2020年10月28日

茨城人一人一人が高潔なら、下衆は遠ざかり、貴人に親しまれる

ネットは我々を酷く不幸にした
特に僕にとってはそうだった
恐らく多くの茨城県民にとっても同じだと思う
なぜかなら、僕は茨城県外がこれほど邪悪な人達でうずまっているとは知らずにいたのだ
恐らく殆どの茨城県民もそうだったのではないか
日本は悪意や悪徳だらけの低俗で愚か極まる人達の国だった

三浦春馬という人は東京にさえ関わらなければ
今も生きていたに違いない
土浦のいい青年として栗農家でもやっていたろう
正確にいうと、茨城県は県外に比べれば遥かにましな社会だったのだ
ところがこの県で生まれ育つと、県民一般が余りに謙虚でそれを知らずにいる
一度外に出ると外が地獄だと分かる

僕は東京が地獄だと感じた
それは東京に暮らす人々が酷く愚かで、根っから卑俗だったからだ
環境自体も、自然に恵まれた茨城県に比べしぬほど悪い
だが東京人は全くそれに気づいていない
今後も永久に気づかないだろう
それが本当に愚かな人達の生態
自分が何でも1番だと思っている人はどん底にいる

また、僕はその地獄の東京より更に西へ旅行して
更に大きな衝撃を受けた
そこには地獄以下の世界が広がっていた
特に京阪地方は意味不明な性悪や明らかな愚民の集まりだったし
そこでも東京や横浜と同じく驕りが凄まじかった
ある奈良の女は野蛮人そのものだった
傲慢な民衆は結局、公民度が低いだけだ

自分は広島まで行って、ここは完全に異国だと感じた
大阪の時点で違和感しかなかったが
神戸は朝鮮の人達が入ってきて作った町なのがすぐわかったし
それより西の社会は、明らかに渡来人色の世界だった
なぜ弥生人達があれほど残虐な殺戮を繰り返していたかすぐわかった
彼らは大陸からきた蛮族だった

弥生系の移民達は山口あたりから流れ込み
関西へ定着していたが、最近では東京まで出てきている
だから僕には東京が地獄にしか見えなかったのだった
完全に異民族達が、日々、見るもけがれる蛮行をしているのだ
他人からカネを貪り取るしか頭にない集団が
殺人カルト教祖を崇め
異様な悪事を働いていた

僕は文科相の教科書がウソつきだったと悟った
明治政府の作った歴史教科書が、その大陸から入ってきた蛮族達に都合がよく、
我々先住の日本人を貶める記述ばかりなのも
単純に、彼ら東京まで入ってきた蛮族が、自己中心的で悪徳まみれで傲慢なだけだった
それで僕は日本が乗っ取られたのだと悟った

東京は関西人の植民地だった
その関西人はといえば古代の中国や朝鮮から入ってきた、明らかに自分とは遺伝的資質も文化も根っから違う、自分の目には悪性にしか見えない人達でうずまっていた
だが彼らは自分達が悪性だと気づかないまま、初対面で侮辱してきたり、嫌味を日常的にいって誹謗しあっていた

縄文人やアイヌは、この弥生人と呼ばれる中国大陸から入ってきた民族と全く経路も性質も異なったに違いない
僕は東京や関西に違和感しか感じなかったが、何しろそこに暮らしている人々が異民族としか感じないのである
今も東京が公害源にしかみえないし、彼らはその自分達の落ち度に決して気づかない

今から150年前まで国境は関所で鎖されていた
僕はその方がよかったのではないかと思う
今も茨城県民の一定数の人達は、その方が幸せだったと感じていると思う
東京は犯罪や悪事の巣窟だが、簡単に出入りされてしまうと、こちらにまで公害や悪疫が飛び火してくる
今のところ自分がみた南には茨城より民度が低い地域しかなかった

だが僕はそれが事実だと知らずにいた
本当に優れた国、県はそうなっている筈だ
賢い人達は謙虚であり、外には自分より優れた地域や人々で溢れていると端から信じ込んでいる
それだけ自分や自分の属する社会を過小評価しているのである
実際、僕が差別や性売買する人達をはじめて見たのは、県外でだった

それだけではなく、浮浪者を見たのも
或いは驚く程下品だったり、吐き気がするほど愚かだったり、しぬほど性格が悪い人達をみたのも、県外で初めてだった
東京はじめ南関東地方や関西地方、中部地方、四国・中国地方、宮城県や北海道などで、恐ろしいほど卑しい人達を産まれて初めて目撃したのである

僕は自分の県、自分の市の人々が、相対的に善良だったなんて一度も思った事がなく、
もっと理想的教養に満ち溢れていたり、善徳で溢れている世界が、茨城県や北茨城市の外では当たり前なんだろうに、と思い込んでいた
事実は、少なくとも県の外に関する限り、全く逆だった
茨城の人々が最もましだった

国外の人々とも随分関わった
だが、確かにフランス、アメリカ、ノルウェー、或いはイギリス、イタリアなどの人々と関わって
他先進国に教育がある人々が多い事実はあったにしても、
そして日本の圧倒的多数を占める単なる愚民よりずっとましな節があったにしても、
彼らの仲間になろうとは思えなかった

友達になったあるイギリス人にいわれた
「君は日本から出ない方がいい」
それは僕の生まれ育ちに比べ、西洋の現実が酷すぎる水準だからという意味だ
彼の言は恐らく正しいのだろう
統計指標から見る限り、この愚民の国すら、西洋諸国より犯罪率がずっと低いのだから
世界は野蛮人でうずまっていたのだ

ドラゴンクエスト2とか3とか4とか5とか6
あのあたりの主人公の置かれている世界と、僕の生まれついた条件はほぼ同じ様な感じだったのだ
外の世界は悪でうずまっており
自分の村は限られていて退屈だと思い込んでいたら
現実には外へ行けばいくほど悪人達と遭遇しまくる
自分の村が一番平和で善良

今の県知事、大井川氏
恐らく彼も、茨城から東京へ行き、アメリカ、アジア諸国など転勤し
外の世界が必ずしも茨城より優れた所ばかりではないと悟った筈だ
寧ろいかに故郷が恵まれていたかに気づく事になっただろう
これは前知事もほぼ同じ様だった
県外の大体の茨城人はそういった経験をしている筈だ

一ついえるのは次の様な事
東国最古の文献は『常陸国風土記』だが
そこに記されている時点から茨城の豊かさ、恵まれ方は何も変わっていない
常世の国という古代奈良の文官が見た姿は、1300年を経ても全く正しいものだった
だが世人は風土記なんてわざわざ読まない
その事実を知っているのは知識人だけ

そして私は予想する
これから千年、万年後も、茨城が豊かなままなのは同じだろうと
最低でもここに人が住みだしてから約2万4000年経過しているが
自然自体に変化がない限り、或いは原発事故などで致命的汚染がない限り
ほぼ同じ期間、未来に渡っても、地味豊かな国土である事は変わらない筈だ

そしてまたこうも予想する
今は日本国とか国連とかの単位の方がさも有力にみえているが
将来これは全く逆転し、茨城の方が有力な国になるだろう
潜在的生産性を見てとれれば、茨城県知事の方が、より大きな単位の自治体の長より地位が高くなる筈だ
天皇が亡びても日本が亡びても茨城県こと常陸国は続く

なぜ県外の人々に比べ
明らかに茨城県民の方が、総じて公共民度が高くなったか?
これは恵まれた生まれ育ちの人々だからだといえる
土地が痩せていたり、狭かったり、暑すぎたり寒すぎたり、民族の資質が悪く生産力が低かったり、低級移民地区になって風紀が悪化したり
こういった条件にないからだ

移民国家を作ろうとしたイギリス、フランスやノルウェーは先駆者だ
そこで暮らす人々の意見を自分が聞き取った限りでいえば
労働力を補う目的で低級移民を大量にとりこむと、IQの約半分が遺伝すると分かっている通り、総じて風紀が低落していく
東京、神奈川や大阪がそういった場なのは周知の通り

安倍晋三なる山口系東京人が
自民支持の愚民を騙し大量に労働移民を入れた
この結果が最初に如実に現われるのが東京・大阪だが
茨城も技能研修生の名目で、契約労働者を入れている
世界的にみてこの政策が巧くいった例はまだない
ローマが瓦解した直接要因が外国人傭兵だった様に
二級市民は秩序を壊す

一方で筑波は巧く行っている
学者とか芸術家といった部類の文化人を外国から招いた例は悉く成功している
ケンブリッジはオックスフォードから神学者を
ニューヨークはパリから近代芸術家を招きいれ
結果、無二の主導権を握る事になった
移民に帰化を勧めるのはいいが
自国より優れた人々に限るべきだ

水戸学の母体になったのも
義公が彰考館に各地の学者を招いた末に
明の遺臣・朱舜水を碩学として招聘した所に求まる
茨城県民全員より優れた美質を持つ人々なら
幾ら招こうが、それはわが県の長所を更に伸ばすばかりだろう
だが自県民に劣る人々を招くのは、第二の東京圏の様なスラムを作るだけになる

県外に茨城より圧倒的に優れた美質を集めた都道府県がないとすれば
或いは国外にも部分的に模範に足る国々しかないとすれば
ある都道府県・ある国へ依存するのは全く不合理な事だ
悪辣で下賎な東京マスコミが反面教師でしかない様に
茨城の現状に劣る人々やその文化は一切合切退けるべきなのだ

国外は一般論として野蛮人でうまっている
先ず犯罪率と学歴には最低でも擬似相関が見てとれるが
実の相関はIQなど知能のできと関係していると思われる
IQの約半分が親の通りなら
茨城の平均学力は全日本より高い
更に日本のそれは全世界より高く最高付近だ
つまり一般的県外人は茨城人より愚かなのだ

筑波に研究学園都市を作ったのは全くの正解だ
そして茨城全土はこれと同じ方法で、義公式に
世界中から選良を集める方針をとらねばならない
逆に、ブランド総研田中章雄は反面教師だ
彼の調査・商売方式は国内会員間での主観的魅力の認知を種に、
実質的にでたらめな観光集客を煽ろうとしているからだ

なるほど茨城県内の観光業者にとっては
でたらめだろうと品性が低かろうと
誰でもカネを払えば客という風に考える事もできる
田中章雄が煽っているのはこの千客万来方針だ
しかしそれが決定的に誤っているのはパリの現状で分かる
全世界で最も観光先として有名なこの大都市は、
常に大量のごみで埋まる

観光業者を除く京都人が観光公害で悩んでいるのも
要は来る客の質を問わず、全世界の誰にでも媚びを売った結果だ
この点で質の高い客が観光業の容量を超えない程度にきて
しかも高い金を払ってくれる方が余程利口な結果であろう
この点でも、茨城は選良招来方針を執るがいい
偉人が帰化すればなお良い

ではどの様にすればよい人々に好かれ
たちの悪い人々が茨城を忌避する様になるか?
これは自分が全世界で最もよく分かっている事だと思うが
要するに高貴なる県にすればよいのである
県民自身が、普段から高尚な議論をし
決して低俗・卑俗に馴染まず
優れて上品な趣味に興じればよい
同類相親しむ

茨城県民が道徳的に正しいがゆえ
或いは好みが立派であるがゆえ
日本随一下衆の極みというべき東京文化に夢中になっている西日本の人々には、茨城文化が全く眼中に入らない
これでよいのだ
その結果、西日本の人々は茨城を認知していないので
魅力度最低だと、東京の更なる下衆に罵らせておけばよい

この世には馬鹿しかいないわけではない
下品な者しかいないわけではない
逆に下衆に罵られている対象がいかに優れた相手か
冷静に評価している人がいるものだ
当の自分がそうだった
自分は田中章雄が東京から茨城を罵っている間
一人で茨城県全史を調べ現地を巡り、大いに感激した
下衆は善美を嫌う

孔子は言った
村の誰からも好かれている者は、
村の悪人から疎まれ、善人から好かれている者には及ばないと
全くこの通りの事が国柄、県風にもあてはまる
栃木が罵られているのをみるがいい
我々は栃木がいかに清浄で優れた美質に溢れた土地かを知っている
だが罵っている西日本のヤクザな民衆は外道だ

全世界の全人類
全都道府県、全ての国々と、同程度に親しむ必要はない
自分より劣った点が多い人々とは努めて縁を断つべきだ
自分より優れた点のある人々に親しみ、相手の美質を学び取るべきだ
自分より優れた点のある都道府県がなければ、孤立している方が遥かによい
茨城も栃木も孤高でいるべきだ

