2020年1月26日
撥音便は日本語一般にあるため訛り扱いして差別的言動を取る人々は単に知能が低いか悪意がある
撥音便は日本語で普通の現象だから県名で茨城(県民)以外に宮城・栃木・神奈川なども本来はミヤキ、トチキ、カナカワと読む。音便があっても通じる。清音が正式なイバラキをイバラギと呼んで侮辱している人達は撥音便を知らない無知を晒しながら無意味に地域差別している意味で二重に暗愚である。
2020年1月23日
東京都民全般及び東京圏観光客は茨城空港の利用者から積極排除すべし
東京都民なんて腐るほどカネ貪って原発までおしつけ差別まきちらしてる強欲の極悪衆愚なんだから7500万も補助してやる必要一切ない。寧ろ進んで排除すべし。
茨城空港は茨城県民の利便を第一に考え、第二に関東北部の乗客の為にあるものなのだから、南関東の下衆と永久に縁きればよい。すばらしい。
東京都民全般みたいな茨城への差別主義者なんて、民度からいっても公害でしかないんだから、どんどん排除でよい。ヘイトスピーチ法の趣旨にも叶う。
茨城・関東北部への観光に興味がない人は羽田・成田で十分。どうせ都民なんて利己しか頭にないのだから、大井川氏の東京観光への補助廃止決断が100%正しい。下衆は排除。
ここ(NHK水戸放送局の該当ツイート)の返信欄みてても明らかだろう。下衆なんてよびよせてはいけない。民度が東京レベルに下がってしまう。都民全般なんて、原発公害みたらわかるよう中華思想の塊である。そんな外道どもの為に大事な県税使うなかれ。
こいつら、どうみても利己しか頭にない。他県の足元見てる品性下劣な東京圏住民またはヤクザに違いない。他県民の金で500円で移動させてもらっていたのに感謝の一つも述べない極悪人なぞわざわざ補助してやるべきではないだろう。カネ払わず茨城県民を差別までしてきてやがる。条例作って処刑でいい。
今後は、茨城には世界中の大金持ちしか旅行できなくしていくべし。高が移動代ケチって、他県民様のカネむさぼって、感謝の念一つ述べず500円しか払わないだけでも品性下劣の極み。傲慢きわまりない典型的東京圏貧民どもは、わが県に一円の利益ももたらさないではないか。それだけでなく差別の元凶だ。
これまで50年以上も原発で散々電気を融通してやっていたのにこれほど驕慢な衆愚を抱える東京圏なぞ近い将来滅亡することは神の目でなくとも明らかなことだ。わが偉大なる県は金輪際、東京圏に関わるな。他県民税を貪る目的で東京圏民の品性下劣な吝嗇ぶりに媚を売る下衆どもにも天罰が下るであろう。
茨城空港は茨城県民の利便を第一に考え、第二に関東北部の乗客の為にあるものなのだから、南関東の下衆と永久に縁きればよい。すばらしい。
東京都民全般みたいな茨城への差別主義者なんて、民度からいっても公害でしかないんだから、どんどん排除でよい。ヘイトスピーチ法の趣旨にも叶う。
茨城・関東北部への観光に興味がない人は羽田・成田で十分。どうせ都民なんて利己しか頭にないのだから、大井川氏の東京観光への補助廃止決断が100%正しい。下衆は排除。
ここ(NHK水戸放送局の該当ツイート)の返信欄みてても明らかだろう。下衆なんてよびよせてはいけない。民度が東京レベルに下がってしまう。都民全般なんて、原発公害みたらわかるよう中華思想の塊である。そんな外道どもの為に大事な県税使うなかれ。
こいつら、どうみても利己しか頭にない。他県の足元見てる品性下劣な東京圏住民またはヤクザに違いない。他県民の金で500円で移動させてもらっていたのに感謝の一つも述べない極悪人なぞわざわざ補助してやるべきではないだろう。カネ払わず茨城県民を差別までしてきてやがる。条例作って処刑でいい。
今後は、茨城には世界中の大金持ちしか旅行できなくしていくべし。高が移動代ケチって、他県民様のカネむさぼって、感謝の念一つ述べず500円しか払わないだけでも品性下劣の極み。傲慢きわまりない典型的東京圏貧民どもは、わが県に一円の利益ももたらさないではないか。それだけでなく差別の元凶だ。
これまで50年以上も原発で散々電気を融通してやっていたのにこれほど驕慢な衆愚を抱える東京圏なぞ近い将来滅亡することは神の目でなくとも明らかなことだ。わが偉大なる県は金輪際、東京圏に関わるな。他県民税を貪る目的で東京圏民の品性下劣な吝嗇ぶりに媚を売る下衆どもにも天罰が下るであろう。
2020年1月10日
東京国政や京都の首都のっとり陰謀は無視して茨城県政を国家規模にするのに注力し結果として救国すべし
宮本エリアナっていう人が、BBCインタビューで「日本が好き」といってて、まあミスなんとかだからいうのかもしれないけど、よくこんな国好きになれるよねと思って、僕はかなりびびった。
しかしこの意味で、今みたいな最悪国政みてて日本好きなれるひとは向いてるんだろう。
「日本を好き」と公言できる人って、今のこの国の状況でそういえる判断の持ち主なんだから、多分、よほどひどい目にあっても好きだといえるんだろう。そのウチラすごい根性(現実から目を背ける極端な自己愛?)みたいなのをもってる人しか今の日本で子供産もうと主体的には決して思えないだろうし。
アフリカの人って遺伝子がよい意味で違って、奴隷制の下でも明るく笑ってたのでは? セロトニン恒常値とか大分違うのでなければ今の傾国状況を悲観しないとかありえない。
既存の極東人の知能にとってIQと安心はトーレドオフだったはずだから、ある意味、日本人もアホが殖えやすいのは自然と思う。
アホは明日の心配もしなければ安倍サンシカイナイ、とかすら思わず、なんも考えず深夜アニメみてプゲプゲいって、荒野行動やってプゲプゲいって、スノウ交換してプゲプゲいって、ミルのいう「満足した豚」として自己奴隷化しまくって社畜になりまくるのが趣味みたいなもんなんだから、日本に向いてる。
逆にこの国に向いてないのは、賢い人とか、善良な人、将来を見通せる人だろう。だってそういう人からしたらアホ首相が悪政三昧で、アメリカ属国化されてゴミ捨て場にされてるわ、カネ搾取も税収奪もひどいし、洗脳目的の差別を東京民が流すから地獄じみた都会の満員電車につめこまれて全員発狂だし。
賢い人、善い人ほど生きづらいとか、正真正銘の地獄じゃなかろうか? 馬鹿と悪人が全力で日本人デヨカッタとかいってても、いやお前らが消えれば随分よい国になるんだが、としかいえないのでは?
消えればいいやつほど「普通の日本人」と称する。
ナショナリズムほど邪悪な思想ってそうそうない。
別に日本にいなくても「普通の日本人」って、海外のどこの国でも迷惑だと思う。現地で差別まきちらすしかできないんだもの。
なんでそんな迷惑な人達が愛国ぶるのか? 性格悪いやつほど他人に迷惑かけても恥じないのと同じだけかと思うけど。
恐らく自殺してしまった人のほうが善良だったのでは?
あと拝金商人も全体として迷惑なんだが、当人達は威張りまくってるので解せない。お前らがカネをむさぼってなんでこっちが喜ぶと思ってるの? お前らが市場にあるカネを寡占するほど他人には迷惑に決まってるでしょ。だから嫌われるに決まってるのに、なんで金儲けを自慢してしまうのか? アホなの?
商人自体、大体、好かれてた時代って基本的にないだろ。一番商人気質が激しかったのって多分オランダとアメリカと思うが、オランダへは性悪イギリスが戦争勝ってから悪口いってたし(もとオラニエ公の王のくせに)、アメリカも世界一嫌われてる。
東京も京阪も嫌われ者なのは商売第一だからでしょ。
僕は一体なんで今の民衆がショウバイショウバイいってるか調べてやろうと思って調べつくした。結果わかったのは、彼らはアホだってことですよ。民衆は本当に頭が悪い。頭だけでなく性格もしぬほど悪い。というか、サルとほぼ同じ程度の知能しかない。サルのほうがまだ賢い。利己心でカネカネいってる。
日本人民衆がカネに目がないのはなんでなのか? なんで毎日、金儲けの為に必死なのか、なぜ社畜至上主義で商売やってない人を全力差別しているのか、これ、調べたらすぐわかるけど彼らがただの利己的な類人猿もどきだからですよ。自分の利己心をおさえられないし、他人も自分と同じと勘違いしている。
つまりね、上述のハーフ? の女性かなんかが日本好きとかいってるのは、その人が楽観的だからでしょ、きっと。それかお世辞。
しかし日本は嫌いになるだけの理由しかない国だよ。
「お上」もろくでなしだし、「民草」もヤクザなあきんどなんだから。しかも先ず以て全員。例外みたことないんだから。
日本といってるが、正確に言うと、東京・神奈川・千葉・埼玉あたりと、京都・大阪・神戸あたりと、名古屋あたりと、福岡あたりと、仙台あたりと札幌あたりだろうけどね。商売人ばっかり集まって卑しい振る舞いばかりしてるのは。ホームレスとかそういう都会にしか基本いないからね。差別されてるので。
宮本なんちゃらって人は、日本好きなんでしょう。僕は恐ろしく嫌いですね。だってうまれてから今まで一度も、一定水準より善良だったり賢かったりする人みたことがないんだもの。代わりに極悪人とサイコパスなら腐るほどみたし、賢い人だってまずいないというか1人もみたことないよ。冗談抜きで。
思うに、善人には善人の国、賢者には賢者の国があるんじゃないだろうか? 国じゃなくて県とかの単位でもいえるかもしれない。僕は東京は住むの無理だった。都政が余りに幼稚でびっくりしちゃって、MXとかいう民放みたら余りの下品さに面食らって、茨城のほうが遥かに質の高い社会だったのに悟った。
NHK水戸とか茨城新聞を、もし都民が読んだら、余りに中身が善良で平和で、上品なので、びっくりして反省なり尊敬するかと思えば、都民って全体として傲慢なだけにダニクル効果で馬鹿なんだよね。その意味で永遠にあのままじゃないか。千年後もいまの京都人みたいに空威張りしてると思う、嘘抜きで。
イギリスの人がアメリカみてあきれ返ったり、ノルウェーの人がアメリカみて小馬鹿にしたり、フランスの人がアメリカみてまたアメリカのやつかと思う。これと相当同じ感情は、茨城人も東京に対して感じられる。民度が低いほうが威張ってるからね。千年後もそうだと思う。民度は変わらないのではないか?
