http://www.japan-now.com/article/186406079.html平成21年耕地面積ランキングから、茨城は耕地率28.8%で全国1位、耕地面積175700ヘクタールで全国2位とわかる。東京は耕地率3.6%で全国最低、耕地面積7800ヘクタールも全国最低である。
全国 耕地面積ランキング
都道府県別耕地面積(平成21年) (単位 ヘクタール)
ランキング 都道府県 耕地面積総数 田 畑 耕地率(%)
2 茨城 175700 100400 75300 28.8
47 東京 7800 301 7500 3.6
2013年4月30日
茨城県の耕地率は全国1位
2013年4月27日
いじめとスケープゴーティングへの文化的対抗について
いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて緩和する必要があるのではないか。この記事で説明されているのは、社会規範や社会正義がよわいものいじめというscapegoating、あるいは犠牲・いけにえでなりたっていることだ。実際、近代人とみずからをみとめているひとたちすら、古代人がしていたいじめ行為とかわらない方法で犯罪者やわるものをつくりあげ、その対象のひとたちをしいたげて「そうならなかったひとたちの社会秩序」を維持している。もっともこの態度からとおいはずliberalの世界ですら、自由でない価値観をもったひとを間接的ないけにえにしているし、本質的には国家の法規範という立法上の多数派の決定に依存している。
だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。長い目で見れば、これが一番有効なのではないか。
オトナ達の、「大義名分さえあれば、無慈悲にブッ叩いて構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」「大義名分が立つなら、とことん叩いて構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。それではダメなので、落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないか。
シロクマの屑籠、2012-07-07、p_shirokuma氏
「"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707/p1
こども社会がおとな社会の模倣であるという一般論は、そこにあらわれた社会病理が実際にはおとな社会にすでにあることをしめす、とかんがえられる。いじめはスケープゴーティングが社会全般にはびこっているためその模倣としてあらわれる症状であり、社会規範やその周縁性がゆるくなっているので曖昧な立場の犠牲をさがし、この少数派である中間者の排除によって多数派の再結束をめざす状態にあると分析できる。ネオナチズムや排外主義、ファシズム、全体主義はそれぞれこの一類型なのだろう。
P_shirokuma氏のいう慈悲をしめすとき、今度は世界宗教原理主義という別の社会規範が登場してくる。テロリズムはこのイスラム原理として出現しているもので、さけようもない。
総合してみて、現代がなすべきことはこれらの急激さや突出を緩和することでしかないとおもえる。記者クラブや東京のマスコミ資本が世論を東京ジャイアニズムからのスケープゴーティング、つまり東京からのいじめに誘導しているのはあきらかだが、これらの結束が解体されるまではほかの原理によって中和させるしか抵抗のしかたがない。必要なのは、おそらく知識集団または知識人単独による別の思想での対立的措置だ。そうして群衆の極端なかたより、思想的亢進や行動上の暴走をとめるべきだ。当然そのためには多数派がまだみにつけていないあらたな技術も役立つ。こどもへは、むしろこういったかしこい先進的個性あるいは啓蒙者の模倣を期待すべきである。多数がおろかである状態で、少数のひいでた個性によって状況が改善される、という再秩序化の経験値や、文化英雄的な啓発者への尊敬があるおとな社会の観察をつませるべきだ。こういう個性をとうとぶ社会と単なる全体主義つまり空気や和、集団浅慮が支配したばのちがいは、おそらく先人がつくりあげた慣習の差によるだろう。
2013年4月23日
市政閉塞の原因
「知らない人をフォローすること」と独創性全員協議会がいかに市政の独創性をそいでいるか、がここからわかる。市議会が退屈でつまらないとしたらこのとじられており異論をゆるさない、本議会直前の閉鎖的うちあわせの慣習のせいだろう。
日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子
では、「ありきたり」から逃れるにはどうしたらよいのだろうか。カリフォルニア大学バークレー校の心理学者Charlan Nemeth氏は、その簡単な解決法を発見した。
Nemeth氏は、被験者グループに色つきのスライドを見せるという実験を行なった。被験者はスライドが何色かを答えるのだが、ほとんどのスライドは、見ればすぐに分かる色をしており、被験者たちは、たちまち退屈な作業を淡々とこなすようになった。
ところがNemeth氏は、被験者グループの1つに助手を潜り込ませていた。そしてこの助手に対して、時おり大声で間違った答えを言うよう指示していた。たとえば赤のスライドには「黄色」、青のスライドには「緑」と答える、という具合にだ。数分後、被験者たちは、今度は同じスライドの色を見て、自由に連想する言葉を答えさせられた。結果は印象深いものになった。
「異論条件」に置かれた(先の実験で間違った答えをいう人間がいた)被験者グループのほうが、はるかに独創的な連想をしたのだ。「青」を見て「空」を、「緑」を見て「草」を思い浮かべる代わりに、彼らは連想の範囲を広げ、「青」から「マイルス・デイビス」や「マネーロンダリング」や「パイ」を思い浮かべるようになり、ありきたりな答えばかりが出てくることはなくなった。
その後の研究でNemeth氏は、同様の戦略[異論を許す環境に被験者を置くこと]が、創造性を要するさまざまなタスク、たとえばベイエリアの交通の流れを改善するといった問題の解決能力を向上させる効果があることを明らかにした。
このような「異論」の持つ力は、すなわち「驚き」の力にほかならない。間違った答えが大声で叫ばれるのを聞くこと、つまり、青が「緑」と言われるのを聞くショックによって、われわれはその色の持つ意味をもう一度考えてみるようになる。
その奇妙な回答を理解しようとして、問題を新しい視点から考え始める。その結果、青を空に安易に結びつけるといったわれわれの緊張感のない連想は、影を潜めるようになる。予期せぬものと出合うことで、人間の想像力が大きく広がったわけだ。
放射能risk(引用)
2011年4月25日(月)日本経済新聞
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C938195
95E0E1E2E2EB8DE0E6E2E6E0E2E3E386989FE2E2E2;at=ALL
http://blogs.yahoo.co.jp/go_sinzan/36764235.html
放射線と生活習慣の発がんの相対リスク比較
受動喫煙の女性 1.02~1.03倍
野菜不足 1.06倍
100~200ミリシーベルトを浴びる 1.08倍
塩分の取りすぎ 1.11~1.15倍
200~500ミリシーベルトを浴びる 1.16倍
運動不足 1.15~1.19倍
肥満 1.22倍
1000~2000ミリシーベルトを浴びる 1.4倍
毎日2合以上の飲酒 1.4倍
2000ミリシーベルト以上浴びる 1.6倍
喫煙 1.6倍
毎日3合以上の飲酒 1.6倍
(注)相対リスクは、例えば喫煙者と非喫煙者のがんの頻度を比較した数字
日経新聞2011年4月17日(日)朝刊「ナゾ謎かがく」
また弱い放射線をあらかじめ浴びた細胞は、その後の強い照射に対して抵抗性を示す実験結果もある。ワクチン接種によって免疫が強まるような現象だ。低線量の放射線が体の免疫機能を高めるなど体にプラスに働くとの研究もある。
2013年4月22日
Idolの逆選択性