人類はもしあしたチンパンジーにもどれるとしても
恐らく殆どのヒトが、チンパンジーの暮らしに適応できない
それと同じ事が文明にもあてはまる
茨城人が東京に出て、野蛮人同然の暮らしに馴染む事はまずできないだろう
三浦春馬は自殺したが、奴隷的芸能をやめ、茨城の農業学校に入ればよかったのだ

2020年10月27日

ブランド総研と東京マスコミの連携した魅力度調査は擬似科学による地域(部落)差別を煽る悪質かつ稚拙な炎上商法にすぎず、完全に無視した上で、茨城県民自身の幸福を最大化するのに県庁は集中すべき

人の魅力は絶対的なものだ。これを知らない人は、そもそも人がよほど分かっていない。人間社会では或る集団で大勢に或る人の欠点と思われている点が、実はその人の最大の美質である、といった場面が頻繁に起きる。例えばシンデレラは清く美しいが故に、悪辣な仲間の内で最も魅力がないとされていたのだ。更にそもそも長短といった相対的価値づけは、人の根本的な評価として不適切なものでしかない。誰からも蔑まれ、酷く貶められ、差別されている様な人に向け、イエスや親鸞はあなたこそ救われるべき人だと言う。これは博愛、慈悲、アガペーといった概念で説明されるが、要するに人の生きる尊厳は絶対的だ。いいかえれば、人には「その人らしさ」として誰にでも無限に魅力があり、その魅力は他人と比べてどうこうと評価できる類のものではない。その人自身の産まれて生きて死ぬまでの全過程の中に、はじめから絶対的に備わっている天賦の価値で、世人はこの個性という価値の尊厳を少しも損なう事ができない。

 人の個性についての絶対的魅力と全く同じ事が、多かれ少なかれ、法人にもあてはまるだろう。法人とは法律上、人格と同じくみなされる或る組織単位の事だ。企業、宗教、学校、行政などの単位がそれにあたり、人の集まりな限り、これらへなんらかの相対的価値づけが本質では不適当なのが明らかである。例えば国という行政単位で、ある国に産まれたり、育ったり、生きたり、死んだりした人に、集団に関する或る相対値を設け、根本的な差別――例えば魅力度評価を行うとすれば、全く不条理な話でしかない。当人達の意識ではその国の内情で、偶然・必然にせよ、身近な人や風土に愛着を持つのは自然だからだ。「日本は魅力度最低!」とか、「日本ダセーw」とか「日本なんて何もないヤン」とか、「日本に生まれなくて本当に良かった。日本に生まれたって恥ずかしいね」「日本? さすが最低の国」などと、日本について何も知らない人々が、優れて善良な日本人全員へ寄ってたかって言ってくる。これは差別だ。だがこの法人あるいは地域集団に対する差別を、常態的に行っている人がいる。それはブランド総研の田中章雄という人であり、また彼の会社の社員約10名および、彼らの魅力度と名づけた地域差別の悪意ある擬似統計を堂々と、全国へ公共の電波を乱用して流している東京都のマスコミ各社・各人である。

 地域差別主義者であるこの田中章雄一味が、魅力度と名づけている指標のからくりはこうである。
 彼らは自らの会社への登録会員約600名に、日本国内の各都道府県についてアンケートをとる。5段階内「やや魅力的」1倍「とても魅力的」2倍の倍率で、或る都道府県について魅力を感じるか? と聴き取る。こうして出した擬似統計上の数値――明らかに標本に一定の偏りがある仮の相対値を、田中章雄一味は「都道府県の魅力度ランキング」と名づけ、都内マスコミ各社に売り込みに行く。彼は日経BPという日本経済新聞社の関連出版会社から独立した理系の人物で、人の魅力が絶対的だという本質的な人間理解はない。田中章雄は、元々福井県から東京都に出てきた人物である。結局の所、関西地方では飛鳥期に天皇と名乗る豪族が出現して以来、延々と身分差別を前提とする封建制度が続いてきた事もあるのか、田中はおそらく何の罪の意識もなく自らの金儲けとして、地域差別に該当する形で、この擬似統計を悪用してしまう。田中章雄の地域差別を素でやってしまう悪意、又は当人が実感として悟れない関西圏では今も残っている部落差別級の悪習の程と同様に、東京都内のマスメディアもやはり、この地域差別(ここでは都道府県差別)を何の不道徳さも、人の人たる尊厳を傷つける罪悪感も、恥も感じる事なく炎上商法で垂れ流す。東京のマスコミとは、江戸時代に瓦版――時事に関するしばしば根も葉もない噂を、あることないこと冗談まじりかきつけた風評の半紙――を、悪口陰口好きな俗っぽい町人に高値で売りつけていた人々、その直系の末裔である。西洋文化の影響下でnewspaperを訳し新聞と名を変えたが、中身の根は同じである。今日では週刊誌という形で、江戸時代の瓦版と変わらぬ原型が残っているが。いづれにしてもその西洋圏での新聞も、活版印刷技術の元で市民階級(都市労働者)向けに時事を取り扱った噂を伝える程度のもので、科学者の名誉に関わる正式な論文でも皆目ないから、社風の差はあれ真実性の保証がある筈もない。

 結局こうして人の不幸で飯を食う、濡れ衣や汚名を着せ罪なきひとを炎上させても自分の手元に流れこむ金があれば悪意ある風評を幾らでもばらまく、元来やくざな東京マスコミ業界の一員に入り込み、田中章雄は封建時代の関西地方と相も変わらぬ品性下劣かつ暗愚な意識で、地域差別を商売にしているのだ。

 もし少しでも良識がある人物が、似た様な調査をしたとしよう。するとこうだ。
 そもそも「この都道府県に魅力があると思いますか?」という質問で分かるのは、或る地域自治体とその内部で暮らす人々の絶対的に存在する無限の魅力自体ではなく、或る人の地理的知識のレベルだ。無知なら魅力を感じない。そして或る都道府県に必ず存在する絶対的魅力を感じないだけ無知な、ブランド総研会員約600名の一定傾向で分かるのは、西日本のブランド総研会員らは、総じて首都圏北部(茨城、栃木、群馬)について、致命的に地理的知識を欠いており、意識の内部で認知していないという事実である。単純に愚かなのだ。特に茨城は大阪、兵庫と福岡を除けば、西日本のどの府県より人口が多い。即ち人の魅力が絶対的である限り、その大人口の生活の喜びについて何もしらずにいるとは、同じ国民に対する人間理解として、或る種の恥ずべき無知さ、無恥さといわざるをえないだろう。「日本って何もないヤン」レベルの馬鹿さだ。世界地図で例えよう。もし小(人口)国の人が、大(人口)国に「大国には何もないw」「魅力ないヤン」「ほんま消えてもええで」といっていたとする。これは負け犬の遠吠えでなければ無知で尚且つ無恥だ。キプロス人が日本人に「日本てダサいな! ヤンキーの印象しかないわ」と面前とほざいている状態。よって良識ある人は次の様に判断する。これは「特に西日本の人々の間で、その魅力を知られていない都道府県」の、会員約600名間でのデータ抽出だと。――同じ事を世界地図にあてはめてみれば一目瞭然だ。「特にアフリカ諸国の人々の間で、その魅力を知られていない国」の筆頭が日本だった様な場合である。然るに、田中章雄や東京マスコミ全社は、この「西日本人の一部の、国内地理についての無知さのデータ」をどう扱っているか? 魅力度、という現実の有様――全ての都道府県とそこに暮らす人々には無限の魅力がある――とは全く違う名前を適当につけ、偏差値教育式に、個人を差別する金儲けに乱用している。

 もし東京マスコミが少しでも性善に産まれついていたら次の様にした筈だ。
「わが国は東西南北に広く、残念ながら都道府県認知度調査の通りおのおの素晴らしい県や、そこに暮らす同じ日本国民の皆さんの人間的魅力が知られていません。そこで、当番組では特集を組み、栃木や茨城の魅力を紹介します!」
 しかし現実に東京マスコミがここ12年間やってきたのは次の様な事であった。
「ギャハハア! 最低だ! お前ら魅力度ないよw 他人に比べて何にもないんやろ、なんや。これ。こんなもんしかないんかい! ウチラ東京にはなんでもあるさかい、貴様ら田舎もんは黙っていじられとったらええんじゃボケ」

 私は田中章雄が東京マスコミとつるんで延々と東京から茨城を「魅力度最低だ!」と下品に罵り続けていたその間に、4位だと驕る東京から最下位と辱められていた茨城に引っ越したが、自分には明らかに茨城の方が過ごし易いし、そもそも環境、食、観光地や行政の質だろうが、ほぼ全面でより高等だった。だとすると、この調査指標で西日本のブランド総研会員約600名以内の人々が、首都圏北部に無知なばかりか、単なる魅力についても自分と異なる感覚を持っている可能性が随分あり(好みや人生観が違う)、さもなければ単純にその約600名以下は北海道、沖縄、京都や東京といった地域が特に好きなだけである。即ち自称魅力度調査指標の示している事が「特に西日本のブランド総研会員約600名間で、その魅力を総じて知られていない県がある」という事実に過ぎない以上、ある県――特にここでは長年辱められてきた茨城、栃木や群馬といった県に、魅力がないという事は土台から何一つとして示していなかったのである。

「栃木、茨城らに魅力がないどころか事実大いにある以上、西日本のブランド総研会員が無知なだけ」「東京マスコミが低公民度ゆえ、地域差別を全国報道し、弱い者イジメに近い形で炎上商法してしまう」という事実は、自分はかなり以前に分析済みで知っていた。地方自治法は都道府県間の競合を禁じている。しかし自分は更に分析と戦略策定を進め、次の様な方針を執るに至った。
 世界規模で考えてみればわかる通り、例えば一定地域の小国群の民衆の地理的知識の質が低いので、或る大国の魅力を含め何も知らないとする。これはその大国側からみれば好都合でしかない。低公民度の国に親しいのは同程度の国だ。即ち学すらまともに与えられていない小国から知られるのに資源を注ぐより、既に優れている点が多い大国自身の品位を高めるのに注力した方が賢明である。
 この方針をブログで発表してから、その直接的影響かは定かではないにしても、前・現茨城県知事は実際に自分の勧告の通りに茨城の魅力開発をした。自分が分析・勧告を始めた10年ほど前に比べると、茨城県側は明らかに魅力開発の点で進んだと思う。県単位だと元々豊富だったものの、経済的に恵まれているだけに殊更県外に押し出してこなかった各種産品や、歴史的遺産・景勝地など観光資源を有効活用しようという流れになっているし、国外にも宣伝する。特にひたち海浜公園のネモフィラの丘は、特別に写真写りがいい景勝地になっているので、海外メディアでも「一度は訪れたい夢の様な世界」の文脈で頻出する。元米軍基地を県民が反対運動し、世界的に有名な日本随一の自然公園に変えた平和国家の誉れといってもいい所で、その点も宣伝すべきだろうけど。特にその歴史を知る知識人からすると、龍神大吊橋よりそこから見える日本最古地層とか、奈良県では保存されなかった奈良時代の国府遺構たる常陸風土記の丘とか、古刹の極みというべき佐竹寺とか、西山荘・彰考館・偕楽園・弘道館の水戸学遺産とか、近代日本画の起源たる五浦などの方が質が高いのだが。関東平野が一望しうる筑波山と、夕陽で紫に染まり行く二峰を仰ぐ静謐な霞ヶ浦の景観、利根川沿いに地平線まで黄金の稲穂が広がる「瑞穂の国」の象徴というべき稲敷市あたりの壮大な田園風景など、太平洋があるからましだとかそんなレベルの美質に留まっているのでは毛頭ないのが茨城の自然的価値である。

