2021年8月11日

水戸学の正しい理解に基づく、神道原理主義批判について

関良基という人の本や主張について、自分はじゅんちゃんなるYouTuberの動画を通じて初めて知ったが、水戸人や水戸学への悪意ある誤解、悪解釈、そしてスケープゴート(いけにえ)化ぶりが憎悪表現そのものでしかなくびっくりした。原田伊織のつぎにでてきた偽史学もどきを語る人物で、無論、実証的な歴史学の水準に達しておらず、最初にイデオロギーありきで『大日本史』は無論の事、およそ一度も水戸の史跡や回天神社など事跡を全く追わず、完全な偏見からきた妄想で水戸を悪者あつかいしており、完全にネオナチの類に思う。原田の場合は滋賀だが、関も自民族中心主義者なのはいうまでもない。非常に危険な憎悪を煽っているのは当然だが、実際に水戸の郷土史を実地と実証に則ってやってきている側からすると、同じ日本という会沢安の国体論でつくった枠組みのなかに、悪意しかない悪魔の様な愚かすぎる人々が現に生きている証拠となるのが、原田や関の存在といえる。つまり植民地化防止のためにつくった祖国領域守護の専守防衛目的の国体論はこの時点で、中部や関西、薩長土肥の様な道徳民度の低いなんでも利己的に悪解釈したり悪意で誤読するのが当たり前の国々には早過ぎたのだ。あまりに性善説によりすぎたというべきで、実際、茨城県域で米軍基地をひたち海浜公園にしたという風に、常陸国の領域でしか正確に意図すら伝わっていない。というか関は原田と同じく、水戸学の基本文献にすら通じていないのに、その思想を誤読しつつ民衆を憎悪へ扇動している点で極めて悪質である。
 水戸史学会は公式声明などで、直接、関や原田と公開対談し、現実の実証される水戸学や水戸人の善意や正義論について彼らの悪意しかない憎悪演説を公的に批評する必要がある様に思う。それほど両者の風説には悪意しかない。

 あまりに間違いが多すぎるので彼らの論説をいちいち反論していくのは大層骨が折れる作業となる。そもそも彼らは水戸を薩長と同類視しているが、この時点で大幅に物の見方がおかしい訳で、しかも慶喜という最後の将軍は水戸人で事実と大幅に反しているので、既に彼ら関や原田は歴史学をやるつもりがないとしかいえない。タチが悪いのは彼らは嘘と政治イデオロギーで固めた司馬遼太郎と本質で違いがない小説作家にすぎないのに、さも史学の体裁をとってますます事実に反する別の卑しい偏見を世間に流布していることだ。
 幕末の水戸は水戸の正義論として尊王と愛民を旗印に行動していた。しかも会沢らによる開国論や近代化による富国強兵論を前提にする学派が弘道館の主流で、いわゆる諸生党の原型になる。慶喜はそのとおり平和外交と開港、議会政治論者で、第二次長州征伐た戊辰戦争にすら消極的で内乱や外乱を避けて当時として国体の統一、つまり日本各地の植民地化防止を図っていたのである。これと烈公が唱えたとされる攘夷論はまた別の流派であり、藤田東湖と小四郎というのち天狗党となる急進派の立場で、しかも烈公自身はこれを即時実行するつもりはなく、米国側の砲艦外交に怯まないための一種の士風維持のための演技だったという話は我々水戸学研究者の中では有名な逸話である。というか常識レベルで、烈公は米国留学を願いでていた近代化論者であり、原田や関はそれすら知らないか、無理やり烈公を小説的に悪役化するためイデオロギーの色をつけ嘘ばかりついているのだ。こっちには烈公の書簡も残っていれば渋沢栄一『徳川慶喜公伝』での動かせない証言まである。烈公が富国強兵策のため近代化改革をおこないつつあったとき、井伊直弼が安政の大獄で烈公らへ濡れ衣なり悪意ある弾圧なりを加え、結果、多くの無実の者まで死刑などにされたのでやむなく、徳川の侍として桜田烈士は井伊を討つしかないところまで追い詰められたのだ。