そうであれば、日本政府とかいう東京だの京都だの奈良だのにあった天皇の私的機関。あれも馬鹿みたいな侵略自慢ばっかりして腐敗政治ばっかりしていたが、やっぱ、残存してしまえば将来的にもくだらねー組織のままなんじゃないだろうか? 幕府が暫く改革したがやっぱ無能な世襲天皇くるとダメになる。
逆にいうと幕府って本当にえらかったんだなと。今でいうなら茨城県庁くらいのものが、中央政府が腐敗してるからといって自分で国政単位の事を少ない予算の中で考え、腐敗政治家を無力化していったんだから。なんて偉いのでしょう。武士たちは。やはり関東人は偉かったのだなと改めて大いに感心する。
平安京の受領とか、いまでいうアベトモでしょ。そんなのが国政ロビーで散々っぱら懐にカネいれて女遊びしかしていない。まさに源氏物語の世界。だから源平があらわれ、将門あらわれ、まともな政治をやりなおしていったわけでしょ。足利はさんで徳川まで。
ということは、まだ希望はあるね。
いまでいう東京政府(日本政府、都庁)が完全に腐ってんだから、なにせ福島潰して皇族が賄賂五輪招致するわ、それでまた経済効果ねらって原発暴利の自慢しながら再稼動要請してくるわ、本当に悪政しかしないからね。そんなの潰して当然なわけだから、いずれかの県庁が頑張ってぶっ倒すしかないんだよ。
茨城県庁は大井川氏が自民の飼い犬みたいに権力にぎってナアナアにしてるけど、これは非常によくないね。だって受領政治にこびうって権益頂戴みたいな態度だよ。
全国知事会を牛耳って国政倒す、代替するところまでいかないといけない。源氏長者から足利幕府からみんなそうだったんだから。
国家百年、千年の計と考えて、僕がいっておくが、茨城県庁が将来の首都を握らないといけないよ。このまま国政があれだけ腐敗しきってたら福島潰してケラケラ笑って「東北復興なんて無用だ! 何もなかったんだ!」とかゴミビルの間で悪徳あきんど都民がいってるんだから。どうみても東京潰すしかない。
しかしね、京都市長の門川と、京都府知事は連携しながら、文化庁や皇族をひっぱりこんで首都をなのりだそうとしてるんだよね、前から。都民もアホだから自分から文化庁わたして観光できてラッキーとかいってるが、庇を貸して母屋をとられる方式なのに気づいていない。
この動きもよく注意すべき。
京都人は中華思想しか目的ないから、首都が東京にうつってからも奠都や~とか天皇はんいつお帰りにならしゃいますのやらとか、挙句に文化首都や~とかプライド満たすためにあらゆる画策していると。京大スゴイ東大ザコイのノーベル賞ディスもその一部だし。
基本的には完全無視でいいと思うよ。
茨城人としては、国政をきちんと政治道徳にのっとってしっかりやってほしいだけだからね。徳政が目的みたいなもんだ。法もきちんと公徳にのっとって運用してほしいわけだ。だってこっちには水戸の徳川家という立派な模範がいて、愛民政治をしていたのだから。官民一致の先例がある。
京都人は中華思想で全国差別しながら自分スゴイと威張りたいだけ。中世から何も変化はない。根底にある民情がそんなだから千年後も空威張ってるはずです。相手にするのがよくない。虚勢はりたければどうぞご勝手にって感じで外人の観光公害でも受けてればいい話で、国政も彼らからすると差別の道具と。
「文化庁あるんや~、だからこっちが文化首都や! 全国のイナカモンどもはこうべを垂れてひれ伏したらよろしおすえ」に次ぎ「皇族がたが住んではる京都こそ、やっぱり首都やんなあ。東京なんてエビスの住まう野蛮の地、文化もなければミカドもいらっしゃらない、ただの荒地や。クゲケ」といいたいの。
茨城人は、当然だけれどもそんな中華思想だの自文化中心主義だのは持っていない。まあ水戸が徳川家の遺風で若干、県内で覇権ぶる場合があるが、それでも東京千代田区・港区や京都市ほどではないだろう。むしろその種の空威張り度からいったら仙台とか大阪のがはるかに激しい。京都を反面教師にすべき。
私の県としては、中長期的に、茨城県庁が新政府・幕府状態で国政単位の仕事を実質的に代替できることが目的であるべきだ。腐敗した東京国政はあのまま放置してたら勝手に没落するとみられるし、これは平安京がつぶれたのと全く同じでしょう。
茨城単位で経済成長率と民度を高めるのに注力すべきだ。
もう国政を応援するのはやめて、茨城県政に全力を使い、「日本国王」こと将軍が外交してたのと同じ状況を現出するべきだ。というかそれ以外の仕方でこの亡国危機をのりきる方法がないと思う。
大井川氏は経済成長率たかめる中継ぎみたいなことしたいんだろうが、自由主義を学び政経分離してほしい。
計画経済が不可能なんてハイエクからずっと知られてた話で米英が日独に勝利した真因なのになんで未だに学ばない。大井川さんはまともにマクロ経済学をやり直したほうがいい。まあ彼が仕事しながら学ぶのは困難だから、少なくともハイエクとフリードマンをウィキとかで概略確認したらいい。
ま、彼が退陣後につぎの知事がしっかり経済学やった人だったらまだましだから数年我慢するほうがいいのかもしれない。どんどん県の事業なんて畳んで民間委託したらいいのである。
今後の課題としては県税の予算だけでも国家規模を超えることだ。金融中心の県にしたらいい。ルクセンブルクが模範だ。
もし日本単位が嫌いでも、そんなの東京が首都、あるいは京都が首都モドキなのって性悪な馬鹿の癖に全国民をみくだしてきて、彼らがいばりちらしてるかぎりしょうがない。だれだって差別されて嬉しいやつなんていない。差別はする側が100%悪い。彼らが滅びきるまで着実に歩を進めるべきである。
茨城がきちんとした国政を代替できる様になって、新政府が実質的に成立したら、京都や東京のやってきた悪政を反面教師に、できるだけ全国全ての自治体を等しく扱う、平等な政治をする。大体、差別は非常に卑しい事なのだから中華思想に耽るのは悪の起源といってもいい。天皇も要らぬ。差別の起源だ。
自分は水戸にその種の新政体を樹立させるべく、新国会議事堂を勝手に設計していた。2016年の『全国知事会議事堂』。
これは平等の象徴だ。全ての自治体を等しく扱う。今でいうレイクボウルの跡地から黄門像のあたりに建てようと考えた。
全国知事会を国会に代替して、国会を無力化するのだ。そうすれば中期的に国会議員を0にできる。全国知事が国会議員を代替すればよい。腐敗した国政を直すには第一に、県知事の単位でしっかりした人物を各県が選べればなんとかなる。東京都知事一人がダメだろうがそれは47分の1人にすぎないからだ。
冷静に見れば、腐ってるのは東京国政であって、あるいは京都市・京都府の文化中華思想であって、まあ他にも大阪府と市の維新支配とか愛知県と名古屋市の左右バトルとか懸念もあるが、いわゆる大都市しか多かれ少なかれ腐っていない。健全な田舎のほうが不当に貶められてるが事実は全く逆だろう。
すなわち中長期的に、50年~100年以上でみて、自分が構想した全国知事会による国政代替でまだ救える。なぜなら、47分の2とか4とかその程度の腐敗なんて、ほかの43県の一般国民がしっかりしてれば多数決で潰せるんだから。これが唯一の希望で、確実に勝てる以上、勝負どころと自分は思う。
国会議員は比例代表とかいって都会人が沢山数を送り込めてしまうので、アホの意見が通りやすくなっている。都会のほうが一般に、民度がピラミッド状になっていて、数として底辺になるアホが多い。したがって都会でタレント知事が出現しやすいわけだ。京都はワル知恵で妨害してくるだろうが無視すべし。
しかしこの意味で、今みたいな最悪国政みてて日本好きなれるひとは向いてるんだろう。
「日本を好き」と公言できる人って、今のこの国の状況でそういえる判断の持ち主なんだから、多分、よほどひどい目にあっても好きだといえるんだろう。そのウチラすごい根性(現実から目を背ける極端な自己愛?)みたいなのをもってる人しか今の日本で子供産もうと主体的には決して思えないだろうし。
アフリカの人って遺伝子がよい意味で違って、奴隷制の下でも明るく笑ってたのでは? セロトニン恒常値とか大分違うのでなければ今の傾国状況を悲観しないとかありえない。
既存の極東人の知能にとってIQと安心はトーレドオフだったはずだから、ある意味、日本人もアホが殖えやすいのは自然と思う。
アホは明日の心配もしなければ安倍サンシカイナイ、とかすら思わず、なんも考えず深夜アニメみてプゲプゲいって、荒野行動やってプゲプゲいって、スノウ交換してプゲプゲいって、ミルのいう「満足した豚」として自己奴隷化しまくって社畜になりまくるのが趣味みたいなもんなんだから、日本に向いてる。
逆にこの国に向いてないのは、賢い人とか、善良な人、将来を見通せる人だろう。だってそういう人からしたらアホ首相が悪政三昧で、アメリカ属国化されてゴミ捨て場にされてるわ、カネ搾取も税収奪もひどいし、洗脳目的の差別を東京民が流すから地獄じみた都会の満員電車につめこまれて全員発狂だし。
賢い人、善い人ほど生きづらいとか、正真正銘の地獄じゃなかろうか? 馬鹿と悪人が全力で日本人デヨカッタとかいってても、いやお前らが消えれば随分よい国になるんだが、としかいえないのでは?
消えればいいやつほど「普通の日本人」と称する。
ナショナリズムほど邪悪な思想ってそうそうない。
別に日本にいなくても「普通の日本人」って、海外のどこの国でも迷惑だと思う。現地で差別まきちらすしかできないんだもの。
なんでそんな迷惑な人達が愛国ぶるのか? 性格悪いやつほど他人に迷惑かけても恥じないのと同じだけかと思うけど。
恐らく自殺してしまった人のほうが善良だったのでは?
あと拝金商人も全体として迷惑なんだが、当人達は威張りまくってるので解せない。お前らがカネをむさぼってなんでこっちが喜ぶと思ってるの? お前らが市場にあるカネを寡占するほど他人には迷惑に決まってるでしょ。だから嫌われるに決まってるのに、なんで金儲けを自慢してしまうのか? アホなの?
商人自体、大体、好かれてた時代って基本的にないだろ。一番商人気質が激しかったのって多分オランダとアメリカと思うが、オランダへは性悪イギリスが戦争勝ってから悪口いってたし(もとオラニエ公の王のくせに)、アメリカも世界一嫌われてる。
東京も京阪も嫌われ者なのは商売第一だからでしょ。
僕は一体なんで今の民衆がショウバイショウバイいってるか調べてやろうと思って調べつくした。結果わかったのは、彼らはアホだってことですよ。民衆は本当に頭が悪い。頭だけでなく性格もしぬほど悪い。というか、サルとほぼ同じ程度の知能しかない。サルのほうがまだ賢い。利己心でカネカネいってる。
日本人民衆がカネに目がないのはなんでなのか? なんで毎日、金儲けの為に必死なのか、なぜ社畜至上主義で商売やってない人を全力差別しているのか、これ、調べたらすぐわかるけど彼らがただの利己的な類人猿もどきだからですよ。自分の利己心をおさえられないし、他人も自分と同じと勘違いしている。
つまりね、上述のハーフ? の女性かなんかが日本好きとかいってるのは、その人が楽観的だからでしょ、きっと。それかお世辞。
しかし日本は嫌いになるだけの理由しかない国だよ。
「お上」もろくでなしだし、「民草」もヤクザなあきんどなんだから。しかも先ず以て全員。例外みたことないんだから。
日本といってるが、正確に言うと、東京・神奈川・千葉・埼玉あたりと、京都・大阪・神戸あたりと、名古屋あたりと、福岡あたりと、仙台あたりと札幌あたりだろうけどね。商売人ばっかり集まって卑しい振る舞いばかりしてるのは。ホームレスとかそういう都会にしか基本いないからね。差別されてるので。
宮本なんちゃらって人は、日本好きなんでしょう。僕は恐ろしく嫌いですね。だってうまれてから今まで一度も、一定水準より善良だったり賢かったりする人みたことがないんだもの。代わりに極悪人とサイコパスなら腐るほどみたし、賢い人だってまずいないというか1人もみたことないよ。冗談抜きで。
思うに、善人には善人の国、賢者には賢者の国があるんじゃないだろうか? 国じゃなくて県とかの単位でもいえるかもしれない。僕は東京は住むの無理だった。都政が余りに幼稚でびっくりしちゃって、MXとかいう民放みたら余りの下品さに面食らって、茨城のほうが遥かに質の高い社会だったのに悟った。
NHK水戸とか茨城新聞を、もし都民が読んだら、余りに中身が善良で平和で、上品なので、びっくりして反省なり尊敬するかと思えば、都民って全体として傲慢なだけにダニクル効果で馬鹿なんだよね。その意味で永遠にあのままじゃないか。千年後もいまの京都人みたいに空威張りしてると思う、嘘抜きで。
イギリスの人がアメリカみてあきれ返ったり、ノルウェーの人がアメリカみて小馬鹿にしたり、フランスの人がアメリカみてまたアメリカのやつかと思う。これと相当同じ感情は、茨城人も東京に対して感じられる。民度が低いほうが威張ってるからね。千年後もそうだと思う。民度は変わらないのではないか?
そうであれば、日本政府とかいう東京だの京都だの奈良だのにあった天皇の私的機関。あれも馬鹿みたいな侵略自慢ばっかりして腐敗政治ばっかりしていたが、やっぱ、残存してしまえば将来的にもくだらねー組織のままなんじゃないだろうか? 幕府が暫く改革したがやっぱ無能な世襲天皇くるとダメになる。
逆にいうと幕府って本当にえらかったんだなと。今でいうなら茨城県庁くらいのものが、中央政府が腐敗してるからといって自分で国政単位の事を少ない予算の中で考え、腐敗政治家を無力化していったんだから。なんて偉いのでしょう。武士たちは。やはり関東人は偉かったのだなと改めて大いに感心する。
平安京の受領とか、いまでいうアベトモでしょ。そんなのが国政ロビーで散々っぱら懐にカネいれて女遊びしかしていない。まさに源氏物語の世界。だから源平があらわれ、将門あらわれ、まともな政治をやりなおしていったわけでしょ。足利はさんで徳川まで。
ということは、まだ希望はあるね。
いまでいう東京政府(日本政府、都庁)が完全に腐ってんだから、なにせ福島潰して皇族が賄賂五輪招致するわ、それでまた経済効果ねらって原発暴利の自慢しながら再稼動要請してくるわ、本当に悪政しかしないからね。そんなの潰して当然なわけだから、いずれかの県庁が頑張ってぶっ倒すしかないんだよ。
茨城県庁は大井川氏が自民の飼い犬みたいに権力にぎってナアナアにしてるけど、これは非常によくないね。だって受領政治にこびうって権益頂戴みたいな態度だよ。
全国知事会を牛耳って国政倒す、代替するところまでいかないといけない。源氏長者から足利幕府からみんなそうだったんだから。
国家百年、千年の計と考えて、僕がいっておくが、茨城県庁が将来の首都を握らないといけないよ。このまま国政があれだけ腐敗しきってたら福島潰してケラケラ笑って「東北復興なんて無用だ! 何もなかったんだ!」とかゴミビルの間で悪徳あきんど都民がいってるんだから。どうみても東京潰すしかない。
しかしね、京都市長の門川と、京都府知事は連携しながら、文化庁や皇族をひっぱりこんで首都をなのりだそうとしてるんだよね、前から。都民もアホだから自分から文化庁わたして観光できてラッキーとかいってるが、庇を貸して母屋をとられる方式なのに気づいていない。
この動きもよく注意すべき。
京都人は中華思想しか目的ないから、首都が東京にうつってからも奠都や~とか天皇はんいつお帰りにならしゃいますのやらとか、挙句に文化首都や~とかプライド満たすためにあらゆる画策していると。京大スゴイ東大ザコイのノーベル賞ディスもその一部だし。
基本的には完全無視でいいと思うよ。
茨城人としては、国政をきちんと政治道徳にのっとってしっかりやってほしいだけだからね。徳政が目的みたいなもんだ。法もきちんと公徳にのっとって運用してほしいわけだ。だってこっちには水戸の徳川家という立派な模範がいて、愛民政治をしていたのだから。官民一致の先例がある。
京都人は中華思想で全国差別しながら自分スゴイと威張りたいだけ。中世から何も変化はない。根底にある民情がそんなだから千年後も空威張ってるはずです。相手にするのがよくない。虚勢はりたければどうぞご勝手にって感じで外人の観光公害でも受けてればいい話で、国政も彼らからすると差別の道具と。
「文化庁あるんや~、だからこっちが文化首都や! 全国のイナカモンどもはこうべを垂れてひれ伏したらよろしおすえ」に次ぎ「皇族がたが住んではる京都こそ、やっぱり首都やんなあ。東京なんてエビスの住まう野蛮の地、文化もなければミカドもいらっしゃらない、ただの荒地や。クゲケ」といいたいの。
茨城人は、当然だけれどもそんな中華思想だの自文化中心主義だのは持っていない。まあ水戸が徳川家の遺風で若干、県内で覇権ぶる場合があるが、それでも東京千代田区・港区や京都市ほどではないだろう。むしろその種の空威張り度からいったら仙台とか大阪のがはるかに激しい。京都を反面教師にすべき。
私の県としては、中長期的に、茨城県庁が新政府・幕府状態で国政単位の仕事を実質的に代替できることが目的であるべきだ。腐敗した東京国政はあのまま放置してたら勝手に没落するとみられるし、これは平安京がつぶれたのと全く同じでしょう。
茨城単位で経済成長率と民度を高めるのに注力すべきだ。
もう国政を応援するのはやめて、茨城県政に全力を使い、「日本国王」こと将軍が外交してたのと同じ状況を現出するべきだ。というかそれ以外の仕方でこの亡国危機をのりきる方法がないと思う。
大井川氏は経済成長率たかめる中継ぎみたいなことしたいんだろうが、自由主義を学び政経分離してほしい。
計画経済が不可能なんてハイエクからずっと知られてた話で米英が日独に勝利した真因なのになんで未だに学ばない。大井川さんはまともにマクロ経済学をやり直したほうがいい。まあ彼が仕事しながら学ぶのは困難だから、少なくともハイエクとフリードマンをウィキとかで概略確認したらいい。
ま、彼が退陣後につぎの知事がしっかり経済学やった人だったらまだましだから数年我慢するほうがいいのかもしれない。どんどん県の事業なんて畳んで民間委託したらいいのである。
今後の課題としては県税の予算だけでも国家規模を超えることだ。金融中心の県にしたらいい。ルクセンブルクが模範だ。
もし日本単位が嫌いでも、そんなの東京が首都、あるいは京都が首都モドキなのって性悪な馬鹿の癖に全国民をみくだしてきて、彼らがいばりちらしてるかぎりしょうがない。だれだって差別されて嬉しいやつなんていない。差別はする側が100%悪い。彼らが滅びきるまで着実に歩を進めるべきである。
茨城がきちんとした国政を代替できる様になって、新政府が実質的に成立したら、京都や東京のやってきた悪政を反面教師に、できるだけ全国全ての自治体を等しく扱う、平等な政治をする。大体、差別は非常に卑しい事なのだから中華思想に耽るのは悪の起源といってもいい。天皇も要らぬ。差別の起源だ。
自分は水戸にその種の新政体を樹立させるべく、新国会議事堂を勝手に設計していた。2016年の『全国知事会議事堂』。
これは平等の象徴だ。全ての自治体を等しく扱う。今でいうレイクボウルの跡地から黄門像のあたりに建てようと考えた。
全国知事会を国会に代替して、国会を無力化するのだ。そうすれば中期的に国会議員を0にできる。全国知事が国会議員を代替すればよい。腐敗した国政を直すには第一に、県知事の単位でしっかりした人物を各県が選べればなんとかなる。東京都知事一人がダメだろうがそれは47分の1人にすぎないからだ。
冷静に見れば、腐ってるのは東京国政であって、あるいは京都市・京都府の文化中華思想であって、まあ他にも大阪府と市の維新支配とか愛知県と名古屋市の左右バトルとか懸念もあるが、いわゆる大都市しか多かれ少なかれ腐っていない。健全な田舎のほうが不当に貶められてるが事実は全く逆だろう。
すなわち中長期的に、50年~100年以上でみて、自分が構想した全国知事会による国政代替でまだ救える。なぜなら、47分の2とか4とかその程度の腐敗なんて、ほかの43県の一般国民がしっかりしてれば多数決で潰せるんだから。これが唯一の希望で、確実に勝てる以上、勝負どころと自分は思う。
国会議員は比例代表とかいって都会人が沢山数を送り込めてしまうので、アホの意見が通りやすくなっている。都会のほうが一般に、民度がピラミッド状になっていて、数として底辺になるアホが多い。したがって都会でタレント知事が出現しやすいわけだ。京都はワル知恵で妨害してくるだろうが無視すべし。
2019年12月26日
交通事故をへらした効果実証済みの自転車道の絵文字
以下のよう路面の絵文字を整備することで、大幅に京都市で交通事故がへったらしい。
道路の実延長が日本最大規模で、交通事故も決して少なくないわが県は、全面で大いにまねるべきではないか?