アイドル・偶像・つまり「つくりもののにたかたち」という名義でおこなわれているのは、現代版の舞妓・芸妓・韓国版で妓生といった老人慰安部の活動とおもう。これは高齢化社会で所得の過半がとしよりがわにあること、またそれらのとしよりたちの趣味が非宗教的で卑俗なことの2つが条件になっている。これらの活動は女性からみれば専業主婦の様な貞操観念の必要な人生あるいは中流生活にむけては不名誉や不評という損失がたかいので、地域の商業化で中流生活の保守性が崩壊し一帯の経済構造が二極化あるいは格差社会化しはじめたことを意味している。逆選択がつよまっているという意味でも、それら舞妓が活発な地域は男性の競合力がひくいはずだ。
つまり、競合力のたかい男性がそれら舞妓のはやった地域では任意に希少となっていて、背後には生活面でのなんらかの悪条件があるのだろう。いいかえれば寡占的または独占的市場秩序が発生している。これを政治的にみれば憂慮にあたいする地域であり、所得への調整的措置を強化すると同時に特にあたらしい家庭をつくりえるわかい男性が自立できる経済助成が必要なのかもしれない。また一般にこういう地域は存続次第でつづけられた逆選択のため、なんらかの形質上の退化またはneoteny化がおこる。
つまり、競合力のたかい男性がそれら舞妓のはやった地域では任意に希少となっていて、背後には生活面でのなんらかの悪条件があるのだろう。いいかえれば寡占的または独占的市場秩序が発生している。これを政治的にみれば憂慮にあたいする地域であり、所得への調整的措置を強化すると同時に特にあたらしい家庭をつくりえるわかい男性が自立できる経済助成が必要なのかもしれない。また一般にこういう地域は存続次第でつづけられた逆選択のため、なんらかの形質上の退化またはneoteny化がおこる。
民間人の核ミサイル対策(引用)
もし本当に核ミサイルが飛んできたらどうすればいいのかまとめ26個 - M3Q
http://m3q.jp/t/369 より
【外に居る場合の緊急回避行動】
��1) とにかく地下へ逃げる
地下鉄や地下街などが近くにあればそこに避難する。
地下鉄なら爆発の後、線路を歩いて安全な場所まで逃げられるかもしれない。
��2) 建物に避難する
広島のとき、爆心地でも半地下の建物などにいて助かった人がいるらしい。
もし助かった場合、爆発が終わったからといってすぐに外に出ないこと。
��3) マンホールをこじ開けて飛び込む
タイミング次第では結構高い確率で助かると思われます。
ただし2~3分で開けることができるかどうか。
さらに「核の雨」が流れ込んでくるので速やかに避難しなければいけません。
��4) 逃げる場所がないときはとにかく伏せる
実際、冷戦下でのアメリカでは「万が一シェルターに間に合わないときは伏せる」という教えがありました。壁などがあればその影に伏せて、頭部と目を覆います。
【建物の中に居る場合の緊急回避行動】
��1) ガラス窓が視界に入らないところに逃げる
ガラス窓が視野に入らない場所は、核爆発時の閃光を受けないばかりか、
衝撃波で飛び出すガラス片を受けにくい。
��2) エレベーターは使わない
待ち時間に被弾するかもしれない。
また、エレベータ移動中に被弾するかもしれない。
��3) そして伏せる
伏せて目と頭部を覆います。
廊下に居る場合は、廊下と平行に伏せて、衝撃波の圧力を受ける面積を少なくする。
【自分の位置を知る】
��1) 周囲の建物のほぼ全てが大破、もしくは自動車が横転している場合
あなたがいる場所は、20kt核爆発換算で半径2km以内である。
火災の危険があり、残留核放射線も危険なので、すぐに地下鉄で脱出をはかる。
��2) 周囲の建物の多くが半壊しても、自動車が横転していない場合
あなたのいる場所は、20kt核爆発換算で半径2km以遠である。
屋内退避を1時間続け、ラジオで情報を得ながら、地下鉄で脱出する。
��3) 周囲の建物の窓ガラスが破損していない場合
あなたのいる場所は、20kt核爆発換算で半径5km以遠である。
火災の危険はない。屋内退避をし、ラジオなどで情報を得る。
【爆発が起きたあとに】
��1) 地下室に避難できた場合はそこにとどまっておく
広島でも最初の爆風や熱線を逃れたとしても、避難の途中で残留放射線を浴びて死んだ人が多い。
1~2週間で残留放射線は大幅に減衰するので、できるだけその場にとどまっておく。
��2) 風下でない場合は1時間の屋内退避後、自宅に帰る
帰り着いたら全ての衣服を脱いでビニール袋に入れ、口を縛って玄関に置いてから家に入る。
シャワーで全身を洗浄し、歯磨きとうがいをし、耳穴、鼻腔もよく拭き取る。
特に、頭髪・頭皮・襟元・耳の裏をきれいにする。
��3) 自宅の気密性を高める
窓、換気扇を塞ぐ。カーテンを閉め、核の灰の屋内への侵入を防ぐ。
ただし、酸欠には注意する。
��4) 飲料水・食料を確保する
水道水が汚染するかもしれないので速やかに風呂桶に水を貯める。
米を炊き、食料の備蓄を確認する。
��5) 情報を得る
テレビ・ラジオ・インターネットから災害情報を得る。
東京が核攻撃されたら、全国向けのテレビニュースは停止する。
【サバイバル術】
��1) 水の調達方法
どんな水も最低48時間待つと、有害な量の放射能が体内に入る危険を大幅に減らせる。
井戸などの地層というフィルターを経た地下水源はもっとも安全な水源。
人家や店の排水管および容器内の水も安全度が高い。
川の水も核爆発後数日経っているなら、降り注いだ放射性降下物は薄まっており放射能の影響は比較的受けない。
��2) 食料の調達方法
全ての卵は食べても安全。
加工食品は容器が破れていなければ安全。
すべすべした表皮をもつ果物や野菜は、洗うと汚染が90パーセント取り除かれるが、ざらついた表皮のものを洗った場合は、約50パーセントしか汚染を取り除けない。
テレビ・ラジオの社会的影響
ブラジルのメロドラマが家庭生活に与えた影響の研究もある。2005年当時、ブラジルで制作されるメロドラマのほとんどすべてを手がけていたのは同国の放送局『ヘジ・グローボ』だったが、ヘジ・グローボの電波が届く地域と届かない地域があったことを利用した研究だ。それによると、メロドラマが視聴されるようになった地域では、離婚率が上がり、出生率が下がったという。視聴者層のうち、若い女性の全般で出生率が下がったが、調査したすべての年を通じて最も激しい低下を示したのは、そのとき放送されていたメロドラマの主要キャラクターに近い年齢層の女性だった。韓流ドラマのほとんどは離婚率上昇と出生率低下という女性解放運動的な結果をともなう可能性がたかく、すでにその傾向が少子化や家庭崩壊につながっている日本にとってはさらなる悪影響がおおきいかもしれない。
テレビが人間社会に及ぼす影響:社会学的研究の数々
http://wired.jp/2012/06/19/natural-experiments/
ダール氏が取り上げている研究のひとつでは、インドネシアの一部の村が地形の関係で、たまたま他地域よりテレビの放送信号が届きやすくなっていることに着目している。テレビの受信状態が良好なそれら地域の住民は、地域のコミュニティ活動への参加傾向が低かった。その傾向は、大都市からの距離など、研究者が考えつきそうなあらゆる要素と無関係のものだった。この論文のタイトルは、「テレビやラジオはソーシャル・キャピタル(社会関係資本)を破壊するか」という悲観的なものだ。こうして茨城県の地域コミュニティを強化するためには、首都圏の放送枠を淘汰または県内の放送局が支配できる条件づけが今後有用になっていくだろう。
小学生の壁画
青森県大蛇小学校前の壁画の様に、小学生が地域の要所に壁画をかくことは郷土愛をはぐくむきっかけになるとおもえる。教育委員会が採用して市政に提案し、同様のpublic artをおこなわせることが教育的かもしれない。
2013年4月21日
英雄と客寄せパンダのちがい
熊本のゆるキャラでの商売は、297億円という商業効果があったとされているが、これにはみうらじゅん氏、小山薫堂氏といったプロデューサー専業者との協働画策があった。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130417/E1366125539006.html
