2021年12月27日

ひたち文化史的意義を守る最後の一線

「茨城県公館」は前知事が住んでたと思うし、普通に歴史をとどめる迎賓施設として有料で公開した方がいいと考えるが、すでに解体してしまっているからそれはかなわないのだろう。

 でこの件にかぎらず大井川知事は普通に偕楽園の伝統を半ばぶっ壊して一部有料化もしたわけで、総じて経済的損得を文化的意義より優先させるきらいがあるとおもわれる。この件も如実にそうではないか。しかも県民側が知らない間に解体工事してて、僕は今日のさっき茨城新聞記事で知った。で、県政側の言い分はありえない様な判断と拙者は思うのでござる。
 何らかの形で残して有料で、極力黒字になるよう仕向けて公開したらよかったのではないか? だって公館は近代茨城を作った場所なのだ。実際、一般市民に公開された事ないんだから県民としても近代県政の記念碑として一度はみてみたいではないか? おそらくそういうかけがえない文化論的目線をもつ事を、大井川知事は苦手としているとおもわれるのだ。金銭による損得で勘定しがちなのであろう。

 文化的意義を損得勘定より常に優先せよ、とはいわないが、単なる文化的意義だけを評価しうる軸をもっていないかぎり、その県政って将来的にも単なる金持ちにしかなれないだろう。文化的威厳のある金持ちだけが真に貴族となりうるのだからだ。この点で大井川県政には一種の限界がある様に思われる。いわばカリフォルニアン・イデオロギー、「カリフォルニア人の観念論」で心の髄まで洗脳されているとまではいかないが、結構そっちに寄せすぎに思う。

 今後もなにかしら似た様な案件って大井川県政のかぎり出てくると思われる。すでに好文亭の一部に厨房施設いれるべきかで茨城新聞に大学教授からの批評がのってたのも読んだ。
 文化的意義そのものを尊重するという事は、全ての場面で損得勘定のみを優先しない事を意味する。もし当時の損得勘定だけでみていたら、長い目でみて経済的損得においても損害が膨らむ場合すらある。『モナリザ』とか近代アメリカ美術とか浮世絵だって当時は二束三文で売り飛ばされかねなかった様な代物で、真に文化的意義を知る者の手元に残されたために今なお、当時の美術史のおもかげをとどめ、後世に過去の時代のひとびとが懸命に生きた証をつづけているわけである。安直に損得勘定だけで物の真価を判定できないわけだ。数百年前ひとりの画家が手元に置いていた私的な作品ともいえる『モナリザ』ひとつが、イタリア人らに結果として保護され、どれほどの経済的恩恵をのちの現代イタリアに与えているかはかりしれるものではない。絵一枚が国家予算に匹敵する魅力を放ち人々を惹きつけ続けているが、そして作者の意図をこえて未来にあってもおよそそうでありつづけるだろうが、その様な偉大な力があると、一つの同時代作品が生み出された当時の人々はまだほとんど知らなかったのである。現代にあっても同様である。われわれのなかで慧眼をもつ者は朝時代的な文化的素養があるごく一部の者にかぎるだろう。

 結局、文化人側が外部監査の形で極力、大井川県政を監視・批評し続ける必要がると思われる。彼自身、そっち方面に弱いに違いない。県立図書館の入口に喫茶店を設置した様な案件をみたらその長短が一手に表れている。幼児からしたら関係ない施設ともいえるし、そのあいだ利用できなくて県民に負担がきたともいえるし、空間やなんやに余裕がなくなったともいえるし、いわき市立図書館すら自動貸出機が複数完備なのにそれすらまだ満足に導入してないようでもあったし、純粋な開架・自由閲覧の蔵書数ふくめ、県立図書館の設備があの程度でいいのか問題みたいなのを無視して、いきなり損得勘定を導入するタイプなわけです。無論それにも大人的にゆっくり休めてとか、黒字に向かって県財政が軽くなるとかよさはあるのでしょうけど。ただ身障者席が初期設計でついてなかったは県の施設としては要注意であるから、だって憲法上も公務員法上も、「公務員は全体の奉仕者で一部の奉仕者じゃない」んだから、ツイッターの大井川氏アカウントへそのむね前通知したが。
 この調子だと隣の偉大な建造物、三の丸庁舎すら現大井川県政はいきなり解体しかねない。あれは昭和天皇が戦後最初の御製を屋上から詠んだ日本史の決定的な記念碑なのである。

たのもしくよは明け染めぬ水戸の町打つつち音も高くきこえて

歴史的・文化史的意義を考えたら損得勘定を導入して何らかの形で保守するにせよ、必ず県民としては残していくべきものといえる。
 そういった偉大な文化遺産をただの金儲けだけではかっているとできあがるのは成金都市だけである。
 常陸国以前、5億年前の日本最古の地層から続く偉大な茨城県の伝統・現代文明にあって、文化的意義を唱える際にはなるほど、今後の社会情勢をみて保全を考えねばならないが、或る一線は単なる商業主義者に一歩も譲ってはならないだろう。

2021年11月30日

日本農業の補助金は決して世界に比べて多いわけではない

 日本で政府の補助金が一番多い産業は何か知ってる?
 農業だよ。日本の一人当たり農業補助金は世界最高だ。財政バラマキで成長できるなら、日本の農業は世界一になっている。
――池田信夫

上記ツイートで池田信夫氏が「日本の一人当たり農業補助金は世界最高だ」と言ってたが、以下のデータはそれを否定している。
 



事実は、日本の農家に対する補助金と財政負担率は、一戸あたり米英仏独瑞より低い。産出額に対する補助金の割合も米英仏瑞より低い。

https://maff.go.jp/j/wpaper/w_maff/h22_h/trend/part1/chap1/c1_06_03.html

https://www.weekly-economist.com/2016/06/07/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%81%AF-%E9%81%8E%E5%B0%91%E4%BF%9D%E8%AD%B7-%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%B9%B4%EF%BC%96%E6%9C%88%EF%BC%97%E6%97%A5%E5%8F%B7/


2021年10月22日

日製本社帰還運動

茨城県はテレワーク推進の一貫で、日立製作所本社の日立市帰還運動をおこなうべきだ。その際、鼓舞として本社機能を茨城県内へ移動させた企業には一定期間の法人減税をおこなう。

2021年10月21日

日立国法

1条 公平
日立国はすべての日立国民らを公平に尊ぶ。

2条 自由
日立国民は互いの自由を認め合う。

3条 平和
日立国民は侵略戦争を拒み、自ら国を守る。

茨城農漁業関税、茨城電気関税、茨城県基金案

悪い仲間と暮らすより、栄光ある離脱を選んだ方がよい。5億1100万年前の地層からはじまり、旧常陸国を経てつづく我らの品位に、旧日本国は既にふさわしくないであろう。

 よって茨城県は近い将来、日立国として独立するが、それ以前に、1.茨城農業保護関税と2.茨城電気料金関税の2つの政策を導入すべきだ。

1.茨城農漁業関税

 茨城県産の農漁業の生産物を茨城県外へ輸出する際に一定率の関税を差し引き、茨城県内のエンゲル係数(食費負担)を下げて人口流入を促しながら、 かつ減反その他の生産量減なしに県外での県産作物の単位取引価格(評価額)をあげることができる。

2.茨城電気関税

 茨城県外への電気供給に一定率の関税をかけ、テレワークふくむ茨城県内へ本社機能の移転を促し、また産業用電気料金を県内で相対的に下げ、さらなる工場移転を促しながら、茨城県民の可処分所得をあげて、県民生活を楽にする。

 この2つの新たな財源を作り、茨城県庁は「茨城県基金(将来の「日立国基金」)」を設け、現代ポートフォリオ理論に基づく国際分散投資で堅実に資産運用し、たとえばノルウェー政府年金基金を参考に、それを超えるリターンをめざしつつ、徐々に県資産をふやし続ける道にあゆみださねばならない。続く人口減少がありうるなら今も県南を中心に続いている移民導入を除けば、今後の社会で唯一、これだけが県民、のちの日立国民自身の栄達と生き残りの道だ。

2021年10月20日

東京都のブランド総研およびNHKら報道各社の虚偽報道公害による、度重なる信用毀損・業務妨害、名誉毀損罪への、群馬・茨城・栃木3県共同での50兆円超損害賠償請求論

概論

  茨城県のめざすところは神位、すなわち、すべての面で全世界で最もひときわ群を抜き優れている、比類なき神格の理想国でなければならない。

 この際、ブランド総研とNHKら都民マスコミは卑しい中華思想の偏見で、「おもに西日本での魅力の不知」を「魅力なさ」とすりかえる稚拙で悪意にみちた虚偽報道による、信用毀損・業務妨害罪をくりかえしてきている。
 一連のNHKら都民マスコミによる報道公害は国際人権規約、憲法、放送法、刑法、地方自治法などに違反している。よって茨城県の県警・検察は、群馬県・栃木県らの同権力、および観光業者・農林水産業者団体、その他の被害者団体・個人と共に、ブランド総研・NHKら都民マスコミ各社を信用毀損・業務妨害および名誉毀損の罪で起訴し、過去16年間にわたる損害賠償額を最低GDP1割、計50兆円以上とみつもって、東京港区の雑居ビルの一角にあるブランド総研を家宅強制捜査、その資本金2500万円と全資産ごととりたて、社長・田中章雄被疑者らに刑法233条に定める懲役刑を与えてから、残りの額はNHK以下のキー局キー局(日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジ)はじめの都民マスコミ各社へ損害賠償請求し、必ずとりたてねばならない。

 また、望ましい顧客単価のえられる可能性が高い具体的宣伝対象として、茨城県よりひとりあたり所得の高い計64の国と地域を挙げられるが、うち、おもに西日本でふさわしい標的は福井、滋賀、大阪、三重の4府県、中部をいれると、愛知、静岡、富山の各県となる。ただしこれらの優先順位は平均所得でみると以下詳論で示す53の海外の国々より低い。また観光公害をかえりみると、居住快適性と矛盾する可能性もあるので、観光客の呼び込みには、事前に十分な計画が必要。寧ろ今の時点で、質の高い地元客を中心に茨城観光は8割以上が満足と好評を得ているので(茨城県観光客動態2020)、これらの国々への宣伝は外貨獲得を目的に、地元人の生活上の幸や安寧を阻害しない「商品紹介」を中心にすべきである。

詳論
 

1.ブランド総研・田中章雄と都内マスコミの共謀罪

 ブランド総研田中は、5段階評価のうち都道府県名だけで『非常に魅力的』2倍か『やや魅力的』1倍の倍率で調査して、「まだその魅力を知られていない自治体(主に西日本側では関東北部が知られていない)」をデータセットとしてもっているにすぎないが、NHKら都内マスコミにおける東京中華思想の悪意を触媒に、炎上商法狙いでさも「魅力がない自治体」かのよう虚偽の事実を全国報道し、都道府県単位の部落差別による人権侵害にあたる報道をしている。これらは国際人権規約(自由権規約)2条、20条、憲法11条、14条に定める人権を侵害しており、また放送法4条の報道倫理を逸脱し、地方自治法2条6項で定める都道府県・郡市町村間の競合禁止を侵害しているばかりか、刑法233条で定める信用毀損・業務妨害罪罪だが、万一何らかの事実が裁判所に認められれば刑法230条で定める名誉毀損罪にあたるため、いづれにせよ違法行為な事が疑いない。

国際人権規約 市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)
第2条
1  この規約の各締約国は、その領域内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。

国際人権規約 市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)
第20条
 2 差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。

日本国憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

刑法第233条
虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

刑法第230条
1.公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2.死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。

刑法第230条の2
1.前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2.前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3.前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

地方自治法 第2条6項
都道府県及び市町村は、その事務を処理するに当つては、相互に競合しないようにしなければならない。

放送法4条
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 なおわが茨城県については茨城県観光客動態2020県のページ)で観光の魅力に5段階評価で4以上の満足が8割以上、5(最高得点)が5割以上、2以下は1%未満と極めて高い評価を受けているのが事実である。おなじく県民の生活の魅力は、茨城県民世論調査2019県のページ)で7割が満足と答え、8割が愛着と誇りを持つなど、これもとても高い評価を受けている。すなわち、茨城県に関するかぎり、ブランド総研とNHKら都民マスコミがやっているのは、魅力の不知を魅力なさと悪意をもってすりかえる「虚偽の事実」を報道することによる、歴たる信用毀損、業務妨害罪である。
 なおこの被害総額は、ブランド総研創業・同調査開始から16年間、被害者になってきた茨城・栃木・群馬3県のGDPで最低1割以上とみて、計50兆円以上にのぼっている。
 首都圏北部3県の観光業者、農林水産業者、その他の産業に従事する者、名誉権、人格権、尊厳をもち生きる権利、諸々の人権侵害による心的外傷その他の具体的損害をうけてきた全県民は、検察・警察を動かし、3県共同で東京港区の雑居ビルの一角にある社員約10名のブランド総研へ強制捜査にふみこんで、これまで「ブランド総研会員アンケート」の名で正体不明に秘匿されてきた実態の資料を押収した上で訴訟し、資本金2500万円その他の全資産を賠償金として没収し、他の損害額は都内マスコミ各社へ賠償請求しなければならない。

2.田中章雄の信用毀損・業務妨害罪マッチポンプ商法

 田中は「魅力の不知」を「魅力なさ」とすりかえる全国報道させ全国民に民族・部落差別意識をあおる炎上商法で、特定自治体を罠にはめ、キー局(日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジ、NHK)ら都内マスコミ各社からの偽りの悪意ある全国報道で危機感を募らせさせたうえで、詳細データ資料を計100万円超で各自治体に売りつける税金むさぼりのマッチポンプ商法をとっている*1
 なお、当然ながら公税の原資は地方交付税を通して全国民で、特に交付金団体ではない都民が実の負担者である。

*1

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――ブランド総研『地域ブランド調査2021』アーカイブ

3.田中章雄の共犯である東京人マスコミと南関・西日本人一般の中華思想

 都民一般は江戸・東京建設の過程で東京中華思想を身に着けるに至り、都内マスコミはその妄想を強化するような「都会人」自己イメージへの自己愛を強化する田舎差別報道をきわめて好むうえに、日本人一般の人権意識・共感性・道徳的利他性の低さは縁もゆかりもない地域への偏見からきた公然たる差別をなんとも感じないほどの質でもある。
 西日本とくれば、平均学力、教育程度などで基本的民度を問うまでもなく、もともと弥生民族や渡来人として約2800年前頃から列島に侵入して以来、より厳密には奈良人が遣隋使を派遣して以来、中華思想を公に帯びている。また、それに加えて薩長土肥や小御所会議でクーデターを起こした京都・広島両地域が、その地誌や民情のなかで明治維新と称する一連の反政府テロを成功と勘違いしたままで、もとの中華思想にその種の底抜けの驕りが加わっている。
 悪徳都民マスコミが最高の場と宣伝し続ける為、すっかり何もかも優れている最美の場に違いないと洗脳されている東京や横浜、また理想的観光地扱いの北海道を除き、同様の悪意で都民マスコミがつねづね負のイメージで報道してきている東日本一般へ、「未開」とか「後進地」などの悪意ある偏見や差別意識をもったままである。いわゆる白河以北一山百文的な卑しい差別意識を、東京以西(東京を含む)は一般に、いまだにもっているということだ。

 したがって田中の炎上プロモーションは視聴率・アクセス数を稼げ、田中と都民マスコミ、それに同調する南関東・西日本人一般は共犯ということになる。

4.一部ネット民の逆張り

(諸外国ではマスコミの信用度は低い一方、日本は著しくマスコミを信じる人が多い、極めて低い媒体読み書き・批判的思考力の民度だが*2)ヤフーコメント民をみるかぎり、あまりにしつこく田中・都内マスコミの共犯による偏見報道がおこなわれていると気づいたネット民のなかには、この報道の中身をおおかれすくなかれ疑い始め、マスコミによる扇情報道のたちの悪さ(マスゴミ性)への反発や、「判官びいき」から却って関東北部を逆張り的に好評する人々がでてきている。
 但し、この層のうち、実際に茨城のよさを実地で確かめた者は自分がヤフーコメントを分析した限り、首都圏および隣接県(福島県)にかたよっている。コロナ禍で遠方へ旅行する機会のなかった折なので、茨城空港で神戸空港から直接県内にきた関西人も少数いたが、移動制限のあるなか近隣自治体へ旅行にきて現実の魅力を体験する県外人は近隣都県に片寄っていたためと考えられる。

*2 

 社会実情データ図録、新聞雑誌に対する国民の信頼度(国際比較)、2017

5.望ましい宣伝の標的

 茨城県より県民所得が高い都道府県は2006年から2018年度までの平均で東京、愛知、静岡、栃木、福井、富山、神奈川、滋賀、大阪、三重、群馬の11県だけで、このうち4都県は首都圏にある(内閣府、県民経済計算(平成18年度 - 平成30年度)(2008SNA、平成23年基準計数)、1人当たり県民所得)。
 既に首都圏向け宣伝は橋本・大井川両知事がおおかれすくなかれやってきているので、もし観光・物産品などによる収入獲得を前提にすると、国内府県で首都圏を除けばあとは
1. 愛知、2. 静岡、3. 福井、4. 富山、5. 滋賀、6. 大阪、7. 三重

の順で集中的宣伝をおこなうべき標的となるはずだろう。しかし、つぎのようその優先順位は他国に比べてずっと低い。

 購買力平価のひとりあたり国民所得でみると、上記自治体と比べてより裕福なのは順に
1. カタール、2. マカオ、3. シンガポール、4. クウェート、5. ブルネイ、6. アラブ首長国連邦、7. ルクセンブルグ、8. スイス、9. ノルウェー、10. 香港、11. アイルランド、12. バミューダ、13. アメリカ合衆国、14. オランダ、15. デンマーク、16. サウジアラビア、17. オーストリア、18. アイスランド、19. ドイツ、20. スウェーデン、21. ベルギー、22. オーストラリア、23. フィンランド、24. カナダ、25. 東京都、26. フランス、27. バーレーン、28. ケイマン諸島、29. イタリア、30. オマーン、31. 大韓民国、32. イスラエル、33. スペイン、34. ニュージーランド、35. マルタ、36. チェコ共和国、37. スロベニア、38. アルバ島、39. キプロス、40. エストニア、41. リトアニア、42. スロバキア、43. ポルトガル、44. トリニダード・トバゴ、45. シント・マールテン島(オランダ領)46. 愛知県 47. バハマ、48. ポーランド、49. ハンガリー、50. ラトビア、51. ギリシャ、52. セーシェル、53. セントクリストファーネイビス、54. 静岡県、55. 栃木県、56. 福井県、57. クロアチア、58. 富山県、59. 神奈川県、60. 滋賀県、61. プエルトリコ、62. 大阪府、63. 三重県、64. 群馬県 65. 茨城県
となっている(世界銀行2018調べ)。

 つまり、国・地域別でみて、上の64の順序で、より高単価な上客として望ましい可能性が高い事になる。

 したがって観光収入が目的ならこの順序で集中的宣伝先として望ましい事になるだろう。

 ブランド総研魅力度調査は西日本全体で関東北部へ「とても魅力的」「やや魅力的」と感じる数値が低い事が低評価の原因とされているが、上記をかえりみると、集中的宣伝標的として望ましいのは、西日本のうち特に西から大阪、福井、滋賀、三重の4府県までになり、標的がきわめて絞られる。広告宣伝費に限界があるからには、もしブランド総研にあおられてどうしても西日本側での知名度をおおかれすくなかれあげたければだが(自分は、国内文化のすみわけとして、必ずしも積極的にそうしない方が望ましいように思うが)、国内向けプロモーションとしては、この4県の富裕層へ集中的に宣伝すべきとなるだろう。ほか愛知、静岡、富山は中部・北陸地方となっているが、おなじことがいえる。
 但しこの4府県のうちには、特に大阪という犯罪率など民度に摩擦があると考えられる箇所がふくまれていることに注意がいる。すなわち大阪などから特に富裕層以外が旅行客として流入すると、茨城の治安を悪化させる可能性が十分すぎるだけある。それだけでなくて関西圏の文化自体が茨城のそれと違うので、相当目立ったりすることにはなるだろうし、特に一般に大阪人はガヤガヤとうるさいので、茨城県民側が迷惑だと感じる場面もしばしば出てくるのではないかと思う。
 自分がしるかぎり、慶喜公と徳川家の縁があってこれらの自治体中で最も県民性や県の風土が似ているのは静岡で、次点が松平家の治めていた福井と思われる。ほかの府県はかなり茨城の既存の県民性と違和するところがあると思う。愛知や大阪は通常非常に商業的な性質をしていて、滋賀も近江商人以来の同様の傾向を持っていて、また独特の中華思想を帯びている京都から影響されている面も大きく、これらの府県は茨城と国内でも文化が非常に隔たっている。(だからといって海外の文化よりは少しは近いかもしれないが)。三重や富山については、茨城とは基本的に別の文化圏だといえると思う。したがって、標的として最も相性が良いという意味でいえば、静岡、福井の順でプロモーションをするのに都合がいいのではないか、と自分は思う。自分としては、茨城空港を通すなら国内でこれらの県への優先順位を高くすればいいと考える。以後に愛知、富山、最後に滋賀・大阪・三重と進めばいいのではないか。
 これ以外の府県へも好印象を植えつける宣伝プロモーションを打てば何らかの印象向上効果はえられるかもしれないが、平均化したとき県の収入へ計算づくで直結するとはかぎらないのだろう。したがって優先順位は低くなるだろう。

 また、そもそもより緻密にみた高所得さでいえば、上記の53の諸外国は、国内ほぼすべての高所得自治体より、平均所得が上回っている。そうであるからには、茨城にとって、より富裕な客がいる上記の海外へのプロモーションの方がはるかに優先順位が高い、というべきだ。
 ただこれらを観光集客を含むものとするには、茨城県側で海外の客を県内で回遊・滞在させる計画を事前につくって、それは富裕層を十分に満足させるべきものでなければならないだろうし(さもなければ東京へ客を取られておしまい、となるばかりで)、少なくとも既存の文化を壊さないで外国人も滞在し易い英語対応などの案内準備も整えてから、上記の国々の空港と茨城空港を直接結ぶのが望ましいのだろう。

 しかしながら、これらの観光プロモーションは、結局、茨城の既往の居住快適性を損なう可能性が十分すぎるほどある。収容力に限界があるなか観光公害が続けて起きているだけに京都市の前例が参考になる。観光客用の道路などをいくら整備しても、住民自身は財政破綻においつめられるという悪循環に陥っているのだ。そのうえインバウンド需要を狙って市街地を民泊施設などへかえていき、中国など富裕な外国人の持つセカンドハウスなどの別荘もふえているので、住民自身の生活上の幸福とおおかれすくなかれ矛盾してしまっている。
 だから総じてブランド総研の煽りは、観光集客目的としてはほとんど使えないのではないか。寧ろそこで参考になるのは「商品の紹介先」としてなのではないか。

6.茨城県は栃木県と共に、群馬県によるブランド総研信用毀損訴訟に加わるべき

 ではもっぱら田中と都内マスコミへはどういう対処をすべきだが、マッチポンプ詐欺・信用毀損・業務妨害罪というしかない百万以上かかるデータセットやコンサルは一切購入せず、無視・完全放置する事でどれだけあおろうとも田中側に茨城県税(および栃木・群馬県税)むさぼり収入にはならず、かつ、都民一般の心根の卑しさ、下衆さを逆宣伝に利用する事で、無料で全国へ売名活動できることが明らかである。例えばスティーブ・ジョブスはアップルの宣伝時に似た様な事をしていたと思う。最終的にはブランド総研や東京都民の悪質さが喧伝されるにすぎず、日本国民のなかでも一定より批判的メディアリテラシーや科学的良識をもち、倫理観もまともな人々は遠からず、「現実の茨城県の魅力が高い(観光客の8割が満足、住民の7割以上が満足している)」事実とのあいだに生じる認知的不協和を修正せざるをえず、東京人の下衆さや、西日本人の無知をテコに利用できるわけである。