道路の実延長が日本最大規模で、交通事故も決して少なくないわが県は、全面で大いにまねるべきではないか?
自転車の走る方向・路肩を指示用 絵文字
右折用バイクボックスの絵文字
ほか、駐輪場も参考になる。
24時間利用可能。最初の1時間が無料で、5時間100円、1日駐めても200円。傘差し運転予防のため雨合羽ひとつ100円の自販機あり。子乗せ電動アシスト自転車用に、平置きの部分も用意した、清潔で車間に余裕のある設計らしい。
2019年12月16日
魅力度についての最終結論と関連する茨城県政の方向づけ
いわゆる魅力度問題について、これまでえられたあらゆる我々県民の知見をまとめ、私自身がこのブログ等で記述したあらゆる分析を加えた最終結論はつぎのものだ。
結論から書くと、わが県民にとって魅力度ネタは、日本人を主とするわが県をとりまく人々の「愚かさ」一般の目安になる、検疫装置(PCでいうウィルスソフト的もの)として機能する。ドラゴンボールでいえばスカウターみたいなもので、相手の一般知能因子を、大まかにはかれる。そして現時点まで10年ほどのあらゆる状況解析結果から、それ以外どんな意味もない。以下詳しく説明する。
この問題は一言でいえば差別問題であり、人々のうち、特に日本人一般のメディアバイアス(媒体偏見)での、情報の操作され易さを示す。簡単にいえばテレビを主としたマスメディアで、主に観光地としての印象を植えつけられがちな人達は、宣伝などで現実の有様にかかわらず或る偏見をもちだし、自らその反証を怠ってこじらせると差別(ひいきも差別の一種だ)をもちはじめる。
ゴードンホドソンらの論文"Bright Minds and Dark Attitudes"で示されている一知見によると、差別し易さは一般知能(大まかにIQ)の低さと関連している。いわば一般知能因子の働きが低いほど、みずから批判的思考できず簡単に情報操作されがちなわけだ。
すなわち魅力度は主観的で、現に県内外を知っている側には明らかだが当然のことながらいかなる地域でも、他県市外より優れた美質も沢山みつけられる。いいかえればこの宇宙にはどの場所でも魅力があるわけで、それを相対評価でゼロサムゲーム的な順位にするのは、ある集団の一般通念に関する思想的なプロパガンダなわけである。これが差別の生じるしくみなのだが、この場合、一般知能が低いほど魅力度問題に固執したり、特に差別的評価の方をそのまま鵜呑みにしている傾向があるのは当然ともいえる。彼らの脳がマスメディアの情報操作、或いは集団的な主観の偏向でのっとられている証拠だからだ。
こうしてさきにだした結論をさらにおしすすめると、茨城県という銘柄、ブランドを前面に押し出すと、簡単に愚か者をそうでない者から見分けられる。少なくとも日本国内では都内マスメディアの全国報道等で、テレビでも頻繁に流されることがあったのでその種の差別意識をそのまま、鵜呑みにしている層が相当数いる。誰も差別してくる相手と仲良くつきあったりしづらいだろう。裏を返せば、自動的にわが県民と交流が進むのは、国内でよりIQが高い人々、または一般知能が高い人々になるという算段である。
IQや一般知能は同年代に対する偏差値だから、単に精神年齢が相対的に高い人々という 意味しかないにせよ、最近の科学によればその傾向は同時に、社会的成功とか金持ちになりやすさ(子供の時点で学業成績がよかった大人)、長寿(高IQは21%長生き)、性的魅力(もてやすさ。但しIQ120くらいがピーク)などとも一般に正の相関性があるとされている。無論IQも万能ではなく現実の成功には性格(誠実性、開放性など)の方が重要とされていたり(但し、最近では感情知能と能力のパフォーマンスには0.7%くらいの関係しかないが、認知能力には14.2%の関係があるとの見解もある(現論文14ページ))、そもそも一般知能やIQの基本モデルを考えたスピアマン自身がs因子による特殊能力もあるとしていたので、一般知能またはIQが高い人達が全能ではあたりまえだがまったくないし、定義からいっても同年代の人々に比べより複数分野で頭の働きが大人びているくらいの代物だが、それでも魅力度という田中章雄氏ことブランド総合研究所が特定会員ぐるみである種捏造してきた集団浅慮的な主観バイアス・トラップによる差別意識の検疫は、茨城県にデフォルトで偏見をもつか次第で、或る程度、低IQや低い一般知能、すなわち一般的にいって愚かといえる人々をふるい落とすことができる。
この理由が同時に、もともと孔子が「人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」といっていた飛耳長目式の情報非対称性の徳でもあって、以前はこのブログでステルス性と表現していたある有利な状態の正体である。現実にくらす県民からすると、たしかにしばしば、又はかなり頻繁に差別してくる県外人に会って面食らうばかりか、県内ですら自虐的差別意識を公然と述べている「スティグマ」状態の、精神的に危うい人達もみかける。後者はときに精神科の助けを得る必要があるかもしれないが(他のスティグマと一緒で、その汚名とか自尊心低下は、根本的には自分の反復思考による鬱的症状なので、別の事で差別されてきた人達と同じで、自己効力感をえる成功体験の積み重ねとか、昇華や向けかえで自尊心を回復するなり、思念の中でその反復をみずから断ち切る必要がある)、すくなくとも、差別意識や偏見に脳を支配されやすい、一般的にいって頭が悪い人達を簡単にみわけられるという便利があるのは、客観的な事実なのである。それで私は寧ろ情報非対称性からきたステルス性、今回の論旨でいう「差別主義者の検疫」を利用すべきだと考える。ことさら県民が意識しなくとも、県内外での交流を抽出すれば、自動的により高い一般知能、高IQの人々、いいかえれば同年代に比べすこしより複数分野にわたる頭の働きがいい人達、大人な人達と、茨城県の相性は近づいていっていることになるだろう。
ところで大井川知事はこの問題への対処で2つの側面がある。一つはイベントを企画していたよう、イバラッパー式「最下位もう一回」ネタ化で、負の名声を無名に勝る宣伝効果としてただのり利用しようという、いわばジョブス的な方針。もう一つは正攻法で魅力度向上にとりくむという、県内外の人達の主観的印象をぬりかえる方針。
少なくともこのブログでの上記分析は、前者の方針について半分は肯定できるにせよ、わざわざ大騒ぎしなくとも自動で高一般知能との親近(低一般知能との離反)化がおこなわれる状況であるかぎり、悪乗りに税や労力を浪費せずせずとも完全無視で構わないのではないかともいえるが、このあたりは彼の情報企業で培った経営感覚にまかせるべきかもしれない。そもそも東京圏の全国報道マスコミは炎上商法と同じで、特定自治体を公然と差別し、ネガティブバイアスで視聴者をあおって閲覧数、すなわち広告売上を稼ぎたいだけだから、単なる嗜虐快楽目的の「荒らしを構うのも荒らし」式に、完全無視が本来、彼らに点数を稼がせない為にも最善なのである。無視すれば嗜虐快楽がえられないばかりか炎上商売にならないので、勿論これは単に視聴率稼ぎマスコミだけでなくアジテーター本体の田中章雄氏やブランド総研自体にもあてはまるが、別自治体に矛先をむけかえざるをえない。
後者、すなわち魅力度向上策についてだが(個別案件については結果がでていないのでどちらともはっきりいえないため以下で少々詳しく批評していく)、本来の都市文化論にすれば、これは単に観光客文化に属する、おもに(特定少数であるブランド総研会員の)主観のぬりかえ課題である。なぜなら県民自身の生活満足度や自県への誇りは、県民調査でわかっているよう恒常的に高いのだから(特定少数であるブランド総研会員でない、より一般世論なのがポイント)。すなわち特定少数の会員らをまず総研側にといあわせるかなんらかの仕方で突き止めて後、その人々へ集中して以下の試みをする必要がある。或る論文によると次の3つがポイントらしい。
個別の魅力度向上策についていえば、例えば烈公の愛民哲学を伝統改造してまで偕楽園本園を県外有料化することは茨城新聞によれば来園者アンケート的には賛成多数だったようだが、本来の愛民観が「朝な夕な飯食う毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるる身は」式の農本的公僕意識だったとすると、理屈として茨城県庁も地方交付税交付自治体なんだから、実際は全国民から恵まれているともいえ、まあ筋が通ってないともいえる。でも民衆自身がそれに自覚ないどころか寧ろ賛意だからまあいいか、商売だし一石二鳥というのが大井川流なんでしょうが、いわゆる水戸っぽ的道理には大分反しているので(まあ伝統は変わるものもある)、遠からず彼の引退後とかにまた戻ることもあるかなと思う。特に貧しい県外人がたまたま本園付近まできたとき、お金払えないか払いたくないから梅みれなかったとかなったら、元も子もないわけです。勿論、最初は藩士だけに開かれていたんだから、全ては県庁の判断によるのだけど。
自分の意見では、有料化するなら入園に対してではなく、内部は無料でも楽しめるが有料なら普通より高級なお茶が飲めるとか、高級な料理が食べられるとか、入園無料の課金モデルにすればいいのにと思う。
ほか、あいちトリエンナーレ2019(以下あいトリ)の大炎上模様と過去最大の興行収入を他山の石とし、大井川氏はどうもドワンゴ出身のせいかハイカルチャーよりサブカルへの親近性のほうが遥かに高いわけである。茨ひよりは、オタクカルチャー嫌いの或る女からみたら「キモイ」らしいし(なにしろ究極的には、アニメもそうだけどバーチャルアイドルVチューバーは偶像嗜癖、偶像崇拝の要素を含んでいる。宗派や良識によっては眉を顰める代物だ)、大洗関連のガルパン推し云々ふくめ私自身その意見も重々わかるし、正直いって北茨城市長もまるでかわいくない(まあ描いたのが高萩の子供だからその子が傷つくかなあと言いづらくて、誰もいわないんだけども)センス的には疑問しかないゆるきゃらを、駅でもイベントでもやたらべりべりはりつけたり登場させるので、その種の意味不明な地方行政間の猿真似的横並び意識はやめていただきたいと恵まれない人への福祉の為の税支出が優先だろうなと判断する大人としても、旧約聖書くらい少しは読んでいる一哲学者としても思っているのだが。つまり、その種の大井川氏の趣味は、ごく世俗的といっていいし、もっといえば大衆の中の特にオタク系と変わらない。ここは評価が分かれると思うが、日本のサブカルは村上隆氏らのスーパーフラット理論による欧米への翻訳輸出以後は、まれな場合にはハイカルチャーとしての顔をもかねて、まあ外国人にもオタクがふえてかなり威張っている。しかし前知事の橋本昌氏は、県北芸術祭の企画については現代アート系のハイカルチャー推しだった。あいトリは某監督のスキャンダリズムでとんでもないことになったが(炎上商法ともいえるが右派に潜在的しこりを残したか)、大井川氏によるイースポーツ推しの方は、話題の大きさとしてはイマイチだったかもしれないが、大勢として流行も先端性も兼ね安全飛行で決着した。愛知県知事の大村氏の結果からみたら過激派といわざるをえない施策方針(彼も愛知でコスプレとかやってサブカル側にも足を踏み込んでいる)と、穏健派でありながら進歩的かつ大衆的な大井川氏の姿勢を見比べると、まあ比べる例が極端ともいえるが自分は最初、橋本氏のある種高踏的な文化政策から比べると、パンダ誘致論も入れて大井川氏のはなんか堕落なんじゃないかと思っていたが、評価を再考せざるをえない。「みんな」(但し主に日本人)から見てどうか、という貴族性を無視した観点では、文化政策にあっても、大井川氏のそれは、あいトリの例や橋本氏主導の芸術祭より、結果からみて功利的(最大多数の最高幸福という意味で)というしかないのではないか。
裏を返せば、たとえばベルサイユ宮殿みたいな思いっきり行政側がハイカルチャーをごり押ししていた貴族文化の色彩は、大井川県政ではだいぶ後退してしまうのかもしれない。彼が町人社会の延長にあるといってもいい東京からもちこんだ、大衆商業主義の傾向だからだ。現東京都も知事がハイカルチャーの造詣にどうやら欠けているとみえ大分似た傾向というか、「バンクシーらしきネズミの絵」伝説が典型例だけど、例えば石原知事時代からやっていたとおもわれるファインアート系のワンダーサイトを終わらせて、アールブリュット(いわゆるアウトサイダーアート)に傾倒とかいっているわけである。別に障害者美術を支援するのもいい。しかしそれは一美術ジャンルである。現代アート全体を見渡して、はっきり王道を貫く支援なり、環境整備という姿勢ではない。まあこの点、サブカルの評価がまだ美術史内の位置づけ的に曖昧なことともあわせ(そもそもスーパーフラット派は、ファインアートを核とした現代アート全体からみても一ジャンルにとどまり、日本のサブカル全体が一般的先進国でハイカルチャーとみなされたわけでない現状にも要注意がいる。裏を返せば、いつサブカルの評価が歴史的でなくなってもおかしくない。つまりオタクアートそのものが後世からごみ扱いされる可能性も、まだ全然あるわけです)、美術的評価の定まっていない段階の前衛のうち、どれに肩入れするなり、あるいは放任するなり、アートメセナ的立場を行政がやるときには、正直いって美術史の教養を主とするアートリテラシー、すなわち目利きが必要である。自分が知るかぎり国内でこの点、最も成功したのは金沢21世紀美術館だろうと思う。いうまでもなく青森の十和田とか、直島とか、フランスのランスが目をつけるずっと前である。まだ駆け出しに近かった海のものとも山のものともつかぬ(もちろん専門家の間では既に注目株だったけれども)SANAAをあれだけするどく大抜擢した金沢市政には、生存者バイアスを考慮しても最大限の敬意を表したい。
話題をサブカルそのものの評価論にもどすが、たとえばサウジアラビアで、イスラム法学者が宗教令(ファトワ)でポケモン禁止令を、偶像崇拝にあたるとして出したというニュースがあった。サブカル内での趣味自体のよしあしからいって茨ひよりは、まあそこまで下品でもないというか、相当上品側に属するだろう、無論サブカル内部でだけれども。であるが、この偶像崇拝に抵触しうる点は、ハイカルチャーなら抽象芸術とかは部分的に否定できるのであるが、まあかなり、信仰の自由への懸念がある。行政が、偶像崇拝(嗜癖)を公費で煽るのはどうなの、という批判なり突っ込みに、知事は明確な回答がだせるのだろうか。偶像禁止系の宗教とか、その種の良識・趣味にも、いくら文化的寛容さといってもそっちにも配慮する必要があるかもしれず(理屈をいえば偶像禁止も自由だけど偶像崇拝も自由、よって行政はいずれにも肩入れすべきでないとなるが)、あいトリなら反天皇ふくむ極左表現がそれだったわけだけど、やたらとサブカル系のバーチャルアイドルだとかへ公費いれるのは、やりすぎではないか。この辺、とっても繊細な話題なので、結局は現実感覚に基づいた程度問題になる気がする。直接の采配権はあらゆる信仰をもつ全有権者の県民が、大井川氏に一任してるわけだから、クラッシュしないようやっていただきたい。