正直なところ、こういったやりかたで県なり自治体なりの宣伝をすることは、長期的にその自治体構成員つまりはその地域の国民に損害だろうとわたしはおもう。自分から低俗ですよ、かねほしさに客寄せパンダでもやりますよと喧伝しているのとおなじだからだ。この点で、むしろご当地ヒーローを募集しその喧伝をした方がはるかによい意味での男性社会性の宣伝効果がたかいとおもう。
市のゆるキャラのなかには、ホームページで確認したかぎりあきらかに天心を模したすがたの白いオバQみたいなのもあったはずだが、あの方が文化英雄的な宣伝効果があった。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130417/E1366125539006.html
正直なところ、こういったやりかたで県なり自治体なりの宣伝をすることは、長期的にその自治体構成員つまりはその地域の国民に損害だろうとわたしはおもう。自分から低俗ですよ、かねほしさに客寄せパンダでもやりますよと喧伝しているのとおなじだからだ。この点で、むしろご当地ヒーローを募集しその喧伝をした方がはるかによい意味での男性社会性の宣伝効果がたかいとおもう。
市のゆるキャラのなかには、ホームページで確認したかぎりあきらかに天心を模したすがたの白いオバQみたいなのもあったはずだが、あの方が文化英雄的な宣伝効果があった。
2013年4月20日
魅力に関する政策転換
茨城県が「魅力度」でひくいと偏見調査され、宣伝されさえすること自体は茨城県民にとって有徳な点がおおい。新規流入者減によって大都会化の弊害、つまり陸でなしがはいってきたゆえの犯罪率の上昇や結果としての小中学生の体力・学力低下によるスラム化をさけられるからだ。
茨城県民またはその全体的対策が勘違いしてきたのは、この古残がおおいという低魅力の得点と、観光業の損失をかさねてしまったことだ。外貨獲得に注力すればよいのであって、一見さんをふやすことはかえって地域にとって風紀や美観をわるくする悪影響の方がふくらむ。
以上をもとに、茨城県では「外貨獲得主義的政策」に魅力度向上政策をきりかえてしまう必要がある。本当にすぐれている状態というのは県外から魅力度がたかいとおもわれているが新規流入者はすくない状態だ。この点で模範にあたいするのは、むしろ秋田県であるとおもえる。この地域の犯罪率は日本一ひくく、質のたかいふるきよき人々がのこっているため学力・体力もほぼ毎回トップにある。茨城県でも体力では全国一、学力でも有意にたかい成果がでているのは秋田とにた条件、ふるくつよきひとびとのそこあげがあるからだ。
北陸三県(富山・石川・福井)は秋田とかなりにた条件にあるが、そのよい部分が一層顕著にあらわれているのが秋田県だ。逆に人口減少や自殺率のたかさ、病気による死亡率のたかさ、生活保護率など欠点とおもわれる部分もあるが、犯罪率事前抑止策が必要な面をのぞいてこれらに首都圏・太平洋側にあってあかるい風土である茨城県は、あまりかかわりがない可能性がある。
まとめると、茨城県民がとるべきむきは県外から県内本社へ外貨をとってくる方法であり、魅力度という総合ブランド研究所の社員10名ほどが毎年捏造しつづける偏見調査に有利な政策ではない。そして県外での茨城県への印象をよくするなんらかの工夫と同時に、新規流入者のなかでも質のわるい層を最大限淘汰するいわゆる尊攘的意思は維持されるべき、となる。これらにもっとも合理的なのは、茨城県の傾向として指摘されることもおおかった男性社会原理を強化サイクルにおくことではないか。それが自走的に県外でのさむらい的行動をもって、茨城県民の男性らしさという才能を発揮させやすい領域での評判をもってくる可能性がたかい。この点で、桜田門外の変をとりあげた水戸市はさすがの先見の明だったとおもう。今後期待できるのは、学術文化上にも水戸学の風土をさらに強化サイクルにのせることだ。
茨城県民またはその全体的対策が勘違いしてきたのは、この古残がおおいという低魅力の得点と、観光業の損失をかさねてしまったことだ。外貨獲得に注力すればよいのであって、一見さんをふやすことはかえって地域にとって風紀や美観をわるくする悪影響の方がふくらむ。
以上をもとに、茨城県では「外貨獲得主義的政策」に魅力度向上政策をきりかえてしまう必要がある。本当にすぐれている状態というのは県外から魅力度がたかいとおもわれているが新規流入者はすくない状態だ。この点で模範にあたいするのは、むしろ秋田県であるとおもえる。この地域の犯罪率は日本一ひくく、質のたかいふるきよき人々がのこっているため学力・体力もほぼ毎回トップにある。茨城県でも体力では全国一、学力でも有意にたかい成果がでているのは秋田とにた条件、ふるくつよきひとびとのそこあげがあるからだ。
北陸三県(富山・石川・福井)は秋田とかなりにた条件にあるが、そのよい部分が一層顕著にあらわれているのが秋田県だ。逆に人口減少や自殺率のたかさ、病気による死亡率のたかさ、生活保護率など欠点とおもわれる部分もあるが、犯罪率事前抑止策が必要な面をのぞいてこれらに首都圏・太平洋側にあってあかるい風土である茨城県は、あまりかかわりがない可能性がある。
まとめると、茨城県民がとるべきむきは県外から県内本社へ外貨をとってくる方法であり、魅力度という総合ブランド研究所の社員10名ほどが毎年捏造しつづける偏見調査に有利な政策ではない。そして県外での茨城県への印象をよくするなんらかの工夫と同時に、新規流入者のなかでも質のわるい層を最大限淘汰するいわゆる尊攘的意思は維持されるべき、となる。これらにもっとも合理的なのは、茨城県の傾向として指摘されることもおおかった男性社会原理を強化サイクルにおくことではないか。それが自走的に県外でのさむらい的行動をもって、茨城県民の男性らしさという才能を発揮させやすい領域での評判をもってくる可能性がたかい。この点で、桜田門外の変をとりあげた水戸市はさすがの先見の明だったとおもう。今後期待できるのは、学術文化上にも水戸学の風土をさらに強化サイクルにのせることだ。
2013年4月17日
県都のかおとしての水戸駅
県都のかおとして、水戸駅を世界でもっとも先端的なすがたとし、拡張可能性によって今後もしつづけ、また交通の利便をかんがえホームの空中化(または地下化)でえきの南北をつなげる構想を考えはじめるべきだ。
たとえば名古屋駅や京都駅、金沢駅、東京駅、札幌駅などが県都のかおとしての象徴効果を十分にもった駅舎、といえる。水戸駅は実用的ではあるが、この物体あるいは象徴という面でインパクトがうすすぎる状態ではないか。えきのきたがわも、いまの状態はいまの状態でわるくはないが、ペデストリアンデッキ全体としてのひろば空間性にかけているといえる。
自分のいまの構想では、空中化(または地下化)したホーム全体がペデストリアンデッキ階からみわたせる、鉄骨ドーム構造のパディントン駅を巨大化した様なすがたにすればいい。そしてペデストリアンデッキ階は巨大なひろばとして、駅の南北を一体化する。さらに、ここから桜川ぞいをとおって偕楽園・弘道館までのルートを一体的に再開発する。このうめこまれたドーム構造の天井部はふきぬけにすれば、到着時の高揚や、地上部の活気がうみだせるかもしれない。
外観がもっとも重要で、名古屋駅の様に巨大な超高層ビルを付属させるパターンと、京都・金沢駅の様に駅舎そのものを独特のすがたにするものがある。どちらにせよ、世界遺産にあたいする様な「世界でもっともすぐれてうつくしい駅」をつくりだすことが今後首都になる茨城県の発展と格あげのため、是非とも必要だ。
上述の日本のみならず世界各地の駅舎を十分研究したうえで、水戸一高出身の建築家でもあり、日立駅舎の実績がある妹島氏に直接依頼してその洗練と世界最高の美化をはかるべきである。こういう天才というのは一度うしなわれてしまえば二度ととりかえせないものだから、機会をとらえて世界史にのこる規模の県内のしごとを依頼していくべきだ。好都合なことに、東京都の低俗な趣味レベルでは到底この才能を理解できていないので、茨城県がその主要な公共の仕事を提供する必要がある。
たとえば名古屋駅や京都駅、金沢駅、東京駅、札幌駅などが県都のかおとしての象徴効果を十分にもった駅舎、といえる。水戸駅は実用的ではあるが、この物体あるいは象徴という面でインパクトがうすすぎる状態ではないか。えきのきたがわも、いまの状態はいまの状態でわるくはないが、ペデストリアンデッキ全体としてのひろば空間性にかけているといえる。
