2012年2月26日

釜石市のNHK特集を見て

早い者勝ちということで、北茨城市の復興計画、そのmaster planは妹島氏に一任すればよろしい。まちがいなく。

つくばareaのnewsのうつし

つくばエリアの子どもの夢、男児の1位は「科学者」
 関東小学男児の将来なりたい職業1位が「サッカー選手」なのに対し、茨城県つくばエリア(つくば市・つくばみらい市・守谷市)在住男児の1位は「科学者・研究者」であることが、子どもが育つ街研究会事務局が発表した調査で分かった。

 同調査は今年1月、つくばエリアと関東1都5県在住の小学生の保護者計700人を対象に実施。関東の平均では「サッカー選手」が25.0%、「野球選手」が12.5%だったが、つくばエリアの男児では「サッカー選手」(21.4%)を上回り「科学者・研究者」(25.0%)がトップだった。

 つくばは研究学園都市として知られ、教育施設や研究施設が数多くあるだけに、科学者や研究者の存在を身近に感じているようだ。

 なお、女児は「お菓子屋さん・パティシエ:パン屋さん」が関東平均(37.0%)、つくばエリア(32.5%)ともに1位だったが、関東の2位に「芸能人」(14.2%)が入っているのに対し、つくばエリアの女児は「芸術家」(15.0%)と回答している。

オリコン 2012年02月14日 18時23分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120214-00000335-oric-ind

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こういうことをかんがみても、陸でもない東京資本であるつくばTVとかほざいている名称はつくば市が訴えでてかえさせるべきではないかと遠目にみえる。事実上、売却された資本なのになぜもとの名前を維持しているのか。これは名義のなりすましにちかい状況で、放っておいてもそんなにいい結果になりはしないだろう。

2012年2月25日

身体の美と雄性形質の関係

 地域性の話題が出る時、大抵、いばらき乃至は水戸の特質として美人がいないという風評がある。秋田にながれてしまったという伝説も。

 これは、自分の感じでは事実ではない。というか、東京は人口が過剰なので当然審美的と評価されやすい個体もおおいだろうことをかえりみれば、どちらかといえば水戸や茨城圏に質の高い美がある傾向がつよい。概して、神奈川と東京の美というのはかれらがきづいていなくともそれなりに低俗な感じがあるので、わかるひとにはわかるだろう。
 おおよそ、関西圏では京都がになっている「伝統的な」役割を、むしろ関東圏ではいばらき乃至は水戸がになっている感じがする。地政の保守性がその原因なのだろうし、たとえば、それぞれ独自の哲学体系をもっているのでもその理念の深さが知れる。武蔵学派とか大阪学派なんてきいたことがない。ないのだ。東京・大阪というのはおお昔からの商業地だからそういった金にはなりそうもないものが甘んじてはぐくまれにくかったのだろう。

 なにがいいたいか。
 美醜もそうだが、性選択の結果としてある形質は集積するのだろうというはなし。
なぜ水戸には美女が少ないと風評されるか。これは武士の本丸だからなのだ。御三家として侵略や破壊されなかったというのが真相なので、その場では厳しい風儀といおうか、ある保守的徳義が重視される雰囲気がのこっている。だから性選択の方向が、たとえば東京・江戸にあってむかしから歓楽街でおこなわれていた様な「女性の美」へは向かいづらかったのだ。 *1
逆に、水戸であきらかにめだつ姿というのはある威風堂々とした男性陣の形質である。高校生一つとってもそうだ。
これは同時に、東京圏の男子高校生と、水戸あるいはいばらきの男子高校生を見比べてみるとはじめてはっきりする。まこと質実剛健としか言い様のない姿がかなり保守されているのは水戸の方なのだ。具体的に比べるために、ここに学習院高等科の男子と水戸一高の生徒を任意に何十人つれてきて見比べてみるといい。風紀から仕業から立ち振る舞いから体格から志からまったくちがっているわけだ。*2

 これが真実、「なぜいばらきでは女性的な意味での美人、つまり美女が少ないと風評されるか」の根源因なのだろう。性選択される余地が比較的すくないという土地・政治あるいは市場と社会、要は環境の条件がつづいてきたから。実質、自分もそのはしくれだからわかるが、ある照れ隠しという性質の古風さもあって、いばらき圏の男子というのは美女そのものをその美的であるという意味だけで人前で堂々と褒めたりしない。いや、できないのである。勿論できる人もいるだろうが、これをよむひとにはたしかにそういう傾向はないだろうか。
むしろ、性格のよさというものに仮託して間接的に褒めるくらいが関の山だろう。*3
しかし、これが武士道のなかの性的選択の方法論だったし、いまもいきのこっている古きよき日本の、いわば侍らしさのかけらなのだったろう。これらの土地でそだったものは知らずしらずその風紀にのまれていく。
――おおきくみると、封建道徳というもののなかにあった宗教感覚らしきもの、つまり一夫一妻的な堅い価値観、貞操観念やいわば良識的であれとのぞむ家庭観が身に着いているかそう導こうとしたがる傾向がつよいというわけだ。
そしてここは、実に関西圏で、或る意味では対蹠的だが、公家風がしみついた京都とのおおはばな違いでもあるのだろう。公家は「暮らし向きのきびしい武家とはちがって」家庭的なのを理想とするのではなかったから。

たとえば、いばらき乃至は水戸がくにがらとみればアメリカよりもイギリスの方がちかいふしがあるのはこういうわけなのだろう。保守性がのこっている場所には、上に書いた旧来の封建道徳のなかの特定の資質をそれなりの程度もしくはそれ以上に無意識であれ前提にする文化の素があるから。そしてどちらかといえば、無論一般市民に関してはだが、厳格な一夫一妻制度にちかい資質をもっている。

 これらの要素から結論づけると、美女の性選択というのは秋田や京都にまかせて、水戸は男性陣の佳さにかぎってものごとを推進していければとりあえずいいということになりそうだ。雄々しさのよい特質を守り、あるいは高めていけばいい。いいかえれば、英雄性をもとめ、それを尊ぶ風儀を守り抜けばいい。*4
一般論として、女性からの選り好みというのは男子の見た目よりその能力にあてはまりやすい。

