2021年8月31日

キョン流入の事前対策について

以下の記事・動画などによると「キョン」という小鹿の様な特定外来生物が、千葉県南部で大量繁殖している。農作物にとってかなりの損害が出る可能性がある一方、高級食材・皮材でもありジビエ料理や工芸に活かしたりすれば、人間と共生できる可能性もあるらしい。
 県庁側が事前にキョン流入時の対策を立てて置けば、農作物被害をへらし、かつ、単なる殺処分ではない適宜な駆除の方法で、産業上も何らかのプラスの向きに働かせる事ができるかもしれない。

https://friday.kodansha.co.jp/article/84927

https://www.youtube.com/watch?v=YiLL1Ors0VM

企業と自治体はどう違うか

(現茨城県知事・大井川和彦氏のユーチューブ動画『潜在能力が高い県だからできた「改革」/ 大井川かずひこ×山形学 対談』への返信コメント。ユーチューブ上では削除された1.の部分を含む)

1.「変化論」について

一茨城県民、有権者です。
 英ケンブリッジ大のウェブサイトの『ダーウィン通信計画』(Darwin Correspondence Project)が伝えるに、ダーウィンの言葉かのよう伝播されている「生き残るのは変化できる者」なる言葉は、ルイジアナ州立大学バトンルージュ校・経営・マーケティング教授レオン・C・メギンソン(Leon C. Megginson)によるものだった、とカリフォルニア大学バークレー校統合生物学部・ニコラス・J・マツケ(Nicholas J. Matzke)が発見したという事です。
 以下、同ウェブサイト「誤引用の進化」("The evolution of a misquotation")ページから引用。

 According to Darwin's Origin of Species, it is not the most intellectual of the species that survives; it is not the strongest that survives; but the species that survives is the one that is able best to adapt and adjust to the changing environment in which it finds itself.
--- Megginson, “Lessons from Europe for American Business,” Southwestern Social Science Quarterly (1963) 44(1): 3-13, at p. 4.
 日本では2001年9月27日、小泉純一郎首相が所信演説の末尾で次の様に述べ、同誤引用がダーウィン思想かの様に広まった可能性があります。

 私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
――小泉純一郎

2.企業と自治体の違い、企業に於ける選択・集中論

 変化論にあたる引用部(レオン・C・メギンソンのもの)の思想の問題点は、おもに2つあると思います。

 大前提として、以下では「企業」と「自治体」を分けて考えます。
 この2つは、大まかに分類して企業が営利活動、自治体が福祉活動(立法・司法・行政など)を主体にしており、「企業」は一部の利益をめざすにすぎないが「自治体」は県民全体の公益をめざしているなど、組織の役割が根本的に異なるものです。

 先ず1番目の問題点は「生き残り」(生存)が企業の目的とはかぎらない点です。
 ここで企業の生き残りを目的とする考え方を、企業生存至上主義と定義します。
 この考えだと利益を長期的に得られる企業がふさわしくなり、裏を返せば市場独占・寡占が合目的となります。しかし市場全体だと、独禁法の趣旨と同じく、この様な独占・寡占が非効率をもたらしている場合があります。したがって企業競争力は程度としての独占・寡占状態を意味します。
 一方で、自治体に同じ考えをあてはめた時、地方自治法2条6項「都道府県及び市町村は、その事務を処理するに当っては、相互に競合しないようにしなければならない」の趣旨に多少あれ反する事になるでしょう。自治体単位で程あれ強い独占・寡占状態を作り出す事で、自治体間競争を容認・加勢する結果になります。
 したがって企業生存至上主義を自治体にあてはめるには、まず格差の底で排除される人が現れないよう、十分な高福祉計画(特に県北格差の解消計画)を立て実行した上で、競争原理を導入する必要があります。この逆に、まず競争原理を導入してから高福祉計画を実行しようとしても、すでに経済弱者や県内弱小自治体は絶滅・荒廃してしまい、全体の幸福度の面でも手遅れとなってしまいます。――国政の単位で、トリクルダウン理論に依拠した新自由主義政策が、現実の福祉目的には誤りだったのと同じです(市場に所得再分配の機能はなかった)。

 2番目は現実の市場では何らかの点でずっと変わらない企業が有利な状態があります。寧ろ経営学の観点からは、不動の高利益が期待できる定番商品(製品・サービス)をもっていればもっているほど強みがある、と見なします。逆に、常に価格競争に晒され、何らかの新たな手を打ち続けなければ競合に市場シェアを奪われる可能性がある非定番商品に依存する企業は、経営にとって決して望ましいものではありません。
 おそらく大井川さんはシュンペーターのイノベーション(革新)理論に強く影響を受け、またマイクロソフトやドワンゴでの経験から、ITベンチャーの雰囲気でいう革新的商品づくりが必須、との信念をもつに至ったのではないでしょうか。――確かに定番商品をもたない新興企業にとってはそうです。しかしこれはそもそも営利が目的ではない自治体についてなので、以下の理由で、革新理論と全く同じ観点を直接あてはめる事ができないケースでしょう。
 自治体は企業のよう一流の定番商品をもつ事で永続する様なしくみになっているとはかぎりません。1番目の問題点で説明したよう、自治体は全体の福祉を図る必要があり、必ずしも市場競争力をもつ事が目的ではないからです。――例えば自治体全体では二流以下の商品しかもっていないが高福祉が実現された県と、一流商品をもっているが低福祉しか実現されていない県があったら、前者の方が合目的です。
 その上で、企業について、私は定番商品を新たに開発し続けねばならない、という考えも、経営学の観点から必ずしも正解ではないと思います。なぜなら企業の目的は営利で、高収益があげられればいいわけですから、研究開発費や事業変更の費用に見合うリターンがなければ、もう強みをもっている分野へ選択・集中した方が望ましいからです。――例えば茨城にはシェア100%の干し芋(2011農水省・生産農業所得統計)、生産量1位の納豆など、堅固なブランド価値を有しかつ圧倒的競争力をもった定番商品があり、これらの知財(商標権・特許権など)を積極的に保護・促進する事、また海外での販路開拓を模索・工夫する事などで、関連県内企業を高収益体質へ強化し、今後とも外貨を稼ぐ事は十分可能ではないかと考えます。

2021年8月27日

イギリス政府による大規模催事についての発表の、科学的分析

以下のURLでイギリス政府から示されるところ、同政府が調べた大規模催事の感染率は通常時と変わらなかった資料が得られたらしい。
 もしこれが国際的にどの国、どの集団でも事実なら、茨城県内での大規模催事もできるとなるかもしれないが、実際の日本側だと、五輪開催に際し会場付近で都民が密になる機会がふえ、同時に感染爆発がみられたので、そのころ流入しだしていたラムダ株など感染率の高いウィルスの影響なのか、単なる大規模催事でも感染率が特定箇所で有意に上がっていたのか、曖昧なままというべきだ。イギリス政府は飽くまで数えられる少数例を調べ(なお一国内の限定例で、標本として片寄りがある)、そこでは統計学上の有意差がみられなかった、と示しているに過ぎないし、実際以下の引用部分で示されるとおり、「催事での感染拡大が確かに・参加時点であったとはいえない(要するに現実の催事参加者らの間であった感染理由がよくわからない)」とイギリス政府もこの点に確信を持っている訳ではない。
 つまり、科学的資料として、イギリス政府の現時点の見解は、イギリスでの大規模催事が確実に感染拡大につながった証拠が得られなかった、といっているにすぎず、それは「大規模催事では感染拡大が進まない」事を示しているわけではない。よって、なんらかの大規模催事で感染拡大が進む場合がありえ、直ちに日本でも全球比較で感染率が著しく高い欧米地域と同様に、無条件に大規模催事をおこなってよい、とはいえない。なぜならイギリス政府の示した少数例では催事時の確定的な感染率増加の証拠がとれなかったにすぎず、実際には参加者の一部かそのクラスター(束、たば)などで有意に感染拡大が進んでいたかもしれないし、それどころか別の国の別の催事では感染爆発が束で発生した、なども十分ありえることだからだ。要するにイギリス政府は、UK国内の特定標本に関する統計的信憑性について、余り拙速に過度の一般化を行っている可能性が残されているわけだ。
 これは日本側で一部都民ら五輪強行論者が、英米など感染率が著しく高い国々での大規模催事再開の動きを、さも「先進国だから正しいに違いない」という文脈(西洋主義、入欧主義)で過度に信頼し、さるまねさせようとしていた場面でも広く見受けられた誤解だといえる。それらの国々でまだ十分な安全さが証明されているとは言えない段階での大規模催事再開の傾向は、文化依存のワクチンへの科学主義的な信頼度とか、集団への迷惑より個々の自由を重んじる個人主義とか、或いは頻繁で気軽な社交の習慣などがおそらく間接的に関係している様に見えるのに加え、ただの楽観偏見によっている風にも見える。そして実際に欧米諸国はまだ全地球でコロナ感染・死亡率が最も高く、この点で全ての人類生活圏の間で最も成績が悪く、反面教師とすべき地域のままである。

 もっといえば、今後、世界中で大規模催事が開かれるにあたって、過去のイギリス政府見解を十分に反証する資料がとれることになるので、実際に会場付近の束で確実に感染拡大が起きた例も出てくるに違いないし――特にマスク着用・手洗い等が不完全、かつ換気の悪い条件で不特定多数と密になる条件で、常識的にみてとても感染可能性が高い筈なので――、そのときイギリス政府の今回の見解は程あれ否定される。すなわち大規模催事のどの条件では感染拡大が進み易いかが、もっと色々な実例で示される事になるわけだ。よって、このイギリス政府の発表は、現時点で大規模催事が全て安全だ、と言い切れる科学的根拠となっていない。

 これらの箇所は、科学的思考力が一定以上ないと「大規模催事まるごと安全」論と見分けがつかないと思われるので、――例えば安直に「UKでは感染拡大してないとあの大英帝国の偉い偉すぎる政府様がいってんだから、科学後進国のわが国如きでやってもきっと誰も大して感染しないし間違いなく大丈夫だろう」と、科学的批判思考をほぼ放棄で、自虐史観じみて考えてしまうとか――、日本にかぎらず、科学的思考力が十分にない一部民衆の間に、単なる英国政府見解を誤読させる形で流布するのは、行政としてよく考えねばならない件だというべきだ。

 これら2つの催事(催し物、イベント)から得られた資料は、催事調査計画の一環として実施されたほかの大部分と同じく、共同体の感染率と同じかそれ以下の感染数とともに、大人数参加の催事を安全に行える、と証明しています。但し、この資料を観察する際には、催事で確かに感染が発生した、のみならず、催事へ参加したとき個人が感染した、どちらの仮定も立てられない、と記すのが重要です。
―― UK政府 『政府資料は大規模催事が安全に行えると示しているが、観衆は人混みの中で注意を怠らず、予防接種を受けるよう強く勧める』
数字・文化・媒体・運動省、健康・社会保護省、イングランド公衆衛生局、ロムフォードのベッチェル卿、オリバー・ダウデン英国議会議員閣下
2021年8月20日発行