 原田や関は今の価値観で別の時代の人を語る、という歴史学においてはありえない過ちを平気でおかしている史学の素人だ。アヘン戦争直後でいつ植民地化されてもおかしくない状況下で、政府の進歩派(烈公ら)が欧米列強からの侵略戦争に備えようと軍政改革をはじめ、一方で保守派(井伊ら)がアヘン戦争後の清がむすばされた不平等条約を顧みずこれらの近代化にブレーキをかけたがり死刑乱発などで大名や武士、民衆を弾圧し結果、政府の内部闘争があった。なんら不思議なことではない。結局は烈公の息子の慶喜が最後の将軍として大政奉還や無血開城をおこない自ら封建制に終止符を打つことで、隣国の清(当時の中国)や朝鮮のよう植民地化される前に、進歩派が主体になる新政府へと移行できたわけである。その際、水戸人は徳川方として慶喜はじめ自己犠牲を選択しただけで、それ以外の方法で近代国家へとあゆみを進める余地が我々にはなかったのだ。特に、薩長両国が大暴れをはじめて、勝手に対外戦争をし、しかも賠償は徳川政府もちにして何度も日本人へも恐怖政治(テロリズム)をおこなうなど、この点だけは原田や関のいうことにも事実を言い当てている面がある。当時、鎌倉幕府のときのよう実際に即時に元寇を追い払う形で終結させる可能性もあったわけなので、その不可能さを薩長2国が実証した形になる前の日本で、攘夷行動をとった人々を責めるのは、当時の危機的状況が今のよう自衛隊だの警察だのが組織されている状態とはまるで違うと、原田や関は想像できていない。もっというと、第二次大戦終結まで現役でアジア人は全般に欧米諸国から被差別対象で、インドや南北アメリカ先住民らをかえりみれば日本人やアイヌ全員が欧米列強から民族虐殺でみなごろしになる可能性も十分すぎるほどあった時代だったし、実際それを防ぐ目的の理論が若い水戸の学者会沢安の伝説的な著の『新論』だった。これを、じゅんちゃんすら誤解している。平成令和の在特会風の単なる卑小な人種差別を目的にしたネトウヨ愛国カルトなるものと、会沢が世界史の趨勢をみながら深刻な欧米列強からの侵略・植民地化・民族虐殺への現実にあった危機意識から全国民を救いだす啓蒙書として生み出した『新論』での国体論とは、置かれている哲学上の次元がまるで違うのだし、実際、後者があればこそ、極東アジア人が世界史から奴隷種族扱いで消されずに済んだ面も実際にあるだろう。いわば知的労作として、江戸時代までに知られていた日本の全英知をかけ、令制国諸大名の連邦国だった今の本州四国九州をあらたにひとつの国として統一し、それらの住民に民族としての愛国心をもたせ欧米列強による侵略から守ろうとしたのが、会沢の国体論の目的だった。そこで大名の長である将軍の上に、大名を超えた権威として天皇をもってきたのである。また、当時はキリスト教化によって国の一部が欧米化し、日本を離脱したり、いわば今の香港状態で内乱の原因になる危険性も神仏習合ふくむ宗教的ゆるさのために存在していた。これで一種の思想上の天才である会沢は、他国とは違う宗教的思想形態である神道による国教の整理をおこなおうとした。なるほど今の価値観から見返せばそれがアーレントのいう全体主義の一起点になった面もあったにせよ、また彼女自身ユダヤ教の影響下でやはり宗教的統一を無視できないのにも関わらず全ての宗教の手段性を軽視している節があるにせよ、当時の江戸時代の状況からすれば、会沢が言うようのするしか欧米列強の脅威を民間信仰面で完全に退ける道筋がまずなかったのである。だからこそ、大隈重信や福沢諭吉が書き残しているとおり遠く九州地方でもこの会沢の『新論』が聖典(バイブル)のよう知識層であった市民(侍や町人)に受けいれられたのだ。この時代状態への想像的理解ぬきに、単なる全体主義の起点として会沢の国体論を語るのはおどろくほどの無知や拙さによるとはいえ大幅に誤った見解というしかない。だから体系的歴史学の素人あるいは浅学者に教えを受ける様なことは異端に学ぶ害しかないといえるのだ。