 そうであれば、何ゆえ同国同県域の絶対的魅力が西日本のブランド総研会員ら約600名以内の間で知られないか? 結局、この標本に偏りがあるのだ。
 ブランド総研会員だけでなくそこに現われた指標から西日本人一般の地理的・歴史的理解力の教育的程度が低い――ここまで真に類推できるかすら疑問である。このブランド総研会員になる方法すら明示されていない。つまりどこでどの様に調査しているか外部者には明らかにされていないのだから、実際には適当に捏造していようが、調査自体が程あれ作り話だろうが知れた試しではない。その標本がおよそ一定なのは、毎度指標に大幅なズレがないので明らかである。統計は、なんらかのデータ抽出を行うものではあるにしても、そもそもそこに意味があるとみなす「有意差」(p値検定)にすら疑義が呈されるほど、手法自体が開発途上で、断定的に真実というには間断がある。ある集団の傾向を測るのに便宜的に使われる数学上のしばしば誤る手法、という程の認識が正しい。あまつさえこの調査は統計ではない。唯のアンケート調査だ。数学上の統計は、そのアンケート調査などで得られたデータに、真に意味があるのかを検査する為の手順を指す(今日では信頼区間を用いた検定など)。即ちこの過程を用いていない調査は、科学的信頼性がない。擬似統計に振り回されているのだ。
 科学者の一人(茂木健一郎氏)が、田中章雄によるこの擬似統計もとい暗箱内での約600名以内への会員アンケートを乱用した地域差別での炎上商法で、毎年東京マスコミが全国民内特定の数百万人超に汚名を着せさせ続け、遂に12年後に「無視せよ」といった。日本の科学者として余りに遅すぎたというべきだ。科学者には社会的責任がある。それは特定の差別に繋がる様な、科学の概念を誤用する人々へ批判的な注意を喚起し、科学の手法を知らない一般人に致命的誤解を呼ぶのを事前に防止するという、ある種の貴族の義務を含んでいる。これを怠り、誤り、遅らせた結果が優生学、人体実験や原爆開発だったといえる。
 だがもう手遅れというべきだ。東京都民一般が余りに低公共民度であったが故に、幾ら私達茨城県民が田中章雄一味やその悪徳商法に乗っかる様な東京マスコミの、疑似科学、擬似統計への批判的分析と対策を行ってきていても、その東京より科学的・公徳的民度が低い人々は、栃木や茨城へ根深い偏見を得た。日帝の支持者らは総じて人体実験も、思想統制も容認していた。それを非難する方法すら遮断されていた点では、現時点の日本が安倍悪法(共謀罪や、強姦罪等の非親告罪化)下で内心の自由を侵害されているのと同じ宿命である。或る国民の総合的な公共性に応じ、国政は行われる。今の日本はそれだけの国だ。

 今後も茨城県、特に県庁が執るべき方針は、悪の権化という他ない東京マスコミにつるんだ田中章雄一味こと、地域(部落)差別主義で各都道府県をゆする悪徳炎上商法を完全に無視した上で、全茨城県民自身の幸福の最大化に持てる資源を注力し続ける事でしかない。それが徳政であり、優れた県の宿命だ。

2020年10月24日

現茨城県が結局、首都になるだろう理由

東京人とは名ばかりで
実際には大坂商人を家康が武蔵国に移民させた所から始まり
中身は関西人の方がメインといってもよく
相関係数でみても、関東より寧ろ京阪の方に似ている
よく考えてみたら色々謎が解けた
なぜ東京人があんなに関東の悪口ばかりいうか?
みな疑問に思っていた
中身が関西系なのだ

確かに血統的には
僕が観察してた限り、北海道・山形の混血といっていたある東京・成城の男が
やはりいかにも東京人らしく物凄く品性下劣で、公然と不倫や軟派ばかりしていたが
この人もやはり、明らかに人権侵害といえる凄まじい差別的言動をしまくってきたのだった
ドイツ系移民の東京人も同じだった

血はそれなりに色々混じっているにしても
文化そのものが、京阪地方とほぼ同じ
だから京都人や大阪人の、中世以来やってきた中華思想に基づく田舎差別を模倣している
天皇がその代表格といっていいだろう
大坂商人のあとから皇族だの公家だのが総勢で移民してきて、文化が変容しないわけがない

薩長土肥と呼ばれる西日本の一部の県の出身者も、
この中華思想を自分達の野蛮さを正当化する目的で流用し、
東京からまねていた点では、京阪人の共犯というべきだろう
ダウンタウンみたくイジメをイジリと言い繕い嘲笑する下衆なんて僕は東日本全体で一度も見た事がないが
彼らは茨城をディスってきた

明らかに茨城人全般より下賎なダウンタウンが
なぜ上から目線で、茨城空港だの水戸だので汚いヤラセしてまで差別的言動をしてきたか?
第一に彼らが他者への敬意を欠いている本物の極道者、つまりヤクザだからだが、
背後には、天皇の権威を笠に着た中華思想があるに違いない
東京や京都の驕りと同じ

遡ると、そもそも天皇と今は名乗ってる、奈良発のカルト教祖も、中国・朝鮮からの弥生期以後の移民だ
日本史に記録されている限り、この弥生民族なるものは、先住の日本人へ総じて悪辣な振舞いばかりしてきた、より公民度の低い種族だった
端的に言うと野蛮人がやってきたのだ
暴力や差別を持ち込んだ

弥生民族の末裔達は、主に西日本に住み着いた
鬼海カルデラの大噴火で、縄文後期に西日本は火山灰で埋もれ、一帯に人家は疎らだったからだ
ほぼ無人地帯に、中国・朝鮮から入ってきて、その一員は奈良で中華皇帝をまねしだした
皇室こと天皇制度とは、中国の皇帝制度の猿まねである
日本での差別の起源

そして記紀でわかる通り
天皇ら奈良の野蛮人達は本州・九州各地へヤクザをおくりつけ、一方的に暴力を振るわせた
反社筆頭(征東大将軍)は当時の朝鮮系移民だった
彼らが朝鮮の任那でやっていた方式で、無理やり現地の支配者面しだした
その無理な枠組みを奈良人が正当化したのが、風土記だったのだ

或る大阪人が、東京で言っていた
「神戸は柄悪いヤン」
お前が一番柄悪いよと思ったが、僕は大人しいのでそいつの言動を黙って観察していた
結局この大阪人がいいたかったのは、ヤクザのカルチャーだ
確かに神戸に沖なかせこと港湾労働者の荒くれ者をしきっていたヤクザから発展した山口組総本部がある

しかし平和な農村が基本のこっちからみたら、言うまでもない事だが
その大阪人だろうが神戸ヤクザだろうが程あれ同様に柄悪いとしかいえない
寧ろ京都人も、自分が接した限り女に限っては陰湿極まりない極道物同然のしかいなかったし
茨城の旧水戸家領の武士道圏より、関西人一般の方が群を抜き粗暴だ

何度も僕が、関西人と接して凄まじいカルチャーショックを受けまくったのは
向こうが優れていて受けたのではない
そういう経験はまだ1度もない
僕がショックだったのは、関西地方の人達が、僕の接してきた常磐圏の周りの人々に比べ、驚くほど圧倒的に野卑で下品だったからだ
プライドばかり高い人達だ

僕は、産まれてから今に至るまで、茨城県民がそんなに優れた人達だなんて思った事がなかった
寧ろ「栃木人は愛想がない」と栃木出身者も言ってたが、
関東北部圏の共通性で昔から豊かで裕福だったからか、
客を特にもちあげず、愛想よく振舞いもせず、外国で一般的にそうなみたいに、主と同列に扱う

しかし京都人の裏表の激しさ、
東京とかでやたら下手に出て、見物客すら神扱いしてる過剰サービス客寄せ商売の消耗戦だのに接してみると、
実は、茨城県民の方が、身分差別とか根っからしてないんだろうと思うのだ
茨城語は敬語が余り発達しておらず、媚びへつらったりへりくだったりの表現が基本ない

京都弁の言い回しとか全部、相手に媚び売る、へつらうが基本で、もちあげたり腐したり大変せわしい
それで気を使って疲れてしまうわけだ
なぜああなのかといえば、身分差別が前提の社会だからだ
中世にはじまった町なので、共和政を一度も経験していない
ところが茨城圏は縄文期以前からある大文明だ

それで茨城で、極端な身分差があった試しがない
特に僕がなぜ西山荘の方が、京都の名邸、例えば詩仙堂だの桂離宮より遥かに品位が高いといっているかといえば
西山荘は、黄門こと中世京都で高位の人が、自分から現地農民の一員になろうとした愛民遺構だからなのが大きい
無論、学者の模範なのもあるが

徳川家も最初はもっと威張っていた
江戸の方に定着した宗家は、ずっとそうだった
しかし茨城の方に定着した水戸家は、自分から身分差をみえなくして民を慈しんだり、
当時の絶対権力者として後世から見ても畏敬されるだけの事はしてきたと思う
そしてそういう文明からみると、皇室も野蛮にしかみえない

なぜすぐ近隣なのに
江戸こと東京と、茨城でこれほど文明の質に差が出てくるか?
関西人全般は両文明を体験した事がなく、東京の下賎なテレビで騙され、東京の方が公民度が高いと思い込んでいるだろうが
或いは茨城圏を知らないままだろうが
無論、ここでは茨城の方が遥かに優れているという意味でだ

そもそも僕が浮浪者なるものを現実にこの目でみたのは、東京ではじめてだった
最初なぜこの人はここにいるのだろうと思った
やがて東京人達は、河川敷の橋の下でくらしている男を差別していると分かった
これは僕には理解するまで随分時間がかかったし、今も信じられない思いでいる
茨城にそんなのない

僕の知る限り、北茨城でどんなに貧しい人だろうが、というか、そういう人をまだ見た事がないけど
きのうと同じ服着て学校きてた子がいるとか話に聞いていたくらいのレベルで
それって真の貧しさなのか唯のずぼらなのか意見が分かれるだろうし、その子のお父さんとかに僕らは少年団でサッカー習っていた

東京には差別があるのだ、と信じ難いながら段々と薄々勘付いてから、
エホバの証人の男が僕の調布の下宿にきたので、その人に「あの河川敷の人を助けたらどうですか」と僕はいってみた
そしたら、その東京人は、「それはちょっと」といい、韓国系の何とか姫という名の女の話をはじめた
軟派野郎である

その後、関西まで旅行して分かった事として、
この東京の差別の文化は、完全に関西から持ち込まれてきた経緯だろうなと考えてよさそうだった
特に、京阪地方の人達の感じは陰険で、利己的で、性格がいじけていた
当人達が気づかないのは同類の中でくらしているせいだ
だから天皇を崇め浮浪者を見下す

人としてあるべき姿は逆だ
勧善懲悪とは、驕れる強者をくじき、虐げられた弱者をかばう事だ
水戸黄門のドラマあるけど、あれは飽くまで講談の様に見えてそうではない
現実に水戸の徳川家はそういう統治方針を執っていたのだ
それで僕がその領域で生まれ育った限り、身分差別というものを見た試しがない

僕が都内にいた間、石原慎太郎という愛媛・神戸あたりから神奈川まで出てきた人が都知事をやっていた
この人は随分と柄が悪いのはみな知っているだろうけど、定例会見でも記者を罵倒したり凄まじいヤクザぶりで
現実に新宿の交差点ですれ違った事あるが、みて一瞬で横柄極まる小人たる態度が凄かった

そういう石原慎太郎が、都知事の分際で、皇居に御進講だか会談だかに行った時、
今上上皇こと平成の天皇に「京都にお帰りなられたら」などといった
まあ皇室自体が差別の制度だし、皇室消滅預言者の石原の思考力からしたら、自分こと都知事の権威に差し支えあるし邪魔だから帰れという意味なんだろうが

明仁氏は既に3代経過し江戸っ子なんだからまだ1代目の、神戸から出てきた強姦殺人小説屋で、ヤクザ同然の石原慎太郎ごときがなにを抜かすかと暗に感じたかもしれないが
「京都は好きですよ」とかいってやんわりかわしていた
今からみたら御所なんざ住める筈ないという意味であろう
夏も暑く冬も寒い

石原・明仁間の阿吽の呼吸みたいなのも、はっきりいってみていて凄く気持ち悪かった
完全に異文化だと感じた
表と裏で思ってる事がまるで違うし、しかもその中身が両者とも利己的ゲスさが半端ないし
表だけ上品ぶる言葉遣いも相互に全部面従腹背とか、信じ難い野蛮の風儀だ
身分差別の京都社会のまま

同じ事を茨城流儀でやったと仮定しよう
石原「関東は元が武家の世界ですし、京都は天皇がいないと首都と名乗れないとかいうし、政治は我々がやりますから、京都に帰ってもいいんじゃないですか?」
明仁「いやー、あんな暑い所すめねーべなあ、むかしはよかったかもしんねーけど、今さらすめねーべ」

