東京人とは名ばかりで
実際には大坂商人を家康が武蔵国に移民させた所から始まり
中身は関西人の方がメインといってもよく
相関係数でみても、関東より寧ろ京阪の方に似ている
よく考えてみたら色々謎が解けた
なぜ東京人があんなに関東の悪口ばかりいうか?
みな疑問に思っていた
中身が関西系なのだ
確かに血統的には
僕が観察してた限り、北海道・山形の混血といっていたある東京・成城の男が
やはりいかにも東京人らしく物凄く品性下劣で、公然と不倫や軟派ばかりしていたが
この人もやはり、明らかに人権侵害といえる凄まじい差別的言動をしまくってきたのだった
ドイツ系移民の東京人も同じだった
血はそれなりに色々混じっているにしても
文化そのものが、京阪地方とほぼ同じ
だから京都人や大阪人の、中世以来やってきた中華思想に基づく田舎差別を模倣している
天皇がその代表格といっていいだろう
大坂商人のあとから皇族だの公家だのが総勢で移民してきて、文化が変容しないわけがない
薩長土肥と呼ばれる西日本の一部の県の出身者も、
この中華思想を自分達の野蛮さを正当化する目的で流用し、
東京からまねていた点では、京阪人の共犯というべきだろう
ダウンタウンみたくイジメをイジリと言い繕い嘲笑する下衆なんて僕は東日本全体で一度も見た事がないが
彼らは茨城をディスってきた
明らかに茨城人全般より下賎なダウンタウンが
なぜ上から目線で、茨城空港だの水戸だので汚いヤラセしてまで差別的言動をしてきたか?
第一に彼らが他者への敬意を欠いている本物の極道者、つまりヤクザだからだが、
背後には、天皇の権威を笠に着た中華思想があるに違いない
東京や京都の驕りと同じ
遡ると、そもそも天皇と今は名乗ってる、奈良発のカルト教祖も、中国・朝鮮からの弥生期以後の移民だ
日本史に記録されている限り、この弥生民族なるものは、先住の日本人へ総じて悪辣な振舞いばかりしてきた、より公民度の低い種族だった
端的に言うと野蛮人がやってきたのだ
暴力や差別を持ち込んだ
弥生民族の末裔達は、主に西日本に住み着いた
鬼海カルデラの大噴火で、縄文後期に西日本は火山灰で埋もれ、一帯に人家は疎らだったからだ
ほぼ無人地帯に、中国・朝鮮から入ってきて、その一員は奈良で中華皇帝をまねしだした
皇室こと天皇制度とは、中国の皇帝制度の猿まねである
日本での差別の起源
そして記紀でわかる通り
天皇ら奈良の野蛮人達は本州・九州各地へヤクザをおくりつけ、一方的に暴力を振るわせた
反社筆頭(征東大将軍)は当時の朝鮮系移民だった
彼らが朝鮮の任那でやっていた方式で、無理やり現地の支配者面しだした
その無理な枠組みを奈良人が正当化したのが、風土記だったのだ
或る大阪人が、東京で言っていた
「神戸は柄悪いヤン」
お前が一番柄悪いよと思ったが、僕は大人しいのでそいつの言動を黙って観察していた
結局この大阪人がいいたかったのは、ヤクザのカルチャーだ
確かに神戸に沖なかせこと港湾労働者の荒くれ者をしきっていたヤクザから発展した山口組総本部がある
しかし平和な農村が基本のこっちからみたら、言うまでもない事だが
その大阪人だろうが神戸ヤクザだろうが程あれ同様に柄悪いとしかいえない
寧ろ京都人も、自分が接した限り女に限っては陰湿極まりない極道物同然のしかいなかったし
茨城の旧水戸家領の武士道圏より、関西人一般の方が群を抜き粗暴だ