ついでにもう少し掘るが、知事記者会見でも質疑されてた気がするが上野にすでにパンダがいるのになんで日立で差異化(差別化)になるのかという謎については、大井川氏の経営センスがうかがい知れないので、一般市民レベルではまじでまったく分からん。普通に考えて後追いだし、それで例えば西日本からみて上野から日立に北上する動機には絶対ならないであろう。ではなぜパンダなのか。ま、別に茨城空港とか未来みすえて日中友好が本音ですとかなら商業的センスは抜群という最終評価なんだろうが、真意は会見だけではよく分からんレベルだ。これはツイッターで県民世論とか一部みてても、勿論、日立市民とか県北民からいったらパンダいてもいいだろうけれども、そこまで大金払う価値があるのか大体の人がわからないとおもう。でも全国報道される可能性とか、下手すると上野のが死ぬ可能性も考慮してるんだろうし、ここも疑問符ながら見守るしかない。上野のが死んでも都庁は金余してんだから余裕綽々また買うだけと思うが。
で最後になるが、イバラキセンスとかいうアンテナショップ。私はあれはなくていいと思っている。都民になんで奉仕する必要があるのだろう。全国または世界の人が東京にくるから、といっても銀座まで出ないといけないんだろうけど茨城の物産を買いたければ便利だから、とか色々言い訳あるんだろうが、これもあしき行政横並びレッドオーシャンにしか自分には見えない。もしそこでの収益が莫大で県政を助けまくっている事実があるなら、もっとやれとなるんだろうけど、この点で行政だろうと第三セクター(官民協業)的な行政主催の個別店舗だろうと上場してないわけで、決算がさっぱりわからん。決算書あるならBLとか全部だしてほしいものである。もしかしたら私がしらないだけでもう県HPにあるのかもだが。ぶっちゃけ、民業圧迫じゃないの? と私には見えるんだが、この点は完全に行政論(社会主義的か自由主義的かの濃度論)になるし、もしかすると個別の農家とか製造業側からみると少なくとも目先の卸し先でありがたいのかもしれないし、まあ断定まではできないのだけど。大井川さんは小売出身ではないだろうし(米マイクロソフトは技術セクター、ソフトウェア業)、付加価値あげるんだっていう大方針はわかるにしても、行政が直接小売店ひらくのは社会主義政策といわざるをえないのではないか? もし私が知事だったらさっさと閉じて、その予算は削ると思うけど。最大でも県内の民間業者の通販サイトとか、小売店をまとめて紹介する県のホームページはあってもいいかなくらいの話で、それだって正直、県庁の仕事じゃないから商工会議所とかにそういうのやったらどうですかっていうくらいでいいんじゃないでしょうか? またこれも大井川氏の方が私よりずっと経営うまいのかもしれないんで(というより多分そう)、たとえば茨城空港の評価は(ま、都内マスコミにその点で不当に虐められていたけれども前知事の英断とかもあり)すごくあがってきているみたいだし(以下の日経新聞の図とか相当すばらしい成績)、断言まではしないけど。
国土交通省からの委託を受け、空港振興・環境整備支援機構(東京・港)と日経リサーチが実施した「国管理空港等における空港満足度に関する調査」
現時点では県営(公社)部分があるだろうに、これは凄い。鵜の岬国民宿舎もだけど、行政側に優秀な経営者がいるとこうなる。でも県庁の一部茨城人が優秀だっただけで奇跡ともいえる。要はこんな感じで、ガチでイバラキセンスも、競争的にアンテナショップの色んな評価で最上位を占める事になる可能性までは否定できないが、根本的な大方針レベルで「アンテナショップ業」自体が、株式会社として民営化されるべきかなと私は思うのだ。なんでかなら社会主義批判と同一趣旨、つまり効率とか競争原理、民業圧迫の点なのだが。
大井川氏は商人出身でもあるから商業的なのはわかるにしても、民営化に積極的というわけではなく、官営部門をより合理化するのが得意で、やりたがる傾向みたいにみえる。今のところだけど。まあそこ経産官僚の基礎が発想の根底に残ってるのかもしれない。
純粋に経済学でいうと、自分はフリードマンとかハイエクを尊敬してるくらいで、かなり自由主義寄り、しばしば自由至上主義(ここではlibertarianismの訳語)に接近する考えなので、大井川氏の思想とはだいぶ離れてる節もあり、ここでも県庁的には外部監査者みたいな意見にきこえてしまうのだろうけども(ここをもっとこうすれば経営合理化されるみたいな)、たとえでいうと、飽くまでたとえだが県を株式会社と仮定すると、株主は有権者で県民となるわけで、株主資本主義でいえばなんで都民に奉仕するのという話なわけだ。この辺すこし複雑だから混乱しないよう丁寧によんでほしいが、勿論、消費者から利益をあげてそれを公税として県民に再配分(調整)するともいえるが、でこのたとえの限界でもあるけど、アリストテレスの古典的枠組みに帰れば、実際はその役割ってほとんど民間企業がやる「配分的正義(能力に応じた配分)」なわけである。だから政府は純粋に利益追求だけできない。なぜかというと、そうして生じた不公平を矯正する「調整的正義」が伝統的な政府の役割だからだ。もう一度、純粋に経済学的な話にもどすと、自由至上主義では一般に、政府による市場介入をかぎりなく最小化しようとする。しかし現実的にはいわゆる外部不経済の内部化とよばれる公害防止とか、独占禁止法のよう状況的に市場の失敗を解消する必要がまったくないとはいえないのが現実だったので、飽くまで必要最小化にすぎない。ところが、大井川氏のようまあ修正資本主義に近い国家社会主義(県社会主義)的な市場介入をやる人の考えというのはこれとは、大分違う。すなわち日本の中央政府、経産官僚の基本通念も、リバタリアン式では全然ないわけで、よく「日本は成功した社会主義国家」と半ば揶揄こめていわれるのもその為だ。歴史的経緯からいうと、明治の薩長藩閥はおもいっきり国家社会主義で政府が財閥とつるんで殖産興業ばんばんやったわけだし、徳川時代も完全なリバタリアニズムではなかったにしても儒教の影響で、商売は商売とそれに比べれば少しは民業を放置していた節がある。これについてより詳しく私は現徳川宗家のご当主、家広氏のご著書で学んだが(たしか『なぜ日本経済が21世紀をリードするのか ポスト「資本主義」世界の構図』にその種の記述がある)、ごくおおまかにいうと徳川時代は物価高騰(インフレ)には貨幣鋳造でブレーキ、物価下落(デフレ)には財政出動でアクセルと、既に現代貨幣理論(Modern Monetary Theory, MMT)レベルの実践をして250年をのりきっていたという。
ケルトン流MMTのほうは、日本市場を赤字国債をどれだけ積みましても破綻しないはずというハイパーインフレ耐性の実験台にしたいみたいだから、徳川氏みたいに自分が、財政面では最高経営責任者的な状態だったよりはるかに、他人事でどうしようもないわけだが、そんで経産官僚でもさすがにそのレベルの経済学的無知なのがいるとは、いくら一億総白痴化とかいわれていたこともあったとしても信じたくないわけだし、実際、いても少数派だと思う。でもまあ私も経産官僚じゃないし、自分がみた東大講義ではそこまで教えてなかったので省内の上位者がどれ程の学力水準かあるいはどの学派に肩入れしてるのか外部からわからんので、これは余談だが。
でこれでなにが説明したいかといえば、自分は茨城県の単位でも、自由主義、自由至上主義に近い経済政策をとってもらいたいし、それと同時に税収は、相対貧困対策で福祉に回せばいいと思う。殖産興業でうまくいくのは、一般論だがそもそも民需がない開発独裁国であり、ケインズ用語でいう「有効需要」(要は無理やりの消費喚起)を政府自身が作り出す必要があるせいだ。しかし日本みたいに成熟した国で、茨城も現に所得水準は国内で中上位にあるのに政府主導で殖産興業やってると、単に民需圧迫にしかならないというのが自分の意見だ。一番いい例がアベノミクスの失敗、特にトリクルダウンが起きなかったことで格差拡大しただけに終わった国政レベルでの経済政策の誤りではなかったか。当然だが中流の形成に失敗したらその国は民需の絶対量が減るから、衰退期に入ってしまう。よって同じ事は先進国で最も格差が大きい(相対貧困率が高い)アメリカ経済にも多少あれいえるわけだが、人口減少が起きていないし、移民もいて需要が底上げされるからまだましだ。勿論、私の経済学的な立場が、上述の思考経路で民間委託を主要な手法とする自由至上主義的な完全競争市場への漸近、かつ、税収は最弱者への福祉に回すという、まあこれまでの経済学だと何々主義とまとめられていない考え方なので今の政府と違っても当然だけれども、ここで仮に「自由至上福祉主義」と名づけておく。
大井川氏は現に県(国の支社)を経営してるみたいなもんだから、私がいまいった立場をそのまま採用してくれるかは当人次第で、まあ自分もそうだけど究極目的は功利主義と一緒で最大多数の最高幸福になるわけだが、現実的に可能な範囲で自分のみている、より進んだ考え方を使ってほしい。イバラキセンスのサンクコストがいくらかしらないけれども、正直自分に言わせていただくとアマゾンと楽天、できればタオバオにも県のアンテナショップだすとかならまだスケールから理解できるけど、これだって最初から民間委託すればいい。
このブログには前から書いてるが、民営化と民間委託は、微妙に違っている。民営化は既に市場で競争優位を失っている(つまり民業でまかなえる)事業を県が保有している理由はないので売却すべきという意味で、民間委託は必須の公益事業をより効率的に運営するため競争入札先を探すというものだ。ここで注意が必要なのは、なんらかの公益度が高い事業は、民業で代替できない段階で民営化してはいけない。例えば十分な収益がみこめない遠隔地バス、あるいは競争相手のいない水道の様なもの。もし水道を民営化した場合、当然だが現時点で独占・寡占が生じるから水道料金があがるだけでなくサービス自体が低下する可能性もある。だがこれらも、独占・寡占が生じえないかぎり例えば不可欠な警察消防のようどうしても必須の部分以外は、積極的に民間委託し、できるだけ競争原理を採用すべきなのである。一方、民営化していいのは既に市場に競争相手が複数いて、公営部門が単なる民業圧迫にすぎない様な部分だ。これが、なぜ私がアンテナショップを民営化、あるいは新たに作るなら県営ネットショップを民間委託すべきと考えるかの基本理論である。アンテナショップは茨城県産品を主に扱う小売業にすぎないのだから、無数の小売店がある中でわざわざ、県がもっている理由がよくわからないくらいだ。日本の行政に典型的あしき横並び意識ではないかとおもうし、それこそ付加価値をみずから低めるレッドオーシャン志向で自殺行為ではないか? 一方なぜ自分が県営ネットショップならまだありうると考えるかなら、ネットショップなら在庫は民間業者側においておけばよく、そもそも県(民間委託先)側は通販の仲介をするだけで民業圧迫にならないばかりか、卸売り先から手数料をとったとしても最少人数で運営でき、黒字にしかならないと思うからである。その種の優良事業を県が保有しているなら、恐らく鵜の岬国民宿舎や茨城空港といった例でそうあるよう、歳入をますのですぐに手放す必要はないのかもしれない。
もう一度結論を述べると、メディアバイアスの植えつけによる魅力度差別は完全無視が基本で、仮に存在しても一般知能の低い集団を遠ざけ、高い集団を近づける結果になるのでわが県民には結果有利である。またもしこの偏向を変えたければ、先ずブランド総研会員へ直接、都内マスメディアの着せてきた汚名を無視した上で、県の魅力を詳細に渡って説明し、且つみずから更に調べるよう促すのに効果がある。また都内マスメディアによるバイアスをまだ植えつけられていない外国語圏の人々への方が、一般的にこの種の宣伝に効果がある。
さらに大井川知事の為政方針のうち、偕楽園本園有料化は様子を見る必要があるが、園自体の哲学と照らすと理論的に破綻しているので、入園無料の課金モデルがいい。また知事のサブカル趣味は現代ファインアートの教養やセンスがない以上しかたないし、その文化について歴史的評価がどう転ぶか(低俗な悪趣味とみなされ終わる可能性も十分のこっている)も不確定な現状だが、少なくとも偶像崇拝を禁じる信仰の自由を顧慮して偶像嗜癖系(特にVチューバーなど)のタブー表現をやり過ぎない必要があるかもしれない。パンダについては上野とかぶるし高額誘致費からいっても謎なので説明責任を果たして欲しい。イバラキセンスについては競争過多で高い付加価値がみこめないので自分の経済学上の立場からも民営化(事業売却)、代わりに県内事業者からの直接通販を中継ぎする、アマゾン、楽天、タオバオでの茨城県ネットショップを民間委託で競争入札すればいい。
結論から書くと、わが県民にとって魅力度ネタは、日本人を主とするわが県をとりまく人々の「愚かさ」一般の目安になる、検疫装置(PCでいうウィルスソフト的もの)として機能する。ドラゴンボールでいえばスカウターみたいなもので、相手の一般知能因子を、大まかにはかれる。そして現時点まで10年ほどのあらゆる状況解析結果から、それ以外どんな意味もない。以下詳しく説明する。
この問題は一言でいえば差別問題であり、人々のうち、特に日本人一般のメディアバイアス(媒体偏見)での、情報の操作され易さを示す。簡単にいえばテレビを主としたマスメディアで、主に観光地としての印象を植えつけられがちな人達は、宣伝などで現実の有様にかかわらず或る偏見をもちだし、自らその反証を怠ってこじらせると差別(ひいきも差別の一種だ)をもちはじめる。
ゴードンホドソンらの論文"Bright Minds and Dark Attitudes"で示されている一知見によると、差別し易さは一般知能(大まかにIQ)の低さと関連している。いわば一般知能因子の働きが低いほど、みずから批判的思考できず簡単に情報操作されがちなわけだ。
すなわち魅力度は主観的で、現に県内外を知っている側には明らかだが当然のことながらいかなる地域でも、他県市外より優れた美質も沢山みつけられる。いいかえればこの宇宙にはどの場所でも魅力があるわけで、それを相対評価でゼロサムゲーム的な順位にするのは、ある集団の一般通念に関する思想的なプロパガンダなわけである。これが差別の生じるしくみなのだが、この場合、一般知能が低いほど魅力度問題に固執したり、特に差別的評価の方をそのまま鵜呑みにしている傾向があるのは当然ともいえる。彼らの脳がマスメディアの情報操作、或いは集団的な主観の偏向でのっとられている証拠だからだ。
こうしてさきにだした結論をさらにおしすすめると、茨城県という銘柄、ブランドを前面に押し出すと、簡単に愚か者をそうでない者から見分けられる。少なくとも日本国内では都内マスメディアの全国報道等で、テレビでも頻繁に流されることがあったのでその種の差別意識をそのまま、鵜呑みにしている層が相当数いる。誰も差別してくる相手と仲良くつきあったりしづらいだろう。裏を返せば、自動的にわが県民と交流が進むのは、国内でよりIQが高い人々、または一般知能が高い人々になるという算段である。