茨城語の世界は全てが簡潔であり、裏表も丁寧に言うとか、気を使って傷つけない様な言い回しを工夫する位はするだろうけど、やたら謙譲語を受動態でとか小室圭さんがまねてる似非山手言葉レベルまでやらないし、そもそもそんなのやる必要を感じてもないと思う。だって身分差別が悪なんだから、ここだと

だったら、茨城圏は明らかに東京圏より偉い、というべきだ。身分差別の方が、万人平等より偉い、と判断する人がいるとしたらそいつは正真正銘の野蛮人であり、弥生民族レベルのやつらであり、吉田松陰レベルの一君万民論とかいう中華思想のパクリを素で信じている明治時代の西日本の果ての暴力団だ。

そしてその身分差別の文化をもつ東京は正真正銘の野蛮界であり、かりそめにも文明などと名乗るのもおこがましいだけの野卑極まりない下衆どもの集まりといって差し支えないであろう
さもなければ、国税流用で海賊の国なんぞに留学なんかしやがらない、しかも借金で
借金踏み倒しながら威張ってた薩長か

当の東京人どもが模範にしているらしい海賊の国だが
いまだに階級差別なんざやっているのだ!
僕はこれも忘れえないカルチャーショックを受けた事の一つだ
あるイギリス人と友達になって、階級の話題になった時、
その英人は「階級があって当たり前だろう。君が第三諸国と一緒か?」といってきたのだ

先ずこの第三諸国とかいう概念を、我々日本人は陸に知らないし使ってもない
はっきりいって知らない方がいい、いかにも地球荒らしの海賊やってきたイギリス的な国家差別の概念だ
彼らからしたら何でも階級を前提にしてるので、国にも等級なんてつけて、ある国の人達を丸ごと差別してやがったのである

日本でいえば昔の京都人が延喜式で
いまでいう都道府県を大国・中国・小国に分類し
そのうち大国の主要なのに、親王をあてがってドヤってたのと一緒
今の上皇もこれを踏襲してるので、中世時点から一応日本最大の大国(生産力の大きな国)とされてきた茨城県こと常陸国の国司っぽい名を弟に与えている

イギリス人はこの中世京都人と全く相似の、純然たる封建主義のままである
それで彼らが略奪・割拠したつもりの地球の国々を、大国・中国・小国に分類してやがったのだ、勝手に
そのうち、大国に一応、現日本も所属させられているので第一諸国と呼び
小国と君が一緒なんてありえないでしょというのだ

イギリスの王室なんざ本来、フランス革命式に打倒されていればよかったのである
それが罷り間違って議会にへばりついたものだから、何度も抗争した末に、結局、オランダからドイツ人系の別の貴族をもってきて、英王室ごっこさせている
あまつさえフランス勢がナチスドイツに負けたせいでつけあがりすぎ

これに比べわが茨城はどうだろう
禅譲であるぞ?
徳川慶喜公の潔い、中世との決別、自主的な封建体制との決別をみただろうか
僕は断言できる、慶喜公が一番偉い政治家だ、世界史で
それと比べてみるがいい、イギリスの王室だの、天皇家だのを?
どんだけ自分の権威権力が惜しいの
慶喜家の最後まで潔い

涙ながらに語れない話になってきたレベルの偉さ
これが慶喜公であり、慶喜家の生涯だ
先ず水戸の徳川家の跡取りだった人物が、うまれつき賢かったばかりに、
将軍家に請われ、幼児の頃から将軍なんてやりたくないといってたのに幕末の騒乱で将軍にされた
尊王を水戸で叩き込まれているから大政奉還した

この時点で、既にナポレオンとか遥かに超えた偉人だというのは、誰の目にも疑う余地がない
ナポレオン1世を考えてみて欲しい
自分から法皇にすりよって、王冠頂いている
これとかやっぱり出自が違うとしかいえないと思う
慶喜公なんざ母方は天皇家で父方は将軍家、最初から貴族だから自分で位を譲った

一方その頃、薩長土肥とか呼ばれて元勲扱いされてる極左テロ三昧の暴力団どもはなにをしていただろう
もう必死である、出世したさ、金ほしさ、地位ほしさに?
これに比べて慶喜公なんて「いや最高位とか別にいらないし。将軍になりたくないし、失う位なら最初から要らない」とかいっていたのだ? 子供で

実際に成人後、征夷大将軍とか言ってるけど、欧米海賊団と直接バトルしたら山口とか鹿児島みたいに日本全体が潰されると明らかに分かっているのに、
無謀に民を犠牲にするわけにいかない、というのが慶喜公のみていた現実政治の現場だった
そりゃそうだろう、だから地元水戸でも近代化を先駆し開国論じた

慶喜が卒業した弘道館は、要は当時一流の知識人の集まりで、現時点からみても最高度の学が研究されていた
会沢安『新論』の尊攘論は、当時の大名連邦を天皇国体の下の挙国一致体制にきりかえ、全国民はこの点で団結し欧米列強からの植民地化を防止せよと啓蒙するもの、
豊田天功『防海新策』の開国論は、彼我の実力差を考慮し、直接の戦を先送りし、先ずは日本の近代化を主張したもの

茨城では、鹿児島や山口と違って、イギリスに直接喧嘩売りに行って県(当時の国)ごと敗戦しなかったのは、
この豊田の開国近代化理論があったからといってもいいだろう
ペリー来航1週間後に書かれた(奈良勝司『幕末情報の編集と廻覧』)とされ、日本で最初の開国近代化論だったといっていい

西日本の人達は今もそうだが総じてもっと単純な上に意地悪で、
鹿児島の島津家とか自分から生麦事件おこしイギリスに喧嘩売って負けた。
その上、敗戦費は徳川家におぶせた。
山口の毛利家も、当時政府側の徳川が、どうせ負けるから今は喧嘩やめとけといったのに勝手にイギリスに喧嘩売り民衆ごと戦火

つまり、慶喜公は弘道館での、当時超一流の学者による英才教育の中で、いわゆる水戸学――尊王論、攘夷論や開国論を、それぞれに矛盾なく教わっていた
所が、西日本の方にこんな学識はない
西郷隆盛、吉田松陰とか少数の侍が、弘道館あたりで会沢や藤田東湖と一言三言、会話を交わした程度だったのだ?

松陰は、水戸学の根本趣旨をねじ曲げて、というか多分あまり深く理解しておらず、
後期水戸学のごく表層だけかっぱらって、地元で教えだしたはいいが、
今度は宇都宮黙霖に徳川の悪口を吹き込まれ、あっという間に転向
それでテロリストになり死刑だが最後には反天・反政府の侵略主義過激派になった

西郷の方は松陰よりもっと学がなかった上に、底意地の悪さは松陰を超えていたかもしれない
松陰も、欧米から植民地化されたくないから皆頑張ってるのに、今度は欧米の真似して侵略しちまえばいいんだ、とか、
土台がとんでもないサイコパス野郎だと後世からは誰でも分かると思うけども。
トンデモ極左

西郷どんがやったのは再三の裏切り行為、陰謀で
そもそも戊午密勅も、西郷が徳川家の親族争いを誘発させてやろうとか純然たる悪意で、京都の公卿に書かせた偽書みたいなもん、
というか天皇の筆じゃないだけに偽書だし、
これ以後もずっと江戸や京都でテロってたし、
錦旗も偽造、小御所会議でも裏切り

更には『討薩の檄』に見られる通り、山形まで事情が知れ渡って、皆が人でなし行為はやめろといってるのに、
西郷は何の罪も犯していない慶喜を殺せとほざく
それが敗戦国(県)鹿児島の宗主国状態だったイギリス公使に反対されたら発狂、
嘗ての盟友・会津に濡れ衣きせだす
かばった人達を一方的に暴行

ここまで全部、どういう事かというと
西郷って人は、イギリスの手先になっていたのです
イギリスって国は海賊の国だ、確かに
そうやって現地人の中のヤクザに武器を渡し
自分達の手をよごさず、現地人同士に不和を誘発、相互虐殺させ
弱りきったら残党狩りで支配した
現にそうしてアメリカを作った

慶喜公はこの事は事前に分かっていた
考えてもみてほしい、尊攘論こと今でいう天皇国体を水戸学者が作ったのは
欧米列強に支配されていた世界各国、特に周辺国の二の舞になってはいけない、との危機感からだった
今すぐ日本が戦ったら絶対死ぬ、仲間割れやめて皆で協力し近代化しようぜと提案したのだ

しかしこの高尚な、というか今からみたら当たり前でしかない話を、当時も、西日本の人達はただの一人も正確に理解できなかった
今もきっとそうだろうと思う
なぜそういうすれ違いが起きるか
僕は色々な西日本の人達と接してよくわかった
彼らは一般に、平均して知能が低いのである
水戸学者と差がある

西日本の人達は「今は仲間割れしてる場合じゃないから、まとまって国を守ろう。その為には先ず、近代化だ」と遊説に回っていた水戸人――関鉄之介らの話を、
一応は聞いた県民(当時の国民)もあったみたいだが、吉田松陰をはじめ、根本的に大いに誤解してしまった
なぜかなら、彼らは意地悪だったのだ!

西日本の人達は、そもそも貧しい。
それは絶対的貧困というより、生産力が低い土地が多いという事である
そこに生まれ育っていると、カツカツの暮らしをしているから、心がねじけている
もっというと、他人を思いやる様な余裕がない
それで部落差別がどうとか、大分酷い人権侵害も色々してきたのだった

一方で常陸国、茨城県の民衆は、土地生産性が古代の時点からずっと高いから、
なにせ日本最大平野を農地にしていて今となっては耕地面積も1位だけど、
特にコメ経済の当時、相対的にまだ余裕があったのだろう
石高では一見そういう風に出ていないが、御三家末子で過少に見積もっていたのかもしれない

今だって東京人は、茨城県が農業生産性レベル90だとしたら、東京都はレベル-99とかの大差がついているのに、
自分達は生産性が上だ! と言い繕っている
似た様な事は、プライドが高い石川県が加賀百万石だぜ! といいつつ、現時点のGDPが29位なのとも似ている
石高は余程適当だったかもしれない

山口県とか鹿児島県、高知県の人々など
鉄之介が色々巡って、尊攘・開国を遊説した国々(現県々)の人達がどうしたか?
全員が例外なく、茨城人に感謝なんてしていないだろう
逆に、アイデアだけぱくると、裏切りまくって自分達の地元人はツエーとかいっているではないか?
朝鮮人を彼らが叩けるのか

それだけ心貧しい国(県)の人達が、
慶喜公が自己犠牲を図って、全国の為に禅譲した心情なんて到底、想像もつかないだろうし
今後とも、理解もできないだろうと思う
あのイギリス人が僕に言った「君が第三諸国と一緒か?」とは、或る意味では真理でもあるのだ
だが、僕はそれにも拘らず、疑義を感じた

そのイギリス人は、国の括りで、そこに暮らす人達を階級差別してしまう
それで行くと、イーロンマスクも第三諸国出身で、差別されて表に浮上できなかった事になる
イギリスは実際そういう国になっているといっても、そこまで間違っていないかもしれない
アメリカがイギリス本国から独立したのも当然だ

万人平等という考え方を、慶喜公が持っていた、と初めて指摘した様にみえるのは、
僕の知る限り2017年に出た鈴木荘一『明治維新の正体』だが、
これは半分は間違っていないが、茨城県民側からみると、殊更言うまでもない事だったのだ?
だって2代の義公どころか、佐竹氏以前からずっとそうだったのだ

茨城こと常陸国には、元々縄文遺跡・貝塚があり先住の日本人が住んでいた
『常陸国風土記』でも暴力を振るうのは古代奈良人だけだから、野蛮な関西人が来る前まで、他の縄文人の領域と同じでことさら暴力などなかったのだろう
しかも身分差別もなかったからこそ、古代遺跡の埋葬に扱いの差がみられない

関西人達は、古代の時点から野蛮で野卑で、利己的で性悪で、差別的で暴力的で、徹底的に意地が悪かったと、『常陸国風土記』はきちんと記録している
何しろ茨城県で少なくとも自由に暮らしている人を、一方的に差別し、虐殺し威張った
ダウンタウン考えれば、1300年後も態度が全く同じなのに驚かされる

同じ関西人とは言っても、中には上品なのもいた
高橋虫麻呂は『万葉集』1758、1754に残る和歌で
筑波山の裾野で秋の稲穂を刈っている女に、自分も紅葉狩りの一枝を贈ろうか、と優雅な内容を歌ったり、
筑波山に登り友と寛ぎやはり昔も素晴らしかったのかと悠久の歴史を振り返る様子を歌っていたりする