自分のいまの構想では、空中化(または地下化)したホーム全体がペデストリアンデッキ階からみわたせる、鉄骨ドーム構造のパディントン駅を巨大化した様なすがたにすればいい。そしてペデストリアンデッキ階は巨大なひろばとして、駅の南北を一体化する。さらに、ここから桜川ぞいをとおって偕楽園・弘道館までのルートを一体的に再開発する。このうめこまれたドーム構造の天井部はふきぬけにすれば、到着時の高揚や、地上部の活気がうみだせるかもしれない。
外観がもっとも重要で、名古屋駅の様に巨大な超高層ビルを付属させるパターンと、京都・金沢駅の様に駅舎そのものを独特のすがたにするものがある。どちらにせよ、世界遺産にあたいする様な「世界でもっともすぐれてうつくしい駅」をつくりだすことが今後首都になる茨城県の発展と格あげのため、是非とも必要だ。
上述の日本のみならず世界各地の駅舎を十分研究したうえで、水戸一高出身の建築家でもあり、日立駅舎の実績がある妹島氏に直接依頼してその洗練と世界最高の美化をはかるべきである。こういう天才というのは一度うしなわれてしまえば二度ととりかえせないものだから、機会をとらえて世界史にのこる規模の県内のしごとを依頼していくべきだ。好都合なことに、東京都の低俗な趣味レベルでは到底この才能を理解できていないので、茨城県がその主要な公共の仕事を提供する必要がある。
2013年4月16日
県庁の正面ですがたをかくしている樹木
茨城県庁の真正面にある木、グーグルストリートビューの正面道路側・県庁南大通りからみたときに茨城県庁の石碑のうらがわにあって県庁のすがたをさえぎっている一本の樹木は、デザインの対称性をみだしているばかりか、県庁の威容をかくす効果しかないから、移設した方がいい。
北茨城の美術聖地化
北茨城市はいわゆる美大・芸大というアカデミー形ではない、本来のすがたで美術の聖地をめざすべきだ。
Artはもともと「わざ」という意味だが、このわざは本来は建築の付属物だった。特に純粋美術にかぎると、絵と彫刻というものは建築のいわゆる建具にほどこされた装飾のことだった。イタリア・ルネサンスを起点に、ヴィンチ村のレオナルドがきっかけになってこの絵というものだけが芸術性を独立して主張しはじめることになった。彫刻は同時代人であるミケランジェロによって同様に、独立した美術としてみとめられる様になった。
日本ではルネサンス化は、実際には日本やアジア美術に独自の手法や文脈を保全しようとした岡倉天心を排斥した明治政府によって、この西洋からの潮流をそのままうのみにするかたちですすんだ。東京藝術大学で西洋画を模倣し、明治政府からのおすみつきをもらった黒田清輝が薩摩人であり、おなじく西洋建築を模倣し赤坂迎賓館(もと東宮御所)を設計した片山東熊が長州のひとだったことがこれを証明している。ここまでは福沢諭吉という大分人のイデオローグが指導した、いわゆる脱亜入欧的な西洋模倣とアジア蔑視そのままの文化状況があるわけだ。
しかし、日本は日本だ。日本は西洋ではない。日本は極東にあるうえ、そのことばは日本語であり西洋の語ではない。このことばのちがいというものが決定的なちがいだが、それにくわえて構成している過半のひとびとの形質的特徴も西洋とはおおきくことなっている。このばあい、ちがいということはいわゆる人種差別の用語としてとらえられがちだが、勿論交配可能性はのこっているにもかかわらず、背丈や骨格、髪や目の色といった表面的な形質差がことなるといえるだろう。それは遺伝子間の優劣ではなく、単に身体特徴にあらわれる遺伝形質の傾向がちがっているのだ。
これら、言語・形質というのが2つのおおきなちがいとしてみえてくる。そしてこの2つのおおきなちがいが、結果として慣習のちがい、理解のちがい、文化のちがいにつながってくる。こうして言語・形質がまざりあって、文化という共有された慣習傾向におおまかなちがいがうまれる。
北茨城市では、以上の人類学・地政学的な認識から、美術上の創造がその文化の差異からうまれてきた、という部分にもっと注力すべきだ。それは「ことなる文化」のぶつかりあいの地点に生じる、特に建築装飾にみられることになりやすい製作上の習慣差のことなのだ。
建築は工業製品などにふくめて、応用美術ともいわれるばあいがある。それは実用性とか技術水準、土地の風土的条件などが、完全に独立した価値成立をさまたげるからだ。日本のばあいでいっても建築基準法や、地震・台風などの条件がその建築様式に一定のらちをかしている。このらちがあるかぎりで建築にはいわゆる純粋美術としてとおくまで移動が可能である絵や彫刻よりも土地風土やそれに由来した制度からの制限がかされ、独立性がかぎられている。つまり、建築装飾としてはじめ出発した絵や彫刻こそが真の純粋美術であり、そのつぎに建築という一定の制限のあるはこがくるということだ。したがって「ことなる文化」のぶつかりあいとその創造性は、実際には絵や彫刻の方に敏感でわかりやすくあらわれやすい。
原則としてこういった理論がいえるわけだが、具体的にどうやれば聖地化が可能かといえば、製作用の滞在施設を充実させることだろう。Artist in residenceといういいかたがされているわけだが、要はアトリエ空間を市の単位で大量につくり、それをつねに世界最大の単位で大規模かつ安価にかしだせばよい。こういった場所にはもし宣伝をまったくしなくともはじめ地元人がはいり、つぎにうわさをききつけて世界各国からアーティスト・美術家があつまってきて、自動的に文化のぶつかりあいを生じさせる。それが創造性のみなもとになる。これには費用が必要とおもわれがちだろうが、そうではなく、単に空き家やあき物件などのかりあげをして、もっとも安価でかしだせばいいだけだ。すでにつかわなくなった公共施設の用途転用・conversionはこのもっとも合理的な方針であり、あかねひら青少年の家なども実はこわさずに、適切な耐震補強や老朽化しきった部分のたてかえをしたうえでこのアトリエ空間用にかしだせばよかったのだ。おなじことは、市立病院や、現市立図書館のたてものなどにもあてはまるだろう。重要なのはあめかぜをしのげる空間ということであって、最低限度の設備でなんらかまわず、とにかく沢山製作スペースがあるという意味でなみはずれてひろく大量のアーティストが稼働しまくれるという絶対条件にある。この世界最大のスペースというところさえゆずらなければそのたてものの豪華さなんてどうでもよく、質素きわまりない最低限度の仮設建築的なもの、プレファブでもいいわけだ。なぜならなかみはアーティスト自身がつくるものだからだ。これから中郷と磯原のあいだの大量にたてられた郊外型店舗も当然限界効用がきて利益があがらなくなり空き家物件になることが予想できるから、ここもはじめから市の単位でかりあげ、大規模アトリエスペースとして応募者にかしだすことにきめておけばすでに国道ぞいでおきた廃墟化の様な、くりかえす単なるスクラップ&ビルドの醜態をさけられるだろう。
この構想のたったひとつの欠点をあげれば、新規流入者つまり新参者が生じるためにいくらか犯罪率があがるかもしれないということだ。これは実際、すべての大都市圏だけではなく自分の経験上、現在の北茨城市内でもおきている現象でもある。その事前対策として市警や自警団の独自整備をしておくこと、かつ市民への法律教育があるだろう。
Artはもともと「わざ」という意味だが、このわざは本来は建築の付属物だった。特に純粋美術にかぎると、絵と彫刻というものは建築のいわゆる建具にほどこされた装飾のことだった。イタリア・ルネサンスを起点に、ヴィンチ村のレオナルドがきっかけになってこの絵というものだけが芸術性を独立して主張しはじめることになった。彫刻は同時代人であるミケランジェロによって同様に、独立した美術としてみとめられる様になった。
日本ではルネサンス化は、実際には日本やアジア美術に独自の手法や文脈を保全しようとした岡倉天心を排斥した明治政府によって、この西洋からの潮流をそのままうのみにするかたちですすんだ。東京藝術大学で西洋画を模倣し、明治政府からのおすみつきをもらった黒田清輝が薩摩人であり、おなじく西洋建築を模倣し赤坂迎賓館(もと東宮御所)を設計した片山東熊が長州のひとだったことがこれを証明している。ここまでは福沢諭吉という大分人のイデオローグが指導した、いわゆる脱亜入欧的な西洋模倣とアジア蔑視そのままの文化状況があるわけだ。