IQや一般知能は同年代に対する偏差値だから、単に精神年齢が相対的に高い人々という 意味しかないにせよ、最近の科学によればその傾向は同時に、社会的成功とか金持ちになりやすさ(子供の時点で学業成績がよかった大人)、長寿(高IQは21%長生き)、性的魅力(もてやすさ。但しIQ120くらいがピーク)などとも一般に正の相関性があるとされている。無論IQも万能ではなく現実の成功には性格(誠実性、開放性など)の方が重要とされていたり(但し、最近では感情知能と能力のパフォーマンスには0.7%くらいの関係しかないが、認知能力には14.2%の関係があるとの見解もある(現論文14ページ))、そもそも一般知能やIQの基本モデルを考えたスピアマン自身がs因子による特殊能力もあるとしていたので、一般知能またはIQが高い人達が全能ではあたりまえだがまったくないし、定義からいっても同年代の人々に比べより複数分野で頭の働きが大人びているくらいの代物だが、それでも魅力度という田中章雄氏ことブランド総合研究所が特定会員ぐるみである種捏造してきた集団浅慮的な主観バイアス・トラップによる差別意識の検疫は、茨城県にデフォルトで偏見をもつか次第で、或る程度、低IQや低い一般知能、すなわち一般的にいって愚かといえる人々をふるい落とすことができる。
この理由が同時に、もともと孔子が「人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」といっていた飛耳長目式の情報非対称性の徳でもあって、以前はこのブログでステルス性と表現していたある有利な状態の正体である。現実にくらす県民からすると、たしかにしばしば、又はかなり頻繁に差別してくる県外人に会って面食らうばかりか、県内ですら自虐的差別意識を公然と述べている「スティグマ」状態の、精神的に危うい人達もみかける。後者はときに精神科の助けを得る必要があるかもしれないが(他のスティグマと一緒で、その汚名とか自尊心低下は、根本的には自分の反復思考による鬱的症状なので、別の事で差別されてきた人達と同じで、自己効力感をえる成功体験の積み重ねとか、昇華や向けかえで自尊心を回復するなり、思念の中でその反復をみずから断ち切る必要がある)、すくなくとも、差別意識や偏見に脳を支配されやすい、一般的にいって頭が悪い人達を簡単にみわけられるという便利があるのは、客観的な事実なのである。それで私は寧ろ情報非対称性からきたステルス性、今回の論旨でいう「差別主義者の検疫」を利用すべきだと考える。ことさら県民が意識しなくとも、県内外での交流を抽出すれば、自動的により高い一般知能、高IQの人々、いいかえれば同年代に比べすこしより複数分野にわたる頭の働きがいい人達、大人な人達と、茨城県の相性は近づいていっていることになるだろう。
ところで大井川知事はこの問題への対処で2つの側面がある。一つはイベントを企画していたよう、イバラッパー式「最下位もう一回」ネタ化で、負の名声を無名に勝る宣伝効果としてただのり利用しようという、いわばジョブス的な方針。もう一つは正攻法で魅力度向上にとりくむという、県内外の人達の主観的印象をぬりかえる方針。
少なくともこのブログでの上記分析は、前者の方針について半分は肯定できるにせよ、わざわざ大騒ぎしなくとも自動で高一般知能との親近(低一般知能との離反)化がおこなわれる状況であるかぎり、悪乗りに税や労力を浪費せずせずとも完全無視で構わないのではないかともいえるが、このあたりは彼の情報企業で培った経営感覚にまかせるべきかもしれない。そもそも東京圏の全国報道マスコミは炎上商法と同じで、特定自治体を公然と差別し、ネガティブバイアスで視聴者をあおって閲覧数、すなわち広告売上を稼ぎたいだけだから、単なる嗜虐快楽目的の「荒らしを構うのも荒らし」式に、完全無視が本来、彼らに点数を稼がせない為にも最善なのである。無視すれば嗜虐快楽がえられないばかりか炎上商売にならないので、勿論これは単に視聴率稼ぎマスコミだけでなくアジテーター本体の田中章雄氏やブランド総研自体にもあてはまるが、別自治体に矛先をむけかえざるをえない。
後者、すなわち魅力度向上策についてだが(個別案件については結果がでていないのでどちらともはっきりいえないため以下で少々詳しく批評していく)、本来の都市文化論にすれば、これは単に観光客文化に属する、おもに(特定少数であるブランド総研会員の)主観のぬりかえ課題である。なぜなら県民自身の生活満足度や自県への誇りは、県民調査でわかっているよう恒常的に高いのだから(特定少数であるブランド総研会員でない、より一般世論なのがポイント)。すなわち特定少数の会員らをまず総研側にといあわせるかなんらかの仕方で突き止めて後、その人々へ集中して以下の試みをする必要がある。或る論文によると次の3つがポイントらしい。
1.茨城へ都内マスメディアらが着せてきた汚名の観点を、たとえ否定するためであってもこちらから一切くりかえしてはいけない(誤解を解こうと少しでもその種の差別的偏見を反復すると却って強化される。あらぬ汚名は相手のものなので、完全無視しなければならない)ただブランド総研会員を除く一般人への主観のぬりかえまで含めると、フェイクニュースの強固なバイアスのため先ず国内民については困難をきわめるので、日本語情報をうけとっていない海外民からが合理的かつ効率的になるだろう。
2.茨城の魅力をできるだけ微細にうがって、相手の未知な新情報として植えつけるのに啓蒙効果がある
3.さらに茨城の魅力について相手自身がみずから進んで見つけ、もっと調べるよう促す(これによってこれまで都内マスコミから洗脳されていた思い込み、又はおのれの無知を反証しはじめ、みずからの差別や先入観に懐疑をもちはじめる)
個別の魅力度向上策についていえば、例えば烈公の愛民哲学を伝統改造してまで偕楽園本園を県外有料化することは茨城新聞によれば来園者アンケート的には賛成多数だったようだが、本来の愛民観が「朝な夕な飯食う毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるる身は」式の農本的公僕意識だったとすると、理屈として茨城県庁も地方交付税交付自治体なんだから、実際は全国民から恵まれているともいえ、まあ筋が通ってないともいえる。でも民衆自身がそれに自覚ないどころか寧ろ賛意だからまあいいか、商売だし一石二鳥というのが大井川流なんでしょうが、いわゆる水戸っぽ的道理には大分反しているので(まあ伝統は変わるものもある)、遠からず彼の引退後とかにまた戻ることもあるかなと思う。特に貧しい県外人がたまたま本園付近まできたとき、お金払えないか払いたくないから梅みれなかったとかなったら、元も子もないわけです。勿論、最初は藩士だけに開かれていたんだから、全ては県庁の判断によるのだけど。
自分の意見では、有料化するなら入園に対してではなく、内部は無料でも楽しめるが有料なら普通より高級なお茶が飲めるとか、高級な料理が食べられるとか、入園無料の課金モデルにすればいいのにと思う。
ほか、あいちトリエンナーレ2019(以下あいトリ)の大炎上模様と過去最大の興行収入を他山の石とし、大井川氏はどうもドワンゴ出身のせいかハイカルチャーよりサブカルへの親近性のほうが遥かに高いわけである。茨ひよりは、オタクカルチャー嫌いの或る女からみたら「キモイ」らしいし(なにしろ究極的には、アニメもそうだけどバーチャルアイドルVチューバーは偶像嗜癖、偶像崇拝の要素を含んでいる。宗派や良識によっては眉を顰める代物だ)、大洗関連のガルパン推し云々ふくめ私自身その意見も重々わかるし、正直いって北茨城市長もまるでかわいくない(まあ描いたのが高萩の子供だからその子が傷つくかなあと言いづらくて、誰もいわないんだけども)センス的には疑問しかないゆるきゃらを、駅でもイベントでもやたらべりべりはりつけたり登場させるので、その種の意味不明な地方行政間の猿真似的横並び意識はやめていただきたいと恵まれない人への福祉の為の税支出が優先だろうなと判断する大人としても、旧約聖書くらい少しは読んでいる一哲学者としても思っているのだが。つまり、その種の大井川氏の趣味は、ごく世俗的といっていいし、もっといえば大衆の中の特にオタク系と変わらない。ここは評価が分かれると思うが、日本のサブカルは村上隆氏らのスーパーフラット理論による欧米への翻訳輸出以後は、まれな場合にはハイカルチャーとしての顔をもかねて、まあ外国人にもオタクがふえてかなり威張っている。しかし前知事の橋本昌氏は、県北芸術祭の企画については現代アート系のハイカルチャー推しだった。あいトリは某監督のスキャンダリズムでとんでもないことになったが(炎上商法ともいえるが右派に潜在的しこりを残したか)、大井川氏によるイースポーツ推しの方は、話題の大きさとしてはイマイチだったかもしれないが、大勢として流行も先端性も兼ね安全飛行で決着した。愛知県知事の大村氏の結果からみたら過激派といわざるをえない施策方針(彼も愛知でコスプレとかやってサブカル側にも足を踏み込んでいる)と、穏健派でありながら進歩的かつ大衆的な大井川氏の姿勢を見比べると、まあ比べる例が極端ともいえるが自分は最初、橋本氏のある種高踏的な文化政策から比べると、パンダ誘致論も入れて大井川氏のはなんか堕落なんじゃないかと思っていたが、評価を再考せざるをえない。「みんな」(但し主に日本人)から見てどうか、という貴族性を無視した観点では、文化政策にあっても、大井川氏のそれは、あいトリの例や橋本氏主導の芸術祭より、結果からみて功利的(最大多数の最高幸福という意味で)というしかないのではないか。
裏を返せば、たとえばベルサイユ宮殿みたいな思いっきり行政側がハイカルチャーをごり押ししていた貴族文化の色彩は、大井川県政ではだいぶ後退してしまうのかもしれない。彼が町人社会の延長にあるといってもいい東京からもちこんだ、大衆商業主義の傾向だからだ。現東京都も知事がハイカルチャーの造詣にどうやら欠けているとみえ大分似た傾向というか、「バンクシーらしきネズミの絵」伝説が典型例だけど、例えば石原知事時代からやっていたとおもわれるファインアート系のワンダーサイトを終わらせて、アールブリュット(いわゆるアウトサイダーアート)に傾倒とかいっているわけである。別に障害者美術を支援するのもいい。しかしそれは一美術ジャンルである。現代アート全体を見渡して、はっきり王道を貫く支援なり、環境整備という姿勢ではない。まあこの点、サブカルの評価がまだ美術史内の位置づけ的に曖昧なことともあわせ(そもそもスーパーフラット派は、ファインアートを核とした現代アート全体からみても一ジャンルにとどまり、日本のサブカル全体が一般的先進国でハイカルチャーとみなされたわけでない現状にも要注意がいる。裏を返せば、いつサブカルの評価が歴史的でなくなってもおかしくない。つまりオタクアートそのものが後世からごみ扱いされる可能性も、まだ全然あるわけです)、美術的評価の定まっていない段階の前衛のうち、どれに肩入れするなり、あるいは放任するなり、アートメセナ的立場を行政がやるときには、正直いって美術史の教養を主とするアートリテラシー、すなわち目利きが必要である。自分が知るかぎり国内でこの点、最も成功したのは金沢21世紀美術館だろうと思う。いうまでもなく青森の十和田とか、直島とか、フランスのランスが目をつけるずっと前である。まだ駆け出しに近かった海のものとも山のものともつかぬ(もちろん専門家の間では既に注目株だったけれども)SANAAをあれだけするどく大抜擢した金沢市政には、生存者バイアスを考慮しても最大限の敬意を表したい。
話題をサブカルそのものの評価論にもどすが、たとえばサウジアラビアで、イスラム法学者が宗教令(ファトワ)でポケモン禁止令を、偶像崇拝にあたるとして出したというニュースがあった。サブカル内での趣味自体のよしあしからいって茨ひよりは、まあそこまで下品でもないというか、相当上品側に属するだろう、無論サブカル内部でだけれども。であるが、この偶像崇拝に抵触しうる点は、ハイカルチャーなら抽象芸術とかは部分的に否定できるのであるが、まあかなり、信仰の自由への懸念がある。行政が、偶像崇拝(嗜癖)を公費で煽るのはどうなの、という批判なり突っ込みに、知事は明確な回答がだせるのだろうか。偶像禁止系の宗教とか、その種の良識・趣味にも、いくら文化的寛容さといってもそっちにも配慮する必要があるかもしれず(理屈をいえば偶像禁止も自由だけど偶像崇拝も自由、よって行政はいずれにも肩入れすべきでないとなるが)、あいトリなら反天皇ふくむ極左表現がそれだったわけだけど、やたらとサブカル系のバーチャルアイドルだとかへ公費いれるのは、やりすぎではないか。この辺、とっても繊細な話題なので、結局は現実感覚に基づいた程度問題になる気がする。直接の采配権はあらゆる信仰をもつ全有権者の県民が、大井川氏に一任してるわけだから、クラッシュしないようやっていただきたい。
ついでにもう少し掘るが、知事記者会見でも質疑されてた気がするが上野にすでにパンダがいるのになんで日立で差異化(差別化)になるのかという謎については、大井川氏の経営センスがうかがい知れないので、一般市民レベルではまじでまったく分からん。普通に考えて後追いだし、それで例えば西日本からみて上野から日立に北上する動機には絶対ならないであろう。ではなぜパンダなのか。ま、別に茨城空港とか未来みすえて日中友好が本音ですとかなら商業的センスは抜群という最終評価なんだろうが、真意は会見だけではよく分からんレベルだ。これはツイッターで県民世論とか一部みてても、勿論、日立市民とか県北民からいったらパンダいてもいいだろうけれども、そこまで大金払う価値があるのか大体の人がわからないとおもう。でも全国報道される可能性とか、下手すると上野のが死ぬ可能性も考慮してるんだろうし、ここも疑問符ながら見守るしかない。上野のが死んでも都庁は金余してんだから余裕綽々また買うだけと思うが。
で最後になるが、イバラキセンスとかいうアンテナショップ。私はあれはなくていいと思っている。都民になんで奉仕する必要があるのだろう。全国または世界の人が東京にくるから、といっても銀座まで出ないといけないんだろうけど茨城の物産を買いたければ便利だから、とか色々言い訳あるんだろうが、これもあしき行政横並びレッドオーシャンにしか自分には見えない。もしそこでの収益が莫大で県政を助けまくっている事実があるなら、もっとやれとなるんだろうけど、この点で行政だろうと第三セクター(官民協業)的な行政主催の個別店舗だろうと上場してないわけで、決算がさっぱりわからん。決算書あるならBLとか全部だしてほしいものである。もしかしたら私がしらないだけでもう県HPにあるのかもだが。ぶっちゃけ、民業圧迫じゃないの? と私には見えるんだが、この点は完全に行政論(社会主義的か自由主義的かの濃度論)になるし、もしかすると個別の農家とか製造業側からみると少なくとも目先の卸し先でありがたいのかもしれないし、まあ断定まではできないのだけど。大井川さんは小売出身ではないだろうし(米マイクロソフトは技術セクター、ソフトウェア業)、付加価値あげるんだっていう大方針はわかるにしても、行政が直接小売店ひらくのは社会主義政策といわざるをえないのではないか? もし私が知事だったらさっさと閉じて、その予算は削ると思うけど。最大でも県内の民間業者の通販サイトとか、小売店をまとめて紹介する県のホームページはあってもいいかなくらいの話で、それだって正直、県庁の仕事じゃないから商工会議所とかにそういうのやったらどうですかっていうくらいでいいんじゃないでしょうか? またこれも大井川氏の方が私よりずっと経営うまいのかもしれないんで(というより多分そう)、たとえば茨城空港の評価は(ま、都内マスコミにその点で不当に虐められていたけれども前知事の英断とかもあり)すごくあがってきているみたいだし(以下の日経新聞の図とか相当すばらしい成績)、断言まではしないけど。