しかし現実にそういう関西人なんて、もう絶滅しているのではないか?
元々、文官なんざ、関西人全体の1%にも満たなかっただろう
少なくとも僕はただの1人も、数多接した関西人で立派な人物だと思った人はいない
既に絶えて久しいのだ
所詮、政府に寄生していただけ
大和王朝が潰れ離散してしまった

身分差別の文化を持ち込んできた人達は、完全なる野蛮人とみて間違いない
東京は既に、そういった蛮族に仕切られてしまい、取り返しがつかない
イギリスを丸ごと模範視してまねてる様な文化的理解の次元だから、
高が喧嘩に負けただけで上位者と思いこんでしまう時点で低民度といわざるをえないだろう

茨城の支配者、権力者なんて、度々交代してきたのが常で
その間、民衆が新覇者をどうみているかといえば、もっと深い次元の人間性理解としてみていると思う
茨城県民は恵まれた風土だけに、物の見方が奥ゆかしいといおうか、一時の勝敗も人間の限界としてみていると思う
誰も佐竹や徳川を辱めていない

結局、現地に作られたある新政府も、現地民衆の民度より低い統治方式なんて執れないのだ
これを実際にやろうとした佐賀出身の県令(県知事)代行・渡辺清は、
明らかに水戸の伝統も歴史も知らない、しるつもりすらない
上から目線で、唯の野蛮なテロリスト末端要員みたいな人だったのだろう
松本龍的な

渡辺清はそもそも水戸城に入場すらできなかった
水戸の志士が、渡辺の入る前に放火してしまったからだ
これって仙台放送が、松本龍から全マスコミに敷かれた無礼極まる緘口令を、
また白河以北差別かふざけんなと義憤で、全国報道したのと相似
心卑しい東京人らは素で国民裏切り一言もいわなかったのに

寧ろ、茨城人がどうしているかといえば、
徳政・善政をしていたのが明らかな為政者を、
彼らが権力闘争で負けたり、禅譲したりして実権から退いても、
普通に最後まで見守っていて、尊敬していると思う
これが事実
何しろ慶喜家がこないだ水戸の病院でなくなるまで僕は150年後も最高敬意を持っていた

慶喜公の失政があったとしても
京都で余りに忙しかったので、天狗党の処置を田沼家に一任してしまったばかりに、
愚かな田沼から無闇に、罪もない老若男女が殺されてしまった所くらいだろう
慶喜公表向き言ってないが恐らく暗にしまったと感じていただろうし、残党を本圀寺党と混ぜ自軍に入れてカバー

結局、なぜ茨城の統治者らが、自分から仁政をせざるを得なくなるかといえば、
一言でいえば民衆の平均公徳の質が高いからだ
これが最終的な総合文明度だろう
所詮、現地の民衆に合わせた政治しかできない
無理に下劣な事をすればひっくり返される
濡れ衣着せてきた井伊直弼が暗殺されたのも正にその為

西郷隆盛が京都人の公卿を唆して書かせ、
水戸の徳川家と、徳川宗家に親族争いを誘発させようとした陰謀が、戊午密直だったのが、今では公然たる歴史の事実
だが井伊直弼はこれを見抜けず、宗家の権威権力を笠に着て、水戸の徳川家を弾圧してしまった
水戸の徳川家は一度も宗家に逆らってなどいない

水戸の徳川家が言っていたのは、
そもそも将軍位は古代から天皇にあてがわれた代職で
天皇を奉り公務を誠実に実行するのが仕事だ、という事
つまり水戸学の大義名分論だが、
井伊直弼は、これを理解する知能がなかった
幕府がいかなる者かなんてわかりもしないまま
将軍権力に逆らうな! と安政大獄

水戸学を修めた慶喜公は、
自分から将軍位を天皇に奉還した
今の時点で征夷こと対外戦争は無理ですので、
皆で近代化の為に議会政治をやるつもりですと言った
天皇もこれはやむを得ないと認めたわけだ
最初からそうしとけよという話
水戸家より宗家の方が馬鹿だっただけ
家定・光圀の頃からそうだった

元々、賢い水戸家の側が
宗家の代わりに将軍位やってた方が
江戸期全体を通じても、
全国統治をもっと徳政的に高文化の薫り高くやっていて
今でも尊敬されていたと思う
だって茨城では実際にそうなんだから?
家柄・門地の差別がいかに不条理かこれでも分かる
虚実がずれているといつまでも擬制が続く

今も全く同じだ!
茨城県の方がよく治められているし、文明度も正直、東京都よりずっと高いと思う
これは僕が人生を大体2:1位使ってどちらにも長らく住んで、緻密に観察したので確信しているといってもいい
なぜ両者に差があるかなら単純に、茨城の方が民衆の公徳の度合いが高いからだ
東京は下衆風

つまりどうせ徳川宗家が将軍・水戸家が副将軍の時と一緒でいづれごまかしきれず、そうなると思うが、
茨城県が中央政府をやって、全国民に徳政、仁政、善政を敷いた方が、絶対に良い国になる
何せ茨城人は他県を馬鹿にするみたいな偏屈さが、ガチの話全くない
差別されて切れず、笑って許してるレベル

ただ京阪人などが、天皇のもってきた中華思想にかぶれて他都道府県民を差別するとか
東京・神奈川人が他県を差別するのを見た時、それを止めたり、そういう事はよくないみたいに言う傾向にあると思う
要は正義感で行動しているのではないか?
栃木人が魅力度最下位といわれ、茨城人は全員かばっている

万人平等という、太古の共和政時代から続く風儀は
ずーっと茨城に残っており
敬語とかいう身分差別の為の表現をわざわざ発達させなかったり
「(である)べし」「だべし」からくる「だっぺ」が頻用されるのも、強い義務の表現が発達しているといっていい
だっぺ、といっているのは、~すべきだって意味

要は、そもそも武士の発祥も平将門が最初なら、常陸・上総で、
今でいう茨城県・坂東市の国王神社あたりだろうが、
この頃から、~すべきだ! と「公徳に従おう」と周りに伝達する意味の、武士道的表現が頻用されていたのだろう
余りに頻度が高いと省力化される
古語「べし」が断定の「だ」と略された

武士は、~すべきだ、と文語調でいっていたのかもしれないが、
農民らに口語で崩され、~だ、という関東語でよく使われる断定表現に、~べし、~べき、~べさ、という義務表現がくっつき、
農民の日常表現では、だっぺし、だっぺ、だっぺさ、と、より言い易い形にされていった
いづれにしても義の表明

一方で、敬語表現が発達している地域は、身分差別への適応がその基本目的である限り、罵倒語のバリエーションも発達しているかもしれない
京都弁の嫌味が、他都道府県民には馴染みがないのもそのせいかと思うし、
そもそも関西弁が、日本では一番、罵倒語が豊富だと衆目一致しているのではないか?

東京人は、公徳がはっきりと茨城よりはるか低い次元にある
茨城県のメディアで、全国を偏見で汚辱しまくり、差別しまくるなんて事はついぞ想像もつかない
だが東京人は日常的にそうしているし、当人達はその下賎な風紀が当たり前と思いこんでいて、逆に田舎者! などとより心の尊い人達を罵倒しまくる

徳川宗家は、生類憐みの令を水戸の義公に犬鍋で揶揄られた伝説の段階で、
どうみても水戸家より政治的無能だったのだが、
それでも権力と地位を譲り渡そうとしなかった
結局、宗家は子孫を絶やしてしまい、紀伊家に頼っていたがこれも絶え、水戸家の血筋に置き換わり今に至る。
東京・茨城間もそうなる

東京人はどうみても茨城人より公徳が低い
だったら茨城に遷都すればさっさと他国に優って仁政を行う、
茨城の歴代統治者と同じく、万人平等が当たり前という茨城従来の感覚で、全国民を慈しむ国へと発展していけるのに
無知と虚栄心が凄まじいので、自分から政治都市の座を譲ろうとなんてしないだろう

なんらかの政変がくり返され、
茨城からみたら人心スラムみたいな東京なんか崇めてる以上、東京より遥かに公徳度が低いのだろう西日本全体の人達が、
戊辰戦争だのそれ以後の日帝77年同然に、
なんやかんやと想像もつかない蛮行をし、
結局は茨城に首都が移る事になる
無能な人達は遠回りをするのだ

2020年10月23日

茨城県・栃木県を始め、関東北部は太古から総じて大変恵まれた文化環境なので、自分より品位にもとる東京や西日本の人々に侮辱されている方が、却ってそれを見た貴人から褒美が集まる

なぜ西日本の人達が一般に、あんなに都会、特に東京が大好きなのか? そして代わりに、謎に栃木とか茨城など近隣の豊かな自然、立派な文化遺産や世界に誇る観光資源を持ちつつ、都会度が西日本全般の諸県より高い大都市もある地域をやたら貶めたり、何もないなど嘘をいうのか? ずっと長年の謎だった。結論をいうと、これは西日本の人達が一般に貧しいからなのである。経済的にも、心も、つまり文化資本的にも。そうすると、日常といえばテレビを見ている事になるのだ。主なテレビの内容は東京のキー局なので、当然ながら都内の企業の宣伝装置だから都内を美化して映す。これをそのまま信じているのだ!
 しかし栃木とか県民所得3位(2016年)だったり茨城も経済成長率が全国1位(2017年)だったりし、平均して、全国的に見たら明らかに経済的に余裕がある方である。しかも茨城は農業生産性も全国筆頭だし、栃木も自給率が高いし、食べ物が豊富で、食費負担も低い。なおかつどっちも広くて家賃も安い。

 更には那須とかお馬さんが果てしない高原駆けてて道も杉並木が牧場の中を一本とおってる様な、西洋の御伽噺の夢の中みたいな世界でとても綺麗である。
 白鷺が一羽はばたく音しかしない静まり返った霞ヶ浦から、夕暮れ空に紫色に染まっていく筑波山を眺めてみたら、万葉和歌で賛美された訳がわかる。
 しかも僕も茨城の最北部だけど、子供の頃から都内って近所だから、買い物で週末に出かけたりしてきて、要は西日本のドイナカの人達が、たまに地方都市に出かけるみたいな感じの距離感です。
 という事は、もっと南側の人達が通勤圏で、茨城都民が7万人いるのも自然である。距離感からいうと、茨城と東京のそれは、京都と大阪の間隔とよく似ている。京都から大阪に通勤通学してる人も6万人いるらしい。茨城の場合は直接接さず柏あたりを若干挟んでいる部分は違うけども。
 とにかく、この距離感からみた東京都心に対する印象と、西日本人全般からみたそれは全然違うらしい。京都人が、大阪ってスゲーとか、大阪最高やで! 西日本は大阪だけあれば十分やろ……wとか、そんな発想するでしょうか。多分唯の一人もしないと思うが、うちは茨城でも東海道最北端で東北圏に接している場所だけど、まじで、そういう西日本人全般が東京について言う感覚は一生で1度も感じた事がない。確かに僕の町なり市に比べると、日立市も水戸市も相当都会ですし、つくば市はいうまでもありませんでしょう。日本一で世界2位の都市庭園がど真ん中にある水戸もそうですが、大規模に都市計画されてる点では西日本のどこでもああいう素晴らしい公園や緑の中にある未来都市は見た事がありませんけども。海山川湖の揃った僕の田舎町が自然環境面で一番居心地がよい、と感じているにも拘らず、自分は東京都心の学校に行った。これは若気の至りで本当に後悔している。
 西日本人一般は、僕とまるで違う種族なのだろうと思う。感覚からして全然違う。僕には都庁のある東京都・新宿区は、本当の地獄であった。