しかし、日本は日本だ。日本は西洋ではない。日本は極東にあるうえ、そのことばは日本語であり西洋の語ではない。このことばのちがいというものが決定的なちがいだが、それにくわえて構成している過半のひとびとの形質的特徴も西洋とはおおきくことなっている。このばあい、ちがいということはいわゆる人種差別の用語としてとらえられがちだが、勿論交配可能性はのこっているにもかかわらず、背丈や骨格、髪や目の色といった表面的な形質差がことなるといえるだろう。それは遺伝子間の優劣ではなく、単に身体特徴にあらわれる遺伝形質の傾向がちがっているのだ。
これら、言語・形質というのが2つのおおきなちがいとしてみえてくる。そしてこの2つのおおきなちがいが、結果として慣習のちがい、理解のちがい、文化のちがいにつながってくる。こうして言語・形質がまざりあって、文化という共有された慣習傾向におおまかなちがいがうまれる。
北茨城市では、以上の人類学・地政学的な認識から、美術上の創造がその文化の差異からうまれてきた、という部分にもっと注力すべきだ。それは「ことなる文化」のぶつかりあいの地点に生じる、特に建築装飾にみられることになりやすい製作上の習慣差のことなのだ。
建築は工業製品などにふくめて、応用美術ともいわれるばあいがある。それは実用性とか技術水準、土地の風土的条件などが、完全に独立した価値成立をさまたげるからだ。日本のばあいでいっても建築基準法や、地震・台風などの条件がその建築様式に一定のらちをかしている。このらちがあるかぎりで建築にはいわゆる純粋美術としてとおくまで移動が可能である絵や彫刻よりも土地風土やそれに由来した制度からの制限がかされ、独立性がかぎられている。つまり、建築装飾としてはじめ出発した絵や彫刻こそが真の純粋美術であり、そのつぎに建築という一定の制限のあるはこがくるということだ。したがって「ことなる文化」のぶつかりあいとその創造性は、実際には絵や彫刻の方に敏感でわかりやすくあらわれやすい。
原則としてこういった理論がいえるわけだが、具体的にどうやれば聖地化が可能かといえば、製作用の滞在施設を充実させることだろう。Artist in residenceといういいかたがされているわけだが、要はアトリエ空間を市の単位で大量につくり、それをつねに世界最大の単位で大規模かつ安価にかしだせばよい。こういった場所にはもし宣伝をまったくしなくともはじめ地元人がはいり、つぎにうわさをききつけて世界各国からアーティスト・美術家があつまってきて、自動的に文化のぶつかりあいを生じさせる。それが創造性のみなもとになる。これには費用が必要とおもわれがちだろうが、そうではなく、単に空き家やあき物件などのかりあげをして、もっとも安価でかしだせばいいだけだ。すでにつかわなくなった公共施設の用途転用・conversionはこのもっとも合理的な方針であり、あかねひら青少年の家なども実はこわさずに、適切な耐震補強や老朽化しきった部分のたてかえをしたうえでこのアトリエ空間用にかしだせばよかったのだ。おなじことは、市立病院や、現市立図書館のたてものなどにもあてはまるだろう。重要なのはあめかぜをしのげる空間ということであって、最低限度の設備でなんらかまわず、とにかく沢山製作スペースがあるという意味でなみはずれてひろく大量のアーティストが稼働しまくれるという絶対条件にある。この世界最大のスペースというところさえゆずらなければそのたてものの豪華さなんてどうでもよく、質素きわまりない最低限度の仮設建築的なもの、プレファブでもいいわけだ。なぜならなかみはアーティスト自身がつくるものだからだ。これから中郷と磯原のあいだの大量にたてられた郊外型店舗も当然限界効用がきて利益があがらなくなり空き家物件になることが予想できるから、ここもはじめから市の単位でかりあげ、大規模アトリエスペースとして応募者にかしだすことにきめておけばすでに国道ぞいでおきた廃墟化の様な、くりかえす単なるスクラップ&ビルドの醜態をさけられるだろう。
この構想のたったひとつの欠点をあげれば、新規流入者つまり新参者が生じるためにいくらか犯罪率があがるかもしれないということだ。これは実際、すべての大都市圏だけではなく自分の経験上、現在の北茨城市内でもおきている現象でもある。その事前対策として市警や自警団の独自整備をしておくこと、かつ市民への法律教育があるだろう。
2013年4月14日
ひるねの効用
R25 1晩分の効果!?昼寝のスゴイ効能 2012.11.11
昼寝はそこまで効果的なのでしょうか? 昼寝の研究をしている久留米大学医学部・精神神経科の内村直尚先生に伺いました。
「昼寝には疲労を回復させる効果があります。福岡の明善高校では、5年前から毎日15分間の昼寝を取り入れているのですが、センター試験の成績が上がる、現役の東大合格者が増えるなどの効果が出ています。昼寝をすることで集中力が高まり、個々の持っている能力を引き出しやすくなっているのでしょう。さらに夜の睡眠を深くする効果もあるので、睡眠不足も解消できます」
全11科目の平均点の対全国倍率(明善高校÷全国)は、午睡を実施したH18入試から1.16倍から1.19倍に着実に上昇している データ提供/久留米大学医学部・精神神経科、内村直尚先生
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20121111-00025919-r25
成績をあげるためにひるねという休憩時間が効果的というのは、学校組織として十分にかんがえるべきところといえる。学習成果の定着あるいは長期記憶化のために睡眠が必要とはまえからいわれてきたことだが、ひるねの様な短時間睡眠が体力の回復などにもききめがあるうらづけがとれれば、これは組織規模でむしろ合理的な方法といえるだろう。
賠償請求協同組合の必要性
2013年4月11日 (木)
福島: 膨大な漏洩と放射性降下物は日々続いている … 何年間も
2013年4月6日
Washington's Blog
福島は漏れているのか … それとも、原子炉は全く閉じ込められていない状態なのか?
破壊された福島原子力発電所の運営者、東京電力が放射能を含む水の大量の漏れを発表したことを読者はご存じかも知れない。
読者は、福島の使用済み燃料プールの冷却装置が、一カ月の間、二度故障したこともご存じかも知れない。
これは確かに報道の価値がある話題だが … 全体像を完全に見逃している。
AP通信はこう報じている。
専門家達は、原発沖の海で捕れた魚の高濃度汚染からして、地下水系を経由して、継続的に海に漏れ出しているだろうと考えている。
(東京電力の福島原発の図では、水は原発から海に直接流れこんでいるようにさえ見える。これもご覧願いたい。)
日本の専門家達は、毎日、福島は現在930億ベクレルの放射性セシウムを海に流していると言っている。
これは一体どれほどの放射能なのだろう?
ざっと計算すると、ロシアの原発が火事になった際、チェルノブイリから放出された量の約一万分の一ということになる。しかしチェルノブイリの火事が続いたのはわずか10日で … 福島からの放出は、これまで2年以上続いているのだ。
実際、福島は既にチェルノブイリより遥かに大量の放射性セシウムとヨウ素を放出した。福島から放出された放射性セシウムの量は、当初考えられていたものより、およそ20-30倍多い。
福島は、半減期1,570万年の、放射性ヨウ素129も、膨大な量、排出した。福島は、カルシウムを模倣して人の骨に集まり、強力な体内の放射体となり得る、放射性のストロンチウム90も、900兆ベクレル、海に廃棄している。
しかも福島にある放射性燃料の量は、チェルノブイリさえ小さく見せるほどだ。… だから、何十年、何百年、あるいは何千年も、漏れ続ける可能性があるのだ。
The bottom line is原子炉はもはや封じ込められていないのだ。福島で“多少の漏れがある”というわけではない。“漏れ”というのは、炉心は安全に格納建造物内にあるが、そこに小さな穴が一つか二つ開いていて、塞ぐ必要があるということを意味する。しかし、科学者達は、炉心がどこにあるのかさえ分かっていない。これは漏れではない。完全なメルトダウンより酷い。
福島そのものの周辺で暮らしている人々への影響は一体どうなのだろう?