 ヤフコメ民はこれを関西のお笑いの概念で「おいしい」と表現していたが、都民からの関東北部民へのネガティブキャンペーンによる侮辱・名誉毀損・業務妨害・信用毀損罪をみることの一般的不愉快さ、県民への心的傷害や具体的経済損失と、その無料宣伝から得られる利益を天秤にかけて考慮すると、具体的訴訟の賠償でえられる利益が確実ではない――自治体の名誉権がみとめられた大分地方裁判所平成14年11月19日判決。サテライト日田訴訟を除くと、都道府県ヘイトが国法上まだ罰則つきで禁じられた判例がない――時点では、無料宣伝費を下衆都民が負担する事でえられる茨城県民側の利益の方が優るのではないかとおもわれるふしがある。
 但し、群馬県が訴訟をする場合は、茨城県も栃木県と連名、また3県の観光業者・農林水産業その他の産業訴訟団体と共にこの訴訟に加わり、過去16年間でGDP1割とみても最低50兆円以上の損害について、産業と県民生活全般におよぼした具体的経済・人的損害についての賠償を、ブランド総研・田中章雄被疑者ら同事件関与者約社員10名、および、キー局その他の主要新聞社、雑誌社、ネットメディアなどマスコミ各社の関係者の懲役刑と共に賠償請求しきっていくべきである。

7.中華思想に耽る東京人からの偏見は却って不良を遠ざけ、茨城県民自身があらゆる面で圧倒的美徳を極めた神格の理想国づくりをめざすよすがとなる

 また副作用として得られる利益としては、「ヤンキー」「ダサい」など都民が負の印象としてもちがちな関東北部や茨城県への差別的偏見をまきちらしてくれることで、茨城県民自身の実態と乖離した印象を批判的思考力のひくい無知な人々、いいかえれば低一般知性な人々が相対的に持ちがちになる事があげられる。
 現実の茨城県は人口11位だが少年犯罪検挙率は23位と、南関東4都県より不良の割合も数も少ない*3。

*3

東京  少年犯罪率6位 人口1位 
神奈川 少年犯罪率8位 人口2位
埼玉  少年犯罪率14位 人口5位
栃木  少年犯罪率20位 人口19位
千葉  少年犯罪率21位 人口6位
茨城  少年犯罪率23位 人口11位
群馬  少年犯罪率36位 人口18位
警察庁 犯罪統計資料2016

 要するに都民自身のうぬぼれによる、茨城への確証バイアスを強化する田中炎上プロモーションの増幅活動で、東京中華思想・華夷秩序強化の悪徳が、自動で茨城県から低知性な人々を遠ざけてくれることになる。

 また同時に、茨城県民自身も、優等生として誉れ高く美質にみちた行動をとらないかぎり、ますます名誉を貶められるだけ、との自覚がつくので、この一連の東京人の悪意と西日本人らの無知からきた偏見・差別報道を受けて、世界に対し、いかに完成された人格にならねばならないか、いかに一目瞭然で隔絶して群を抜き、圧倒的に優れた県をつくらねばならないか、真摯な反省のよすがとしなければならない。
 もし茨城県が全ての面でもはや日本のいかなる自治体にも及びがつかないほど何の欠点もなく、また、全ての長所も人間業を超えている状態になれば、あるいはまたそれと同時に全世界で最も優れた美質を厳かに示している県となれば、地上の神々の県として全世界へ永遠にその英明を輝かすことになるであろう。

結論

 上述の事でわかるよう、諸国民・県民のひとりあたり平均でみて、わが県はいま世界で65番目に裕福という事になる。勿論これについても、県民の自助努力で世界1位のカタールを大幅に超えていく必要がある。その上でそれらの富を、我々自身が茨城を最もよい県につくりなおしていくのに愛郷無限の精神で還元しつづけねばならない。

 近いうちにわが県は「日立国」として独立するだろう。いかなるひとも差別されない国が約束されていることは、国際人権規約(自由権規約)1条に定める人類普遍の権利である*4。その後も、祖国ひたちを全世界で最も優れた神格に至らせ、その永世にわたる神位を確立する事が、 我々のこの世に処するにあたっての基本目的というべきだ。

*4

国際人権規約 市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)
第1条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。

2021年10月17日

旧日本からの離脱、日立国としての独立論

我々茨城県民にとって政治的に最大のリスクは、すぐ南に衆愚の自治体・東京都を抱えているという事だ。
 千葉と埼玉を挟んで存在するこの自治体は一連の報道公害をはじめありとあらゆる悪意を込めて都の暴利を目的に原発公害をまきちらす、賄賂コロナ禍五輪を強行するなど、深刻な暴政に耽っている状態だ。
「魅力の不知」を「魅力のなさ」と悪意で誤読させ、虚偽報道の公害を起こして民族差別の嫌がらせをするなど、もはや東京都民が先進国並の判断力をもっているとは一切思わない方がいい。完全に悪質なファシズム衆愚と捉えるべきだ。当人達が違法行為・反人道行為を連打しているのに、自分達が上位者だとうぬぼれきっているのも、まったく同じ事の証明でしかない。
 ブランド総研とNHKら都内マスコミの共犯による一連の報道公害は「虚偽の事実」による信用毀損・業務妨害罪、さもなくば「事実の指摘」による名誉毀損罪なのは間違いない。茨城県観光客動態2020で8割が満足、茨城県政世論調査で7割が生活に満足と、観光・住民いづれの県の魅力もとても高いのが実態で、ブランド総研会員アンケートの片寄り(又はおもに西日本の無知)を示すにすぎず、憲法14条平等権、放送法4条の美風・中立・公平・事実・多角・公益の原則にも違反している。こういった報道公害は原発、賄賂五輪、コロナ禍、自動車盗難、他の普段の東京公害と同様に起きている現象で、この件にかぎらずこれまでも起きてきたし今も起きているし今後も続くと考えていい。つまり「東京」がありとあらゆる公的犯罪者の原因で巣窟になっているのだ。

 次のリスクは、その様な公害スラムの東京を崇拝・嫉妬している西日本という更なる衆愚を抱えている包括自治体・日本国に属してしまっている事になる。会沢安『新論』でこの国が作られた時と置かれる状況の文脈が変わっているので、もうこの日本共同体の構図はわが県民にすくなからず損害をなすだけになっている。
 西日本側の無知や東京評に関する判断のおかしさ、明らかに東京が東日本で最も民度が低いのにそこを高いと思い込むなども、西日本全般の平均教育程度や知性の質の低さを反映したもので、結局、西日本側が東京より民度が低いからこそ、スラムを羨望したり持ち上げたりしているといっていい。

 この2大リスク――東京都からの公害、日本国からの公害―ーを回避するには、茨城県は旧日本国から独立するしかない。「日立国」として単独で国連加入する事でしか回避できない、旧日本の低民度自治体からの公害リスクが顕在化しているのが、福島原発事故からはっきり顕在化した最近の東京公害に該当する出来事の数々だ。

2021年9月30日

初代リーズデイル男爵アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード卿による慶喜公評

 彼(徳川慶喜)が失脚する寸前、三十歳の時の彼を覚えているが、徳川公爵は私が今まで会った人物の中でも際立って立派で上品な風貌を備えた人であった。しかも、それだけではなかった。彼は極めて人好きのする優雅な態度と魅力的な物腰を備えていた。背は高くなかったが、非常に均整がとれていた。顔立ちは彫りが深く、口も歯も非の打ち所がなかった。顔色は明るいオリーブ色で、その手も脚も彫刻家のモデルにしたいほど優美であった。彼がほほえむと、顔全体が明るくなった。年をとった現在でも、彼の立派な外見はほとんど変わらず、その魅力はすべてそのまま残っていた。
 我々が初めて将軍に謁見した日のことを、昨日のことのように良く覚えている。それは堂々とした建築物である大阪城で行われた。ハリー・パークス公使とサトウ氏と私は迷路のような廊下を通って、美しい装飾を施した大きな畳敷きの部屋へ案内された。テーブルを囲んで椅子が並べられてあり、そこに将軍の顧問官である御老中(ゴロージュウ)と我々が座ったが、一つだけ席が空いていた。突然、貴人の入場を告げる合図の息を吸う音が建物や廊下で聞こえた。だんだんにその音が近くなり、ついに襖(ふすま)が両側に開かれると、そこにはほんの一、二秒の間であったが、威厳のある姿がじっと動かずに彫刻のように立っていた。我々が立ち上がって礼をすると、将軍は微笑して優雅に礼を返し、我々に座るよう手まねで合図して空いていた椅子に座った。
――初代リーズデイル男爵 アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード

A・B・ミッドフォード『ミッドフォード日本日記 英国貴族の見た明治』第三章 歓迎会と横須賀軍港訪問

 彼(徳川慶喜)は我々英国人が経験してきた騒然たる時代について、率直に腹蔵なく話をした。彼は自分の国民と我々との間の満足すべき友好関係を妨げている幾多の難しい問題のことを遺憾に思うと述べ、今後よりよき体制を発足させる決意を披露した。彼の態度には、きわめて人を引きつける魅力があった。彼は最初のうち、いくらかはにかんで神経質そうに見えたが、それはこれからの厄介な問題の処理を抱えていたため当然のことであっただろう。しかし、彼は生来の非凡な性格と思いやりのある礼儀正しさで、いっさいの束縛を払いのけて、自由に気楽な態度で話しだした。
 最後の将軍徳川慶喜公は、確かに傑出した個性を備えた人物であった。彼は西洋人に比べると小さく、普通の日本人並みの背丈であったが、昔風の日本の衣装を着ていると、その差はほとんど目立たなかった。私が日本滞在中に会った日本人の中では、西洋人の目から見て最も立派な容姿を備えた人間であった。端正な容貌をして、眼光は爛々と鋭く、顔色は明るい健康的なオリーブ色をしていた。口はきつく結ばれていたが、彼が微笑むと、その表情は優しくなり、きわめて愛嬌に富んだものとなった。体格はがっしりして力強く、たいへん活動的な男らしい姿であった。彼は英国の狩りの名人と同じく、あらゆる天候で鍛えられた疲れを知らぬ馬術家であった。四十年後、彼と再会した時、歳月はほとんど彼を変えていなかった。彼の魅力的な物腰は相変わらずそのままであったし、顔に皺が増えただけで、容貌はほとんど変わっていなかった。名家の生まれを示す特徴は、昔の通りにはっきりしていた。もし、貴族というものがあるとすれば、彼こそ本当の偉大な貴族であった。惜しむらくは、彼は時代錯誤の人だったのである。
――初代リーズデイル男爵 アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード

A・B・ミッドフォード『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』 第二章 将軍との会見、長岡祥二・訳

Certainly Prince Tokugawa Keiki, the last of the Shoguns, was a very striking personality. He was of average Japanese height, small as compared with Europeans, but the old Japanese robes made the difference less apparent. I think he was the handsomest man, according to our ideas, that I saw during all the years that I was in Japan. His features were regular, his eye brilliantly lighted and keen, his complexion a clear, healthy olive colour. The mouth was very firm, but his expression when he smiled was gentle and singularly winning. His frame was well-knit and strong, the figure of a man of great activity; an indefatigable horseman, as inured to weather as an English master of ounds. When I saw him again forty years later age had altered him but little. He had retained all his charm of manner, and though the face was lined his features had undergone hardly any change, and the distinction of race was as evident as ever. He was a great noble if ever there was one. The pity of it was that he was an anachronism.
--Redesdale, Algernon Bertram Freeman-Mitford, Baron, 1837-1916
"Memories" pp.393-394



岩倉具視の慶喜公評

 孝明天皇と家茂将軍が相次いで没したが、将軍後継者の慶喜は有能な人物であったから、天皇を上に頂く政府が絶対に必要とよく理解できた。
 慶喜は今の政治的難局を打開する唯一の道という誠実な確信に立って、単なる贈り物としてではなく政権を天皇へ奉還したのである
――岩倉具視

アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』 35章

Then both the Mikado and the Shôgun died, and the latter's successor, a man of ability, was able to see the absolute indispensability of a government directed by the Mikado. Sincerely convinced of this, he surrendered the power into the hands of the Mikado, not as a mere gift, but because it was the only way of solving the political difficulties which existed.
--- Iwakura Tomomi
Ernest Mason Satow "A DIPLOMAT IN JAPAN" CHAPTER XXXV, 1869—AUDIENCE OF THE MIKADO AT YEDO, 1921, p.404
https://www.gutenberg.org/cache/epub/43541/pg43541-images.html

水戸の徳川家の遺訓イクン

 明治34年の頃、筆者こと男爵・渋沢栄一が、おもいがけず、伊藤博文公爵と大磯から帰る汽車の中で、伊藤公は私へ語りはじめました。
     
 伊藤公いわく―
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえていらっしゃいますが、私は、心にはそうはいっても大名でも鏘々(そうそう)たる一人くらいに思っておりましたが、今にしてはじめて慶喜公が非凡の人と知りました」
     
 伊藤公は、なかなか人を信用し認めないかたなのに、いまそんな話をされるのは、なぜですか? と、さらにおして、たずねましたところ、
     
 伊藤公いわく――
 おとといの夜なんですが、有栖川宮家で、スペイン王族のかたを迎えて晩餐会がありまして、慶喜公も、わたし伊藤も客に招かれました。
 宴会が終わってお客さまがたが帰られたあとで、わたしは慶喜公へ、試しに「維新のはじめにあなたが尊王の大義を重んじられたのは、どんな動機から出たものだったんですか?」とたずねてみたところ、慶喜公は迷惑そうにこう答えられました。
     
慶喜公いわく――
「それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
 ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
 父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた遺訓イクン、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
 けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
 この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです」
     
 伊藤公いわく――
 いかにも奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は果たして、並みの人ではありません、と。
     
 筆者・渋沢はのちに慶喜公にお目にかかったついでに、この伊藤公の言葉を挙げておたずねもうしあげたところ、慶喜公は「なるほど、そんなこともあったね」と、うなずかれていらっしゃいました。
――渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守
     
原文
 明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。

―――

参考資料

http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/yosinobu.htm

http://www.komonsan.jp/kura/cat24/5_9.html(リンク切れ)
(アーカイブ https://href.li/?https://web.archive.org/web/20160817164053/komonsan.jp/kura/cat24/5_9.html

『徳川慶喜公――その歴史上の功績――』宮田正彦・茨城県立太田第二高等学校長「大政奉還と王政復古」、平成9年12月7日講座、平成9年度水戸学講座講録、常盤神社社務所

2021年9月16日

自分の私見としての、日本国滅亡後の未来予想

西日本とか南関東の人達って、特に西日本にその傾向があるけど、次の様な言動をする。

 関西人曰く、慶喜公は臆病者だとか。腰抜けだと。

 は? って話。 

 母方が皇族で、義公以来尊王の家で、主君なのが天皇家だってのは『徳川慶喜公伝』引くまでもなく常識でしかない。だってそれが水戸の徳川家の哲学として水戸学という体系になって広く海外にまで知られてんだから。それすら知らずに、なんで主君の命令に従って大人しく引き下がったのを「臆病」「腰抜け」というのだろう? ずっとこれが僕は理解できずに、西日本とか南関東とかの人って何考えてんだ? と異星にきた様な感じだった。

 それで先日、じゅんちゃんという人のユーチューブ動画をみて、そこでこの人は奈良出身なんだけど、烈公に悪口をいっていた。それで初めて気づいたのだ。関西の人って、一般に、単純に馬鹿なんだと。ここでいう馬鹿は馬を指して鹿と為す、の故事に、無知の意味のmohaをあてがった語彙で、要するに愚かだから、理非とか是非とか善悪とかをろくに見分けられないのである。
 このじゅんちゃんという人は、烈公が大和の道ぞ要なりける、と彼の故郷である奈良を散々美化して持ち上げてくれていたのすら知らない。そして何も知らない癖に「この人(烈公)の思想は、問題があった」といっていた。
 もう一度書く。およそ何も知らないのに断定的に問題があった、といった。じゅんちゃんって人。なにこれ? と僕は思った。は? の倍数が無量大数くらいになった。京では到底追いつけない。

 奈良人ですよね? 天皇家。先祖。

 烈公が守ろうとしていたのは、あなたがたの先祖であるところの奈良の豪族である。

 それが問題があった? 自己犠牲を払いまくってその奈良人を奈良の国風を守ろうとして、実際に酷い濡れ衣を着せられ薨去した義士・烈公の思想が「問題があった」。は?

 じゃあ奈良県とか大和国とかそこの豪族ごとごみ屑みたいに扱って捨てとけばよかったと?

 結局ですね。これが関西人の一般的発想なんである。ろくにしりもしないで貶める。理由は、自分が虚栄心に耽りたいから。中華思想。偶然まねたんじゃない。中国から。必然的にまねているのだろう。だって同一の考え方をもともと持っていたからだ。だって今となっては天皇家がいないんだから中華思想も何にもあったもんじゃないのに、いまだにそのくせで、他県の思想を知りもせず貶めてる。これって完璧に中華思想の類型である。蛮夷の思想なんて知る必要がないみたいな発想で語っているわけです。
 そのくせ、今度は西洋思想をもちあげまくる。これも笑える仕草で。ならしぐさといっていいだろう。前まで中国思想だのインド思想を散々もちあげていた。そして国内思想をその内容を問わず無視して、上から目線で奈良から頭ごなしに見下し、武力弾圧しまくっていた。記紀を読んだらいい。今度は手のひらを返す様に西洋思想にきりかえただけらしい。

 じゃあ何でそんな蛮行を奈良県の人達がしてしまうのか。
 これを観察した。
 結果わかったのは奈良県にかぎらず、関西地方とか西日本とかの人達の一般知能がその水準だからです。まちがいない。そもそも知能が十分に高かったら中華思想なんて言う差別主義の類型に陥る事は決してない。だから東日本とか一度もそんな類型もったことがない。常に文化相対主義の眼差しできている。
 水戸学を「自民族中心主義」と池田信夫がブログで言っていたが、これこそ池田が京都人である証拠といえるだろう。水戸学は文化相対主義の典型例で、はなから中国史とその政治哲学との対比として、比較文化論として成立している哲学だ。すなわち自民族中心主義ではない。中国や欧米とはこういう点で日本は違うんですよ、という思想。逆に、自民族中心主義とは、池田の故郷の京都人がもっている「京都市上京区御所中華思想」(京都中華思想)の類なのである。
 自分が観察したかぎり、原田伊織や関良基など、京都市や京都大学に関わっていた人物がやはり同じ京都市上京区御所中華思想を延長させ、その色眼鏡の投影として、水戸学を攻撃している。水戸学はさも京都中華思想の様なものだ、という思い込みを、池田や原田や関が暗に持っているのはこの為で、現実の水戸学派は、義公烈公はじめ御所の天皇を毎正月に拝んでいたので、普通に文化相対主義的だったのである。要するに京都人みたいに華夷秩序で国内の全ての自治体を見下したり、外国(御所の外、上京区外、山城国外)を遠ければ遠いほど頭ごなしに民族差別したりなどやっていなかったのである。義公は朝鮮通信使と進んで仲良く君子の交わりをして他国の学問情勢を学んでいたし、烈公は西洋思想を進んで学ぼうと『弘道館記』に記述していたし、慶喜公は外国公使と交わって次代の節公を西洋留学に送り出すなど、普通に周辺国だろうが遠い国だろうが、尊重の念と共に親交していたわけです。

 ではなにゆえ、この奈良県の人達(じゅんちゃんとか)、京都府の人達(原田伊織とか池田信夫とか)、長野県の人達(関良基とか)が、あるいは西軍と同様に、しばしば慶喜公を臆病者扱いしてるのか? まじで謎でしかなかった。だってそれって天皇と戦って弑せばよかったのに、といってるみたいなもんだからである。
 水戸学の眼差しでみるとそれはやってはならない行動だから事実、家訓として水戸の徳川家で代々、皇室と宗室(徳川宗家、本家)とが見分けられていた事になる。皇室が本来の忠義の相手だから間違えるなよと慶喜公が烈公にわざわざ庭訓されたと『徳川慶喜公伝』にある通り。
 したがって、西日本の人達は一体何言ってんの? と私からは当然みえる。私は旧水戸藩領だの東京都内だので生まれ育っていたしそこからみたら、慶喜公は最大の自己犠牲で善政のかぎりをつくした禅譲の英君という扱いだからである。それが「臆病者」? は? じゃあ15歳の天皇を人質にしてる岩倉具視だの西郷隆盛・大久保利通だのの軍勢を攻め滅ぼし、滅多微塵にすればいいじゃん、と言ってるの? そしたら今度は、西日本人らはますます「朝敵」と呼んで慶喜公を辱めるわけです。どっちにしても辱める。つまり、西日本人一般って、根っから邪悪な悪意しかない人達なのが公然の事実である。

 臆病者か朝敵といって手段を択ばず、慶喜公にぬれぎぬを着せ続けるのは、西日本人一般の魂が根から腐っているせいだ。心の底がみにくく歪んでいて、相手の忠義や公共の善徳を辱める事しかできない。当然だが文明の名に値しない。純然たる野蛮。それで天皇家という世襲王家兼教祖を、政権簒奪目的で無理やりでも持ち上げて、政治家としての徳川家にはなんでもいいから罵詈雑言を吐こうとしているのが、西日本人一般であり関西人一般なのである。水戸学なんて全く尊重していないし理解もしていない。水戸学派が尊王尊王というから天皇を「玉」扱いし、それを駒として政治利用して、岩倉・西郷・大久保の暴力革命にのっかってやれ、これが西日本人一般の精神構造であり、つまりは純然たる悪意で慶喜公へぬれぎぬを着せまくりたいだけなのである。

 じゃあ西日本人一般が、なぜ心から邪悪と証明できるか。
 それは同時代に、これらの西日本人一般の蛮行を、東北の人達はみぬいていたからだ。いわゆる奥羽越列藩同盟と、会津藩は、ともに、「いやそれ濡れ衣でしょ。慶喜公への冤罪やめなさい」といっていた。山形の雲井龍雄『討薩の檄』が代表例だが、実際、誰が見ても西日本人一般のあくどさ、根の悪さが今から見ても明らかなんだから、文明人たる道理に反するといって薩長暴徒のぬれぎぬ侵略戦争協力要請を断ったイギリス公使パークスや、慶喜公に頑張れ応戦しろといっていたフランス公使のロッシュらは、東北人同様、普通に文民だったというべきです。同じ事は関東人にも新潟人にもいえる。関東勢なんて彰義隊とか赤報隊とか新選組とか諸生党とか最後まで粘っていたし、新潟だって普通に道理の立たない侵略ぬれぎぬ戦なんてやるかみたいに西軍のあからさまな蛮行に反撃加えた。
 西日本・中部のなかでも、愛媛の伊予松山藩とか三重の桑名藩とか、明らかに西軍および西日本一般の大悪意に疑義を呈していた人達って普通にいたのだろう。そんなの誰が見てもわかる事で、無理やり勝てば官軍といって不正を押し通せばなんでもありといってるのは、小御所会議で慶喜公を裏切った京都人とか広島人、鹿児島人とか、その後に加わった山口人とか高知人くらいであり、要するに西日本の各地にこういうたちの人達がいるからいつまでたっても日本の政治はよくならないのだ。だって考えてもみてほしい。不正をしてもやったもん勝ちというなら、そんなの文明国になりようがないではないか。だから少なくとも西軍に主体的に参加した自治体で、或いは旧大名とかその末裔とか部下とかで、慶喜公にぬれぎぬ着せたのは間違いでしたすみませんでしたとか、容保公には本当に申し訳ない事をしました、東日本にも新潟にも、北海道にも沖縄にも、その他、徳川さんちをかばってくれた方々には迷惑かけました、二度とやりませんとか言ってるならわかる。そんなの絶対にあるいは全然してないし、西日本ってそういう公民度なのである。端的にいって、根が悪い。性悪的集団なのである。だから伊予松山藩とか桑名藩とか、高松藩とか和歌山藩、尾張藩とか、そういう蛮族に囲まれている状態にあって、はっきりいって可哀想でもある。悪意がある集団のなかで善意を主張すれば、はめられ貶められ腐され、酷い目にあう。