このおおきな理由はY染色体が生物学的にみて、母体としてのX染色体に対して「付け加え」という位置にすぎないことにあるのだろう。(たとえば女子がうまれたときこのX染色体が父母どちらに由来しているかは不透明でわからない。しかし、男子のときはY染色体の系譜というものは確実に父に由来する。これらから単純に類推すれば、ただの人類学的な一学説ではあるが、地位の高い男性との配偶からは男児の出産率がたかまる傾向というのもこの雄性系統の着実な遺伝にあるのかもしれなかった。より緻密にいうと、「男児の出産率の高い系統」がいきのこりやすく、かならずしも配偶まえにはわからないわけだが、社会淘汰の結果としてえりごのまれやすいとされていくのだろう)。
またいいかえると、Y染色体は有性生殖のしくみのなかでは副次的であって主体性をもってはいないということだろう。健康な男子との配偶であれ、母体が不健康なときその子が健康である保証はない。つまり全体としての個体性ではなく、ただそのなかの特徴のみが雄性的なのだろう。この意味でも、特徴的なほど(なんらかの、できればより一層のこと実利的な)優秀さを高めていくことこそ水戸らしさ、いばらきらしさを極めるみちのりなのだろう。*5
選良的な優秀さをもとめよ。これが結論だ。

―――
��1 旧水戸藩の地域にすんできたひとにはわかるだろうけど、水戸の吉原と東京の吉原(あるいは江戸の吉原)というとまったくはなはだしい意味のちがいがあるのはこのためだ。

��2 衣服は少々着古しているが、他人にもたれかかってなよなよとした者がいないのはどちらだろうか。

��3 あたりまえだが、こんなことをしていれば恥やあとさきもなにもかえりみず、女性がすこしでも美しいと思った途端に目の前で褒めて褒めてほめまくるたちの集団にくらべれば、そういう特徴をもった人がどんどんと集まらないのもしかるべきではないだろうか。いわば軟派か硬派か。直接どちらも訪れるなかでフランスのパリと、イギリスのロンドンをくらべればはっきりするわけだが、やはりあつまっている人々のもっている地域性というものはあって、似たものがあつまってしまいがちなのが人類の村、ギリシア語でいえばpolisというものなのだろう。同様の原理は、今の段階でもたとえば東京の原宿と茨城の日立を比べれば全然ちがっているとおもわれる。

��4 ここが不思議なところでもあるが、それが結果とみれば浮ついた風紀にながれやすい東京とのすみわけのなかでむしろ美女と配偶される機会、つまり健康な個体の性選択にとっても好都合という逆説さえあるはずだ。

��5 サッカー常勝集団としての鹿島アントラーズ、或いはプリツカー賞の妹島氏などはこのそれぞれ一つの模範だろう。特徴には実利性をもったものと虚栄性をもったものが大きくみて二つあるとすれば、質実さを基本とした地風をよりよい方向へみちびくには、文質彬彬という論語の文句もあることにはあるが、より実力にちかいものを選りごのむべきだし、どうせ大都市圏ほどお飾りにつかえる余裕がそれほどあるわけでもなければ個々が必然的にそうならざるをえないだろう。
たとえば、とりにはトサカもあればクジャクのみせびらかし用の羽もあったわけだが、前者が実利をもっているのにくらべて、後者はただ虚栄のためだけにつかわれる。性選択は連続的に、世代をまたいで暴走するのがしられてきたので、環境の変化に持ちこたえ易いのが実利性、実用さ、つまり「つかえる」というたちだといってもまずまちがってはいないだろう。人類の中でおこなわれている選択も、ほかの動物とその複雑さについて同質のものとはいえないとはいえ、おそらく因果関係としては似た結果をもたらすかもしれない。環境の激変にたえられるのは役立たずすぎるそれよりは、少なくともどうなろうとつかえる形質ならびに文化的習性のがわなのだろうから。

2012年2月24日

海の熱点

http://www.nikkei.com/news/article/g=96959996889DE1EAE1EBEBE2E3E2E1E2E2E3E0E2E3E086989FE2E2E2

海にもホットスポット 海底土汚染、宮城・茨城沖に
文科省調査 放射能測定域を拡充

2012/1/30付
日本経済新聞 朝刊

 東京電力福島第1原子力発電所から放出された放射性物質による海の汚染の実態が、海底土の調査で明らかになってきた。宮城県や茨城県沖には、放射性物質の濃度が周辺より高い「ホットスポット」が点在する。海流や河川からの流入が複雑に絡み、まだら模様の汚染を引き起こしていると専門家はみる。現段階では調査地点が限られており、政府は今後、海洋汚染の調査を拡充する。…

2012年2月22日

福島原発まえの海底



福島第一の前、海底に「フタ」…汚染土拡大防止


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120221-OYT1T01050.htm?from=y10
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特集 福島原発

 東京電力は21日、福島第一原子力発電所の前面海域で、放射性物質で汚染された海底土の巻き上がりを防ぐため、セメントを混ぜた粘土(被覆材)で海底を覆うと発表した。

 クレーンを載せた船で「シルトフェンス(水中カーテン)」の内側に被覆材を投入する。今月下旬から本格工事に着手し、3~4か月で完成させる。

 覆土の範囲は、海岸から沖合約80メートルまでで、幅は計約900メートル。面積は約7万2000平方メートルで、東京ドームのグラウンド面積の5・5倍。被覆材の厚さは約60センチの見込み。

 福島第一原発では、4号機前の海底で昨年11月に採取した土から1キロ・グラム当たり最高160万ベクレルの放射性セシウムが検出されるなど、汚染水の漏出などによる汚染が深刻だ。周辺海域への拡散を防ぐためにシルトフェンスを設置しているが、今後、作業船の出入りが頻繁になることなどから、より確実な対策を取ることにした。被覆材の寿命は約50年とみられ、その後の対応は改めて検討するという。
��2012年2月22日01時40分 読売新聞)
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50ミリシーベルトでこどもは検査が必要らしい

以下の引用記事によれば、筆者が下線部を引いたところをよくよんでほしいが、IAEAが甲状腺への累積被曝量50ミリシーベルトで、こどもに甲状腺癌のあやうさがたかまる、と判断したらしい。だからこれをこえそうならば、事前に経口ヨウ素剤を手配して(医師から服用を注意されていない者は)その適量を被災当日24時間以内ににのませるべきなのだろう。
 これはとても重要なしらせだ。つぎにちかくで原子力災害があったとしても、おなじ原則から、50ミリをこえそうな子はみな、精密検査させるべきということだから。

