若いうちは孔子が君子三戒でいうよう性愛に魅せられやすく、東京の性風紀は江戸時代以来最悪でもある。九鬼周造『いきの構造』式に都民はそれを誇ってさえいるから文化圏自体が他と違うのだが、少なくとも学業を完成させる方向性と、警察に逮捕されるまで集団乱倫するのは全く逆の方向性でしかないでしょう。これはいっておくけど、なぜ早慶の国際大学ランクが全然低いかというと正にこういう風紀の悪さがあるせいだ。まじめに勉学するつもりがない人達がブランド欲しさに大量流入しているが、大学の資金源になっているからろくに勉強してなかろうと完全放置されているわけです。まあ形骸化である。
ニューヨークのコロンビア大学みたいな例外はあるだろうけど、オックスブリッジみたいに田舎町の中で川辺なんか散歩しながら友人と議論や、思索や、学究に耽るというのが世界標準の理想的学問環境なのであり、いわゆる大学町というのは本来そうなっているべきなのである。もっというと、そもそもその種の大学のモデルである西洋の主要大学というのは、神学部が古典的な基礎なので、いわゆる修道士の為の組織だったわけだ。上述のよう明治以後の日帝が、近代工業を推進するべく旧帝大を作ったのとは根っこからして違っているから、日本の大学って一般に静かな環境にないのだ。無論、日本でも中にはそういうのもある。茨城でいう筑波大も確かにこの点では些か人工的ではあるが(寧ろ人工的な面で、通常の大学町にはない広大さや開放感もあるけど)、日本国内では最も世界の主要大学一般に近い類型を目指した例だけど、要は都市型大学ではない田園都市、または生活必需品は十分そろうくらいの田舎町の中に「学問に全力で集中できる環境をおもんばかって」、静穏な場をつくるのが長期的にも学際的熟慮というものだ。
少子化なので学生が集まらない、という考えは分かるが、自分がみるところ少子化は永遠に続くわけではない。この現象は日本全体の経済がうまくいっていない為の副作用で、簡単にいうと大企業と自民党が企業献金を通じ癒着しきっていて、彼らは日本全体の中流の生活状況を向上させるという目的を忘れ、小泉政権(特に竹中平蔵氏が政策ブレーンになって)以後と思うが新自由主義を導入して格差拡大路線に行ってもどってこない。いいかえれば日本全体の衰退とひきかえに、金持ちをますます金持ちにし、貧乏人をますます貧乏人にするという経済循環そのものが巡らなくなる構造を、大企業と自民党が共謀してつくっていった。当然これは少数派の利益を全体の利益に優先する判断にすぎず、いわゆる堕落した少数政治の代名詞である寡頭政治、ここでは自民党寡頭政治なわけだ。日本人の一般大衆がこの構図に最初から気づくほど賢ければ、当然、他の主要先進国同様、少子化がここまで深刻化していない。今後、否応なくこの新自由主義路線の失敗は修正されざるをえない。
投資家のジム・ロジャースがいうよう移民導入でアメリカ風の社会構造を、現安倍政権は目指している様だが、文化素(ミーム)の多様化を進める点で別に移民を入れるのが悪いと私は思わないからそれはいいとして(余りに移民コミュニティが巨大化してきたら、移民法みたいなもので、帰化していない人達の国民への害を減らす何らかの制限を加える必要は出てくると思うが)、問題は非正規雇用法が不安定な労働者ほど賃金が低い状態を放置していることである。できるだけ早く非正規雇用法を撤廃し不安定な労働者の雇用条件を安定化させるか、さもなければ不安定な非正規雇用者の方により高い賃金を与えねばならないという風に法を改善するか、どちらかだ。一言でいえば中流の最多性を復活させる必要がある。これは帰化した人達、もしくは移民そのものも含めての話だ。すなわち、大企業と自民党の癒着関係による二極化の推進が否定されるにしたがって、徐々に少子化は改善に向かい、維持できる人口動態へと戻って行くのが予想される。日本国民全般がそこまで利口ではないとしたら、少なくとも茨城県、又は北茨城市の範囲で中流の豊かさを取り戻す方へ経済政策を先進させないといけない。
総じて、上記の経過を辿って出生率は回復し、経済のしくみに導かれて過去と同等以上のくらしができる状態になり続けるだろうから、その際、市内に定着する若い世代の数が多ければ多いほどこの市の将来は明るいといっていい。学生が多いのもその一つだけど(ここでは今後、日本で必要だろう成人学習の文脈は後回しにしておく)、もっと大事なのは仕事場が市内にあることだ。しかし経済資本が集まってくる最初の原因は、私のみるかぎり文化資本の蓄積なのではないかと思う。よく学ぶ学生が沢山いたら、そこから飛び出して(スピンアウトして)独立した事業体ができるのがありうる話だ。いずれにせよ、学業は一般に低所得者を量産する方には進まない。市内の産業を高度化する方に行く筈だ。だから北茨城市立大学の様なものを構想し、行政が将来を慮って市内に若者を集める方途をとるべきだ。
私個人は私立大学の形で自分が将来作れるかなと思っていたんだけど、費用や文化の違いという面で、私立大以外にも公立の大学があった方がいい。現時点で学校の形は変容していて、ネットに講義流し、テストも時間区切ってオンラインで完結みたいになっていく流れだなと私は洞察している。費用面でも放送大学形式が最も経済合理的なのは目に見えている。だからもし私がなんか私大つくるなら、恐らくオンライン完結型になるだろうなと思うし、それはいわゆる普通の大学ではないでしょう。なので公立大学という、普通に住んで広大なキャンパスへ講義に通う形の大学もあった方がいいと思う。なぜなら学生コミュニティができ易いから。
学生時代に同じか似た志をもつ仲間ができるのはそれなりに役立つだろうし、アリストテレスがいう友情は、正にその種の広義の哲学(知恵を愛する)仲間がお互いに中庸を弁えた善い友人であれば永続するといっているわけで、旧キャンパス型大学の存在意義はそれがほぼ全てといえるのではないでしょうか。教授の人柄に触れるみたいなのとか、研究施設を借りるとかもあるでしょうけど、総じてこういうのは師事したり、研究所に入れば大学以外でもできるので。
2019年4月12日
つくば県かつくば都へ改称すれば魅力度云々の無知な県外人による下らない印象差別は気にしなくてよくなる
つくば、またはつくばみらい、という言葉の科学、学術、芸術、先端技術、IT、教育、子育ての町としてのイメージはブランド総研会員の中で非常に高いらしいので、普通に大衆受けを狙うなら「つくば県」とか「つくば都」に改称すればいいだけではないか?