   The data from these two events, alongside the majority of others conducted as part of the Events Research Programme, demonstrate that mass participation events can be conducted safely, with case numbers comparable to, or lower than community prevalence. It is however, important to note that when observing this data, assumptions cannot be made that transmission definitely happened at the event, nor that individuals became infected at the time of their attendance at an event.
-- UK government "Government data shows mass events can take place safely but fans urged to remain cautious in crowds and get vaccinated"

Department for Digital, Culture, Media & Sport, Department of Health and Social Care, Public Health England, Lord Bethell of Romford, and The Rt Hon Oliver Dowden CBE MP
Published 20 August 2021

https://www.gov.uk/government/news/government-data-shows-mass-events-can-take-place-safely-but-fans-urged-to-remain-cautious-in-crowds-and-get-vaccinated

https://news.yahoo.co.jp/articles/33a3fd6a6171410b97ed28cd09d9f28490d94132


2021年8月13日

緊急事態宣言つき時短協力金の廃止にあわせ、憲法に定める全国民の生存権保障としての基礎所得(一律給付金)による全業種に公平かつ国民の自由権が保たれる効率的市場環境の再構築をおこなうべき、政経上の理論背景について

時短営業などの要請を、国のやり方にあわせて茨城県庁も助成金つきでやっているわけだけど、この方針が自由経済や自由権に対する侵害の疑いが濃厚である。

 これはもともと安倍晋三氏があまたの悪政・犯行をしながら東京地検の不正によって泳がされつつ緊急事態条項を立憲化するといったときに危惧されていた事態の一側面といえる。
 無論その究極の悪用は特高警察を使って民衆を手あたり次第に逮捕していく粛清劇とか民族虐殺、思想統制などに至るので、自称愛国の一部・低倫理右翼、今では安倍信者・自民党信者などとも呼ばれるネオナチにとっては明治から昭和の天皇制ファシズム(結束主義)下での暴政を再現できるので、かれら自身も非道に粛清されるとしても、かれらにはあまりにおろかで悪意があるため、あまたのぬれぎぬで気に入らない者を抹殺できると想像している点で、かれらが望ましいと考える筈のできごとだ。いいかえれば、緊急事態条項はネオ・ナチズム(新国民社会主義、新国社主義)の最終形態として、独裁を狙う安倍氏に用意されていた。
 いまのところは安倍氏が体調不良を建て前にした雲隠れの形で菅義偉氏をいけにえに矢面にたたせ、いざあまたの安倍氏による不正の結果がでて国が破綻したとばれてからそれらをスガ氏のせいにしたてあげ、自分は信者とともに復権を狙っている状態であるといえるだろう。そして安倍氏の根本目的は一種のサイコパシーによる浅薄な対米追従での日本の米属国化、特に自衛隊の米属国軍化のための改憲なわけである。ちなみに、マキャベリが『君主論』でのべるとおり属国軍は確実に宗主国から使い捨てられ属国の立場も滅亡に至るといわれているし、世界史の事実もその様な様相を呈する場面が多いが、現時点の地球情勢をすべてかえりみて、この国際政略が日本や世界にとって全体幸福の最大化に繋がるか、大分疑わしい雲行きになってきているわけである。理由として中国の台頭と、米国内部の退廃、そしてベトナム・中東などでの米国軍産によるケインズ政策的侵略の戦術的失敗が挙げられるだろう。最も典型的にこれらの問題が顕現したのがベトナム戦争での米軍撤退と、イラク戦争での大義なき冤罪復讐劇だったわけだが、自衛隊は、当時の首相ともこのどちらに際しても米軍側に就かざるを得ず、その後のシリア騒乱でも、イランの民兵将軍暗殺でも「テロ(恐怖政治)との戦い」という名目で実際には自分達が多国籍にテロをしかけ、軍産の需要喚起をおこなう、といったろくでもない事態に陥っている。端的にいうとさも薩長土肥京芸ら幕末西軍の同盟国として死の商人の片棒を担がされ大量虐殺へ間接加担させられているがごとしなだけでなく、それらの米軍側の戦費は実際には日本と中国が主に買っている米国債をつかっている、という資金源にさえされているわけである。要するにジャイアン米国の手先でカツアゲされているスネオ日本的ポジションに置かれており、このままではまずいという自覚はかなりの程度、日本国内の良識派と左派はしているが、日本国内の対米追従派(自称愛国派、明治美化右翼、ネット右翼、安倍信者、皇族含む神道原理主義者、反中・反共論者、男系論者、自称保守あるいはビジネス右翼ら)と右派(保守派)一般は、さりとて米軍追放ののろしを上げるところまで戦略的に愛国ではないわけだ。もっというと、後者の対米追従派と右派は、幕末西軍と同様に、戦争に勝つ事や侵略被害を受けない事を上位価値に置く権術主義者で、みずからが他人や他国に害やわざわいを為す事、具体的には侵略したり差別したりするについては基本的になんの痛痒も感じない、という自民族中心主義あるいは中華思想の傾向をもっている。それはかれらが根本的には、一般知能の比較的な低さと関連している、つまり他人への共感認知とか思いやりとかいう点で異質な他者への理解度が低い点が挙げられる(ゴードン・ホドソンらによる"Bright Minds and Dark Attitudes"の説)。大雑把にみて、自国の全人民にIQが正規分布している時、飽くまで傾向としてなので個別の人物では例外がありうるが、IQの上半分は諸々の異質な他者への理解度がたかいゆえ結果として包摂的か比較的寛容な考えをもつにいたり良識派や左派に与しやすいが、IQの下半分は異質な他者理解が生育中に困難であればあるほど自己中心的・利己的かつ排外的・害他的な考え――例えばその典型例が神道原理主義に基づく皇居御所・都心中華思想や帝国主義、全体主義、侵略主義、天皇制結束主義、国社主義などなわけだが――に容易に引き寄せられやすい。なぜなら一般知能が低い人にとっては自分と似た傾向の同質的他者とならば簡単に意思疎通ができるので楽だと感じるからであり、また、自己愛を延長させれば、当然この自集団も自分をひいきしてくれるはずだ、というしばしば誤った前提、自集団ひいきの妄想を置きやすいからだ。これが愛国心または民族主義(nationalism、国家主義)と呼ばれているものの正体である。
 米国内の右派については、自分のみるところおもに2つに分裂しており、一派は単なる愛国保守派と、もう一派は排外保守派だ。たとえば人種差別や移民排斥を容認するかどうかでこの2つが相当程度、別れる。愛国保守派はこれらの非アメリカ的な考えを受け入れないが、排外保守派は進んでこれらの国社主義的考えを採用する。ドナルド・トランプ氏があれだけの力をもったのは、少なくとも当選時にはこの両者を支持に巻き込み得たからではなかったか。特に、米国にとって対外貿易赤字の相手国であるところの日中への攻撃的姿勢は、極めて米国の両保守派にとって都合がよかったのである。しかし現実には安倍氏が最初にトランプ氏の懐に入り込んだことでより重くするつもりだった対日関税や米国有利になる不公平な取引について在日米軍撤退をちらつかせながら脅しにかかる砲艦外交宜しくの戦術が序盤でなかば挫かれ、戦闘機を無理にでも買わせるとか米国不利とみたTPPから離脱するとか、トウモロコシを送りつけるとかトヨタを公聴会に呼んで米国工場新設を誓わせるとか、色々と中途半端に終わった。一方で中国に対してもファーウェイを国ぐるみで敵視させ、ティクトク禁止令の間際までいくなど、ファーウェイそのものにはスパイウェア疑惑があるからまだしも、民間企業への個人攻撃を中共(中国共産党)との共謀罪式にくりかえしたわけだが、これらも見るべき成果を挙げられなかった。シリアからは撤退をしたようだったが、そのうえで突如スレイマニ暗殺をおこなうなど、軍事面では大量破壊兵器の証拠がない段階での有志をつどってのイラク侵略を決行した子ブッシュに比べればそこまで過激ではなかったにせよ、過去の米国政府に比べれば相対的にだが、鳴りを潜める様な行動をとった。これで鷹的な愛国保守派としてはトランプ氏に見切りをつけるだけの理由が十分すぎる程できたわけである。同時に、メキシコとの国境封鎖など排外主義傾向の政策については、特にニューヨークとかカリフォルニアの様なエスタブリッシュメント(エスタブ。高い教育で確立した人、有力者)が割と多い地域での市民間の反感を買うと同時に、最終段階では南軍の旗をもった暴徒が米国議会に乱入するに至って、ある種のカリフォルニア人イデオロギ―あるいは情報統制の意図に基づいてGAFAMらが勝手に団結し、これらのビッグテック側は裁判上もいまだに表現規制・検閲行為として違憲の疑いが濃厚であるが、自分達の社内ルールで大統領の社交媒体を暴徒扇動の魔女裁判にかけ、アカウントごと消してしまったわけである。このとき、地球中の政治支配者で唯一冷静だったといえるのは、ドイツ首相のメルケルだったことを我々は世界史に明記すべきだろう。彼女は検閲は国法に基づいて行わねばならず、企業にその采配を与えるべきではないといった。米国はこの指摘に耐えられるだけの法倫理、法秩序を兼ね備えていない。俗的には米英法と大陸法の違いと解釈されていたが、現実の方が法に優越し、法と矛盾した現実が現れた時、米国、少なくともGAFAMの大部分が属していたカリフォルニア州などでは、米国憲法どころか州法にさえ個々の企業の利己心が優先されてしまったのである。だから我々は、一定以上の法的理解と認知力があれば、この部分でもはや米国ビッグテックを自由、特に自由権の擁護者だとは到底おもえなくなった。単純にかれらの利害勘定で勝手に社内ルールを使って、法秩序を破ることをなんとも感じていない人々の集まりだった、という意味では、違法なタダ電話装置が製品開発経歴の初陣を飾っているスティーブ・ジョブスとか、好みの女性との席次を調整するシステム開発が同じくそれの様な面があるビル・ゲイツとか、あるいはウィンクルボス兄弟からの盗作疑惑がついてまわっているザッカーバーグらの、一種の反体制的な色彩がいまだにカリフォルニア人イデオロギーの中には内在されていることがここでは露わになった。いわゆるお里が知れるというやつである。裏を返せば、元が不良学生が金儲けに夢中になって大学中退で始めた様な企業が主になっている米国ビッグテックは(但しこの文脈で、院生が意図的に起業したグーグルの親会社アルファベットと、脱サラ企業のアマゾンは除く)、基本がエスタブ発の企業では決してないのだから、所詮はその程度の軽薄な法・倫理観しか持ち合わせていない事が明らかになった、という話だ。