実際、非常に深刻なものとなる可能性がある。
記事原文のurl:www.washingtonsblog.com/2013/04/is-fukushima-leaking-or-is-the-the-reactor-wholly-uncontained.html
翻訳先のurl:http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-613e.html
この「うみへのながれだし」をだれも指摘しないのは大変におかしい。深海魚がもっとも影響をうけることがめにみえているのに、その検査体制と信頼性の基地をつくらないというのも漁業にとって致命的となる選択といえる。マイクロシーベルト単位での検出値の産地表示の義務化が必要といえる。
またしみこんだ土壌から、地下水が汚染されていることも当然かんがえられる。それらは地下をとおって、わきみずとなって周辺にあらわれる可能性がある。この面での温泉地への影響も当然かんがえられる。ここでも、周辺自治体による検査の義務化の体制づくりが必要だ。
このどちらの局面にわたっても、公害をもたらした法人格である東京電力株式会社が費用負担をするのが当然といえる。東京電力株式会社のもうけにくらべれば、これらの費用負担などそこがつぶれるほどには100%ならない僅少な額なのだから、漁協や温泉組合が直接うったえること、また井戸水や農地をもっている周辺住民の直接賠償のくみあいがつくられてしかるべきだ。
2013年4月13日
ただしい人道
石原伸晃の脳内にあるのは、福島第一サティアン発言でもわかるが、放射性廃棄物を福島県の帰宅困難地域におしこめてしまうのが最終決着点なのが理の当然というかんがえかたといえる。このひとはすくなくとも前世(石原慎太郎)が悪質な関西出身者だったこともふくめ、商業的利己主義の傾向がある。
豊田市長の発言「安全だというならどうして都市部につくらないのか」(茨城新聞、2013/4/13)はきわめて正論だ。放射性廃棄物がもれだす可能性がおおいにあり、そうであるかぎり危険だから東京都や、官庁のとなり、皇居、いくらでも土地があまっている高尾山、石原家の土地内にひきうけるきおいはかれら東京人側にまったくない。かれら東京人というものはやはり自分さえよければ他人がどうなろうとかまわない、不仁きわまるいやしい商業的利己主義者なのである。
総合的に批判すると、薩長土肥京芸(薩摩・長州・土佐・肥前・京都・芸州=鹿児島・山口・高知・佐賀・京都・広島)の西国諸藩がそうなのだ。これは明治新政府が商業的利己主義者のむれであったことにひとしい。福沢諭吉がそのもっともしぶといイデオローグだった。かれらは武家社会で外様におしこめられた地位をうらみに、体制をくつがえすべくその米英あるいはユダヤ式の商業的利己主義をアジア侵略のものだねとかんがえとりこんだ。各地でスパイ活動をおこなっていた長州(山口)の吉田松陰や伊藤博文を筆頭に、かれらは社会ダーウィニストとなった。格差社会や弱肉強食をかてば官軍のスローガンとともに信じつづける長州系の安倍晋三、薩摩系の麻生太郎をふくめ、自由民主党なるものも実はこの余波にすぎないといえるだろう。
わたしがいち文民としてみとおせるのは、こういった西日本的利己性は東京都のなかに伝播してしまっているが、東日本人は絶対この悪意にそまってはいけないということだ。日本が米英ユダヤとおなじレベルの社会になりさがってしまうのだろうか。それはしいたげられてきた有色人種の世界で、こころからの日本への期待をうらぎることだ。有色人種の世界をまもらねばならない。日本はアングロサクソンやラテンの欧米人、あるいは関西の倭がこれまでおこなってきたはなはだしい侵略の悪業にあらがい、その不正をあばき、世界史に平和と天下の統一をうちたてる必要がある。白色人種の暴威と、悪徳にこびうる極悪の薩長土肥京芸ら西国蛮夷をうちはらえ。その胎動の地がこの北茨城でなければならない。
義にあたっては天皇だろうとアメリカだろうと、原爆水爆生化学兵器どんな拷問でおどされようと決してゆずってはならない。北茨城市民は原発政策に賛成なのだろうか反対なのだろうか。あきらかに反対だ。われらは原発から被害しかうけていないからだ。平和なくらしをしてきたひとびとをしいたげているのが、この邪悪な東京の電力搾取装置・原子力発電所、そしてそこからもたらされた北茨城市への大公害なのである。それなのに、このもっとも大事にしてきた自然環境を、さらに東京からきた邪悪な権力者集団がよごそうとするものなら、それら邪悪な勢力を地上から一掃すべきである。最低でも北茨城市内に環境相が放射性廃棄物を投棄しようとしたものなら、国政まるごとすべてつぶし完全に支配する気概と勇気をわれらはもたねばならない。邪悪な東京都で原発によって散々茨城県民・地方の人民から、かねと労働を搾取、あげくには「魅力度が最低」と恣意的におとしめ、われら国民の名誉までをすさまじくはずかしめてきた悪徳東京の天皇家もついでに永久廃位させる必要がある。茨城県民がこれまで散々、侮辱罪・名誉毀損罪されてきた分だけ東京都やその天皇がおちぶれなければ道理がたたないからだ。国民が主人であって、世襲の独裁者がではない。なぜソドム東京都の世襲独裁者ごときから、一国の主人であるものが侮辱されつづけねばならない。象徴が堕落したら国民自身の手でかならずそれをかえる必要がある。おそらく勤皇主義の水戸徳川家はこのかんがえかたに反対するだろうが、かれらが世襲の権力者のもとで特権を享受することより、かれらの祖先をやしなってきた郷里である茨城県におわす一国民のいのちを軽視するならそれも仁義のもとにある思想ではないといえる。尊皇なのか尊民なのか。二者択一だ。わたしは世襲の独裁者より国民をとうとぶ。なぜならわたし自身が国民であって世襲の独裁者ではないからだ。国民なくして国家なし、天皇なくとも国家あり。これは原爆投下や特攻隊、小御所会議の不正な決定からいたる最悪の内戦・戊辰戦争、それ以前にも倭朝廷による地方蔑視の一方的侵略犯罪など天皇奴隷制度にまつわるあまたの悲惨をみてきた、もとからのいち日本人として、当然の判断といえる。そもそも、天皇家はこのしまが「日本」となづけられる以前にはこの地にいなかった新参者の人間であり、それよりはるか以前からこのしまを愛し、このしまにくらしてきたなもなき真の日本人らにとってすれば、その存在やおおうその神話づくりでの洗脳など、土台からしったことではない。
人間には生存権がある。うまれきた地にすんでいく権利。いきなり武器をかたてにやってきてそれを一方的に侵害したうえ暴力でひとびとを無理に奴隷化し、国民の平和な生活をエゴイズムにこりかたまった帝国主義で破壊し贅沢と乱倫のために大枚を徴税、侵略自慢の悪業におごってきたのが根っからのならずものとしかいいようがない天皇家だ。これが日本史の真相だ。
茨城県民の総合判断として、福島県の帰宅困難地域あるいは廃炉ずみの施設に最終処分場を一括してつくるのが最善とみなしたとして、石原伸晃自身のかんがえかたとこれは一致している。しかし、福島県知事はいままですさまじい被害をうけ、これ以上負担をおいたくない、ということが予想できる。最終的おとしどころは最終処分場の現実性として福島県知事を説得しあるいは国家が優遇政策をしめしたうえでこれに帰属してもらうか、または根本原理としてこれらの原発はすべて東京のせいで生じているまがものなのだから東京都内に自称安全という最終処分場を立地させるか、この2つのうちどちらかでなければならない。そして福島県知事と連携し、邪悪でしかない搾取主体・公害主体の東京都に自責させるべく、最終処分場を都内立地させることこそ、真にこの国家の人道を回復するみちすじだろう。自称安全なのだから、当然高尾山でこれを安全に運営していけるはずだ。おひざもとである方がよほど管理がしやすく一石二鳥といえる。これを否定する論理などどこかにあるのだろうか。
所詮、極悪搾取をつづける悪徳商売人の連帯である東京都からは、今後とも東京都民の自分さえよければ他人がどうくるしもうと関係ないという不仁きわまる悪質な態度、むれて悪事をしたがるいやしい利己主義・極悪ジャイアニズムのいいわけしかあらわれまい。297万人の茨城県はその707万kwの県外への電力供給で、千葉県622万人・埼玉県720万人・神奈川県905万人・東京都1316万人という首都圏連合4都県の人口計3600万人の電力需要600万kWをながらくささえてきた。茨城県民の需要はたった50万kwしかなかったのに。この偉大なわれら茨城県民のあきらかに国家救済的かつ慈悲にみちた多大な貢献実績のまえで小人都民ごときが散々おごりちらす。そのうえで、さらなる負担と迷惑をとうとい茨城県におしつけたがっている。悪徳商売人の下衆スラム・東京都など、日本と人類の正義のためにはいますぐつぶれればよいのである。邪悪な首都ならない方がいい。悪徳のむれはむれればむれるほどわるくなる。あしき独裁地域は、当然ほろぼされ、革命されるを得る。王道を回復せねばならない。経済支配の悪徳首都東京はうちくだき、大公害による搾取の業をひびほしいままにしている悪質な東京都の全域などいますぐつぶし、有徳の茨城県がかわりに有徳の首都をすべきなのである。もし洗脳された愚民が悪魔の東京都からどれほどだまされていようとも、かれら衆愚みずからが結果として福島県とおなじめにあうだろうし、愚劣なジャイアニズムでしかない東京に連帯したおろかな判断によってかならず失政するにすぎないのだから、有徳の君子として大人にして優等生の茨城人はそれら小人どものざれごとを一切無視すればよい。