何度も僕が、関西人と接して凄まじいカルチャーショックを受けまくったのは
向こうが優れていて受けたのではない
そういう経験はまだ1度もない
僕がショックだったのは、関西地方の人達が、僕の接してきた常磐圏の周りの人々に比べ、驚くほど圧倒的に野卑で下品だったからだ
プライドばかり高い人達だ
僕は、産まれてから今に至るまで、茨城県民がそんなに優れた人達だなんて思った事がなかった
寧ろ「栃木人は愛想がない」と栃木出身者も言ってたが、
関東北部圏の共通性で昔から豊かで裕福だったからか、
客を特にもちあげず、愛想よく振舞いもせず、外国で一般的にそうなみたいに、主と同列に扱う
しかし京都人の裏表の激しさ、
東京とかでやたら下手に出て、見物客すら神扱いしてる過剰サービス客寄せ商売の消耗戦だのに接してみると、
実は、茨城県民の方が、身分差別とか根っからしてないんだろうと思うのだ
茨城語は敬語が余り発達しておらず、媚びへつらったりへりくだったりの表現が基本ない
京都弁の言い回しとか全部、相手に媚び売る、へつらうが基本で、もちあげたり腐したり大変せわしい
それで気を使って疲れてしまうわけだ
なぜああなのかといえば、身分差別が前提の社会だからだ
中世にはじまった町なので、共和政を一度も経験していない
ところが茨城圏は縄文期以前からある大文明だ
それで茨城で、極端な身分差があった試しがない
特に僕がなぜ西山荘の方が、京都の名邸、例えば詩仙堂だの桂離宮より遥かに品位が高いといっているかといえば
西山荘は、黄門こと中世京都で高位の人が、自分から現地農民の一員になろうとした愛民遺構だからなのが大きい
無論、学者の模範なのもあるが
徳川家も最初はもっと威張っていた
江戸の方に定着した宗家は、ずっとそうだった
しかし茨城の方に定着した水戸家は、自分から身分差をみえなくして民を慈しんだり、
当時の絶対権力者として後世から見ても畏敬されるだけの事はしてきたと思う
そしてそういう文明からみると、皇室も野蛮にしかみえない
なぜすぐ近隣なのに
江戸こと東京と、茨城でこれほど文明の質に差が出てくるか?
関西人全般は両文明を体験した事がなく、東京の下賎なテレビで騙され、東京の方が公民度が高いと思い込んでいるだろうが
或いは茨城圏を知らないままだろうが
無論、ここでは茨城の方が遥かに優れているという意味でだ
そもそも僕が浮浪者なるものを現実にこの目でみたのは、東京ではじめてだった
最初なぜこの人はここにいるのだろうと思った
やがて東京人達は、河川敷の橋の下でくらしている男を差別していると分かった
これは僕には理解するまで随分時間がかかったし、今も信じられない思いでいる
茨城にそんなのない
僕の知る限り、北茨城でどんなに貧しい人だろうが、というか、そういう人をまだ見た事がないけど
きのうと同じ服着て学校きてた子がいるとか話に聞いていたくらいのレベルで
それって真の貧しさなのか唯のずぼらなのか意見が分かれるだろうし、その子のお父さんとかに僕らは少年団でサッカー習っていた
東京には差別があるのだ、と信じ難いながら段々と薄々勘付いてから、
エホバの証人の男が僕の調布の下宿にきたので、その人に「あの河川敷の人を助けたらどうですか」と僕はいってみた
そしたら、その東京人は、「それはちょっと」といい、韓国系の何とか姫という名の女の話をはじめた
軟派野郎である
その後、関西まで旅行して分かった事として、