 一方で、自分が接したほぼ全ての西日本人達(奈良の男性1人を除く)は、中部人含むが、何百人とかの規模だけど、全員が東京崇拝者であった。これは本当に驚くべき事だ。僕とまるで感覚が違う人達で種族自体が違うと考えるしかないだろう。感覚器とかのでき方が違うのでなければそうなりえない筈だ。特に一番驚いたのが、愛媛県の南部のドイナカから出てきたといっていた、凄まじい不良女だ。なんか横浜のキリスト教系のお嬢様女子大出たと自分でいっている割に、謎の地域差別が物凄い。この人と、或る典型的性悪京女の2名が、僕が知る限り、都会崇拝・田舎差別が半端ない人達でした。余程違う種族だ。この人達がどういう言動していたか、ここで書き尽くすには紙面が足りない。ただ言える事は、彼女らが物凄い偏見を持っており、僕のみてきた首都圏・関東圏・東京圏の現実とは全く違う脳内妄想を持っており、それは平安時代の京都人レベルの、純然たる封建主義、東京・京都中華思想でしかなかった。なぜそんな訳の分からない妄想で、しぬほど空気も悪ければ、水なんてレモンで消毒しないと大戸屋ですら出てこないし、新宿駅のペデストリアンデッキから気が狂ったオバサンに階段から突き落とされ(かけ)るのが日常みたいな、ガチのスラムでしかない東京都心を崇めてしまうのか。謎でしかなかった。確かに種族も違う。だって僕はその東京に10年くらい住んで「これは僕には住めない」と、ガチで泣いて判定したのだから。
 それは都内――といっても調布で一人暮らししており或る日、突然歯が痛くなったので歯医者に行かねばならなくなったが、場所も分からないのにずっと激痛。調べ方も分からない。それで姉だったか母親だったかに頼り電話し、場所を調べて教えて貰っただかなんかして、行ったのだが、先ずなんか歯医者の人が気持ち悪い感じで、これは前に住んでいた練馬区・保谷の歯医者もそうだったんだけど、歯医者が退廃的な雰囲気を醸している。都内で歯医者通ってたら分かる人にはわかると思う。東京人というのは、凡そ一人の例外もなく性的に頽廃している。これは外の人達は知らないのかもしれないし、内部でソドムに慣れてしまうと気づかなくなってしまうのかもしれない。そんで、保谷だとなんか歯医者が、看護士とできてる? みたいな雰囲気もあるし、僕には通ってて凄く気分が悪くなってきた。大体、なんか歯医者の人も雑で、これは嘘ではないのだけれども、僕の北茨城の地元の歯医者2つと比べて腕がいい様にも余り感じなかった。施術が適当で、またすぐ痛くなるし麻酔も適当だし、手を口へ無理にねじ込んでくる。そもそも歯医者の人ががさつで不潔な感じで、もう会いたくないと感じた。その上、なんかお姉さんみたいなのが歯磨き指導みたいなのをしてくれるのは地元と同じなのだが、この最初に行った調布の歯医者のお姉さんが、なんというのかこれまた性的な感じを醸し出しているみたいな感じで、胸を押し当ててくるみたいな仕草もあるし、僕は真面目なのでこれも退廃的な場所とみなした。次にさすがに都会だけに近隣に競合が複数あるので、別の京王多摩川駅前の歯医者に移動してその頽廃圏を命からがらやっと脱せた! と思ったのだが――といってもこの時点でもまだ連日痛い。要は藪医者であると思う。
 が、ここの別の歯医者がホモ歯医者であった。LGBTとかいってるがヘテロにはきつい。正確に言うとホモというより、患者に男性歯科医が「エロいな」と面前といってきたのである。こういう東京人は多い。東京人というのは馬鹿な連中で、無意識に思ってる事をポロポロと日常で言う。それで寒気がして、下宿まで帰るまでの道で、僕は本当にワンワンとまでは行かないが、しくしく泣いて帰った。あのせせこましい住宅街の中で、たまに涙がこぼれない様に空を向きながら、涙をポロポロ流して歩いていたので、通りがかりの京王多摩川の人が目を丸くしてみていたと思うのだが、これでもともとゴキブリ地獄で不潔すぎて、住むには辛いと感じていた東京都内に、永久におさらばする事を僕は決めたのだ。

 毎食ごとちゃんと磨いてたのに歯もしぬほど痛いわ、2つも歯医者替えたのにどっちも退廃的だわ、こんな場所があったらそれはソドムというべきだ。つまり僕には、東京都はソドムであった。一体全体なぜ西日本人全般がそこを崇めているのか自分にはいまだちっとも共感できない。自分と同じ目にあえばいい。

 この後、地元で治療したのだ、僕は。歯を。痛いままで。実家の方にある歯医者は普通に、まともなお医者さんで、そもそも痛かったら手を挙げろというからあげたら、「だいじょぶだろ」とかいって無理やりねじ込んでくるとかそんなレベルの東京調布の歯医者とは次元が違う。ちゃんと麻酔を打つ若い医者だ。こうともいえる、良識を持っていて、繊細なタイプは、東京を今すぐ離れて北茨城に住んだ方が全然ましだ。これは僕が実体験したから間違いない。東京人というのは、大阪人級の連中で、凄くがさつなのである。だから環境も糞汚いし、それに気づく事もない。ゴミだらけで生きている。家の前掃除すらしない。外人が東京にきてワオビューティフォとかいってるとする。クリーンといっていたとする。その外人の祖国、特にその外人の暮らしている日常の町がとんでもなく汚いと覚悟すべきだろう。流石にスイスの山奥からきたら、東京は酷いと言う筈だ。そしてそれが本音。僕も東京はずっと汚いとしか感じなかった。
 じゃあ西日本は? なぜ西日本人なるものの一員は、愛媛南部の山奥から出てきて、やたらめったら東京を崇め奉るのか? どうして似た様な山奥でも、福島のいわきの田人から出てきた僕の親友は、まるで逆の感想を述べていたのか? 結局この謎も、愛媛南部に実際に行った事がないから断定はできないが、地元の差だ。田舎といってもその中身は千差万別。物凄く古臭い上に野蛮な因習で生きている場所もあれば、素朴や善美を絵に描いた様なメイちゃーんとサツキと一緒に探していた以外で実際にあったのかというしかない本物の桃源郷もある。そして僕の親友の地元はどちらかといえば後者、その南予から出てきた女のは前者。はっきりいうと、旧常陸国、今の茨城県の中部北部の文化は、総合すると、特に社会的な道徳性の面で東京都より遥かに優れていると考えていいと思う。つまり田舎とかいってるが、明らかに都会よりなんらかの民度の高い地域というのがある。子供の頃からしつけで食事の前に自然や農民に感謝とか水戸は偉い。
 はたまた、自然や田園、里山といった農村環境に於ける体験価値、清流に子供の仲間と遊びにいってみんなで一斉に飛び込んで冷たくて気持ちよかった! とか、砂浜で貝殻集めて宝物! とか、幼稚園児が田んぼのあぜ道歩いたら小さな黄緑のかえるさんが次々跳びこんだ! とかそういうのが都会に皆目ない。だが、そういった自然体験、農村体験を、人生で一度も感覚的に知った事がないってのは、一つの貧しさ、今日では決定的な文化貧困なのである。だからずっと高層マンションの上からネットで誹謗ばかりし、アイテム売りつけて金儲け自慢し、それでエロゲーム買うのが東京の子供の日常だ、とか酷い貧困だ。ではなぜ西日本人一般なり全般なりが、自然体験の価値をそこまで軽視しているのか? 「田舎には何もないやろ!w」こんなのを日常的に言っているのが、我々の知っている西日本人・関西人。しかもほぼ例外がない。これは彼らの文化的貧困なのである。カネがないから心に余裕がなくて金儲けしか頭にない。僕は『荒野行動』で色々な人達を観察してきた。総じて、凄く失礼な言動をして逃げるとかの人達(なお、言動からみるに子供)は、これは嘘ではないんだけどほぼ関西弁である。という事は、文化貧困地帯なのが今の関西地方だといわざるをえない。経済的凋落とも関係していると思う。西日本版東京って話。東京は格差が物凄いし、幾ら平均所得が高い様にみえようが、馬鹿高い物価・地価と比べると、最も過酷な貧困層を東日本で一番多く抱えている。その西日本版が大阪なわけだ。
 だからこれらの大都市、東京・大阪民底辺に、心の余裕がますます失われ、田舎で四季の移ろいを楽しむなんて事、到底できない。

「東京スゴイ、日本スゴイ、だけど田舎は何もないw」
これを都民が例外なく連日連発してたのが平成末期。『人国記』に既に指摘がみられる、旧武蔵国民の驕りもここに極まれり。
 そしてその愚かな嘘をつくテレビの中身をうのみにし、西日本人全般は東京を崇め、田舎とみなした周辺の県を侮辱している。言うまでもない話ではあるが、茨城の経済規模(総生産)も人口規模も京都より高いし、奈良時代の記録でみるかぎり、古代からこの事は基本的に変わらなかった。平安期から一時的に旧山城国の都市部に人口がふえていたが、潜在的成長力からみれば日本最大の平野に住まう大人口の方が高いに決まっている。という事は、関西地方で第二の都市・京都(GDPだと兵庫に次ぐ3位)より、関東地方(首都圏)で都民から「田舎」扱いされている茨城の方が経済・人口規模が大なのが事実である限り、それより経済・人口規模の大きな神奈川・千葉・埼玉も含めたら、関西人が茨城を田舎扱いは愚の骨頂というべきだろう。関西人だの西日本人だのは、西日本最大の都市であるところの大阪と比べているつもりなのかしらないが、その西日本の誇る大都市である京都や広島より都会度(ここでは人口・経済規模)の高い茨城が、首都圏の「田舎」なのを知らない。それだけ大きな落差は、テレビの嘘だけ見てる限り埋まらないのだ。またこうともいえる。テレビの嘘をうのみにするのは、生後の教育に本質的差がないとすれば、生まれつき知能が低いからだ。西日本には、栃木や茨城に比べ、確かに平均学力の低い地域が多い。という事は、東京がマスコミ経由でつく嘘をそのまま信じ込んでしまう人も多いのだろう。こう考えれば結論は、西日本人全般が「東京人の悪意ある嘘に騙されているから」、都会崇拝・田舎差別といった中華思想に洗脳されてしまう、という事になる。そして生まれつき一般知能が低い傾向で、更に貧しいとなれば、生後の教育で批判的思考を身につけるのも難しいので、一生そのままなのだろう。総じてカネがない(およそ県民所得の低い)西日本人全般からすると、観光といってもまずは京都や、九州なら韓国とか身近な観光地に行くだろうし、東日本へ遠出するにしてもテレビで東京は何でもあると思いこんでいるので東京に先ずきて、そこでカネを使い果たしてしまう。それより北はみえていないのだ。もし西日本人全般の知的水準を想定し、かつ平均値でみると教育にかけられる費用を鑑み、我々にしたって大分高度な哲学体系である水戸学なんて永遠に理解できないだろうし、だったら西山荘、弘道館や偕楽園の一体なにが偉大なのかなんて理解する知性は、永久に期待できない。つまり茨城より知的民度低い。つまりオバカさんからみたら、北海道の牧場でホゲホゲとバタじゃがでも馬みたくほうばってたら大満足し、「でっかいどー」と叫んで、大幸福に違いない。普段からアホみたいな事とか野蛮な侵略虐殺裏切り自慢とか、ガチでそんな民衆なのだ、西日本って。だからこそ関東北部の知的で上品な文化と相性悪い。東京の日常すら我々(茨城の知識人)からみたら一般に馬鹿でゲスにしかみえないのに、それより遥かに質も知的程度も低い民衆を大量に抱え込んでいる西日本全般って、要は、関東北部からみたら東京みたいな地獄より下ってあるの? 級の粗野な世界だとなってくる。縁が遠い方がよほど利口ではないか?

