2013年2月27日

防犯灯

 青色または青白色の防犯灯が犯罪抑止に効果がある、と実証的・帰納的にいわれだしている。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG10014_Q2A011C1CR0000/
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/faculty/sawada/sawada.j/sawada01.j.html
駅に青色灯、飛び込み自殺8割減 東大分析 2012/10/10 11:56

 東京大学の沢田康幸教授らは10日までに、駅や踏切などに取り付けた青色灯が列車への飛び込み自殺を防ぐ効果があるとの研究結果をまとめた。首都圏の71駅で2000~10年に起きた自殺のデータを分析した結果、青色灯を設置した駅は未設置の駅と比べ、自殺が平均84%減少した。

 沢田教授らの研究グループは青色灯のある11駅と未設置の60駅を対象に計128件の自殺の傾向を調べた。駅の大小などの条件も考慮したうえで、統計的に処理すると、自殺の発生に明らかな差があるとしている。

 青色灯には人間の気持ちを落ち着かせる効果があるとされ、防犯灯として設置する地域が増えている。鉄道会社が駅や踏切に設ける動きも進んでいるが、自殺者が減る効果を示す科学的な根拠はなかった。

 沢田教授らは青色灯はホームドアに比べてコストが低く、費用対効果の観点からも有効な自殺防止対策とみている。

プルキンエ現象か副交感神経への影響、沈静のセロトニン分泌効果がかんがえられている様。高萩駅前にもすでにあった様だが、えきまえの駐輪場あるいはコンビニまえ、学校まえなどにそなえつければ防犯性があらわれるかもしれない。
 茨城県全域でいえば、すべての駐車場にそなえつけることが第一に自動車窃盗をふせぐ効果があらわれる可能性がある。またHIV罹患率をさげるために風営法で規制された場所である水戸と土浦の一部、あるいは日本人のHIV患者は相対的にすくない茨城県ではこのおもな感染ルートでもあり風紀のわるくなっている外国人居住区の様な場所周辺にも、行政区が計画的に青色灯を設置するべき。そして鉄道会社と協議のうえ、線路ぞいにもうけることがとびこみをふせぐかもしれない。

茨城空港のえらさと東京のわるさ

 極悪東京都民とNHK、中部国際空港がLCCを就航させるときはさもいいことかの様に偏見報道。
 ところが茨城空港がそれを首都圏のさきがけとしてすでに震災前、大々的におこない、現に首都圏の深刻な被災にもかかわらずひとびとをすくいたすけるためうごかせつづけた高徳の功績から、海外のローコスト・エアポート2011を受賞したことはまったく報道しなかった(豪シンクタンク、CAPA Centre for Aviation; Low Cost Airport of the year 2011)。
 東京都民は首都圏をになうほどの道徳性はない馬鹿者である。そればかりか、なんとかえってそれ以前の建設時に、なぜか茨城県税の使途を勝手に無駄だ無駄だといいながら茨城県民の主権者としての公益を完璧におとしめつづけて風評被害をあたえまくっていた。自分たち俗物連中は羽田がちかくぜにもうけしやすく便利なので、とうといわれら茨城県民の利便であるばかりか首都圏アクセスの補完として、自衛隊基地を民営利用するアイデアものの立派で平和的な近未来の茨城空港の偉大なすがたは一体全体、一方的にすさまじい偏見報道のむれでおとしめつづていいとでもいうつもりなのだろうか。いいかえれば、東京都民は単に低俗でみるめがなくおろかきわまりないばかりか、ねっから我利亡者の商売根性にそまりきった完全な悪人なのだ。東京都民は首都圏にあってまったく最低の悪友としかいいようがなく、ちかい将来おちぶれるのはみたところまちがいない。東京とは不徳かつ極悪の地域であり最悪の俗物のすんでいるあつまりなのである。いまのうち、賢明かつ良識的な優等生である茨城県民と茨城県は、まこと悪徳にそまりきっている邪悪な東京とは縁をきれるだけきり、そとからもわかりやすく首都圏社会でのたちばをとおざけておくべきだ。

茨城空港はアジア・太平洋地域でナンバー1のLCC空港
配信日:2011/10/20 22:15
http://flyteam.jp/news/article/5382

茨城空港はローコスト・エアポート2011を受賞しました。センター・フォー・アジア・パシフィック・エイビエーションによる2011年の最も優れたローコスト運営の空港やターミナルを表彰する部門で、アジア太平洋と中東地域で1位に輝きました。

2011年10月20日にシンガポールで開催される授賞式に茨城県の橋本知事が出席し、受賞の喜びをコメント。

いわく

「東日本大震災により被災した本県にとって,このような賞を受賞できたことは,大変大きな励ましとなります。・・・我々のめざしてきたものが評価されたものであり、・・・今後とも皆様が使いやすい空港づくりに取り組んでまいりたいと存じます。」(一部略)

とのこと。

今回の受賞理由に震災の被害を受けながら、LCCへ優れたサービスを継続して提供したことも評価されています。

震災当日は、成田空港や羽田空港が閉鎖したことから、茨城空港にダイバート便が到着。空港ターミナルビルの天井の一部崩落があり、春秋航空も不規則な運航を行いながらも、4月1日から通常サービスを提供していました。

関空でも本格的なLCCターミナルが着工されましたが、空港として先輩でもLCC空港としては茨城の方が先輩。これからもLCC空港として楽しいイベントや茨城ならではのサービスにも期待しましょう!