この東京の差別の文化は、完全に関西から持ち込まれてきた経緯だろうなと考えてよさそうだった
特に、京阪地方の人達の感じは陰険で、利己的で、性格がいじけていた
当人達が気づかないのは同類の中でくらしているせいだ
だから天皇を崇め浮浪者を見下す
人としてあるべき姿は逆だ
勧善懲悪とは、驕れる強者をくじき、虐げられた弱者をかばう事だ
水戸黄門のドラマあるけど、あれは飽くまで講談の様に見えてそうではない
現実に水戸の徳川家はそういう統治方針を執っていたのだ
それで僕がその領域で生まれ育った限り、身分差別というものを見た試しがない
僕が都内にいた間、石原慎太郎という愛媛・神戸あたりから神奈川まで出てきた人が都知事をやっていた
この人は随分と柄が悪いのはみな知っているだろうけど、定例会見でも記者を罵倒したり凄まじいヤクザぶりで
現実に新宿の交差点ですれ違った事あるが、みて一瞬で横柄極まる小人たる態度が凄かった
そういう石原慎太郎が、都知事の分際で、皇居に御進講だか会談だかに行った時、
今上上皇こと平成の天皇に「京都にお帰りなられたら」などといった
まあ皇室自体が差別の制度だし、皇室消滅預言者の石原の思考力からしたら、自分こと都知事の権威に差し支えあるし邪魔だから帰れという意味なんだろうが
明仁氏は既に3代経過し江戸っ子なんだからまだ1代目の、神戸から出てきた強姦殺人小説屋で、ヤクザ同然の石原慎太郎ごときがなにを抜かすかと暗に感じたかもしれないが
「京都は好きですよ」とかいってやんわりかわしていた
今からみたら御所なんざ住める筈ないという意味であろう
夏も暑く冬も寒い
石原・明仁間の阿吽の呼吸みたいなのも、はっきりいってみていて凄く気持ち悪かった
完全に異文化だと感じた
表と裏で思ってる事がまるで違うし、しかもその中身が両者とも利己的ゲスさが半端ないし
表だけ上品ぶる言葉遣いも相互に全部面従腹背とか、信じ難い野蛮の風儀だ
身分差別の京都社会のまま
同じ事を茨城流儀でやったと仮定しよう
石原「関東は元が武家の世界ですし、京都は天皇がいないと首都と名乗れないとかいうし、政治は我々がやりますから、京都に帰ってもいいんじゃないですか?」
明仁「いやー、あんな暑い所すめねーべなあ、むかしはよかったかもしんねーけど、今さらすめねーべ」
茨城語の世界は全てが簡潔であり、裏表も丁寧に言うとか、気を使って傷つけない様な言い回しを工夫する位はするだろうけど、やたら謙譲語を受動態でとか小室圭さんがまねてる似非山手言葉レベルまでやらないし、そもそもそんなのやる必要を感じてもないと思う。だって身分差別が悪なんだから、ここだと
だったら、茨城圏は明らかに東京圏より偉い、というべきだ。身分差別の方が、万人平等より偉い、と判断する人がいるとしたらそいつは正真正銘の野蛮人であり、弥生民族レベルのやつらであり、吉田松陰レベルの一君万民論とかいう中華思想のパクリを素で信じている明治時代の西日本の果ての暴力団だ。
そしてその身分差別の文化をもつ東京は正真正銘の野蛮界であり、かりそめにも文明などと名乗るのもおこがましいだけの野卑極まりない下衆どもの集まりといって差し支えないであろう
さもなければ、国税流用で海賊の国なんぞに留学なんかしやがらない、しかも借金で
借金踏み倒しながら威張ってた薩長か
当の東京人どもが模範にしているらしい海賊の国だが
いまだに階級差別なんざやっているのだ!