一般大衆なんて県の中身等何も見ていないのだから、そんなもんだろう。
「茨城」は『常陸国風土記』で皇族が侵略蛮行し先住日本人を虐殺したという故事によっているのだし、明治にあわてて県庁所在地が茨城町だったから明治政府側が採用しただけで、県民側もそれを県名として特にこだわる理由はないと思う。一方、つくばは古くからある地名なわけだ。ひらがなの方が覚え易いと。
「日立」もつくばに継いでブランド総研会員の印象がいいらしいが、こちらは常陸国以来の伝統的なひたち(『常陸国風土記』によるとひたみち、または浸しに由来がある)を、義公が日立市の高台から日の出をみて当て字にしたものなので、Orient(日が出る方向)の語源と重なるし、日本の象徴的な意味としてもいい名前だと思うけど、「ひたち県」で印象が抜群によくなるかといわれれば微妙なところかもしれない。所詮、これまで散々分析されてきたよう一定のブランド総研会員に俗受けしなければこのランキングにあうことはないのだから、一々、ブランド総研ごときにあわせるのも大変馬鹿らしいとは思うが、つくば県でいいんじゃないだろうか。どうせその後の変遷からまた別の名義にかわることもあるとおもうので。
https://twitter.com/wata_ibamemo/status/1110145109843075072
一般大衆なんて県の中身等何も見ていないのだから、そんなもんだろう。
「茨城」は『常陸国風土記』で皇族が侵略蛮行し先住日本人を虐殺したという故事によっているのだし、明治にあわてて県庁所在地が茨城町だったから明治政府側が採用しただけで、県民側もそれを県名として特にこだわる理由はないと思う。一方、つくばは古くからある地名なわけだ。ひらがなの方が覚え易いと。
「日立」もつくばに継いでブランド総研会員の印象がいいらしいが、こちらは常陸国以来の伝統的なひたち(『常陸国風土記』によるとひたみち、または浸しに由来がある)を、義公が日立市の高台から日の出をみて当て字にしたものなので、Orient(日が出る方向)の語源と重なるし、日本の象徴的な意味としてもいい名前だと思うけど、「ひたち県」で印象が抜群によくなるかといわれれば微妙なところかもしれない。所詮、これまで散々分析されてきたよう一定のブランド総研会員に俗受けしなければこのランキングにあうことはないのだから、一々、ブランド総研ごときにあわせるのも大変馬鹿らしいとは思うが、つくば県でいいんじゃないだろうか。どうせその後の変遷からまた別の名義にかわることもあるとおもうので。
2019年2月25日
国策公害というべき東京都内の会社・日本原電の寿命が尽きた老朽東海第二原発で働いていた少数県民の為に、当然の廃炉と同時に、より好条件な職を斡旋する義務が原電・日本政府・東京都庁・自民党員側にはある
もし老朽化して40年の寿命を過ぎた老朽東海第二原発を日本原電がカネほしさに公害をもたらしても再稼動したいとほざくのに、周辺自治体が同意するつもりなら、そこに唯一ある懸念というのは東海第二原発での仕事をしている少数の東海村近隣県民(たぶん数百人以内だろう)の失業だけなのだから、これまで他県に原発公害をおしつけ暴利を貪ってきた日本原電と日本政府、東京都庁、そして自民党員に、彼ら失業する者の為に以前より好条件な仕事を斡旋するよう命じるのが正しい解決であろう。これは公害をこうむってきた県民側の当然の権利というべきだ。
大井川知事は再稼動是非の県民投票を行わず反日やくざであるところの日本原電・自民党・東京都庁・天皇政府らとつるんで300万人の日本国民の命を犠牲に保身を図るのか?
茨城県民投票で、東京都の会社である日本原電が要請している、老朽化した(福島原発と同様の)東海第二原発の再稼動是非を問うべきだ。
大井川知事は自民党の支持を受けて前知事を破っているので、自民党に媚を売って保身をはかり、県民・国民の命を犠牲にしようというのだろうか? 東京都民の金儲けの犠牲になって何百万人も大量虐殺される、しかも自分の統治する県民が殺されていくのを後押しし、手助けする知事が大井川氏だとしたら、これはもはや反国民的存在という他ないであろう。すぐに全県民に、また都民による原発公害で被害を受ける周辺県民にも再稼動の是非を問うべきだ。
はっきりいって、利己的なダークトライアド風の悪意で、原発公害を他県民におしつけ、犠牲にし、自分だけ金を儲けようとしている国民殺しの死の商人が東京都民であって、要は都民全般が極悪人なだけなのだから、この権力乱用の構図は本土政府と沖縄県の間にある不正な関係とおよそまったく類似である。東京都民全般は自分の金儲けの為には茨城県だろうと沖縄県だろうと、福島・青森・新潟だろうとどこであれ大量虐殺を平気でやろうとしている。それは完全に悪意でしかない。殆どが東京都民であるところの日本政府がその種の権力乱用の悪癖に耽って恥じないのは彼ら公務員が皇族含め腐敗しきったからだ。
われわれ日本国民は全精力と全才能を尽くし、東京都にある日本政府と東京都庁を完全に覆し、原発公害だの基地おしつけだのありとあらゆる悪意で日本国民大量虐殺をはかって金儲けしている東京都を征伐しなければならない。この為には手段を選んではいけない。相手はそれ以上の悪事をしてくるのだから。
大井川知事は自民党の支持を受けて前知事を破っているので、自民党に媚を売って保身をはかり、県民・国民の命を犠牲にしようというのだろうか? 東京都民の金儲けの犠牲になって何百万人も大量虐殺される、しかも自分の統治する県民が殺されていくのを後押しし、手助けする知事が大井川氏だとしたら、これはもはや反国民的存在という他ないであろう。すぐに全県民に、また都民による原発公害で被害を受ける周辺県民にも再稼動の是非を問うべきだ。
はっきりいって、利己的なダークトライアド風の悪意で、原発公害を他県民におしつけ、犠牲にし、自分だけ金を儲けようとしている国民殺しの死の商人が東京都民であって、要は都民全般が極悪人なだけなのだから、この権力乱用の構図は本土政府と沖縄県の間にある不正な関係とおよそまったく類似である。東京都民全般は自分の金儲けの為には茨城県だろうと沖縄県だろうと、福島・青森・新潟だろうとどこであれ大量虐殺を平気でやろうとしている。それは完全に悪意でしかない。殆どが東京都民であるところの日本政府がその種の権力乱用の悪癖に耽って恥じないのは彼ら公務員が皇族含め腐敗しきったからだ。
われわれ日本国民は全精力と全才能を尽くし、東京都にある日本政府と東京都庁を完全に覆し、原発公害だの基地おしつけだのありとあらゆる悪意で日本国民大量虐殺をはかって金儲けしている東京都を征伐しなければならない。この為には手段を選んではいけない。相手はそれ以上の悪事をしてくるのだから。
2019年2月23日
東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべし
茨城県庁も東京都の会社である日本原電による東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべきだ。当該原発事故で悪影響を受ける周辺県民にも投票権を与えるべきだろう。
東京の一企業による暴利の犠牲で茨城県民含む日本人が大量虐殺される大公害、外部不経済を是認するのは、反県民的国政・県政というしかない。当然どんな手を使ってもこの非国民的な日本原電の悪業を防止する必要がある。自民党政府が腐敗しているならその完全解体も視野に入れるべきだ。