 ちなみに茨城空港のテーマ曲は、北茨城市出身の石井竜也氏のうたう米米クラブの名曲『浪漫飛行』に専属契約すべきだ。すでにHALCALIのカバーもある。

2013年2月25日

工学

 Solar panelを車体の天面にはり、停車時の室内温度調整にその蓄電力をつかう。

関東北部と高萩の方策

 最終処分場は、栃木県と徹底連携し、東京都へおしかえすべきだ。もしおしつけてくる様なら、茨城県民は首都圏最大の電力の供給もとであり北茨城市内にすら株式会社パワーステーション茨城という15,000kWのバイオマス発電所が現にあるわけだが、その茨城県内での消費量分の生産量が100%以上(茨城県民の総需要50万kw<東海第二原発の総出力110万kw)と過剰なのですべて、東京都や神奈川県はじめ、関東南部で深夜需要がある東京圏へおくるためだけに発電されていることを科学的根拠にしなければいけない*1。つまり、核廃棄物の最終処分場は「法人格としての東京電力株式会社」、「株主としての責任主体である東京都」そして「電力消費地としての東京都」という3つの点から、かならずや東京都内にその東京都民自身の排泄物をかえさねば道理がたたない。なにがなんでも、だ。自分で自分のしりすらぬぐえない幼稚きわまりない阿呆で俗物の東京都と極悪の東京都民をせめるべきで、せめすぎは絶対にない。どれほどおおごえでどれほどこわだかでもいい。マスコミすべてをつかい、海外の主要メディアにうったえてもいい。いや、かならずや、永遠にうったえつづけねばならない。わるいのは東京都なのだから。
 地元自治体からのいい分をきかないばあい、具体的にそれらの廃棄物を、このうらみをはらす戦争の機会があったばあいにそなえダーティボムにしあげるための県政にのりだす必要がある。それがせめてもの、原発搾取でのうのうと暮らしてきている極悪東京都民への最終責任のとらせかただろう。
 最終的にききわけがないばあいは、公正無私にして善良な県民300万人の命をまもるべく、自民党政権と石原一族で計80万人程度の極悪我利亡者どもの勢を二度と復活できない様、根底からつぶすつもりでやるべきだ。目的は勧善懲悪。これは原発政策に対して距離をおいてきた脱原発派である茨城県北部の人にとって、今後の死活問題になりかねないから。

 また高萩えきまえのあき地は都市公園としてできるだけおおきなひろばにすれば、むしろえられがたいだけのぞましいつくりになる。中心市街地でもあるえきまえに広大な公園があるのは、計画してえられたわけではなかったにせよ文化のたかさでもあるといえる。

*1 引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html

映画天心への2つの疑問

 映画天心は、岡倉覚三を有名にこそすれ、北茨城市そのものあるいは茨城県の地域振興や、よい印象づけとはなんら関係がなくなるのではないか。
 また映画が小中学生や、家族で安心してみられる内容にならなければ、市税という「全体の奉仕」のための財産を、一部のおとなの利益のためについやすのにすぎなくなるのではないか。

2013年2月23日

茨城県民の地味な上品さ

 われらのもっている非俗物さは、いいかえれば素朴さだが、俗物さを媒介にした資本主義経済とは最適化しているわけではないわけだ。このわれらというのは、平均してみた茨城県民といえる。
 茨城県民の体力や学力は最上位にあり、県民所得や総生産も中くらいからたかい方で、首都圏にあるのにもちいえがおおく、かなりひろいにわつき一戸建てすまいは結構常識的でもあり、くらしむきにはゆとりがある。すばらしく綺麗な自然景観もいくつもあり、そして人口も比較的おおい。それにもかかわらず、県外のひとにはすこしも認知がなく、魅力がないとおもわれている。栃木県もにたもの同士かもしれないが、このわけは実感としても茨城県がなにかを外部へむけて主張するまでもなく自足しやすいほどめぐまれた適所であること、さらにそこにながらく適応してきたひとの温和さは、こういった「県外のひとびとの不幸な勘違い」に対して誤解をとこうとする意欲すら特段よびさまさないからなのだ。現実には特別に愛郷心のつよいひとか、一旦その外部にでてからじもとへの客観性をみにつけたひとにしか、これだけすぐれた場所柄を魅力がないとおもうほど趣味がわるく、茨城県への関心がない様な俗物への対策を講じたりもしない。総じて、この穏健さこそが茨城県民の平均してもっているある特質なのだろう。
 明治維新のときの水戸藩内の抗争は、『文明論之概略』によれば学問の宗教化の弊と喝破されているが、それすら山口県、鹿児島県で実際におきた激しい藩内抗争とはおもむきを異にする。山口では第二次長州征伐以来、非正規軍が正規軍を制圧してしまい、藩内クーデターが成立した。鹿児島では私塾によった武装勢力が政府軍と戦争をして滅びた。このどちらのパターンともことなって、茨城ではこの同時期、非正規軍は西へと出陣していっていなかったうえ、のちこの残党が新政府側としてもどってきて抗争し藩組織を交代させた。つまり、水戸藩内でおこったのは正統性、legitimacy、権限にもとづく正規軍のいれかえだけで、しかもそれは藩士組織の実質的な政権交代劇にすぎなかった。つまり懸案の攘夷戦争はおきなかったし、一般市民へおよぶ影響もほぼなかった。このやすらかな感覚は『覚書 幕末の水戸藩』で慶喜公がかえってきたときのあっけらかんとした感想でわかる。
 とかくこの穏健派であって急進派とはのりがあいにくいこと、これがなぜ資本主義経済へ最適化しているいわゆる大衆または俗物との温度差が、茨城県にうまれてくるかのおおきなわけだ。急進的なひとびとは江戸へやってきて、巨大都市東京をつくった。
 しかもこの特質は勘違いされやすく、単に穏健なだけなのだが、急進したい人間からはおくれにもみえないことはない。これが田園のよさを理解しないひと、すんだこともないひと、いわゆる趣味の面からみれば自然への感受性がない完全な俗物なわけだが、こういった自称都会の俗塵うまれには、いなかといえば俗語で田舎いのであってなんら関心がないわけだ。そして究極のところ、こういったひとたちとののりのあわなさは永遠につづくだろうから、ロマン主義以前の俗物根性というのは所詮われらのみちではない。