僕はこれも忘れえないカルチャーショックを受けた事の一つだ
あるイギリス人と友達になって、階級の話題になった時、
その英人は「階級があって当たり前だろう。君が第三諸国と一緒か?」といってきたのだ
先ずこの第三諸国とかいう概念を、我々日本人は陸に知らないし使ってもない
はっきりいって知らない方がいい、いかにも地球荒らしの海賊やってきたイギリス的な国家差別の概念だ
彼らからしたら何でも階級を前提にしてるので、国にも等級なんてつけて、ある国の人達を丸ごと差別してやがったのである
日本でいえば昔の京都人が延喜式で
いまでいう都道府県を大国・中国・小国に分類し
そのうち大国の主要なのに、親王をあてがってドヤってたのと一緒
今の上皇もこれを踏襲してるので、中世時点から一応日本最大の大国(生産力の大きな国)とされてきた茨城県こと常陸国の国司っぽい名を弟に与えている
イギリス人はこの中世京都人と全く相似の、純然たる封建主義のままである
それで彼らが略奪・割拠したつもりの地球の国々を、大国・中国・小国に分類してやがったのだ、勝手に
そのうち、大国に一応、現日本も所属させられているので第一諸国と呼び
小国と君が一緒なんてありえないでしょというのだ
イギリスの王室なんざ本来、フランス革命式に打倒されていればよかったのである
それが罷り間違って議会にへばりついたものだから、何度も抗争した末に、結局、オランダからドイツ人系の別の貴族をもってきて、英王室ごっこさせている
あまつさえフランス勢がナチスドイツに負けたせいでつけあがりすぎ
これに比べわが茨城はどうだろう
禅譲であるぞ?
徳川慶喜公の潔い、中世との決別、自主的な封建体制との決別をみただろうか
僕は断言できる、慶喜公が一番偉い政治家だ、世界史で
それと比べてみるがいい、イギリスの王室だの、天皇家だのを?
どんだけ自分の権威権力が惜しいの
慶喜家の最後まで潔い
涙ながらに語れない話になってきたレベルの偉さ
これが慶喜公であり、慶喜家の生涯だ
先ず水戸の徳川家の跡取りだった人物が、うまれつき賢かったばかりに、
将軍家に請われ、幼児の頃から将軍なんてやりたくないといってたのに幕末の騒乱で将軍にされた
尊王を水戸で叩き込まれているから大政奉還した
この時点で、既にナポレオンとか遥かに超えた偉人だというのは、誰の目にも疑う余地がない
ナポレオン1世を考えてみて欲しい
自分から法皇にすりよって、王冠頂いている
これとかやっぱり出自が違うとしかいえないと思う
慶喜公なんざ母方は天皇家で父方は将軍家、最初から貴族だから自分で位を譲った
一方その頃、薩長土肥とか呼ばれて元勲扱いされてる極左テロ三昧の暴力団どもはなにをしていただろう
もう必死である、出世したさ、金ほしさ、地位ほしさに?
これに比べて慶喜公なんて「いや最高位とか別にいらないし。将軍になりたくないし、失う位なら最初から要らない」とかいっていたのだ? 子供で
実際に成人後、征夷大将軍とか言ってるけど、欧米海賊団と直接バトルしたら山口とか鹿児島みたいに日本全体が潰されると明らかに分かっているのに、
無謀に民を犠牲にするわけにいかない、というのが慶喜公のみていた現実政治の現場だった
そりゃそうだろう、だから地元水戸でも近代化を先駆し開国論じた
慶喜が卒業した弘道館は、要は当時一流の知識人の集まりで、現時点からみても最高度の学が研究されていた
会沢安『新論』の尊攘論は、当時の大名連邦を天皇国体の下の挙国一致体制にきりかえ、全国民はこの点で団結し欧米列強からの植民地化を防止せよと啓蒙するもの、
豊田天功『防海新策』の開国論は、彼我の実力差を考慮し、直接の戦を先送りし、先ずは日本の近代化を主張したもの
茨城では、鹿児島や山口と違って、イギリスに直接喧嘩売りに行って県(当時の国)ごと敗戦しなかったのは、
この豊田の開国近代化理論があったからといってもいいだろう
ペリー来航1週間後に書かれた(奈良勝司『幕末情報の編集と廻覧』)とされ、日本で最初の開国近代化論だったといっていい
西日本の人達は今もそうだが総じてもっと単純な上に意地悪で、
鹿児島の島津家とか自分から生麦事件おこしイギリスに喧嘩売って負けた。
その上、敗戦費は徳川家におぶせた。
山口の毛利家も、当時政府側の徳川が、どうせ負けるから今は喧嘩やめとけといったのに勝手にイギリスに喧嘩売り民衆ごと戦火
つまり、慶喜公は弘道館での、当時超一流の学者による英才教育の中で、いわゆる水戸学――尊王論、攘夷論や開国論を、それぞれに矛盾なく教わっていた
所が、西日本の方にこんな学識はない
西郷隆盛、吉田松陰とか少数の侍が、弘道館あたりで会沢や藤田東湖と一言三言、会話を交わした程度だったのだ?
