2020年10月4日

PRには茨城を理想化して表現すべし

石井竜也氏が「茨城人PR下手説」いってたけど、これが真に一般化しきれるかとは別に僕の知る限り、もしそういう側面があるとすればそもそも総勢がくらしにおおよそ満足しているのでわざわざ自慢する必要を感じていないか、「人の己を知らざるを憂えず」式の謙虚さが普通にあるのと関係していると思う。
 2013年実施の茨城県政世論調査で約8割(77.1%)は今の生活に満足しており、かつその割合は年々少しずつ増えてきていた。既に総じて満たされている幸福な人達なので、わざわざ他人に自慢しようとか思わないだろう。僕が一県民な実感としてはほぼそれが茨城の常態だろうと思う。『常陸国風土記』の序文とかで、海の幸山の幸に恵まれた理想郷、民はみな豊かで満たされていると書かれているけど、常陸国こと今の茨城県域は少なくとも奈良時代の時点でそうだったらしい。それ以前も貝塚の状況とかみると、地味物産が豊かだったのは変わらないのではないか。要は生産性が高い土地だ。対して凄く宣伝好きの地域って、僕がみてきた限り、観光収入が主要産業になっている土地が多いと思う。東京もほぼ例外がないくらい物凄く自慢好きで、というか京都級に驕りが激しく、何でも自分達は1位と思いこんで常々周りを見下していた。茨城県民とその部分がまるで違う民族性なのは確かである。
 茨城県民で自分達が何でも1位だとか言っている人って、本当の話まだ1人もみた事がない。辛うじて県民幸福度1位を目指すといっている現県知事がいるくらいで、それだって既に1位だと思い込んでいるといった傲慢さは全然ない。要は総じて謙虚な県民性であり、他に優れた国があるだろうと信じている。土地の生産性、豊かさが高いと、そもそもそこに適応した人は総じて生の諸相に満たされており、段々と性善主義になっていくのではないか? と思われる節も端々にみられた。警官が「悪いものはそのうち消える」といってる場面すらみた。その悪者をとりしまるのが君らの仕事でしょと思ったのだけれども。

 ではなぜ自慢好きの民族――我々がよく知っている範囲では、初対面で全国差別してくる中世人が結構な頻度でいる京都が代表格、なんでも自分が1位で田舎は糞ダサい原発ゴミ捨て場と本気で信じその公害批判も全部嫉妬扱いの東京が虚栄の双璧――が一部に生じるかだが、皇室カルトも確実に関係している。奈良県民は今となっては古墳しか残ってないから、その奈良発だった皇室カルトが脱奈良してからというもの、平城京での様に奈良県外人をバルバロイ扱いできる根拠がなくなり、随分大人しくなっている。それでも希に出身者の内にまだ傲慢さの片鱗は残っていて、京都を新都と小馬鹿にしている場面とかある。結局これって中華思想にどれだけ感染しているかの差だ。そしてその原因は、自称天皇の中国皇帝制もどきに他ならない。この一派が移民し定着していた期間が長ければ長い程、その地域の人々は一般に凄まじい虚栄に耽り始める。自らの先祖を神と驕る、神道カルト教義の悪風が伝染したのだろう。僕は他国の人達とランダムに接したが、本気の話、全世界で都会が神、田舎はゴミ、とか言っている民族って日本人の一部にしか居なかった。全体として逆じゃないかなというか、田舎の方が落ち着いてていいよねという雰囲気で、都会は商人が集まっていてこせこせして辛いよという全地球世論が普通であった。ではなぜ日本の一部にだけは都会崇拝、田舎差別という典型的中華思想が残ってしまっているか? 正にこれは天皇のせいである。彼らの本邦にあたる中国の方だと、北京中華思想とか香港主義があるくらいだから全然成立していなくて、僕が接した殆どの中国の人達は北京は唯の北京でしょ、という扱いだった。世界の先進国の大都市と、その他の地域でも全く同じで、ニューヨーカーにしてもパリジェンヌにしても単にそこにくらしているだけで自分達は神だとか、田舎はダメだのダサいだの何にもないとかわけのわからない偏見(しかも全部、事実に反する)を持っていた人は、外国人のうち1人もいなかった。
 そうすると、一体東京都民とか京都市民、或いは横浜市民、名古屋人とか、大阪人、仙台市民とか、札幌人とか、日本の都会人ってなんでああいうひねくれた田舎差別意識をかなりの割合が持っているの? と疑問が出てくる。因みに不思議な事に僕が接した福岡の人達はなぜか寛容でそういう人いなかった。札幌の人も田舎差別意識を持っていたというのは僕には驚きで、どうも東京を理想視しまねているらしい。元々違う民族の文化だったのに、東京を模範と思いこんだばっかりに中華思想というろくでもない差別的考え方まで猿真似して平気でいるらしいのだ。
 要はこれらは東京・京都を模倣した人達の末路だ。これにあわせ僕が興味深かったのは福岡人の考え方で、福岡の人ってかなり都会なのに、その一部はどうも東京をしばしば反面教師にしているらしかった。元々ずっとそうといってもいい茨城の考え方――いわゆる徳川光圀に代表される、自称天下の副将軍的なもの。亜周辺的考え方――と似ている部分があった。京都に完全に飲み込まれている文化圏、具体的には石川、滋賀はそうだろうけど、あるいは広くは福井あたりもそうかもしれないが、京都が「上方」で大阪はそれ以下みたいな明らかな中華思想を当然視しており、これは奈良の人とかもデフォルトでそういっていた。要はこれが、京都が虚栄に耽る最大の原因だ。自分達が何でも上、他の土地はそれ以下、という京都人・東京人が皇室モドキの考え方をするのは、周りの土地にも皇室を教祖とする「神道」の信者が多いせいらしい。神道信者の勢力がふえればふえる程そこは天皇中華思想に洗脳されるといっていい。結果、東京・京都崇拝、田舎差別との差別観を身につける。天皇は3代経過し江戸っ子なので、いまや京都なんて中華じゃないでしょと思えば、いまだに平安京気分の一部京都の上京区民の方が江戸っ子より遥か傲慢な位である(宇治どころか元被差別部落な市内の崇仁地区まで田舎だといって差別し、そこに文化庁東京人おしこめ陰険に嘲笑してる神奈川系の京女いた)。要は一旦、風習に伝染してしまうと、そこで中華思想を拭い去る事は最低でも千年以上にわたって困難らしい。奈良人が大人しくなってきたのはつい最近で、同じくらい京都人が大人しくなるのは西暦3000年くらいまでかかるだろう。東京が首都陥落後、最低千年みつもらないと彼らの傲慢さは治らないだろう。