 要は、大衆的な俗物性をもとにした資本主義経済というものは茨城県民の平均的特質にとって、おそらく封建時代の水戸学からきた遺風なのだろうがわれらは貴族的で上質なものをこのむというすこしのずれがあって、最適化はされていない。かといって県民所得は全国でもよい方なので、それがかならずしも苦手なわけではない。単に俗物さからとおいだけだ。そしてふたつとなりにあって俗物が集積している大都会東京、あるいはその原理とよくにた大阪からかなりとおい心理であり、ある特質をもっている。たとえばシャイネスや謙遜、いわゆる武士道時代の古きよき道徳目が多少あれ維持されているのは首都圏でも茨城県民であるといえよう。
 こうしてふりかえれば、実質は大変すぐれているのに魅力がないとおもわれていることは茨城県民が平均してもつひとつの個性でもあり、いわゆる謙虚や謙遜、謙譲といったゆずりあいの徳と一致しているある資質、うまれのよさなのかもしれない。たとえば財産の面で全国に比して茨城県が特別たりないわけではないので、テレビ局に関心がないというのもあきらかにこの特長がでた部分といえる。そして現実にわたしがじもとの人間としてくらしてきたよい意味での自足の状態として、東京や大阪発の卑近なテレビはみるだけ気分がわるくなるにすぎず、まったくくだらないし必要ないばかりか、いまおもいかえしても茨城県民へ害しかおよぼしていない。現実にはありえない化粧された映像をみせつけられて不幸感をふやすだけ、贅沢自慢の実にくだらない卑俗な内容がつぶれてくれれば、それだけよのひとびとのくらしの質もあがってくるだろうから。
 こうして、俗物の反対概念としてのとうとさやその質をまとった聖なる価値をもとめ茨城県民は東京都民へせをむけてあるきだせばよい。この行路はたとえ全国民が理解できなかろうとまったく関係がない。世界の人類はおろかものばかりではないし、そもそも東京の日本語によるテレビなどみていない。俗物はどこでも俗物なのだから、俗物である大衆からは魅力がないとおもわれているほど反俗物的でわれらの謙遜のよい効果があらわれている、とかんがえていい。それだけ茨城県に俗物がくる機会がへり、真に趣味のよい人間があつまりあるいは安心して定着してくれるだろうから。
 また、ある意味ではこの高貴高尚で理解されがたいか、素朴でひかえめであるために卑俗な社会にあえてちかよらない、ちかよれないという部分は、われらのもっているうまれのよさとして貴族精神、gentleさにもなりえる。むしろよい特長として維持されていい。現実にはすばらしいよさがあるのだが、魅力がひくいとまわりからおもわれる、というのは一つのはっきりした才能をもつ個性であり、それは維持された方が多分無個性よりすぐれている。かえってこれはpartnerとしての安心感をうむだろうから、安心してつきあえるという面で交際がひろくなることも十分かんがえられる。つまり「派手でないためまわりから魅力がないとおもわれる」、というある欠点にみえるものはむしろ俗物根性からはなれればはなれるだけ長所でもあって、「地味」という特別な個性としてそれ自体が主張されていい。たとえば徳川慶喜にも同様のはっきりした個性、貴族的なうまれのよさがみられる。そして趣味の一般原理はこれを上品さとして評価する。おそらく、将来にわたってもそういうジェントルな個性がえらばれうまれそだち、出身していきやすい場所柄があるのだろう。
 俗物根性を媒介にしている資本主義経済の社会はいずれおわり、あるいはかわるか、商人世界のものとして限定化されるだろうし、すくなくともそのうまれをわるくする淘汰によって、全体最適化しないひとを俗塵からとおざけてくれる。自分のみるかぎり、派手な宣伝効果によりそとづらは魅力的とおもわれているが実質はよごれた大変すみづらい東京にいついているひとと、節度あるおさえられた趣味のため魅力がないとおもわれているが実質は綺麗で大変すみごこちのよい茨城にいるくる、あるいはかえるひとびとのあいだでおきているのもその関係性であるとおもえる。

2013年2月21日

科学と善

 社会をかえること、それをのぞましいむきにかえること。

 すべて科学、知識、scienceは自体としてものぞましいが、その応用とみればこれにつかえるだけだろう。工学の濫用が戦争や侵略をまきおこす。しかし、政治のしかたがただしいかどうかがとわれている。
 人類史でおきたもっとも悲惨なできごとのひとつは、ヨーロッパ移民らによるアメリカ大陸の先住民の虐殺での建国だ。これがアメリカ大陸の精神として政治上ただしいとはおもえない。そして同様の歴史は、茨城の名義になっている天皇家支配へもあてられる。このどちらのばあいも工学はまちがったつかいみちをされている。工学は芸術の基礎だから、目的としての芸術を高度化させるためにある。つまり岡倉天心のいう意味での「戦争による野蛮人が高貴な芸術をこどものあそびにあたいするとおもいたければおもえ、われらはよろこんでまとう」というのが、アメリカや天皇家へ、あるいは薩長土肥ふくむ明治以来の新政府へいえることだ。もっと巨視すれば、平和の縄文文明が戦争の弥生文明がわへあてつけられる真理だ。そういった蛮行で絶滅戦争をした結果は、かれらをふくむ種の多様化をそこなうばかりかにくしみやうらみ、あるいはきらいをかい、将来の繁殖価をへらすことだろう。だれからもうらまれたりいとわれたりしないばかりか好感をもたれる人間になれれば、つまりよいひとになれれば種の多様化という本来のいきものとしてのめあてにかなえる。

 善はいそげ、悪はのばせ。このことわざは過去から未来まで人類に記録や記憶の才があればかならず業があるから。なんらかの利他性を徳あるいはのりとし、工学や知識は別個のものとする。こうすると、いわゆるmeta-physics、「自然学のあと」というものは、工学や知識というphysicsより優先度がたかいのがみてとれる。それは業という社会のなかにあるしくみが、いずれ人類のなかにかえってきやすいから。善はいそいだ方がよい行動者の系列としてひとびとに協調性をうけがいやすく、悪のばあいはどうしようもなくしなければいけないときでもできるかぎりさきのばしにしていれば、いずれ状況がかわり、しなくともすむことになるかもしれない。