松陰は、水戸学の根本趣旨をねじ曲げて、というか多分あまり深く理解しておらず、
後期水戸学のごく表層だけかっぱらって、地元で教えだしたはいいが、
今度は宇都宮黙霖に徳川の悪口を吹き込まれ、あっという間に転向
それでテロリストになり死刑だが最後には反天・反政府の侵略主義過激派になった
西郷の方は松陰よりもっと学がなかった上に、底意地の悪さは松陰を超えていたかもしれない
松陰も、欧米から植民地化されたくないから皆頑張ってるのに、今度は欧米の真似して侵略しちまえばいいんだ、とか、
土台がとんでもないサイコパス野郎だと後世からは誰でも分かると思うけども。
トンデモ極左
西郷どんがやったのは再三の裏切り行為、陰謀で
そもそも戊午密勅も、西郷が徳川家の親族争いを誘発させてやろうとか純然たる悪意で、京都の公卿に書かせた偽書みたいなもん、
というか天皇の筆じゃないだけに偽書だし、
これ以後もずっと江戸や京都でテロってたし、
錦旗も偽造、小御所会議でも裏切り
更には『討薩の檄』に見られる通り、山形まで事情が知れ渡って、皆が人でなし行為はやめろといってるのに、
西郷は何の罪も犯していない慶喜を殺せとほざく
それが敗戦国(県)鹿児島の宗主国状態だったイギリス公使に反対されたら発狂、
嘗ての盟友・会津に濡れ衣きせだす
かばった人達を一方的に暴行
ここまで全部、どういう事かというと
西郷って人は、イギリスの手先になっていたのです
イギリスって国は海賊の国だ、確かに
そうやって現地人の中のヤクザに武器を渡し
自分達の手をよごさず、現地人同士に不和を誘発、相互虐殺させ
弱りきったら残党狩りで支配した
現にそうしてアメリカを作った
慶喜公はこの事は事前に分かっていた
考えてもみてほしい、尊攘論こと今でいう天皇国体を水戸学者が作ったのは
欧米列強に支配されていた世界各国、特に周辺国の二の舞になってはいけない、との危機感からだった
今すぐ日本が戦ったら絶対死ぬ、仲間割れやめて皆で協力し近代化しようぜと提案したのだ
しかしこの高尚な、というか今からみたら当たり前でしかない話を、当時も、西日本の人達はただの一人も正確に理解できなかった
今もきっとそうだろうと思う
なぜそういうすれ違いが起きるか
僕は色々な西日本の人達と接してよくわかった
彼らは一般に、平均して知能が低いのである
水戸学者と差がある
西日本の人達は「今は仲間割れしてる場合じゃないから、まとまって国を守ろう。その為には先ず、近代化だ」と遊説に回っていた水戸人――関鉄之介らの話を、
一応は聞いた県民(当時の国民)もあったみたいだが、吉田松陰をはじめ、根本的に大いに誤解してしまった
なぜかなら、彼らは意地悪だったのだ!