東京の一企業による暴利の犠牲で茨城県民含む日本人が大量虐殺される大公害、外部不経済を是認するのは、反県民的国政・県政というしかない。当然どんな手を使ってもこの非国民的な日本原電の悪業を防止する必要がある。自民党政府が腐敗しているならその完全解体も視野に入れるべきだ。
2019年2月22日
東京都の会社たるところの日本原電の再稼動公害による国民大量虐殺を阻止する為には革命権行使での日本政府転覆も躊躇すべきではない
東京都内の会社である日本原電の村松衛社長も恐らく東京都民なのだろうけど、簡単にいえば茨城県民を大量虐殺しながら、命と財産を奪う大公害施設で東京都民である己の金儲けをさせてくれ、と、意味不明な再稼動目指したいとかいう伝達を、今回2019年2月22日に茨城県庁で大井川知事にしたわけだ。
で、この人が単に極悪人なのはもうすぐ隣の福島原発をみれば明らかなことで、前知事の橋本まさる氏が堤防かさ上げしてなかったら、日本原電単独だったら茨城県も福島県と同じ状況にあったことはほぼ確定的である。確か、津波をぎりぎりで防げたのはほんの数十センチとかの差だったし、電源喪失自体は日本原電の方でもしていたのだから。
これを全て鑑みる限り、この村松衛という人物は、裁判で処刑されても仕方ない国民へ公害をばら撒いている人物なのが間違いないことであろうと思う。勿論それを容認している自民党政府の側にも致命的な悪意がある。東京都内につくればいいではないか。皇居原発だのお台場原発だのを作ればいい。その上で安全だといってこっちにおしつけてくるなら分かる。どちらにしても馬鹿はバカだと思うが。どうしてここまで、日本原電社長は、自民党員は、そして日本政府や天皇や、彼らを支持する日本国民一般は人間的に最悪になれるのか。まあ先ず間違いなくこの村松氏はサイコパスであろう。だから他県民が死のうが恐怖でご飯も喉を通らなかろうが、自分さえ金が儲かれば何でもいいと思っているに違いない。
外部不経済を内部化する能力がない日本政府や自民党安倍政権は、勿論既に国益どころか国害以外なにものでもないのだし、その上に胡坐をかく天皇皇族閥も一斉に永遠に国政から除去されることが先ず大前提として、次にこの日本原電社長もやはり国民に対する公害のおしつけをする極悪人として、裁判なりそれを超えて倫理的責任を問うことが未来永劫必要であろう。当然それは怨嗟の念にもなるだろうし、どれほど謝罪しようが、一族郎党、永遠に憎悪され、日本人全体を超え未来の全人類から恨まれ、場合によってはあらゆる手立てで、合法的な方法をとってさえ心理的には復讐されることになると思う。そしてそれは当然の報いだろう。なぜこの村松という人の金儲けのためにわれわれが殺され、命を常に脅かされ、精神的不安やら心的外傷やらストレスやら、土地財産を奪われねばならないのか。再稼動前になんらかの革命が起きて、日本原電も東電も、日本政府も天皇家ごと除去されることになると私は予想する。そうなる以外、国民自身が命を守る手段がないのだから、革命権が行使されるはずだ。そしてこの村松氏は、日本原電という公害会社の全利害関係者もろとも、未来の全人類から怨まれる結果、なんらかの因果応報で不幸な生涯を終えることになるだろう。それが業というものなのだから仕方がないと思う。
単なる共通善としての法が極悪公害を裁けないなら、心理的・社会的制裁として復讐が遂げられるはずだ。日本全国民の金儲けしたさの強欲、貪欲、他人の命を殺してまでも己の金を儲けたいという悪意が、原発再稼動という都会からの公害おしつけの体たらくに現れているのだが、もはや人道の面からいえばこの種の極悪日本国民自体が滅亡してもおかしくはないのではないだろうか? 実際そうなりつつあるが、少なくともどれほど怨まれても足りないだけのことは日本人全般はしているのだから、地獄におとされることだろう。
結論をいうと、この村松氏がなんといおうが再稼動は絶対に禁じるべきだし、それは命と金では比べ物にならないもので、命の手段なのが金だからだ。高々電気料金をけちりたいがために同国民を殺そうとするなど、幼稚園児でも悪事だと気づくであろう。それに気づけないとしたらこの村松氏だの日本政府の構成員だの、自民党支持者全般だのがサイコパス度が高すぎ脳の良心を感じるはずの部位が機能不全だからに過ぎないし、さもなくば群集心理で国民虐殺という大悪業をしているのに自己修正が効かなくなっているだけだ。したがって大井川氏がどんな判断をしようが、一日本国民として、いやただの人類として、人の命を奪う原発再稼動は絶対に防止しなければならない。大公害で殺されるか原発を止めるかであれば、どんな手立てを使ってでも原発を止めるしかないであろう。そのためには公害をばらまいている日本原電だのその背後にいる邪悪な日本政府だろうと打破し、完全に新政府を樹立し、自民党を解体し、皇族閥を永久日常から除去し、神道を消滅させてでも、日本人自身の命を守るほかないであろう。それは人類に恒久普遍の権利であるところの革命権があるからだ。
で、この人が単に極悪人なのはもうすぐ隣の福島原発をみれば明らかなことで、前知事の橋本まさる氏が堤防かさ上げしてなかったら、日本原電単独だったら茨城県も福島県と同じ状況にあったことはほぼ確定的である。確か、津波をぎりぎりで防げたのはほんの数十センチとかの差だったし、電源喪失自体は日本原電の方でもしていたのだから。
これを全て鑑みる限り、この村松衛という人物は、裁判で処刑されても仕方ない国民へ公害をばら撒いている人物なのが間違いないことであろうと思う。勿論それを容認している自民党政府の側にも致命的な悪意がある。東京都内につくればいいではないか。皇居原発だのお台場原発だのを作ればいい。その上で安全だといってこっちにおしつけてくるなら分かる。どちらにしても馬鹿はバカだと思うが。どうしてここまで、日本原電社長は、自民党員は、そして日本政府や天皇や、彼らを支持する日本国民一般は人間的に最悪になれるのか。まあ先ず間違いなくこの村松氏はサイコパスであろう。だから他県民が死のうが恐怖でご飯も喉を通らなかろうが、自分さえ金が儲かれば何でもいいと思っているに違いない。
外部不経済を内部化する能力がない日本政府や自民党安倍政権は、勿論既に国益どころか国害以外なにものでもないのだし、その上に胡坐をかく天皇皇族閥も一斉に永遠に国政から除去されることが先ず大前提として、次にこの日本原電社長もやはり国民に対する公害のおしつけをする極悪人として、裁判なりそれを超えて倫理的責任を問うことが未来永劫必要であろう。当然それは怨嗟の念にもなるだろうし、どれほど謝罪しようが、一族郎党、永遠に憎悪され、日本人全体を超え未来の全人類から恨まれ、場合によってはあらゆる手立てで、合法的な方法をとってさえ心理的には復讐されることになると思う。そしてそれは当然の報いだろう。なぜこの村松という人の金儲けのためにわれわれが殺され、命を常に脅かされ、精神的不安やら心的外傷やらストレスやら、土地財産を奪われねばならないのか。再稼動前になんらかの革命が起きて、日本原電も東電も、日本政府も天皇家ごと除去されることになると私は予想する。そうなる以外、国民自身が命を守る手段がないのだから、革命権が行使されるはずだ。そしてこの村松氏は、日本原電という公害会社の全利害関係者もろとも、未来の全人類から怨まれる結果、なんらかの因果応報で不幸な生涯を終えることになるだろう。それが業というものなのだから仕方がないと思う。