 明治天皇はまだ16歳のとき、孝明天皇が崩御したせいで、摂関家も弱腰のまま岩倉具視に無理やり小御所会議で慶喜公へぬれぎぬと決定されてしまったから、成人後に、46歳のとき、慶喜公を皇居になった彼の居城跡に呼んで、公爵を授ける事で嘗てのぬれぎぬを解き、和解しようとした。このときも天皇家特有の中華思想で上から目線なのがさすが関西ヤクザ、とんでもない家柄だなと思うわけですが、なにせ強盗団なわけで。すさまじくやくざな本家筋にあたる天皇家からの暴行だの強盗だの名誉毀損だのの被害者である慶喜公が、それでも親族として、「浮き世の事は仕方がない」といったから明治天皇が胸をなでおろした(千田稔『華族総覧』)。それってさ、胸をなでおろしたで済む話じゃあー本来ない。普通に天皇家が慶喜公に禅譲し直さないと筋が通らない話だ。実際の公徳がなかったのは天皇家なんだから。明治天皇の方が公徳がなかったのは明らかでしょ、客観的にみて。大政奉還の奏上って事実に反する謙遜が書いてあり、実際に公徳が欠けていたのは明治天皇だったのである。だから戊辰戦争という要らない内乱を招くわ、当の薩長土肥だの西日本各地で士族反乱を招くわ、琉球王国の独立もダメにしてアイヌへも人権侵害しまくるわ、まぁろくな事していない。朝鮮侵略こと、長州閥・三浦梧楼に閔妃暗殺させてからの伊藤博文による併合もどうかと思う。朝鮮の人が納得済みでやったとかいう明治右派の残党がいるけどさ、そしたら安重根なんて出てきてないから。普通に暴力で強制したのである。閔妃は保守的で開国とかしたくなかったの。だから金玉均も消された。福沢諭吉がそこで切れるのもおかしいといえばおかしい。だって内政干渉してんだもん。福沢はこの意味では弟子を殺されて悲しいのは分かるけど、切れる相手がおかしい。自分が無理やり他国へ内政干渉した事に切れるべきでしょう。李氏朝鮮が清の属国だった。だから奪っていいんだみたいな理屈は、単なる傲慢でしょうね。同じまるごと強制併合を北海道とか琉球とかに対してもやってんだから、要するに征韓論という松陰侵略主義の延長上の西郷と板垣退助の説にのっかってるにすぎない。その松陰だって、元が欧米列強の植民地防止を目的にしてた水戸学計画を改竄し、元凶である欧米の悪事猿まねして自分らも侵略しようぜといいだすとか、悪知恵でしかなかったのだ。

 そんな悪知恵にのっかってる西日本は全般的に蛮族棲み家状態で、そんなのを朝鮮の人達が悪い悪いというのも道理が通っている。実際に東日本から見ても、西日本って悪いんだもん。 しかも今に始まった話ではない。最低でも『古事記』『日本書紀』『風土記』あたりの奈良時代から具体的に国中を侵略して回ってるのが奈良のやくざ勢力だ。つまり天皇家一味。

 もう一度慶喜公にもどると、そんな関西やくざ一味・天皇家に、 忠節を誓っちゃったもんだからすごくひどい目にあった。末裔の慶朝氏に僕はずっと前から私的に注目して私淑していたわけであるが、将軍珈琲の制作・商品化という偉大な業績を残し、茨城県水戸市で亡くなられてしまった。もとの根拠地に静岡や東京から帰ってこられたのは、魂が呼び寄せたのだろうと思う。我ら茨城県の人士は、わが県わが国史に少なからず通じる知識層であれば確実に慶喜公の末裔にも関心を持っていた筈で、実際、我らは慶喜公を尊敬こそすれ、というか水戸の徳川家を全般的に尊敬こそすれ、全然敵意とかないわけです。だって実際に立派な行政をしてた事は間違いないと思う。彼らを「茨城の誇り」といった前知事・橋本昌氏は常識的に正しい事をいっていた。常陸国史・茨城県史をふりかえって、水戸の徳川家ほど優れた治世をした人って少なくとも我々の知るかぎり、君主階級でもいない訳です。佐竹氏の業績も大きかったのかもしれないが、僕のしるかぎり佐竹寺くらいしか歴史遺産がないけれど、佐竹寺も心から立派なものです。中国風の法隆寺とか超えている、純和風の寺院建築で最高傑作なのは間違いない。しかし、水戸の徳川家の残した遺産ってもっと色々あって、特に弘道館と偕楽園、西山荘がそれにあたるかもしれませんが、それぞれ偉大な歴史遺産なのは絶対に間違いがない。

 水戸学の思想も確かに日本史を変えた。それは日本が、タイの様な緩衝地帯以外で、自主的に近代化を果たすことで植民地化されなかった極東の唯一の国になったという風に変えたのだ。もっというと有色人種が主になっている国々で、自主近代化は唯一の例だから、それってなにもかも薩長がやったみたいに歴史を西日本の人達は関東政府に侵略馬乗りしてきて書き換えてしまったが、現実には水戸学派が一からプログラミングをやって、最初に烈公の藩政改革として近代化を実践して自分達で大政奉還・無血開城までまとめたのである。それってマイケル・ソントン『水戸維新』でいわれるまでもなくそうだったのだし、端的に西日本の人達が余りに性悪、余りに卑賤、余りに利己的だったから、そうと認めるだけの勇気や度量がないだけの事。天皇家もそうだけど。天皇家も西日本勢ともいえるけども。だって事実は事実なんだから変えようがないだろう。水戸学派が近代化を成し遂げる原因になって封建制から議会制へと国のかたちを変えた。そしてそれが慶喜公のもとで幕藩体制のもとにあった将軍家を廃して、会沢安のめざした国体として天皇家のもとに全国統一政体をつくりあげた。大日本帝国やその後の日本国ができあがったのは水戸学の力だったのが間違いないし、その途中で政権簒奪勢力、寡頭政治勢力として割り込んできて、GHQから公職追放されてもしつこく中央政界に残存してるのが、薩長藩閥ってやつだったのである。長州閥・安倍晋三氏とか、薩摩閥で大久保利通の子孫である麻生太郎氏とかがそれなわけです。

 要するにですね、西日本の人達って根性がさもしいから慶喜公の尊い御心が分からない。ここでは西日本に、中部も入れますよ。散々烈公の悪口いってる関良基って人、長野の人らしいし、あとは同じくイケズだけに水戸の悪口しかいわない京都人の原田伊織って人も彦根で育ったらしい。彦根と水戸って友好親善都市でしょ。今更京都人ごときが東京まででしゃばって、折角築いた友情をかき回しに来るのやめてほしい、心から。もともと彦根藩の井伊家と水戸藩の徳川家って江戸幕府を経営した人達なわけで、互いの行き違いで偶々事件になっただけ、目的としては国をよりよく治めようというわけですから、別に違う目的を目指している訳ではない。主家にあたる天皇家を巡って水戸藩は譲れない一線が当時としてあったに過ぎない。
 京都人・原田伊織が常陸国を貧しいという。違うんじゃないですか。風土記に遡るまでもなく、現代の状況みるまでもなく。今の時代の資料からみても違うんじゃないの。妄想も大概にした方がいい。茨城・常陸より京都・山城の方がひとりあたり県民所得も、県民総生産も低いんでは? 親王任国になっていた大国と、自藩だか自国だかを比べてるの自覚してんだろうか。一体どこの藩と比べていってるんだか? 当時の山城が常陸と同じく大国のつもりなんでしょうか。一段下の上国でしょうよ、令制国で。自分の日本史の教科書と書き込みしてある手元資料によると、1664年の大名配置だと常陸24万石、京都(朝廷)4万石。は? って話。貧しいのは朝廷じゃないの、それでいうと。自分の京都じゃん、で終わる。しかも全国の大抵の藩より水戸の方が石高が高いというのもこれまた事実なんだから、原田伊織は全国を虚栄の京都中華思想でまたもや差別・蔑視しているのに気づかないのだろう。大体、水戸の藩風って、質素倹約・質実剛健で、いわゆる石高の高さを自慢する加賀とか、尾張みたいな国柄と違うわけですよね、元が。だからそこで馬乗りされても「は?」としか思わないわけだ。弘道館の清廉な最小装飾感とか近代主義の先駆けとしか言い様がないわけです。その様な風紀っていまだに続いてますしね。日立市役所にしたって日立駅にしたって妹島さんのミニマリズムっぽいデザインで、ごてごて装飾してあるものと対極にある。趣味が違うので。金に飽かして成金趣味が好きなんでしょ、原田さんは。大奥が贅沢三昧してた江戸・東京移民だし。こっちはその分、江戸時代通じてまじめな学問事業に使っていたわけなんでね。明治までかかった『大日本史』がその精華ですけども。

 もう一度話を戻すと、西日本の人達は一般に天皇家を誅罰・征伐してもいいと考えているらしい。この点で水戸学と根本的に発想が違うわけだ。だからこそ慶喜公の天皇家への禅譲や恭順を「腰抜け」「臆病者」といい、じゃあ会津藩・桑名藩みたいにそれでも防衛戦をやるみたいな人達へは「朝敵」という。要するに必ず悪意100%でぬれぎぬ謀略と共に加害行為をしてくる。それが西日本一般って事。それって朝鮮の人達が切れるだけの事は有ったって話。東日本勢が余りに大人しすぎ、余りに聞き分けがよすぎるので、西日本勢がそんだけ極悪非道だってことを国際的に責める前に、まぁまぁ喧嘩はよしなさい、天皇陛下を奉るのがわが国の国柄ですから、と慶喜公が言ったとおりにしちゃっている。
 もし西日本勢だったら平気で天皇家を攻め滅ぼし、自分が天皇に成り代わればいいじゃん、と考えていたわけだ? それに失敗したから長州藩が2度も。それで長州藩を旗印にしてる西軍勢は負けて悔しい悔しいと思っており、いつ天皇を弑するか亡ぼすかを暗にうかがっているからこそ、慶喜公みたいな聞き分けのいい天皇忠臣を、憎い憎いと思ってきたわけです。事実の分析としてそうでしょ? 水戸学の発想が西日本にはない。純然た野蛮な戦国社会である。だから米軍に原爆落とされて悔しい悔しい負けて悔しいと思ってるにすぎず、侵略戦争負けて悔しいと思ってるにすぎず、侵略加害ごめんねなんて寸分も感じていないのである。広島人だって長崎人だってそうでしょ。国内外へ侵略主張した薩長土だけじゃないでしょ。

 西日本にそういう蛮族を抱え込んでいる。それが日本の実態だ。
 米軍はそれを恐らく分析しきっていないんでしょうね。米軍のことだからもうしてんのかもしれんが。でも朝鮮勢は知らないだろう。だから東北勢とか普通に大人しい方なのに、日本ひとまとめにして、弥生時代以後の侵略犯である弥生系の西日本勢と潜在的に対立しまくってきている先住(縄文)系の日本人も犠牲者なのに、で幕末もその弥生系のうち百済の末裔である島津氏とか天皇氏とかが案の定暴走して国内外へ帝国主義行動に出たにすぎないのに、日本国内の被害者まで責めているから、話が混乱するのだ。
 普通にね、薩長を朝鮮の人達が叩くなら、東日本・新潟も総じて「だよね」ってなるよ。沖縄も北海道もそりゃーそうなるべ。だって事実、薩長土肥京芸(薩長土肥+京都+芸州事広島)と天皇家に小御所会議以後に侵略されたんだよ。東日本・新潟・北海道・沖縄は。つまり西軍被害者である立場は南北朝鮮も中国も台湾も東南アジアもインドもアメリカやロシアら連合国も同じなわけだ?
 じゃあ今の時点で、というか明治以後ずっとそうだけど、「日帝」「日本」単位で、自分達は仲間だとか思わない方がいい。だって西日本勢一般って単なる侵略犯で、根っから悪意で慶喜公にぬれぎぬ着せて無理やり政権簒奪し、場合によっては天皇を弑してまでと各自分達が蛮政したいだけの勢力で、その恐怖主義暴力にあらがっていた少数派の西日本人も薩長土肥京芸に蹂躙され、丸め込まれただけなんだから。まぁその意味では徹底抗戦して滅亡してないだけに同じ穴の狢と言われるだけの余地はそれら西日本の少数派にはあるわけだから、一般と括られるだけの理由はある。だがそれと同じに、東日本や新潟や北海道・沖縄や日帝こと西軍から侵略を受けた諸外国はなってはいけないだろう。ある意味で、韓国の人達って本当にありがたい存在だったのだ。だっていつまでも折れずに抗議を続けてくれたから、そっか、そういえば西軍って単なる侵略犯の裏切者だったよな? そういえば天皇家も慶喜公へぬれぎぬ着せただけの関西ヤクザじゃん、と気づかせてくれたのだ。だから私はここに言っておくけども、韓国って凄く正義の国なんじゃないかと思う、この点。それは会津藩もずーっと抗議を続けてきたから、そもそも慶喜公ら主家にあれだけ忠誠を尽くしてくれていた時点からそうだし、慶喜公の仕える天皇家にもずっと仕えてくれていたわけですから、模範的な忠臣なのは間違いないわけです。これは衆目が一致している。まじの話で。そういう高公徳な高義な自治体の忠節の深さが、裏切り三昧で不忠不義の極みな権謀術数主義だらけの薩長両藩は気に入らないわけなんですね。これは完全に国柄の違いだと思う。だから水と油で相容れない。薩長両藩は嘘ばっかりついて自分達は英雄だ無謬の正義だという。会津藩は、桑名藩は慶喜公は極悪非道だみたいに嘘ばかりついていた。薩摩藩の方がこの点より悪質で、途中では会津藩と同調して長州藩を攻めておきながら途中で手のひら返して会津藩を攻め滅ぼすという行動をまたもやった。水戸藩も桜田門外の変の初期から京都義挙計画を破断にされて、その発覚もみけすために水戸藩にいた薩摩人も処刑されて、薩摩藩には裏切られてるわけですからね。長州藩は倒幕論で水戸藩側との幕政改革同盟を途中で裏切ったわけだから非難されて然るべき道理はある。だからどっちにしたって、最後まで徳川家にせよ天皇家にせよ裏切らなかった会津藩が本当に一番偉いのは皆が知っている事であり、同じ事は奥羽越列同盟軍は知っていたわけです。水戸藩は尊王の大義という哲学があったので会津藩より一層複雑な経過を経ていたから、明治維新を成し遂げる原動力になって実行したとはいえ、一言で尊王・佐幕に関する忠義の深さをいえないわけですが、何しろ将軍家を継いだ上で大政奉還・無血開城をするわけですから、慶喜公が。会津藩に限っては本当に偉かったとはいえるでしょう。

 その意味で、薩長両藩とか寸分も偉くないし、単純に裏切者だし、しかも侵略恐怖主義政治くり返しただけっていうのが事実でしょう。歴史の。長州藩が討幕派にさえならなければ、つまりは松陰がそこまで極論に行かなければ、おそらくそうはなってないでしょう。薩摩だけが大暴れして、将軍家は残り、徳川家が名目的な大統領状態で、それとは別に祭司としての天皇家がいて、議会政体に移行してたでしょうね。でも長州藩が討幕だーとかいってしまったので薩摩藩が同乗してきて結局、西軍はこの薩摩・長州・土佐藩(板垣退助)という侵略主義をなんとも思わない野卑な自治体だけでできあがってしまい、その後の日帝が秀吉をこえる海外拡大路線をとって破綻までいきつく。しかもね、薩長土は幕末までに浪費体質で借金火だるまだったわけですよ。なんかさも金があったみたいに西軍あげの人達はいうけどさ、間違いでしょ。藩札を調べて御覧なさい。薩長土は財政破綻してたんですよ、江戸時代通じて。だから暴走恐怖主義者ゲリラを抑えるだけの余力が藩庁になかったんですよ。もっというとね、藩民が犠牲になったんだよ。侍は金儲け専門じゃないからどこから藩札で金もってきたかって市井の商人から持ってきてたんだから。
 あとね、石高がどうってさ、今の農業生産みたらいいじゃない。それでいったら茨城と鹿児島とはほぼ同じくらいじゃないですか。生産高で。という事は実態はそんなものだったんだよ。江戸時代も。途中でそこまで土地の制約とか変わってないでしょう。山口県はそれより枯れた土地だったわけです。江戸時代の検地って精確じゃないでしょう。今の方が精確に出てますよ。江戸時代の話は過少申告とか過大申告とかが何らかの政治的意図でなされてたと思うよ。鹿児島は凄いんだぜーと言いたいとか、常陸・水戸は大した事ないと自分達で言いたいとかさ。思うに鹿児島とか山口の場合は、江戸時代最初の時点では過大申告した方が江戸幕府から脅威と思われて容易に攻められないだろうから大目に言って、常陸の場合は江戸に近くて脅威と思われたら面倒だから過少申告したとかだと思うの。そういう過少・過大申告が普通に罷り通るだけの世界でしょ、江戸時代の検地ってさ。科学的なものでもないんだから。でも実態って意味でみたら、今の農業生産高をみたら大体はわかるんじゃないですか、農業の地力、地味って意味で。常陸は大国になるだけの実態はあったってことよ。風土記で常陸は常世だ、どこの家庭も海の幸山の幸の食べ物で溢れてて天国だとか書かれているわけです。それって今もまじで基本かわらないと思う。僕が住んでて子供の頃から周りの人達みてていうんだから確かでしょう。要するに生産力は高い国だったんだよ。原田伊織は貧しい山城国の土地から出てきてるから実態しらないの。

 鹿児島と山口と高知はさ、 あと佐賀は。京都と広島も。自分らで仲良しこよしで組んでるじゃん。150周年やーとかいって。じゃあ勝手に組ませとけばいいんじゃないの。だって上で見てきた様に、彼らは悪政の極みですよ。郷土史がそんだけ罪深い国打ちで占められてるんだから怖くてしょうがないよ、僕がそこで産まれてたら。
 昔、山口の人で恐怖におののいてる人いたよ。罪悪感で。会津を虐めた過去があると知って怖くなったっていってた。それが普通に知的な教育を受けた人の最初に感じる事でしょ。山口県民が余りに教育水準が低すぎるだけだよ、現時点では。もし真面目に郷土史を客観的に学びだしたら、あれ、これうちの県が侵略してんじゃんと気づかないわけがないよ。吉田松陰が先生とかいわれてるけど侵略思想家で、無政府恐怖主義で老中ころそうとしてとらえられてしんでるなって。それを英雄だーとかいってるのって、どうなのって気づくでしょ普通。僕が山口県で生まれ育っててもそうなるよ、てか10代でそうなると思う僕なら。最低でも。これインチキのふるさとだなって。そうならないまま大人になって、まかり間違って知事にまでなってしまう人達、いや、下手すると調子に乗ってまたも東京まで出てきて総理になろうとする人達って、ね、教育程度もそうだけど、知的な水準が低いだけだと思うよ。これは嘘ぬきで。自己欺瞞に気づかないっておかしいと思う。僕が思いっきり主観で同調して山口県史を学んでも、吉田松陰って別に偉くもなんともねえなと感じてるんだからさ。子供向けの歴史漫画とかで嘘ついてんだなって。あと西郷隆盛も。何が西郷どんだよ、こいつ恐怖主義者の典型例で、普通に陰謀働いて国を乱したやつなのに、って。僕とかそれに気づかずに漫画で西南戦争まで読んで、アレーなんでこの人しんでるの? って思って見逃してたのって小学校低学年以下だよ。まじで。10代以上になったら西郷偉いとか思ったことないよ。西郷どんとは思ってたけど。まして10代後半とかになったら疑いだすからね。高校位になったら知性が発達してくるんだから、学習成績よかったら普通。20代以後とかになったら、これどうみてもただの恐怖主義者だなって気づくよ。陰謀だらけの岩倉具視と同次元の、しかも血迷って自滅したやつじゃんって。郷里の人達を裏切れなかったからって別に悪い事してない慶喜公だか容保公だか朝鮮だかを無理やり敵にしたてて攻め込ませようとか、憐れでしかないよね。ヤクザの統領って。手下が恐怖主義者だらけ。

 つかね、山口県でいったらそういう恐怖主義者がさ、特に奇兵隊で藩庁のっとって、鹿児島県でいったら西郷一味がそうだったじゃん。で、その人達が支配勢力だったじゃん。けど水戸って違うもんね。こっちの尊攘急進派って基本、天狗党だったわけです。飽くまで少数派だったから幕政・藩政から追撃・追放されて処刑されてんだもんね、敦賀で。全然違うじゃんか。最終的には慶喜公についてきてまた藩政をのっとるわけですけどね。尊攘派が最終勝利したって事なんだから、それを恐怖主義ことテロリズムで片づけられないんじゃないですか? 政治の現場がどうできあがってるかっていったら武力で優る方が勝ってしまうってだけの話ということをまざまざと示している逸話って話で、政権の立場から、片方の正義が片方の正義に上書きされるわけでしょ。それを「テロリズム」だとまとめたら天皇家も最低でも飛鳥時代から全員テロリストということになるし、その意味で、原田伊織氏も関良基氏もじゅんちゃんも池田信夫氏も、水戸学に影響うけて尊攘派になった人達を「テロリスト」と総称すると、色々と自己矛盾しだすよね。だってさ、京都の歴代政権は平安京建設以来全部テロリストじゃんとなるし、奈良の大和政権以後も後醍醐天皇以後の南朝含め全部そうだし、長野の当の松平家だって徳川家の親戚としてテロリストじゃんとなってくるんだから。近代日本政府を否定するつもりで自分達の成立根拠まで全否定しちゃってるという。だから左派思想に中途半端かぶれるというのは、最終的には国を亡ぼす場合があるのは、この原田・関・じゅん・池田派をみてるとわかるね。実に中途半端に保守思想と彼らが見なした水戸学を攻撃してしまったばかりに、実際には自分達のお国の政治理論を基礎づけている理論体系であったがゆえ、日本国の成立根拠自体をぶっ壊しているという。笑い。国体もなけりゃ天皇家なんて中古奈良のテロリストなんだから政権追放しろって当然なるじゃん。水戸学が尊王カルトなら天皇家はテロリストだから消えろ、二度と出てくるな、で解決されちゃうよ。フランス革命だのイギリス革命だのの二の舞でしょ。どうぞどうぞ。原田・関・じゅん・池田をね、じゅんって人は大阪で読書会やってるらしいから「関西系の反日極左カルト勢」と名づけでもしましょうか。事実そうなんだから。天皇国体論が基本なんだからさ、後期水戸学って。それを烈公を例にとって「思想に問題があった」発言でテロリズムの起源だと攻撃って、まさに、ネトウヨ系の決めつけとか誤認定とかじゃなくてさ、純然たる意味での反日じゃないですか。別にそれが悪いといってるわけじゃないけど。反日が正義ならそれでいいんじゃないかとも思うわけですから。じゅん一味って厳然たる反日思想家集団じゃん。

 寧ろね、反日思想って意味でいうと、松陰もそうだよ。だから松陰の後期は、佐幕(要するに親政府)かつ尊王愛民の水戸学とは潜在的に対立してるんだよ。松陰は『幽囚録』や草莽崛起ゲリラとして周辺国を侵略しちまえ、天朝も関係ない、といったんだよ。郷里の人への手紙で。無政府・反天の侵略思想家だったのよ。
 しかし水戸学は尊王愛民の親政府思想であって、まるで違うのね。列強の植民地化から専守防衛、しかも国民を福祉政策や学術・産業振興で豊かにしていこう、官民相和して不偏不党、忠孝と神道を大切にしましょうという考えだと『弘道館記』に書いてあるじゃないですか? 普通にさ、現代でもまぁ通用しなくもないよ。会沢や東湖の当時の状況での列強からの侵略脅威への対抗言説みたいな部分は、米軍に間接統治されている状況が続いているから、これまた、実際にはかなり有効性あるしね、現に。或いは中国の人達が北海道とか普通に土地買いまくってるわけですけど、それだって、茨城県の単位でおこなわれたときさ、茨城県民がただ北海道民みたいに手をこまねいてみているかどうかだよね。会沢や東湖の思想が忘れ去られていたとしたら黙って中国領になるのかもしれんけどさ、善い意味で効き目が残っていたら、条例とかで一定の枷はつくるんじゃないの。県外の人達に完全に土地を支配されちゃったら間接的に金だけで侵略完了ってなるのは目に見えてんだもん。それでもじゅん一味は「テロリズム」だーというんだろうか。笑い。普通にさ、侵略防止しましょうよってテロリズムと関係ないでしょ。テロリズムってロペス・ピエールみたいな人のことじゃん。反対派を政権の座から次々ぶっ殺していった人のことだよ。だったら水戸学派と一番対立していた井伊直弼がザ・テロリズムなんであって、桜田烈士って寧ろテロリズムを解体した側じゃないの。当時の外国人襲撃は悪? いや治外法権状態で勝手に他国に入ってきて、好き放題してたんじゃないですか、当時の欧米人って。礼儀正しく振舞ってたとかならわかりますけど。ほかのアジア諸国での振る舞いとかみてたらそんなこといえないでしょ。イギリス人がインドでインド人を誤って猿だと思って射殺したけどイギリス人の判事が無罪とした、とか福沢諭吉が『文明論之概略』に逸話として書いてるよ。福沢もそういう認識でいたんだよ。清に至ってはイギリス人へ適当に商売させてたら麻薬蔓延させたうえに麻薬販売を清朝がやめさせようとしたらイギリス議会の決定で清軍を一方的に攻めて征服していう事きかせてんだぞ。米大陸だったら先住民ごと駆逐されて殺されてんだから食料狩りで。それを水戸学派は知ってたんですよ? その人達が、外交関係のない外国人が勝手に国内に入り込んで、似た様な事する前に追い出した方がいいって考えた場合、それって政治的に正当な自治行為であって、テロリズムでもなんでもないんじゃないの。テロリズムの定義がおかしいんじゃないですか。歴史的語彙としてのテロリズムの意味を、政府や公務員の行政行為全てにあてはめるのって、じゃあ自衛官も警察も検察も刑務官もテロリズムかと。当時の武士階級って今でいう自衛官・警官じゃないですか? その人達が行政行為をした、だから悪なんだって何言ってんのの話なんだが。ま、外交関係のない外国人に好き勝手、県内府内に出入りさせるのがいいんだ、とじゅん一味は考えてるわけですよ。当時も今も。だったらそうすれば? 原田と池田のの京都や東京、関の長野、じゅんの奈良はそうすれば? 別に誰も止めないよ。ただ僕は、茨城ではそういうのはちょっとって思いますけどね。外交関係がある国の外国人のかたなら出入りしてくれていいと思うけどさ。外交関係のない外国の人でも、まあ見てても問題なければいいけど、もしその外国が何らかの政治上の謀略で送ってきてる人とかだったら、何らかの問題発生するかもしれん。スリーパーセル発言をさ、三浦瑠璃がして叩いてる人達いたよね。でも現実にそういう北朝鮮の人達が深部まで出入りしてた場合はさ、差別とかぬきに、潜在的に致命的テロをする可能性があるスパイを普通に出入りさせてる事になるかもしれないですから、もしそういうことをされてもいいというなら、京都・東京・長野・奈良は、じゅん一味が進んで行政に持ち掛けて、外交関係がない外国人でも自由に出入りさせる条例を通すべきだと思うよ、心から。茨城でそれを押しつけられると困るだけで。原発とかあるんでね。危険施設が。