西日本の人達は、そもそも貧しい。
それは絶対的貧困というより、生産力が低い土地が多いという事である
そこに生まれ育っていると、カツカツの暮らしをしているから、心がねじけている
もっというと、他人を思いやる様な余裕がない
それで部落差別がどうとか、大分酷い人権侵害も色々してきたのだった
一方で常陸国、茨城県の民衆は、土地生産性が古代の時点からずっと高いから、
なにせ日本最大平野を農地にしていて今となっては耕地面積も1位だけど、
特にコメ経済の当時、相対的にまだ余裕があったのだろう
石高では一見そういう風に出ていないが、御三家末子で過少に見積もっていたのかもしれない
今だって東京人は、茨城県が農業生産性レベル90だとしたら、東京都はレベル-99とかの大差がついているのに、
自分達は生産性が上だ! と言い繕っている
似た様な事は、プライドが高い石川県が加賀百万石だぜ! といいつつ、現時点のGDPが29位なのとも似ている
石高は余程適当だったかもしれない
山口県とか鹿児島県、高知県の人々など
鉄之介が色々巡って、尊攘・開国を遊説した国々(現県々)の人達がどうしたか?
全員が例外なく、茨城人に感謝なんてしていないだろう
逆に、アイデアだけぱくると、裏切りまくって自分達の地元人はツエーとかいっているではないか?
朝鮮人を彼らが叩けるのか
それだけ心貧しい国(県)の人達が、
慶喜公が自己犠牲を図って、全国の為に禅譲した心情なんて到底、想像もつかないだろうし
今後とも、理解もできないだろうと思う
あのイギリス人が僕に言った「君が第三諸国と一緒か?」とは、或る意味では真理でもあるのだ
だが、僕はそれにも拘らず、疑義を感じた
そのイギリス人は、国の括りで、そこに暮らす人達を階級差別してしまう
それで行くと、イーロンマスクも第三諸国出身で、差別されて表に浮上できなかった事になる
イギリスは実際そういう国になっているといっても、そこまで間違っていないかもしれない
アメリカがイギリス本国から独立したのも当然だ
万人平等という考え方を、慶喜公が持っていた、と初めて指摘した様にみえるのは、
僕の知る限り2017年に出た鈴木荘一『明治維新の正体』だが、
これは半分は間違っていないが、茨城県民側からみると、殊更言うまでもない事だったのだ?
だって2代の義公どころか、佐竹氏以前からずっとそうだったのだ
茨城こと常陸国には、元々縄文遺跡・貝塚があり先住の日本人が住んでいた
『常陸国風土記』でも暴力を振るうのは古代奈良人だけだから、野蛮な関西人が来る前まで、他の縄文人の領域と同じでことさら暴力などなかったのだろう
しかも身分差別もなかったからこそ、古代遺跡の埋葬に扱いの差がみられない
関西人達は、古代の時点から野蛮で野卑で、利己的で性悪で、差別的で暴力的で、徹底的に意地が悪かったと、『常陸国風土記』はきちんと記録している
何しろ茨城県で少なくとも自由に暮らしている人を、一方的に差別し、虐殺し威張った
ダウンタウン考えれば、1300年後も態度が全く同じなのに驚かされる
同じ関西人とは言っても、中には上品なのもいた
高橋虫麻呂は『万葉集』1758、1754に残る和歌で
筑波山の裾野で秋の稲穂を刈っている女に、自分も紅葉狩りの一枝を贈ろうか、と優雅な内容を歌ったり、
筑波山に登り友と寛ぎやはり昔も素晴らしかったのかと悠久の歴史を振り返る様子を歌っていたりする
しかし現実にそういう関西人なんて、もう絶滅しているのではないか?