 魅力度調査は西日本で、茨城や栃木が無名だと示しているだけのものだ。実際の魅力は、日本各地に旅行した側(僕もその一員)からすると、茨城や栃木が低いとか想像もできない。生活程度が高いのみならず、そもそも日本を太古から代表する雄大な自然景観に、代表的日本遺産・世界遺産をも抱えている。だが、それはこういう総覧的・俯瞰的分析に基づくと、「西日本人全般は、経済的にも文化資本的にも貧しい」から、実際に体験価値を得る為の旅行代金がなく、盲目のお国自慢を除く広く深い歴史教育もされていないので、東京のテレビを通じてしか日本、特に東日本を知らない、という真理に行き着く。

 じゃあ真の問題点がどこにあるか?
 それは東京人全般が自己愛妄想の虚栄心に耽る、偏見で凝り固まった愚か者の集まりだ、という最初の落ち度があるが、これは都民全体の公・文化民度が低いせいなので外部者には如何ともし難い。「大阪人を大阪人じゃなくしろ」といわれても困難なのと一緒である。また西日本全般が、現地民衆の一般知能が――茨城や栃木の歴史・文化、暮らす人々の幸福観や、その伝統的威厳を学びうるほど全く高くないという程に――うまれつき絶対的に低かったり、土地が狭かったり痩せていたり、それに伴って経済力が低く貧しかったりするのは、茨城人・栃木人の責任ではない。
 理想的な事をいえば、先ず東京人が性善的になり(そもそも京都系差別主義者のボスが移り住んで、中枢に居座ってる限り現時点で、ほぼ不可能な事だが)、全国各地、特に近隣諸県の美質をマスコミでとりあげ、西日本に紹介してあげればそれでましになる筈だ。だが都民は拝金的で性悪なのでそんな事しない。東京人が日々やっているのは、愚にもつかない嘘ばかりついて、自慢と下らない偏見を糊塗しながらの全国差別、特に近隣諸県への嫌がらせでしかない名誉毀損罪の山である。これで東京が東日本最低の公民度なのは誰の目にも明らかだが、もしかすると、大阪でもそこまでやっていないから日本最低かもしれぬ。
 次に西日本全体の経済力だか文化資本だかを、わざわざ茨城人や栃木人が強化してあげたとしよう? この場合、事前に予想がつく事として、ほぼ確実に忘恩行為を働いて、寧ろ今までより更に、茨城や栃木を貶めてくるだろうと推測できる。「ウチラの方が上やん!」「なんもないドイナカw」といいだす筈だ。既に実例がある。北海道は命名も開発主導も混血政策も地理を調べたのもアイヌを守ろうとしたのも茨城人というのが歴史の真実だが、150年後、大いに発展した北海道人達は本物の忘恩行為を日々、茨城人へ働いてきている。なぜかというと、北海道人は歴史を学ぼうとしない。今しか見えず謙虚さもない。北海道人達は、東京人の悪意ある嘘をうのみにし、現実には熊などが主に住んでいた未開区域をここ最近、開拓者が切り開いた様な地帯が殆どである北海道より、様々な文化が紀元前より発展しているのが明らかであるのに、それを丸ごと無視して茨城を上から目線で見下したり、差別的言動までしてくる始末だ。だとすれば、もともとそれ以前にも数万年以上の歴史の積み上げ、立派な文化的蓄積があった茨城に対し(現代的感覚から見てもとても素的な虎塚古墳壁画を見よ)、関西地方に平安期つまりたった1300年前頃に朝鮮から移民してきた京都人ですらあの底抜けの驕り高ぶり方だし、総じてカネにも心にも余裕がなく利己しか頭にない西日本全般をわざわざ北海道みたく助けてあげて、彼らが感謝などするものか?

 本当は、西日本全般もまた、我々関東北部の民、特に西日本全般や東京都に比べれば随分文明度の高いといわざるをえない茨城県民みたいに、他県の良い点を進んで学び褒めこそすれど(また事実としての悪い点を避けつつ)、他県を知りもせず貶めるなんて愚行はしない茨城人と同程度の文明人になれればよい。だがそんな事は、過去から未来まで期待できないだろう。私は色々な観察結果としてそう思う。確信している位だ。
 西日本人全般は生まれつき知能が一定より低い以上、幾らカネがあろうと、京都人みたく飽くまで利己的な虚栄の浪費に使うか、鹿児島・山口・高知・佐賀人みたく侵略・内乱罪に使うかだ。

 性悪さとは他人の立場を推測し、思いやる能力が低い一種の知能の低さで、同時に社会環境の悪さ(敵意をもつ人々の中に適応する状況)に伴う、習慣化された利己・害他的な習性の塊だといっていいだろう。
 西日本人全般は、茨城・栃木人達より、この性悪さが激しいのが事実だ。それで悪意で貶めてくる。だとすれば、実は立派な栃木が西日本人全般だの東京人だのから汚名を着せられ辱められている時、僕がみていた限り一人の例外もなく茨城人が、「栃木はそんな所ではない、魅力があって素晴らしい。寧ろわが県を最下位にすればよい」と自己犠牲を買って出ていたのは、茨城の性善的民度が実に高潔だからだ。一体全体、そんな性悪どもの集まりである西日本人全般だの東京人だのと、環境も文化も太古からずっと恵まれているので、つまり育ちがいいので、彼らに比べれば誰もが聖人君子みたいにみえる茨城人の相性がいいだろうか。絶対的に悪いのではないか。
 君子の県が、下衆の都道府県と馬が合う筈がない。

 結論として、西日本人全般は性悪で、物質的・精神的に貧しく、悪意ある拝金主義者・東京人の品性下劣なテレビの嘘により簡単に騙され、しかも将来にわたって改善の見込みがなく、助けようものならほぼ確実に忘恩の裏切りをしてくるのが事実であろう。そんな野蛮の民に、君子の茨城がどう対処すべきか?

 僕の感じとしては、自分の品位に劣る人々とは努めて交わらぬがよい。
 これと同じ事は、やはり世界史に於いて随一偉大な茨城人といえる徳川慶喜が、彼に仕えた幕臣・勝海舟から忠告されている

 この時、おれは公に、今後も何処までも品位をお保ちにおなつて、昔の小大名などとは余り御交際なさるな、それは費用も入るし、また自ら品位を墜す本である、三位様(家達公)へはお気の毒だけれども、これから巣鴨の邸に御永住になっても、馬車などには乗らず、一人曳の車で何慮へでもお出でなさい。また時々は徒徒歩で以て市中の有様でも御覽なさるがよろしいと申上げたら、公も御示教は難有い、その通りにする。
 どこまでも天恩の優渥なるを記し奉って、租宗の祀を絶たないやうにする。
 就いてはにの絖へ『楽天理』と書いてくれよと頼まれたから、おれは余りの嬉しさに、涙の落ちるのを押さへて快く承諾したが、流石は水戸家で養育せられたお方だけあるとおもって、おれは今更感心したよ。――勝海舟『氷川清話』(28) 處世の秘訣は誠の一字だ
朱に交われば赤くなる、根っから下品でつまらぬ者と交際すれば悪習がうつる。しかし世界に下衆ばかりが生きているという事もなく、聖人君子も幾らでもいるだろう。人は社会的動物で、たとえ自国内にそういった紳士・淑女が決して見つからずとも、他国に目を向ければ、尊敬すべき人や地域が一つもない筈もない。ゲスな西日本人全般、東京人全般から汚辱されていれば、善美が集まる。

2020年10月19日

茨城県の総合都市計画を茨城が誇る現代建築界随一かつ世界文化史的に超一流の建築家・妹島和世氏に一任すべき理由

いばらきビリ県脱出連絡会議というのの写真を茨城新聞でみてわかったのは、妹島和世氏が参加してる事だ。
 このブログでは前から書いてるが、この超一流の建築家を、茨城県は余りに過小評価しすぎている。はっきりいって建築を勉強してきた者としていうけどこの人は世界史の文化史(世界建築史)に確実に載るし、その中でも日本人建築家としては世界で一番栄誉ある仕事を最も先駆けている人物で、郷土の誇る偉人とかとうに超えている。皆がその実力の程を知らないだけで、世界で一番有名なルーブル美術館の別館とか、日本人で唯一設計している。しかも国際設計競技で、第三者の公平な目でみて、各国の競合者に案のよさで勝って。そこまでの実力がある建築家って日本ではいまだかつて出た試しがない。一流とかではない。超一流の人物だ。これは冗談抜きで、茨城の誇る代表的芸術家といえば横山大観だと思いますが、大観は飽くまで日本代表の地位だけど、妹島和世に至っては、これも嘘抜きでだけど世界代表レベルの建築家である。嘘だと思うならなぜルーブル美術館を新たに増設するなんて世界で最も大きな仕事の一つ、というか恐らく建築芸術としては世界一にかぎりなく近く大きな仕事を、別にフランスとなんのつてもなく、ひとりの(あるいはSANAAで西沢立衛とふたりの)日本人が競争で勝ち取ったのか考えてみるがいい。
 寧ろ、世界の人々はこの妹島和世という人を敬うとかでは足りない。巨匠とか天才ってのはごくごく希にしか出てこない。例えばガウディを考えてほしい。ガウディがいた事で、スペインがどれだけ観光資本を得た事か。ガウディも間違いなく天才だった。けど、妹島和世氏ってこれを遥かに超えた天才なのである。ガウディが他国の、しかもフランスみたいな世界で一番芸術に造詣が深いと誰もが認める大文化国家の、国家計画レベルの主要建築を頼まれるなんて事はなかった。でも妹島氏は頼まれたとかですらなく、一日本人として競争で勝って、その設計を既に終え、実施済みの建物、ルーブルランスも高い評価を得ている。無論他にも現代日本を代表する美術館建築(金沢21世紀美術館)とかあったり、若い頃から実力の程は確かでスケールの大きな仕事も尋常じゃない次元でこなしてきている。建築界のノーベル賞・プリツカー賞を日本で最初に女性建築家として貰った。本物中の本物で、そういう人を茨城県なり日立市なり水戸一高が輩出したというのは、間違いなく世界史に誇る偉業であり栄光である。
 本当に偉い人はあんまり威張らないかもしれない。それでせじまさんが余りに気さくなので、皆あのオバサンがねえみたいな扱いしてるかもしれないが、とうにそういう次元を超えているという事だけは、建築を専門的に学んだ側としていっておきたい。もう一度強調するが、ガウディですら建築史の教科書に必携だろうけど、それを圧倒的に超えている。

 それでいいたいのは、前から書いてるけど、茨城県の総合都市計画を妹島氏に頼む。これが一番いい。これだけで、千年後も、下手するとというかうまくいくと、万年後も、本気で茨城が世界で一番魅力的な都市、という風に、ガチで世界中に当然視される可能性がほぼ100%である。これは冗談ではない。考えてもみてほしい。ガウディ程度の建築家――正直、発想は重力に逆らったらこうなる筈だ! とか以外と実直なんだけど、意匠そのものは奇抜で、ちょっと変わってる建築家です、そのガウディですら、バルセロナを世界に名だたる大観光都市にした。だったら、別にそんなに風変わりなデザインなんかしてない、ただひたすら新しくてかっこいいというタイプの妹島和世氏のデザインした県というか都市ってどんななんだろう? といって、世界中の建築学徒とかだけではなく、その近未来っぽさだか現代の傑作建築やら公園環境の集合体に、恐らくほぼ未来永劫に渡ってあまたの人々が惹きつけられ、日本有数どころか世界一の観光地になるかもしれない。
 ってことは、県単位で(世界で)魅力度ナンバー1をめざすとかいってる大井川知事の大望を都市環境面で果たすには、もうこれ、茨城出身で世界史の現役・超一流建築家せじまさんに茨城県のマスターアーキテクト、総合都市計画を一任すればよい。これが真実だ。
 今は日立駅と日立市役所しか、茨城に彼女の主要な作品ってまだない。これははっきりいって過小評価、いや彼女の世界史に対する実力を冷遇しすぎているだけだ。ちゃんと0から彼女がどういう業績をもっているか、客観的かつ厳正な目で、調べたおしてほしい。必ず僕がいった方針が、唯一正しいと悟る筈だから。

田舎移住の流れがある今こそTXの水戸までの延伸が最適。それに伴って全茨城県民投票で潜在リスクが高すぎた過去の誤った科学技術であった原発廃炉を先駆けるべし

コロナ禍下の東京都心離れを、茨城経済の発展につなげる最善の策は、TXを水戸まで延伸させる事だろう。
 これまでの条件ではストロー効果で、逆に都心に人口が吸い取られる危険性があったが、ここにきて逆ストロー効果が生じる可能性が十分すぎるほど高まっている。実際、社会インフラや、既につくば圏の実例で、特に子育て世代の人口流入がある事は実証済みなのだから、つくば以北にその波及効果を狙うのが賢い筋書きだ。