 ただ、これらのおそるべき経緯のうち、自分個人はイスラエルとパレスチナの複雑な宗教的聖地を巡る争いについては、今まで、ある中東のニュース・ブログが発端になった陰謀論の一種だったのだろう中東でのイスラエル軍とその諜報機関モサドによるスズメバチの巣作戦なるものが実在しうる、というかそのとおりと、ユダヤ人の親友がいるとあるイギリス人から証言された事で、半ば一定の可能性を置いてしまっていた時期がある。もっといえば、あるパレスチナの人と会話したところ、イスラエルの人と呼ばれる事を大いに憤激した様な呆れた様な感じで全力で拒絶された、などの実体験もあった。
 しかし、特にサイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)の人道主義的言説を色々と辿った結果、確かにモサド側がどんなことを考えて中東攻略を図謀っているかは我々には知る由はないとしても、「推定無罪」の必要はあると考え直す事になった。というのは、イスラエル悪玉論のたぐいには、根底にヒトラー風のナチズム(国社主義)に通じる所がある。これはヴィーゼンタール自身が激しく啓蒙していた反ユダヤ主義への批判の文脈をかえりみれば、誰の目にも明らかな事ではないか。確かにユダヤ教のなかには選民思想と呼ばれるものが旧約聖書の頃から計画されているので、それを純粋に宗教的に旧態墨守している一部の保守的ユダヤ人らのなかには、異国集団へ容易に同化しないために、排斥や迫害されやすいだけの条件があったことになるだろう。そして上記メルケルの大いなる間違いとしては、「多文化主義は完全に失敗した」と公言し、その種の異種共存的な包括的多様性をドイツ単位で拒絶してしまっていることにある。自分がみるに、同化政策と、国社主義には同根がある。メルケルは当人が気づいているかいないかにかかわらず、再びナチと類似の根本思想、つまりヘーゲルが世界精神として語った様な、ドイツ自民族中心主義に陥ってしまっているのである。たとえメルケルのそれがヒトラーと異なって、種族主義の偏見を表層的にぬぐっていたとしても、今度は「文化」とか「民族」とかいった別の抽象概念で、やはり、同じ排斥的なドイツ人風土に、同発言で間接的お墨つきをあたえてしまっているのである。排斥する理由を人種にするか、文化にするか民族にするかは、それをおこなう狭量な、低共感知能な、あるいは悪意ある人々が恣意的にラベル貼りをするばかりなので、実際の憎悪のあらわれは遺伝子だけに理由をかぎったものではないのである。したがって、このメルケルの失敗をかんがみると、SWCのおこなってきている様な寛容の風土に向けての「推定無罪」の原理を、全ての人種、民族、国籍の人々にあてがうのが、本質的に日帝が与していたナチへの真の批判であり、また、日本としての反省になるのは誤りない事である。その点で、モサドやイスラエル軍が具体的に日本国や、パレスチナ市民や民兵を含む諸国軍に、なんらかの非人道措置を十分な証拠をとれる形でおこなったときにかぎってそれを責める権利が人道主義者にはある。それ以外の場面で、ユダヤ人全員とかイスラエル政府とか、あるいはパレスチナ政府と市民に対してもなんらかの偏見から有罪の推定をするのは全く人間的ではないことになるだろう。無論、それとは別の次元で、モサドあるいは米国側のCIAなど諸国より我々が主体的に諜報活動を洗練させる必要があるのはいうまでもない。

 では上記の論旨を前提に冒頭の主題に戻るが、時短営業を要請する事による協力金の支払いは、巨視経済学的に、相当おかしな政策なのは確かである。
 まずこの方法では、市場干渉によって各市場参加主体(企業ら)の競争性を損なう。競争力がある、いいかえれば製品・奉仕について効率がいい会社・個人と、そうでない会社・個人の間に等しい協力金を支払うのは、いわゆる国社(国民社会主義、国家社会主義。ドイツ語でNationalsozialismus)政策にすぎない。自分は最初からこの方法には、経済学的観点から反対だった。上記の市場の効率的秩序を損なうのに加え、そもそも全ての営利活動の中で、飲食店など特定の業種に片寄って補償するのは、市場全体の効率を甚だ損なう事が明らかだったからだ。よって、自分は国民一律補償金が望ましいと考えていた。そのために予てから議論されてきている、格差社会下での生存権保障の文脈での基礎所得(Basic Income、BI)をこの際、導入するのがいいと考え、その為の財源を捻出する方法も個人ブログで提案していた。『月額7万円から10万円のBI財源論』(後述)
 しかし国政府の単位で、時短協力金の方が強行された。そこにあったのは、いわば飲食店を中心にした一部ガス抜き政策の様なものに過ぎず、憲法や国家公務員法などで国民全体への奉仕者と定められている公務員の義務については完全に逸脱した政策であった。その様な判断をしてしまう時点で、なるほど、前安倍政権から続いている内閣の弱知化が進んでいるのは確かだ。安倍政権下で連打されてきた違憲立法も、そもそも違憲立法の悪や不手際について安倍氏が理解しているかは大分疑問がある。世襲の箔を含む派閥闘争目的に安倍氏を首脳陣に担ぎ上げている今の自民党員一般は、法律体系を理解していないから違憲な立法が最終的に無効になる意味も、それにもかかわらずわざわざ立法させることに伴う国家的損失の意味も、まるで分かっていないのだと思う。安倍氏が学生としてもそれ以外の時期も、かれの担当教授も誤った指導について反省しているとおりまともに法学をやっていなかった事について今では万人のうち誰も疑う者はいないだろうし、もしいたとしてもその人も法学の知識がないだけにすぎないのである。このため、安倍氏の独裁期は、戦後最悪の恥知らずな上に最長期の最悪政権となっていたわけだが、結果として仮病だった退陣後の今も、内閣や政府へ向け彼が自民党最大派閥内の実力者として事実上の院政を布いているうえに、次々彼と同等以下の法学知識や倫理観しか持たない人々ばかりを重用するので、ある種の悪の組織、いってみれば長州ヤクザ組織状態で彼ら安倍一味は国の権力機構を専横している。同時に、安倍一味は検察人事権まで内閣人事局制度を無理に作り、検察庁長官の采配として握っているので、いってみれば天皇・皇族に次ぐ絶対権力によっていかなる不法行為、いかなる悪質な蛮行をしようとも決して逮捕・刑罰されない状態にあり、完璧な政治腐敗を極めている状態といっていいだろう。しかし、驕れる者は久しからず、いつまでもその種の政治腐敗が続けられるわけではない。第一に、国内に良識派が残っているかぎりつねに革命権の行使によって、第二に国外に良識派が残っているかぎりつねに外交上の外圧によって、それらの政治腐敗した独裁・寡頭政治勢力が退けられる。逆に、近視眼的にこの種の政治腐敗が超時代的に永久化できる、と考えている安倍信者を含む自民党信者らは、自分達が自分達の最も損害をこうむる最悪の悪徳政治を延々とつづけていきたいと考え、それこそ愛国だとおもいこんでいるならば、なるほど、この自称愛国右派こそが最もその言葉面と逆に、反国民的、反国家的な勢力なのが事実である。国会答弁内ですら最低118回も偽証罪にあたる嘘を連発してきた安倍氏だが、この種の極悪人がのさばりつづけるとすれば、そこは法治国家ではないどころか、近代文明と呼ぶにすら値しない、と日本国民全般ならびに諸国民全般は、仮に理性が錯乱でもしていないかぎり確実に理解できる範囲にある事例である。
 話をふたたび戻すと時短協力金は、この種の安倍一味による自民党・縁故主義政治が、GoToキャンペーンの延長上で大規模に試みられたもの、と言ってまず間違っていない筈だ。第二次以後の安倍政権で自民党幹事長の二階俊博氏は全国旅行業協会の長だったので、旅行業界の利権を主張した。和牛商品券についても同じだった。この様な利権の嫌疑は諸野党からの追及でもうほとんど事実だろうと明らかになっているわけだが、要するに党閥縁故主義によって政権が一部の利益をはかり、全体の利益を犠牲にしている。飲食店・百貨店、のち大規模店舗と安倍・スガ両政権にどんな縁故があったかは自分にははっきりしないが、仮に何の縁故もなかったとしても、なにゆえすべての業種の中でこれらの分野だけが協力金の対象になっているのか、まったく経済学的に筋のとおる理論が示されていない。要するにそれは縁故政治の延長上で堕落した形、もっといえば幼稚化、または弱知化した姿というべきである。くりかえすが、この政策はどう間違っているかならば、さまざまな業種間で特定業種へのみ不公平に補償金(協力金)を手渡す事で、市場全体の効率を損なうばかりか、それは全体の奉仕者としての公務員の義務を法的・倫理的に逸脱している点にある。
 この件についてしばしばネットでみられる批評として、例えば企画制作者自身によるロッキンジャパンフェス中止判断等のときにそう叫んでいる民間の人物がいたが、私権制限論がある。では私権の制限だから時短協力金が問題なのだろうか。私はそうではないとみなす。なぜなら、緊急事態宣言では、政府は直接、私権の制限をしていないからである。単に営業自粛要請をして協力金を払うといっているにすぎない。同様に各地医師会や医師らも行動制限論などの要請をしているだけで、政府の強制力やなんらかの暴力装置によって国民・法人各自の自由権を制限しているわけではない。なるほど事が日本だけに和の同調圧力で実質的にその空気を破って営業するのが難しくなる、などのこの国特有の文化風土から、実質的には強要ではないか、という論点も成り立つ余地がある。実際、脅迫などをおこなう人々もでてくるかもしれないし、私個人はしらないが実際、そうしているひともいるのだろう。その場合、かれらは営業妨害罪になるのが事実ではないか。だからといって、各地の警察・検察が腐敗していて、営業妨害罪をされてる側へ無理やり自粛しないお前たちが悪いといって被害者と加害者を悪意で混同しつつ冤罪きせているだろうか? もしかしたらそういう事例があるかもしれない、特高や安倍自民党政権の横暴のかずかずを擁護していた近現代の日本の法的民度をかんがみると十分ありうることだ。ゆえに私権制限論による時短営業その他の自粛批判は、その事実がないとしても、日本では、特に法的理解が薄い衆愚側に一定の説得力をもってしまうわけである。こうしてラッドウィンプスのボーカルや、彼のファンらに煽られた様な反社会的ヤクザたちが、遂には人命保護を使命とした医師や、罪のない一般民衆へ悪意ある冤罪をきせながら暴言を吐き、差別的言動をくりかえすばかりか、実際に京都市民が脅迫事件で警察に逮捕されるような事態に至るのである。
 だが、もしわが県が文明圏の一端に属しているならば、この私権制限論は、立憲法治主義の観点から、別案件と峻別されねばならない。いいかえれば、安倍氏が強行採決させようとしていた緊急事態条項の方は、確かに名義がよく似ているが、完全に政府による私権制限目的そのものだったという事だ。端的に言えば米軍の手先として自衛隊や自国民を、自民党御用学者・三浦瑠璃氏の扇動する国民皆兵令のもとで、あるいは安倍・スガ内閣の副総理・麻生太郎氏による天皇国家元首化の扇動する戦前退行の形で、総皇軍化へ強制しようとしていたといっていいだろう。安倍一味の派閥が排除したからまだ結果としては先送りされたものの、石破茂氏が今の首相になっていたら、実際、その様な軍国化が、良心的兵役拒否権を否定する形で改憲に結びつけられていたかもしれない。だからそれらの自民党ネオナチ政権、自民新国社政権の前座として、私権制限に国民を徐々に慣れさせる目的で、緊急事態宣言なるものが発布されている、と考えるのが、現代日本政府の分析として的確だろう。結局これ以外になんらかの主要目的が背後にあるとは、諸々の分析でも出てこないほど不公平すぎる案件なのだから。