国土交通省からの委託を受け、空港振興・環境整備支援機構(東京・港)と日経リサーチが実施した「国管理空港等における空港満足度に関する調査」
現時点では県営(公社)部分があるだろうに、これは凄い。鵜の岬国民宿舎もだけど、行政側に優秀な経営者がいるとこうなる。でも県庁の一部茨城人が優秀だっただけで奇跡ともいえる。要はこんな感じで、ガチでイバラキセンスも、競争的にアンテナショップの色んな評価で最上位を占める事になる可能性までは否定できないが、根本的な大方針レベルで「アンテナショップ業」自体が、株式会社として民営化されるべきかなと私は思うのだ。なんでかなら社会主義批判と同一趣旨、つまり効率とか競争原理、民業圧迫の点なのだが。
大井川氏は商人出身でもあるから商業的なのはわかるにしても、民営化に積極的というわけではなく、官営部門をより合理化するのが得意で、やりたがる傾向みたいにみえる。今のところだけど。まあそこ経産官僚の基礎が発想の根底に残ってるのかもしれない。
純粋に経済学でいうと、自分はフリードマンとかハイエクを尊敬してるくらいで、かなり自由主義寄り、しばしば自由至上主義(ここではlibertarianismの訳語)に接近する考えなので、大井川氏の思想とはだいぶ離れてる節もあり、ここでも県庁的には外部監査者みたいな意見にきこえてしまうのだろうけども(ここをもっとこうすれば経営合理化されるみたいな)、たとえでいうと、飽くまでたとえだが県を株式会社と仮定すると、株主は有権者で県民となるわけで、株主資本主義でいえばなんで都民に奉仕するのという話なわけだ。この辺すこし複雑だから混乱しないよう丁寧によんでほしいが、勿論、消費者から利益をあげてそれを公税として県民に再配分(調整)するともいえるが、でこのたとえの限界でもあるけど、アリストテレスの古典的枠組みに帰れば、実際はその役割ってほとんど民間企業がやる「配分的正義(能力に応じた配分)」なわけである。だから政府は純粋に利益追求だけできない。なぜかというと、そうして生じた不公平を矯正する「調整的正義」が伝統的な政府の役割だからだ。もう一度、純粋に経済学的な話にもどすと、自由至上主義では一般に、政府による市場介入をかぎりなく最小化しようとする。しかし現実的にはいわゆる外部不経済の内部化とよばれる公害防止とか、独占禁止法のよう状況的に市場の失敗を解消する必要がまったくないとはいえないのが現実だったので、飽くまで必要最小化にすぎない。ところが、大井川氏のようまあ修正資本主義に近い国家社会主義(県社会主義)的な市場介入をやる人の考えというのはこれとは、大分違う。すなわち日本の中央政府、経産官僚の基本通念も、リバタリアン式では全然ないわけで、よく「日本は成功した社会主義国家」と半ば揶揄こめていわれるのもその為だ。歴史的経緯からいうと、明治の薩長藩閥はおもいっきり国家社会主義で政府が財閥とつるんで殖産興業ばんばんやったわけだし、徳川時代も完全なリバタリアニズムではなかったにしても儒教の影響で、商売は商売とそれに比べれば少しは民業を放置していた節がある。これについてより詳しく私は現徳川宗家のご当主、家広氏のご著書で学んだが(たしか『なぜ日本経済が21世紀をリードするのか ポスト「資本主義」世界の構図』にその種の記述がある)、ごくおおまかにいうと徳川時代は物価高騰(インフレ)には貨幣鋳造でブレーキ、物価下落(デフレ)には財政出動でアクセルと、既に現代貨幣理論(Modern Monetary Theory, MMT)レベルの実践をして250年をのりきっていたという。
ケルトン流MMTのほうは、日本市場を赤字国債をどれだけ積みましても破綻しないはずというハイパーインフレ耐性の実験台にしたいみたいだから、徳川氏みたいに自分が、財政面では最高経営責任者的な状態だったよりはるかに、他人事でどうしようもないわけだが、そんで経産官僚でもさすがにそのレベルの経済学的無知なのがいるとは、いくら一億総白痴化とかいわれていたこともあったとしても信じたくないわけだし、実際、いても少数派だと思う。でもまあ私も経産官僚じゃないし、自分がみた東大講義ではそこまで教えてなかったので省内の上位者がどれ程の学力水準かあるいはどの学派に肩入れしてるのか外部からわからんので、これは余談だが。
でこれでなにが説明したいかといえば、自分は茨城県の単位でも、自由主義、自由至上主義に近い経済政策をとってもらいたいし、それと同時に税収は、相対貧困対策で福祉に回せばいいと思う。殖産興業でうまくいくのは、一般論だがそもそも民需がない開発独裁国であり、ケインズ用語でいう「有効需要」(要は無理やりの消費喚起)を政府自身が作り出す必要があるせいだ。しかし日本みたいに成熟した国で、茨城も現に所得水準は国内で中上位にあるのに政府主導で殖産興業やってると、単に民需圧迫にしかならないというのが自分の意見だ。一番いい例がアベノミクスの失敗、特にトリクルダウンが起きなかったことで格差拡大しただけに終わった国政レベルでの経済政策の誤りではなかったか。当然だが中流の形成に失敗したらその国は民需の絶対量が減るから、衰退期に入ってしまう。よって同じ事は先進国で最も格差が大きい(相対貧困率が高い)アメリカ経済にも多少あれいえるわけだが、人口減少が起きていないし、移民もいて需要が底上げされるからまだましだ。勿論、私の経済学的な立場が、上述の思考経路で民間委託を主要な手法とする自由至上主義的な完全競争市場への漸近、かつ、税収は最弱者への福祉に回すという、まあこれまでの経済学だと何々主義とまとめられていない考え方なので今の政府と違っても当然だけれども、ここで仮に「自由至上福祉主義」と名づけておく。
大井川氏は現に県(国の支社)を経営してるみたいなもんだから、私がいまいった立場をそのまま採用してくれるかは当人次第で、まあ自分もそうだけど究極目的は功利主義と一緒で最大多数の最高幸福になるわけだが、現実的に可能な範囲で自分のみている、より進んだ考え方を使ってほしい。イバラキセンスのサンクコストがいくらかしらないけれども、正直自分に言わせていただくとアマゾンと楽天、できればタオバオにも県のアンテナショップだすとかならまだスケールから理解できるけど、これだって最初から民間委託すればいい。
このブログには前から書いてるが、民営化と民間委託は、微妙に違っている。民営化は既に市場で競争優位を失っている(つまり民業でまかなえる)事業を県が保有している理由はないので売却すべきという意味で、民間委託は必須の公益事業をより効率的に運営するため競争入札先を探すというものだ。ここで注意が必要なのは、なんらかの公益度が高い事業は、民業で代替できない段階で民営化してはいけない。例えば十分な収益がみこめない遠隔地バス、あるいは競争相手のいない水道の様なもの。もし水道を民営化した場合、当然だが現時点で独占・寡占が生じるから水道料金があがるだけでなくサービス自体が低下する可能性もある。だがこれらも、独占・寡占が生じえないかぎり例えば不可欠な警察消防のようどうしても必須の部分以外は、積極的に民間委託し、できるだけ競争原理を採用すべきなのである。一方、民営化していいのは既に市場に競争相手が複数いて、公営部門が単なる民業圧迫にすぎない様な部分だ。これが、なぜ私がアンテナショップを民営化、あるいは新たに作るなら県営ネットショップを民間委託すべきと考えるかの基本理論である。アンテナショップは茨城県産品を主に扱う小売業にすぎないのだから、無数の小売店がある中でわざわざ、県がもっている理由がよくわからないくらいだ。日本の行政に典型的あしき横並び意識ではないかとおもうし、それこそ付加価値をみずから低めるレッドオーシャン志向で自殺行為ではないか? 一方なぜ自分が県営ネットショップならまだありうると考えるかなら、ネットショップなら在庫は民間業者側においておけばよく、そもそも県(民間委託先)側は通販の仲介をするだけで民業圧迫にならないばかりか、卸売り先から手数料をとったとしても最少人数で運営でき、黒字にしかならないと思うからである。その種の優良事業を県が保有しているなら、恐らく鵜の岬国民宿舎や茨城空港といった例でそうあるよう、歳入をますのですぐに手放す必要はないのかもしれない。
もう一度結論を述べると、メディアバイアスの植えつけによる魅力度差別は完全無視が基本で、仮に存在しても一般知能の低い集団を遠ざけ、高い集団を近づける結果になるのでわが県民には結果有利である。またもしこの偏向を変えたければ、先ずブランド総研会員へ直接、都内マスメディアの着せてきた汚名を無視した上で、県の魅力を詳細に渡って説明し、且つみずから更に調べるよう促すのに効果がある。また都内マスメディアによるバイアスをまだ植えつけられていない外国語圏の人々への方が、一般的にこの種の宣伝に効果がある。
さらに大井川知事の為政方針のうち、偕楽園本園有料化は様子を見る必要があるが、園自体の哲学と照らすと理論的に破綻しているので、入園無料の課金モデルがいい。また知事のサブカル趣味は現代ファインアートの教養やセンスがない以上しかたないし、その文化について歴史的評価がどう転ぶか(低俗な悪趣味とみなされ終わる可能性も十分のこっている)も不確定な現状だが、少なくとも偶像崇拝を禁じる信仰の自由を顧慮して偶像嗜癖系(特にVチューバーなど)のタブー表現をやり過ぎない必要があるかもしれない。パンダについては上野とかぶるし高額誘致費からいっても謎なので説明責任を果たして欲しい。イバラキセンスについては競争過多で高い付加価値がみこめないので自分の経済学上の立場からも民営化(事業売却)、代わりに県内事業者からの直接通販を中継ぎする、アマゾン、楽天、タオバオでの茨城県ネットショップを民間委託で競争入札すればいい。
2019年11月2日
他県に知られず他県を知ってあるべし
魅力というものは多くの人達にわからないものであればこそ、貴いものだ。
マスコミに洗脳され易い衆愚にあわせ自己を宣伝するより、謙遜しつつ至善に止まっていた方が遥かに優れている。それでも、歌人はいながらにして名所名跡を知っているし、それは外国人とて同じなのである。『常陸国風土記』を読まずに、現代東京人の虚偽や悪意、偏見と差別に満ちたマスコミを信じている人達など、相手にするかいはこれまでもこれからも、何もない。
人に知られず貶されていようが、自らを知り相手を知っている側に立っていた方が、全ての面でより優れた結果になるだろう。己が人を知らざるを憂い、人に知られざるのを憂うべきではない。
マスコミに洗脳され易い衆愚にあわせ自己を宣伝するより、謙遜しつつ至善に止まっていた方が遥かに優れている。それでも、歌人はいながらにして名所名跡を知っているし、それは外国人とて同じなのである。『常陸国風土記』を読まずに、現代東京人の虚偽や悪意、偏見と差別に満ちたマスコミを信じている人達など、相手にするかいはこれまでもこれからも、何もない。
人に知られず貶されていようが、自らを知り相手を知っている側に立っていた方が、全ての面でより優れた結果になるだろう。己が人を知らざるを憂い、人に知られざるのを憂うべきではない。
2019年10月29日
差別はする側のみに原因がある
魅力度差別は100%偏見にすぎないが、その種の差別をうのみにし、侮辱的言動をとってくる人達が見分けられるという利点において(当然だが、愚か者や卑しい人達とは縁を切った方が優れているし、現に感性のよしあしについても、わが県の美質は明らかなのだから、それを見分けられない人々について同じことがいえる)、寧ろわが県以外のいずれかの県が同様に、この差別を捏造しているブランド総研の数十人とその会員の千人ほどの人達、また彼らの差別的偏見に煽られる衆愚のいずれについても、今後とも法的に門地差別を罰されでもしない限り反省や自己の偏見を見直す余地はないであろうから、全く相手どらないのが最も優れている。
わが県もしくはいずれかの都道府県自体に原因があるのではなく、差別主義者自身に全原因があり、その責めも落ち度も全て、差別する側のみに求められる。つまり我々は県庁も含めこの点で何も変えたり、変わる必要はない。そして自動的に、差別主義者自身の自滅によって状況が真逆に変わるであろう。なぜなら、差別という悪徳へ永遠に安住できる者はいないのだから。
わが県もしくはいずれかの都道府県自体に原因があるのではなく、差別主義者自身に全原因があり、その責めも落ち度も全て、差別する側のみに求められる。つまり我々は県庁も含めこの点で何も変えたり、変わる必要はない。そして自動的に、差別主義者自身の自滅によって状況が真逆に変わるであろう。なぜなら、差別という悪徳へ永遠に安住できる者はいないのだから。
2019年10月20日
地域美学としての茨城県各地の独自性
茨城県や北茨城市は、単に都市として先進国とみなしたモデルのまねだけをするのではなく、世界のあらゆる文明、都市、町、村、人類や他生物の生活など森羅万象を参考に、単に自らの内なる趣味の格率、真善美を兼ね備えた聖なる掟に従ってみずからのくらしをつくっていくがいい。
現代では奈良・平城京や京都・平安京が中国・長安を模していた経緯から、古都となって両者は観光地化しているが、似た様な近代文明の遺構に、東京圏の一定領域もなることは確かだろう。
しかし茨城は、筑波圏を除いて厳密にはこの領域にとりこまれていない。そして水戸をはじめ、各地のその都市構造や環境は殆ど全く独自性を保っている。北茨城市も全く同じで、我々はその種の県内各地の文化多様性を、全宇宙をひきだした縮図としてさらに高める方に、創造的に工夫すべきなのである。
長い目でみれば、この独自性をますます高めている文化圏の方が、古都として多かれ少なかれ定型化した地域に比べ、より魅力的になるのは間違いなく、すなわち茨城人は、自ら世界の美質を選択的に学び取りながらも、同時にそれへ依拠せず、かけがえのない地域性をつくりあげるべきなのだ。
現代では奈良・平城京や京都・平安京が中国・長安を模していた経緯から、古都となって両者は観光地化しているが、似た様な近代文明の遺構に、東京圏の一定領域もなることは確かだろう。
しかし茨城は、筑波圏を除いて厳密にはこの領域にとりこまれていない。そして水戸をはじめ、各地のその都市構造や環境は殆ど全く独自性を保っている。北茨城市も全く同じで、我々はその種の県内各地の文化多様性を、全宇宙をひきだした縮図としてさらに高める方に、創造的に工夫すべきなのである。
長い目でみれば、この独自性をますます高めている文化圏の方が、古都として多かれ少なかれ定型化した地域に比べ、より魅力的になるのは間違いなく、すなわち茨城人は、自ら世界の美質を選択的に学び取りながらも、同時にそれへ依拠せず、かけがえのない地域性をつくりあげるべきなのだ。
2019年10月15日
妹島和世氏を茨城県総合都市計画の統括建築家に専属化する案
前から書いてるけど、茨城県庁又は北茨城市は、日立出身の妹島和世氏を統括建築家として専任し、県内・市内の主要な公共施設の総合計画を氏に依頼、その計画に基づいて、各地の個別建築物をいわゆる設計競技などで通常の各建築家・士に設計させる形にするのがよい。
これは他の国内地域では、例えば都内では、他の建築家らとの競合などから妹島氏(及び氏の設計共同体であるSANAA)の作品を割と簡単に解体してしまい、歴史的建造物として保存する行政側の意志が殆ど見られないからだ。