したの記事でもわかるが、国家はアジアではどこの政府もそうなっているわけだが、やはり官僚制をひいているからなるだけ失敗をしない様にうごき、できるだけなにもしないことにしてしまおうと普段からの業を延長してくる。だから事前にてをうってでも、強制的にうごかす方途をねりきっておくしかない。行政といおうか、公務員は最後までうごかないし、うごいたとしてももっとも消極的な理由で、というわけだ。概してなまけものといわざるをえない。
 だがそれが現実なのだから、われわれは単にそれを改良してもちいることに集中すればいい。うごかざるをえない様にかこいこんでいくことだ。
 それでしか無能な、つねに腐りつづけていく巨大な体制がかわってくるわけがないのだから。政府の義務となってくれば、うごかなければ訴訟する、という次元でおいつめておくしかないのだ。これが真相なことはあの被災をしたすべての人がもうわかっていることだろうけど。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120221-00000041-mai-soci
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��甲状腺内部被ばく>国が安全委の追加検査要請拒否

毎日新聞 2月21日(火)15時0分配信
 国の原子力災害対策本部(本部長・野田佳彦首相)が東京電力福島第1原発事故直後に実施した子供の甲状腺の内部被ばく検査で、基準値以下だが線量が高かった子供について内閣府原子力安全委員会からより精密な追加検査を求められながら、「地域社会に不安を与える」などの理由で実施に応じなかったことが分かった。専門家は「甲状腺被ばくの実態解明につながるデータが失われてしまった」と国の対応を問題視している。

 対策本部は昨年3月26~30日、福島第1原発から30キロ圏外で被ばく線量が高い可能性のある地域で、0~15歳の子供計1080人に簡易式の検出器を使った甲状腺被ばく検査を実施した。

 安全委が設けた精密な追加検査が必要な基準(毎時0.2マイクロシーベルト)を超えた例はなかったが、福島県いわき市の子供1人が毎時0.1マイクロシーベルトと測定され、事故後の甲状腺の積算被ばく線量は30ミリシーベルト台と推定された。対策本部から調査結果を知らされた安全委は同30日、この子供の正確な線量を把握するため、より精密な被ばく量が分かる甲状腺モニターによる測定を求めた。安全委は「ヨウ素は半減期が短く、早期に調べないと事故の実態把握ができなくなるため測定を求めた」と説明する。

 しかし、対策本部は4月1日、(1)甲状腺モニターは約1トンと重く移動が困難(2)測定のため子供に遠距離の移動を強いる(3)本人や家族、地域社会に多大な不安といわれなき差別を与える恐れがあるとして追加検査をしないことを決定した。

 対策本部被災者生活支援チーム医療班の福島靖正班長は「当時の詳しいやりとりは分からないが、最終的には関係者の合意でやらないことになった。今から考えればやったほうがよかった」と話す。安全委は「対策本部の対応には納得いかなかったが、領分を侵すと思い、これ以上主張しなかった」と説明する。

 国際原子力機関(IAEA)は昨年6月、甲状腺の積算被ばく線量が50ミリシーベルト程度の子供でも甲状腺がんのリスクが上昇するとして、甲状腺の発がんを防ぐためのヨウ素剤服用基準を100ミリシーベルトから50ミリシーベルトに引き下げている。30ミリシーベルト台はこれに近い数字だ。

 東京工業大の松本義久准教授(放射線生物学)は「データに基づけば、福島で実際に甲状腺がんが増えることはないと思う。しかし当時精密に計測していれば住民の安心につながっていた」と指摘している。【久野華代】
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2012年2月18日

くらしとみた学問の意味

基本として、よりよいくらしをしたい、というのが人間フツウの心情ではないか。

 そこからみると、学問をするということ、なにか書かれたものからなにかをよみとるおおきなわけも、このよりよいくらしを知ること、よりよいくらしに役立てること、そしてよりよく文を読むことができる世界をつくることにさえあるだろう。

まこと千差万別もしくは一様のどちらかのあいだにすべての「ヒト」はいるわけだが、この個性の差をどう社会のなかにいかすか、がすべての学問のわけではないかとおもう。なぜこういうことを書いたかいえば、水戸が学問系をもりあげようとしているから。

 星の東西でかなりちがいもあったが、学問といえば要はむかしの、またはいまの文をよみかくことだろう。このばあいの文はすべての数理記号も、詩も、あるいは図形もdataも、すべてのことばの一切もふくめていう。いわば時系列的な重畳さをもつすべての情報からなにごとかを体系的にうけとることをいう。こういうもの、いわば文物のなかから、なにかしらみずからの個性にとって役立つ情報を得てそれによってよりよいくらしをする、というのが学問の、学業の本位ではないだろうか。

ごくわかりやすいたとえをひくと、もしサルがことばをもったとしよう。こういうサルはなにをするだろうか。サルとしてよりよく、よりすぐれた生きかたをするためにそれらのしくみをつかうのではないだろうか。
――ヒトが信じるところでは、サルなどの動物みんなより高等と全知全能の神さまから指定されているらしいのだから、あるいは単にダーウィニズムからみるだけでもサルよりあとに進化したいきものなのだからなおさらかもしれない。

 端的にいえばpragmatismというアメリカのなかにある哲学はこういう立脚点を古代ギリシアのアリストテレスの有用性のかんがえあたりから、もっとも基本的な場所にまでさかのぼってかんがえているととらえていい。これにくらべて、イギリスではutilitarianism(使用者のかんがえ、これは日本語では功利主義と慣習的に訳されてるが)、そこでは逆に「どうやってさまざまないきかたをする個性をつかうか」に焦点がある。このふたつは、にてはいるが同時に対照的といおうか、逆さでもある。
他人をつかうためにはどうしたらいいか、というのが最大多数の最高幸福をめざそうとする功利主義者らの基本にもったかんがえ。だからそれはつかわれるヒトにとってのかんがえ、つまり成長や自己実現のために道具をかきあつめみずからの成功をきわめようとする考えとは必ずしもいえない。