元々、文官なんざ、関西人全体の1%にも満たなかっただろう
少なくとも僕はただの1人も、数多接した関西人で立派な人物だと思った人はいない
既に絶えて久しいのだ
所詮、政府に寄生していただけ
大和王朝が潰れ離散してしまった
身分差別の文化を持ち込んできた人達は、完全なる野蛮人とみて間違いない
東京は既に、そういった蛮族に仕切られてしまい、取り返しがつかない
イギリスを丸ごと模範視してまねてる様な文化的理解の次元だから、
高が喧嘩に負けただけで上位者と思いこんでしまう時点で低民度といわざるをえないだろう
茨城の支配者、権力者なんて、度々交代してきたのが常で
その間、民衆が新覇者をどうみているかといえば、もっと深い次元の人間性理解としてみていると思う
茨城県民は恵まれた風土だけに、物の見方が奥ゆかしいといおうか、一時の勝敗も人間の限界としてみていると思う
誰も佐竹や徳川を辱めていない
結局、現地に作られたある新政府も、現地民衆の民度より低い統治方式なんて執れないのだ
これを実際にやろうとした佐賀出身の県令(県知事)代行・渡辺清は、
明らかに水戸の伝統も歴史も知らない、しるつもりすらない
上から目線で、唯の野蛮なテロリスト末端要員みたいな人だったのだろう
松本龍的な
渡辺清はそもそも水戸城に入場すらできなかった
水戸の志士が、渡辺の入る前に放火してしまったからだ
これって仙台放送が、松本龍から全マスコミに敷かれた無礼極まる緘口令を、
また白河以北差別かふざけんなと義憤で、全国報道したのと相似
心卑しい東京人らは素で国民裏切り一言もいわなかったのに
寧ろ、茨城人がどうしているかといえば、
徳政・善政をしていたのが明らかな為政者を、
彼らが権力闘争で負けたり、禅譲したりして実権から退いても、
普通に最後まで見守っていて、尊敬していると思う
これが事実
何しろ慶喜家がこないだ水戸の病院でなくなるまで僕は150年後も最高敬意を持っていた
慶喜公の失政があったとしても
京都で余りに忙しかったので、天狗党の処置を田沼家に一任してしまったばかりに、
愚かな田沼から無闇に、罪もない老若男女が殺されてしまった所くらいだろう
慶喜公表向き言ってないが恐らく暗にしまったと感じていただろうし、残党を本圀寺党と混ぜ自軍に入れてカバー
結局、なぜ茨城の統治者らが、自分から仁政をせざるを得なくなるかといえば、
一言でいえば民衆の平均公徳の質が高いからだ
これが最終的な総合文明度だろう
所詮、現地の民衆に合わせた政治しかできない
無理に下劣な事をすればひっくり返される
濡れ衣着せてきた井伊直弼が暗殺されたのも正にその為
西郷隆盛が京都人の公卿を唆して書かせ、
水戸の徳川家と、徳川宗家に親族争いを誘発させようとした陰謀が、戊午密直だったのが、今では公然たる歴史の事実
だが井伊直弼はこれを見抜けず、宗家の権威権力を笠に着て、水戸の徳川家を弾圧してしまった
水戸の徳川家は一度も宗家に逆らってなどいない
水戸の徳川家が言っていたのは、
そもそも将軍位は古代から天皇にあてがわれた代職で
天皇を奉り公務を誠実に実行するのが仕事だ、という事
つまり水戸学の大義名分論だが、
井伊直弼は、これを理解する知能がなかった
幕府がいかなる者かなんてわかりもしないまま
将軍権力に逆らうな! と安政大獄
水戸学を修めた慶喜公は、
自分から将軍位を天皇に奉還した
今の時点で征夷こと対外戦争は無理ですので、
皆で近代化の為に議会政治をやるつもりですと言った
天皇もこれはやむを得ないと認めたわけだ
最初からそうしとけよという話
水戸家より宗家の方が馬鹿だっただけ
家定・光圀の頃からそうだった
元々、賢い水戸家の側が
宗家の代わりに将軍位やってた方が
江戸期全体を通じても、
全国統治をもっと徳政的に高文化の薫り高くやっていて
今でも尊敬されていたと思う
だって茨城では実際にそうなんだから?
家柄・門地の差別がいかに不条理かこれでも分かる
虚実がずれているといつまでも擬制が続く
今も全く同じだ!