 そしてまた水戸人は愛民思想の起源である。このことを関も原田も知らない。つまり仁政や徳政を是とする歴史風土なのである。これについても儒学を修めた義公の代から変わらないものがある。彼が笠原水道事業などで領民の最大多数の最高幸福を願う先駆者だったのは封建領主として彼が民衆の味方と仰がれる理由になっている。同じ為政の姿勢は以後の水戸家が一貫して持っていたもので、烈公の偕楽園造園や飢饉対策、殖産興行もいまにつづく茨城県政の礎となり、のち梶原静六による愛郷無限の思想にもつながる。これらの常陸国政や茨城県政に脈々と流れる愛民主義の作法を、関も原田も少しも認知できていない。彼らが単なる片寄ったイデオロギー論者で、水戸を毛色のまるで違う薩長と同列に並べたい目的に、文献だけで判断して誤って悪解釈している証拠だ。しかも『桜田義挙録』のような周辺文献はいうまでもなく『大日本史』『新論』その基本中の基本文献すらまともに読み込んでいない。一瞬でもこういった浅学の徒に言及するのは我々の品位に反すること甚だしい。よって以後わたしは軽蔑する相手にわざわざ注目を集める様なふるまいをやめるが、ここでなぜ敢えて言及したかなら、じゅんちゃんという若者が、三流の擬似歴史本、イデオロギー小説によって根本的に誤った道へふみいれていくのを見るに忍びないからだ。

 じゅんちゃんはアーレントのファンらしいので、彼女の全体主義批判の文脈に引きつける形で、たまたま関の著に触れ、関の謬説を真に受け水戸学へもほどあれ誤った解釈をしてしまっている。それはこれが第一に、その後期の一部にあたる会沢『新論』で江戸時代の時点で欧米列強による世界侵略のさなか専守防衛理論として語られた国体論を含んでいる点について、じゅんちゃんはこれをさも悪の理論かのごとく思い込んでしまっていることだ。じゅんちゃんの解釈では、社会全体が一つの目的のために動くべきだという考えを全体主義と定義している。だが会沢はその様な考え方をもっていない。彼が『新論』で述べているのは、日本史学である前期水戸学の成果を受けた国の歴史の違いとして、中国と異なり易姓革命が少なくとも公式には起きず自称天皇の代替わりとして相続されてきた点から導かれる、一種の比較文化論なのである。だからそれは人類全体への帝国主義的な皇民化を求めるものではない。飽くまで全令制国領域の専守防衛の基礎づけとして、なにゆえどんな理由で諸大名がある一致団結をしなければならないかの理由である。それがいわゆる尊王論で、天皇を守ることが結果として日本の国柄を中国など割と頻繁に最高権力者あるいは権威が変更されてきた国々との違いだからだという話になる。無論、考古学や文化人類学、遺伝学が進んだ今の時代の研究水準からみれば、あるいは明治政府以後から見れば会沢のこの後期水戸学上の尊王論には矛盾がある。天皇以前にも日本にはひみこら豪族がいたし、他の弥生人もいれば縄文人やアイヌら先住人もいたし、江戸時代の琉球は別王朝だった。天皇の系譜だけが長いわけではない。単に王家としての存続性が、途中で天智系と天武系のいれかわり、南北朝交代での相続、足利家による王権奪取など疑わしい例もあったにせよ、一応は当時しられていた中国やその他の国々の王権より長かったのである。