 これらを通しておもうのは、プラグマティズムであれユーティリティタリアニズムであれ、使う・使われるという雇用関係のかんがえであったというわけだ。そうしてみてくると、実はといおうか、水戸学の古典的体系とそれほど矛盾するわけではないといおうかほとんどおなじものでもありえる。君臣関係を正当化する理論が水戸学の本質であった。これを朱子学と儒学からひっぱってきたわけだ。

 弘道館(もしくは、自分がおもうにはだが、一張一弛的な意味で偕楽園すべての景観までいれれば確実に理想的な学際環境の理念として立派だから成功するとおもうが)を世界遺産に登録するにあたっては、国際機関だから当然ユネスコの中枢でも実権をもつ人物を説得する為にもこれらをみかえす需要がかなりあるのではないだろうか。要は近代にきわめておおきな力をしめした英米哲学を援用するべきなのだろう(*1)。

 はなしをもどすと、かつ、これらからいえるのは、この小論でいう「よりよいくらし」とは人それぞれことなっている。全体主義的に一意でいえば幸福となるかもしれないが、このしあわせは習慣や感覚、うまれもった遺伝子によっておそらく人それぞれそれなりにちがいもあるのだろう。
だから分業の推進は、法規範というそれらの利害関係の調整をのぞけば、基本としては為されるほどよいといまのところいわざるをえない。ある個性が、そうでない個性と混同され、みずからに不向きなしごとにつかわれたり、そういう役目をなんらかの不条理、いわゆる世継ぎだとか伝統だからといった理由で当人へ不本意にあてがわれるのが市民のくらしを不幸にする最大の因習となるだろう。ただしこれらもきちんと法規範のとりしまりがおこなわれるといった前提で、あるいは自らが世襲に適応している場合はのぞくのだろうけど。
 もっともやさしくいえば、「適材適所」あるいは向き不向きというはなしになる。社会がこの道理をみのがしているほど、すなわち、どんな勉学や教育課程でもそうだが、個人へ向いてない仕事をさせてしまっていると結果として個人主義のつよい英米哲学との矛盾もおおきくなっていくだろう。やりたくなければやらなくていいのだ。なぜならその方が、よく経営学でも上位3割があと7割分の仕事をするとかいうが、向いているみなが得をするのだから。子女に普通教育をあたえる義務とやら、あるいは勤労の義務さえこの点ではかなりの寛容さをもたせられていいはずだ。

 はなしをすすめると、学問をすすめるのはいい。しかし、もともと勉学が好きではないとか向いてない人にそれを必要以上に強制しなくてよいのだ。孟子のいった教育(教え育む;おしえはぐくむ)と、孔子のいった啓発(啓き發る;ひらきゆみいる)のちがいとかもここにはいるだろう。ここでいっているのは、啓発が重要だが教育はまあそれほどでもなさそうだということ。もともと、孟子の場合はいわゆる義務教育ではなくて英才教育(*2)についていったことばであるのをかんがみてもなお。
要は、できるものはその特徴をしめすためだけにでも自分から勉強してしまうものだが、そうでない人にはかれらの興味にこたえておしえていくべきなのだろう。以下にわけを説明する。
 これらの「不勉強な」人は実は、日本社会では不足しがちでもある。
 ポスドク問題をみればあきらかであり、外国人労働者がもとめられてくる理由も実は、この日本国内ではだれもそうなりたがらない「不勉強なゆえに予想がつかず応募してくる単純労働者」が先進国の自然ではへってしまいがちだから、なのだから。これは一昔前は日本国内では女工が担っていた分野でもあり、男女雇用機会均等法のせいもあるのだろう。だが、ここにはある骨もある。いってしまうと、教育された程度が世界中の自由貿易圏でもっとも中間的なほどその社会は富みやすいのである。なぜなら、当分つづくだろう資本経済の浸透下ではかれら(少しはもしくはかなりの良識ある先進国の世界的にみて中程度の教育をうけた市民を中心とした)大衆を最大の市場としておおくの資本が投下される傾向があるからだ。しかし、最高の教育程度あるいは学問の段階に進歩した人と、そうでないかなり古代からかわらない祖先の姿をのこした人たちとの習性にまつわる幅、というものはどれほどの文明の高度化のもとであってもただ希少価値それそのもののために保守されていいはずだ(*3)。
重要なのは自由貿易についてより大きな国富を占めるという目的性があるばあいは、この中間的な人口をもつかどうかが鍵になるというわけ。実質、これがEUというものを成立させた根拠でもあるといっていい。
この不思議な道理といおうか労働力の二極性が、たとえば学歴制度にかけてマイケル・スペンス氏あたりのシグナリング理論なんかを通して水戸市内でも多くが当然わかってくるはずであり、藩士教育(つまり市場への「使用者」がわの思想啓発)というものをおこなったのは実はかなり先見的だったともいえる。
なぜかといえば、結果は天狗党の乱などをおよぼしたという副作用込みだったわけだが、単純労働者不足は教育格差をもうけることで逆説的におぎなえるからなのだ(*4)。それが安定した大国づくりの一つの骨なわけだ。
――経済学上みれば、社会の中の教育程度の二極性が法的もしくはすみわけにすぐれて調和しながら進むほど、その社会集団は多様な分業をおこなえるので全体と見た効率も高まるはずだ。ここに一般庶民とはあたえられる教育の程度が土台からちがうので特権化されていく貴族あるいは王室のおこる余地があったのだ。
 またこれは自分が歴史学からみちびいてきた一般則だが、帝国の強度はこの社会層の二極性を如何に国内につくりだすかにかかっているともいえる。いわばpyramid状に、世界一頭を抜いたきわめて強靭かつ強固な高等教育をうけた超少数の支配者層と、そうでない無教養な享楽的庶民のきわめて大きな数がおなじ国で調和的にかなり大勢生存できたとき、そしてこの中間にもっとも多くの国民がいればその国は成功する(*5)。この二極性が強ければつよいほどその帝国が結果としてほかの文明圏にも大変なちからをもつのがこの世の真相なのだろう。前例をひくと、ローマ字を含むラテン語や漢字として居残っている中国語、そしていまのアメリカから由来した英語がどれほどおおくの人々に影響をあたえたかはかりしれない。