 で、じゅん一味とかみてると、西日本の人達一般って、馬もそりもあわないのは当然だと思う訳です。だって水戸学を理解してないだけじゃなくてそのさ、水戸学だってある種の儒学と神道と武士道を混成させた独自道徳なわけだから、飛虎将軍みたいにそれをまっとうに実行した人を台湾の台南市の人が勝手に神格化した例をみると、別に水戸限定の地域思想とかじゃないじゃん。普通に外国でも通じたんだから。しかも大層肯定的に持ち上げられたんだから。
 お国を命がけで守る。しかも民衆を進んで愛おしむ。天皇陛下には忠節を誓う。外敵には進んで立ち向かう。親に孝。産業を新興させ、学術を進め、官民ともに不偏不党でお国の為に働こう。これが水戸学の全てじゃん。ガチで。
『教育勅語』が偉いえらいと右派はいいますよ。井上毅が『大日本史』『弘道館記』はじめ水戸学参考にしてたのは事実ですよね。けれども、教育勅語じゃなくて上記の原則が羅列してある『弘道館記』って、或る意味さ、『教育勅語』より純度が高い道徳思想なんじゃないですか。教育勅語は皇国の為に命を犠牲にしろみたいな事まで踏み込んでるけど、『弘道館記』はそうは書いてないよ。尊王とは書いてあるけど。別にさ、軍人階級以外までそこまでやらなくてもいいんじゃないの。恐らく烈公もそう思ってたと思うよ。自分たち武家が責任をもって国、民、皇を守るつもりだと思ってろうし。三浦瑠璃がやりたがる国民皆兵の復活ってさ、『教育勅語』の論理だよ。全体主義的な皆兵論は『弘道館記』はとってないと思う。

 ま、僕は『教育勅語』も『弘道館記』も信じてませんけど。天皇家も信じてませんし、回天神社みてみなよ。天皇家がいかに尊王志士を裏切ってきたかよくわかるよ。あれだけ自己犠牲してまで天皇を立てようとした人達を、しにまくっても慶喜公ごと朝敵あつかいで無視ですよ。辛うじて靖国が合祀しただけでしょあとから。しかも諸生党いれてないんだろうし。諸生党って普通に尊王だったしね、佐幕も同じくらい十分にしてただけで。昭和天皇が敗戦後に、臣民があまりに皇国を信じすぎたと息子の明仁氏に送った手紙とか本物だったとして、それだけじゃなくてさ、昭和天皇って皇道派の将校も裏切ってるじゃないですか。いつも自分のお家大事が第一の家柄なんだよ、むかしから。だから差別してたんだもん、全国民を。高慢の極みなわけ、だから自称天皇なわけ。中華皇帝に見下されたくないから飛鳥期にそういう事いいだした時点からサイコ入ってるの。そういう家柄に忠義を誓うとか危険だよ。サイコの部下って。岩倉みたいに奸臣が出てきていつやられるかわかったもんじゃないし、天皇自身も平気で天狗党みたいな勤皇志士をぶち殺す側に回るからね。
 だから関西のさ、邪教一味がサイコ満載で東京までのりこんできただけで、慶喜公も関西地方とか西日本一般とかの根っからの性悪に囲まれて可哀想だったってだけの話だよ。
 未来にいっても西日本とか変わらないと思う。根が。性悪の民族が大陸から入ってきて戦争が始まったのが弥生期。それからずーっと日本荒らし回ってる人達だったし、それが徳川家の統制がちょっと途切れた瞬間に暴発して大陸進出しだしただけだよ。弥生民族って元からそれだけ野蛮だったっていう証拠が、侵略主義を唱えだした松陰であり、西郷であり、板垣だよ。秀吉も関西人だし、天皇も関西人だし、例外ないわけです。根がね、他人を思いやる能力とかないのよ。だから天皇の某玄孫も、動画とか本とかで、隣国の人達を奴隷視とかして差別しまくってるままなわけです。それを国内でもずーっとやってたんだよ、彼の本家は。GHQがさ、公職追放してくれたからいいものの、もし宮家としてまだ政府のなかにいたら、そこで表には出ないだけで同じ言動してたでしょうが。京都にいた頃からずーっとやってんだ、あれを。差別を。中華思想の華夷秩序の暴力団ごっこ。それで世襲だから口先だけで武家をだましだまし、操って自分達だけ甘い蜜を吸ってきたんです。天皇一味。

 そんなのにまんまと騙されていた水戸の徳川家は、或る意味お人よしすぎたんでしょうね。今もおわしますけど。善良なのはいいが、過度だと現実では生き難い。汚い関西政界だったら普通に蘇我馬子みたいに天皇を弑したり、岩倉具視みたいに毒殺疑惑もたれようが無理やり政権簒奪して当然みたいに思われてんだよ。だから臆病者か腰抜けでどっちにしたって陥れてくる極悪集団なんだよ、関西地方。西日本。
 そんな連中はね、仲間じゃないでしょ。仲間にしちゃいけないですよ。どうせ自滅しますよ、そこまで悪事してんだから。因果応報で。原爆2つ落とされた。それって彼ら西日本勢が侵略三昧して都市形成してたからじゃん。広島、長崎が西軍に与して東日本・沖縄・大陸・太平洋侵略しまくってたら米軍にぶつかっちゃって反撃された。自業自得としかいいようがない。それを愛子内親王がみて同情するとかね、あんたの家がやってたんでしょうと。侵略三昧。広島人も手先にして、天皇家が東日本の江戸を侵略したんでしょうと。その上でアジア太平洋中を税金欲しさに侵略しまくって現地人を殺したり奴隷にしようとして、米軍に怒られたから原爆おちたんでしょ。それをみて他人事みたいにいってるから、おかしいなーとは思ってたんだ。『もっとこの世界の片隅に』だったか皇太子時代に愛子内親王もみてて、この一家、自分達のせいで原爆落ちたの気づいてないの? と違和感しか感じなかったんだけど愛子内親王の作文みて疑問が氷解した。他人事気分でいやがるのだ。自分達が奈良から千年以上日本中を奴隷にしようと恐怖のどん底に堕とすテロと全国民差別しまくってきた事実には目をふさいでいるらしい。
 自分に都合のいい歴史しか見ない。それってサイコパシーがあるからなんだろうけど、その極みみたいな一家なのだ、天皇家って。だから自分達の税収奪したさの侵略でアジア中を荒らし回っていた事についてはなんの痛痒も感じておらず、広島に原爆落とされるだけの恐怖主義政治をしていた事についても、天皇家には責任がないという、軍部のせい感覚でいるらしい。いや全権もってたでしょうと。軍部統帥権もってたでしょうと。そのあたりを中学生とかに学ばせない? いや学ぶでしょ。ましてや東大めざしてるらしいんだから、進学校レベルだったらやってますよ。天皇家自身が、徳仁氏や雅子氏がその程度の歴史認識しかない事を示しているんである。だからね、ヤフコメ民がね、秋篠宮と対比させて、無理やり天皇家は理想君主あつかいしてるけど、間違いだよ。天皇家はお花畑。公家の親玉だから。

 そのお花畑加減をほんわか善良と勘違いしてるけど、違うと思うの。
 天皇の犠牲になった人達の前でニコニコしてりゃいい。それって偽善だと思う。だからね、再三いってるけど、韓国の人達って本当に偉いと思うのだ、僕は。ただ、西軍の藩閥寡頭政体にすぎない明治政府と、徳川勢を誤認してるところは可哀想な知識水準ですが、それでも、日帝の悪行をちゃんと追っていって責め続けようとしてるのは、日本みたいに諦めが早い国柄とはだいぶ違うんじゃないですか。薩長はさ、遡れば朝鮮系じゃん。島津氏は百済の豪族だったわけだし、山口も大内氏とか百済系で、弥生期くらいから渡来人の地区じゃん。だから似てんじゃないですか、少し。徳川家に負けたから悔しい悔しいといって250年後に復讐したつもりの事をよく言ってるじゃん、恨で。息を吐くように嘘をつくとか右翼が隣国の人達への偏見でよくいってたけど、118回嘘つき居士の安倍晋三閣下じゃんそれ。山口県人なんでしょ? 思いっきり山口県って日本国の領域じゃーないですか。だからして、韓国の人達とあなたがたが言う通りなら同じというか、より純化した様な資質じゃないの、山口の安倍氏って。息を吐くように嘘を吐き続けて最長期政権だわ、徳川憎しで恨を誇ってんじゃん。違います?
 天皇家を永遠に恨み続ける。それってさ、日本だとなかなかそういう人いないじゃん。平将門とかアテルイとか尚氏とかなーんも悪い事してないのに、悪しき天皇家に自治権侵害され、あるいは虐殺されたわけじゃないですか。だったらその末裔がさ、永遠に恨み続ける。いつか復讐を遂げる。それが筋じゃん、本来。業が実在するなら。でも水に流すとかいってすぐ許しちゃうからいけないんじゃん。それで無限に極悪一家が調子にのっていまだに中央政権に寄生しつつ税収奪し続ける構図になっちゃったわけじゃんね? 日本だけ。封建領主なんて政権追放したらいい、もし政治やりたいなら公費に頼らず自分で立候補どうぞ、というのが共和政体であるはずが、そうなってないんだから皇族だけ。基本的に税収で生きてるから税金も払ってないだろうしね。だからして、韓国の人達がいてくれたのは、外部監査として凄く有難いと思うんですよ、私。

 かなり昔はね、10年以上前は、私は2chのネット右翼とか、福沢諭吉とかにそれなりに洗脳されたりして、韓国ってどうなんだろうな、と、韓国について調べつつも割とどっちつかずでした。しかし最近、KPOPが完全にJPOPを席巻し、ここまできたら大衆文化的にも韓国の方が先進的になっている面があるのは確かだろうし、普通に一人当たりGDPだかでも韓国の方が安倍政権のせいで上になっているわけだから、韓国ってしかもずーっと日本に外部監査してくれているわけだから、最重要なパートナーなんじゃないですか? 私はそう思い始めた、ここ最近。
 じゅんって人いるじゃん。あの人とかそうだけど、やたらめったら右派政権の悪口しか言わない。筋が曲がってたらただの嫌がらせで大迷惑だけども。外部監査ですよ、それを日帝単位でやってくれたわけじゃんね? 韓国って。我々、旧常陸国・水戸藩、現茨城でさ、誰が日帝単位でそれをやれたかと。江戸時代はやってたと思うよ。多かれ少なかれ。徳川宗家に対して外部監査。それは当然応援するつもりで。でも明治政府以後は、特にやれてないんじゃないか。そういう動機づけがなくなってしまった。明治政府に翻弄されていたわけではないにしたって、別に厳しく第三者目線から正否を査定する事もなくなった。水戸の徳川家が貴族院で何やってたか、『大日本史』献上で公爵陛爵、あんぱんさしだした木村武山の『徳川邸行幸』の絵は知ってる程度で、敗戦時に水戸家が議長を務めて恐らく天皇家を第一の藩屏として守ろうとしたのだろう程度で、詳細すら知らない。という事は、尊王精神は残ったかもだけど、副将軍という動機づけはなくなったって事でしょうね。
 ところが韓国は具体的に朝鮮王朝を潰されて、その後も日帝が敗残したものだから、抗日で民族主義をまとめようとして、似た様なことやってた中国より一層、厳しく日帝時代の事を追及する様になったわけです。だから朝鮮総督府の伊藤博文は閔妃暗殺者・三浦梧楼同様、山口人として失政した事になるでしょうね。最終的にそうなるなら朝鮮と別の国のままだった方がましだったとなるので。しかし、代わりに我々は凄く役に立つ外部監査者がぴったりついてくるという、非常に良い条件を得られたわけです。

 薩長政権がどんな悪事してきたのか、天皇家が日帝の長としてどんだけ蛮行していたのか、韓国側が次々指摘してくれるんだから楽極まりない。日本側では、政府界隈、薩長土肥京芸ら西日本界隈で色々西軍を美化する為に欺瞞と偽善の自己崇拝で嘘八百つく連中が、東京の天皇家もろともわんさか残っているので、彼らがいってる事は幕末の事例をみてもあきらかなとおり殆どが虚偽とか悪意ある妄想とかなんで、韓国勢の方が客観的事実を指摘してくる可能性が十分すぎるほど高いわけです。だって東日本は記紀以来ずーっとその様な嘘八百の悪事三昧を関西人からやられてきてますので。いまだに竹田恒泰氏が神話と歴史をまぜて天皇家を神扱いしてるザ皇国史観でそれをして、アテルイの名前を動画のなかでアルテイと間違えてるなんか、とんでもないことを平気でやっている。その上で大和王朝は話し合いでまとまったとかいっている。は? って話。嘘しかつかない。普通に侵略虐殺してるじゃないかと。関西人が。東北人を。しかも東北人の方が先住権を持っていた事が歴史的事実で、関西人は侵略犯の移民じゃないかと。縄文時代に天皇家の史跡なんざ一個もない。出てくるのは飛鳥期頃からなのに、なぜか、竹田氏のなかでは弥生時代以前にも天皇家が神話の神々として日本にいた事になっている。つまり嘘ついているわけだ。そういうのを日本人はお人よしすぎて余りに鵜呑みにしている。それは水戸学派の義公もである。当時の考古学や遺伝生物学がなかった知識水準ではしょうがなかったのかもしれない。明らかにその部分って今の科学だと、竹田氏が神話という嘘で、歴史を歪めているわけです。天皇家の先祖は渡来人だったと天孫降臨が語っているのに、或いはこれは桜井誠氏がいってるけど「邪馬台国」って「ヤマタイコク」じゃなくて「ヤマト国」と読む可能性があり、台与の国だと台をトと読むからという理屈だが、だから『魏志倭人伝』だと邪馬台国は日御子が治める女帝の国だったわけですが、それって、初期のヤマト国が女系だった事をしめしているわけだ。よって、竹田氏って、それを中華皇帝をまねて男系へ無理に収斂させようとした平安期頃以後の話を伝統として正統化するためにそれ以前のヤマトなる国の歴史を考古学を軽視して、自分の男系至上主義観念論で上書きしたいだけじゃないの、となってくる。ともに女帝である母・元明から娘・元正への代替わりを『大日本史』は血統のせいだとか書いておらず、単にそういう人徳(神識典礼)があったからとしているわけですが、じゃあそれは男系だからですよとか、理屈がおかしい。それでいったら愛子内親王の娘が次の次の天皇でも、愛子内親王が男性皇族の子なんだから、男系になるわけだ。大体旧態墨守しなければ伝統でないとか天皇家はその場で適当に過去の風習かえてきてるから嘘でしかないですが、それとも愛子内親王の夫が皇族か旧宮家かどっちかでなければならない、とすると、その場合でも、やっぱり女帝の次が女帝でもいいとなって、愛子内親王の娘に相続しても男系といえることになる。この部分、正確にいうと、元明天皇って女系でしょ。母系といってもいいけど。だって母から娘に継いでるんだもん。それが元明天皇の夫が草壁皇子だったから、男性皇族の子なら女帝でついでもいいんだよーというなら、愛子・眞子佳子・その他の女帝を否定する理由にはならないわけですね? 天皇の血が入ってなきゃダメというなら、承子、瑶子、彬子女王は皇位継承権があって当然となるわけです。だって男系なんだもん。それを国民を馬鹿にして、次も女性でいいよってなるからダメ―って、端的に神道が男女差別をしている宗教だ、と自己吐露しているだけでしょう。竹田氏はくりかえし男系至上主義は女性差別じゃなくて男性差別なんですよと公言しているが、だったら一般日本国民の男性が自分達が差別される制度に賛成してくれると思ってるとしたら、あなた、自分が天皇家の末孫だから威張りすぎじゃないの、で終了でしょう。今となっては国民主権であって、もともと奈良で暴力三昧していたヤクザの大親分にすぎないわけだから、昔ヤクザだった家だからって何にも偉くないわけだ。単に暴力で逆らえない状態にして威張り散らしていたといわれても、その血統が偉いどころか、いや、それ寧ろ平和に暮らしていた一般の農民より遥かに邪悪じゃないですか、で終了。しかもいざ元寇きたときも天皇はずっと和歌で遊んでいただけで、実際に日本列島を我先に守ろうとしたのって武家じゃんと。暴力を税収奪と自国民奴隷化目的の差別の為には使ったけれども、現実の外敵には無力。それが天皇家。偉くもなんともない。広島長崎に原爆おちても放置で、仕方なかった発言後、今度は自分たち天皇家主体の軍国主義が釣り込まれた先制攻撃で原爆投下に至っただけの話が、核廃絶しなければならないとか、いや、それあなたがたのせいでしょうと。無責任さが半端ねえ。君主無答責になるわけだ。もともと責任能力がないんだから、倫理崩壊してて。つか、倫理崩壊してなかったら全国民を差別や蔑視しながら1374年も中華皇帝に馬乗りする天皇家とかいう神話上の存在を名乗れたはずもない。要するに人間を奴隷視してるからそういうことがいえる。傲慢すぎて。

 そういうやくざの親分が、千年も粘るだけ、関西の公民度って低かったのだ。 これが真実だ。西日本単位でいってもそうなのだろう。だから関東政権は幾度も政権交代してより正義の人達におきかえてきたのに、関西はいつまでも腐敗政治を虚栄の中で持ち上げていたし、世襲で。虚勢、虚構を延々と続けていたから江戸に大差つけられた。それだけの理由はある。関西の一般的公民度が低すぎ。しかもね、東日本でいったら東京が最低の公民度だと思うけどさすがに、人口が多すぎるからね。人口過多だとそれだけ底辺もひろがるからね。それ以下の民度しかもってないとしたら、実際そうなんだろうけど、それ、日本では最低レベルというべきだ。そしてそんな感じなのだ、関西、少なくとも大阪はそうなのじゃなかろうか。流石に横山ノックと石原慎太郎が馬鹿殿対決したら石原が勝ってしまう可能性がある。女性蔑視や障害者差別の酷さ、馬鹿さで。しかし石原を例外とみたら、全体として底辺あらそいじゃないか。
 いや大阪と一緒にしないで、と京都や奈良や和歌山は思ってるかもしれない。しかしね、首都圏でいったら神奈川と千葉と埼玉は最低でも東京と一緒にしてと思ってるかも。それだけ公民度が低いのだ。南関東って。だから天皇家とかいう厄介者を招き入れてるところってどこもそんな感じになるんじゃないか。中華思想で。京都とか千年後も全国蔑視してくるんじゃないか。原田伊織とか池田信夫とかいまだにそんなことばっかりしている。天皇家も似た様な物では? 何で自分の家だけ特別扱いで平気なのか。それだけ高慢なサイコだからである。そんなのをね、持ち上げて。関西圏は救いがないね。関東の方がこの点ではまだ冷静だったと思うよ。新政府を何度も構築し直したもんね。徳川政府がね、さすがに世襲でこれは腐敗したと思ったから新政府にしたのも、慶喜公じゃん。そのとき天皇家を持ってくる結果になったけど、天皇家がこなくても新政府に移行はしてたじゃん。公議政体にしたかったんだもん。天皇家は外部に置いた大君(大統領)制のもとでの議会制になってたよ、西周が慶喜にそうしましょうよ~っていってたんだから。そうやって軟着陸させず、天皇専制きどった実際は薩長藩閥寡頭政治に硬着陸しちゃったのが西軍で。そんでこれが天皇制ファシズムに至って破綻したんじゃん。昭和前期で。

 結局ね、西日本と東日本って水と油なんだよ、そこまで行くと。
 もし東日本だけで政体考えてたら、象徴天皇・大君制になっていたと。ところが西日本だけで政体を考えたもんだから一君万民・天皇制になってしまった。
 既に後者は失敗したんだから。次は天皇追放で大統領制・共和政になるのか知りませんけど、もう僕としてはね、西日本と協力関係とかあんまり重視しない方がいいと思う。茨城は茨城で単独で行く、でいいと思う。必要とあらば便宜的に協力するとかも飽くまで極力なく消極・限定的で。一県平和主義で。それが歴史の教訓じゃん。西日本は性が悪すぎるよ。それが慶喜公が遭った悲劇から学べる事の全て。西日本はたちが悪すぎ。天皇家もたちが悪すぎ。慶喜公がね、穏当に水戸藩主かその補佐になっていて、常陸国政してたらよかったのよ。そしたらどんだけでも常陸は発展したじゃん。誰も妨げなかったろうし。飽くまで英君なんだから。西日本のひくーい公民度の世界なんかに将軍家から担ぎ出されたせいで、極悪暴徒に囲まれて冤罪までされたんだよ。だから彼を実例として、二度と、茨城県勢は西日本の人達の群れている様な悪質な場では、公務をすべきではないだろう。そういう場は、悪徳君主の方が似合っているのだ。安倍晋三や麻生太郎みたいな。山口4区や福岡8区の人達がもちあげているんだから。我々は茨城県を最善の自治体にする事に集中すべきで、中央国政に対しても一定の距離を置いた方がいい。だって西日本の人達がうろうろしていて、そこでは国民奴隷化のための陰謀ばっかり働いており、しかも平気で嘘をついて天皇家の猿まねしようとしてきている。そんな場は遠からず滅亡するに違いない。日本国政府が亡びても茨城県・常陸国単独で巧くやっていく事を前提に、独自に外交関係を確立し、独自に自県自国の制度整備をしていく必要がある。本気で日本国が潰れた時は、ひたちという新たな国として、今の茨城県単位で国連加入してやっていく事ができればいい。そしておそらくそうなるだろうと思う。漢字としては分かり易く「日立」でいいんじゃないか。ひたみち説は飽くまで奈良人が部外者として書いた風土記のものだし、ひたし説はヤマトタケルと絡めてて古名として無理やりだからおよそ完全に創作でしょう。もともとひたちって、義公が日立市域についていうとおり日立の意味だったのかもしれない。

 そして日立国に王道と覇権がともにが移った時は、我らは韓国とも新たに手を携え、薩長あげ歴史認識を完全に改めよう。だって朝鮮に侵略したのって西軍の主力部隊からなる新政府であって、水戸藩では全然ない。水戸藩主は徳川家であって平和外交主義だったのである。そんで朝鮮通信使を通じて普通に仲良くしていたのだ。儒学の共通項があったから。