この点で、飽くまで封建秩序こと主従関係の文脈では、いち徳川家の侍として、会沢は天皇家の尊崇が他国と隔絶した日本の特色であり、つまりは忠誠心をうみだす源泉だと考えた。実際、これ以後の日本は令和の代まで会沢による洞察のとおり、天皇を将軍や首相以上の権威とみなし、いたづらに戦国期の内乱状態へ帰ることもなく見事、無事統一できたのである。但し、諸氏知ってのとおり、会沢のこの純粋水戸学とはだいぶ色の違う吉田松陰イデオロギーというものが明治政府には持ち込まれる。そしてじゅんちゃんの批判対象としている神道原理主義のうち、最も典型的に全体帝国主義と天皇を結びつけているのは、松陰による一君万民論なのである。松陰は水戸学を改変し、中華皇帝による専制状態を挿入することで江戸政府の権力を否定しようとした時期がある。これは宇都宮黙霖に説得されそれまでの幕政改革論から倒幕論に転向する時期の論説にみられる部分だが、結局これが、日本会議や神政連(神道政治連盟)らが明治政府から譲られて相変わらず夢見ている、水戸学とは別の政体論なのだ。水戸学では大義名分論の立場をとるので、今で言う象徴天皇式に、実際の政務は政府が行う。飽くまで天皇は権威の象徴とされ、政務の主体は政府にあり、また政府は尊王と愛民を調和させて実務しなければならない。官民相和す云々と『弘道館記』にあるのはこれである。この点で、じゅんちゃんは2つから3つの勘違いをしている。
 1つは水戸学と松陰思想は異なる上に、それらと明治政府、それらと戦後政府にも思想上の差がある。しかもこれらを関がいうよう単なる恐怖政治の観念論としてまとめるのはまったく不適切である。なおかつ、水戸学については必ずしも全体主義ではないし、帝国主義的でもまったくない。水戸学のうち会沢安『新論』は専守防衛を目的にした令制国統一の理論である。松陰の書き残しのうち『幽収録』などが帝国主義を勧めるもので、これは水戸学ではない。また、天皇や国体の位置づけも水戸学と松陰では相当開きがあり、水戸学・大義名分論の中で天皇は司祭階級としての権威者で実権力者ではなく、戦後政府の象徴天皇像と似ている。一方、松陰思想の一時期を占めた一君万民論の中で天皇は絶対権力者で明治政府が採用した全権保有の絶対君主像と一致している。そして全体主義についていえば、後期水戸学の一部をなす『新論』のなかで会沢は令制国諸大名にとってその上に天皇を祭り上げる統一政体を構想したが、明治政府と違ってこれを全ての民衆への皇民化として制度的に強制しようとはしていない。むしろそれらの皇民化を強制して行ったのは、水戸学を殆ど学んでいなかった薩長土肥ら明治寡頭政治の担い手である元勲らと、明治、大正、昭和の天皇ら皇族自身である。後期水戸学のうち『弘道館記』などが推しているのは祭政一致論であり、各大名政府が天皇を奉ることで大名間の意思統一をはかるという、欧米列強からの分割統治防止、令制国植民地化防止目的での政治的制度論である。
 2つは、そもそものアーレント式のナチスドイツを標的にした全体主義批判をそのまま江戸時代の状況下にあてはめ、諸大名令制国をまとめた日本国統一は誤りだったとみなすことの歴史的暴論だ。これはあまりに雑な議論で、また、本質的にナチスドイツ単体への批評と、江戸幕府から明治政府への政体移行期とその理論的背景の起源と変遷とを簡単に混同させて論じていることになるが、そんなことは不可能である。なぜならあまりに江戸時代の令制国と近代ナチスドイツは異なる状況にあったからだ。