 水戸学派は、現在に於いてこの支配者層をつかさどる目的をもって出立しているといえる。はじめからそれは儒教の理念を日本史のなかで窮めるために、当時の最高権力だった将軍家に最近侍であった義公によって創始されたという歴史がある。この理想は、すくなくとも現代までの状況では立派な志というしかない。最大の商圏としてのいまの東京都であれ、あるいはアジア、太平洋の市場でもいいが、何らかの理想もしくはすぐれた指導者が必要なのだから。そういう母体となるべき運命が、水戸にはある気がするのだが。


―――
��1 ――ここから数行はかなり哲学にくわしいひとむけにかくと、いわゆる封建制を脱却せずその中で主従秩序を完成させようというのが儒教の理念でもあったのだから、キリスト教の神と僕の関係、ほかイスラム教等でもみられるこれらの忠義もしくは忠誠の正当化はかなり古くからみられる普遍的意思でもある。英米哲学の中で講じられていた一切も、実はその上位集合としてのキリスト教的主従秩序の中で如何に人間性を導くかという話でしかない。そこでプラトニズムは象徴化され、清教徒思想になった。カルヴァンの考えの核、そしてそれに親和したアダム・スミスの素朴な資本主義的富の肯定はこの主従秩序をたくみに商業と一致させたものだった。帝国主義の意味もそこに求まる。(*参考文献マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。
 つまり、基本的姿勢としては水戸学がめざしていた皇室の擁護は、その神格化さえ除けば、すなわち「王権神授説の否定」(*参考文献ジョン・ロック著『統治二論』--原文‘Two Treatises of Government’ )さえ除けばまったく類似の態度だといえる。なにがちがったか。それはキリスト教がひろく伝わったか伝わっていなかったか、だけだろう。それがひろくつたわった場所では人そのものの神格化はおこなわれえなかったわけだ。
 この一点さえのぞけば、ほとんど同じことが水戸学の態度のなかには英米哲学の使用・被使用の関係性にはある。単にそこへは功利主義者つまりutilitarianには統治的優良さと、実用主義者つまりpragmatistには労働者の自己実現とがみられるにすぎないだろう。プロテスタンティズムを極端にした場合はそこに統治者の代表としての王権が除かれたわけだが、この方法が成功するか、それともそれを保ったままにしておいたイギリスなどの王室の方法が成功するかは歴史をみないと分からないところだ。ちなみに世界の王室は以下の分類がある。
現在1の帝室と20の王室と3の公室。
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html
��http://megalodon.jp/2012-0218-0257-49/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/oushitsu.html)
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html
��http://megalodon.jp/2012-0218-0259-13/www.geocities.jp/operaseria_020318/kikyo/contents/royalfamily/Royal/ichiran.html)
あるいは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%A4
 より長い目でみれば、致命傷にさえならなければ保守的な方をえらぶのが賢慮あるといわざるを得ない気もする。礼をおしむ、あるいは間接的に失うなと云った孔子(参考文献『論語』八?第三、十七、「子曰く賜や、爾は其の羊を愛む。我は其の禮を愛む。」)はその儀式のなかの精神的態度を擁護したのだろうが、単に装飾とみてもそうかもしれない。これらの儀式は、きわめて不合理かついわゆる非科学的な通過儀礼であって現実の世界情勢とおおはばに矛盾して負担が過剰になりすぎるといった特別な事情がないかぎりは、伝統的壮観をあたえるという効用がある、という可能性をもっている。しかし、たとえば受験地獄の様な「役立ちもしない」異様な風習は勿論この虚礼にあるのだろうが、それらを避けていく自由まで規制しなければ、一定数これらの風習が残存した方がまだ伝統的格式を高めるのかもしれなかった。
 もっと科学的に無用の用とみたとき、これらの集団の礼儀にさえなっている種類の風儀は、なんらかの意味で現代まで人々を社会文化の環境でいまある姿まで淘汰もしくは選択してきたわけになっているのだろう。通過儀礼のたぐいも、比較文化論なんかみればあきらかだがなんらかの意味でその土地や地政でかつてもとめがあったかそれをrunawayのきっかけとした性選択の際の特徴の強化なのかもしれなかった。だから、ここでいう「礼(旧字体では禮)」は、いわゆる人間のばあいのなんらかの特徴の強化のためのなれなのだろう。日本人全般が他人にあたまを下げるのはなるほど、巨視的にみればまことに奇妙な風習で、ほかの土地のひとびとはそんな習慣や礼儀をもってさえいない。しかしこの礼儀が維持されている範囲の外では、赤の他人に済まなさを示すときはみぶりではなくかならず言葉でおこなうしかないわけだ。むかしでいう言行一致(近世の文献では新渡戸稲造著『武士道』あるいは、陽明学の「知行合一」までさかのぼれる)という哲学がうみだしたひとつのいきのこりの戦術として、この「あたまを下げる」という演劇的行動の風習は働いているはずだ。だれであれ目の前にあたまを下げている、どう見ても弱ったよわそうな人物をひとまえで暴虐であつかったりすればすこしはそうされている降参しているがわが第三者からさえ同情される可能性があるかもしれなかったろう。
おそらく人類学とみたその一つの起源は、武士の戦いの儀礼化にあったのかもしれない。問答無用の戦国時代に二本差しからその場で首を取られるのを防ぐ目的でもあったのだろう土下座という降参の儀礼、つまり命乞いの風習が軽くなったのが、そのいまにのこるあたまを下げるという慣習でありならわしなのではないか(和辻が郷里で家族の葬儀の際に済まなさの表現のためにならわしから土下座したときに涙を流して感激的にこの意義を感じたという逸話もあった)。この風習がいまに生きているのは、たとえば小泉首相がブッシュ大統領との対話のなかで、日本では変わった風習があるらしいな等と質問されたとき、小泉首相はその場で演技として土下座してみせ、「わたしはあなたへこうしなければならないな」といったなかばあぶないjokeを言ってみせたらしかった。これは推測だが、およそ日米安保条約のことが念頭にあるんだろう。それがfairかどうかはわからないが、まさにいまは座をおりている当時の大統領、ブッシュさんはアメリカ人らしくこのperformanceで大声で笑って気をよくしたらしい。効き目とみればおよそこの法則を、ほとんど人体の物理的には無意味な運動である頭を下げるという言行一致の慣習は示しているのだろう。