 また中国とも新たな次元の外交関係を確立し、米中対立の緩衝役になりたいと思う。どうしてかというと、観念論、政治イデオロギーで二大巨頭が対立して、誰が得するというのだろう。中国の体制の方が劣っている? 本当にそうなのか。歴史が証左するだろう。だが、それまでの間に、少なくとも米中両国の対峙で、何らかの犠牲が出ない様に、中国の立場も米国の立場もわかった上で、双方に最善の落としどころをみつけて、世界に戦争と貿易摩擦を最小化するというのが、私の考える未来志向の日立の役割だ。実際、経済協力という観点からみたら、一々対立してても意味がなく、普通に最大の自由貿易を一定の各国の事情に即した保護関税率のもとで展開していけばよく、政治的軋みはその為には邪魔でしかないのだ。はっきりいって、米国も内政はそれなりに格差社会で問題が広がっているわけだから、確かに自由圏の方が政権交代可能なだけに共産圏より政治腐敗が遅くなるかもしれないけど、最終的にどっちが勝つかは分からないし、今の中華人民共和国が亡びてからも別の政体がどうせ必要になるんだから、中国との関係をとにかく悪化させておけばいい、という話でもないと思うわけです。今のところ。ただ、台湾か香港の高度自治政府の方が、中国に置き換わるという未来がもしくるとしても、それまでには凄く時間がかかるかもしれないし、それまで対中鷹派の姿勢で居続ける費用の方が、おそらく太陽政策みたいな感じで接するより遥かに高くつくのは確かと思う。特に軍事費。今の自民党政府ってこの点では米国型の軍産主導の政権とさして態度が変わらず、そのままいくと最終的には軍事費で潰れるんじゃないだろうか。
 第一、中国って侵略主義の傾向って昔からないわけですから、普通に貿易関係を文化交流とともに巧くやっていくだけでいいんではないか? 必要十分な防衛費を除けば。
 寧ろ問題があるとすれば、例えば米軍基地がある沖縄、神奈川、東京みたいに米軍に依存せず、日立軍単独で国際社会と専守防衛で対峙していく本来の祖国防衛体制を作り直す事だ。そもそもそうならないと日中国債で米軍がケインズ侵略で暴走し続ける世界史の構図は永遠に変わらないし、いい加減孤立主義に回帰しませんか、中東はイスラム諸国として独立してもらって、米国はイスラエル支援で十分でしょう、ちなみにパレスチナとの関係も和平に結ぶべきじゃないすか、みたいな流れをつけていくのがいいんでないかと思う。

 北朝鮮に対してどう振舞うべきかだが、自分的には開放貿易政策を普通に勧めていくのでいいんじゃないかと思うのだ。その為には協力しますよ、という態度でいいのでは? わざわざ安倍氏みたいに挑発しあってミサイル打ち合う事には双方に損害しかない。金正恩って自分がみるにスイス留学してたり、開明的君主な面があると思う。だからして、開放貿易路線で北朝鮮を発展させましょうよ、日立はあなたの国に敵意がないですから、と言ってりゃいいのではないか。

2021年9月2日

茨城県庁が子供へ教育用に配るのはノートPC、できたら、希望する全県民へ一人一台マックブックをリース契約する方が、ITスキル育成環境面で遥かにいいと思う

茨城県庁は学校で子供にタブレット端末を配ってるみたいだけど、どうせやるなら、自力でプログラミングできるだけ必要十分な性能のPCを配った方がいいでしょう。
 既に日本が世界一その点で弱い国――15歳の生徒が自宅・学校でパソコンを使う機会が世界一少ない国――なのがPISA2018で明らかになっているわけで、受け身で情報を得る、又はゲームをするならタブレットでも行けるかもしれないが、情報発信やプログラミング以上のことをするには性能的に厳しい場合が多い。iPadくらいの馬力なら自分でキーボードを買ったりすればなんとかなるかもしれないが。

 いつも差異化(差別化)がどうのと大井川氏はいうわけで、多少奮発しようが、長期的にみて子供の頃からPC操作に慣れていて、プログラミング以上の作業にもなじみやすい状態をつくってやる方が、おそらくだが次世代の為になるのではないか。
 じゃあ他国と差異化できてるかといえば全員PC一式揃えてあげたら逆にその点で進んでる国々とかぶるのかもしれないけど、それって、デジタル関連に通暁した上でその中で差異化した方が有利なのか、そもそもそれ以前から差異化した方が有利なのかの議論になり、どちらともいえない。
 ただ、どうせリモート授業で使うんだし、興味ない人は県から環境与えられても使わないだろうから、少しの上乗せで発信・プログラミング可能な端末にしてあげた方がどうせならいいだろう、と思うわけである。そこは教育的にけちるところではない気がする。私は。ただ発信可能にする分、情報倫理や、誹謗中傷とか著作権関係のネット・リテラシーも必ず同時並行で教える必要があるが。

 あと、不登校とか家庭学習してる子供へも、つまり学校に通わず学んでる子どものいる家庭へも県庁は、全く同じ体制を補助してあげた方がいいのではないか。今の時点でネットなしに学習しろ、と言われても、例えばウェブ上の辞書(嘘多いウィキペディアなど除く)をすぐ引けるみたいな状態ですら、実際かなり不利なものがあるからだ。

 じゃあ具体的にどのモデルがいいかだけど、クロムブックがおおむね一番安価なわけですし多分今配ってるのもクロム系のタブレットなんでしょうが、ウィンドウズPCとマックブックに比べたらやれることにまだ限界があるのも確かであろう。クロム系ってOSとしてグーグルのサービスに依存しているからです。サイトなりプログラムを普通に作ろうとした時、最安価なクロムブックでやれ、といわれると、余程のプロでなければだれでもそれなりに足枷科せられてる感じにはなるだろう。例えばその状況から、プログラマーの方のスティーブやゲイツやザッカーバーグに出発させていたらああなっていたかといえば、疑問符でしかない。彼ら自身が手に入れたPC性能は当時として一番上とかのレベルだった筈である。

 という事は、最も合理的なのはマイクロソフト社やアップル社と直接組んで、生徒全員分リース契約をする事なんじゃないかと思う。そうすれば貸し出されるのが多分常に最新モデルの筈だし(そういう契約にすればいい)、各自の家で買う必要もないからである。その場合、いまでいうとサーフェイスの最新版かマックブックの最新版が貸し出されるはず。
 で、契約上どっちの会社がいいかといえば、どっちの会社のOSにも慣れていく意味では生徒が選択可能にしたらいいと思う。情報関連の授業するとき、どっちのOSでも教師側が対応する必要があるだろうけど。

 但し、2つ問題点がある。これって「海外の会社(のあるいは日本法人)との契約になるから県の資本を流出させてんじゃないかと言われる余地がある」のと、もう1つは「実際やったら他県もまねてくるかもしれない」(ゆえに理論的に差異化しきれない)。
 後者は、別にまねられたから損するわけではないだろうけど、行政は横並びが好きなので、ほぼ確実にまねる自治体はでてくるだろうし、もしかしたら国も追随してくるかもしれない。今の自民幹部はデジタル関連にさして詳しくなさそうでもあるので(使えないアプリ開発で非難されたのは記憶に新しい)、予算ないからやらないかもだが。まねられたら国の政策とかぶってくるのもあり、また考え直す必要がでてくるかもしれない。経営学でいう差異化ってのは競合にまねられたら基本、意味がないわけです。僕は最初からオタク趣味だなーと思って好きではないが、大井川氏が導入させた茨ひよりとか普通にVチューバー岩手県らにまねられた。その後も何らかの競争優位性を維持できてるかといえばそんなことはないんではないか。簡単にパクれる様な物にした時点で戦略が間違っているのである。よって、厳密にいって、茨城県単位で全生徒に教育用PC配るったって、他都道府県とか国とか外国勢とかがいくらまねたくとも絶対まねられない形にしないといけない。例えば僕が想像するに、県民全員へ一人ずつ最新のマックブック例外なく配られてるみたいな状態がベスト(なおかつ、できたらこどものいない世帯分も補助で配られている状態)なんだろうが、そんな予算を普通の都道府県は持っていないし、大抵の知事がお年寄りとかなのでおそらく意味不明だろうし、そもそも怖がってやらないだろう。だが今の時点でそれ以上に、創造階級育成に恵まれた状況ってあまりない。だったら一体どうやったらその状況を茨城県だけでは決定的に確立できるか、と逆算して考えるべきで、僕が現時点で知事だったら、最初からそのための予算枠を決めてしまって、ほかの不要な部分を極力削ってでも、動かさない様にするかもしれない。幾らになるか、しらないけども。自分なら銀座のアンテナ店とかも県税使って民業圧迫兼都民だけへご奉仕ってやる事ではないからすぐ切りますし、いばキラTVも県営テレビとして民放じみてて意味不明なので議会中継と県の公報用のチャンネルを除いて即きりますし、その分の予算は最低でも回せるでしょう。普通に自由主義に逆らってる様な部分って僕に知事やらせたら沢山みえてくるだろうからそんなの純粋に民業圧迫なので、きっていっていいのである。県立の水族館とか動物園とか、或いは美術館ですらも今となっては他県に沢山あるわけで、横並びでいつまでも維持費かける意味がわからない。僕ならきって、民営化しますけどね。県の行政がもっているべき資産って、弘道館とか偕楽園とか。西山荘とか。五浦の六角堂あたりとか。ああいうたぐいの明白な文化遺産でしょう。それすらなんとか黒字にしよう、という発想は、それはそれでいいんではないかと思いますけどね。ただ行政がやるのはきつい。職能が違うんだから。一番いい業者へ民間委託しないと。フラワーパークもメスいれたのは大井川氏ですが、僕ならそもそも民営化しますけどね。公園というなら近くに笠間芸術の森公園とか常陸風土記の丘とかあったと思いますし、特に風土記の丘は遺跡群もありましたし地誌の博物館的に維持した方がいいでしょうけど、フラワーパークって、それが実際に大井川氏による実験時代に黒字転換でもしなければ、県がもっとく意味って多分ないのかもしれない。リニューアル前行った感じ、確かに悪くない施設ではあるが、県の資産として将来性あるかでいえば、茨城だからバラという駄洒落――県名の由来からしたら皇族一味からの民族虐殺史(『常陸国風土記』参照)というバッドジョークじみた観点や、茨城特有の品種維持を除けば、飽くまで趣味の領域であって。もしバラの名園として維持したいというなら、もっと花卉の開発・販売業種と一体化させた研究所かねたもので、かつ、遠方から集客性見込める芸術家村的なものといおうか、コンセプチュアルで美しげな農園的なものにすべきでしょう、例えば妹島和世デザインでとかで頼めばいいんじゃないですか。立派なのできそうです。そしたら県の名誉にもなるだろう。現代アートあつめて集客してる、直島みたいな感じの、コンセプトがバラ版で。世界一色んなバラが見られる、世界一美しいバラ農園を作ろう、みたいな感じで。でもそういう発想やら意欲やら才能やらが、現地の地元人に一切なかったし今もないんだろうから無理でしょう。だから高度成長で金あまってた昭和時代の名残みたいなものなのだ。逆に、現地人が昭和世代の支配下で、改革の足引っ張りそうな気がします。大井川氏によるリニューアル後に巧く、社会主義的に第三セクター運営し続けるとかも経営能力ない人が知事になることもあるだろうし、どうせ無理でしょう。それが政府というものだ。だから国立公園としてのひたち海浜公園なんかも、実際、その点で遠からず問題あるのかもしれない。いい公園ではありますが、中の業者を民間委託しきれてない様に思う。例えばひたち海浜公園って国から県が返してもらってまず県有地にし、そこから米国のディズニーか日本でいうオリエンタルランドとかに民間委託で土地全部貸したら大分様変わりして、むしろ人気や魅力って面で、圧倒的によくなるんじゃないか。同じく、フラワーパークだってそのあたりに貸した方が、逆にどっかからきた女子高校生ティクトカーだらけにはなるかもしれないが、魅力をあげたいならばだが、利口な気がする。米国ディズニーも、オリエンタルランドとしてもいまの東京ディズニーランドにしてる千葉の土地も限られてますし。飛び地として茨城側に、バラ大庭園のお城テーマパーク兼宿泊施設みたいな別の夢の国を持っておくのも悪くないかもしれない。フラワーパーク部分を県が持っておく方が、将来のTX延伸とかで一帯が開発されてから憩いの間として重要になると予想がたてられれば、その場合は今言った様に、バラ農園の芸術家村みたいなものを最初から公園と一体化させて都市計画的に作っておくべきかと思うし、それにしたって、実際に芸術家として圧倒的にセンスがある知事とかじゃないと自力で計画立ててつくるって基本、無理でしょう。歴史振り返ってもそういう人がいる時はある。ポンピドゥーセンター造らせたフランスの宰相は偉かった。メディチ家はいうまでもなく、狩野派を選んでいた諸大名もかなり見る目があった。まだ海のものとも山のものともつかない時点のガウディを気に入って(実際にセンスがいいかは微妙にしても)建築一任したエウゼビ・グエイも富豪として凄い観光遺産を残した結果からみたら凄かったし、世界に知られる金沢21世紀美術館の設計をまだ若手だったSANAAに選んだ当時の石川の行政も本当に凄かったのだろうと思う。じゃあそういうアートのセンスという意味での選択眼からしても、前知事も現知事もなんか微妙過ぎるわけですから、自力でやるのはまことにやめた方がいい。芸術関連、都市計画関連、普通に民間で一番有能なアーティストや開発業者に委託してほしい。そしてそのための専任者の選択能力自体も県庁には特に、というかかねて一切ないように思うので、それはちゃんと僕とかみたく、アート関係者で冷静に全状況を緻密に見てる人の忠告をいれないといけない。現代アート関連の事なら県庁は水戸芸術館へ相談すればいいと思う。普通に。まぁ当時のキュレーターがダメなときもありますでしょう。しかし通例、よいアートをえらびだす為に水戸芸は長年情報蓄積してるわけですから。
 ま、とにかくそうやって無意義に社会主義的政策をしてる部分をガンガン民営化・民間委託していけば、マックブック全員に配る事くらいきっとできるだろう。昭和の行政をうちすてていくという意味で勇気がいるだろうし自民党は議会などで陰に陽にあいかわらず足引っ張るだろうけど、そんな事いってられるほど余裕ないのである。国の置かれた状況が。高度成長期意識のままでいる人たちは一刻も早く消えてもらいたい。はっきりいって没落期なんだから。ずっと先進国最下位級の低成長期×超少子化なだけでなく。特に安倍独裁期に、実際にはトリクルダウンおきなかった失敗経済・格差拡大政策アベノミクスを成功だったと無理にいいつくろいたいばかりに、自民政権があまたの不正な統計改竄までやってしまっている。ここで茨城県政が国政の自滅ルートに追随せず、一気に勝ち筋へ行くかどうかで今後千年はまったくちがう結果であろう。大井川氏はこの意味では大筋はまちがってないが、手法がおおかれすくなかれ国家社会主義的で古い面があるだけである。県庁自身が金儲けしたところで、どうせ次の知事の代でそれがつづくとはかぎらないんだから、民営化するか、民間委託を基本に考えないと、民業圧迫で県の資産が持ち腐れていく、しかも負債が増えていくだけである。それが自由主義の基本的趣旨なのだ。どうせ国債だの国連だのから救済される完全競争状態でない行政に商売なんて無理なんですよね、潰れる危機感がないんだから。だから民間に任せましょう、その代わり行政は福祉(国防・警察や弱者救済)に集中します、という歴たる悟りである。なんでかというと国をとりまく経済状況が下り坂だからだ。県がいつまでも国から地方交付税もらえるつもりでのらりくらりやってる今の状態だと、東京がコロナ禍五輪で貯金使い果たしたつつあるとおり、東京本社の稼ぎそのものが国民総数というパイ減少で年々へってもいるわけで、県民全員貧しくなっていく一方で国自体もおわるってのは間違いない。だから茨城がおちぶれた東京に代わって日本全体で唯一大幅に黒字を出し続ける、国全体を養ってもまだ余裕があるみたいな状態にでもいけないかぎり、経済成長を継続的にする事そのものができないほどすでに決定的に暗い未来へ追い詰められていると自覚した方がいい。国政単位の経済政策の構造的失敗で。よって経済政策の構造自体に、最低でも茨城県単位で根本的変更を加えでもしないかぎり、それで茨城県単位で目に見えるほど黒字転換が進み、経済成長率が全都道府県でいつも圧倒1位、茨城単体でルクセンブルクを超えた経済の実力とかにいけないかぎり、日本国という泥船すら一方も前に進まないのは確かだ。すでに失敗してるのにそれに自覚せず、保守だとか意味がわからない。泥船のなかで全国民が足の引っ張り合いしている状態だと先に気づいて、脱出方法をすでに探っているだけ大井川氏は首長としてまだ救える。彼の後の知事もこの点は継承して、さっさと茨城単位でルクセンブルク超えを目指すという方にいかないといけない。実際ルクセンブルクからアンリ大公・アレクサンドラ王女が視察にこられたわけで、人口61万の彼らの国に比べ、茨城は5倍比からいっても極東一、世界一の金融センターをめざしたりすれば所得中央値なりの豊かさで超える事だって十分可能だろうし、彼らが注目したよう宇宙産業だってまだ先頭陣に入る余地は残っていると思う。スペースXとかベソスとか民間資本主導だけに、今のところ完全に外国勢から引き離されていますけどね。くりかえすが、この部分で大井川氏は発想が古い。県の資本を民間資本みたいに使うとかいってもそれって社会主義国家・県でしょ、となってしまうわけで、そもそもの役割が、全体の公益を図る自治体と、特定の営利活動の為の企業は目的が違うだけに巧く行く事がない。つまり県内企業誘致の環境づくりとかならいいですが、県庁自身が商売やったところで職能が違うだけにどうせ限界があるんだからして、そんなならさっさと民営化・民間委託できる部分を探しなさいという話なのである。旧ソ連対米国の構図を何回なぞれば覚えるのか。そして浮いた費用で必要な教育補助費にでもすればいいでしょう。茨城人ひとりあたまひとつ確実にマックブック最新版を配る(希望者全員へ、県によるリース契約で)。これってそれがすべての大成功のスタート地点ってだけで、決してできない話ではないのだ。やり方次第で。それができた時点からこの茨城で。天下先駆けの地で。日本版IT革命がようやくはじまるといってもいいだろう。自称先進国でありながら。GAFAMにもBATにも何周遅れたか、もう世界から存在自体を忘れ去られたか知らんが、スロースターターにも程があるとして。しかしレースはまだ終わっちゃいない。我々にとって。実はまだ始まってすらいなかった。先進国全体で最後に。ようやく走り始めた様に見えるダークホースが――ヒルズ族・ネオヒルズ族とやらを前提に、実際のIT長者が決まって都会出身だとは到底いえないこの世界にて、田舎者だの田吾作だのといつもの都会中華思想による偏見まみれで不当に県内外から蔑まれた者とやらが――あの同じ田舎のカリフォルニア勢どころか、全ての国々を、蛙飛び都市をも全員抜き去る大逆転劇が始まるとは誰も思っていなかった。だが日本で最初にインターネットにつなげたのは、実は茨城人だったと知ってから、実はパソコン素人ネット新顔のそやつらが、まさかのレース展開が必然だった、と驚いてもなにもかも手遅れだったのである。本気で走り出したら止まらない。我々は。はい、実は茨城県はとっくの昔に先に駆けていて、天才・金子勇氏への頭の固い中世的な京阪人憲兵による不当裁判の嫌がらせ中断を挟み、1992年9月30日に茨城県つくば市にある文部省高エネルギー加速器研究機構・計算科学センターの森田洋平博士によって発信された日本最初のホームページあたりで、まだみんなこないのかなーと遅れてきた人達をさしま紅茶のんでのんびり待っていただけだったのである。筑波学園都市のね、あの駅前のね、ABCマート前にあるテラス席で。ここで。なぜか。 

そうしていたらいつの間にかみんなが先にいっていた、てかほかの日本人はこないんだって、もう能力面であきらめたんだって。漫画アニメみてりゃきつい労働集約産業でも手仕事があれば十分だって。29年待ったけど。茨城県勢は。じゃあ茨城人だけでも他国とIT関連ビジネスで勝手に勝ちまくってりゃいいじゃん、自国の皆とかまぁおいといて、と気づいた所が今だ。続く。物語は続く。

 で、前者。マイクロソフトとアップルは日本に税金納めてるのですか? という話になるが、これは、契約上、次の様な条項をマイクロソフトとアップルに求めればいいんじゃないかと思う。日本の実効税率と同じ分を県側に納めてくださいと。それに相手側が納得すれば契約、でいいのではないか。その際、教育用だと伝えれば、もとからプロ中のプロだけにチャイルドロック関連のことも事前に当然してくれるだろうと思う。
 もしこれらが何らかの意味で契約上不可と相手側が言うなら、そのときはいづれかの国内メーカーPCで賄えばいいのではないか。ただ、一般論として、日本製は既存大企業の体質か、謎のお呼びでない機能、初期設定でいれられてる謎ソフトとか重くなるのが過剰についてるし、それだけ割高になっている傾向もあって、最初にPCへ触れる子供にとって通常、使いづらいと思われる。通常、そういうのを省いてある傾向の中華メーカーのがずっと格安である。しかし貿易収支や税金面で矛盾するといえばそうなのだから、例えば競争入札の様な形で、例えば(ソニーから独立後に長野に本社があるはず)バイオと契約するとなったら、性能として発信・プログラミングなども可能な基本性能はクリアしているのに加え、初期設定でチャイルドロックなど教育用配慮した仕様でリース契約すればいいのではないか? そういうのを行政の外郭団体がやると中抜きとか謎の仕様変更が発生しがちで使えないのになりそうなので、普通に知事とかが試用品の製品を動かして確かめてみて、一番よさそうなメーカーと契約すればいいと思う。
 ただすでに書いた様に、一般論としてこれらってOSはマイクロソフト(ウィンドウズ)かアップル(マックOS)製の筈で、一々国内メーカーに頼む方が割高になる気がするし、最新版を常にリースしてもらう契約としても無駄な中間業者を間に挟むことにもなると思うんで、普通にマイクロソフトとアップルへリース契約した方がいいと思う。そもそも日本製のOSが市場支配できてない状況を覆さないかぎりずっとその状況は続くと覚悟した方がいいだろう。その為にも子供の時点からプログラミング強者が出現できる条件を機会均等で最低県内全域にばらまいといた方がいいと思う。

2021年8月31日

キョン流入の事前対策について

以下の記事・動画などによると「キョン」という小鹿の様な特定外来生物が、千葉県南部で大量繁殖している。農作物にとってかなりの損害が出る可能性がある一方、高級食材・皮材でもありジビエ料理や工芸に活かしたりすれば、人間と共生できる可能性もあるらしい。
 県庁側が事前にキョン流入時の対策を立てて置けば、農作物被害をへらし、かつ、単なる殺処分ではない適宜な駆除の方法で、産業上も何らかのプラスの向きに働かせる事ができるかもしれない。

https://friday.kodansha.co.jp/article/84927

https://www.youtube.com/watch?v=YiLL1Ors0VM

企業と自治体はどう違うか

(現茨城県知事・大井川和彦氏のユーチューブ動画『潜在能力が高い県だからできた「改革」/ 大井川かずひこ×山形学 対談』への返信コメント。ユーチューブ上では削除された1.の部分を含む)

1.「変化論」について

一茨城県民、有権者です。
 英ケンブリッジ大のウェブサイトの『ダーウィン通信計画』(Darwin Correspondence Project)が伝えるに、ダーウィンの言葉かのよう伝播されている「生き残るのは変化できる者」なる言葉は、ルイジアナ州立大学バトンルージュ校・経営・マーケティング教授レオン・C・メギンソン(Leon C. Megginson)によるものだった、とカリフォルニア大学バークレー校統合生物学部・ニコラス・J・マツケ(Nicholas J. Matzke)が発見したという事です。
 以下、同ウェブサイト「誤引用の進化」("The evolution of a misquotation")ページから引用。

 According to Darwin's Origin of Species, it is not the most intellectual of the species that survives; it is not the strongest that survives; but the species that survives is the one that is able best to adapt and adjust to the changing environment in which it finds itself.
--- Megginson, “Lessons from Europe for American Business,” Southwestern Social Science Quarterly (1963) 44(1): 3-13, at p. 4.
 日本では2001年9月27日、小泉純一郎首相が所信演説の末尾で次の様に述べ、同誤引用がダーウィン思想かの様に広まった可能性があります。