 3つ目が、江戸時代の政治行為を今の価値観で安直にテロ(恐怖政治)とみなすことの逆順での時代錯誤ぶりだ。これは、はっきりいえば関も原田も歴史学的誠実性に欠いた悪魂論客というしかなく、江戸時代の令制国支配者らはほぼ総じて武士という軍事階級だったことをわざと無視する噴飯物の暴論というべきで、そこでは時に武器を取って戦うことは戦後の刑法下の様な単なる犯罪ではなかったのである。これについては関や原田があまりに稚拙な論点なので論外というべきだし、訴求処罰の禁止という当の戦後憲法すらろくに守れず死者への名誉毀損を繰り返してきている点では彼ら自身が恐怖政治屋としか言いようがない。だから自分はまったく呆れて物も言えず、特に原田の謬説については無視していた。なにしろ、原田は冤罪をふくむ思想統制・言論弾圧の大粛清である安政の大獄を無視してその報復として徳川親族政権自体からパージされた井伊直弼を、徳川家による代々の世襲支配時代だったことを無視して、当時の大老にすぎない井伊家の席次の方が御三家である水戸の徳川家よりなぜか上だったかのごとく、まともな史学水準にあればありえない説を唱えているからだ。無論、背景には烈公による雄藩を主とした幕政、特に軍制の近代化改革を妨げたり、将軍継嗣について対外危機が迫る中でまだ未成年の家茂を既に成人後の慶喜より優先しようとするなど、井伊直弼は要は家定が知的に問題がある状態で大老が徳川宗家(当時の将軍家)の虎の衣を借りて水戸の徳川家に馬乗りしようとしたから、のち勝手な行動として忠臣蔵よろしく大部分が処刑されることにはなるが、武士道の忠義として水戸家の侍の一部が主君への冤罪を晴らすべくやむを得ず直弼へ復讐する以外の選択肢がひとつもなかったのである。黙ってみすごせば武士ではないし、説得しようとすれば井伊直弼はさらなる大弾圧で死刑やお家とりつぶしなどを大上段で命じてきたからだ。つまり独裁者化していた直弼自身は家定の代役のつもりだったのだろうが、考え方がいわば王権をもっていた徳川家間の親族争いを誘発しかねないほど小市民的すぎた。端的にいうと、原田は地元の彦根かわいさに歴史学の誠実性の方を曲げて、こういった桜田事変付近のできごとを、端的にテロリストの兇行かのごとく歴史解釈を大幅に歪めている。しかも、これはテロとの戦いと自ら軍産侵略戦争という恐怖政治をおこなう子ブッシュ政権が述べてそれに小泉父の自民党がへつら始めてからの出来事で、原田はこういった中東いじめの米国官房主導の世相扇動にさらにのっかる形でなら井伊直弼による粛清反動が歴史修正できるとふんで、平成期の国際世論の扇情性を私利に用いる形で郷土愛の復興をおそらく目的に、しかも誤った手段の本を書いたということになる。目的に沿うなら、井伊直弼の独裁者としての大量粛清を素直に反省する論考を発表した方がどれほど彦根市の名誉と市民の誇りになったことか。なにしろ歴史学は厳密な実証科学で、史料の厳格な考証を中心とする学野であるから、そこに善悪だの好き嫌いだの利己心だのは少しも役立ちもせず、ただ起きた事実だけを追い続けるものだと原田はいまだに知らないでいるだろう。小説として本をだせば彼も司馬遼太郎の後続者に名を連ねることもできたろうに、史書風を装うものだから陰謀論の一種としてどの史学者も彼の著を本棚にあると知られれば信用性を失うような、中途半端な議論とも言えない過去への恣意的解釈を公然と発表してしまったのだ。これは一人彼のためだけでなく私自身も含め、学者tsるもの深く他山の石とすべきところだ。
 そしてまた関は、この原田に輪をかけて問題がある。それはイデオロギーを先に置いて、具体的にはじゅんちゃんとの協働動画で関自身がいっていたが、まず安倍政権をひっくり返す目的で、わざわざ明治政府を政治思想面で否定したいがためにしりもしないろくに学びもしない水戸学にこちらも中途半端に喧嘩を売るかたちで言及したらしいのだ。呆れて物も言えないとはこのことだ。
