2021年8月12日

共和政体への移行後に茨城県は天皇をどう扱うべきか、その試論

会沢安が間違えたのは、当時として植民地化防止策としての国体論の構造ではなく、それが余りに性善説に基づきすぎていた点にあった。このため、当時として常陸国の領域或いは列島の他国では当時として十分通用したが、より都会ズレしていて性悪だった関西地方や、より卑しく利己的・反乱的な人間だらけであった薩長土の各地や、衆愚的な江戸では、あるいは単なる傲慢な世襲独裁者の一門であった天皇家自身からさえおよそ全くゆがめられ誤用されてしまった。
 会沢の国体論は、根が浅ましい吉田松陰が倒幕論へとつくりかえ、天皇と将軍へ忠義な徳川の侍である会沢ら吉田に教えを授けた水戸の学者とその純粋な祖国愛を裏切る方に悪用された。底抜けに性悪な関西地方の人々は、岩倉具視らをはじめ、水戸家の尊王論を受けた徳川慶喜へかれの身を粉にした勤皇の功績にもかかわらずそれと真逆の朝敵のぬれぎぬを着せ、今もその人道犯罪に平気でいるのだ。天皇家は水戸学者が啓蒙した国体論や尊王論へ、当の水戸徳川家出身者である慶喜らへぬれぎぬを着せ戊辰戦争で国内侵略虐殺をおこない馬乗りするばかりか、最終的にはこれらの論旨を井上毅らの手になる『教育勅語』などで断章取義しだした。こうして天皇家はみずからの為の侵略帝国主義へと拡大解釈しはじめ、アジア太平洋地域ですさまじい戦禍と人権侵害、皇民化の強要による大和朝廷同然の民族虐殺ふくむ残虐行為の悲惨を再びもたらすことになったのだ。

 尊王と愛民が対になって成り立つ水戸学の政治思想は、その高文化的な表現形態によって知識層の間でのみ理解されえたといえるだろうが、現実にこの趣旨を正統的に受け継いだのは、やはり常陸国こと茨城県政の中だけだったのである。梶山静六による愛郷無限の哲学はいわば烈公の愛民思想のいいかえだろうし、戦後はじめに水戸の旧県庁舎の屋上から昭和天皇が詠んだ御製も、その尊王の風土に対する国家再建の期待だったのだろう。
 会沢安はかれとして最も誠実な理論を編み出したのだろうが、薩長藩閥による明治政府において松陰観念論上の一君万民論による中断をはさみ、烈公ら後期水戸学の祭政一致論・大義名分論はのち戦後政府の象徴天皇制に至ってはじめて、本来の姿に近い形をとることになる。そして平成期では、会沢の国体論はあいかわらず右派の中で、保守思想の中核として使われているが、それは江戸時代後期では最も前衛的な進歩主義的政治理論で当時の政府は体制と矛盾しかねないものとして、大政委任論に立って天皇の権威を根源的に否定していた大老・井伊直弼らが実際に、幕閣の立場から思想弾圧の挙に出ていたのだ。この国体論を、平成右派の一部は、元勲ら明治の極左、あるいは皇道派ら昭和の極左(或いは極右)と同様に仰ごうとしているが、実際のところ、その種の抽象的国体の象徴化された姿としての天皇は、少なくとも次代の秋篠宮にあって国民やその元にある制度や信仰を、かれら自身の家の私利の為におおかれすくなかれ利用するばかりで、今では会沢のめざしていた官民相和する理想国は綻びを見せつつある。