単なる共通善としての法が極悪公害を裁けないなら、心理的・社会的制裁として復讐が遂げられるはずだ。日本全国民の金儲けしたさの強欲、貪欲、他人の命を殺してまでも己の金を儲けたいという悪意が、原発再稼動という都会からの公害おしつけの体たらくに現れているのだが、もはや人道の面からいえばこの種の極悪日本国民自体が滅亡してもおかしくはないのではないだろうか? 実際そうなりつつあるが、少なくともどれほど怨まれても足りないだけのことは日本人全般はしているのだから、地獄におとされることだろう。
結論をいうと、この村松氏がなんといおうが再稼動は絶対に禁じるべきだし、それは命と金では比べ物にならないもので、命の手段なのが金だからだ。高々電気料金をけちりたいがために同国民を殺そうとするなど、幼稚園児でも悪事だと気づくであろう。それに気づけないとしたらこの村松氏だの日本政府の構成員だの、自民党支持者全般だのがサイコパス度が高すぎ脳の良心を感じるはずの部位が機能不全だからに過ぎないし、さもなくば群集心理で国民虐殺という大悪業をしているのに自己修正が効かなくなっているだけだ。したがって大井川氏がどんな判断をしようが、一日本国民として、いやただの人類として、人の命を奪う原発再稼動は絶対に防止しなければならない。大公害で殺されるか原発を止めるかであれば、どんな手立てを使ってでも原発を止めるしかないであろう。そのためには公害をばらまいている日本原電だのその背後にいる邪悪な日本政府だろうと打破し、完全に新政府を樹立し、自民党を解体し、皇族閥を永久日常から除去し、神道を消滅させてでも、日本人自身の命を守るほかないであろう。それは人類に恒久普遍の権利であるところの革命権があるからだ。
2019年2月13日
偕楽園の有料化は避け、バリアフリー化の費用等について寄付を募る方がよい
偕楽園に象徴された烈公の愛民思想を、恐らく新県知事の大井川氏は十分理解しておらず、単に経営合理性という面で県外人の有料化をはかろうとしているのだと私は予想する。もしそうなら、これは茨城県民にとっての屋台骨というべき水戸学の無理解によっているので、遠からず失政となるのではないだろうか? 私自身、水戸学を批判的に考証しのりこえようと努力してきたので、このブログも北茨城学というその後継者としての名前にしてみているわけだが、少なくとも理解した上で欠点を改良するとか止揚することが必要で、水戸学の理解を前提にしないところに議論のしようもないのではないか。
実際、茨城新聞で同記事に対して水戸の市井の人が「烈公の精神と違うのではないか」と述べているのをみた。恐らくはその通りだと思う。県外人は旧常陸国から見たら外国人だから攘夷とまでは行かずとも料金を頂戴せよという算段か。県に払われている国税から整備費を支出することにして、全国民のみならず全世界の人へ無料のまま、偕楽園の整備費を特別予算として国に計上すればいいのではないか? 差異化という意味でも、他の庭園が優良だからと民と偕に楽しむ意味を失う改悪をするというのはどうなのか? 単に整備費が足りない、もっとあれば県外人にもアピールする整備に使えるということなら、全ての出入り口で寄付を募るという形にすればいいと思う。そうすれば貧しい県外の人にとって梅の観賞ができないといった当初の精神と矛盾する事態など起きようもないし、為政者として狭量なけちさを、愛民とは言いがたいと思う。
大井川県政が烈公に学ぶとしたら、県政が今日あるのも全ての民が国税や県税を通じ彼らを養ってくれているからなのであって、その民の間に差別をするなど以ての外となるであろう。このことは道徳的にほぼ正しいと思うので、整備費が足りずに質素なものに留まっても、また国税から十分な維持費がもらえないので県税のわずかな額でこれまでより立派な施設などつくれないとしても、それが水戸徳川家の質実剛健な気風を受け継いだ正しい公共施設の精神的態度だとさえ思う。
英語等で流暢に愛民の精神を正しく伝えられれば、植民地主義の嵐が吹きすさぶ只中で先駆的に全日本の統一と近代化を実現した弘道館共々、偕楽園が世界遺産になることは先ずまちがいがない。弘道館も偕楽園も、寧ろ施設の豪華さではなく全ての民に飾らず素朴な梅の姿をみてもらうためにバリアフリー化を進める方が先決だと思う。これについても費用が足りなければ、広く出入り口やホームページ、政府広報等で寄付を募った方がいいと思う。
実際、茨城新聞で同記事に対して水戸の市井の人が「烈公の精神と違うのではないか」と述べているのをみた。恐らくはその通りだと思う。県外人は旧常陸国から見たら外国人だから攘夷とまでは行かずとも料金を頂戴せよという算段か。県に払われている国税から整備費を支出することにして、全国民のみならず全世界の人へ無料のまま、偕楽園の整備費を特別予算として国に計上すればいいのではないか? 差異化という意味でも、他の庭園が優良だからと民と偕に楽しむ意味を失う改悪をするというのはどうなのか? 単に整備費が足りない、もっとあれば県外人にもアピールする整備に使えるということなら、全ての出入り口で寄付を募るという形にすればいいと思う。そうすれば貧しい県外の人にとって梅の観賞ができないといった当初の精神と矛盾する事態など起きようもないし、為政者として狭量なけちさを、愛民とは言いがたいと思う。
大井川県政が烈公に学ぶとしたら、県政が今日あるのも全ての民が国税や県税を通じ彼らを養ってくれているからなのであって、その民の間に差別をするなど以ての外となるであろう。このことは道徳的にほぼ正しいと思うので、整備費が足りずに質素なものに留まっても、また国税から十分な維持費がもらえないので県税のわずかな額でこれまでより立派な施設などつくれないとしても、それが水戸徳川家の質実剛健な気風を受け継いだ正しい公共施設の精神的態度だとさえ思う。
英語等で流暢に愛民の精神を正しく伝えられれば、植民地主義の嵐が吹きすさぶ只中で先駆的に全日本の統一と近代化を実現した弘道館共々、偕楽園が世界遺産になることは先ずまちがいがない。弘道館も偕楽園も、寧ろ施設の豪華さではなく全ての民に飾らず素朴な梅の姿をみてもらうためにバリアフリー化を進める方が先決だと思う。これについても費用が足りなければ、広く出入り口やホームページ、政府広報等で寄付を募った方がいいと思う。
2019年2月9日
茨城県民はさらに都市の中に自然を増やすべきかもしれない
イギリス政府の国民健康調査のデータを使ったカーディフ大学の研究によると、コミュニティの安定に必要な要素のうち自然との接触回数が占める割合は8%、地域の犯罪発生率を左右する要素のうち自然との接触回数が占める割合は4%だった。他方で、収入、性差、年齢、教育はそれぞれ3%の影響しかもっていなかったとされる。
いいかえると、もしこれが普遍的な事象なら、なぜ都会で犯罪率が高くなり田舎で下がるか、或いはなぜ都会で暴動や無秩序、コミュニティの崩壊が見られ易く田舎でそれらが見られづらいのかの大きな原因は、「自然との接触(地域の自然との主観的経験)」が都会には欠如しており、田舎には溢れているからだといえるのかもしれない。
そしてもしこの仮説が正しければ、茨城県民は既に存在している自然に溢れた環境を維持し、或いは都市化している場所も更に自然を増やす様につとめるべきだ、ということになる。
Seeing Community for the Trees: The Links among Contact with Natural Environments, Community Cohesion, and Crime.