 水戸学者は数百年かけ、純粋な史学をしてきた。それが皇国史観だったのは偶然で、実際には『史記』に比肩する正史の完成をめざしていた。そしてこれがあまたの大学者らの叡智と労力のかぎりを尽くし『大日本史』として成った。そこにイデオロギー闘争などあったろうか。水戸学者らがやっていたのは、過去の事実に関する厳格に精密な記述である。そのための研究の日々だった。全国全世界から、費用と熱意がゆるすかぎり一流以上の知性を集めた。それは我々の先祖が人類の知恵に高い価値を認め、未来に残すべき労作を何かしら作り上げようとする偉大で過酷な旅路だった。
 関は部外者として読みもせず『大日本史』を含む水戸学全体を知ったかぶり侮辱発言を繰り返す。一度でもこの史書本文に触れたことがある者のできる無礼千万な行為ではありえない。だから儒学風にいえば燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、で終了だ。原田についてはこの点、いうにあたいしない。後期水戸学の本の一部だけを断章取義で切り貼りし、豊田天功『防海新策』など開国近代化論の部分がなかったことにしたてあげ悪口で悪い思想にしたてあげようなど、私自身が時代に応じたあるいは超時代アップデートのため人類史上最大の水戸学批判を志した知性としていえるが、原田や関には学者として絶対に誠実性が欠けており、その不勉強ぶりは絶望的なものがある。孔子がいうとおり知らないことは恥ではないが知ったかぶり侮辱発言をするのは言語道断の蛮行である。これを無知という。全て水戸学を研究しきった上で、その前期の歴史学上、あるいは後期の政治論上、宗教学上の問題を次代の国学上の研究者として批判的考察し続ける。これだけが唯一、水戸学やその研究者らにとって傾聴に値し、また未来の後からくる学生学者らにとっても参考になる論説でありうるのだ。

 じゅんちゃん自身は全体主義や帝国主義の起源として明治の神道原理主義を指摘し、その延長に関をひっぱりこんだ。だが関は陰謀論者である。イデオロギー闘争を前提に実証史学を流用する者は歴史修正主義者である。この類型にあたる関の説は、今を生きる人の道徳的誠実さや正義をも、未来の人その他の価値観で悪解釈させてしまう。だからそれは歴史的陰謀論なのだ。
 神道原理主義を否定するのは当然だ。大量虐殺後に開き直る邪教祖をいつまでも国と国民の象徴として活かしておくのは人道に反する。自分も実際神道批判をしてきているし、むしろその点では奈良出身のじゅんちゃんより神道や天皇制上で重要性をもつ現地、三輪山や国見山などへ行って、本質を原理的に見極めようとも自分はしてきた。結果、じゅんちゃんより一層、自分は神道を邪教とみなすに至った。それは回天神社で自分と同姓同名の墓を見つけたことも大きい。神道なる邪教を徳川家臣として信じざるを得なかったがゆえ、天皇を奉らない江戸幕府やあるいは主君たる徳川家に濡れ衣をきせる西軍と戦い、命を落とした侍がいた。だが自分までが神道を信じ続けていれば、元の木阿弥だ。神道は根絶されねばならないだろう。そうして初めて、殺戮を主導し扇動し是認してきた神道やその教祖である皇族という悪魔崇拝の対象から、全人類が救済され解放される。それは政治的にも宗教的にも、物質的にも精神的にも、財政的にも制度的にも、天皇から一方的に差別され人権を剥奪される奴隷の地位に千年近くも置かれてきた我々の日本史という地獄からもだ。