 では会沢の努力は無益で、あるいは有害ですらあったのだろうか? 日本は確かに植民地化を防げたが、飽くまで米軍からの侵略を防止できているのは、これもまた、自衛隊基地のみで専守防衛されている茨城県域など少数の地域だけである。同じ関東・首都圏でも神奈川や東京は米軍基地に占領されたままで、神奈川民や都民一般はこれに何の疑問ももっていない。
 もし或る理想国が僅かな領域であっても、それがない状態よりははるかに優れているというべきだ。だからこそ、理想(和訳の原語として、プラトンのいう「イデア」)を飽くまで追求し、それを実現した政治領域をもっていることは、大きいほど望ましいとしても、仮にどれほど小さなものであれ、我々にとって模範としてこの上なく重要である。著作の様な虚構、作り事の形でも、理想国ができあがっているのとそうでないのとでは、抜本で核心的に全くと言ってもいいほど大きな違いがある。水戸の志士は国政のなかでは香川敬三ら皇室に直接仕えた一部の人々を除けば、明治から昭和の下院政体からは、総じて排除されていた。上院では水戸徳川家や徳川慶喜家らが現役だったものの、水戸学の理想を自由に実現しうる領域は、かれらにとって茨城県に限られていたのである。

 それでは、我々茨城県民は、今後の未来でも会沢と同じ理想を追求すべきだろうか?
 私は、天皇制が象徴であれそれ以外の形であれ、永続する事はないだろうと考える。それというのも、水戸学の趣旨のうち、祭政一致論は政教分離と根本的に矛盾を抱えているし、国民主権と象徴天皇の存在も根本的に違和するものだからである。共和政体が永続するかとは別に、愛子天皇にならないかぎり、そしておそらく自民党右派に影響力をもつ旧宮家の竹田恒泰氏ら男系派の抵抗のためならないだろうが、次代の時点で天皇の世間的権威はおそらく失墜し、君君たらず臣臣たらず、と言える状況が到来するだろう。その際、国政では天皇を廃止し、共和政体への移行が起きるだろう。
 茨城県はこの時、やはり民衆の総意として、共和政体への移行を選択するだろう。問題はこの時の天皇のその後の扱いである。義公は『古文孝経』を引いて君君たらずといえども臣臣たらざるべからず、すなわち当時の天皇に徳が失われてもその臣下を自らに任じる者は天皇を守護すべきである、との趣旨を述べた(義公『常山文集』巻十五名越時正『水戸光圀』水戸史学会、1986年7月、180-184ページ「護国の教え」。義公が養子である粛公に遺訓としてのこした詩)。慶喜公自身が『徳川慶喜公伝』で伊藤博文や渋沢栄一らへ伝えている事実このとおりに慶喜は大政奉還し、その後、薩長閥や岩倉具視らから小御所会議後に朝敵のぬれぎぬを着せられても皇軍の前で自主退却を選び、みずからの江戸城も無血開城を選択したのである。そうであれば、常陸国・茨城県の伝統として、皇室廃止後も、当時として民衆全体または過半数が皇室を支持せず、また仮にどう不公徳な天皇へも飽くまで臣下の義、ここでは可能なだけの人道措置をとるべきではないか? となる。実際、英仏公使らは、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』によれば、薩長土肥京芸ら西軍、特にイギリス公使と交渉にあたった西郷隆盛がイギリス勢へ
西郷ら「慶喜公にぬれぎぬをきせ惨殺すべき、ついては協力してほしい」
云々と主張していたとき、
イギリス公使側「ナポレオンすら失脚に留まったのに、何の罪も犯していない前将軍・慶喜へ冤罪をした上に死刑にするとは、文明人として紳士協定に反する」
云々といって、いわば普遍的道徳に基づいて、この狂った野蛮人の謀略をはっきりと拒絶していたのである。その様な振る舞いが当時からみても後世からみても、文明の理法によっていることは明らかだった――尤も現実のイギリス公使として、上記を建前としてイギリス国政の事情として、内乱に薩長方で介入するだけの利益が本国にみいだせなかっただけ、内戦不介入で日本人同士に疲弊させた方が得と判断したともいえるだろうが。一方、父の天皇に絶対忠義たるべしとの庭訓を守って、尊王の禅譲を選ぶ慶喜公へ、フランス公使側が江戸城でくりかえし、非道な薩長と戦えと主張していたのはいうまでもない。日本国内でも山形の侍・雲居龍雄『討薩檄』は幕末当時、戊辰戦争に際して書かれたものだが、西郷隆盛・岩倉具視らの冤罪画策で、慶喜の母方の親族である皇族や天皇と殺し合わせるようとするなど人でなしに過ぎる以ての外の暴挙だと、国籍を超えてかれら英仏公使とほとんどまったく同じ道徳判断をこの際に示している。実際、明治政府樹立後は薩摩閥から盛んに美化される事この上ない西郷は、戊辰戦終結後に征韓論にながれますます吉田松陰ゆずりの侵略主義の本性を示し始め、これら手段をえらばぬ恐怖政治による暴走の末、のち西南戦争で自刃する事になったのである。