 更に、宮城県では逆に進んだが、そもそも原発が近隣にある事が大事故を伴う潜在的な移住リスクになるのは明らかなのだから、40年以上の延長を認めないとする目的で、原発再稼動の可否を問う全県民投票を行うべきである。これが民主主義の旨に基づいて、原発による生命財産にわたる公害の危険度と、その経済に及ぶ正の効果の両面にわたる総合評価として、最も内外に合意を得られ易い意思決定の手段であり、一部の県議や一部の会社の一存で決めていい事では到底ありえない。
 県知事にしても首相にしても、皇室すら、国民の総意として代理権を持っているにすぎず、真の主権者は国民自身だ。これが日本国で、国民自身が総じて反対している危険施設を、現在も未来も最大の人口集中地区に立地させたり、再稼動させたりするのは合理的に考えても全くの不条理というべきだ。
 県知事の一存で再稼動禁止を決定すると、金銭欲に凝り固まった自民党員や、首都圏壊滅のリスクを計算できない原子力規制委員会の無能官僚に、謀略の余地を与えてしまう。即ち大井川知事を排斥し、原発推進派の新首長を擁立すればいい、という流れにされてしまうだけなので、それ以前に、全県民の県民投票を大義名分とし、現中央政府の公害を含む暴利目的の悪意との絶対対決姿勢を、未来の常陸国民の為にここで期するべきだ。
 もし原子力の平和利用の先駆けである茨城県で再稼動してしまえば、なし崩し的に東電管轄の全原発もその方向にむけられてしまい、福島の犠牲はなかった事にされてしまうだろう。隣県の被害だけに留まらないこの世界最悪の大公害を闇に葬り去ろうとしている、金権目的の悪徳寡頭政党・自民党員および経産官僚はここでは、全人類の天敵とみなし、完全制圧を期さなければならない。

2020年10月17日

茨城のみが日本や東京の滅亡後も世界史にその栄光の誉れを輝かす

日本人全般、東京都民全般は毎日悪業を行い、無闇に知りもしない自治体の何百万人もの人々を差別して、いづれも復讐されないと思いこんでいる。だがこれはいうまでもなく全くの誤りだ。被害者の心の傷は永遠に癒えない事すらある。何もかも金銭勘定で捉える拝金主義者には、亡びた国の原因が分からない。或る差別、或る悪業の被害者はその人、その集団、その国に恨みをもつ。その恨みは十分な復讐によってしか晴らされない。ある人、ある集団、ある国が突然不幸に遭うのではない。恨みをもたれているので、趨勢によって致命的に弱りきった所で、背後から因果応報の裏切りに遭うのだ。日本国や東京都、或いは京都府・京都市といった自治体、その住民や出身者が、どれほど世界に恨みをもたれているだろう? それらは全て、その成員が為した悪業によっているのだ。
 行いは行いによって返ってくる。悪しき振舞いをして驕っても、何千年後に弱った時点で、被害者が報復してくる事もある。山口県の人々は、古代朝鮮半島で戦争を起こし、排斥された百済人――例えば大内氏を含んでいる。毛利氏は徳川氏に戦で負け統治されていたが、幕末に裏切り行為を働き、山口県の人々が主体となって李氏朝鮮へ侵略した。朝鮮側のその恨みは、山口県に本籍のある・安倍晋三氏の土下座像となって返ってきた。

 日本国民全般、東京都民全般は、わが茨城県、わが県民の名誉をわけなく、或いは虚偽の理由で致命的に汚辱した。その因果は必ず、復讐という形で遂げられるであろう。日本国や東京都の滅亡後、茨城県及びわが県民のみが世界史に燦然とその誉れを輝かすだろう。

2020年10月4日

PRには茨城を理想化して表現すべし

石井竜也氏が「茨城人PR下手説」いってたけど、これが真に一般化しきれるかとは別に僕の知る限り、もしそういう側面があるとすればそもそも総勢がくらしにおおよそ満足しているのでわざわざ自慢する必要を感じていないか、「人の己を知らざるを憂えず」式の謙虚さが普通にあるのと関係していると思う。
 2013年実施の茨城県政世論調査で約8割(77.1%)は今の生活に満足しており、かつその割合は年々少しずつ増えてきていた。既に総じて満たされている幸福な人達なので、わざわざ他人に自慢しようとか思わないだろう。僕が一県民な実感としてはほぼそれが茨城の常態だろうと思う。『常陸国風土記』の序文とかで、海の幸山の幸に恵まれた理想郷、民はみな豊かで満たされていると書かれているけど、常陸国こと今の茨城県域は少なくとも奈良時代の時点でそうだったらしい。それ以前も貝塚の状況とかみると、地味物産が豊かだったのは変わらないのではないか。要は生産性が高い土地だ。対して凄く宣伝好きの地域って、僕がみてきた限り、観光収入が主要産業になっている土地が多いと思う。東京もほぼ例外がないくらい物凄く自慢好きで、というか京都級に驕りが激しく、何でも自分達は1位と思いこんで常々周りを見下していた。茨城県民とその部分がまるで違う民族性なのは確かである。
 茨城県民で自分達が何でも1位だとか言っている人って、本当の話まだ1人もみた事がない。辛うじて県民幸福度1位を目指すといっている現県知事がいるくらいで、それだって既に1位だと思い込んでいるといった傲慢さは全然ない。要は総じて謙虚な県民性であり、他に優れた国があるだろうと信じている。土地の生産性、豊かさが高いと、そもそもそこに適応した人は総じて生の諸相に満たされており、段々と性善主義になっていくのではないか? と思われる節も端々にみられた。警官が「悪いものはそのうち消える」といってる場面すらみた。その悪者をとりしまるのが君らの仕事でしょと思ったのだけれども。

 ではなぜ自慢好きの民族――我々がよく知っている範囲では、初対面で全国差別してくる中世人が結構な頻度でいる京都が代表格、なんでも自分が1位で田舎は糞ダサい原発ゴミ捨て場と本気で信じその公害批判も全部嫉妬扱いの東京が虚栄の双璧――が一部に生じるかだが、皇室カルトも確実に関係している。奈良県民は今となっては古墳しか残ってないから、その奈良発だった皇室カルトが脱奈良してからというもの、平城京での様に奈良県外人をバルバロイ扱いできる根拠がなくなり、随分大人しくなっている。それでも希に出身者の内にまだ傲慢さの片鱗は残っていて、京都を新都と小馬鹿にしている場面とかある。結局これって中華思想にどれだけ感染しているかの差だ。そしてその原因は、自称天皇の中国皇帝制もどきに他ならない。この一派が移民し定着していた期間が長ければ長い程、その地域の人々は一般に凄まじい虚栄に耽り始める。自らの先祖を神と驕る、神道カルト教義の悪風が伝染したのだろう。僕は他国の人達とランダムに接したが、本気の話、全世界で都会が神、田舎はゴミ、とか言っている民族って日本人の一部にしか居なかった。全体として逆じゃないかなというか、田舎の方が落ち着いてていいよねという雰囲気で、都会は商人が集まっていてこせこせして辛いよという全地球世論が普通であった。ではなぜ日本の一部にだけは都会崇拝、田舎差別という典型的中華思想が残ってしまっているか? 正にこれは天皇のせいである。彼らの本邦にあたる中国の方だと、北京中華思想とか香港主義があるくらいだから全然成立していなくて、僕が接した殆どの中国の人達は北京は唯の北京でしょ、という扱いだった。世界の先進国の大都市と、その他の地域でも全く同じで、ニューヨーカーにしてもパリジェンヌにしても単にそこにくらしているだけで自分達は神だとか、田舎はダメだのダサいだの何にもないとかわけのわからない偏見(しかも全部、事実に反する)を持っていた人は、外国人のうち1人もいなかった。
 そうすると、一体東京都民とか京都市民、或いは横浜市民、名古屋人とか、大阪人、仙台市民とか、札幌人とか、日本の都会人ってなんでああいうひねくれた田舎差別意識をかなりの割合が持っているの? と疑問が出てくる。因みに不思議な事に僕が接した福岡の人達はなぜか寛容でそういう人いなかった。札幌の人も田舎差別意識を持っていたというのは僕には驚きで、どうも東京を理想視しまねているらしい。元々違う民族の文化だったのに、東京を模範と思いこんだばっかりに中華思想というろくでもない差別的考え方まで猿真似して平気でいるらしいのだ。
 要はこれらは東京・京都を模倣した人達の末路だ。これにあわせ僕が興味深かったのは福岡人の考え方で、福岡の人ってかなり都会なのに、その一部はどうも東京をしばしば反面教師にしているらしかった。元々ずっとそうといってもいい茨城の考え方――いわゆる徳川光圀に代表される、自称天下の副将軍的なもの。亜周辺的考え方――と似ている部分があった。京都に完全に飲み込まれている文化圏、具体的には石川、滋賀はそうだろうけど、あるいは広くは福井あたりもそうかもしれないが、京都が「上方」で大阪はそれ以下みたいな明らかな中華思想を当然視しており、これは奈良の人とかもデフォルトでそういっていた。要はこれが、京都が虚栄に耽る最大の原因だ。自分達が何でも上、他の土地はそれ以下、という京都人・東京人が皇室モドキの考え方をするのは、周りの土地にも皇室を教祖とする「神道」の信者が多いせいらしい。神道信者の勢力がふえればふえる程そこは天皇中華思想に洗脳されるといっていい。結果、東京・京都崇拝、田舎差別との差別観を身につける。天皇は3代経過し江戸っ子なので、いまや京都なんて中華じゃないでしょと思えば、いまだに平安京気分の一部京都の上京区民の方が江戸っ子より遥か傲慢な位である(宇治どころか元被差別部落な市内の崇仁地区まで田舎だといって差別し、そこに文化庁東京人おしこめ陰険に嘲笑してる神奈川系の京女いた)。要は一旦、風習に伝染してしまうと、そこで中華思想を拭い去る事は最低でも千年以上にわたって困難らしい。奈良人が大人しくなってきたのはつい最近で、同じくらい京都人が大人しくなるのは西暦3000年くらいまでかかるだろう。東京が首都陥落後、最低千年みつもらないと彼らの傲慢さは治らないだろう。

 では我々がどうすべきかだけど、東京・京都はいうまでもなく、ここでは福岡除く日本全国の都会人なるものは反面教師というべきだ。東京・京都をまね第二東京だの小京都だのは「絶対に」めざすべきではない。寧ろ、東京や京都の持っている既往の欠陥を鋭く批判し、なるだけその欠点をまねない様にすべき。諸々の都市問題だの文化上の欠点――東京なら性売買罪の甚だしさ、京都ならそれに加えイケズと呼ばれる虐め文化などなど――を避け、或る都市圏を妄信的崇拝とか一切すべきではなく、単に利点――ICカードの使い方とか、川床の納涼様式とか――だけを学び取って自分の文化に応用する、というのが正しい。

 謙虚さとは、知的なそれである場合、或る対象に囚われずに済む事をも意味する。「PRの上手さ」を持っている自治体なり集団があれば、それ自体を学ぶのはいいだろう。僕の知る限り全世界で一番それが巧いのはパリかと思われる。具体的には近代画家を集めていたので印象ばかりよくなって実態とズレがある。また最近だと韓国もこの長所がある。整形させた美男美女ばかり集め彼らに華麗な歌舞をさせ、さも韓国全体がそういう人達でできているかのようほぼ事実と全面的に異なる好印象を、メディアバイアスで作り上げている。つまりはPR上手とは、巧みな嘘、それも美化した側への自己宣伝の仕方だといってもいい。そうだ京都行こう、とかいうJR東海のCMで、いかに京都人が鼻高々か! あるいは長野出身者が田舎差別・都会美化のアニメでどれだけ全世界の人達を騙したか(中身に描かれている世界は、現実の新宿とは似ても似つかないくらいの代物なのだが、聖地めぐりなど殆どしないから総じてそれに気づかれない)。こういった側面は、パリ症候群みたいな現実との落差で一部の人達を落胆させるものの、全人類の過半はわざわざ茨城を訪れたりしないので、PR自体の為ならわが県を理想化できるだけした方がいい、という判断になるだろう。これは孔子の考え方――剛毅木訥vs巧言令色――に逆らうにしても程度の問題だ。現実に僕がみた茨城県域は、その風景や都市景観の美しさからいったら、これは理想化とか美化とか抜きに、東京より遥かに質が高いのが事実である。それにも拘らず、我々はそれを他人に教えたくない、汚されたくないと思っており、観光地としてアピールしてる場所は本当に我々の知る美しい場所ではない。この種の「知る人ぞ知る」式の内情が我々茨城県民が常識としている態度だが、この為に、県外人は我々の知っている最美の場所がこの世にない、寧ろ余りに無知で「何もない」と思い込んでいる。単に情報を知るよすががないからだが、逆にいかにもつまらない観光地だけを見て知った気になっている。これはこれで一つの哲学というべきで、これまで我々はそうしてきた――一見観光客はどうせ汚すから、ろくに親しくもない県外人にわざわざ素晴らしい場所について教えない――のに違いないにしても、同時に、パリだの韓国だのがやっている類の理想化・美化の方針は進んで学ぶべきだろうと思う。