Netta Weinstein Andrew Balmford Cody R. DeHaan Valerie Gladwell Richard B. Bradbury Tatsuya Amano.
BioScience, Volume 65, Issue 12, 1 December 2015, Pages 1141–1153.
参考ブログ:パレオな男「 自然のなかで過ごすと性格が良い人になれるらしいよ 12/02/2015」
いいかえると、もしこれが普遍的な事象なら、なぜ都会で犯罪率が高くなり田舎で下がるか、或いはなぜ都会で暴動や無秩序、コミュニティの崩壊が見られ易く田舎でそれらが見られづらいのかの大きな原因は、「自然との接触(地域の自然との主観的経験)」が都会には欠如しており、田舎には溢れているからだといえるのかもしれない。
そしてもしこの仮説が正しければ、茨城県民は既に存在している自然に溢れた環境を維持し、或いは都市化している場所も更に自然を増やす様につとめるべきだ、ということになる。
Regression models suggested that about 8% of the variance in community cohesion could be explained by subjective experiences of local nature alone (table 5), a striking finding given that individual predictors such as income, gender, age, and education together accounted for only 3% of independent variance; it appears that the role of natural spaces was robust in comparison with other constructs we would expect would influence people's experiences in society.該当論文:
Seeing Community for the Trees: The Links among Contact with Natural Environments, Community Cohesion, and Crime.
Netta Weinstein Andrew Balmford Cody R. DeHaan Valerie Gladwell Richard B. Bradbury Tatsuya Amano.
BioScience, Volume 65, Issue 12, 1 December 2015, Pages 1141–1153.
参考ブログ:パレオな男「 自然のなかで過ごすと性格が良い人になれるらしいよ 12/02/2015」
2019年1月26日
ブランド総研・田中章雄の擬似統計による茨城県への魅力度差別についての対策
ブランド総合研究所(ブランド総研)による魅力度調査は標本母数が少ない上に作為的(ブランド総研会員)かつほぼ一定で、経過や中身も非公開で不透明であり、統計的に信頼できるデータとはいえない。いいかえれば、ほぼ一定の人には各地域に対するほぼ一定の主観的評価の偏見がある(確証バイアスの存在)、ということしか語っていない。よってこの擬似統計で地域差別や地域への偏見を強化しているブランド総研の代表取締役・田中章雄や、それに扇動される都内を中心としたマスメディア各社、さらにそれらマスメディアの発する偽科学を鵜呑みにする衆愚は、いわば科学的思考力が低く幼稚な衆愚なのである。
これは他の差別についてもいえることだが、差別そのものや差別的偏見はなんらかの認識の間違いに当人が気づいていないことによる愚かさの一種であり、しばしばそれが単なる偏見であると知っていながら差別を行う悪意も混じっている。つまり差別観をもっていたり、主張する人というのは端的にいえば愚か者と悪人である。
人は進んで愚者や悪人に関わるべきではなく、むしろ極力その様な人を避けて生きた方がよい。
したがって魅力度ランキングという名目の擬似統計を用い、各地域にくらす一般国民を地域差別している田中章雄以下の諸集団は、単に愚者・悪人いずれかであるから、実害がなければ無視するか(同個人に関わらない)、できるだけその種の人々から離れる(同集団に属さない)のが基本的対策となる。然るべき統計機関、日本国政府などの公的機関が憲法以下の基本的人権や都道府県間の競合を禁じる地方自治法などに基づいて、同調査の偽科学性や差別による国民的・人道的損失を非難し、ブランド総研を解体するということは、当然近い将来、風評被害による公害対策として行われるだろう。だがそれが実行されるまでの間、最良なのは魅力度差別という低知能さに基づいたある人々の特徴を衆愚性の判別装置として用い、むしろその下らない疑似科学を反証するべく思い行動する相対的に賢い人や、擬似統計への理解はなくとも被害者の側にたって差別の加害者らを責める様に動く善良な人とつきあうようにするべきなのだ。いいかえれば、この実に低次元な差別は方法論的には同扇動に対する反応で、日本人一般の知能と性格のよしあしを見分ける為に使える。
端的にいうと茨城県民や茨城関係者全般は茨城の魅力を高評価する人とつきあえばよく(これは常識的だ。つきあうべき対象は単に日本国民だけでなく、全世界を含む)、対して同差別に基づいてそれを低評価する人はもともと科学的思考力が低い愚か者で、さもなくば差別を喜んでする悪人かいずれかなので関わらなくてよい。
これは他の差別についてもいえることだが、差別そのものや差別的偏見はなんらかの認識の間違いに当人が気づいていないことによる愚かさの一種であり、しばしばそれが単なる偏見であると知っていながら差別を行う悪意も混じっている。つまり差別観をもっていたり、主張する人というのは端的にいえば愚か者と悪人である。
人は進んで愚者や悪人に関わるべきではなく、むしろ極力その様な人を避けて生きた方がよい。
したがって魅力度ランキングという名目の擬似統計を用い、各地域にくらす一般国民を地域差別している田中章雄以下の諸集団は、単に愚者・悪人いずれかであるから、実害がなければ無視するか(同個人に関わらない)、できるだけその種の人々から離れる(同集団に属さない)のが基本的対策となる。然るべき統計機関、日本国政府などの公的機関が憲法以下の基本的人権や都道府県間の競合を禁じる地方自治法などに基づいて、同調査の偽科学性や差別による国民的・人道的損失を非難し、ブランド総研を解体するということは、当然近い将来、風評被害による公害対策として行われるだろう。だがそれが実行されるまでの間、最良なのは魅力度差別という低知能さに基づいたある人々の特徴を衆愚性の判別装置として用い、むしろその下らない疑似科学を反証するべく思い行動する相対的に賢い人や、擬似統計への理解はなくとも被害者の側にたって差別の加害者らを責める様に動く善良な人とつきあうようにするべきなのだ。いいかえれば、この実に低次元な差別は方法論的には同扇動に対する反応で、日本人一般の知能と性格のよしあしを見分ける為に使える。