だがガウディの例を鑑みても、超一流の建築家に専属化した地域全体が総合設計の出来栄えから長期的に見て、魅力度の向上はいうまでもなく、観光誘客の面で世界に冠たる都市景観を作り得るのは歴史上の真実だ。これは意見がばらつく(余り建築の専門性が高くない人々が好き勝手に、ろくでもない意見を言う)民主的プロセスによっては非常に難しい。その実例が国立競技場問題だった。
裏を返せば、行政の長の権限が非常に強い地域なら、比較的容易に総合都市計画を策定できるのだ。そしてその千載一遇といってもいいチャンスが今で、妹島氏は既に日立駅や日立市庁舎などに於いて世界に冠たる実績をもっているわが県出身者として誇るべき超一流の建築家なのが文化史上の事実なのだから、彼女に茨城県の建築景観に関する総合計画を、県庁の英断で是非とも策定させて欲しい。
前知事を現知事とつるんだ自民党派閥らが追い落とそうとした時、風説流布によって特定建築士との癒着がある云々とまあいつもの自民党の手段を選ばぬ汚いやり口だが、虚偽の噂によって前知事に濡れ衣を着せていた。だがこの考え方そのものが、長い目でみれば文化行政のがんみたいなものだ。
建築は芸術作品であり、その才能は産まれながら特定の人にしか与えられていない。天才を明らかに発揮している人物がいる場合、それはスペインならガウディだったろうし、フランスならコルビジュエ、ドイツならミース・ファン・デル・ローエだったろうが、その人物に集中投資してこそ、都市全体の魅力が確立しうるのである。それは文化行政として、かなり強い権限をもって、審美観の極めて優れた人物が判断しなければならないことだが、例えばパリのまちなかに当時は若手だったピアノとロジャースのポンピドゥーセンターを大統領が主導し設計競技で選定したなどは建築史で必ず習うけど、偉大な実例である。
現に、妹島氏・SANAAによって金沢21世紀美術館は今世紀の建築物の中でも、特筆すべき作品として石川県に重要な歴史建造物を残す結果になっている。わが県は氏の出身地にもかかわらず、彼女が若手の間は金馬車ビルとか古河の休憩所など小さな建物しか手掛けさせなかった。今後は大仕事を任せるべきだ。
これは他の国内地域では、例えば都内では、他の建築家らとの競合などから妹島氏(及び氏の設計共同体であるSANAA)の作品を割と簡単に解体してしまい、歴史的建造物として保存する行政側の意志が殆ど見られないからだ。
だがガウディの例を鑑みても、超一流の建築家に専属化した地域全体が総合設計の出来栄えから長期的に見て、魅力度の向上はいうまでもなく、観光誘客の面で世界に冠たる都市景観を作り得るのは歴史上の真実だ。これは意見がばらつく(余り建築の専門性が高くない人々が好き勝手に、ろくでもない意見を言う)民主的プロセスによっては非常に難しい。その実例が国立競技場問題だった。
裏を返せば、行政の長の権限が非常に強い地域なら、比較的容易に総合都市計画を策定できるのだ。そしてその千載一遇といってもいいチャンスが今で、妹島氏は既に日立駅や日立市庁舎などに於いて世界に冠たる実績をもっているわが県出身者として誇るべき超一流の建築家なのが文化史上の事実なのだから、彼女に茨城県の建築景観に関する総合計画を、県庁の英断で是非とも策定させて欲しい。
前知事を現知事とつるんだ自民党派閥らが追い落とそうとした時、風説流布によって特定建築士との癒着がある云々とまあいつもの自民党の手段を選ばぬ汚いやり口だが、虚偽の噂によって前知事に濡れ衣を着せていた。だがこの考え方そのものが、長い目でみれば文化行政のがんみたいなものだ。
建築は芸術作品であり、その才能は産まれながら特定の人にしか与えられていない。天才を明らかに発揮している人物がいる場合、それはスペインならガウディだったろうし、フランスならコルビジュエ、ドイツならミース・ファン・デル・ローエだったろうが、その人物に集中投資してこそ、都市全体の魅力が確立しうるのである。それは文化行政として、かなり強い権限をもって、審美観の極めて優れた人物が判断しなければならないことだが、例えばパリのまちなかに当時は若手だったピアノとロジャースのポンピドゥーセンターを大統領が主導し設計競技で選定したなどは建築史で必ず習うけど、偉大な実例である。
現に、妹島氏・SANAAによって金沢21世紀美術館は今世紀の建築物の中でも、特筆すべき作品として石川県に重要な歴史建造物を残す結果になっている。わが県は氏の出身地にもかかわらず、彼女が若手の間は金馬車ビルとか古河の休憩所など小さな建物しか手掛けさせなかった。今後は大仕事を任せるべきだ。
2019年10月13日
磯原中央公園調整池および磯原市街地外郭放水路計画
磯原中央公園の地下部分は、調整池をつくるべきだろう。
https://twitter.com/gameaka777666/status/1183193502298980353
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jimusho/yonken/koji2/chikacho.html
https://twitter.com/awagadu/status/1183183969199607809
調整池が満杯になる水量の計算上、それで十分に市街地の浸水を防げないなら、別により大規模の放水路を、市内のどこかに設置し、少なくとも花園川・大北川の氾濫を防ぐ必要がある。
参考:首都圏外郭放水路
https://twitter.com/Sen_Nakamura/status/1182292601648467968
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jimusho/yonken/koji2/chikacho.html
https://twitter.com/awagadu/status/1183183969199607809
調整池が満杯になる水量の計算上、それで十分に市街地の浸水を防げないなら、別により大規模の放水路を、市内のどこかに設置し、少なくとも花園川・大北川の氾濫を防ぐ必要がある。
参考:首都圏外郭放水路
https://twitter.com/Sen_Nakamura/status/1182292601648467968
2019年10月12日
県知事は銀座アンテナショップをさっさと撤退しその分の税を恵まれぬ県民への調整的奉仕に用いよ
茨城のアンテナショップを県庁が都内につくるのは今すぐやめ、茨城県民の為の公共福祉の充実に集中しなければならない。なぜなら県税は県民の福利厚生のため支払われるもので、かねもうけだか農産物の売り込みは商人の領域であり、公務員は県全体で生じる不公平の調整に税をつかい、具体的なかねもうけには不干渉なのが原則だからだ。
都民に奉仕するのは都税の領域なのだから、県税を使ってやる意味はまったくない。そしてかねもうけしたいなら、県知事は民間で起業して、県税をたくさんあげる様にしたらいいだけなのである。
そして県庁として県内経済を興隆させるための自由市場原則は、民間で競争の妨げになっている公共事業と民間企業の癒着や寡占による市場干渉の部分をなるだけなくす規制緩和に集中しなければならず、自ら起業するなら民間で、という話なのである。その最終目的は完全競争市場の実現であり、管理価格、独占や公害など少数の場合を除けば政府自身が市場に参加するのは、根本的に効率を害する一方で短・中・長期的にどの場面でもなんの得にもならないであろう。同じ意味でアベノミクス共産経済だの消費減退につながる民間増税を推進し、市場国有化を進めてきた東京政府は今後長らく国規模で日本に致命傷を与えるだろう低成長の起源であり、完全に理論的にも実践的にも、反面教師だ。それだけ経産官僚が堕落し、米日本操縦者に安直に騙されるほど不勉強になったのである。
まあ芸術祭とeスポーツの選択結果をみると、愛知県知事よりはずっとましな判断をしたといわざるをえないが、現知事もこの意味で、アベノミクス理論で堕落した経産省や自民党閥に媚びを売る限り、永遠にわが県の世界経済牽引力を更に強化しえないというほかないであろう。
都民に奉仕するのは都税の領域なのだから、県税を使ってやる意味はまったくない。そしてかねもうけしたいなら、県知事は民間で起業して、県税をたくさんあげる様にしたらいいだけなのである。
そして県庁として県内経済を興隆させるための自由市場原則は、民間で競争の妨げになっている公共事業と民間企業の癒着や寡占による市場干渉の部分をなるだけなくす規制緩和に集中しなければならず、自ら起業するなら民間で、という話なのである。その最終目的は完全競争市場の実現であり、管理価格、独占や公害など少数の場合を除けば政府自身が市場に参加するのは、根本的に効率を害する一方で短・中・長期的にどの場面でもなんの得にもならないであろう。同じ意味でアベノミクス共産経済だの消費減退につながる民間増税を推進し、市場国有化を進めてきた東京政府は今後長らく国規模で日本に致命傷を与えるだろう低成長の起源であり、完全に理論的にも実践的にも、反面教師だ。それだけ経産官僚が堕落し、米日本操縦者に安直に騙されるほど不勉強になったのである。
まあ芸術祭とeスポーツの選択結果をみると、愛知県知事よりはずっとましな判断をしたといわざるをえないが、現知事もこの意味で、アベノミクス理論で堕落した経産省や自民党閥に媚びを売る限り、永遠にわが県の世界経済牽引力を更に強化しえないというほかないであろう。
茨城空港は世界最高の主要ハブ空港となり愚劣な差別主義と中華思想の極悪東京マスゴミ都民へ必ず復讐完遂せよ
極悪東京マスゴミが首都圏北部や世界の為に国が自衛隊基地を民間共用化した茨城空港を南関蛮族である卑しい商売人にすぎないおのれの利己心の一方で侮辱差別三昧してたのは永遠に忘れない必ず復讐してやるぞ
https://twitter.com/nikkei_young/status/1159736117836558336
https://twitter.com/nikkei_young/status/1159736117836558336
2019年10月11日
無電柱化の蓋つきU字鋼による低費用化案
無電柱化に際し、路面アスファルトの一部を浅く陥没させ、そこにケーブルを埋設するとき、ケーブル上部を埋め戻さず、ケーブルを収納したプレキャストコンクリート製またはステンレス製の規格化した側溝状U字鋼の上部に蓋をするだけでいいのではないだろうか? これはケーブル交換または増設時に再び埋め直す費用の節約になるし、そしてケーブルの被害時に復旧作業ふくむメンテナンス時に利便性があるからだ。
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/chicyuka/pdf04/07.pdf
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/chicyuka/pdf04/07.pdf
2019年10月3日
茨城県庁は性的少数者救済政策に加え性感染症予防策も同時に講じるべき
ウォール・ストリート・ジャーナルがフィリピンでデートアプリ普及でHIV感染者数がふえていると報じているが、その感染者の殆どはゲイかバイセクシャルだったとある。実際わが国でも同傾向は見られるので、知事主導で性的少数者へ寛容政策を執るわが県は、同時に、性感染症予防の啓発も行うべきだ。
https://www.wsj.com/articles/hiv-cases-soar-in-the-philippines-as-dating-apps-spread-11570095003
https://honkawa2.sakura.ne.jp/2250.html
https://www.wsj.com/articles/hiv-cases-soar-in-the-philippines-as-dating-apps-spread-11570095003
https://honkawa2.sakura.ne.jp/2250.html
2019年9月24日
KPOPは世界的成功によって地域差別を乗り越えられる証拠であり茨城圏の一つの模範
KPOPをあれだけ馬鹿にしてた人達、完全に大差でTWICEとかBTSとかにユーチューブの視聴回数でも世界的な人気でも負けて、今頃どう思っているのだろうか? この意味で芸術もやはり、公平な土壌で戦っていると思う。日本的・東京的な忖度空間って世界次元だと完全に無視される、嘘と悪意の集まりだ。裏を返すと、都民全般が「周り」である都民の多数派がいい、いいといっているものが、単に彼らのローカルな、「東京地方」のはやりにすぎないのに、それ以外をダサいといって中華思想バイアスで貶めている文脈そのものを、KPOPが完璧に彼ら以上の商業芸術で乗り越えたのだと思う。
僕はTWICEがやってる(JYPにやらされている)ことを、茨城県の単位でどこかの芸能事務所にやってほしかった。これからでもできるならやってほしい。それは東京都民による差別の悪意を暴くからだ。トゥワイスも大阪人や韓国人いるし、完全に東京的な門地・人種差別の枠組みを批判的に潰していると思う。
KPOPの男性アーティストは、私が男だからかもしれんけどあんまり魅力的にみえないんだけど、女性に関してはいわゆる妓生文化の延長にあって、完璧な歌舞を洗練させるという方に最大の才能を発揮してるのではないだろうか? この点で、中途半端アキバ芸妓の類がなんなのかさっぱり今の今までわからん。
秋元康は、「会いに行けるアイドル」とかいい、ヘタウマ素人臭さをわざとなんだろうけど出しまくらせ、飲み屋の酌婦みたいなののの少女買春版みたいな、世界的に見ても異様な奇形文化を作り出した。そして僕は最初から今までそれが物凄く嫌いだった。それはTWICEが世界標準と証明してくれたと思う。東京のオタク文化に媚を売り、児童買春モドキの女衒ごっこをしていたのが秋元康、そしてつんくのお二方であって、日本人全般はそれが当たり前みたいに洗脳されつつあった。しかし少女時代とTWICEというKPOPで流行した女性アイドルが出てきたお陰で、より大人の女性が普通に魅力的と証明されたわけだ。
僕はKPOPの男性アイドルについては、まだ「いいね」と思ったことないので、これは自分は芸術鑑賞者なので、単に異性愛者だからじゃないと思うのだが、それは構造的な意味がないからじゃないだろうか。KPOPの文脈的な意義は、今述べた東京ロリコン業界を潰してくれたのと、東亜人種差別の脱構築だ。日本のネット右翼の人らは、少女時代が出てきた時も娼婦みたいだといいやたらめったら差別していた。確かに、妓生的構造があるから曲によってそういう色彩があったと思うのだが、結局は、次にTWICEが日韓台の国を超えたアジア人で構成され世界で流行するという、脱人種差別的枠組みの前置きになった。
ま大抵の人達は、アイドル音楽の置かれている構造なんて「純粋音楽的に」分析してないだろうし、単に金かけて整形美女みたいのが艶めかしく歌って踊ってるから紅白に出すんだろうが、根底にあるのは文化差別に対する戦いなんだろうな、と私は思う。イスマンもそういう意図で芸能事務所作ってたと思う。