 ある時間をへだててみれば、こういった因果ははっきりでる。ゆえに科学のつみかさねは、ある意味では形而上学とよべるかんがえ、社会を運用していくのりとしての哲学のもとでしかない。そしていそがれているのは、実際には善をになう哲学の方なのだ。真善美は科学、哲学、芸術というそれぞれのしわざがうみだすある特長をいいあてている。

2013年2月16日

東京の反面教師性

 茨城県は東京都のわるい部分をしりぞけて、最高の地位をしめるべきだ。わけなく東京都を模倣している水戸以南の人間は、そのわるい面すらまねてしまっているとおもわれる。
 基本として日本のマスコミに扇動されたり、総合ブランド研究所の様なネット世論まがいの偏見にだまされる人間は「衆愚」とよんでいい。この集団にこびへつらう必要はまったくなく、かえってこのclusterは最大限さけ、その逆にいくことがよい結果になる。
 特に性的退廃というのが東京都の最悪の面だ。水戸と土浦はだれがなんといおうと、こういった「わるい」なりわいを東京都むかしでいう江戸からまねてしまって、そのひどさは東京ほどではないにせよ県全体に害毒をもたらしている。こういった商売は売春防止法によって断固としてとりしまられていい。東京都というのはこの点はっきりいえば世界でも最低の場所、最悪の風俗だからまったく反面教師にしかならない。もしこの真相が理解できないか誤解しているとしたら、テレビなどで印象操作されて真実をしらない衆愚でしかないのであいてにするだけ損害だ。水戸市内、土浦市内で茨城県警は断固、性をうりものにしている犯罪者のとりしまりをしていいのだ。そもそもこういった人間はどの国家にあっても最も害がある。いいかえればそのたぐいの隣国からのアメリカへの移民が現に迷惑がられている様に、あるいは茨城県でも現に迷惑であるごとく、普段からごく風紀のわるい東京や大阪からどこかのくにへの移民にも同様のみかたがされることが当然予想できる。外国人HIV患者、あるいは同日本人、性的に堕落した東京人とそこから影響をうけたひとびとが東京都から直接飛び火しているのが、茨城県内の風紀にとっては最大の憂慮である。電車や地下鉄、道路での東京都とのつながりはこの点むしろ不便なくらいの方がいい。
 つぎに、犯罪率。東京都は当然だが大阪府とおなじくらい日本最悪の発生率で、まったくわるい場所だ。強姦、強盗、侵入強盗、殺人の人口比における犯罪発生率1位が東京である(出展: 警察庁、犯罪統計資料(平成24年1~4月分)。

 結局このどちらの場面でも、警察のつよさ、とりしまり能力がおおきく効果をもち、なおかつほとんどの課題が水戸をふくみそれ以南、特に県南にあるとかんがえられる。それだけ、東京からはいってくるひとがいるからだ。
 茨城県知事にはつよく、この2つのとりしまりを強化されることをねがう。まず水戸や土浦の売春防止法にもとづく徹底的な風俗浄化、そして警察組織の強化による犯罪の徹底的なとりしまり。どちらも、東京都、特に甚だしい前例のある新宿あたりが反面教師になるといえるだろう。

 この全体図をみると、こうわかる。
 テレビの登場以降、それが洗脳装置としてはたらき日本をふくめ人類の現実感をうそでぬりかためてしまった。東京都などすみごこちからいえばほとんど最悪の場所にちかいのに、テレビではさもいい場面ばかりをきかざってうつすので、その洗脳装置にあたまを支配された人間は、どこにもない東京という場所を現実にはそれよりはるかによい茨城よりもすぐれているとおもいこんでいる。これが真相である。この洗脳された愚民というべき人間は、また総合ブランド研究所によるネット世論のにないてでもあって、北海道や沖縄という過酷または深刻な自然環境や、経済状況や心身の健康におとった場所をいわばテレビ洗脳されてよい場所だとおもいつめている。いいかえれば、テレビの内容がかれら衆愚にとっては現実におきかわってしまったのだ。
 としよりがテレビで洗脳されつづけていく光景があちこちでみられる。それどころか、こどもさえそうだ。テレビはこうして資本主義の悪魔のはこ、パンドラのはこだった。
 茨城県が唯一、テレビ局をもっていない。これは以上の論旨をもってすればかえってよいことというほかないだろう。俗にそまっていない。まだたすけがい、すくい様があるのだ。そしてわれらはこの日本でもっとも貴重な長所をむしろそだてていかねばならないだろう。テレビやマスメディアなんてあいてにしないし、かえってそういう態度をもった高貴かつ良識的な人間を大事にし、まねき、すまわせ、かこいこんでいく。この方向性が知識人、文化人のだけではなく、一般人の社会としても将来性があるといえる。そして本来あるべきすがたとは、東京都のごとき俗物根性のすみかたではなく、茨城県の様に質実剛健のいきかたでなければならない。日本人や外国人の衆愚がこのことにきづくときづくまいと、われらは人類としてまっとうで、ただしいみちをいくべきだ。そしていつか衆愚はそのあやまちとあやまりのために大失敗があきらかになるだろうし、うそを本当かの様におもいこんでいたひとびとはそこからくる不経済のために結局はくらしを悪化させ、健康性をそこなったり悪質な子女しかそだてえないだろう。つまりは社会的な淘汰がおこるかぎりはこういったわるい系譜はそもそも時代ごとにすこしずつ除去され、数がへるか、末期には絶滅するはずだ。
 結局、こうしてみれば洗脳装置によって衆愚をあざむいてみたり、印象操作をして世界に害をあたえたりしていた結果は、巨悪として因果にはねかえってくるのだろう。現実に東京都ほど生活環境が最悪なのは、おなじ日本では大阪府くらいのものだろうが、いまだに衆愚はさもこれらの最悪レベルのくらしづらい場所をよいものかのごとく、ひびの映像と音声による洗脳で頭脳を支配されているわけだ。日本の極端な人口密度のかたよりはこうして生じている。しかしそういったむれたがる人間へなにも仕様がないから、単におろかものとしてみかぎるほかない。