 私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
――小泉純一郎

2.企業と自治体の違い、企業に於ける選択・集中論

 変化論にあたる引用部(レオン・C・メギンソンのもの)の思想の問題点は、おもに2つあると思います。

 大前提として、以下では「企業」と「自治体」を分けて考えます。
 この2つは、大まかに分類して企業が営利活動、自治体が福祉活動(立法・司法・行政など)を主体にしており、「企業」は一部の利益をめざすにすぎないが「自治体」は県民全体の公益をめざしているなど、組織の役割が根本的に異なるものです。

 先ず1番目の問題点は「生き残り」(生存)が企業の目的とはかぎらない点です。
 ここで企業の生き残りを目的とする考え方を、企業生存至上主義と定義します。
 この考えだと利益を長期的に得られる企業がふさわしくなり、裏を返せば市場独占・寡占が合目的となります。しかし市場全体だと、独禁法の趣旨と同じく、この様な独占・寡占が非効率をもたらしている場合があります。したがって企業競争力は程度としての独占・寡占状態を意味します。
 一方で、自治体に同じ考えをあてはめた時、地方自治法2条6項「都道府県及び市町村は、その事務を処理するに当っては、相互に競合しないようにしなければならない」の趣旨に多少あれ反する事になるでしょう。自治体単位で程あれ強い独占・寡占状態を作り出す事で、自治体間競争を容認・加勢する結果になります。
 したがって企業生存至上主義を自治体にあてはめるには、まず格差の底で排除される人が現れないよう、十分な高福祉計画(特に県北格差の解消計画)を立て実行した上で、競争原理を導入する必要があります。この逆に、まず競争原理を導入してから高福祉計画を実行しようとしても、すでに経済弱者や県内弱小自治体は絶滅・荒廃してしまい、全体の幸福度の面でも手遅れとなってしまいます。――国政の単位で、トリクルダウン理論に依拠した新自由主義政策が、現実の福祉目的には誤りだったのと同じです(市場に所得再分配の機能はなかった)。

 2番目は現実の市場では何らかの点でずっと変わらない企業が有利な状態があります。寧ろ経営学の観点からは、不動の高利益が期待できる定番商品(製品・サービス)をもっていればもっているほど強みがある、と見なします。逆に、常に価格競争に晒され、何らかの新たな手を打ち続けなければ競合に市場シェアを奪われる可能性がある非定番商品に依存する企業は、経営にとって決して望ましいものではありません。
 おそらく大井川さんはシュンペーターのイノベーション(革新)理論に強く影響を受け、またマイクロソフトやドワンゴでの経験から、ITベンチャーの雰囲気でいう革新的商品づくりが必須、との信念をもつに至ったのではないでしょうか。――確かに定番商品をもたない新興企業にとってはそうです。しかしこれはそもそも営利が目的ではない自治体についてなので、以下の理由で、革新理論と全く同じ観点を直接あてはめる事ができないケースでしょう。
 自治体は企業のよう一流の定番商品をもつ事で永続する様なしくみになっているとはかぎりません。1番目の問題点で説明したよう、自治体は全体の福祉を図る必要があり、必ずしも市場競争力をもつ事が目的ではないからです。――例えば自治体全体では二流以下の商品しかもっていないが高福祉が実現された県と、一流商品をもっているが低福祉しか実現されていない県があったら、前者の方が合目的です。
 その上で、企業について、私は定番商品を新たに開発し続けねばならない、という考えも、経営学の観点から必ずしも正解ではないと思います。なぜなら企業の目的は営利で、高収益があげられればいいわけですから、研究開発費や事業変更の費用に見合うリターンがなければ、もう強みをもっている分野へ選択・集中した方が望ましいからです。――例えば茨城にはシェア100%の干し芋(2011農水省・生産農業所得統計)、生産量1位の納豆など、堅固なブランド価値を有しかつ圧倒的競争力をもった定番商品があり、これらの知財(商標権・特許権など)を積極的に保護・促進する事、また海外での販路開拓を模索・工夫する事などで、関連県内企業を高収益体質へ強化し、今後とも外貨を稼ぐ事は十分可能ではないかと考えます。

2021年8月27日

イギリス政府による大規模催事についての発表の、科学的分析

以下のURLでイギリス政府から示されるところ、同政府が調べた大規模催事の感染率は通常時と変わらなかった資料が得られたらしい。
 もしこれが国際的にどの国、どの集団でも事実なら、茨城県内での大規模催事もできるとなるかもしれないが、実際の日本側だと、五輪開催に際し会場付近で都民が密になる機会がふえ、同時に感染爆発がみられたので、そのころ流入しだしていたラムダ株など感染率の高いウィルスの影響なのか、単なる大規模催事でも感染率が特定箇所で有意に上がっていたのか、曖昧なままというべきだ。イギリス政府は飽くまで数えられる少数例を調べ(なお一国内の限定例で、標本として片寄りがある)、そこでは統計学上の有意差がみられなかった、と示しているに過ぎないし、実際以下の引用部分で示されるとおり、「催事での感染拡大が確かに・参加時点であったとはいえない(要するに現実の催事参加者らの間であった感染理由がよくわからない)」とイギリス政府もこの点に確信を持っている訳ではない。
 つまり、科学的資料として、イギリス政府の現時点の見解は、イギリスでの大規模催事が確実に感染拡大につながった証拠が得られなかった、といっているにすぎず、それは「大規模催事では感染拡大が進まない」事を示しているわけではない。よって、なんらかの大規模催事で感染拡大が進む場合がありえ、直ちに日本でも全球比較で感染率が著しく高い欧米地域と同様に、無条件に大規模催事をおこなってよい、とはいえない。なぜならイギリス政府の示した少数例では催事時の確定的な感染率増加の証拠がとれなかったにすぎず、実際には参加者の一部かそのクラスター(束、たば)などで有意に感染拡大が進んでいたかもしれないし、それどころか別の国の別の催事では感染爆発が束で発生した、なども十分ありえることだからだ。要するにイギリス政府は、UK国内の特定標本に関する統計的信憑性について、余り拙速に過度の一般化を行っている可能性が残されているわけだ。
 これは日本側で一部都民ら五輪強行論者が、英米など感染率が著しく高い国々での大規模催事再開の動きを、さも「先進国だから正しいに違いない」という文脈(西洋主義、入欧主義)で過度に信頼し、さるまねさせようとしていた場面でも広く見受けられた誤解だといえる。それらの国々でまだ十分な安全さが証明されているとは言えない段階での大規模催事再開の傾向は、文化依存のワクチンへの科学主義的な信頼度とか、集団への迷惑より個々の自由を重んじる個人主義とか、或いは頻繁で気軽な社交の習慣などがおそらく間接的に関係している様に見えるのに加え、ただの楽観偏見によっている風にも見える。そして実際に欧米諸国はまだ全地球でコロナ感染・死亡率が最も高く、この点で全ての人類生活圏の間で最も成績が悪く、反面教師とすべき地域のままである。

 もっといえば、今後、世界中で大規模催事が開かれるにあたって、過去のイギリス政府見解を十分に反証する資料がとれることになるので、実際に会場付近の束で確実に感染拡大が起きた例も出てくるに違いないし――特にマスク着用・手洗い等が不完全、かつ換気の悪い条件で不特定多数と密になる条件で、常識的にみてとても感染可能性が高い筈なので――、そのときイギリス政府の今回の見解は程あれ否定される。すなわち大規模催事のどの条件では感染拡大が進み易いかが、もっと色々な実例で示される事になるわけだ。よって、このイギリス政府の発表は、現時点で大規模催事が全て安全だ、と言い切れる科学的根拠となっていない。

 これらの箇所は、科学的思考力が一定以上ないと「大規模催事まるごと安全」論と見分けがつかないと思われるので、――例えば安直に「UKでは感染拡大してないとあの大英帝国の偉い偉すぎる政府様がいってんだから、科学後進国のわが国如きでやってもきっと誰も大して感染しないし間違いなく大丈夫だろう」と、科学的批判思考をほぼ放棄で、自虐史観じみて考えてしまうとか――、日本にかぎらず、科学的思考力が十分にない一部民衆の間に、単なる英国政府見解を誤読させる形で流布するのは、行政としてよく考えねばならない件だというべきだ。

 これら2つの催事(催し物、イベント)から得られた資料は、催事調査計画の一環として実施されたほかの大部分と同じく、共同体の感染率と同じかそれ以下の感染数とともに、大人数参加の催事を安全に行える、と証明しています。但し、この資料を観察する際には、催事で確かに感染が発生した、のみならず、催事へ参加したとき個人が感染した、どちらの仮定も立てられない、と記すのが重要です。
―― UK政府 『政府資料は大規模催事が安全に行えると示しているが、観衆は人混みの中で注意を怠らず、予防接種を受けるよう強く勧める』
数字・文化・媒体・運動省、健康・社会保護省、イングランド公衆衛生局、ロムフォードのベッチェル卿、オリバー・ダウデン英国議会議員閣下
2021年8月20日発行

   The data from these two events, alongside the majority of others conducted as part of the Events Research Programme, demonstrate that mass participation events can be conducted safely, with case numbers comparable to, or lower than community prevalence. It is however, important to note that when observing this data, assumptions cannot be made that transmission definitely happened at the event, nor that individuals became infected at the time of their attendance at an event.
-- UK government "Government data shows mass events can take place safely but fans urged to remain cautious in crowds and get vaccinated"

Department for Digital, Culture, Media & Sport, Department of Health and Social Care, Public Health England, Lord Bethell of Romford, and The Rt Hon Oliver Dowden CBE MP
Published 20 August 2021

https://www.gov.uk/government/news/government-data-shows-mass-events-can-take-place-safely-but-fans-urged-to-remain-cautious-in-crowds-and-get-vaccinated

https://news.yahoo.co.jp/articles/33a3fd6a6171410b97ed28cd09d9f28490d94132


2021年8月13日

緊急事態宣言つき時短協力金の廃止にあわせ、憲法に定める全国民の生存権保障としての基礎所得(一律給付金)による全業種に公平かつ国民の自由権が保たれる効率的市場環境の再構築をおこなうべき、政経上の理論背景について

時短営業などの要請を、国のやり方にあわせて茨城県庁も助成金つきでやっているわけだけど、この方針が自由経済や自由権に対する侵害の疑いが濃厚である。

 これはもともと安倍晋三氏があまたの悪政・犯行をしながら東京地検の不正によって泳がされつつ緊急事態条項を立憲化するといったときに危惧されていた事態の一側面といえる。
 無論その究極の悪用は特高警察を使って民衆を手あたり次第に逮捕していく粛清劇とか民族虐殺、思想統制などに至るので、自称愛国の一部・低倫理右翼、今では安倍信者・自民党信者などとも呼ばれるネオナチにとっては明治から昭和の天皇制ファシズム(結束主義)下での暴政を再現できるので、かれら自身も非道に粛清されるとしても、かれらにはあまりにおろかで悪意があるため、あまたのぬれぎぬで気に入らない者を抹殺できると想像している点で、かれらが望ましいと考える筈のできごとだ。いいかえれば、緊急事態条項はネオ・ナチズム(新国民社会主義、新国社主義)の最終形態として、独裁を狙う安倍氏に用意されていた。
 いまのところは安倍氏が体調不良を建て前にした雲隠れの形で菅義偉氏をいけにえに矢面にたたせ、いざあまたの安倍氏による不正の結果がでて国が破綻したとばれてからそれらをスガ氏のせいにしたてあげ、自分は信者とともに復権を狙っている状態であるといえるだろう。そして安倍氏の根本目的は一種のサイコパシーによる浅薄な対米追従での日本の米属国化、特に自衛隊の米属国軍化のための改憲なわけである。ちなみに、マキャベリが『君主論』でのべるとおり属国軍は確実に宗主国から使い捨てられ属国の立場も滅亡に至るといわれているし、世界史の事実もその様な様相を呈する場面が多いが、現時点の地球情勢をすべてかえりみて、この国際政略が日本や世界にとって全体幸福の最大化に繋がるか、大分疑わしい雲行きになってきているわけである。理由として中国の台頭と、米国内部の退廃、そしてベトナム・中東などでの米国軍産によるケインズ政策的侵略の戦術的失敗が挙げられるだろう。最も典型的にこれらの問題が顕現したのがベトナム戦争での米軍撤退と、イラク戦争での大義なき冤罪復讐劇だったわけだが、自衛隊は、当時の首相ともこのどちらに際しても米軍側に就かざるを得ず、その後のシリア騒乱でも、イランの民兵将軍暗殺でも「テロ(恐怖政治)との戦い」という名目で実際には自分達が多国籍にテロをしかけ、軍産の需要喚起をおこなう、といったろくでもない事態に陥っている。端的にいうとさも薩長土肥京芸ら幕末西軍の同盟国として死の商人の片棒を担がされ大量虐殺へ間接加担させられているがごとしなだけでなく、それらの米軍側の戦費は実際には日本と中国が主に買っている米国債をつかっている、という資金源にさえされているわけである。要するにジャイアン米国の手先でカツアゲされているスネオ日本的ポジションに置かれており、このままではまずいという自覚はかなりの程度、日本国内の良識派と左派はしているが、日本国内の対米追従派(自称愛国派、明治美化右翼、ネット右翼、安倍信者、皇族含む神道原理主義者、反中・反共論者、男系論者、自称保守あるいはビジネス右翼ら)と右派(保守派)一般は、さりとて米軍追放ののろしを上げるところまで戦略的に愛国ではないわけだ。もっというと、後者の対米追従派と右派は、幕末西軍と同様に、戦争に勝つ事や侵略被害を受けない事を上位価値に置く権術主義者で、みずからが他人や他国に害やわざわいを為す事、具体的には侵略したり差別したりするについては基本的になんの痛痒も感じない、という自民族中心主義あるいは中華思想の傾向をもっている。それはかれらが根本的には、一般知能の比較的な低さと関連している、つまり他人への共感認知とか思いやりとかいう点で異質な他者への理解度が低い点が挙げられる(ゴードン・ホドソンらによる"Bright Minds and Dark Attitudes"の説)。大雑把にみて、自国の全人民にIQが正規分布している時、飽くまで傾向としてなので個別の人物では例外がありうるが、IQの上半分は諸々の異質な他者への理解度がたかいゆえ結果として包摂的か比較的寛容な考えをもつにいたり良識派や左派に与しやすいが、IQの下半分は異質な他者理解が生育中に困難であればあるほど自己中心的・利己的かつ排外的・害他的な考え――例えばその典型例が神道原理主義に基づく皇居御所・都心中華思想や帝国主義、全体主義、侵略主義、天皇制結束主義、国社主義などなわけだが――に容易に引き寄せられやすい。なぜなら一般知能が低い人にとっては自分と似た傾向の同質的他者とならば簡単に意思疎通ができるので楽だと感じるからであり、また、自己愛を延長させれば、当然この自集団も自分をひいきしてくれるはずだ、というしばしば誤った前提、自集団ひいきの妄想を置きやすいからだ。これが愛国心または民族主義(nationalism、国家主義)と呼ばれているものの正体である。
 米国内の右派については、自分のみるところおもに2つに分裂しており、一派は単なる愛国保守派と、もう一派は排外保守派だ。たとえば人種差別や移民排斥を容認するかどうかでこの2つが相当程度、別れる。愛国保守派はこれらの非アメリカ的な考えを受け入れないが、排外保守派は進んでこれらの国社主義的考えを採用する。ドナルド・トランプ氏があれだけの力をもったのは、少なくとも当選時にはこの両者を支持に巻き込み得たからではなかったか。特に、米国にとって対外貿易赤字の相手国であるところの日中への攻撃的姿勢は、極めて米国の両保守派にとって都合がよかったのである。しかし現実には安倍氏が最初にトランプ氏の懐に入り込んだことでより重くするつもりだった対日関税や米国有利になる不公平な取引について在日米軍撤退をちらつかせながら脅しにかかる砲艦外交宜しくの戦術が序盤でなかば挫かれ、戦闘機を無理にでも買わせるとか米国不利とみたTPPから離脱するとか、トウモロコシを送りつけるとかトヨタを公聴会に呼んで米国工場新設を誓わせるとか、色々と中途半端に終わった。一方で中国に対してもファーウェイを国ぐるみで敵視させ、ティクトク禁止令の間際までいくなど、ファーウェイそのものにはスパイウェア疑惑があるからまだしも、民間企業への個人攻撃を中共(中国共産党)との共謀罪式にくりかえしたわけだが、これらも見るべき成果を挙げられなかった。シリアからは撤退をしたようだったが、そのうえで突如スレイマニ暗殺をおこなうなど、軍事面では大量破壊兵器の証拠がない段階での有志をつどってのイラク侵略を決行した子ブッシュに比べればそこまで過激ではなかったにせよ、過去の米国政府に比べれば相対的にだが、鳴りを潜める様な行動をとった。これで鷹的な愛国保守派としてはトランプ氏に見切りをつけるだけの理由が十分すぎる程できたわけである。同時に、メキシコとの国境封鎖など排外主義傾向の政策については、特にニューヨークとかカリフォルニアの様なエスタブリッシュメント(エスタブ。高い教育で確立した人、有力者)が割と多い地域での市民間の反感を買うと同時に、最終段階では南軍の旗をもった暴徒が米国議会に乱入するに至って、ある種のカリフォルニア人イデオロギ―あるいは情報統制の意図に基づいてGAFAMらが勝手に団結し、これらのビッグテック側は裁判上もいまだに表現規制・検閲行為として違憲の疑いが濃厚であるが、自分達の社内ルールで大統領の社交媒体を暴徒扇動の魔女裁判にかけ、アカウントごと消してしまったわけである。このとき、地球中の政治支配者で唯一冷静だったといえるのは、ドイツ首相のメルケルだったことを我々は世界史に明記すべきだろう。彼女は検閲は国法に基づいて行わねばならず、企業にその采配を与えるべきではないといった。米国はこの指摘に耐えられるだけの法倫理、法秩序を兼ね備えていない。俗的には米英法と大陸法の違いと解釈されていたが、現実の方が法に優越し、法と矛盾した現実が現れた時、米国、少なくともGAFAMの大部分が属していたカリフォルニア州などでは、米国憲法どころか州法にさえ個々の企業の利己心が優先されてしまったのである。だから我々は、一定以上の法的理解と認知力があれば、この部分でもはや米国ビッグテックを自由、特に自由権の擁護者だとは到底おもえなくなった。単純にかれらの利害勘定で勝手に社内ルールを使って、法秩序を破ることをなんとも感じていない人々の集まりだった、という意味では、違法なタダ電話装置が製品開発経歴の初陣を飾っているスティーブ・ジョブスとか、好みの女性との席次を調整するシステム開発が同じくそれの様な面があるビル・ゲイツとか、あるいはウィンクルボス兄弟からの盗作疑惑がついてまわっているザッカーバーグらの、一種の反体制的な色彩がいまだにカリフォルニア人イデオロギーの中には内在されていることがここでは露わになった。いわゆるお里が知れるというやつである。裏を返せば、元が不良学生が金儲けに夢中になって大学中退で始めた様な企業が主になっている米国ビッグテックは(但しこの文脈で、院生が意図的に起業したグーグルの親会社アルファベットと、脱サラ企業のアマゾンは除く)、基本がエスタブ発の企業では決してないのだから、所詮はその程度の軽薄な法・倫理観しか持ち合わせていない事が明らかになった、という話だ。

 ただ、これらのおそるべき経緯のうち、自分個人はイスラエルとパレスチナの複雑な宗教的聖地を巡る争いについては、今まで、ある中東のニュース・ブログが発端になった陰謀論の一種だったのだろう中東でのイスラエル軍とその諜報機関モサドによるスズメバチの巣作戦なるものが実在しうる、というかそのとおりと、ユダヤ人の親友がいるとあるイギリス人から証言された事で、半ば一定の可能性を置いてしまっていた時期がある。もっといえば、あるパレスチナの人と会話したところ、イスラエルの人と呼ばれる事を大いに憤激した様な呆れた様な感じで全力で拒絶された、などの実体験もあった。
 しかし、特にサイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)の人道主義的言説を色々と辿った結果、確かにモサド側がどんなことを考えて中東攻略を図謀っているかは我々には知る由はないとしても、「推定無罪」の必要はあると考え直す事になった。というのは、イスラエル悪玉論のたぐいには、根底にヒトラー風のナチズム(国社主義)に通じる所がある。これはヴィーゼンタール自身が激しく啓蒙していた反ユダヤ主義への批判の文脈をかえりみれば、誰の目にも明らかな事ではないか。確かにユダヤ教のなかには選民思想と呼ばれるものが旧約聖書の頃から計画されているので、それを純粋に宗教的に旧態墨守している一部の保守的ユダヤ人らのなかには、異国集団へ容易に同化しないために、排斥や迫害されやすいだけの条件があったことになるだろう。そして上記メルケルの大いなる間違いとしては、「多文化主義は完全に失敗した」と公言し、その種の異種共存的な包括的多様性をドイツ単位で拒絶してしまっていることにある。自分がみるに、同化政策と、国社主義には同根がある。メルケルは当人が気づいているかいないかにかかわらず、再びナチと類似の根本思想、つまりヘーゲルが世界精神として語った様な、ドイツ自民族中心主義に陥ってしまっているのである。たとえメルケルのそれがヒトラーと異なって、種族主義の偏見を表層的にぬぐっていたとしても、今度は「文化」とか「民族」とかいった別の抽象概念で、やはり、同じ排斥的なドイツ人風土に、同発言で間接的お墨つきをあたえてしまっているのである。排斥する理由を人種にするか、文化にするか民族にするかは、それをおこなう狭量な、低共感知能な、あるいは悪意ある人々が恣意的にラベル貼りをするばかりなので、実際の憎悪のあらわれは遺伝子だけに理由をかぎったものではないのである。したがって、このメルケルの失敗をかんがみると、SWCのおこなってきている様な寛容の風土に向けての「推定無罪」の原理を、全ての人種、民族、国籍の人々にあてがうのが、本質的に日帝が与していたナチへの真の批判であり、また、日本としての反省になるのは誤りない事である。その点で、モサドやイスラエル軍が具体的に日本国や、パレスチナ市民や民兵を含む諸国軍に、なんらかの非人道措置を十分な証拠をとれる形でおこなったときにかぎってそれを責める権利が人道主義者にはある。それ以外の場面で、ユダヤ人全員とかイスラエル政府とか、あるいはパレスチナ政府と市民に対してもなんらかの偏見から有罪の推定をするのは全く人間的ではないことになるだろう。無論、それとは別の次元で、モサドあるいは米国側のCIAなど諸国より我々が主体的に諜報活動を洗練させる必要があるのはいうまでもない。