 これは私が現時点で想定している状況下での事前の想定で、実際の現場ではそうでない行動をとる事が何らかの理由で必要になるかもしれない。例えば茨城県庁が天皇の人権を尊重したために、県外の多数の自治体から攻撃を受け、民衆が致命的損害をこうむる様な状態では、当時の政権が天皇擁護の立場にたちつづけることは不合理となるであろう。そのとき、人道主義の観点から、茨城県庁の政権は常に主権者である県民全体を優先し、その時点では重罪人扱いされているはず天皇を犠牲にしなければならない。よってこれは絶対的正義を意味するものではなく、飽くまで政体移行後、事前に想定される試論である。

 日本国が共和政体へ移行後に茨城県が尊王と愛民が両立不可能なとき、第一にわが県は天皇の擁護よりも県民の人命保護を選ぶべきだが(県民第一)、それ以外に、それと矛盾しない場合に天皇を擁護(消極尊王)しても同じく、既にのべてきたとおり、すくなくとも西日本のほとんどの府県とか、南関東の都県とかは、過去の経験則から、確実に、西日本や南関東勢は我々へ想像をはるかに下回って超える諸々の悪意であまたぬれぎぬを着せてきたり、謀略にかけようと悪意ある犯行をしてきたり、場合によってはその種の茨城の尊王の立場を西日本・南関東総勢として恣意的に利己心から悪用・利用しようとし、底抜けの悪意から実際にするだろうことはおよそ例外の余地なく、ほぼ確かなことである。それが日本史の完全に温故知新として示している真実、すなわち、西日本や南関東はその根本的な政治志向において、東夷や朝敵などと際限なく茨城県へ冤罪を着せる中華思想によっており、根っから性悪な悪意をもつ暴徒集団であるのが諸々の経緯から証拠づけられる事実だからだ。強調しておかねばならないのは、このことは天皇家や皇族やその親族自身も、旧来が西日本や南関東勢の一員であるかぎりなんら例外ではない。
 たとえば京都市長・門川大作が皇族の政治利用をめざして、箔づけあるいは権威づけのために皇族の京都移住を政府にくりかえし願い出ている様な形を、彼や京都市民にとってなんの縁もゆかりもないとみなしている茨城県により害や禍を為すよう拡大させた姿で、なんらかの想像を超えた悪事を働くかもしれない。茨城県側にとっては尊王論の既成理論があるため天皇の政治利用は、桜田門外の変や坂下門外の変をまねいたよう当然ながら禁忌だが、幼帝の明治天皇を前に岩倉具視らが錦旗を捏造し、西郷隆盛が戊午密勅同様に倒幕密勅を偽造し、小御所会議以後にかれらと大久保利通らが摂関家を牛耳って天皇や参加公卿公家と共謀し尊王の慶喜へ朝敵のぬれぎぬを着せると皇軍と称し、政権掌握をめざしクーデターを敢行した京都の岩倉具視や鹿児島の島津茂久、広島の浅野長勲、高知の山内豊信ら、性悪の権化というべき西日本勢の相当或いは大部分や、かれらからの侵略をうけた南関東勢と、水戸家が中核におわす茨城県の国柄の差だったのだ。実際のところ、それら西軍の悪意は当時すでに奥羽越列同盟勢からも見抜かれていたが、西日本の人々は、小御所会議で西軍を主体的に構成した薩長土肥や京都・広島勢を筆頭にいまだに、かれらによる慶喜や松平容保らへの冤罪とそれに伴う侵略罪を、かれらの郷土史のなかでも現実においても恬として恥じていないのである。京都府京都市がお里である原田伊織氏や、長野県上田市がお里である関良基氏なども現代に於けるその例である。