 東京都のよい点はおもにその人口規模のみ、といえるかもしれない。すでに人口比がそのまま、出自しえる才能の多様性としてノーベル賞受賞者数に比例するとわかっている(社会学)。つまり、茨城県ではこれから人口比をもっとふやすこと、たくみな宅地開発や都市部のたかさ制限、緑地整備などで人口集中度をおさえながら総合人口比では東京都よりもおおくなることが必要になる。

 また将来機会があれば、茨城県では放送大学よりもすぐれた質をほこる局をもって、県民がほかの諸都道府県より徳をえられる様にすべきだろう。自分のしるかぎり、NHKのBSプレミアムをのぞけば、イギリスBBCワールドニュースがその視野のひろさとまじめさという点で質のたかい報道局であり、これをNHK水戸放送局は模すればいいかもしれない。
 法人としての放送大学そのものを、幕張から県内に誘致することもひとつの有効なてだてになるかもしれない。そしてこういった放送大学で筑波大学や茨城大学、ほかの公開大学講座を茨城県民へ限定してとどければ県民の教育レベルをあげることができる。この最後の構想はいわば弘道館テレビ局化構想といえる。

2013年2月14日

水戸市の高級文化サロン計画

 ところで現在、茨城県水戸市で「第1回世界チョコレートフェスティバル」という催しが行われている。水戸市は2005~2007年の総務省家計調査品目別調査で、世帯あたりのチョコレート購入額1位。2009~2011年の調査でもチョコレートで9位(5116円)、菓子類全般で見ても全国2位(9万2362円)と、全国有数のスイーツ都市と言えそうだ。

 では、全国No.1のスイーツ都市はどこか。全「菓子類」で総合No.1は石川県金沢市(9万5110円)。金沢市は「ようかん」「まんじゅう」を除いた「他の和生菓子」(1万6952円)や「チョコレート」(5840円)でも1位を獲得している。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130213-00000011-pseven-life

 水戸市はまた、統計局の家計調査(二人以上の世帯)によれば、メロン購入額(1世帯当たり年間の支出金額及び購入数量)が全国1位と統計局の調査ででている。茨城はメロンの生産量も全国1位で、全国の1/4を収穫している。



http://www.stat.go.jp/data/kakei/5.htm

都道府県別 メロン生産量ランキング一覧
メロン 収穫量及び出荷量 (平成21年産)
ランク 収穫量t 出荷量t 前年産対比収穫量% 前年産対比出荷量%
 全国 199400 181100 96 96
1 茨城 46500 43700 99 100
http://www.japan-now.com/article/192626160.html

 つまり、水戸市が菓子文化全般で全国2位にあり、茨城県はメロンという高級品でも全国1位の生産・消費地ということは、石川県の金沢市を研究してそのうえをめざせば日本一の菓子文化の都市にできる。兼六園もかさなるから、この庭園と文化という2面から金沢市を十分研究し、換骨奪胎でそれを改良するかたちによりさらに、すぐれた都市をつくっていく必要があるだろう。
 同じ統計局の平成21~23年平均の家計調査品目別データ、菓子類(エクセル:46KB)の購入金額によれば、金沢市は「他の和生菓子」と「チョコレート」で1位、「カステラ」で2位、「チョコレート菓子」と「アイスクリーム・シャーベット」で3位になっている。水戸市の得意分野というのはきわだっていない。つまり、全般的に菓子文化をもりたてていくなかで、和菓子、チョコレート、チョコレート菓子、カステラ、アイスクリーム・シャーベットを重点的な販売目標にすればよいことになる。
http://www.stat.go.jp/data/kakei/zuhyou/rank09.xls

 庭園文化とみて、千羽湖畔と偕楽園をみわたせる場所にかずおおく喫茶店をつくればよい。そしてそこを上述の高級品の提供をおもとした首都圏最大のいこいの場として、貴人のたむろするさかりばにすればよい。いってみれば、全世界から第一流の貴族と文人があつまる高級文化サロンを、偕楽園の付近につくりだせればいい。単に烈公のすでにつくった好文亭を模し現代化した大規模再開発計画なので、うけいれられやすいだろう。そして将来的に、地球でもっともひろい都市公園へと偕楽園を拡張し、さらにその質を高貴に展開していくべきだ。
 こうしてLRTかtube(地下鉄)かはきめられていないが、つくばとの直通化も必要になるとおもわれる。おそらくチューブ化の方が防空対策とみてもすぐれており、LRTはひろがった構造をもつ水戸市内循環バスがさらに環境学的かつ電気的に効率化され代替されるものだろう。

2013年2月11日

東海第二原発の無意義さ

 日本の火力発電所一覧東京電力の火力発電所、そして東海第二原子力発電所によると、茨城県にある東海第二原発の総出力は、たった110万キロワットにすぎず、たとえば石炭が燃料の常陸那珂火力発電所100万キロワット2機で十分まかなえる。副生ガスや重油による鹿島共同発電所で105万kw。石炭、重油、炭化燃料、木質バイオマスによる勿来発電所で162.5万kw。重油、原油による鹿島火力発電所で440万kW。都市ガスによる品川火力発電所で114万kw。
 さらに、猪瀬都知事の記者会見発言によれば、そもそもこの日本原子力発電という東京電力株式会社も28.23%出資するほぼすべての全国の大規模電力会社が共同出資で、いわば商用原子力発電のさきがけとしてつくった東京都にある会社、そこからの東京電力への80%の売電分など、まったく眼中にもはいっていないのだ。
猪瀬知事記者会見 平成24年12月18日(火曜) 14時10分~15時05分
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2012/121218.htm
【記者】東京のエネルギーですね、エネルギー政策としましてですね、火力発電所がありますね、風力発電のエネルギーも再生可能エネルギーとしてどんどん採用していくと。こういう中において、猪瀬都知事のですね、目指すものは何なのかということなんです。簡単に言いますと…。