少なくとも女性観に関する限りは、イ・スマンとパク・ジニョンが世界文化史に果たした役割はかなり特筆すべきで、オリエンタリズムの強化に過ぎなかったとしても、アジア人女性が美に関して人種差別される構造的枠組みはなくなったに等しいと思う。それは彼らが韓国・東亜系芸能人を流行させたからだ。しかし、秋元康やつんくがそういう差別に対する戦いという構造的意図をもっていたかといえば、全くもっていなかったと思うので、私はこの点で、文化史的に全く評価していない。別に私に評価されなくてもどうでもいいだろうが。世界的影響も大してなく、東京ローカルのロリコン受けに過ぎなかった。
BTSくらいしかしらないけども、韓国人の男性アイドルに関しても、恐らくアジア人男性が置かれている人種差別的位置を、歌舞の芸能によって一部改善してるのだろうと思うのである。そしてこの仕事は、東京ローカルでかっこつけ自慢しつつ田舎搾取するしか目的がなかったジャニーズにはできなかった。
一体何が明暗をわけたかだが、第一に、東京ローカル文化は、国内市場搾取・田舎差別を目的として志が低すぎた。だから最初から最後まで国内で自画自賛して金儲けして、正に東京的で低俗かつ奇形な三流芸能で終わった。対してKPOPは、最初から日本市場含む、世界に打って出ていた。しかも志も高かった。
嘗てビートルズが流行した。しかし現時点での音楽市場に最適化している度合いでいったら、ユーチューブの反応みてるとKPOPも世界規模でそれとほぼ同じくらいの所に到達してると思う。アジア人でそういう大衆性の次元に行ってたのはスキヤキソングくらいだったので、圧倒的に凄い話ではないだろうか。
私は東京が全般的に嫌いだから(お前らの持ち物な東海第二原発さっさと片付けろ、人んちの近くに置くな)、東京圏の芸能事務所もできたら応援したくないのだが、もう完全に、完膚なきまでKPOPに、全面負けてるのは明白なので、いい気味だと思ってこれを書いてるのだ。しかも差別されていた側が勝った。
ま、茨城県も東京人一般、いや関西人だの中部人だの含め(誰がどんな発言してたか私は神の如く記憶力がいいので全部覚えてるのだが)一部の県外人から普段から差別されまくっているので、このKPOP勢が東京ローカル文化を完璧に乗り越えた点を参考に、世界的成功を果たせば茨城単独で勝てると言いたい。いずれ東京ローカル文化を、或いは京都ローカル文化を、このKPOP勢の完全勝利の如く、完膚なきまでに叩きのめす。しかもコンセプト段階から意図的に完全に乗り越えて、誰の目がみても上位に立ったことが分かる状態に到達する。これは全く不可能ではないし、寧ろ世界的成功だけに集中すればいいのだ。
私がなぜそうしたいかといえば、私を差別してきた極悪人どもに制裁する義務があるからである。そしてそれはこの世の正義なので、必ずきっかりと地獄で落とし前をつける必要があると確信し、そのため手段を選ばず全世界にあらゆる戦略を張り巡らすと共に、着実に地歩を進め続けるだけの話ということだ。
僕はTWICEがやってる(JYPにやらされている)ことを、茨城県の単位でどこかの芸能事務所にやってほしかった。これからでもできるならやってほしい。それは東京都民による差別の悪意を暴くからだ。トゥワイスも大阪人や韓国人いるし、完全に東京的な門地・人種差別の枠組みを批判的に潰していると思う。
KPOPの男性アーティストは、私が男だからかもしれんけどあんまり魅力的にみえないんだけど、女性に関してはいわゆる妓生文化の延長にあって、完璧な歌舞を洗練させるという方に最大の才能を発揮してるのではないだろうか? この点で、中途半端アキバ芸妓の類がなんなのかさっぱり今の今までわからん。
秋元康は、「会いに行けるアイドル」とかいい、ヘタウマ素人臭さをわざとなんだろうけど出しまくらせ、飲み屋の酌婦みたいなののの少女買春版みたいな、世界的に見ても異様な奇形文化を作り出した。そして僕は最初から今までそれが物凄く嫌いだった。それはTWICEが世界標準と証明してくれたと思う。東京のオタク文化に媚を売り、児童買春モドキの女衒ごっこをしていたのが秋元康、そしてつんくのお二方であって、日本人全般はそれが当たり前みたいに洗脳されつつあった。しかし少女時代とTWICEというKPOPで流行した女性アイドルが出てきたお陰で、より大人の女性が普通に魅力的と証明されたわけだ。
僕はKPOPの男性アイドルについては、まだ「いいね」と思ったことないので、これは自分は芸術鑑賞者なので、単に異性愛者だからじゃないと思うのだが、それは構造的な意味がないからじゃないだろうか。KPOPの文脈的な意義は、今述べた東京ロリコン業界を潰してくれたのと、東亜人種差別の脱構築だ。日本のネット右翼の人らは、少女時代が出てきた時も娼婦みたいだといいやたらめったら差別していた。確かに、妓生的構造があるから曲によってそういう色彩があったと思うのだが、結局は、次にTWICEが日韓台の国を超えたアジア人で構成され世界で流行するという、脱人種差別的枠組みの前置きになった。
ま大抵の人達は、アイドル音楽の置かれている構造なんて「純粋音楽的に」分析してないだろうし、単に金かけて整形美女みたいのが艶めかしく歌って踊ってるから紅白に出すんだろうが、根底にあるのは文化差別に対する戦いなんだろうな、と私は思う。イスマンもそういう意図で芸能事務所作ってたと思う。
少なくとも女性観に関する限りは、イ・スマンとパク・ジニョンが世界文化史に果たした役割はかなり特筆すべきで、オリエンタリズムの強化に過ぎなかったとしても、アジア人女性が美に関して人種差別される構造的枠組みはなくなったに等しいと思う。それは彼らが韓国・東亜系芸能人を流行させたからだ。しかし、秋元康やつんくがそういう差別に対する戦いという構造的意図をもっていたかといえば、全くもっていなかったと思うので、私はこの点で、文化史的に全く評価していない。別に私に評価されなくてもどうでもいいだろうが。世界的影響も大してなく、東京ローカルのロリコン受けに過ぎなかった。
BTSくらいしかしらないけども、韓国人の男性アイドルに関しても、恐らくアジア人男性が置かれている人種差別的位置を、歌舞の芸能によって一部改善してるのだろうと思うのである。そしてこの仕事は、東京ローカルでかっこつけ自慢しつつ田舎搾取するしか目的がなかったジャニーズにはできなかった。
一体何が明暗をわけたかだが、第一に、東京ローカル文化は、国内市場搾取・田舎差別を目的として志が低すぎた。だから最初から最後まで国内で自画自賛して金儲けして、正に東京的で低俗かつ奇形な三流芸能で終わった。対してKPOPは、最初から日本市場含む、世界に打って出ていた。しかも志も高かった。
嘗てビートルズが流行した。しかし現時点での音楽市場に最適化している度合いでいったら、ユーチューブの反応みてるとKPOPも世界規模でそれとほぼ同じくらいの所に到達してると思う。アジア人でそういう大衆性の次元に行ってたのはスキヤキソングくらいだったので、圧倒的に凄い話ではないだろうか。
私は東京が全般的に嫌いだから(お前らの持ち物な東海第二原発さっさと片付けろ、人んちの近くに置くな)、東京圏の芸能事務所もできたら応援したくないのだが、もう完全に、完膚なきまでKPOPに、全面負けてるのは明白なので、いい気味だと思ってこれを書いてるのだ。しかも差別されていた側が勝った。
ま、茨城県も東京人一般、いや関西人だの中部人だの含め(誰がどんな発言してたか私は神の如く記憶力がいいので全部覚えてるのだが)一部の県外人から普段から差別されまくっているので、このKPOP勢が東京ローカル文化を完璧に乗り越えた点を参考に、世界的成功を果たせば茨城単独で勝てると言いたい。いずれ東京ローカル文化を、或いは京都ローカル文化を、このKPOP勢の完全勝利の如く、完膚なきまでに叩きのめす。しかもコンセプト段階から意図的に完全に乗り越えて、誰の目がみても上位に立ったことが分かる状態に到達する。これは全く不可能ではないし、寧ろ世界的成功だけに集中すればいいのだ。
私がなぜそうしたいかといえば、私を差別してきた極悪人どもに制裁する義務があるからである。そしてそれはこの世の正義なので、必ずきっかりと地獄で落とし前をつける必要があると確信し、そのため手段を選ばず全世界にあらゆる戦略を張り巡らすと共に、着実に地歩を進め続けるだけの話ということだ。
2019年9月13日
左近の桜
先日、台風で偕楽園の方の左近の桜が倒れた。皇室と水戸家の因みなど知る由もない商人上がりの大井川知事は、あっという間に跡形もなく片付けてしまった。或る県民がツイッター上で再び宮内庁に働きかけ植樹させてほしいと言っていた。私はあの忌々しい差別と虚栄の塊、京都との縁が切れてほっとした。
大井川氏は水戸学の素養が全く無く、この面では偕楽園を強制的に一部有料化するなど完全に伝統破壊者である。シュンペーターかぶれが商売の領域ならいいが、水戸家の御前に居ながら文政領分でなら傍ら痛い。その或る県民がどうか私が傷ついたのは当知事を不躾に択ぶ浅はかな一部県民の無思慮さだ。
大井川氏にあの桜の象徴的な意味がわかるとは思えないので、恐らく再植樹されないか、全く見当違いに客寄せパンダの笹でも植えると思うが、義公の嘆く姿が確かに私には見えるので、いずれなんらかの形で現代水戸学者らは、県政により事務的に撤去された桜の魂を祭るべきだろう。
野分経て皇下した桜木を伐る槌音を聴く水戸の町
のわきへてすめらくだしたさくらぎをきるつちおとをきくみとのまち
大井川氏は水戸学の素養が全く無く、この面では偕楽園を強制的に一部有料化するなど完全に伝統破壊者である。シュンペーターかぶれが商売の領域ならいいが、水戸家の御前に居ながら文政領分でなら傍ら痛い。その或る県民がどうか私が傷ついたのは当知事を不躾に択ぶ浅はかな一部県民の無思慮さだ。
大井川氏にあの桜の象徴的な意味がわかるとは思えないので、恐らく再植樹されないか、全く見当違いに客寄せパンダの笹でも植えると思うが、義公の嘆く姿が確かに私には見えるので、いずれなんらかの形で現代水戸学者らは、県政により事務的に撤去された桜の魂を祭るべきだろう。
野分経て皇下した桜木を伐る槌音を聴く水戸の町
のわきへてすめらくだしたさくらぎをきるつちおとをきくみとのまち
2019年9月12日
情報非対称性から県外人に誤解されている方が精確に知られているより優れている
以前から述べているが、わが県は東京都民や県外人からほぼ全く盲点になっている。まるでステルス状態だ。だからテレビ等でとりあげられても、彼ら都民全般の悪意の投影となっていて、我々の現実も理想も少しも捉えられていないと、都内メディアで日々実感している筈だ。
今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。
例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。
ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。
今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。
例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。
ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。
2019年9月5日
鋭角横断歩道への改修
鋭角横断歩道は車両から歩行者を見つけやすくなるらしく、茨城県内、北茨城市内でも同様の交差点におきかえていくケインズ政策をとるのが望ましい。
愛知県で導入後、26か所について設置前後1年で、事故件数が17件から8件に減った。但し道路標示の補修、LED化なども併せて行われているのでその影響も考えられるという。
愛知県で導入後、26か所について設置前後1年で、事故件数が17件から8件に減った。但し道路標示の補修、LED化なども併せて行われているのでその影響も考えられるという。
2019年8月9日
文化的主導権
茨城で0歳の頃から育ってるからかもしれないが、食べ物を粗末にするな、という躾が無意識に刷り込まれているらしく、発酵食品にせよ何にせよ揶揄の文脈で食べ物を侮辱する人みると、自分は寛容なので何にせよ流しているのだが、時間がたち相手の発言をおもいだすと度し難い義憤の様なのが湧いてくる。
義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。
私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。
既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。
今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。
朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。
アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。
私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。
これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。
義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。
私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。
既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。
今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。
朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。
アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。
私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。
これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。
2019年6月25日
昼間に役所が鐘を鳴らすのは騒音公害にあたる説
北茨城市役所が鳴らしている昼間の鐘(雨情童謡のメロディ)は、夜勤の人や夜型の人にとって昼間の安眠を乱されるのだから一種の公害にあたるのではないだろうか。試みが行われたはじめは気づかなかったが。以前から昼12時には消防署がサイレンを鳴らしていたけど、震災を期に設置された市役所の災害用拡声器で、新たに午後6時頃に童謡が流される様になった。この点で、別の方法で通電を確かめるのが次善ではないか。尤も、西洋などでもこの種の公共の鐘の音というのは伝統的にあるに違いないけど、昼間中心主義という考え方は既に遺伝子レベルで夜型の人がいるのが分かっている以上、時代遅れと思われる。
また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。
また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。





