��2 『孟子』尽心・上、「天下に英才を得てこれを教育するは三の楽しみなり」。原文は「得天下英才而教育之、三楽也。」。ちなみに孟子のいう他の二つの楽しみはまず家族の安泰、もう一つは天を仰いでにも人間にあってもはずかしさがないこと。

��3 「上知と下愚とは移らず」、と孔子曰く『論語』陽貨第十七・三、にある。どの社会の常態でも形質あるいは姿の幅はつねにあるという意味だろう。

��4 おもに福沢諭吉なんかには旧態依然な愚民政策の根源としてさかんに攻撃されていた点だが、『論語』泰伯第八・九「民に知らしむべからず由らしむべし」の意味も、およそここにあるかもしれない。

��5 たとえばアリストテレスの『政治学』やマキャベリ『君主論』にもこの要諦が部分的にかかれているとおもう。

2012年2月17日

Liberal arts(引用)

文法学・修辞学・論理学
Grammar, Rhetoric and Logic

were the core liberal arts. In medieval times these subjects (called the Trivium)

were extended to include

数学・幾何学・天文学
音楽
mathematics, geometry, music and astronomy (which included the study of astrology).

 This extended curriculum was called the Quadrivium. Together the Trivium and Quadrivium constituted the seven liberal arts of the medieval university curriculum.

--from Wikipedia 'Liberal arts'.

2012年2月13日

工学の知識について

 現実社会と自然現象に数理modelをあてはめること、が科学(scienceつまり「知り」の訳語)がしてきた発明であり発明だった。このおこないが、人類のできたことのなかでもっともおどろくべきだろう。なぜそれができたのか、ある地球の奇跡というしかない。いいかえれば、定量を法則的にとらえられた、というのがあたまのしたすべてのしごとのなかでもおどろくべき才だった。川とか山ということば、あるいは万有引力とかentropy増大則がどれほどおおくのことを簡単に説明できるだろう。ことばがもっているある可能性は、しるということ、なにかをとらえるということにすばらしい力をもっている。
 また、知識は「ことばや記号による、つくりごと、つくりもの」であるのもたしか。これはほかの惑星にいる生命体に通じるかもわからないわけだ。われわれの三世代前の個体は、情報量ということばからなにをしりえただろうか。Computerと情報理論がでてくるまえは、熱力学をしっているすくないひとをのぞけば、entropyははっきりとした概念でさえなかったのだった。

 こうしてみかえしてみると、実用性をもった技術、日用にされるある技術、わざ、というものが、われわれが科学をいかす本当のみちだとわかる。ここで安定的に応用されている分野は、すでにくらしにとって不可欠なほどそれらの文化にすごす人間のうえにくいこんでくる。
 火が燃える、という単純な酸素燃焼の式
H2+1/2(O2)→H20+286kJ
は、地球上ではものがもえると酸素がへっていくという事実を密室の危険さとともにおしえている。同時に、閉鎖系での情報理論とみた混沌度、つまり物理量とみた‘熱量⇔entropy’増大の法則もおしえているわけだ。
 結局、実用や実利性つまりutilityをもった、なんらかの工学に応用されていく種類の知識、これがもっとも重大なのだろう。

 知識も千差万別あるが、形而上学という「現実にはたしかめられないか、たしかめがたい」ある曖昧な学識もふくめて(避けようとしても倫理とか道徳、法律がのこるかぎり完全に排除しきれないので)、ほかのすべてより重要なのは工学的に日用化される範囲の知識の系列なのだろう。
 そしてこれが立派なほど、その種族集団は未知の道具をつくりだしくらしていけるのだから、不測の事態にもそうだろうし、普段から経済効率をたかめて、結果的にはほかの集団にまさって生存確率をたかめていけるのだろう。

2012年2月11日

ある必要な計画

http://www.affility.co.jp/archives/797
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私は図書館でフィヨルドの津波を調べていると、1950年代に世界最大級の大津波が発生しており、その遡上高はどうも数値がおかしい。

波高150m以上 遡上高約520m 1958年 アラスカのもの。

��ナショナルジオグラフィック 警告!最大級の自然災害ビッグ4 第2話 破滅的大津波の恐怖 で詳しく述べられています)
��~~

という歴史の事実があって、ここはフィヨルド地形ではないからこの たかさに つなみ が なることは ほとんどなさそうだけれども、念のためにつくっておいてほしいのは、市役所の高台から海抜高さをたもったまま安全にあかねひらまでつながってくれるrouteの開拓

市内の主要な基盤はおもにほぼ市内中央にある市役所の高台にあつめていくのが合理的だが、そこが奥地と分断しないために、また(温暖化による海面上昇をふくめて)最終的に浸水域がそこをこえてしまう万一の事態でも避難路をあけておくために。

 道路を作りまくるという手法は行政の命題としてほとんど時代おくれになりつつあるが、いまの市長の得意分野ではあったらしいからこの際。任期中になんであれ計画しておいてほしいところだ、後生のために。

以下、冒頭の引用とおなじく参考資料。
��~~
http://www.affility.co.jp/archives/503
※明治三陸大津波
津波の遡上高海抜 38.2m
最大震度 「3」

※今回の東日本大震災 岩手県宮古市の例
津波の遡上高海抜 39.8m
津波の到達時刻 35分
津波の時速 「115km」

2012年2月10日

矢野新一という人

矢野新一という人、
http://www2k.biglobe.ne.jp/~yano/
このホームページで個人コンサルタントをしている東京出身・横浜育ち・専修大卒の63歳(1949年生まれ)の人物だが、この人がはっきりいうと、ある種の風評被害でもある「都道府県別魅力度調査」を個人でやって個人で広めている人だ、と突き止めることができる。
 いうまでもなく常識以上の判断があればわかっていたことでもあるが、そもそもが魅力とかいう個人の感覚に依存している曖昧模糊なものは厳密緻密に帰納的データを重ねて公的統計をとらないかぎりは真相など検証できようはずもないが、いままで何年も何年もそうやって順位付けをしてけっこうたのしく過ごしてきたのはすべて、この人が東京生まれの横浜育ちで専修大卒だからだ、とかんがえてあながちはずれてもいまい。
この人はなんのダメージもないのであるから、データがどの程度実証的かどうかなどコンサルタント業がもうかればいいのである。新興宗教レベルのあやしげな商法でも顧客としての企業が適当に占いみたいにうけとってくれればありがたいというからくりだ。