【知事】簡単に初めから言ってくれよ。

【記者】簡単に言いますと、脱原発依存社会を目指すのか目指さないのかという問題が1つあると思うんですね。東京のエネルギーをいかにして確保していくかという問題とあわせて、その姿勢を改めてお聞きしたいと思っております。

【知事】東京は、既に脱原発社会になっています。なぜならば、福島から900万キロワット来ていません。新潟から、柏崎刈羽から800万キロワット来ていません。1700万キロワットの原子力発電の電源が失われています、現在。そして、こういう電気がついている。ということは、東京湾に今、老朽火力発電所、35年から40年物だけで1700万キロワットあります。それがフル操業しています。それでこういう状況で、何とか節電効果と相まって電力が供給されていると、こういうことですので、既に新しい火力発電所は幾つかありますが、1700万キロワット分の老朽火力発電所は、リプレイスして新しいものに変えていく。その場合に、民間の資本を入れていく、新電力の参加を促す。それから、お隣の中部電力だって、東京電力エリアで発電所を運営していいんですよ、こういうふうな形で、東京電力改革というのは、電力の自由化の第一歩であります。で、全国で9電力独占体制というのがありますが、新電力の比率は3.5%しかないので、これを少なくとも1割、2割、3割ぐらいになることによって、また9つの電力会社の独占体制の壁を打ち破ることによって、むしろ電力供給は安定化するだろうというふうに考えております。これだけでも大仕事です。で、それを多分、やる人はいないと思いますので、僕は東京都知事になった1つの理由は、そこにもあります。

言及さえしてない以上、あってもなくてもかまわない、どうでもいいというあつかいである。それなら茨城県民がくるしいだけなのだからいますぐやめてしまえばいい。まじめで善良な茨城県民は、東京や横浜という大電力消費地からたのまれ、かれらをたすけるつもりであえて負担のおおきな電力供給の元となり長年苦労しながらなんとか関東地方・首都圏の同士らをてつだってきたのだが、かれらからなんにも感謝されていないならいますぐやめるしかない。それどころか、東京都や神奈川県の俗物たちは、かえってこうしたてつだいをしてきた茨城県をいなかだの魅力がないだのと馬鹿にしてくる始末であり、悪友としか言い様がない。東京都民と神奈川県民の平均値は、カウントリーサイドの自然美を理解できない悪趣味の俗物どもでしかないのであり、悪友でしかない不良の東京都と神奈川県とは、優等生の茨城県民はいますぐ金の切れ目をつくることによってできるだけ縁をきるべきだ。それがわれらのためだけではなく、全国民ひいては人類の向上のためになる。
 くりかえすが、日本電子力発電株式会社は東京が本社なのに原発そのものは茨城に立地させているうえ、あまんじてその苦労してつくってきた電力(ほかには食料や人材すら)を茨城からうけとって楽ばかりしている東京や神奈川の連中は、ながながと苦労をせおってきている茨城県域のわれらになんの感謝の念もまったくない。それどころかおなじ首都圏の茨城にあることさえしらないわけだ。完全に悪友である東京都と神奈川県というたましいのよごれきった下賎なスラムである南関東俗物界は、てつだってやるだけ世の害、いままでは茨城県民が好意からやってきた食料や人材を好意から今後あたえてやることなどはいうまでもなく、原発による電力のてだすけなど完全にやってあげているだけ損がふくらむとしかいい様がない事業なのである。

  また最初の資料をみると、原子力発電所というものは案外出力がひくく、はっきりいってわりがあわない発電装置であるとはっきりわかる。しかも危険はもっともたかいわけで、ない方がいいというのがあきらかだ。即刻廃炉にむけていくのが県民のためとかんがえていい。
 原子力発電所というのは電力の出力用ではなくて、単にCO2悪玉論という科学的かどうかさえあやしい面から要求された偶然の施設である、といえる。そしてこの出力量のなんということはなさは、十分ほかの種類の発電源でもまかなえる分であるかぎり、東海第二原発というのは廃止しようがまったく首都圏には悪影響がないと確約できる。かわりにもっと環境負荷と危険のすくない発電所を建設すればいいにすぎない。東海村にある東海第二原子力発電所の発電出力そのものが、おそらく実験炉という位置づけのためだろうが、すぐとなりの常陸那珂にある石炭発電所となんらかわらないのである。そんな中途半端なものをわざわざもっておきたい理由がまったくない。たとえば廃炉の技術がうんぬんといういいわけが政治方面からきこえるが、そんなものは全国にも全地球にもいくらでも原発が現につくられているし現にあるのだから、じもとにひとつもなかろうとなんの損でも不徳でもない。それをだれひとり非難しないだろう。そればかりか、率先して脱原発のさきがけになったとなれば平和主義者らから確実にほめてもらえる。そして原発がじもとにひとつもなかろうと、数十年ちかく延々とつづく廃炉作業が全世界のあちこちにのこっているかぎり、たとえば日立プラントテクノロジーや東海村の原発関連事業への従事者らにそれに類したしごとが地球からなくなることも最低でもあと百年以内にはありえない。むしろこれから、全地球規模で原発技術者はひっぱりだこになっていくだろう。しかし、地雷撤去の専門家みたいなものでじもとでの原発の有無とはまったく無関係だし、危険物はくらしのちかくにない方がいい。廃炉から計画における最大の安全率確保まで、いわば人類の安全圏をひろめるための専門家なのだから。
 それと、IAEAは核の平和利用を前提とした団体なので、燃料ウランの核兵器への転用は当然ここからの離脱が必要となり、さまざまな原子力機関への忠告や助言、情報提供もうけられないことになるから、はっきりいってそんなことはできない。そういった陰謀論じみたかんがえかたはすべて公然となって透明化されていないかぎり、また国家が公然としていないかぎりは不正、ゆえ国民にとってないものとみなすべきなのだ。
 勿論、ソーラーパネルの設置助成や風力といったもっとも自然にちかい発電装置をひろげていくことが、あきらかに政治的であるといえるだろう。最大多数の最高幸福が功利主義でいう政治の目的である。県民の安心をおびやかしながら、首都圏に危険施設を運転していく必要などまったくないばかりか、完全に損害しかないとさえいいきれる。そして金銭や経済というものは「いのちあってのものだね」であるかぎり、交付金ほしさに永遠につづくともいえるおおきな不安とたえざるいのちの危険をせおうのは、そればかりか土地財産を全部うしないかねない危険物を廃炉にむけていかずなんと逆に再稼動させていくのは、まことにおろかなこととしかいえない。一体、茨城県民とはそんなに判断力がなくおろかしくてすくえない、どう仕様もない賭博うちなのだろうか。