 政府に従順にさせる事。上からの命令に、全国民が和、空気、正義などと名づけた不寛容の悪意による相互監視のもとで進んで従う状況をつくりだし、これを采配する形で、自身が絶対権力を握る事。それが安倍氏の主眼に置いている事態で、いってみれば僭主としての絶対権力願望というべきだろう。そしてこの絶対権力を完成させ、最終的には彼が妄想の中で愛顧している祖父・岸信介の亡霊を追いかけ、自主改憲という形式を踏むこと、さらには戦犯逃れの米国CIAスパイとして岸がおこなった米軍の間接統治状態を、自分の手によって自衛隊の米属国軍化で新自民憲法のもと完成させる事。これらが、安倍氏の全人生を思想背景から分析したときにみえてくる彼の主要行動目的といえる。そして安倍氏は、対米追従、もしくは臣従が、日本の国益になる、という信念を少しも疑えないのである。なぜなら、岸というかれの祖父が実際に、その様に、日帝軍の文官側の幹部であったにもかかわらず米国側に魂を売る事で生き延びた、私的な命の恩人への悪の契約であり、一種の魂の明け渡しだからである。岸は日本の戦友を裏切る事を或るサイコパシーによって正当化したので、その孫である安倍晋三も、敬愛する岸と本質的に同じ系列にある行動をとることで、岸と同じ「宗主国への売国による支配」という二重基準に自らをなぞらえたかったのである。これが私がこれまで積み重ねてきた安倍の心理分析の現時点での最終結論といえるが、この様なかれの行動原理によれば、今の時短協力金策も、究極では自分が闇の僭主としておこなうべき憲法改悪、すなわち自衛隊の米属国軍化のための陰謀の序章部分にすぎないのである。そのために、飲食店・百貨店・大型店舗以外の業種は余裕で犠牲にするつもりなのである。もしくは、表面の人気さえ取れれば、巨視経済学に通じているわけでもないので、そこまで機転が回らないというべきか。

 安倍信者と自民党信者が、神道原理主義右派一般ともども最も憂うべきは、かれらの信じている皇族やら安倍晋三氏やらが、最も宗主国への売国によって、或いは自分に縁故上の利益がある一部の者を除く全般的棄民の正当化によって、自分達の地位を築き上げ、保全している真の反日勢力だという真実である。無論、これに気づいている者は、皇族や安倍一味を国政から何とか追放しなければならないと以前から考えその為に政治行動してきている。だが、あまりに衆愚の愚かさ、悪徳のほどは酷いので、かれらの真の愛国愛民行動には頭ごなしに最悪級の汚名が、自称右派に煽られた一般民衆からさえ、つぎつぎ着せられるばかりである。そもそも、これらの右派一般は上記ゴードン・ホドソン論文の指摘するとおりならば、相対的に一般知能が低い傾向もあるので、真の自己犠牲をかえりみない愛国・愛民心と、偽りの愛国・愛民心こと私利私欲とを、厳密にみわける能力が凡そ寸分もない。それで却って偽りの愛国・愛民者に最大の権力と名誉を与え、真の愛国・愛民者には最大の汚辱と冤罪をくり返してきている始末なのだ。この意味で、愚か者や悪人の無数に溢れている場には、真に清らかな国はつくりえないというべきである。

 同様に、特定業種への肩入れにすぎない時短協力金の実態が上記の様な安倍一味の改憲計画の前座、すなわち政府による全体主義的な私権制限の第一段階としての国民全員への慣れさせが真の目的に基づいて出てきている国社主義政策であれば、我々はこの最初の芽の段階、つまり今の時点で、自民ネオナチ勢の横暴を完全に除去してしまう必要がある。いいかえれば緊急事態宣言の放置で至りつくところが寡頭政党・自民党とその裏君主の安倍氏による緊急事態条項の立憲化による国民全体への全体主義独裁及び全幅の思想統制であれば、それは当然ながら国の良識を司る自由権、人格権ふくむ全人権の潜在的消滅と、結果としての国の滅亡を意味するので、緊急事態宣言と時短協力金のセット販売での国民騙しについては、鋭い批評を加え、特定業種への利権誘導にすぎないとし、これを次期衆院選までの早期にやめさせ、代わりに、国民の自由権を制限しない形でまたいかなる業種へも不公平をもたらさない形での、一律補償金へとコロナ禍での福祉制度改革をおこない直す必要がある。もし一律補償をおこなっても、所得税の西洋並の累進化をおこなえば税制全体として、調整的(所得再配分的)な公平性は保てることになるからだ。なお、この際の基礎所得状態での一律補償金が財源として不足することについては、前述論文で詳細に挙げた通り(『月額7万円から10万円のBI財源論』)、節税目的の赤字演出が可能な法人税と、実質的に企業への法人税との二重課税になっている消費税を廃止し、企業側がごまかしえない企業自体の内部留保税(税引前利益として毎年の費用・経費との差し引きをおこなわず、企業の実質的な利益蓄積量を基にした課税)という形にする事で、永続的な形で十分まかなえることになる。

2021年8月12日

共和政体への移行後に茨城県は天皇をどう扱うべきか、その試論

会沢安が間違えたのは、当時として植民地化防止策としての国体論の構造ではなく、それが余りに性善説に基づきすぎていた点にあった。このため、当時として常陸国の領域或いは列島の他国では当時として十分通用したが、より都会ズレしていて性悪だった関西地方や、より卑しく利己的・反乱的な人間だらけであった薩長土の各地や、衆愚的な江戸では、あるいは単なる傲慢な世襲独裁者の一門であった天皇家自身からさえおよそ全くゆがめられ誤用されてしまった。
 会沢の国体論は、根が浅ましい吉田松陰が倒幕論へとつくりかえ、天皇と将軍へ忠義な徳川の侍である会沢ら吉田に教えを授けた水戸の学者とその純粋な祖国愛を裏切る方に悪用された。底抜けに性悪な関西地方の人々は、岩倉具視らをはじめ、水戸家の尊王論を受けた徳川慶喜へかれの身を粉にした勤皇の功績にもかかわらずそれと真逆の朝敵のぬれぎぬを着せ、今もその人道犯罪に平気でいるのだ。天皇家は水戸学者が啓蒙した国体論や尊王論へ、当の水戸徳川家出身者である慶喜らへぬれぎぬを着せ戊辰戦争で国内侵略虐殺をおこない馬乗りするばかりか、最終的にはこれらの論旨を井上毅らの手になる『教育勅語』などで断章取義しだした。こうして天皇家はみずからの為の侵略帝国主義へと拡大解釈しはじめ、アジア太平洋地域ですさまじい戦禍と人権侵害、皇民化の強要による大和朝廷同然の民族虐殺ふくむ残虐行為の悲惨を再びもたらすことになったのだ。

 尊王と愛民が対になって成り立つ水戸学の政治思想は、その高文化的な表現形態によって知識層の間でのみ理解されえたといえるだろうが、現実にこの趣旨を正統的に受け継いだのは、やはり常陸国こと茨城県政の中だけだったのである。梶山静六による愛郷無限の哲学はいわば烈公の愛民思想のいいかえだろうし、戦後はじめに水戸の旧県庁舎の屋上から昭和天皇が詠んだ御製も、その尊王の風土に対する国家再建の期待だったのだろう。
 会沢安はかれとして最も誠実な理論を編み出したのだろうが、薩長藩閥による明治政府において松陰観念論上の一君万民論による中断をはさみ、烈公ら後期水戸学の祭政一致論・大義名分論はのち戦後政府の象徴天皇制に至ってはじめて、本来の姿に近い形をとることになる。そして平成期では、会沢の国体論はあいかわらず右派の中で、保守思想の中核として使われているが、それは江戸時代後期では最も前衛的な進歩主義的政治理論で当時の政府は体制と矛盾しかねないものとして、大政委任論に立って天皇の権威を根源的に否定していた大老・井伊直弼らが実際に、幕閣の立場から思想弾圧の挙に出ていたのだ。この国体論を、平成右派の一部は、元勲ら明治の極左、あるいは皇道派ら昭和の極左(或いは極右)と同様に仰ごうとしているが、実際のところ、その種の抽象的国体の象徴化された姿としての天皇は、少なくとも次代の秋篠宮にあって国民やその元にある制度や信仰を、かれら自身の家の私利の為におおかれすくなかれ利用するばかりで、今では会沢のめざしていた官民相和する理想国は綻びを見せつつある。

 では会沢の努力は無益で、あるいは有害ですらあったのだろうか? 日本は確かに植民地化を防げたが、飽くまで米軍からの侵略を防止できているのは、これもまた、自衛隊基地のみで専守防衛されている茨城県域など少数の地域だけである。同じ関東・首都圏でも神奈川や東京は米軍基地に占領されたままで、神奈川民や都民一般はこれに何の疑問ももっていない。
 もし或る理想国が僅かな領域であっても、それがない状態よりははるかに優れているというべきだ。だからこそ、理想(和訳の原語として、プラトンのいう「イデア」)を飽くまで追求し、それを実現した政治領域をもっていることは、大きいほど望ましいとしても、仮にどれほど小さなものであれ、我々にとって模範としてこの上なく重要である。著作の様な虚構、作り事の形でも、理想国ができあがっているのとそうでないのとでは、抜本で核心的に全くと言ってもいいほど大きな違いがある。水戸の志士は国政のなかでは香川敬三ら皇室に直接仕えた一部の人々を除けば、明治から昭和の下院政体からは、総じて排除されていた。上院では水戸徳川家や徳川慶喜家らが現役だったものの、水戸学の理想を自由に実現しうる領域は、かれらにとって茨城県に限られていたのである。