だがそれにも関わらず、人道の最終段階として、全国民が総意として反天皇的になった時に、共和政体その他の下でも茨城県だけが最後まで、義公の哲学を我々が守り抜くかどうかが問われるというべきだろう。たとえ水戸学への浅学な誤読・悪解釈によって反水戸イデオロギーを煽っている一種の憎悪表現者、滋賀や長野の自民族中心主義ネオナチヘイターである原田氏や関氏らといった平成令和期の中部・関西の一部のひとびとあるいは彼らに煽られた民族差別暴徒からの悪意の渦の中でもだ。この意味で、会沢の国体論は、共和政治移行後の最終段階としての天皇への人道的な扱い方として、茨城県の領域にあってのみ、その正義の核心が発揮される様な理想だったのだ、と私は思う。未来は、おそらくその様な流れで、高い理想をもっていた茨城県民と、そうでなかった他都道府県の宿命の決定的違いという、全く別の文明界に属する世界観が別れていくのだろう。
 こうして我々、後世の常陸国、茨城県民らが会沢の、日本国民一般を信用しすぎた、という江戸時代に犯した失敗から学べるのは、西日本や南関東ならびに皇室の民度、特に道徳性・倫理観念が我々茨城人一般の想像をはるかに下回って低く、かれらの根底に性悪説が前提にあるとみなさないかぎり、再び、かれらから慶喜公あるいは平将門らと同じ冤罪を着せられ、何百年以上にわたって汚名を着せられ貶められる、と過去の延長上に推計できる不動の前提に立つべきことで、いつでも茨城県や県民へ権力乱用で棄民・暴虐しうる天皇家や皇族自身を含め、それら西日本や南関東などに群れている紛れない野蛮人、さも同じ国民と称しているがまるで心根が違っている蛮族たちと我々は接している、と深くはっきりと自覚しつつ、我々自身は透徹した確固たる良識をもつ文明人として、現世ならびに前世(前の世代の人々の名誉)と後世の全人類の為に、政に当たるべき事である。具体的には、我々は常に我々茨城人自身が最も有利かつ有徳となる選択肢を取り続けねばならず、その際、上記で示した県民第一かつ消極尊王なる政治・宗教上の観念論に片寄って、県民全体の損害を招く事は、全ての場面において決してあってはならない。これが何らかの現実との違和を生じた時点で、我々はより現実的に望ましい行動をとるべきだ。
 またこれらに加え、上記の原則と矛盾して県外人(茨城県民以外の日本人か外国人か)が消極尊王と矛盾する様な場面、例えば県外人を人命保護しなければならないとき敢えて皇族を見捨てれば助けられる様な場面ではどうすべきかだが、共和政体への移行後については、皇族や県外人を一般県民と極力同じく扱うのが最も普遍人道的なのではないかと思う。すなわち万人平等である。

 上記の趣旨をまとめると

1.県民第一
すべての場合でわが県政は県民の命を第一に尊重しなければならない。

2.消極尊王
仮に皇族(共和政体移行後は旧皇族)が県外人総勢から支持されていなくとも、茨城県庁では水戸学の伝統に則りかれらの名誉を尊重すべきである(但し個々人が旧皇族の人格権を損害しない形で、旧皇族による公事・国事や、彼らを教祖とする神道、あるいは彼らを含んでいた過去または未来の政体への批評をする政治論・宗教論・歴史論上の権利はある)。

3.万人平等
茨城県内の全人類は、茨城県内にあっては、その国籍や、門地、戸籍(及びその有無)にかかわらず極力ひとしく普遍的人道に基づいて取り扱われるべきで、それは共和政体移行後の旧皇族についても同じである。