 生活大県というわれらが県知事の御発言と御展望はまことに煥発きわまりないが、県内の原子力発電所の廃止というのは当然その第一歩になるものであると期待する。また全世界に率先して日本初の商用炉をおこした歴史からおなじく、日本初の全面廃止をきめたあかつきには、地球人類の先端をはしる科学技術というものの希望と限界を甚大な事故がおこるまえに他山の石から学習した勇気とたかい技能、そして賢慮ある県民として、全国民をふくめた世界から茨城県へのその偉大な英知へのかぎりない賞賛とまぎれない名誉のかがやきを予想する。というより、この立派としかいいがたい最高の業績からはノーベル平和賞をもらえて当然といえよう。

 われらが県知事は東海第二原発の再稼働について、東海村議会、県議会、県安全対策委員会(委員長は岡本孝司東大院工学系研究科教授)のうち、1か所でも反対があれば再稼働を行わない、と御発言があったというツイッターの情報をみた。このうち、東海村議会は村長が健在であれば反対になるだろう。県の最北部にあるわれらとしては県議会での反対決議しかとれるてはないことになる。

茨城の近未来

「関東地域の食料自給率(関東農政局)」
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
にみられるとおり、茨城県と栃木県は食料自給率が70%をうわまわっている。それぞれ、茨城70%、栃木72%。茨城県と栃木県は食料自給の優等生なのがあきらかだ。

 ところが、東京1%、神奈川3%と、この南関東の2地域は日本の食料自給率、そして緊急時のそなえをおこたっている。こうしてみると、東京都と神奈川県は、その食料自給率について日本国に害を与えている「わるい地域」なのだ。
 おなじページから「主な先進国の食料自給率(関東農政局)」によれば日本の食料自給率は先進国で最低という惨憺たるありさまで、茨城や栃木が首都圏にあってもいかに優等生であり、全国の模範にたるかはあきらかである。だれもそれをみとめてはいないが、茨城県が全国第2位の農業生産高によって、このなさけない日本の首都圏を、栃木という同士をのぞけば、ほとんどたったひとりで改善しようとがんばって先導してきているのである。

そして東京や神奈川はこの日本人のひどい能なし状態のあしをさらにひっぱっている。都会自慢でスラムをふやし、なかんづく小国であるイギリスでも当然そうしている報国的な関税の法をなんと撤廃しようとする全面的TPPによって、つまりは日本社会の弱肉強食化によってわがくにの食料自給の努力を妨害し、報国哲学である水戸学を間接的にかろんじる神奈川出身の平山洋氏のごとく福沢諭吉の独立自尊のおしえをふみあやまって致命的に外国依存の体質をつくりだそうとする。
 一体、『帝範』による「農は国の本なり」、を徳たかくも忠実に実践していた水戸徳川家は烈公のまえで、いいかえればその伝統をつぐ茨城県民の御前で諸外国から経済制裁をうけて食料輸入がとざされ、大切なたみが餓死状態になったらどうするつもりなのだろうか。
 東京では東日本大震災のときすでにはなはだしい混乱におちいって、食糧難の被災地をさしおきながらあまっている食料かいしめ、あるいは供給もと茨城をさしおいてみずから東京を優先させる計画停電策という不徳かつ利己的でまことなさけない前例がある(当時の東京都知事は石原慎太郎)。おごれるものはひさしからず、東京や神奈川は、かれらの商業主義的な大都会化という状態を過信して、電気は茨城や福島等々からおくっているにもかかわらずその大衆報道をつかってまことにひどい偏見と悪意にみちみちた風説をながしてきたし、現にしている。特に東京はその食料や電気、人材を提供している茨城を魅力が最低と、単なる情報量の不足によるうそや無知と無理解でのぬれぎぬにみちた暴言をはきながらありとあらゆる資源をむさぼり、ながながと首都圏を「わるい地域」にしようとしているのである。これが東京ジャイアニズムといわれているものの本体だ。東京と神奈川は資本主義経済にあっては金融流動化の妄信、民主主義政治にあっては減反をすすめさせてようとしている。かれらは巨大な格差社会をつくりだす堕落した大消費都市にうまれそだったよごれた南関東の悪友らによって、きよらかな田園地帯がどこまでもひろがった北関東におけるふるきよき善良な風俗を悪化させたがっているし、つみぶかくも現に程度こそあれしてきた。要するに、大消費地である東京や神奈川は大生産地である茨城や栃木の印象を悪意をもっておとしめながら食料や原発、あらゆる負担をおしつけている。東京や神奈川は虚栄にそまった傲慢きわまる言動で金と権力を濫用しながら日本と世界に害をあたえ、茨城や栃木のよのためひとのため正直なおこないの邪魔をしているのだ。これは日本国のなかにかくされた巨大な罪業のしくみともいえるだろう。そして東京や神奈川は政府にかけあい減反させることでこめをはじめとした国内の食料を悪意をもってたかくし、なおかつ地方からの人材と電気の搾取でもうけたかねをひとりじめ浪費するばかりか権力を濫用するのにもちいて、非生産的で堕落し、おちぶれた虚栄をたくましくさせるという悪風をうみだしているので、わがくに不経済のねであるのもうたがい様がない。
 東京や神奈川は消費、茨城や栃木は生産であるかぎり、東京や神奈川は悪、茨城や栃木は善である。東京や神奈川がなくともひとびとは生活できるが、茨城や栃木がなくてはたべものや電気さえなくなるのでひとびとは生活できなくなるからだ。日本国と世界にとって、東京や神奈川はかるく、茨城や栃木はおもい。