 では我々がどうすべきかだけど、東京・京都はいうまでもなく、ここでは福岡除く日本全国の都会人なるものは反面教師というべきだ。東京・京都をまね第二東京だの小京都だのは「絶対に」めざすべきではない。寧ろ、東京や京都の持っている既往の欠陥を鋭く批判し、なるだけその欠点をまねない様にすべき。諸々の都市問題だの文化上の欠点――東京なら性売買罪の甚だしさ、京都ならそれに加えイケズと呼ばれる虐め文化などなど――を避け、或る都市圏を妄信的崇拝とか一切すべきではなく、単に利点――ICカードの使い方とか、川床の納涼様式とか――だけを学び取って自分の文化に応用する、というのが正しい。

 謙虚さとは、知的なそれである場合、或る対象に囚われずに済む事をも意味する。「PRの上手さ」を持っている自治体なり集団があれば、それ自体を学ぶのはいいだろう。僕の知る限り全世界で一番それが巧いのはパリかと思われる。具体的には近代画家を集めていたので印象ばかりよくなって実態とズレがある。また最近だと韓国もこの長所がある。整形させた美男美女ばかり集め彼らに華麗な歌舞をさせ、さも韓国全体がそういう人達でできているかのようほぼ事実と全面的に異なる好印象を、メディアバイアスで作り上げている。つまりはPR上手とは、巧みな嘘、それも美化した側への自己宣伝の仕方だといってもいい。そうだ京都行こう、とかいうJR東海のCMで、いかに京都人が鼻高々か! あるいは長野出身者が田舎差別・都会美化のアニメでどれだけ全世界の人達を騙したか(中身に描かれている世界は、現実の新宿とは似ても似つかないくらいの代物なのだが、聖地めぐりなど殆どしないから総じてそれに気づかれない)。こういった側面は、パリ症候群みたいな現実との落差で一部の人達を落胆させるものの、全人類の過半はわざわざ茨城を訪れたりしないので、PR自体の為ならわが県を理想化できるだけした方がいい、という判断になるだろう。これは孔子の考え方――剛毅木訥vs巧言令色――に逆らうにしても程度の問題だ。現実に僕がみた茨城県域は、その風景や都市景観の美しさからいったら、これは理想化とか美化とか抜きに、東京より遥かに質が高いのが事実である。それにも拘らず、我々はそれを他人に教えたくない、汚されたくないと思っており、観光地としてアピールしてる場所は本当に我々の知る美しい場所ではない。この種の「知る人ぞ知る」式の内情が我々茨城県民が常識としている態度だが、この為に、県外人は我々の知っている最美の場所がこの世にない、寧ろ余りに無知で「何もない」と思い込んでいる。単に情報を知るよすががないからだが、逆にいかにもつまらない観光地だけを見て知った気になっている。これはこれで一つの哲学というべきで、これまで我々はそうしてきた――一見観光客はどうせ汚すから、ろくに親しくもない県外人にわざわざ素晴らしい場所について教えない――のに違いないにしても、同時に、パリだの韓国だのがやっている類の理想化・美化の方針は進んで学ぶべきだろうと思う。