 それでは、我々茨城県民は、今後の未来でも会沢と同じ理想を追求すべきだろうか?
 私は、天皇制が象徴であれそれ以外の形であれ、永続する事はないだろうと考える。それというのも、水戸学の趣旨のうち、祭政一致論は政教分離と根本的に矛盾を抱えているし、国民主権と象徴天皇の存在も根本的に違和するものだからである。共和政体が永続するかとは別に、愛子天皇にならないかぎり、そしておそらく自民党右派に影響力をもつ旧宮家の竹田恒泰氏ら男系派の抵抗のためならないだろうが、次代の時点で天皇の世間的権威はおそらく失墜し、君君たらず臣臣たらず、と言える状況が到来するだろう。その際、国政では天皇を廃止し、共和政体への移行が起きるだろう。
 茨城県はこの時、やはり民衆の総意として、共和政体への移行を選択するだろう。問題はこの時の天皇のその後の扱いである。義公は『古文孝経』を引いて君君たらずといえども臣臣たらざるべからず、すなわち当時の天皇に徳が失われてもその臣下を自らに任じる者は天皇を守護すべきである、との趣旨を述べた(義公『常山文集』巻十五名越時正『水戸光圀』水戸史学会、1986年7月、180-184ページ「護国の教え」。義公が養子である粛公に遺訓としてのこした詩)。慶喜公自身が『徳川慶喜公伝』で伊藤博文や渋沢栄一らへ伝えている事実このとおりに慶喜は大政奉還し、その後、薩長閥や岩倉具視らから小御所会議後に朝敵のぬれぎぬを着せられても皇軍の前で自主退却を選び、みずからの江戸城も無血開城を選択したのである。そうであれば、常陸国・茨城県の伝統として、皇室廃止後も、当時として民衆全体または過半数が皇室を支持せず、また仮にどう不公徳な天皇へも飽くまで臣下の義、ここでは可能なだけの人道措置をとるべきではないか? となる。実際、英仏公使らは、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』によれば、薩長土肥京芸ら西軍、特にイギリス公使と交渉にあたった西郷隆盛がイギリス勢へ
西郷ら「慶喜公にぬれぎぬをきせ惨殺すべき、ついては協力してほしい」
云々と主張していたとき、
イギリス公使側「ナポレオンすら失脚に留まったのに、何の罪も犯していない前将軍・慶喜へ冤罪をした上に死刑にするとは、文明人として紳士協定に反する」
云々といって、いわば普遍的道徳に基づいて、この狂った野蛮人の謀略をはっきりと拒絶していたのである。その様な振る舞いが当時からみても後世からみても、文明の理法によっていることは明らかだった――尤も現実のイギリス公使として、上記を建前としてイギリス国政の事情として、内乱に薩長方で介入するだけの利益が本国にみいだせなかっただけ、内戦不介入で日本人同士に疲弊させた方が得と判断したともいえるだろうが。一方、父の天皇に絶対忠義たるべしとの庭訓を守って、尊王の禅譲を選ぶ慶喜公へ、フランス公使側が江戸城でくりかえし、非道な薩長と戦えと主張していたのはいうまでもない。日本国内でも山形の侍・雲居龍雄『討薩檄』は幕末当時、戊辰戦争に際して書かれたものだが、西郷隆盛・岩倉具視らの冤罪画策で、慶喜の母方の親族である皇族や天皇と殺し合わせるようとするなど人でなしに過ぎる以ての外の暴挙だと、国籍を超えてかれら英仏公使とほとんどまったく同じ道徳判断をこの際に示している。実際、明治政府樹立後は薩摩閥から盛んに美化される事この上ない西郷は、戊辰戦終結後に征韓論にながれますます吉田松陰ゆずりの侵略主義の本性を示し始め、これら手段をえらばぬ恐怖政治による暴走の末、のち西南戦争で自刃する事になったのである。

 これは私が現時点で想定している状況下での事前の想定で、実際の現場ではそうでない行動をとる事が何らかの理由で必要になるかもしれない。例えば茨城県庁が天皇の人権を尊重したために、県外の多数の自治体から攻撃を受け、民衆が致命的損害をこうむる様な状態では、当時の政権が天皇擁護の立場にたちつづけることは不合理となるであろう。そのとき、人道主義の観点から、茨城県庁の政権は常に主権者である県民全体を優先し、その時点では重罪人扱いされているはず天皇を犠牲にしなければならない。よってこれは絶対的正義を意味するものではなく、飽くまで政体移行後、事前に想定される試論である。

 日本国が共和政体へ移行後に茨城県が尊王と愛民が両立不可能なとき、第一にわが県は天皇の擁護よりも県民の人命保護を選ぶべきだが(県民第一)、それ以外に、それと矛盾しない場合に天皇を擁護(消極尊王)しても同じく、既にのべてきたとおり、すくなくとも西日本のほとんどの府県とか、南関東の都県とかは、過去の経験則から、確実に、西日本や南関東勢は我々へ想像をはるかに下回って超える諸々の悪意であまたぬれぎぬを着せてきたり、謀略にかけようと悪意ある犯行をしてきたり、場合によってはその種の茨城の尊王の立場を西日本・南関東総勢として恣意的に利己心から悪用・利用しようとし、底抜けの悪意から実際にするだろうことはおよそ例外の余地なく、ほぼ確かなことである。それが日本史の完全に温故知新として示している真実、すなわち、西日本や南関東はその根本的な政治志向において、東夷や朝敵などと際限なく茨城県へ冤罪を着せる中華思想によっており、根っから性悪な悪意をもつ暴徒集団であるのが諸々の経緯から証拠づけられる事実だからだ。強調しておかねばならないのは、このことは天皇家や皇族やその親族自身も、旧来が西日本や南関東勢の一員であるかぎりなんら例外ではない。
 たとえば京都市長・門川大作が皇族の政治利用をめざして、箔づけあるいは権威づけのために皇族の京都移住を政府にくりかえし願い出ている様な形を、彼や京都市民にとってなんの縁もゆかりもないとみなしている茨城県により害や禍を為すよう拡大させた姿で、なんらかの想像を超えた悪事を働くかもしれない。茨城県側にとっては尊王論の既成理論があるため天皇の政治利用は、桜田門外の変や坂下門外の変をまねいたよう当然ながら禁忌だが、幼帝の明治天皇を前に岩倉具視らが錦旗を捏造し、西郷隆盛が戊午密勅同様に倒幕密勅を偽造し、小御所会議以後にかれらと大久保利通らが摂関家を牛耳って天皇や参加公卿公家と共謀し尊王の慶喜へ朝敵のぬれぎぬを着せると皇軍と称し、政権掌握をめざしクーデターを敢行した京都の岩倉具視や鹿児島の島津茂久、広島の浅野長勲、高知の山内豊信ら、性悪の権化というべき西日本勢の相当或いは大部分や、かれらからの侵略をうけた南関東勢と、水戸家が中核におわす茨城県の国柄の差だったのだ。実際のところ、それら西軍の悪意は当時すでに奥羽越列同盟勢からも見抜かれていたが、西日本の人々は、小御所会議で西軍を主体的に構成した薩長土肥や京都・広島勢を筆頭にいまだに、かれらによる慶喜や松平容保らへの冤罪とそれに伴う侵略罪を、かれらの郷土史のなかでも現実においても恬として恥じていないのである。京都府京都市がお里である原田伊織氏や、長野県上田市がお里である関良基氏なども現代に於けるその例である。だがそれにも関わらず、人道の最終段階として、全国民が総意として反天皇的になった時に、共和政体その他の下でも茨城県だけが最後まで、義公の哲学を我々が守り抜くかどうかが問われるというべきだろう。たとえ水戸学への浅学な誤読・悪解釈によって反水戸イデオロギーを煽っている一種の憎悪表現者、滋賀や長野の自民族中心主義ネオナチヘイターである原田氏や関氏らといった平成令和期の中部・関西の一部のひとびとあるいは彼らに煽られた民族差別暴徒からの悪意の渦の中でもだ。この意味で、会沢の国体論は、共和政治移行後の最終段階としての天皇への人道的な扱い方として、茨城県の領域にあってのみ、その正義の核心が発揮される様な理想だったのだ、と私は思う。未来は、おそらくその様な流れで、高い理想をもっていた茨城県民と、そうでなかった他都道府県の宿命の決定的違いという、全く別の文明界に属する世界観が別れていくのだろう。
 こうして我々、後世の常陸国、茨城県民らが会沢の、日本国民一般を信用しすぎた、という江戸時代に犯した失敗から学べるのは、西日本や南関東ならびに皇室の民度、特に道徳性・倫理観念が我々茨城人一般の想像をはるかに下回って低く、かれらの根底に性悪説が前提にあるとみなさないかぎり、再び、かれらから慶喜公あるいは平将門らと同じ冤罪を着せられ、何百年以上にわたって汚名を着せられ貶められる、と過去の延長上に推計できる不動の前提に立つべきことで、いつでも茨城県や県民へ権力乱用で棄民・暴虐しうる天皇家や皇族自身を含め、それら西日本や南関東などに群れている紛れない野蛮人、さも同じ国民と称しているがまるで心根が違っている蛮族たちと我々は接している、と深くはっきりと自覚しつつ、我々自身は透徹した確固たる良識をもつ文明人として、現世ならびに前世(前の世代の人々の名誉)と後世の全人類の為に、政に当たるべき事である。具体的には、我々は常に我々茨城人自身が最も有利かつ有徳となる選択肢を取り続けねばならず、その際、上記で示した県民第一かつ消極尊王なる政治・宗教上の観念論に片寄って、県民全体の損害を招く事は、全ての場面において決してあってはならない。これが何らかの現実との違和を生じた時点で、我々はより現実的に望ましい行動をとるべきだ。
 またこれらに加え、上記の原則と矛盾して県外人(茨城県民以外の日本人か外国人か)が消極尊王と矛盾する様な場面、例えば県外人を人命保護しなければならないとき敢えて皇族を見捨てれば助けられる様な場面ではどうすべきかだが、共和政体への移行後については、皇族や県外人を一般県民と極力同じく扱うのが最も普遍人道的なのではないかと思う。すなわち万人平等である。

 上記の趣旨をまとめると

1.県民第一
すべての場合でわが県政は県民の命を第一に尊重しなければならない。

2.消極尊王
仮に皇族(共和政体移行後は旧皇族)が県外人総勢から支持されていなくとも、茨城県庁では水戸学の伝統に則りかれらの名誉を尊重すべきである(但し個々人が旧皇族の人格権を損害しない形で、旧皇族による公事・国事や、彼らを教祖とする神道、あるいは彼らを含んでいた過去または未来の政体への批評をする政治論・宗教論・歴史論上の権利はある)。

3.万人平等
茨城県内の全人類は、茨城県内にあっては、その国籍や、門地、戸籍(及びその有無)にかかわらず極力ひとしく普遍的人道に基づいて取り扱われるべきで、それは共和政体移行後の旧皇族についても同じである。