もしゆたかなとこよの自然環境をもっとも美点としている関東最古の茨城県・常陸国をかるがるしくよごし、あげく善意の電力供給もとを軽視する計画停電措置という悪魔の意をしめしたうえ、延々と市民とその生物のいのちをうばう致命的なごみをすてにくる悪徳国家日本だとすれば、その首都である東京都をふくむ日本国という悪魔の組織そのものを人類にみとめられた革命権をもとに徹底破壊するべきだ。なぜなら、東京都という巨大な搾取基地をかまえた悪魔の日本国さえなければ、われら国民の安全安心はたもたれるからだ。これもまた現実の真理である。
家系図がながいだけの独裁者天皇とやらの人種差別の尊厳? かれらのつくりこんできた神話? 水戸徳川家の伝統的支配の理念? しったことではない。いのちをうしなえばなんにもならない。そしてこどものいのちをうしなわせる放射能廃棄物をすてにくる極悪人は、なんとしてでも市のテリトリーからおいだし、もしこういった穏健な説得にこれからながらくの政治上のはなしあいの結果として、かれら極悪人がなんとしてでも応じない様ならこれはもはや法の濫用または国政の悪用による国際犯罪に類しており、日本のもっともすばらしい自然をトップダウンの命令で破壊する不法投棄・無法投棄事例なのはあきらかだから、北茨城市民全員が決死の浪士・環境保護運動のゲリラとなってでも、その極悪不法投棄犯人どもを全世界の国家国民群と連携しなにがなんでも退陣させるべきである。勿論わたしは危険な活動をあおっているのではない。このくにの法を最大限まもったうえで、一度うしなえば二度ととりかえしのきかない日本の自然環境を、福島県のおかれることになった悪徳東京都民による自然破壊事例を他山のいしとして市民がその身を賭してでも、搾取や破壊工作をしてくる侵略者どもから絶対にまもれといっているのだ。この究極的覚悟によってしか、おごれる東京都と世襲独裁者天皇家のくみあわせによる地方蔑視の極悪横暴をおさめる方法はなさそうにみえる。かれらの中華思想は、いまの京都にも残存する人種差別・民族差別・地方差別の悪風なのである。
われらはすぐとなりで、もっともしたしい友人である磐城が東京都の極悪行為で破滅させられるのをみた。さらにつづけて、となりまちである高萩市が犠牲になりかねなかったのをみた。この一度ならず二度までの悪業をみながら、だまっているのは男として、すくなくとも人間としてまちがっている。義をみてせざるは勇なきなり。まだつづけて悪事をしようとしている悪徳商人根性・東京都の犯意を、率先してわれらがうちくだくべきなのだ。全人類が東京を妄信していようが関係ない。真実は真実であり、よごれた東京とはことなる善美なわれらの土地が国政から不当におとしめられた分だけ、その悪事をおこなった東京という堕落した場所と土地代を世界の正義のためにおとしかえすべきだ。復讐せよ。そしてこのよのただしいみちすじとして、まわりに迷惑をまきちらすあしき東京都へその東京都民みずからがうみだした強欲という業の結果、すなわち放射性廃棄物の最終処分場をせおわせるのがこのよのただしい人道というものである。
原発などとはまったく無関係なあかの他人の土地へみずからがつくった原発から生じた危険ごみを投棄しようとしてきた極悪東京人が、その悪事におこったじもとの地権者から、しかも東京人よりはるかに正義に敏感だった北茨城市民をあやまってターゲットにしたばかりに、おろかなやくざ東京人のごみをそのやくざである東京人の土地へおしかえされるのは、だれがどうみようと自業自得といえる。福島県の前例をみれば、市内にある大規模発電所のパワーステーション茨城の環境排出物質へもまったくおなじことがあてはまる。この磯原高校よこにあるバイオマス発電所は今後とも、市民の厳重な監視が必要な物件といえるだろう。
豊田市長の発言「安全だというならどうして都市部につくらないのか」(茨城新聞、2013/4/13)はきわめて正論だ。放射性廃棄物がもれだす可能性がおおいにあり、そうであるかぎり危険だから東京都や、官庁のとなり、皇居、いくらでも土地があまっている高尾山、石原家の土地内にひきうけるきおいはかれら東京人側にまったくない。かれら東京人というものはやはり自分さえよければ他人がどうなろうとかまわない、不仁きわまるいやしい商業的利己主義者なのである。
総合的に批判すると、薩長土肥京芸(薩摩・長州・土佐・肥前・京都・芸州=鹿児島・山口・高知・佐賀・京都・広島)の西国諸藩がそうなのだ。これは明治新政府が商業的利己主義者のむれであったことにひとしい。福沢諭吉がそのもっともしぶといイデオローグだった。かれらは武家社会で外様におしこめられた地位をうらみに、体制をくつがえすべくその米英あるいはユダヤ式の商業的利己主義をアジア侵略のものだねとかんがえとりこんだ。各地でスパイ活動をおこなっていた長州(山口)の吉田松陰や伊藤博文を筆頭に、かれらは社会ダーウィニストとなった。格差社会や弱肉強食をかてば官軍のスローガンとともに信じつづける長州系の安倍晋三、薩摩系の麻生太郎をふくめ、自由民主党なるものも実はこの余波にすぎないといえるだろう。
わたしがいち文民としてみとおせるのは、こういった西日本的利己性は東京都のなかに伝播してしまっているが、東日本人は絶対この悪意にそまってはいけないということだ。日本が米英ユダヤとおなじレベルの社会になりさがってしまうのだろうか。それはしいたげられてきた有色人種の世界で、こころからの日本への期待をうらぎることだ。有色人種の世界をまもらねばならない。日本はアングロサクソンやラテンの欧米人、あるいは関西の倭がこれまでおこなってきたはなはだしい侵略の悪業にあらがい、その不正をあばき、世界史に平和と天下の統一をうちたてる必要がある。白色人種の暴威と、悪徳にこびうる極悪の薩長土肥京芸ら西国蛮夷をうちはらえ。その胎動の地がこの北茨城でなければならない。
義にあたっては天皇だろうとアメリカだろうと、原爆水爆生化学兵器どんな拷問でおどされようと決してゆずってはならない。北茨城市民は原発政策に賛成なのだろうか反対なのだろうか。あきらかに反対だ。われらは原発から被害しかうけていないからだ。平和なくらしをしてきたひとびとをしいたげているのが、この邪悪な東京の電力搾取装置・原子力発電所、そしてそこからもたらされた北茨城市への大公害なのである。それなのに、このもっとも大事にしてきた自然環境を、さらに東京からきた邪悪な権力者集団がよごそうとするものなら、それら邪悪な勢力を地上から一掃すべきである。最低でも北茨城市内に環境相が放射性廃棄物を投棄しようとしたものなら、国政まるごとすべてつぶし完全に支配する気概と勇気をわれらはもたねばならない。邪悪な東京都で原発によって散々茨城県民・地方の人民から、かねと労働を搾取、あげくには「魅力度が最低」と恣意的におとしめ、われら国民の名誉までをすさまじくはずかしめてきた悪徳東京の天皇家もついでに永久廃位させる必要がある。茨城県民がこれまで散々、侮辱罪・名誉毀損罪されてきた分だけ東京都やその天皇がおちぶれなければ道理がたたないからだ。国民が主人であって、世襲の独裁者がではない。なぜソドム東京都の世襲独裁者ごときから、一国の主人であるものが侮辱されつづけねばならない。象徴が堕落したら国民自身の手でかならずそれをかえる必要がある。おそらく勤皇主義の水戸徳川家はこのかんがえかたに反対するだろうが、かれらが世襲の権力者のもとで特権を享受することより、かれらの祖先をやしなってきた郷里である茨城県におわす一国民のいのちを軽視するならそれも仁義のもとにある思想ではないといえる。尊皇なのか尊民なのか。二者択一だ。わたしは世襲の独裁者より国民をとうとぶ。なぜならわたし自身が国民であって世襲の独裁者ではないからだ。国民なくして国家なし、天皇なくとも国家あり。これは原爆投下や特攻隊、小御所会議の不正な決定からいたる最悪の内戦・戊辰戦争、それ以前にも倭朝廷による地方蔑視の一方的侵略犯罪など天皇奴隷制度にまつわるあまたの悲惨をみてきた、もとからのいち日本人として、当然の判断といえる。そもそも、天皇家はこのしまが「日本」となづけられる以前にはこの地にいなかった新参者の人間であり、それよりはるか以前からこのしまを愛し、このしまにくらしてきたなもなき真の日本人らにとってすれば、その存在やおおうその神話づくりでの洗脳など、土台からしったことではない。
人間には生存権がある。うまれきた地にすんでいく権利。いきなり武器をかたてにやってきてそれを一方的に侵害したうえ暴力でひとびとを無理に奴隷化し、国民の平和な生活をエゴイズムにこりかたまった帝国主義で破壊し贅沢と乱倫のために大枚を徴税、侵略自慢の悪業におごってきたのが根っからのならずものとしかいいようがない天皇家だ。これが日本史の真相だ。