 いままで、マスメディアですさまじいまでにカウントリーサイドである茨城や栃木への名誉毀損がおこなわれてきた。特に魅力度調査という東京にある総合ブランド研究所でおこなわれているネット風説にたぐいした情報源から、茨城ははなはだしい風評被害をうけたきた。その経済損失ははかりしれない。
 勇敢な茨城と栃木の500万人は、この事実をはっきりとおおやけにうったえて、原発をつくらせその廃棄物で電気や土地だけでなく、たべものや一番大事な人材まで搾取する「わるい地域」である極悪洗脳主体・東京と神奈川の2200万人へ、できたらたくみに抗議していかなければならない。これは、実は漫然とおこなわれてきた搾取へたちむかう、このよの正義をただす政治闘争なのである。

 関西広域連合にくらべても、この労働者が密集した東京と神奈川の無知ははなはだしいわけで、いってみれば京都にたぐいした茨城に対して大阪や兵庫の様な状況を呈している。おそらく「関東広域連合」として、食料がゆたかな北部と人口がおおい南部はともにてをたずさえていくのがよいのだろう。ところが、東京や神奈川には石原慎太郎の様に関西圏からはいってきた関東に親和性のない人物がまぎれこみ、内部を撹乱させているのが観察できる。
 関東一円の統合をおもんじられた権現公は、まな息子である御三家を茨城県すなわち常陸の国は水戸に、墓所は栃木県すなわち下野の国日光に位置づけられたのにもかかわらず、である。これは日本の歴史を大きく展開させてきた東国武士層の勢力を重視した結果だろう。
 関西からの陰謀をさけさせるに最善なのは、イギリスにおいて事実上の首都であるロンドンからすこしきたに皇居があるバッキンガムシャーを参考に、尊皇のほまれたかい水戸へわが皇室の御居場所をうつらせたまうことである。はるか古代、鹿島立ちの時代から幕末をへて、戦中に幾多の犠牲をはらいながら、常陸国府時代よりかわらず尊皇のたましいをつらぬいた水戸の風をほまれにおもわれた昭和天皇敗戦後第一の御製。

たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちおともたかくきこえて

 こうして、日本最大の経済地域であるほかない関東諸地域は道州制をもちいる関西広域連合からしくまれているはず内紛と、南北の分断による首都圏弱体化の悪意をまぬがれ、和を以て貴しとなし、ともにてをたずさえて維持され発展していくだろう。ふるいつきあいのある兄弟分として人口分散というはじめの目的も、これで政治の中枢としての東京都と矛盾なくまとまるはずである。日本人がカウントリーサイド、田園側を愛したまい、いつくしい自然との調和をとうとび、イギリス人の様に品性のたもたれたなかまになることをわたしはのぞむ。

2013年2月8日

全員検査の権利と、アンコウの検出値の明白な数値化

 市民の被曝量の全員検査を北茨城市もおこなうべき。その費用は、もとから東京電力株式会社の公害で検査が必要になったのだから、東京電力株式会社へ市から請求されるべきだ。また市外へ転居したひとも同様の権利をうけるべきだ。
 すでに茨城県の牛久市や、福島県民では同様の権利を獲得しており、検査の結果福島県民で最大が30mSv(これは100mSvの被曝量で野菜不足と同等の健康リスクなので、あきらかにその3分の1以下のリスクとして十分な安全範囲になる)、茨城県の牛久市では検出されなかったとあるので、こういった全員検査が市民の安心をうみだす根拠になるのはまちがいない。そして市内に定住しても被害がない、あるいは市内で家庭をもっても安全であるとはっきりすることになるのだから、人口増につながるのがまちがいない。となりのいわき市では、福島県民の単位で全員検査がされるのにくらべ、すぐとなりの町になっただけでなんの権利もないというのはあまりにおかしい。

 市の単位で有名な美味としてのアンコウなべも、このアンコウの放射能検出量をはっきりと明示すべきだ。基準値以上なら出荷できないかぎり、どうせすべてのアンコウは基準値以下なのだから、はっきり明示した方が食するひとにとっては安心できる。

 このどちらのばあいにも、行政や市場を構成する漁業関係者の怠慢がなせるわざなのかもしれないが、グレーゾーンのままにして曖昧にしてしまうのがもっともよくない。動植物が基準値以上なら出荷できないし、人間の被曝量が非常にたかければ保障をうけて出産しない方がいいかもしれないのだ。後者のばあいは、放射能のプルームがいわき市と北茨城市の範囲でうみがわからもっとみなみへふきぬけたらしいという事故から数日以内のかざむきの条件から、われらの地域のおかれてきた市内環境ではたしかにほぼゼロまたは福島県の立ち入り禁止地域内から直接避難してきたひとにのみいくらかの可能性がある程度なのが科学的には予想できるにせよ、現実にしっかり検査してみて、はっきりした数値として目に確認できることが真に安心につながる。

景観

 市内の電線地中化、すくなくとも中心市街地はさきにそれをすべき。