2021年8月11日

水戸学の正しい理解に基づく、神道原理主義批判について

関良基という人の本や主張について、自分はじゅんちゃんなるYouTuberの動画を通じて初めて知ったが、水戸人や水戸学への悪意ある誤解、悪解釈、そしてスケープゴート(いけにえ)化ぶりが憎悪表現そのものでしかなくびっくりした。原田伊織のつぎにでてきた偽史学もどきを語る人物で、無論、実証的な歴史学の水準に達しておらず、最初にイデオロギーありきで『大日本史』は無論の事、およそ一度も水戸の史跡や回天神社など事跡を全く追わず、完全な偏見からきた妄想で水戸を悪者あつかいしており、完全にネオナチの類に思う。原田の場合は滋賀だが、関も自民族中心主義者なのはいうまでもない。非常に危険な憎悪を煽っているのは当然だが、実際に水戸の郷土史を実地と実証に則ってやってきている側からすると、同じ日本という会沢安の国体論でつくった枠組みのなかに、悪意しかない悪魔の様な愚かすぎる人々が現に生きている証拠となるのが、原田や関の存在といえる。つまり植民地化防止のためにつくった祖国領域守護の専守防衛目的の国体論はこの時点で、中部や関西、薩長土肥の様な道徳民度の低いなんでも利己的に悪解釈したり悪意で誤読するのが当たり前の国々には早過ぎたのだ。あまりに性善説によりすぎたというべきで、実際、茨城県域で米軍基地をひたち海浜公園にしたという風に、常陸国の領域でしか正確に意図すら伝わっていない。というか関は原田と同じく、水戸学の基本文献にすら通じていないのに、その思想を誤読しつつ民衆を憎悪へ扇動している点で極めて悪質である。
 水戸史学会は公式声明などで、直接、関や原田と公開対談し、現実の実証される水戸学や水戸人の善意や正義論について彼らの悪意しかない憎悪演説を公的に批評する必要がある様に思う。それほど両者の風説には悪意しかない。

 あまりに間違いが多すぎるので彼らの論説をいちいち反論していくのは大層骨が折れる作業となる。そもそも彼らは水戸を薩長と同類視しているが、この時点で大幅に物の見方がおかしい訳で、しかも慶喜という最後の将軍は水戸人で事実と大幅に反しているので、既に彼ら関や原田は歴史学をやるつもりがないとしかいえない。タチが悪いのは彼らは嘘と政治イデオロギーで固めた司馬遼太郎と本質で違いがない小説作家にすぎないのに、さも史学の体裁をとってますます事実に反する別の卑しい偏見を世間に流布していることだ。
 幕末の水戸は水戸の正義論として尊王と愛民を旗印に行動していた。しかも会沢らによる開国論や近代化による富国強兵論を前提にする学派が弘道館の主流で、いわゆる諸生党の原型になる。慶喜はそのとおり平和外交と開港、議会政治論者で、第二次長州征伐た戊辰戦争にすら消極的で内乱や外乱を避けて当時として国体の統一、つまり日本各地の植民地化防止を図っていたのである。これと烈公が唱えたとされる攘夷論はまた別の流派であり、藤田東湖と小四郎というのち天狗党となる急進派の立場で、しかも烈公自身はこれを即時実行するつもりはなく、米国側の砲艦外交に怯まないための一種の士風維持のための演技だったという話は我々水戸学研究者の中では有名な逸話である。というか常識レベルで、烈公は米国留学を願いでていた近代化論者であり、原田や関はそれすら知らないか、無理やり烈公を小説的に悪役化するためイデオロギーの色をつけ嘘ばかりついているのだ。こっちには烈公の書簡も残っていれば渋沢栄一『徳川慶喜公伝』での動かせない証言まである。烈公が富国強兵策のため近代化改革をおこないつつあったとき、井伊直弼が安政の大獄で烈公らへ濡れ衣なり悪意ある弾圧なりを加え、結果、多くの無実の者まで死刑などにされたのでやむなく、徳川の侍として桜田烈士は井伊を討つしかないところまで追い詰められたのだ。
 原田や関は今の価値観で別の時代の人を語る、という歴史学においてはありえない過ちを平気でおかしている史学の素人だ。アヘン戦争直後でいつ植民地化されてもおかしくない状況下で、政府の進歩派(烈公ら)が欧米列強からの侵略戦争に備えようと軍政改革をはじめ、一方で保守派(井伊ら)がアヘン戦争後の清がむすばされた不平等条約を顧みずこれらの近代化にブレーキをかけたがり死刑乱発などで大名や武士、民衆を弾圧し結果、政府の内部闘争があった。なんら不思議なことではない。結局は烈公の息子の慶喜が最後の将軍として大政奉還や無血開城をおこない自ら封建制に終止符を打つことで、隣国の清(当時の中国)や朝鮮のよう植民地化される前に、進歩派が主体になる新政府へと移行できたわけである。その際、水戸人は徳川方として慶喜はじめ自己犠牲を選択しただけで、それ以外の方法で近代国家へとあゆみを進める余地が我々にはなかったのだ。特に、薩長両国が大暴れをはじめて、勝手に対外戦争をし、しかも賠償は徳川政府もちにして何度も日本人へも恐怖政治(テロリズム)をおこなうなど、この点だけは原田や関のいうことにも事実を言い当てている面がある。当時、鎌倉幕府のときのよう実際に即時に元寇を追い払う形で終結させる可能性もあったわけなので、その不可能さを薩長2国が実証した形になる前の日本で、攘夷行動をとった人々を責めるのは、当時の危機的状況が今のよう自衛隊だの警察だのが組織されている状態とはまるで違うと、原田や関は想像できていない。もっというと、第二次大戦終結まで現役でアジア人は全般に欧米諸国から被差別対象で、インドや南北アメリカ先住民らをかえりみれば日本人やアイヌ全員が欧米列強から民族虐殺でみなごろしになる可能性も十分すぎるほどあった時代だったし、実際それを防ぐ目的の理論が若い水戸の学者会沢安の伝説的な著の『新論』だった。これを、じゅんちゃんすら誤解している。平成令和の在特会風の単なる卑小な人種差別を目的にしたネトウヨ愛国カルトなるものと、会沢が世界史の趨勢をみながら深刻な欧米列強からの侵略・植民地化・民族虐殺への現実にあった危機意識から全国民を救いだす啓蒙書として生み出した『新論』での国体論とは、置かれている哲学上の次元がまるで違うのだし、実際、後者があればこそ、極東アジア人が世界史から奴隷種族扱いで消されずに済んだ面も実際にあるだろう。いわば知的労作として、江戸時代までに知られていた日本の全英知をかけ、令制国諸大名の連邦国だった今の本州四国九州をあらたにひとつの国として統一し、それらの住民に民族としての愛国心をもたせ欧米列強による侵略から守ろうとしたのが、会沢の国体論の目的だった。そこで大名の長である将軍の上に、大名を超えた権威として天皇をもってきたのである。また、当時はキリスト教化によって国の一部が欧米化し、日本を離脱したり、いわば今の香港状態で内乱の原因になる危険性も神仏習合ふくむ宗教的ゆるさのために存在していた。これで一種の思想上の天才である会沢は、他国とは違う宗教的思想形態である神道による国教の整理をおこなおうとした。なるほど今の価値観から見返せばそれがアーレントのいう全体主義の一起点になった面もあったにせよ、また彼女自身ユダヤ教の影響下でやはり宗教的統一を無視できないのにも関わらず全ての宗教の手段性を軽視している節があるにせよ、当時の江戸時代の状況からすれば、会沢が言うようのするしか欧米列強の脅威を民間信仰面で完全に退ける道筋がまずなかったのである。だからこそ、大隈重信や福沢諭吉が書き残しているとおり遠く九州地方でもこの会沢の『新論』が聖典(バイブル)のよう知識層であった市民(侍や町人)に受けいれられたのだ。この時代状態への想像的理解ぬきに、単なる全体主義の起点として会沢の国体論を語るのはおどろくほどの無知や拙さによるとはいえ大幅に誤った見解というしかない。だから体系的歴史学の素人あるいは浅学者に教えを受ける様なことは異端に学ぶ害しかないといえるのだ。
 そしてまた水戸人は愛民思想の起源である。このことを関も原田も知らない。つまり仁政や徳政を是とする歴史風土なのである。これについても儒学を修めた義公の代から変わらないものがある。彼が笠原水道事業などで領民の最大多数の最高幸福を願う先駆者だったのは封建領主として彼が民衆の味方と仰がれる理由になっている。同じ為政の姿勢は以後の水戸家が一貫して持っていたもので、烈公の偕楽園造園や飢饉対策、殖産興行もいまにつづく茨城県政の礎となり、のち梶原静六による愛郷無限の思想にもつながる。これらの常陸国政や茨城県政に脈々と流れる愛民主義の作法を、関も原田も少しも認知できていない。彼らが単なる片寄ったイデオロギー論者で、水戸を毛色のまるで違う薩長と同列に並べたい目的に、文献だけで判断して誤って悪解釈している証拠だ。しかも『桜田義挙録』のような周辺文献はいうまでもなく『大日本史』『新論』その基本中の基本文献すらまともに読み込んでいない。一瞬でもこういった浅学の徒に言及するのは我々の品位に反すること甚だしい。よって以後わたしは軽蔑する相手にわざわざ注目を集める様なふるまいをやめるが、ここでなぜ敢えて言及したかなら、じゅんちゃんという若者が、三流の擬似歴史本、イデオロギー小説によって根本的に誤った道へふみいれていくのを見るに忍びないからだ。