端的にいうと茨城県民や茨城関係者全般は茨城の魅力を高評価する人とつきあえばよく(これは常識的だ。つきあうべき対象は単に日本国民だけでなく、全世界を含む)、対して同差別に基づいてそれを低評価する人はもともと科学的思考力が低い愚か者で、さもなくば差別を喜んでする悪人かいずれかなので関わらなくてよい。
2019年1月22日
田んぼカフェの例
タイの田んぼカフェは、日本で最も田んぼの面積が広い茨城県内の各地でもまねられるビジネスではないだろうか。夏場に、最低限度の風通しのいい骨組みを、田んぼの真ん中にたてればよい。参考になるので情報を載せる。
— ネオ高等遊民@哲学youtuber (@MNeeton) 2019年1月22日
2019年1月19日
公共施設の予約手続きの簡易化
磯原地区公園のテニスコートや市民サッカーラグビー場などは磯原にあって市民の中心的生活圏に近く、容積もかなり大きいので一般市民が日用するのに向いている。したがって子供でも予約できるようにしくみをわかりやすくし、予約の仕方を施設の入り口に掲示するべきだろう。いばらき公共施設予約システムは存在するようだが、よりスマートフォンでもアクセスしやすく、みやすく、表示も大きく、タップやPC上のマウスクリックのみで可能なように手続きを簡易化するべきではないだろうか。
磯原地区公園クラブハウス(0293-44-3090)に電話すれば磯原地区公園のテニスコートは予約できるようだが、そのようなことは施設自体に書いていない。ホームページを通じてしか予約状況は確認できない。実際、市民は誰でも100円で利用できるし、市外の人も(料金は200円だが)利用できるとは、市民の側にまだ思われていないのではないだろうか。電子掲示板などで予約状況をクラブハウスの入り口付近に掲示すればよいのではないか。
市税などで作られた公共施設は市民の生活を向上させる為にあるのだから、利用促進をおこなうのも市政の義務とおもわれる。
磯原地区公園クラブハウス(0293-44-3090)に電話すれば磯原地区公園のテニスコートは予約できるようだが、そのようなことは施設自体に書いていない。ホームページを通じてしか予約状況は確認できない。実際、市民は誰でも100円で利用できるし、市外の人も(料金は200円だが)利用できるとは、市民の側にまだ思われていないのではないだろうか。電子掲示板などで予約状況をクラブハウスの入り口付近に掲示すればよいのではないか。
市税などで作られた公共施設は市民の生活を向上させる為にあるのだから、利用促進をおこなうのも市政の義務とおもわれる。
2019年1月13日
堀江部長フェイスブック友人限定暴言事件についてのさえずり
鈴木雄介@suzukiyuusuke3
返信先: @okasanmanさん
僕は東京にも茨城にも住んだけど、茨城の方が東京より優れている点はたくさんあるし、魅力という意味でも茨城の方がある面は大きい。東京都の報道関係者が自民族・自文化中心主義で茨城県を差別し汚名を着せ続けてると、要するに国内に不和の原因と怨嗟の念を残す事になる。
東京都の報道関係者が茨城県の魅力を盛んにとりあげて、それを全国に報道しないと、日本国民全般はその悪意ある偏見を身に着けてしまい、無意味な差別を強化していく一方だ。この部長もそういう都民の悪業の被害者だ。差別はする側が100%悪い。される側には原因も罪もないのだ。
差別する側は茨城県の風評被害による経済的損害に何の保障もしないのみならず、被害者の精神的傷が永遠に癒えることはない、と知らない。差別を永遠につづけられるわけはないので、いずれ、その罪の重みに耐えかねて、都民や、扇動された日本国民自身が自壊するのだろう。
わたしは、6年以上もの間、都民の悪意ある差別報道に耐えかねてきただろうこの部長に、お疲れ様といってあげたい。魅力のない地域など世界中のどこにもないのだ。それに気づかない人達が鈍感なだけだ。
11:43 - 2019年1月11日
鈴木雄介 @suzukiyuusuke3
岡三マン氏のこのツイートについて、読みましてから数日考えたのですが、やはりこのツイートはツイッターの「嫌がらせや攻撃的な内容」「誹謗中傷または差別している 」に該当すると思い、岡三マン氏は多分軽い気持ちで投稿されたのでしょうけれども、通報させていただきました。
岡三マン氏に私のことはどうでもよろしいでしょうけれど、私は茨城県の北茨城市に生まれ育ち、高校卒業後に東京都内へ行きそこで暮らしました。やがて故郷に帰ってきて、震災や原発事故を経験しました。私の中でふるさとはあまたの思い出と共にかけがえのないものです。
私は都内で暮らすまでふるさとの事を余り知りませんでした。しかし、東京が決してメディアでみるような理想郷ではないと知り、地元にあたる茨城県や水戸市についても客観的な目で見直すようになりました。そしてこの県や水戸が立派なところだと改めて気づくことができました。
私は都内でくらしていましたが、東京に愛郷心は余り抱けませんでした。けれど水戸の先人達の生き様、茨城県域の偉人、その太古からひとつながりの奥深く、悲喜や展望にみちた歴史を学ぶ事で、単に悠久の自然と調和した田園都市への愛というだけでなく、畏敬の念をも覚えました。
私は堀江英夫さんの事情には詳しくないのですが、一つだけ確かな事実としていえるのは、東京都に比べて水戸市がダメということは全くない、という事です。寧ろ、全国民の知る東京都政の衆愚さに比べ、水戸市政はしっかり行われており、それは町並みをみてもすぐにわかる事です。
この短い文字数の制限の中で、私がいかに茨城県や水戸市に、心からの尊敬の念や、愛国心をもっているかについては到底語りつくせるものではありません。きっと水戸や茨城の歴史や、人々の暮らしに詳しく、実際にここで生まれ育っている人にならわかってもらえることなのですが。
きっとツイッターは、私のような個人が一度通報したからといって、岡三マン氏のこのツイートを削除したりはしないと思います。ただ、天地神明に誓って、水戸市は決してダメではないのです。寧ろ、全人類の中でも最も尊い精神を宿している市の一つだと私は確信しています。
事実と異なる指摘で、水戸市や茨城県の偉大さを貶めるのは、これは我々の知っている愛国心という、世界でおよそ普遍的な人の心に当然反すると思います。勿論、事実で他国、他県を貶めるのも単なるヘイトです。が断固としてわが命に懸け、水戸は世界で最も偉大な都市の1つです。