 すべて、以上に書いた事がわかれば、県民がとるべき道は二つのうちどちらかだ。
 一つはこの人による風評被害を個々人中心にでも訴えてこの人による風説流布を罰し(これは曖昧でかならずしも確証的価値の担保されない心理洗脳的な他の風評調査で迷惑をこうむっている各都道府県自治体と協調できる)、法に於いて名誉回復措置を講じさせること。
もう一つは、逆にこの人を「逆の風説」を流布させるいわば逆諜報として金目で利用してしまうことだ。情報社会の必然をおもえば、後者の方がより利用価値が高いととらえていいだろう。この人物の先は長くないだろうが、その期間、およそ平均年齢からいえばあと十数年(神奈川県78.24東京都77.98歳(資料link)だから残り時間約15年間)だろうが、ずっと占いまがいのくだらないテキトウで恣意的な東京・横浜偏見にかぶれた個人ネット調査による風評被害を、約3,000,000人がなんの功徳もなしにうけつづけるのは全然賢明ではない。
しかも、なんと県税からこのある特定の個人の(はっきりいって失礼だが、「専修大学の」「経営学部(当然、経済学ではないし、理学部の中の統計学科でもない)」からノコノコやってきた)、非科学的な、いわゆる‘確証偏見’調査による風評払拭のためだけに、わざわざ、われらが県庁に、対策班まで組まれて現に支出があるのだ。信じられない。

わたしもそれに風評被害対策費用をわずかながら確実に支払っているのである。どれほどの悪業だろうか、矢野新一どのよ。それでも、これらの大変に迷惑こうむる大の魅力度とやらが一体、ただの平穏に暮らしてきた平和愛好的かつごく風雅な人類最高度に高級趣味人である一北国市民のこの私が、わざわざあなたの無意味で暴力的な名誉毀損による県民侮辱罪のためだけに税金を支払ってまで横浜と東京の悪意ある低俗きわまりない自己満足や自慢劇場につきあわされるほど立派な懸案だとおもうのだろうか? 彼は。63歳にもなって。じゃああなたの現にしていきている、東京都と神奈川県の現にしてきている数かぞえきれない醜悪な業のかずかずをマスコミ経由で大々的に暴露してもいいというのだろうか。勿論、私は大変に魅力的なのでそんな意趣返しは決してしないのだが。

2012年2月8日

ある手本になりそうな復興designの写真

大津や平潟の復興designにはつぎの写真が参考になるかもしれない。
ネット上の画像だから、学術目的の引用なら日本の著作権法上ゆるされるはずだけど、とったもちぬしがとりさげてくれとコメントしてくればとりさげます)。



この写真のpointは3つある。
1.逃げ場としての高台と一体的に開発されている
2.風趣地区として船着場・海岸までおりていけるテラス・場の照明を含めて上手に美化されている
3.たてものが津波にも流されにくい石造(日本でいえば鉄筋コンクリート造)

2012年2月2日

科学とは何か

人は科学、scienceとよばれる自然(仮に社会も含む)への学び、習いとりを通して、ある記号による文物の体系を得る。つまりいまでいう教科書というものを得る。
 これは学校でつかわれるいまの文部科学省が指定しているものだけではなく、もともとは論文やそういう記号表現のあつまりだった書物も入れて。たとえばダーウィンの『種の起源』も、ニュートンの『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』もそうだろう。

こういうものが、結局どうつかわれるか。応用という面だけみれば、結局は工学そして技術・芸術に、つまり「わざ」につかわれる。
電子レンジや電灯や自動車や信号や電車やバス。そして工業製品をたてこんだ建築物。これらだけみても、科学は、実はもっとも素朴には「わざの素(もと)」なのだととらえるのが自然だろう。

 日本というか、日本語圏がどちらかといえば応用にかたよっていて、理論がよわいというのが以前から比較文化論とかでいわれている傾向があった。
そのために、ほかの先進国からおおはばに劣らないばかりかまさるべく、より理論そのものを重視すべきだとは信じるが、うえにかいたこともまたそのものとして真実ではないか。

――震災があって、技術のたまものであった原発が牙を向いた。これだけでも道具というものへ応用してきたのが、科学・知識・サイエンスの高度さだったとわかる。
状況を理解するだけでもかなりの物理学が必要だったのをかえりみれば。放射線の段階の物理知識はいまでいう高等学校以上のものだったから、そのレベルより勉学しなかった者は混乱するばかりか誤解や、状況がのみこめず見当ちがいな行動をしたろう。