茨城県の方がよく治められているし、文明度も正直、東京都よりずっと高いと思う
これは僕が人生を大体2:1位使ってどちらにも長らく住んで、緻密に観察したので確信しているといってもいい
なぜ両者に差があるかなら単純に、茨城の方が民衆の公徳の度合いが高いからだ
東京は下衆風
つまりどうせ徳川宗家が将軍・水戸家が副将軍の時と一緒でいづれごまかしきれず、そうなると思うが、
茨城県が中央政府をやって、全国民に徳政、仁政、善政を敷いた方が、絶対に良い国になる
何せ茨城人は他県を馬鹿にするみたいな偏屈さが、ガチの話全くない
差別されて切れず、笑って許してるレベル
ただ京阪人などが、天皇のもってきた中華思想にかぶれて他都道府県民を差別するとか
東京・神奈川人が他県を差別するのを見た時、それを止めたり、そういう事はよくないみたいに言う傾向にあると思う
要は正義感で行動しているのではないか?
栃木人が魅力度最下位といわれ、茨城人は全員かばっている
万人平等という、太古の共和政時代から続く風儀は
ずーっと茨城に残っており
敬語とかいう身分差別の為の表現をわざわざ発達させなかったり
「(である)べし」「だべし」からくる「だっぺ」が頻用されるのも、強い義務の表現が発達しているといっていい
だっぺ、といっているのは、~すべきだって意味
要は、そもそも武士の発祥も平将門が最初なら、常陸・上総で、
今でいう茨城県・坂東市の国王神社あたりだろうが、
この頃から、~すべきだ! と「公徳に従おう」と周りに伝達する意味の、武士道的表現が頻用されていたのだろう
余りに頻度が高いと省力化される
古語「べし」が断定の「だ」と略された
武士は、~すべきだ、と文語調でいっていたのかもしれないが、
農民らに口語で崩され、~だ、という関東語でよく使われる断定表現に、~べし、~べき、~べさ、という義務表現がくっつき、
農民の日常表現では、だっぺし、だっぺ、だっぺさ、と、より言い易い形にされていった
いづれにしても義の表明
一方で、敬語表現が発達している地域は、身分差別への適応がその基本目的である限り、罵倒語のバリエーションも発達しているかもしれない
京都弁の嫌味が、他都道府県民には馴染みがないのもそのせいかと思うし、
そもそも関西弁が、日本では一番、罵倒語が豊富だと衆目一致しているのではないか?
東京人は、公徳がはっきりと茨城よりはるか低い次元にある
茨城県のメディアで、全国を偏見で汚辱しまくり、差別しまくるなんて事はついぞ想像もつかない
だが東京人は日常的にそうしているし、当人達はその下賎な風紀が当たり前と思いこんでいて、逆に田舎者! などとより心の尊い人達を罵倒しまくる
徳川宗家は、生類憐みの令を水戸の義公に犬鍋で揶揄られた伝説の段階で、
どうみても水戸家より政治的無能だったのだが、
それでも権力と地位を譲り渡そうとしなかった
結局、宗家は子孫を絶やしてしまい、紀伊家に頼っていたがこれも絶え、水戸家の血筋に置き換わり今に至る。
東京・茨城間もそうなる
東京人はどうみても茨城人より公徳が低い
だったら茨城に遷都すればさっさと他国に優って仁政を行う、
茨城の歴代統治者と同じく、万人平等が当たり前という茨城従来の感覚で、全国民を慈しむ国へと発展していけるのに
無知と虚栄心が凄まじいので、自分から政治都市の座を譲ろうとなんてしないだろう
なんらかの政変がくり返され、
茨城からみたら人心スラムみたいな東京なんか崇めてる以上、東京より遥かに公徳度が低いのだろう西日本全体の人達が、
戊辰戦争だのそれ以後の日帝77年同然に、
なんやかんやと想像もつかない蛮行をし、
結局は茨城に首都が移る事になる
無能な人達は遠回りをするのだ