 じゅんちゃんはアーレントのファンらしいので、彼女の全体主義批判の文脈に引きつける形で、たまたま関の著に触れ、関の謬説を真に受け水戸学へもほどあれ誤った解釈をしてしまっている。それはこれが第一に、その後期の一部にあたる会沢『新論』で江戸時代の時点で欧米列強による世界侵略のさなか専守防衛理論として語られた国体論を含んでいる点について、じゅんちゃんはこれをさも悪の理論かのごとく思い込んでしまっていることだ。じゅんちゃんの解釈では、社会全体が一つの目的のために動くべきだという考えを全体主義と定義している。だが会沢はその様な考え方をもっていない。彼が『新論』で述べているのは、日本史学である前期水戸学の成果を受けた国の歴史の違いとして、中国と異なり易姓革命が少なくとも公式には起きず自称天皇の代替わりとして相続されてきた点から導かれる、一種の比較文化論なのである。だからそれは人類全体への帝国主義的な皇民化を求めるものではない。飽くまで全令制国領域の専守防衛の基礎づけとして、なにゆえどんな理由で諸大名がある一致団結をしなければならないかの理由である。それがいわゆる尊王論で、天皇を守ることが結果として日本の国柄を中国など割と頻繁に最高権力者あるいは権威が変更されてきた国々との違いだからだという話になる。無論、考古学や文化人類学、遺伝学が進んだ今の時代の研究水準からみれば、あるいは明治政府以後から見れば会沢のこの後期水戸学上の尊王論には矛盾がある。天皇以前にも日本にはひみこら豪族がいたし、他の弥生人もいれば縄文人やアイヌら先住人もいたし、江戸時代の琉球は別王朝だった。天皇の系譜だけが長いわけではない。単に王家としての存続性が、途中で天智系と天武系のいれかわり、南北朝交代での相続、足利家による王権奪取など疑わしい例もあったにせよ、一応は当時しられていた中国やその他の国々の王権より長かったのである。この点で、飽くまで封建秩序こと主従関係の文脈では、いち徳川家の侍として、会沢は天皇家の尊崇が他国と隔絶した日本の特色であり、つまりは忠誠心をうみだす源泉だと考えた。実際、これ以後の日本は令和の代まで会沢による洞察のとおり、天皇を将軍や首相以上の権威とみなし、いたづらに戦国期の内乱状態へ帰ることもなく見事、無事統一できたのである。但し、諸氏知ってのとおり、会沢のこの純粋水戸学とはだいぶ色の違う吉田松陰イデオロギーというものが明治政府には持ち込まれる。そしてじゅんちゃんの批判対象としている神道原理主義のうち、最も典型的に全体帝国主義と天皇を結びつけているのは、松陰による一君万民論なのである。松陰は水戸学を改変し、中華皇帝による専制状態を挿入することで江戸政府の権力を否定しようとした時期がある。これは宇都宮黙霖に説得されそれまでの幕政改革論から倒幕論に転向する時期の論説にみられる部分だが、結局これが、日本会議や神政連(神道政治連盟)らが明治政府から譲られて相変わらず夢見ている、水戸学とは別の政体論なのだ。水戸学では大義名分論の立場をとるので、今で言う象徴天皇式に、実際の政務は政府が行う。飽くまで天皇は権威の象徴とされ、政務の主体は政府にあり、また政府は尊王と愛民を調和させて実務しなければならない。官民相和す云々と『弘道館記』にあるのはこれである。この点で、じゅんちゃんは2つから3つの勘違いをしている。
 1つは水戸学と松陰思想は異なる上に、それらと明治政府、それらと戦後政府にも思想上の差がある。しかもこれらを関がいうよう単なる恐怖政治の観念論としてまとめるのはまったく不適切である。なおかつ、水戸学については必ずしも全体主義ではないし、帝国主義的でもまったくない。水戸学のうち会沢安『新論』は専守防衛を目的にした令制国統一の理論である。松陰の書き残しのうち『幽収録』などが帝国主義を勧めるもので、これは水戸学ではない。また、天皇や国体の位置づけも水戸学と松陰では相当開きがあり、水戸学・大義名分論の中で天皇は司祭階級としての権威者で実権力者ではなく、戦後政府の象徴天皇像と似ている。一方、松陰思想の一時期を占めた一君万民論の中で天皇は絶対権力者で明治政府が採用した全権保有の絶対君主像と一致している。そして全体主義についていえば、後期水戸学の一部をなす『新論』のなかで会沢は令制国諸大名にとってその上に天皇を祭り上げる統一政体を構想したが、明治政府と違ってこれを全ての民衆への皇民化として制度的に強制しようとはしていない。むしろそれらの皇民化を強制して行ったのは、水戸学を殆ど学んでいなかった薩長土肥ら明治寡頭政治の担い手である元勲らと、明治、大正、昭和の天皇ら皇族自身である。後期水戸学のうち『弘道館記』などが推しているのは祭政一致論であり、各大名政府が天皇を奉ることで大名間の意思統一をはかるという、欧米列強からの分割統治防止、令制国植民地化防止目的での政治的制度論である。
 2つは、そもそものアーレント式のナチスドイツを標的にした全体主義批判をそのまま江戸時代の状況下にあてはめ、諸大名令制国をまとめた日本国統一は誤りだったとみなすことの歴史的暴論だ。これはあまりに雑な議論で、また、本質的にナチスドイツ単体への批評と、江戸幕府から明治政府への政体移行期とその理論的背景の起源と変遷とを簡単に混同させて論じていることになるが、そんなことは不可能である。なぜならあまりに江戸時代の令制国と近代ナチスドイツは異なる状況にあったからだ。
 3つ目が、江戸時代の政治行為を今の価値観で安直にテロ(恐怖政治)とみなすことの逆順での時代錯誤ぶりだ。これは、はっきりいえば関も原田も歴史学的誠実性に欠いた悪魂論客というしかなく、江戸時代の令制国支配者らはほぼ総じて武士という軍事階級だったことをわざと無視する噴飯物の暴論というべきで、そこでは時に武器を取って戦うことは戦後の刑法下の様な単なる犯罪ではなかったのである。これについては関や原田があまりに稚拙な論点なので論外というべきだし、訴求処罰の禁止という当の戦後憲法すらろくに守れず死者への名誉毀損を繰り返してきている点では彼ら自身が恐怖政治屋としか言いようがない。だから自分はまったく呆れて物も言えず、特に原田の謬説については無視していた。なにしろ、原田は冤罪をふくむ思想統制・言論弾圧の大粛清である安政の大獄を無視してその報復として徳川親族政権自体からパージされた井伊直弼を、徳川家による代々の世襲支配時代だったことを無視して、当時の大老にすぎない井伊家の席次の方が御三家である水戸の徳川家よりなぜか上だったかのごとく、まともな史学水準にあればありえない説を唱えているからだ。無論、背景には烈公による雄藩を主とした幕政、特に軍制の近代化改革を妨げたり、将軍継嗣について対外危機が迫る中でまだ未成年の家茂を既に成人後の慶喜より優先しようとするなど、井伊直弼は要は家定が知的に問題がある状態で大老が徳川宗家(当時の将軍家)の虎の衣を借りて水戸の徳川家に馬乗りしようとしたから、のち勝手な行動として忠臣蔵よろしく大部分が処刑されることにはなるが、武士道の忠義として水戸家の侍の一部が主君への冤罪を晴らすべくやむを得ず直弼へ復讐する以外の選択肢がひとつもなかったのである。黙ってみすごせば武士ではないし、説得しようとすれば井伊直弼はさらなる大弾圧で死刑やお家とりつぶしなどを大上段で命じてきたからだ。つまり独裁者化していた直弼自身は家定の代役のつもりだったのだろうが、考え方がいわば王権をもっていた徳川家間の親族争いを誘発しかねないほど小市民的すぎた。端的にいうと、原田は地元の彦根かわいさに歴史学の誠実性の方を曲げて、こういった桜田事変付近のできごとを、端的にテロリストの兇行かのごとく歴史解釈を大幅に歪めている。しかも、これはテロとの戦いと自ら軍産侵略戦争という恐怖政治をおこなう子ブッシュ政権が述べてそれに小泉父の自民党がへつら始めてからの出来事で、原田はこういった中東いじめの米国官房主導の世相扇動にさらにのっかる形でなら井伊直弼による粛清反動が歴史修正できるとふんで、平成期の国際世論の扇情性を私利に用いる形で郷土愛の復興をおそらく目的に、しかも誤った手段の本を書いたということになる。目的に沿うなら、井伊直弼の独裁者としての大量粛清を素直に反省する論考を発表した方がどれほど彦根市の名誉と市民の誇りになったことか。なにしろ歴史学は厳密な実証科学で、史料の厳格な考証を中心とする学野であるから、そこに善悪だの好き嫌いだの利己心だのは少しも役立ちもせず、ただ起きた事実だけを追い続けるものだと原田はいまだに知らないでいるだろう。小説として本をだせば彼も司馬遼太郎の後続者に名を連ねることもできたろうに、史書風を装うものだから陰謀論の一種としてどの史学者も彼の著を本棚にあると知られれば信用性を失うような、中途半端な議論とも言えない過去への恣意的解釈を公然と発表してしまったのだ。これは一人彼のためだけでなく私自身も含め、学者tsるもの深く他山の石とすべきところだ。
 そしてまた関は、この原田に輪をかけて問題がある。それはイデオロギーを先に置いて、具体的にはじゅんちゃんとの協働動画で関自身がいっていたが、まず安倍政権をひっくり返す目的で、わざわざ明治政府を政治思想面で否定したいがためにしりもしないろくに学びもしない水戸学にこちらも中途半端に喧嘩を売るかたちで言及したらしいのだ。呆れて物も言えないとはこのことだ。
 水戸学者は数百年かけ、純粋な史学をしてきた。それが皇国史観だったのは偶然で、実際には『史記』に比肩する正史の完成をめざしていた。そしてこれがあまたの大学者らの叡智と労力のかぎりを尽くし『大日本史』として成った。そこにイデオロギー闘争などあったろうか。水戸学者らがやっていたのは、過去の事実に関する厳格に精密な記述である。そのための研究の日々だった。全国全世界から、費用と熱意がゆるすかぎり一流以上の知性を集めた。それは我々の先祖が人類の知恵に高い価値を認め、未来に残すべき労作を何かしら作り上げようとする偉大で過酷な旅路だった。
 関は部外者として読みもせず『大日本史』を含む水戸学全体を知ったかぶり侮辱発言を繰り返す。一度でもこの史書本文に触れたことがある者のできる無礼千万な行為ではありえない。だから儒学風にいえば燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、で終了だ。原田についてはこの点、いうにあたいしない。後期水戸学の本の一部だけを断章取義で切り貼りし、豊田天功『防海新策』など開国近代化論の部分がなかったことにしたてあげ悪口で悪い思想にしたてあげようなど、私自身が時代に応じたあるいは超時代アップデートのため人類史上最大の水戸学批判を志した知性としていえるが、原田や関には学者として絶対に誠実性が欠けており、その不勉強ぶりは絶望的なものがある。孔子がいうとおり知らないことは恥ではないが知ったかぶり侮辱発言をするのは言語道断の蛮行である。これを無知という。全て水戸学を研究しきった上で、その前期の歴史学上、あるいは後期の政治論上、宗教学上の問題を次代の国学上の研究者として批判的考察し続ける。これだけが唯一、水戸学やその研究者らにとって傾聴に値し、また未来の後からくる学生学者らにとっても参考になる論説でありうるのだ。

 じゅんちゃん自身は全体主義や帝国主義の起源として明治の神道原理主義を指摘し、その延長に関をひっぱりこんだ。だが関は陰謀論者である。イデオロギー闘争を前提に実証史学を流用する者は歴史修正主義者である。この類型にあたる関の説は、今を生きる人の道徳的誠実さや正義をも、未来の人その他の価値観で悪解釈させてしまう。だからそれは歴史的陰謀論なのだ。
 神道原理主義を否定するのは当然だ。大量虐殺後に開き直る邪教祖をいつまでも国と国民の象徴として活かしておくのは人道に反する。自分も実際神道批判をしてきているし、むしろその点では奈良出身のじゅんちゃんより神道や天皇制上で重要性をもつ現地、三輪山や国見山などへ行って、本質を原理的に見極めようとも自分はしてきた。結果、じゅんちゃんより一層、自分は神道を邪教とみなすに至った。それは回天神社で自分と同姓同名の墓を見つけたことも大きい。神道なる邪教を徳川家臣として信じざるを得なかったがゆえ、天皇を奉らない江戸幕府やあるいは主君たる徳川家に濡れ衣をきせる西軍と戦い、命を落とした侍がいた。だが自分までが神道を信じ続けていれば、元の木阿弥だ。神道は根絶されねばならないだろう。そうして初めて、殺戮を主導し扇動し是認してきた神道やその教祖である皇族という悪魔崇拝の対象から、全人類が救済され解放される。それは政治的にも宗教的にも、物質的にも精神的にも、財政的にも制度的にも、天皇から一方的に差別され人権を剥奪される奴隷の地位に千年近くも置かれてきた我々の日本史という地獄からもだ。