岡三マン氏には何の意図もない悪口なのでしょうが、そうして貶めた地域に暮らす家族を命と同じくらい、もしくは、それ以上に大切にしている人がこの世にはいる、と何卒ご承知ください。私は地方自治法の通り、全都道府県・市町村は相互に競合すべきでなく、同じ日本国の仲間と考えるべきと思います。
7:41 - 2019年1月13日
返信先: @okasanmanさん
僕は東京にも茨城にも住んだけど、茨城の方が東京より優れている点はたくさんあるし、魅力という意味でも茨城の方がある面は大きい。東京都の報道関係者が自民族・自文化中心主義で茨城県を差別し汚名を着せ続けてると、要するに国内に不和の原因と怨嗟の念を残す事になる。
東京都の報道関係者が茨城県の魅力を盛んにとりあげて、それを全国に報道しないと、日本国民全般はその悪意ある偏見を身に着けてしまい、無意味な差別を強化していく一方だ。この部長もそういう都民の悪業の被害者だ。差別はする側が100%悪い。される側には原因も罪もないのだ。
差別する側は茨城県の風評被害による経済的損害に何の保障もしないのみならず、被害者の精神的傷が永遠に癒えることはない、と知らない。差別を永遠につづけられるわけはないので、いずれ、その罪の重みに耐えかねて、都民や、扇動された日本国民自身が自壊するのだろう。
わたしは、6年以上もの間、都民の悪意ある差別報道に耐えかねてきただろうこの部長に、お疲れ様といってあげたい。魅力のない地域など世界中のどこにもないのだ。それに気づかない人達が鈍感なだけだ。
11:43 - 2019年1月11日
鈴木雄介 @suzukiyuusuke3
岡三マン氏のこのツイートについて、読みましてから数日考えたのですが、やはりこのツイートはツイッターの「嫌がらせや攻撃的な内容」「誹謗中傷または差別している 」に該当すると思い、岡三マン氏は多分軽い気持ちで投稿されたのでしょうけれども、通報させていただきました。
岡三マン氏に私のことはどうでもよろしいでしょうけれど、私は茨城県の北茨城市に生まれ育ち、高校卒業後に東京都内へ行きそこで暮らしました。やがて故郷に帰ってきて、震災や原発事故を経験しました。私の中でふるさとはあまたの思い出と共にかけがえのないものです。
私は都内で暮らすまでふるさとの事を余り知りませんでした。しかし、東京が決してメディアでみるような理想郷ではないと知り、地元にあたる茨城県や水戸市についても客観的な目で見直すようになりました。そしてこの県や水戸が立派なところだと改めて気づくことができました。
私は都内でくらしていましたが、東京に愛郷心は余り抱けませんでした。けれど水戸の先人達の生き様、茨城県域の偉人、その太古からひとつながりの奥深く、悲喜や展望にみちた歴史を学ぶ事で、単に悠久の自然と調和した田園都市への愛というだけでなく、畏敬の念をも覚えました。
私は堀江英夫さんの事情には詳しくないのですが、一つだけ確かな事実としていえるのは、東京都に比べて水戸市がダメということは全くない、という事です。寧ろ、全国民の知る東京都政の衆愚さに比べ、水戸市政はしっかり行われており、それは町並みをみてもすぐにわかる事です。
この短い文字数の制限の中で、私がいかに茨城県や水戸市に、心からの尊敬の念や、愛国心をもっているかについては到底語りつくせるものではありません。きっと水戸や茨城の歴史や、人々の暮らしに詳しく、実際にここで生まれ育っている人にならわかってもらえることなのですが。
きっとツイッターは、私のような個人が一度通報したからといって、岡三マン氏のこのツイートを削除したりはしないと思います。ただ、天地神明に誓って、水戸市は決してダメではないのです。寧ろ、全人類の中でも最も尊い精神を宿している市の一つだと私は確信しています。
事実と異なる指摘で、水戸市や茨城県の偉大さを貶めるのは、これは我々の知っている愛国心という、世界でおよそ普遍的な人の心に当然反すると思います。勿論、事実で他国、他県を貶めるのも単なるヘイトです。が断固としてわが命に懸け、水戸は世界で最も偉大な都市の1つです。
岡三マン氏には何の意図もない悪口なのでしょうが、そうして貶めた地域に暮らす家族を命と同じくらい、もしくは、それ以上に大切にしている人がこの世にはいる、と何卒ご承知ください。私は地方自治法の通り、全都道府県・市町村は相互に競合すべきでなく、同じ日本国の仲間と考えるべきと思います。
7:41 - 2019年1月13日
2019年1月9日
いばキラTVのUUUMへの民間委託策
大井川氏はツイッターをさぼっているというか、もはや使っていないように見えるが、岩手県知事の達増氏などは盛んに公的情報発信を続けている。ネットが得意といっていたのはどうなったのだろうか? もっと県政全般の情報を大井川氏個人のセンスで自主公開するべきだし、県外に対する広報活動という意味でも、インターネットリテラシーにおいてはおそらく全知事のみならず世界中でも最高度の部類に属するだろう大井川氏個人のSNSの使い方ともあわせて、SNSのあらゆるプラットフォームを知事自らつかいたおすことが県の信用度をあげることにつながるのではないか。
わが県は対外地上波テレビ局をもたない唯一の県なのだが(東京圏のテレビ局は基本的に全てデフォルトで受信できるが)、若い世代ほどもう地上波を見ていないしテレビ自体をもっていない。つまり今後はSNSを通じた情報発信が王道になり、特に地上波テレビにかわる役割をYouTubeが果たすことになる。いばキラTVはよりシンプルにテレビ茨城か茨城テレビに改称していいとおもうのだが、この県営放送局(というよりYouTubeチャンネル)を、他局より圧倒的な発信力や、情報収集・整理・展覧の能力(いわゆるcuration力、策展力)をもつように育てる事が、地上波に対して投資をするよりはるかに重要で、未来を見越した政策だ。実際のところ茨城県営放送としてのYouTubeチャンネルを、その中に公益放送枠(たとえば議会中継や知事会見、選挙の際の政見放送、県民へのおしらせなど)を確保する事を前提に、広報事業として定期的な競争入札と内容の再検討により、民間委託するのが、この為に最善の方策である。つまり県庁職員自身には民間人より視聴回数を伸ばす技術や才能が相対的にないのだから、自己開発はあきらめ即座に撤退するべきだ。そこで業者をえらびだすとき投資額あたりの収益性(投下資本利益率、ROIC)の高さがひとつの目安になる。そして県庁自体が何らかの意図でこのチャンネルを基本的にいじらない事が、寧ろ最も世界中の民間に茨城県の魅力を発信することにもなるはずだ。YouTubeで収益化をはかろうとすれば、必然に視聴回数をふやすか、イベントなどを通じて国内外でできるだけ多くの人気を得ようとしなければならないからだ。