 では上記の論旨を前提に冒頭の主題に戻るが、時短営業を要請する事による協力金の支払いは、巨視経済学的に、相当おかしな政策なのは確かである。
 まずこの方法では、市場干渉によって各市場参加主体(企業ら)の競争性を損なう。競争力がある、いいかえれば製品・奉仕について効率がいい会社・個人と、そうでない会社・個人の間に等しい協力金を支払うのは、いわゆる国社(国民社会主義、国家社会主義。ドイツ語でNationalsozialismus)政策にすぎない。自分は最初からこの方法には、経済学的観点から反対だった。上記の市場の効率的秩序を損なうのに加え、そもそも全ての営利活動の中で、飲食店など特定の業種に片寄って補償するのは、市場全体の効率を甚だ損なう事が明らかだったからだ。よって、自分は国民一律補償金が望ましいと考えていた。そのために予てから議論されてきている、格差社会下での生存権保障の文脈での基礎所得(Basic Income、BI)をこの際、導入するのがいいと考え、その為の財源を捻出する方法も個人ブログで提案していた。『月額7万円から10万円のBI財源論』(後述)
 しかし国政府の単位で、時短協力金の方が強行された。そこにあったのは、いわば飲食店を中心にした一部ガス抜き政策の様なものに過ぎず、憲法や国家公務員法などで国民全体への奉仕者と定められている公務員の義務については完全に逸脱した政策であった。その様な判断をしてしまう時点で、なるほど、前安倍政権から続いている内閣の弱知化が進んでいるのは確かだ。安倍政権下で連打されてきた違憲立法も、そもそも違憲立法の悪や不手際について安倍氏が理解しているかは大分疑問がある。世襲の箔を含む派閥闘争目的に安倍氏を首脳陣に担ぎ上げている今の自民党員一般は、法律体系を理解していないから違憲な立法が最終的に無効になる意味も、それにもかかわらずわざわざ立法させることに伴う国家的損失の意味も、まるで分かっていないのだと思う。安倍氏が学生としてもそれ以外の時期も、かれの担当教授も誤った指導について反省しているとおりまともに法学をやっていなかった事について今では万人のうち誰も疑う者はいないだろうし、もしいたとしてもその人も法学の知識がないだけにすぎないのである。このため、安倍氏の独裁期は、戦後最悪の恥知らずな上に最長期の最悪政権となっていたわけだが、結果として仮病だった退陣後の今も、内閣や政府へ向け彼が自民党最大派閥内の実力者として事実上の院政を布いているうえに、次々彼と同等以下の法学知識や倫理観しか持たない人々ばかりを重用するので、ある種の悪の組織、いってみれば長州ヤクザ組織状態で彼ら安倍一味は国の権力機構を専横している。同時に、安倍一味は検察人事権まで内閣人事局制度を無理に作り、検察庁長官の采配として握っているので、いってみれば天皇・皇族に次ぐ絶対権力によっていかなる不法行為、いかなる悪質な蛮行をしようとも決して逮捕・刑罰されない状態にあり、完璧な政治腐敗を極めている状態といっていいだろう。しかし、驕れる者は久しからず、いつまでもその種の政治腐敗が続けられるわけではない。第一に、国内に良識派が残っているかぎりつねに革命権の行使によって、第二に国外に良識派が残っているかぎりつねに外交上の外圧によって、それらの政治腐敗した独裁・寡頭政治勢力が退けられる。逆に、近視眼的にこの種の政治腐敗が超時代的に永久化できる、と考えている安倍信者を含む自民党信者らは、自分達が自分達の最も損害をこうむる最悪の悪徳政治を延々とつづけていきたいと考え、それこそ愛国だとおもいこんでいるならば、なるほど、この自称愛国右派こそが最もその言葉面と逆に、反国民的、反国家的な勢力なのが事実である。国会答弁内ですら最低118回も偽証罪にあたる嘘を連発してきた安倍氏だが、この種の極悪人がのさばりつづけるとすれば、そこは法治国家ではないどころか、近代文明と呼ぶにすら値しない、と日本国民全般ならびに諸国民全般は、仮に理性が錯乱でもしていないかぎり確実に理解できる範囲にある事例である。
 話をふたたび戻すと時短協力金は、この種の安倍一味による自民党・縁故主義政治が、GoToキャンペーンの延長上で大規模に試みられたもの、と言ってまず間違っていない筈だ。第二次以後の安倍政権で自民党幹事長の二階俊博氏は全国旅行業協会の長だったので、旅行業界の利権を主張した。和牛商品券についても同じだった。この様な利権の嫌疑は諸野党からの追及でもうほとんど事実だろうと明らかになっているわけだが、要するに党閥縁故主義によって政権が一部の利益をはかり、全体の利益を犠牲にしている。飲食店・百貨店、のち大規模店舗と安倍・スガ両政権にどんな縁故があったかは自分にははっきりしないが、仮に何の縁故もなかったとしても、なにゆえすべての業種の中でこれらの分野だけが協力金の対象になっているのか、まったく経済学的に筋のとおる理論が示されていない。要するにそれは縁故政治の延長上で堕落した形、もっといえば幼稚化、または弱知化した姿というべきである。くりかえすが、この政策はどう間違っているかならば、さまざまな業種間で特定業種へのみ不公平に補償金(協力金)を手渡す事で、市場全体の効率を損なうばかりか、それは全体の奉仕者としての公務員の義務を法的・倫理的に逸脱している点にある。
 この件についてしばしばネットでみられる批評として、例えば企画制作者自身によるロッキンジャパンフェス中止判断等のときにそう叫んでいる民間の人物がいたが、私権制限論がある。では私権の制限だから時短協力金が問題なのだろうか。私はそうではないとみなす。なぜなら、緊急事態宣言では、政府は直接、私権の制限をしていないからである。単に営業自粛要請をして協力金を払うといっているにすぎない。同様に各地医師会や医師らも行動制限論などの要請をしているだけで、政府の強制力やなんらかの暴力装置によって国民・法人各自の自由権を制限しているわけではない。なるほど事が日本だけに和の同調圧力で実質的にその空気を破って営業するのが難しくなる、などのこの国特有の文化風土から、実質的には強要ではないか、という論点も成り立つ余地がある。実際、脅迫などをおこなう人々もでてくるかもしれないし、私個人はしらないが実際、そうしているひともいるのだろう。その場合、かれらは営業妨害罪になるのが事実ではないか。だからといって、各地の警察・検察が腐敗していて、営業妨害罪をされてる側へ無理やり自粛しないお前たちが悪いといって被害者と加害者を悪意で混同しつつ冤罪きせているだろうか? もしかしたらそういう事例があるかもしれない、特高や安倍自民党政権の横暴のかずかずを擁護していた近現代の日本の法的民度をかんがみると十分ありうることだ。ゆえに私権制限論による時短営業その他の自粛批判は、その事実がないとしても、日本では、特に法的理解が薄い衆愚側に一定の説得力をもってしまうわけである。こうしてラッドウィンプスのボーカルや、彼のファンらに煽られた様な反社会的ヤクザたちが、遂には人命保護を使命とした医師や、罪のない一般民衆へ悪意ある冤罪をきせながら暴言を吐き、差別的言動をくりかえすばかりか、実際に京都市民が脅迫事件で警察に逮捕されるような事態に至るのである。
 だが、もしわが県が文明圏の一端に属しているならば、この私権制限論は、立憲法治主義の観点から、別案件と峻別されねばならない。いいかえれば、安倍氏が強行採決させようとしていた緊急事態条項の方は、確かに名義がよく似ているが、完全に政府による私権制限目的そのものだったという事だ。端的に言えば米軍の手先として自衛隊や自国民を、自民党御用学者・三浦瑠璃氏の扇動する国民皆兵令のもとで、あるいは安倍・スガ内閣の副総理・麻生太郎氏による天皇国家元首化の扇動する戦前退行の形で、総皇軍化へ強制しようとしていたといっていいだろう。安倍一味の派閥が排除したからまだ結果としては先送りされたものの、石破茂氏が今の首相になっていたら、実際、その様な軍国化が、良心的兵役拒否権を否定する形で改憲に結びつけられていたかもしれない。だからそれらの自民党ネオナチ政権、自民新国社政権の前座として、私権制限に国民を徐々に慣れさせる目的で、緊急事態宣言なるものが発布されている、と考えるのが、現代日本政府の分析として的確だろう。結局これ以外になんらかの主要目的が背後にあるとは、諸々の分析でも出てこないほど不公平すぎる案件なのだから。

 政府に従順にさせる事。上からの命令に、全国民が和、空気、正義などと名づけた不寛容の悪意による相互監視のもとで進んで従う状況をつくりだし、これを采配する形で、自身が絶対権力を握る事。それが安倍氏の主眼に置いている事態で、いってみれば僭主としての絶対権力願望というべきだろう。そしてこの絶対権力を完成させ、最終的には彼が妄想の中で愛顧している祖父・岸信介の亡霊を追いかけ、自主改憲という形式を踏むこと、さらには戦犯逃れの米国CIAスパイとして岸がおこなった米軍の間接統治状態を、自分の手によって自衛隊の米属国軍化で新自民憲法のもと完成させる事。これらが、安倍氏の全人生を思想背景から分析したときにみえてくる彼の主要行動目的といえる。そして安倍氏は、対米追従、もしくは臣従が、日本の国益になる、という信念を少しも疑えないのである。なぜなら、岸というかれの祖父が実際に、その様に、日帝軍の文官側の幹部であったにもかかわらず米国側に魂を売る事で生き延びた、私的な命の恩人への悪の契約であり、一種の魂の明け渡しだからである。岸は日本の戦友を裏切る事を或るサイコパシーによって正当化したので、その孫である安倍晋三も、敬愛する岸と本質的に同じ系列にある行動をとることで、岸と同じ「宗主国への売国による支配」という二重基準に自らをなぞらえたかったのである。これが私がこれまで積み重ねてきた安倍の心理分析の現時点での最終結論といえるが、この様なかれの行動原理によれば、今の時短協力金策も、究極では自分が闇の僭主としておこなうべき憲法改悪、すなわち自衛隊の米属国軍化のための陰謀の序章部分にすぎないのである。そのために、飲食店・百貨店・大型店舗以外の業種は余裕で犠牲にするつもりなのである。もしくは、表面の人気さえ取れれば、巨視経済学に通じているわけでもないので、そこまで機転が回らないというべきか。

 安倍信者と自民党信者が、神道原理主義右派一般ともども最も憂うべきは、かれらの信じている皇族やら安倍晋三氏やらが、最も宗主国への売国によって、或いは自分に縁故上の利益がある一部の者を除く全般的棄民の正当化によって、自分達の地位を築き上げ、保全している真の反日勢力だという真実である。無論、これに気づいている者は、皇族や安倍一味を国政から何とか追放しなければならないと以前から考えその為に政治行動してきている。だが、あまりに衆愚の愚かさ、悪徳のほどは酷いので、かれらの真の愛国愛民行動には頭ごなしに最悪級の汚名が、自称右派に煽られた一般民衆からさえ、つぎつぎ着せられるばかりである。そもそも、これらの右派一般は上記ゴードン・ホドソン論文の指摘するとおりならば、相対的に一般知能が低い傾向もあるので、真の自己犠牲をかえりみない愛国・愛民心と、偽りの愛国・愛民心こと私利私欲とを、厳密にみわける能力が凡そ寸分もない。それで却って偽りの愛国・愛民者に最大の権力と名誉を与え、真の愛国・愛民者には最大の汚辱と冤罪をくり返してきている始末なのだ。この意味で、愚か者や悪人の無数に溢れている場には、真に清らかな国はつくりえないというべきである。

 同様に、特定業種への肩入れにすぎない時短協力金の実態が上記の様な安倍一味の改憲計画の前座、すなわち政府による全体主義的な私権制限の第一段階としての国民全員への慣れさせが真の目的に基づいて出てきている国社主義政策であれば、我々はこの最初の芽の段階、つまり今の時点で、自民ネオナチ勢の横暴を完全に除去してしまう必要がある。いいかえれば緊急事態宣言の放置で至りつくところが寡頭政党・自民党とその裏君主の安倍氏による緊急事態条項の立憲化による国民全体への全体主義独裁及び全幅の思想統制であれば、それは当然ながら国の良識を司る自由権、人格権ふくむ全人権の潜在的消滅と、結果としての国の滅亡を意味するので、緊急事態宣言と時短協力金のセット販売での国民騙しについては、鋭い批評を加え、特定業種への利権誘導にすぎないとし、これを次期衆院選までの早期にやめさせ、代わりに、国民の自由権を制限しない形でまたいかなる業種へも不公平をもたらさない形での、一律補償金へとコロナ禍での福祉制度改革をおこない直す必要がある。もし一律補償をおこなっても、所得税の西洋並の累進化をおこなえば税制全体として、調整的(所得再配分的)な公平性は保てることになるからだ。なお、この際の基礎所得状態での一律補償金が財源として不足することについては、前述論文で詳細に挙げた通り(『月額7万円から10万円のBI財源論』)、節税目的の赤字演出が可能な法人税と、実質的に企業への法人税との二重課税になっている消費税を廃止し、企業側がごまかしえない企業自体の内部留保税(税引前利益として毎年の費用・経費との差し引きをおこなわず、企業の実質的な利益蓄積量を基にした課税)という形にする事で、永続的な形で十分まかなえることになる。

2021年8月12日

共和政体への移行後に茨城県は天皇をどう扱うべきか、その試論

会沢安が間違えたのは、当時として植民地化防止策としての国体論の構造ではなく、それが余りに性善説に基づきすぎていた点にあった。このため、当時として常陸国の領域或いは列島の他国では当時として十分通用したが、より都会ズレしていて性悪だった関西地方や、より卑しく利己的・反乱的な人間だらけであった薩長土の各地や、衆愚的な江戸では、あるいは単なる傲慢な世襲独裁者の一門であった天皇家自身からさえおよそ全くゆがめられ誤用されてしまった。
 会沢の国体論は、根が浅ましい吉田松陰が倒幕論へとつくりかえ、天皇と将軍へ忠義な徳川の侍である会沢ら吉田に教えを授けた水戸の学者とその純粋な祖国愛を裏切る方に悪用された。底抜けに性悪な関西地方の人々は、岩倉具視らをはじめ、水戸家の尊王論を受けた徳川慶喜へかれの身を粉にした勤皇の功績にもかかわらずそれと真逆の朝敵のぬれぎぬを着せ、今もその人道犯罪に平気でいるのだ。天皇家は水戸学者が啓蒙した国体論や尊王論へ、当の水戸徳川家出身者である慶喜らへぬれぎぬを着せ戊辰戦争で国内侵略虐殺をおこない馬乗りするばかりか、最終的にはこれらの論旨を井上毅らの手になる『教育勅語』などで断章取義しだした。こうして天皇家はみずからの為の侵略帝国主義へと拡大解釈しはじめ、アジア太平洋地域ですさまじい戦禍と人権侵害、皇民化の強要による大和朝廷同然の民族虐殺ふくむ残虐行為の悲惨を再びもたらすことになったのだ。

 尊王と愛民が対になって成り立つ水戸学の政治思想は、その高文化的な表現形態によって知識層の間でのみ理解されえたといえるだろうが、現実にこの趣旨を正統的に受け継いだのは、やはり常陸国こと茨城県政の中だけだったのである。梶山静六による愛郷無限の哲学はいわば烈公の愛民思想のいいかえだろうし、戦後はじめに水戸の旧県庁舎の屋上から昭和天皇が詠んだ御製も、その尊王の風土に対する国家再建の期待だったのだろう。
 会沢安はかれとして最も誠実な理論を編み出したのだろうが、薩長藩閥による明治政府において松陰観念論上の一君万民論による中断をはさみ、烈公ら後期水戸学の祭政一致論・大義名分論はのち戦後政府の象徴天皇制に至ってはじめて、本来の姿に近い形をとることになる。そして平成期では、会沢の国体論はあいかわらず右派の中で、保守思想の中核として使われているが、それは江戸時代後期では最も前衛的な進歩主義的政治理論で当時の政府は体制と矛盾しかねないものとして、大政委任論に立って天皇の権威を根源的に否定していた大老・井伊直弼らが実際に、幕閣の立場から思想弾圧の挙に出ていたのだ。この国体論を、平成右派の一部は、元勲ら明治の極左、あるいは皇道派ら昭和の極左(或いは極右)と同様に仰ごうとしているが、実際のところ、その種の抽象的国体の象徴化された姿としての天皇は、少なくとも次代の秋篠宮にあって国民やその元にある制度や信仰を、かれら自身の家の私利の為におおかれすくなかれ利用するばかりで、今では会沢のめざしていた官民相和する理想国は綻びを見せつつある。

 では会沢の努力は無益で、あるいは有害ですらあったのだろうか? 日本は確かに植民地化を防げたが、飽くまで米軍からの侵略を防止できているのは、これもまた、自衛隊基地のみで専守防衛されている茨城県域など少数の地域だけである。同じ関東・首都圏でも神奈川や東京は米軍基地に占領されたままで、神奈川民や都民一般はこれに何の疑問ももっていない。
 もし或る理想国が僅かな領域であっても、それがない状態よりははるかに優れているというべきだ。だからこそ、理想(和訳の原語として、プラトンのいう「イデア」)を飽くまで追求し、それを実現した政治領域をもっていることは、大きいほど望ましいとしても、仮にどれほど小さなものであれ、我々にとって模範としてこの上なく重要である。著作の様な虚構、作り事の形でも、理想国ができあがっているのとそうでないのとでは、抜本で核心的に全くと言ってもいいほど大きな違いがある。水戸の志士は国政のなかでは香川敬三ら皇室に直接仕えた一部の人々を除けば、明治から昭和の下院政体からは、総じて排除されていた。上院では水戸徳川家や徳川慶喜家らが現役だったものの、水戸学の理想を自由に実現しうる領域は、かれらにとって茨城県に限られていたのである。

 それでは、我々茨城県民は、今後の未来でも会沢と同じ理想を追求すべきだろうか?
 私は、天皇制が象徴であれそれ以外の形であれ、永続する事はないだろうと考える。それというのも、水戸学の趣旨のうち、祭政一致論は政教分離と根本的に矛盾を抱えているし、国民主権と象徴天皇の存在も根本的に違和するものだからである。共和政体が永続するかとは別に、愛子天皇にならないかぎり、そしておそらく自民党右派に影響力をもつ旧宮家の竹田恒泰氏ら男系派の抵抗のためならないだろうが、次代の時点で天皇の世間的権威はおそらく失墜し、君君たらず臣臣たらず、と言える状況が到来するだろう。その際、国政では天皇を廃止し、共和政体への移行が起きるだろう。
 茨城県はこの時、やはり民衆の総意として、共和政体への移行を選択するだろう。問題はこの時の天皇のその後の扱いである。義公は『古文孝経』を引いて君君たらずといえども臣臣たらざるべからず、すなわち当時の天皇に徳が失われてもその臣下を自らに任じる者は天皇を守護すべきである、との趣旨を述べた(義公『常山文集』巻十五名越時正『水戸光圀』水戸史学会、1986年7月、180-184ページ「護国の教え」。義公が養子である粛公に遺訓としてのこした詩)。慶喜公自身が『徳川慶喜公伝』で伊藤博文や渋沢栄一らへ伝えている事実このとおりに慶喜は大政奉還し、その後、薩長閥や岩倉具視らから小御所会議後に朝敵のぬれぎぬを着せられても皇軍の前で自主退却を選び、みずからの江戸城も無血開城を選択したのである。そうであれば、常陸国・茨城県の伝統として、皇室廃止後も、当時として民衆全体または過半数が皇室を支持せず、また仮にどう不公徳な天皇へも飽くまで臣下の義、ここでは可能なだけの人道措置をとるべきではないか? となる。実際、英仏公使らは、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』によれば、薩長土肥京芸ら西軍、特にイギリス公使と交渉にあたった西郷隆盛がイギリス勢へ
西郷ら「慶喜公にぬれぎぬをきせ惨殺すべき、ついては協力してほしい」
云々と主張していたとき、
イギリス公使側「ナポレオンすら失脚に留まったのに、何の罪も犯していない前将軍・慶喜へ冤罪をした上に死刑にするとは、文明人として紳士協定に反する」
云々といって、いわば普遍的道徳に基づいて、この狂った野蛮人の謀略をはっきりと拒絶していたのである。その様な振る舞いが当時からみても後世からみても、文明の理法によっていることは明らかだった――尤も現実のイギリス公使として、上記を建前としてイギリス国政の事情として、内乱に薩長方で介入するだけの利益が本国にみいだせなかっただけ、内戦不介入で日本人同士に疲弊させた方が得と判断したともいえるだろうが。一方、父の天皇に絶対忠義たるべしとの庭訓を守って、尊王の禅譲を選ぶ慶喜公へ、フランス公使側が江戸城でくりかえし、非道な薩長と戦えと主張していたのはいうまでもない。日本国内でも山形の侍・雲居龍雄『討薩檄』は幕末当時、戊辰戦争に際して書かれたものだが、西郷隆盛・岩倉具視らの冤罪画策で、慶喜の母方の親族である皇族や天皇と殺し合わせるようとするなど人でなしに過ぎる以ての外の暴挙だと、国籍を超えてかれら英仏公使とほとんどまったく同じ道徳判断をこの際に示している。実際、明治政府樹立後は薩摩閥から盛んに美化される事この上ない西郷は、戊辰戦終結後に征韓論にながれますます吉田松陰ゆずりの侵略主義の本性を示し始め、これら手段をえらばぬ恐怖政治による暴走の末、のち西南戦争で自刃する事になったのである。

 これは私が現時点で想定している状況下での事前の想定で、実際の現場ではそうでない行動をとる事が何らかの理由で必要になるかもしれない。例えば茨城県庁が天皇の人権を尊重したために、県外の多数の自治体から攻撃を受け、民衆が致命的損害をこうむる様な状態では、当時の政権が天皇擁護の立場にたちつづけることは不合理となるであろう。そのとき、人道主義の観点から、茨城県庁の政権は常に主権者である県民全体を優先し、その時点では重罪人扱いされているはず天皇を犠牲にしなければならない。よってこれは絶対的正義を意味するものではなく、飽くまで政体移行後、事前に想定される試論である。

 日本国が共和政体へ移行後に茨城県が尊王と愛民が両立不可能なとき、第一にわが県は天皇の擁護よりも県民の人命保護を選ぶべきだが(県民第一)、それ以外に、それと矛盾しない場合に天皇を擁護(消極尊王)しても同じく、既にのべてきたとおり、すくなくとも西日本のほとんどの府県とか、南関東の都県とかは、過去の経験則から、確実に、西日本や南関東勢は我々へ想像をはるかに下回って超える諸々の悪意であまたぬれぎぬを着せてきたり、謀略にかけようと悪意ある犯行をしてきたり、場合によってはその種の茨城の尊王の立場を西日本・南関東総勢として恣意的に利己心から悪用・利用しようとし、底抜けの悪意から実際にするだろうことはおよそ例外の余地なく、ほぼ確かなことである。それが日本史の完全に温故知新として示している真実、すなわち、西日本や南関東はその根本的な政治志向において、東夷や朝敵などと際限なく茨城県へ冤罪を着せる中華思想によっており、根っから性悪な悪意をもつ暴徒集団であるのが諸々の経緯から証拠づけられる事実だからだ。強調しておかねばならないのは、このことは天皇家や皇族やその親族自身も、旧来が西日本や南関東勢の一員であるかぎりなんら例外ではない。
 たとえば京都市長・門川大作が皇族の政治利用をめざして、箔づけあるいは権威づけのために皇族の京都移住を政府にくりかえし願い出ている様な形を、彼や京都市民にとってなんの縁もゆかりもないとみなしている茨城県により害や禍を為すよう拡大させた姿で、なんらかの想像を超えた悪事を働くかもしれない。茨城県側にとっては尊王論の既成理論があるため天皇の政治利用は、桜田門外の変や坂下門外の変をまねいたよう当然ながら禁忌だが、幼帝の明治天皇を前に岩倉具視らが錦旗を捏造し、西郷隆盛が戊午密勅同様に倒幕密勅を偽造し、小御所会議以後にかれらと大久保利通らが摂関家を牛耳って天皇や参加公卿公家と共謀し尊王の慶喜へ朝敵のぬれぎぬを着せると皇軍と称し、政権掌握をめざしクーデターを敢行した京都の岩倉具視や鹿児島の島津茂久、広島の浅野長勲、高知の山内豊信ら、性悪の権化というべき西日本勢の相当或いは大部分や、かれらからの侵略をうけた南関東勢と、水戸家が中核におわす茨城県の国柄の差だったのだ。実際のところ、それら西軍の悪意は当時すでに奥羽越列同盟勢からも見抜かれていたが、西日本の人々は、小御所会議で西軍を主体的に構成した薩長土肥や京都・広島勢を筆頭にいまだに、かれらによる慶喜や松平容保らへの冤罪とそれに伴う侵略罪を、かれらの郷土史のなかでも現実においても恬として恥じていないのである。京都府京都市がお里である原田伊織氏や、長野県上田市がお里である関良基氏なども現代に於けるその例である。だがそれにも関わらず、人道の最終段階として、全国民が総意として反天皇的になった時に、共和政体その他の下でも茨城県だけが最後まで、義公の哲学を我々が守り抜くかどうかが問われるというべきだろう。たとえ水戸学への浅学な誤読・悪解釈によって反水戸イデオロギーを煽っている一種の憎悪表現者、滋賀や長野の自民族中心主義ネオナチヘイターである原田氏や関氏らといった平成令和期の中部・関西の一部のひとびとあるいは彼らに煽られた民族差別暴徒からの悪意の渦の中でもだ。この意味で、会沢の国体論は、共和政治移行後の最終段階としての天皇への人道的な扱い方として、茨城県の領域にあってのみ、その正義の核心が発揮される様な理想だったのだ、と私は思う。未来は、おそらくその様な流れで、高い理想をもっていた茨城県民と、そうでなかった他都道府県の宿命の決定的違いという、全く別の文明界に属する世界観が別れていくのだろう。
 こうして我々、後世の常陸国、茨城県民らが会沢の、日本国民一般を信用しすぎた、という江戸時代に犯した失敗から学べるのは、西日本や南関東ならびに皇室の民度、特に道徳性・倫理観念が我々茨城人一般の想像をはるかに下回って低く、かれらの根底に性悪説が前提にあるとみなさないかぎり、再び、かれらから慶喜公あるいは平将門らと同じ冤罪を着せられ、何百年以上にわたって汚名を着せられ貶められる、と過去の延長上に推計できる不動の前提に立つべきことで、いつでも茨城県や県民へ権力乱用で棄民・暴虐しうる天皇家や皇族自身を含め、それら西日本や南関東などに群れている紛れない野蛮人、さも同じ国民と称しているがまるで心根が違っている蛮族たちと我々は接している、と深くはっきりと自覚しつつ、我々自身は透徹した確固たる良識をもつ文明人として、現世ならびに前世(前の世代の人々の名誉)と後世の全人類の為に、政に当たるべき事である。具体的には、我々は常に我々茨城人自身が最も有利かつ有徳となる選択肢を取り続けねばならず、その際、上記で示した県民第一かつ消極尊王なる政治・宗教上の観念論に片寄って、県民全体の損害を招く事は、全ての場面において決してあってはならない。これが何らかの現実との違和を生じた時点で、我々はより現実的に望ましい行動をとるべきだ。
 またこれらに加え、上記の原則と矛盾して県外人(茨城県民以外の日本人か外国人か)が消極尊王と矛盾する様な場面、例えば県外人を人命保護しなければならないとき敢えて皇族を見捨てれば助けられる様な場面ではどうすべきかだが、共和政体への移行後については、皇族や県外人を一般県民と極力同じく扱うのが最も普遍人道的なのではないかと思う。すなわち万人平等である。