茨城県民の総合判断として、福島県の帰宅困難地域あるいは廃炉ずみの施設に最終処分場を一括してつくるのが最善とみなしたとして、石原伸晃自身のかんがえかたとこれは一致している。しかし、福島県知事はいままですさまじい被害をうけ、これ以上負担をおいたくない、ということが予想できる。最終的おとしどころは最終処分場の現実性として福島県知事を説得しあるいは国家が優遇政策をしめしたうえでこれに帰属してもらうか、または根本原理としてこれらの原発はすべて東京のせいで生じているまがものなのだから東京都内に自称安全という最終処分場を立地させるか、この2つのうちどちらかでなければならない。そして福島県知事と連携し、邪悪でしかない搾取主体・公害主体の東京都に自責させるべく、最終処分場を都内立地させることこそ、真にこの国家の人道を回復するみちすじだろう。自称安全なのだから、当然高尾山でこれを安全に運営していけるはずだ。おひざもとである方がよほど管理がしやすく一石二鳥といえる。これを否定する論理などどこかにあるのだろうか。
所詮、極悪搾取をつづける悪徳商売人の連帯である東京都からは、今後とも東京都民の自分さえよければ他人がどうくるしもうと関係ないという不仁きわまる悪質な態度、むれて悪事をしたがるいやしい利己主義・極悪ジャイアニズムのいいわけしかあらわれまい。297万人の茨城県はその707万kwの県外への電力供給で、千葉県622万人・埼玉県720万人・神奈川県905万人・東京都1316万人という首都圏連合4都県の人口計3600万人の電力需要600万kWをながらくささえてきた。茨城県民の需要はたった50万kwしかなかったのに。この偉大なわれら茨城県民のあきらかに国家救済的かつ慈悲にみちた多大な貢献実績のまえで小人都民ごときが散々おごりちらす。そのうえで、さらなる負担と迷惑をとうとい茨城県におしつけたがっている。悪徳商売人の下衆スラム・東京都など、日本と人類の正義のためにはいますぐつぶれればよいのである。邪悪な首都ならない方がいい。悪徳のむれはむれればむれるほどわるくなる。あしき独裁地域は、当然ほろぼされ、革命されるを得る。王道を回復せねばならない。経済支配の悪徳首都東京はうちくだき、大公害による搾取の業をひびほしいままにしている悪質な東京都の全域などいますぐつぶし、有徳の茨城県がかわりに有徳の首都をすべきなのである。もし洗脳された愚民が悪魔の東京都からどれほどだまされていようとも、かれら衆愚みずからが結果として福島県とおなじめにあうだろうし、愚劣なジャイアニズムでしかない東京に連帯したおろかな判断によってかならず失政するにすぎないのだから、有徳の君子として大人にして優等生の茨城人はそれら小人どものざれごとを一切無視すればよい。
もしゆたかなとこよの自然環境をもっとも美点としている関東最古の茨城県・常陸国をかるがるしくよごし、あげく善意の電力供給もとを軽視する計画停電措置という悪魔の意をしめしたうえ、延々と市民とその生物のいのちをうばう致命的なごみをすてにくる悪徳国家日本だとすれば、その首都である東京都をふくむ日本国という悪魔の組織そのものを人類にみとめられた革命権をもとに徹底破壊するべきだ。なぜなら、東京都という巨大な搾取基地をかまえた悪魔の日本国さえなければ、われら国民の安全安心はたもたれるからだ。これもまた現実の真理である。
家系図がながいだけの独裁者天皇とやらの人種差別の尊厳? かれらのつくりこんできた神話? 水戸徳川家の伝統的支配の理念? しったことではない。いのちをうしなえばなんにもならない。そしてこどものいのちをうしなわせる放射能廃棄物をすてにくる極悪人は、なんとしてでも市のテリトリーからおいだし、もしこういった穏健な説得にこれからながらくの政治上のはなしあいの結果として、かれら極悪人がなんとしてでも応じない様ならこれはもはや法の濫用または国政の悪用による国際犯罪に類しており、日本のもっともすばらしい自然をトップダウンの命令で破壊する不法投棄・無法投棄事例なのはあきらかだから、北茨城市民全員が決死の浪士・環境保護運動のゲリラとなってでも、その極悪不法投棄犯人どもを全世界の国家国民群と連携しなにがなんでも退陣させるべきである。勿論わたしは危険な活動をあおっているのではない。このくにの法を最大限まもったうえで、一度うしなえば二度ととりかえしのきかない日本の自然環境を、福島県のおかれることになった悪徳東京都民による自然破壊事例を他山のいしとして市民がその身を賭してでも、搾取や破壊工作をしてくる侵略者どもから絶対にまもれといっているのだ。この究極的覚悟によってしか、おごれる東京都と世襲独裁者天皇家のくみあわせによる地方蔑視の極悪横暴をおさめる方法はなさそうにみえる。かれらの中華思想は、いまの京都にも残存する人種差別・民族差別・地方差別の悪風なのである。
われらはすぐとなりで、もっともしたしい友人である磐城が東京都の極悪行為で破滅させられるのをみた。さらにつづけて、となりまちである高萩市が犠牲になりかねなかったのをみた。この一度ならず二度までの悪業をみながら、だまっているのは男として、すくなくとも人間としてまちがっている。義をみてせざるは勇なきなり。まだつづけて悪事をしようとしている悪徳商人根性・東京都の犯意を、率先してわれらがうちくだくべきなのだ。全人類が東京を妄信していようが関係ない。真実は真実であり、よごれた東京とはことなる善美なわれらの土地が国政から不当におとしめられた分だけ、その悪事をおこなった東京という堕落した場所と土地代を世界の正義のためにおとしかえすべきだ。復讐せよ。そしてこのよのただしいみちすじとして、まわりに迷惑をまきちらすあしき東京都へその東京都民みずからがうみだした強欲という業の結果、すなわち放射性廃棄物の最終処分場をせおわせるのがこのよのただしい人道というものである。
原発などとはまったく無関係なあかの他人の土地へみずからがつくった原発から生じた危険ごみを投棄しようとしてきた極悪東京人が、その悪事におこったじもとの地権者から、しかも東京人よりはるかに正義に敏感だった北茨城市民をあやまってターゲットにしたばかりに、おろかなやくざ東京人のごみをそのやくざである東京人の土地へおしかえされるのは、だれがどうみようと自業自得といえる。福島県の前例をみれば、市内にある大規模発電所のパワーステーション茨城の環境排出物質へもまったくおなじことがあてはまる。この磯原高校よこにあるバイオマス発電所は今後とも、市民の厳重な監視が必要な物件といえるだろう。
2013年4月9日
アンコウどん
市の最優秀キャラクターは西郷どんみたいなのでアンコウどんと命名すべき。優秀キャラクター2つは姉弟みたいなので、アンコウきょうだいとしてペアで。これらをみると、つまキャラクターがたりないから新設すべきかもしれない。
このアンコウ家族みたいなアニメーションを、市の宣伝用でディズニーやジブリなどの会社に製作依頼すべきだ。普通はかわいさをえらんでいくはずなのだが、逆にキャラクターのインパクトがおおきいので、いずれはアンコウどん単独での漫画化も可能とおもえる。
また鮟鱇は深海魚なのでみためで選択されてきていない。このみにくさという欠点をかえりみて、新キャラクターをかもめで、もっと格好のよいものとしてつくるべきだ。
追記:アンコウどんのキャラクター象徴性だけではなく市政全般にもいえることだが、市長のひとがらがそうなのかもしれないわけだがはっきりいって洗練されない。非常にどろくさい。このキャラクター募集とその選出結果もおなじだろう。こういう市政の特徴あるいは現在の趣味傾向は、豊田氏のひとつの性質とみていい。もし市民がこういうたちをいやだとおもえば、結局、市長をかえるしかないだろう。そして豊田氏をえらんでいるかぎりで、市域の政治に関するこのよくいえば素朴だが、わるくみられればどうしようもなくどろくさい結果というものを、市民は覚悟しなければならないだろう。
このアンコウ家族みたいなアニメーションを、市の宣伝用でディズニーやジブリなどの会社に製作依頼すべきだ。普通はかわいさをえらんでいくはずなのだが、逆にキャラクターのインパクトがおおきいので、いずれはアンコウどん単独での漫画化も可能とおもえる。
また鮟鱇は深海魚なのでみためで選択されてきていない。このみにくさという欠点をかえりみて、新キャラクターをかもめで、もっと格好のよいものとしてつくるべきだ。
追記:アンコウどんのキャラクター象徴性だけではなく市政全般にもいえることだが、市長のひとがらがそうなのかもしれないわけだがはっきりいって洗練されない。非常にどろくさい。このキャラクター募集とその選出結果もおなじだろう。こういう市政の特徴あるいは現在の趣味傾向は、豊田氏のひとつの性質とみていい。もし市民がこういうたちをいやだとおもえば、結局、市長をかえるしかないだろう。そして豊田氏をえらんでいるかぎりで、市域の政治に関するこのよくいえば素朴だが、わるくみられればどうしようもなくどろくさい結果というものを、市民は覚悟しなければならないだろう。
2013年4月4日
茨城の食料自給率
平成18年概数・関東農政局
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
茨城70%・イギリス70%>スイス49%>日本39%>神奈川3%>東京1%
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
茨城70%・イギリス70%>スイス49%>日本39%>神奈川3%>東京1%