ところでヒカキンらの属するUUUMが多少なりとも社会的な倫理意識や遵法意識が高いYouTuberらの最大の上場株式会社だが、最も単純にはこの会社にいばキラTVの業務を外部委託すれば、国内での茨城の魅力の広報は最も合理的に行われるだろう。他のYouTuber会社にVAZなどもあるが、こちらは組織規模が小さいのみならず倫理的な意識が相対的に低く、公営放送の為には適さないと考えられる。
UUUM以外にこの方針に叶う会社や個人がいるなら、そちらを選択しなおすべきだが、上述の競争入札という原則と矛盾しているようだが、最大の上場企業より投資収益率(ROI)の高い業者がみつかる可能性はかなり低いのではないだろうか。実際、日本の群れ易い国民性からいっても、新興YouTuberも国内ではUUUMに吸収されていく流れにあると私は思う。貴重な県税を広報に投資するのに際して、UUUMより収益性にほぼ直結する宣伝力がある組織は、国内ではしばらくの間でてこないだろう。尤も、国外への宣伝力を投資の目的のひとつにするなら、私は詳しくないが海外のYouTuber会社や影響力の強い個人を選択しなければならないはずだ。
わが県は対外地上波テレビ局をもたない唯一の県なのだが(東京圏のテレビ局は基本的に全てデフォルトで受信できるが)、若い世代ほどもう地上波を見ていないしテレビ自体をもっていない。つまり今後はSNSを通じた情報発信が王道になり、特に地上波テレビにかわる役割をYouTubeが果たすことになる。いばキラTVはよりシンプルにテレビ茨城か茨城テレビに改称していいとおもうのだが、この県営放送局(というよりYouTubeチャンネル)を、他局より圧倒的な発信力や、情報収集・整理・展覧の能力(いわゆるcuration力、策展力)をもつように育てる事が、地上波に対して投資をするよりはるかに重要で、未来を見越した政策だ。実際のところ茨城県営放送としてのYouTubeチャンネルを、その中に公益放送枠(たとえば議会中継や知事会見、選挙の際の政見放送、県民へのおしらせなど)を確保する事を前提に、広報事業として定期的な競争入札と内容の再検討により、民間委託するのが、この為に最善の方策である。つまり県庁職員自身には民間人より視聴回数を伸ばす技術や才能が相対的にないのだから、自己開発はあきらめ即座に撤退するべきだ。そこで業者をえらびだすとき投資額あたりの収益性(投下資本利益率、ROIC)の高さがひとつの目安になる。そして県庁自体が何らかの意図でこのチャンネルを基本的にいじらない事が、寧ろ最も世界中の民間に茨城県の魅力を発信することにもなるはずだ。YouTubeで収益化をはかろうとすれば、必然に視聴回数をふやすか、イベントなどを通じて国内外でできるだけ多くの人気を得ようとしなければならないからだ。
ところでヒカキンらの属するUUUMが多少なりとも社会的な倫理意識や遵法意識が高いYouTuberらの最大の上場株式会社だが、最も単純にはこの会社にいばキラTVの業務を外部委託すれば、国内での茨城の魅力の広報は最も合理的に行われるだろう。他のYouTuber会社にVAZなどもあるが、こちらは組織規模が小さいのみならず倫理的な意識が相対的に低く、公営放送の為には適さないと考えられる。
UUUM以外にこの方針に叶う会社や個人がいるなら、そちらを選択しなおすべきだが、上述の競争入札という原則と矛盾しているようだが、最大の上場企業より投資収益率(ROI)の高い業者がみつかる可能性はかなり低いのではないだろうか。実際、日本の群れ易い国民性からいっても、新興YouTuberも国内ではUUUMに吸収されていく流れにあると私は思う。貴重な県税を広報に投資するのに際して、UUUMより収益性にほぼ直結する宣伝力がある組織は、国内ではしばらくの間でてこないだろう。尤も、国外への宣伝力を投資の目的のひとつにするなら、私は詳しくないが海外のYouTuber会社や影響力の強い個人を選択しなければならないはずだ。
2019年1月8日
欧州の健康市場と納豆の輸出について
以下の日経産業新聞を引用したツイートで、納豆は欧州在住の日本人向けとしてのみならず、菜食主義者(vegetarian、ベジタリアン。野菜しか食べない)や純菜食主義者(vegan、ヴィーガン、ビーガン。動物由来の物を受けつけない)向けの市場をもっていることが示されている。新たな健康志向の食品として欧州のベジタリアン・ビーガン市場を自主的かつ広範に開拓するという貿易革新は、納豆のおそらく世界最大の生産地として、また国内で最高のブランド価値を持つ立場からも、県内の関係各者が率先してまねるべきことだろう。
単に市場開拓という意味のみならず、心理学において一度ついた負の印象(レッテルやスティグマ)を拭い去ろうとするより、新たなつきあいを求めた方が効率的という立場からは、もはや茨城県民一般が、茨城を低く評価したり、安く買い叩こうとしたり、危険施設をおしつけてきたり(どの党かはいうまでもないが)、差別してくるおろかな他日本国民と積極的に交わる利益も義務も余りないのではないだろうか。わが県の特徴を高く評価する人々との交際を、販路においても海外全てに視野を向け次々開拓した方がわが国の為でさえある。愚民相手にすべからず。
単に市場開拓という意味のみならず、心理学において一度ついた負の印象(レッテルやスティグマ)を拭い去ろうとするより、新たなつきあいを求めた方が効率的という立場からは、もはや茨城県民一般が、茨城を低く評価したり、安く買い叩こうとしたり、危険施設をおしつけてきたり(どの党かはいうまでもないが)、差別してくるおろかな他日本国民と積極的に交わる利益も義務も余りないのではないだろうか。わが県の特徴を高く評価する人々との交際を、販路においても海外全てに視野を向け次々開拓した方がわが国の為でさえある。愚民相手にすべからず。
ドイツは現在午前3時ですが— 納豆を売る女 (@ssophyy2604) 2018年10月8日
当然私には寝れない理由があります
日本からの連絡を
今か今かと待っていたのです
Natto24、新聞デビューです!#日経産業新聞 pic.twitter.com/aiC8EECexH
2019年1月4日
再稼動に関する電子県民投票
茨城県庁と当県知事の大井川氏は、原発再稼動の可否についてPC・スマートフォンでも可能なネット投票を有効票に含めた全県民投票を行い、日本原電に対して県民の総意を前提に意思決定をするべきだ。というより、魅力度向上といいながら再稼動する事は完全に矛盾しており、都民の悪意によって自ら茨城をますます貶める結果になるばかりなので、この県民投票で再稼動賛成が多数であっても県知事の独善で即刻停止を判断するべきでしかないのだが。
少なくともPC・スマホでの電子投票をしくみとして構築する前提をつくることは、今後の県知事その他の選挙でも投票率をあげる準備になるので、早速おこなうべきだろう。
少なくともPC・スマホでの電子投票をしくみとして構築する前提をつくることは、今後の県知事その他の選挙でも投票率をあげる準備になるので、早速おこなうべきだろう。