 上記の趣旨をまとめると

1.県民第一
すべての場合でわが県政は県民の命を第一に尊重しなければならない。

2.消極尊王
仮に皇族(共和政体移行後は旧皇族)が県外人総勢から支持されていなくとも、茨城県庁では水戸学の伝統に則りかれらの名誉を尊重すべきである(但し個々人が旧皇族の人格権を損害しない形で、旧皇族による公事・国事や、彼らを教祖とする神道、あるいは彼らを含んでいた過去または未来の政体への批評をする政治論・宗教論・歴史論上の権利はある)。

3.万人平等
茨城県内の全人類は、茨城県内にあっては、その国籍や、門地、戸籍(及びその有無)にかかわらず極力ひとしく普遍的人道に基づいて取り扱われるべきで、それは共和政体移行後の旧皇族についても同じである。

2021年8月11日

水戸学の正しい理解に基づく、神道原理主義批判について

関良基という人の本や主張について、自分はじゅんちゃんなるYouTuberの動画を通じて初めて知ったが、水戸人や水戸学への悪意ある誤解、悪解釈、そしてスケープゴート(いけにえ)化ぶりが憎悪表現そのものでしかなくびっくりした。原田伊織のつぎにでてきた偽史学もどきを語る人物で、無論、実証的な歴史学の水準に達しておらず、最初にイデオロギーありきで『大日本史』は無論の事、およそ一度も水戸の史跡や回天神社など事跡を全く追わず、完全な偏見からきた妄想で水戸を悪者あつかいしており、完全にネオナチの類に思う。原田の場合は滋賀だが、関も自民族中心主義者なのはいうまでもない。非常に危険な憎悪を煽っているのは当然だが、実際に水戸の郷土史を実地と実証に則ってやってきている側からすると、同じ日本という会沢安の国体論でつくった枠組みのなかに、悪意しかない悪魔の様な愚かすぎる人々が現に生きている証拠となるのが、原田や関の存在といえる。つまり植民地化防止のためにつくった祖国領域守護の専守防衛目的の国体論はこの時点で、中部や関西、薩長土肥の様な道徳民度の低いなんでも利己的に悪解釈したり悪意で誤読するのが当たり前の国々には早過ぎたのだ。あまりに性善説によりすぎたというべきで、実際、茨城県域で米軍基地をひたち海浜公園にしたという風に、常陸国の領域でしか正確に意図すら伝わっていない。というか関は原田と同じく、水戸学の基本文献にすら通じていないのに、その思想を誤読しつつ民衆を憎悪へ扇動している点で極めて悪質である。
 水戸史学会は公式声明などで、直接、関や原田と公開対談し、現実の実証される水戸学や水戸人の善意や正義論について彼らの悪意しかない憎悪演説を公的に批評する必要がある様に思う。それほど両者の風説には悪意しかない。

 あまりに間違いが多すぎるので彼らの論説をいちいち反論していくのは大層骨が折れる作業となる。そもそも彼らは水戸を薩長と同類視しているが、この時点で大幅に物の見方がおかしい訳で、しかも慶喜という最後の将軍は水戸人で事実と大幅に反しているので、既に彼ら関や原田は歴史学をやるつもりがないとしかいえない。タチが悪いのは彼らは嘘と政治イデオロギーで固めた司馬遼太郎と本質で違いがない小説作家にすぎないのに、さも史学の体裁をとってますます事実に反する別の卑しい偏見を世間に流布していることだ。
 幕末の水戸は水戸の正義論として尊王と愛民を旗印に行動していた。しかも会沢らによる開国論や近代化による富国強兵論を前提にする学派が弘道館の主流で、いわゆる諸生党の原型になる。慶喜はそのとおり平和外交と開港、議会政治論者で、第二次長州征伐た戊辰戦争にすら消極的で内乱や外乱を避けて当時として国体の統一、つまり日本各地の植民地化防止を図っていたのである。これと烈公が唱えたとされる攘夷論はまた別の流派であり、藤田東湖と小四郎というのち天狗党となる急進派の立場で、しかも烈公自身はこれを即時実行するつもりはなく、米国側の砲艦外交に怯まないための一種の士風維持のための演技だったという話は我々水戸学研究者の中では有名な逸話である。というか常識レベルで、烈公は米国留学を願いでていた近代化論者であり、原田や関はそれすら知らないか、無理やり烈公を小説的に悪役化するためイデオロギーの色をつけ嘘ばかりついているのだ。こっちには烈公の書簡も残っていれば渋沢栄一『徳川慶喜公伝』での動かせない証言まである。烈公が富国強兵策のため近代化改革をおこないつつあったとき、井伊直弼が安政の大獄で烈公らへ濡れ衣なり悪意ある弾圧なりを加え、結果、多くの無実の者まで死刑などにされたのでやむなく、徳川の侍として桜田烈士は井伊を討つしかないところまで追い詰められたのだ。
 原田や関は今の価値観で別の時代の人を語る、という歴史学においてはありえない過ちを平気でおかしている史学の素人だ。アヘン戦争直後でいつ植民地化されてもおかしくない状況下で、政府の進歩派(烈公ら)が欧米列強からの侵略戦争に備えようと軍政改革をはじめ、一方で保守派(井伊ら)がアヘン戦争後の清がむすばされた不平等条約を顧みずこれらの近代化にブレーキをかけたがり死刑乱発などで大名や武士、民衆を弾圧し結果、政府の内部闘争があった。なんら不思議なことではない。結局は烈公の息子の慶喜が最後の将軍として大政奉還や無血開城をおこない自ら封建制に終止符を打つことで、隣国の清(当時の中国)や朝鮮のよう植民地化される前に、進歩派が主体になる新政府へと移行できたわけである。その際、水戸人は徳川方として慶喜はじめ自己犠牲を選択しただけで、それ以外の方法で近代国家へとあゆみを進める余地が我々にはなかったのだ。特に、薩長両国が大暴れをはじめて、勝手に対外戦争をし、しかも賠償は徳川政府もちにして何度も日本人へも恐怖政治(テロリズム)をおこなうなど、この点だけは原田や関のいうことにも事実を言い当てている面がある。当時、鎌倉幕府のときのよう実際に即時に元寇を追い払う形で終結させる可能性もあったわけなので、その不可能さを薩長2国が実証した形になる前の日本で、攘夷行動をとった人々を責めるのは、当時の危機的状況が今のよう自衛隊だの警察だのが組織されている状態とはまるで違うと、原田や関は想像できていない。もっというと、第二次大戦終結まで現役でアジア人は全般に欧米諸国から被差別対象で、インドや南北アメリカ先住民らをかえりみれば日本人やアイヌ全員が欧米列強から民族虐殺でみなごろしになる可能性も十分すぎるほどあった時代だったし、実際それを防ぐ目的の理論が若い水戸の学者会沢安の伝説的な著の『新論』だった。これを、じゅんちゃんすら誤解している。平成令和の在特会風の単なる卑小な人種差別を目的にしたネトウヨ愛国カルトなるものと、会沢が世界史の趨勢をみながら深刻な欧米列強からの侵略・植民地化・民族虐殺への現実にあった危機意識から全国民を救いだす啓蒙書として生み出した『新論』での国体論とは、置かれている哲学上の次元がまるで違うのだし、実際、後者があればこそ、極東アジア人が世界史から奴隷種族扱いで消されずに済んだ面も実際にあるだろう。いわば知的労作として、江戸時代までに知られていた日本の全英知をかけ、令制国諸大名の連邦国だった今の本州四国九州をあらたにひとつの国として統一し、それらの住民に民族としての愛国心をもたせ欧米列強による侵略から守ろうとしたのが、会沢の国体論の目的だった。そこで大名の長である将軍の上に、大名を超えた権威として天皇をもってきたのである。また、当時はキリスト教化によって国の一部が欧米化し、日本を離脱したり、いわば今の香港状態で内乱の原因になる危険性も神仏習合ふくむ宗教的ゆるさのために存在していた。これで一種の思想上の天才である会沢は、他国とは違う宗教的思想形態である神道による国教の整理をおこなおうとした。なるほど今の価値観から見返せばそれがアーレントのいう全体主義の一起点になった面もあったにせよ、また彼女自身ユダヤ教の影響下でやはり宗教的統一を無視できないのにも関わらず全ての宗教の手段性を軽視している節があるにせよ、当時の江戸時代の状況からすれば、会沢が言うようのするしか欧米列強の脅威を民間信仰面で完全に退ける道筋がまずなかったのである。だからこそ、大隈重信や福沢諭吉が書き残しているとおり遠く九州地方でもこの会沢の『新論』が聖典(バイブル)のよう知識層であった市民(侍や町人)に受けいれられたのだ。この時代状態への想像的理解ぬきに、単なる全体主義の起点として会沢の国体論を語るのはおどろくほどの無知や拙さによるとはいえ大幅に誤った見解というしかない。だから体系的歴史学の素人あるいは浅学者に教えを受ける様なことは異端に学ぶ害しかないといえるのだ。
 そしてまた水戸人は愛民思想の起源である。このことを関も原田も知らない。つまり仁政や徳政を是とする歴史風土なのである。これについても儒学を修めた義公の代から変わらないものがある。彼が笠原水道事業などで領民の最大多数の最高幸福を願う先駆者だったのは封建領主として彼が民衆の味方と仰がれる理由になっている。同じ為政の姿勢は以後の水戸家が一貫して持っていたもので、烈公の偕楽園造園や飢饉対策、殖産興行もいまにつづく茨城県政の礎となり、のち梶原静六による愛郷無限の思想にもつながる。これらの常陸国政や茨城県政に脈々と流れる愛民主義の作法を、関も原田も少しも認知できていない。彼らが単なる片寄ったイデオロギー論者で、水戸を毛色のまるで違う薩長と同列に並べたい目的に、文献だけで判断して誤って悪解釈している証拠だ。しかも『桜田義挙録』のような周辺文献はいうまでもなく『大日本史』『新論』その基本中の基本文献すらまともに読み込んでいない。一瞬でもこういった浅学の徒に言及するのは我々の品位に反すること甚だしい。よって以後わたしは軽蔑する相手にわざわざ注目を集める様なふるまいをやめるが、ここでなぜ敢えて言及したかなら、じゅんちゃんという若者が、三流の擬似歴史本、イデオロギー小説によって根本的に誤った道へふみいれていくのを見るに忍びないからだ。

 じゅんちゃんはアーレントのファンらしいので、彼女の全体主義批判の文脈に引きつける形で、たまたま関の著に触れ、関の謬説を真に受け水戸学へもほどあれ誤った解釈をしてしまっている。それはこれが第一に、その後期の一部にあたる会沢『新論』で江戸時代の時点で欧米列強による世界侵略のさなか専守防衛理論として語られた国体論を含んでいる点について、じゅんちゃんはこれをさも悪の理論かのごとく思い込んでしまっていることだ。じゅんちゃんの解釈では、社会全体が一つの目的のために動くべきだという考えを全体主義と定義している。だが会沢はその様な考え方をもっていない。彼が『新論』で述べているのは、日本史学である前期水戸学の成果を受けた国の歴史の違いとして、中国と異なり易姓革命が少なくとも公式には起きず自称天皇の代替わりとして相続されてきた点から導かれる、一種の比較文化論なのである。だからそれは人類全体への帝国主義的な皇民化を求めるものではない。飽くまで全令制国領域の専守防衛の基礎づけとして、なにゆえどんな理由で諸大名がある一致団結をしなければならないかの理由である。それがいわゆる尊王論で、天皇を守ることが結果として日本の国柄を中国など割と頻繁に最高権力者あるいは権威が変更されてきた国々との違いだからだという話になる。無論、考古学や文化人類学、遺伝学が進んだ今の時代の研究水準からみれば、あるいは明治政府以後から見れば会沢のこの後期水戸学上の尊王論には矛盾がある。天皇以前にも日本にはひみこら豪族がいたし、他の弥生人もいれば縄文人やアイヌら先住人もいたし、江戸時代の琉球は別王朝だった。天皇の系譜だけが長いわけではない。単に王家としての存続性が、途中で天智系と天武系のいれかわり、南北朝交代での相続、足利家による王権奪取など疑わしい例もあったにせよ、一応は当時しられていた中国やその他の国々の王権より長かったのである。この点で、飽くまで封建秩序こと主従関係の文脈では、いち徳川家の侍として、会沢は天皇家の尊崇が他国と隔絶した日本の特色であり、つまりは忠誠心をうみだす源泉だと考えた。実際、これ以後の日本は令和の代まで会沢による洞察のとおり、天皇を将軍や首相以上の権威とみなし、いたづらに戦国期の内乱状態へ帰ることもなく見事、無事統一できたのである。但し、諸氏知ってのとおり、会沢のこの純粋水戸学とはだいぶ色の違う吉田松陰イデオロギーというものが明治政府には持ち込まれる。そしてじゅんちゃんの批判対象としている神道原理主義のうち、最も典型的に全体帝国主義と天皇を結びつけているのは、松陰による一君万民論なのである。松陰は水戸学を改変し、中華皇帝による専制状態を挿入することで江戸政府の権力を否定しようとした時期がある。これは宇都宮黙霖に説得されそれまでの幕政改革論から倒幕論に転向する時期の論説にみられる部分だが、結局これが、日本会議や神政連(神道政治連盟)らが明治政府から譲られて相変わらず夢見ている、水戸学とは別の政体論なのだ。水戸学では大義名分論の立場をとるので、今で言う象徴天皇式に、実際の政務は政府が行う。飽くまで天皇は権威の象徴とされ、政務の主体は政府にあり、また政府は尊王と愛民を調和させて実務しなければならない。官民相和す云々と『弘道館記』にあるのはこれである。この点で、じゅんちゃんは2つから3つの勘違いをしている。
 1つは水戸学と松陰思想は異なる上に、それらと明治政府、それらと戦後政府にも思想上の差がある。しかもこれらを関がいうよう単なる恐怖政治の観念論としてまとめるのはまったく不適切である。なおかつ、水戸学については必ずしも全体主義ではないし、帝国主義的でもまったくない。水戸学のうち会沢安『新論』は専守防衛を目的にした令制国統一の理論である。松陰の書き残しのうち『幽収録』などが帝国主義を勧めるもので、これは水戸学ではない。また、天皇や国体の位置づけも水戸学と松陰では相当開きがあり、水戸学・大義名分論の中で天皇は司祭階級としての権威者で実権力者ではなく、戦後政府の象徴天皇像と似ている。一方、松陰思想の一時期を占めた一君万民論の中で天皇は絶対権力者で明治政府が採用した全権保有の絶対君主像と一致している。そして全体主義についていえば、後期水戸学の一部をなす『新論』のなかで会沢は令制国諸大名にとってその上に天皇を祭り上げる統一政体を構想したが、明治政府と違ってこれを全ての民衆への皇民化として制度的に強制しようとはしていない。むしろそれらの皇民化を強制して行ったのは、水戸学を殆ど学んでいなかった薩長土肥ら明治寡頭政治の担い手である元勲らと、明治、大正、昭和の天皇ら皇族自身である。後期水戸学のうち『弘道館記』などが推しているのは祭政一致論であり、各大名政府が天皇を奉ることで大名間の意思統一をはかるという、欧米列強からの分割統治防止、令制国植民地化防止目的での政治的制度論である。
 2つは、そもそものアーレント式のナチスドイツを標的にした全体主義批判をそのまま江戸時代の状況下にあてはめ、諸大名令制国をまとめた日本国統一は誤りだったとみなすことの歴史的暴論だ。これはあまりに雑な議論で、また、本質的にナチスドイツ単体への批評と、江戸幕府から明治政府への政体移行期とその理論的背景の起源と変遷とを簡単に混同させて論じていることになるが、そんなことは不可能である。なぜならあまりに江戸時代の令制国と近代ナチスドイツは異なる状況にあったからだ。
 3つ目が、江戸時代の政治行為を今の価値観で安直にテロ(恐怖政治)とみなすことの逆順での時代錯誤ぶりだ。これは、はっきりいえば関も原田も歴史学的誠実性に欠いた悪魂論客というしかなく、江戸時代の令制国支配者らはほぼ総じて武士という軍事階級だったことをわざと無視する噴飯物の暴論というべきで、そこでは時に武器を取って戦うことは戦後の刑法下の様な単なる犯罪ではなかったのである。これについては関や原田があまりに稚拙な論点なので論外というべきだし、訴求処罰の禁止という当の戦後憲法すらろくに守れず死者への名誉毀損を繰り返してきている点では彼ら自身が恐怖政治屋としか言いようがない。だから自分はまったく呆れて物も言えず、特に原田の謬説については無視していた。なにしろ、原田は冤罪をふくむ思想統制・言論弾圧の大粛清である安政の大獄を無視してその報復として徳川親族政権自体からパージされた井伊直弼を、徳川家による代々の世襲支配時代だったことを無視して、当時の大老にすぎない井伊家の席次の方が御三家である水戸の徳川家よりなぜか上だったかのごとく、まともな史学水準にあればありえない説を唱えているからだ。無論、背景には烈公による雄藩を主とした幕政、特に軍制の近代化改革を妨げたり、将軍継嗣について対外危機が迫る中でまだ未成年の家茂を既に成人後の慶喜より優先しようとするなど、井伊直弼は要は家定が知的に問題がある状態で大老が徳川宗家(当時の将軍家)の虎の衣を借りて水戸の徳川家に馬乗りしようとしたから、のち勝手な行動として忠臣蔵よろしく大部分が処刑されることにはなるが、武士道の忠義として水戸家の侍の一部が主君への冤罪を晴らすべくやむを得ず直弼へ復讐する以外の選択肢がひとつもなかったのである。黙ってみすごせば武士ではないし、説得しようとすれば井伊直弼はさらなる大弾圧で死刑やお家とりつぶしなどを大上段で命じてきたからだ。つまり独裁者化していた直弼自身は家定の代役のつもりだったのだろうが、考え方がいわば王権をもっていた徳川家間の親族争いを誘発しかねないほど小市民的すぎた。端的にいうと、原田は地元の彦根かわいさに歴史学の誠実性の方を曲げて、こういった桜田事変付近のできごとを、端的にテロリストの兇行かのごとく歴史解釈を大幅に歪めている。しかも、これはテロとの戦いと自ら軍産侵略戦争という恐怖政治をおこなう子ブッシュ政権が述べてそれに小泉父の自民党がへつら始めてからの出来事で、原田はこういった中東いじめの米国官房主導の世相扇動にさらにのっかる形でなら井伊直弼による粛清反動が歴史修正できるとふんで、平成期の国際世論の扇情性を私利に用いる形で郷土愛の復興をおそらく目的に、しかも誤った手段の本を書いたということになる。目的に沿うなら、井伊直弼の独裁者としての大量粛清を素直に反省する論考を発表した方がどれほど彦根市の名誉と市民の誇りになったことか。なにしろ歴史学は厳密な実証科学で、史料の厳格な考証を中心とする学野であるから、そこに善悪だの好き嫌いだの利己心だのは少しも役立ちもせず、ただ起きた事実だけを追い続けるものだと原田はいまだに知らないでいるだろう。小説として本をだせば彼も司馬遼太郎の後続者に名を連ねることもできたろうに、史書風を装うものだから陰謀論の一種としてどの史学者も彼の著を本棚にあると知られれば信用性を失うような、中途半端な議論とも言えない過去への恣意的解釈を公然と発表してしまったのだ。これは一人彼のためだけでなく私自身も含め、学者tsるもの深く他山の石とすべきところだ。
 そしてまた関は、この原田に輪をかけて問題がある。それはイデオロギーを先に置いて、具体的にはじゅんちゃんとの協働動画で関自身がいっていたが、まず安倍政権をひっくり返す目的で、わざわざ明治政府を政治思想面で否定したいがためにしりもしないろくに学びもしない水戸学にこちらも中途半端に喧嘩を売るかたちで言及したらしいのだ。呆れて物も言えないとはこのことだ。
 水戸学者は数百年かけ、純粋な史学をしてきた。それが皇国史観だったのは偶然で、実際には『史記』に比肩する正史の完成をめざしていた。そしてこれがあまたの大学者らの叡智と労力のかぎりを尽くし『大日本史』として成った。そこにイデオロギー闘争などあったろうか。水戸学者らがやっていたのは、過去の事実に関する厳格に精密な記述である。そのための研究の日々だった。全国全世界から、費用と熱意がゆるすかぎり一流以上の知性を集めた。それは我々の先祖が人類の知恵に高い価値を認め、未来に残すべき労作を何かしら作り上げようとする偉大で過酷な旅路だった。
 関は部外者として読みもせず『大日本史』を含む水戸学全体を知ったかぶり侮辱発言を繰り返す。一度でもこの史書本文に触れたことがある者のできる無礼千万な行為ではありえない。だから儒学風にいえば燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、で終了だ。原田についてはこの点、いうにあたいしない。後期水戸学の本の一部だけを断章取義で切り貼りし、豊田天功『防海新策』など開国近代化論の部分がなかったことにしたてあげ悪口で悪い思想にしたてあげようなど、私自身が時代に応じたあるいは超時代アップデートのため人類史上最大の水戸学批判を志した知性としていえるが、原田や関には学者として絶対に誠実性が欠けており、その不勉強ぶりは絶望的なものがある。孔子がいうとおり知らないことは恥ではないが知ったかぶり侮辱発言をするのは言語道断の蛮行である。これを無知という。全て水戸学を研究しきった上で、その前期の歴史学上、あるいは後期の政治論上、宗教学上の問題を次代の国学上の研究者として批判的考察し続ける。これだけが唯一、水戸学やその研究者らにとって傾聴に値し、また未来の後からくる学生学者らにとっても参考になる論説でありうるのだ。

 じゅんちゃん自身は全体主義や帝国主義の起源として明治の神道原理主義を指摘し、その延長に関をひっぱりこんだ。だが関は陰謀論者である。イデオロギー闘争を前提に実証史学を流用する者は歴史修正主義者である。この類型にあたる関の説は、今を生きる人の道徳的誠実さや正義をも、未来の人その他の価値観で悪解釈させてしまう。だからそれは歴史的陰謀論なのだ。
 神道原理主義を否定するのは当然だ。大量虐殺後に開き直る邪教祖をいつまでも国と国民の象徴として活かしておくのは人道に反する。自分も実際神道批判をしてきているし、むしろその点では奈良出身のじゅんちゃんより神道や天皇制上で重要性をもつ現地、三輪山や国見山などへ行って、本質を原理的に見極めようとも自分はしてきた。結果、じゅんちゃんより一層、自分は神道を邪教とみなすに至った。それは回天神社で自分と同姓同名の墓を見つけたことも大きい。神道なる邪教を徳川家臣として信じざるを得なかったがゆえ、天皇を奉らない江戸幕府やあるいは主君たる徳川家に濡れ衣をきせる西軍と戦い、命を落とした侍がいた。だが自分までが神道を信じ続けていれば、元の木阿弥だ。神道は根絶されねばならないだろう。そうして初めて、殺戮を主導し扇動し是認してきた神道やその教祖である皇族という悪魔崇拝の対象から、全人類が救済され解放される。それは政治的にも宗教的にも、物質的にも精神的にも、財政的にも制度的にも、天皇から一方的に差別され人権を剥奪される奴隷の地位に千年近くも置かれてきた我々の日本史という地獄からもだ。