2021年8月6日

要因Yについて

概要

ファクターX(以下、訳して要因X)*1という言い方で、山中伸弥氏*2が「日本にだけ存在する新型コロナウィルス感染・死亡率を下げた要因」と定義した概念について、自分は、要因Xが存在しないこと(或いは結果への寄与度がほかの要素より比較的微弱なので巨視的に無視できること)、かつ、真の要因Xとは山中氏個人の自明の前提に置いていた、欧米と日本のみの比較、との囚われだったとみいだした。以下それらについて詳説する。
 単に、現実にあったのは、対人濃厚接触の積極性(乱雑さの頻度)に関する人口あたりコロナ感染・死亡率の分布だという事である。そして自分はこの要因を新たに要因Yと定義した。
 以上からコロナ禍への根治策として、自分は社会距離戦略の継続維持が重要だと提言する。

1.要因Xと要因Y

 以下のグラフは、札幌医科大による「人口あたりの新型コロナウイルス感染者数の推移【世界・国別】」のサイト*3から引用する。各図はクリックで拡大する。

 まず次の各大陸の比較グラフによると、「西洋とアメリカ大陸(以下、欧米)」の「人口100万人あたりの感染者数の少なさの成績(以下成績)」は最も悪い方に属していて、他の各大陸を大きく引き離している。 


 以下はこのグラフに日本・世界平均を加えたもの。これでみると、世界平均や日本より悪い成績が出ているのが欧米両大陸である。

 以下は「中国を除く東亜諸国・諸地域(ここでは『東亜諸国・諸地域』で香港、韓国、台湾、日本の事を指す)」と「オセアニア3国(オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア)」を配置したグラフである。
 日本はこれら7国では最も悪い成績が出ている。この時点で、日本単独に要因Xがあるとは言えない事になる。なぜなら東亜諸国・諸地域とオセアニア3国は日本より成績が良いからだ。いいかえれば、もし要因Xがあるなら少なくとも東亜諸国・諸地域にも共通してある要因でなければならない。但し、世界平均と比べてみれば、それはアフリカ大陸にも存在する要因であることになる。
 以下、山中氏による概念との区別の為に、「東亜諸国・諸地域とオセアニア3国、かつアフリカ大陸にも共通して存在する、成績をよくしている要因」を要因Y(ファクターY)と置き換えることにする。

 以下は「東アジア・東南アジア諸国諸地域(以下、東亜諸国)」と「オセアニア3国」を配置した線・棒グラフである。
 ここでわかるのは、東亜諸国のうち、日本の成績は中ほどに属しており、日本より成績の悪い東亜諸国もあればそうでない東亜諸国もある。よって、要因X(日本にだけ存在すると考えられている成績優秀さ)は存在しないか、もし存在したとしても成績に与える他の要素に打ち消されるほどの効果しかないので、事実上、無視できる
 もし真実にあるならば、それは要因Y(欧米と比較したときの東亜諸国、オセアニア、アフリカ大陸の各人平均に存在する成績優秀さ)である。
 

 

 以上のデータから論証されたのは

「日本にだけ存在すると考えられている成績優秀さ」としての要因Xは存在しないか無視できる(山中氏の仮説が誤っている)
存在しうるのは「欧米と比較したときの東亜諸国、オセアニア、アフリカ大陸の各人平均に存在する成績優秀さ」としての要因Yである

 以下の人口100万人あたり死者数のグラフから、上記2点(要因Xの存在しなさ、要因Yの実在可能性)は、死亡率の成績についても同じ事がいえる。

2.証拠に基づくコロナ禍の原因療法

 次に、ではこの要因Yの正体は何かだが、自分が提出できる仮説として、これらの要因を帯びていると考えられている国々は、ならしてみて、南半球または熱帯・亜熱帯・温帯圏の国々という事だ。いいかえれば、暑い国々で成績がよい。
 端的にいえば、新型コロナウィルス感染経路が対人濃厚接触であるのは一般的に確かなので、暑い国々では対人濃厚接触を消極的にし易い要因がある事になる。

 この世でコロナ禍(新型コロナウィルスの蔓延、感染拡大)に対抗できる唯一の原因療法(根治策)は、したがって、対人濃厚接触の乱雑さの頻度を下げる事といえる。
 要因Yの正体が対人濃厚接触を進んで避けるのに十分なほど暑い事であれば、日本など総じて温帯に属していたり、欧米を主とした北半球の国々など寒帯でも成績をよくするには、対人濃厚接触の乱雑さの頻度を下げる工夫を社会距離戦略としてとり続ける事が十分といえるだろう。

―――

参考

*1 アーカイブ
*2 京都大学iPS細胞研究所の代表。アーカイブ

*3 https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/index.html

『人口あたりの新型コロナウイルス感染者数の推移【世界・国別】』
札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門
    Masashi Idogawa, Shoichiro Tange, Hiroshi Nakase, and Takashi Tokino.
    Interactive Web-based Graphs of Coronavirus Disease 2019 Cases and Deaths per Population by Country.
    Clinical Infectious Diseases 2020; 71:902-903.
    https://dx.doi.org/10.1093/cid/ciaa500
Data Source: Johns Hopkins University Coronavirus Resource Center, COVID-19 dashboard in ECDC, Coronavirus Source Data in Our World in Data, WHO situation reports, Estimates 2020 in UN World Population Prospects 2019


野戦病院の欠点と、改善策を既に提示してある私の『新型コロナウィルス隔離兼治療施設案』(2020年3月)について

以下記事のとおり京都府庁が酸素投与などの一時施設(府立体育館を転用)を2021年8月下旬に8床、最終的に30床までふやして、医師・看護師ら24時間常駐で運用開始する予定とされている。 

京都府 一時的な専用施設設置へ

 京都府は新型コロナウイルスの感染拡大で、患者を受け入れる病院がすぐには見つからなくなる場合に備えて、一時的に酸素の投与など必要な処置に当たる専用の施設を新たに設けることになりました。

 これは京都府の西脇知事が4日の記者会見で明らかにしたもので、京都市北区にある府立体育館に、一時的に酸素の投与や投薬など必要な処置に当たる専用の施設を新たに設けます。

 府内では3日の時点で「病床のひっ迫具合」のうちの全体の使用率が55.4%と、最も深刻な「ステージ4」に達していて、今後の感染拡大で、患者を受け入れる病院がすぐには見つからなくなるおそれも出ています。

 新たな施設は今月下旬にも8床で運用を開始して、30床程度にまで増やす計画で、医者や看護師が24時間常駐して対応するということです。
――新型コロナウイルス “自宅療養基本”政府方針 知事ら「従わない」「不明確」2021年8月5日 NHK政治マガジン

  これは他国(例えばイギリスなど)で野戦病院的な形で行われてきた準用をなぞるものといえるだろうし、基本的にこの形で病床不足へ各国では対処してきたといえるだろうが、最初からこの体育館などを転用する雑な様式には、一時滞在時に快適性の面で最低でも以下2つの問題点がある。
1.隔離度が低い
2.プライバシー(私事)保護の度合いが低い

 また、
3.常駐医療従事者らのための前室が不足している
点も問題がある。

 それで自分は上記の欠点を解決するべく、中国の仮設病院などを参考に、キャンプ施設など住宅にのち転用できる形で移動式仮設住宅「スマートモデューロ」を一定の敷地に配置する案を2020年3月11日時点の当ブログ記事内で出した。建設後、感染爆発期がすぎれば当該敷地をまるごと市場に売却すれば、感染者の隔離が十分に行える上に、その間の県民の居住快適性も保て、必要十分な費用で済むことは確かだろう。

 想定される隔離・治療施設を、簡単な設計概念図で描いた(クリックで拡大)。
 滞在期間が最低2週間から長期にわたるので、わずかでも憩いの機会を作るため仮設住宅を並べた単位の中心部に、つねに窓から緑が見え、かつ、一定距離で飛沫感染に配慮したベンチのある中庭を設けた。なお植栽は夏場に繁茂し日陰を作る常緑樹が望ましく、特に治療区で外に出れない時の経過を感じる(季節感のある)落葉樹は望ましくないと考える。
 
 茨城県庁はこの種の仮設住宅を建設することなく、ホテル・旅館などの転用で賄う案を実行してきた。おそらく経済合理性を考慮したのだろうが、実際には財政調整基金(財調)の減少率が全国で下から3番目に高い(47都道府県中3番目に新型コロナ対策に県庁が金を使っている)との結果になっている。一体どこでどう財調が使われたのかについて、記者や議員は県庁に会見や議会などで問うて余さず公開してほしい。
 そしてもし京都府庁の野戦病院の形をまねるなら私の案も考慮にいれてほしい。だれでも、死ぬときに野戦病院の様なできあいの体育館内の、粗末な上に私事が保たれない夏暑く冬寒い場で、わざわざ死にたくはないだろうから。

2021年8月2日

便宜的な、都道府県間移動時の新型コロナウィルス感染危険度計算法

47都道府県をコロナ感染確率の一般的危険度が高い方から仮にAからEに分ける。
 ここでは昨日の時点での人口100万人あたり感染者数を使う。

 下記のAを10倍、Bを8.6倍、Cを7.1倍、Dを5倍、Eを1倍として、移動する経路ごとに倍率をかける。
A ×10
  沖縄
  東京
  大阪
B ×8.6
  神奈川
  北海道
  兵庫
  千葉
  埼玉
  福岡
 (全国平均)
  愛知
  京都
  奈良
C ×7.1
  岐阜
  群馬
  石川
  茨城
  岡山
  広島
  栃木
  宮城
  滋賀
  熊本
D ×5
  佐賀
  三重
  和歌山
  大分
  福島
  山梨
  宮崎
  静岡
  高知
  長崎
  長野
  鹿児島
  徳島
  山口
  香川
  富山
  愛媛
  青森
  福井
E ×1
  山形
  新潟
  岩手
  鳥取
  島根
  秋田

 例えば

・秋田から山形への移動
1×1=1
危険度1(最少)

・東京から大阪への移動
10×10=100
危険度100(最大)

・茨城から栃木への移動
7.1×7.1=50.41≒50
危険度50(中間)

 この方式で計算すると、全ての倍率は都道府県境を跨ぐ際、1から100の間に収まる。