 結局、この道具そのものの進化をよぶための方法、あるいは目的性が科学という営みなのだろう。いろいろ過去の哲学者をたどると、さまざまな意見があるのだが、自分がいままでの人類史をふりかえっておもうところによれば、神はすぐれた道具をもった人々へ味方してきた様だ。
イギリス海軍から先に最新式の武器を輸入できた薩長軍が、あるいは原子力爆弾が、どれほど人類のあいだの競い合いに決定力をもっていただろうか。それ以前にも、そもそもアメリカ大陸やオセアニアに土着していた旧人類は侵入してきた「つよい武器」つまり新型の道具をもっていただけだろう新人類とやらにあっという間に滅亡させられほぼ全滅させられた。
たったこれだけみても、神様がもしいるならなぜこころよい旧人類を救わなかったのか、大変に疑問視できるだろう。そういうこころよさ、ある精神の高さ、独特の文化や風物、変わった風習はまったく人類間の競争のまえでは現実には無意味だったのだ。神様は、この地球人類の段階へは、より高度な道具をもつ側へ味方したのだ。
たとえば、単なる装飾のための美術・芸術・文芸あるいは音楽や演劇に関してはヨーロッパでもっともゆたかだったはずフランス軍がなぜ、植民地の獲得・維持・発展度についてもっと冷徹で真面目で実利的なイギリス軍にはなをあけられてしまったのだろう。アリとキリギリスの童話ではないが、事実そうだったのだから。これは、究極で言えば、産業革命を起こした国が一歩さきがけて軍備の近代性があった、というだけの因果だとかんがえられ、もっと過去に辿ると自然についての知識が少しだけイギリスの側がまさっていて、その根本にはフランスとイギリスをくらべればイギリスの方へいくらか真面目で探求的・求道的・数理的な自然学者がいたというだけのことなのだろう。
 たったこれだけの理由、たったこれだけのいきのこりのためのきっかけで、わたしたちが「科学と技術」を信じる、すくなくともそれらを十二分に利用したがるというのは浅薄だろうか? 私は絶滅する側に入るのはなんにせよ、まったく賢くないと考える。
それによって、まさにここが不可思議でもありおよそ心理とみればいくらか慈悲心へのあざむきもしくはこころぐるしい自己正当化らしき ふしまわし でもあるところなのだが、生き延びた側にしか、こころよさでさえかたられえないのだった。なんとしてでもいきのびねばならない、というのが人類の科されている課題らしかった。すでに亡くなった、あるいはほろびてしまった、この世にはない人種の声は、残念ながら直接にはきこえない。大変恐ろしい歴史の一幕だが、たしかにその通りであり、神はかならずしも善意へ報いないらしいのだ。神は道具に味方するが、必ずしも人類のこころばえには味方してこなかった。これが冷厳な人類の歴史の真実でありこの世の真相らしい(*1)。

そこから引けば、だから、社会のなかで取引がいとなまれる一切の原因も、結局はこの希少にして重要な道具のやりとり、となるだろう。(交換貨幣とみた金銭も、交換の仲立ちとみればこの道具の一種としてはたらいているとおもわれる)。
 数学を部分集合とした科学という自然分析の道具も、技術を経由して経済社会つまり商業市場をつくり、それらの総体を防衛しながら調整する役割としての、警察ならびに政治機構がととのえられる。
これが全人類のいままでやってきたすべての仕業であり、いわゆる文明といううごきのすべてだろう。だから、科学の進展は「道具の進化」をうながしながら、ほか一切の社会構成をかえていく原動力なのだろう。
そして、実に不可思議なことながら神はかれら高度な道具人あるいは工作人(homo faber: ホモ・ファーベル。といういいならわしかたがある)へ、総じてみて味方してきたのだった。それはどういうわけか、勉強好きもしくは器用な人種が好きなのか、それともこの神秘にみちた、わたしたちをとりまいており、かつわたしたちを含んでいる自然界の学習と応用を通して、本当はなにごとかを知らせようとしているのだろうか? それがなにか、いまだわたしはしらない(*2)。


―――
��1 二つの対立する意見が、むかしから西洋にはあった。つまり人工vs自然といういつものはなし。本当は、人工そのものが自然の一種でありその一部でしかないのに。物理系とみてもそうとしかいいようがなく、大半の環境学ではすでに巨視的にそう定義されているだろう。入れ子的に人工⊆自然、という集合なだけ。
 中国にも似た機械嫌悪というのがあったことはあった(『荘子』天地、十一「機械ある者は必ず機事あり」。有機械者、必有機事。この周辺の文をよめばくわしいが、つまり、機械にたよると人間の精神がおろそかになる、といったよくある精神論だが。
これは現代ではほとんどかえりみることのできない謬説といおうか、よくない意味でかなり幼稚な議論だったのだろう。二足歩行にともなってあいた両手での器用な道具の使用が人類をそうでない類人猿らから別れさせていまにいたるというのが、現代水準の知識なことから。
そこからみれば、旧態依然な技術のもちぬしは大抵、反動形成も手伝って体面上、偏屈であると捉えるのが自然な条だろう)。
 が、もっともむかしからいわれているのは旧約聖書で「知恵によって神を知る事はなく、信仰によって救われる」という感じをのべる箇所がある(『新約聖書』コリント人の手紙Ⅰ: 1-21)。
同時に聖書そのものは、『旧約聖書』のなかの「箴言」の冒頭でもわかるが知識自体を否定してはおらず、むしろ信仰の理解を助けるとして勧めているふしがある。
つまり、聖書は、有り体にとらえれば神への素朴な信仰を失うな、ということをいっているあるいは、そういう文脈が総体としてはかかれていると捉えられる。
いろいろ議論はあるが、このばあいの神というのは唯一で、全知全能で、この世界の創造主という、ある人間の想像を超えたもの、といった意味だろう。
日本語でいうカミサマ、というと やおろずのかみがみ とか おかみさん とかあげくは特定の政治機能とかあやふやに意味がゆらいでしまったりするが、このばあいは英語でいうGodへの素朴な信仰ということだろう。
この超越した権威が、民族や人種や出自をこえて、アメリカの建国をささえたのだろうし、社会生物学のリチャード・ドーキンスがいう様に、Godの素(もと。訳の原語はmeme: ミーム といわれる)こそ人々共通のよりどころとして人類の言葉のなかで広まったのだろう。
 いまにいたるまで、特にイギリスのホーキング博士などのなかでくすぶっているのは、高度な技術があたえる莫大な力への恐怖なのだろう。ホーキング博士自身は、かなりまえから工学が誇大化しすぎたすえの文明破滅型の世界観をもっているらしいが、その起源は上述の、旧約聖書の信仰なのだろう。――だがこの見解そのものがただの彼自身の信仰であって、実証された科学ではないことに注意する必要が、一層思慮深くなおかつ信心深いはずのわたしたちにはあるだろう。

��2 当然、それ、つまり世界の置かれている神秘的なしくみも科学的な知識、つまり自然界の分析によってしかよりよく分かることはないだろう。ほかの理由づけというのなら人間のあたまで勝手にできるが、どれも人々の勘違いとか、まちがいだろうから。はやりの哲学用語にすると、象徴界とか想像界というものはなんの意味もないのだろう。
哲学用語でいえば現実界、つまり、一般語でいう「自然界」はすき勝手くみかえてしまえる言葉などではなくて、むしろ目の前にほとんど無限みたくすでにつくられて、ひろがってある。
それが分析すべきものごとであって、言葉とか記号はこれを指示したり、人のあつかえる記述、あるいは舌とノドからの空気振動で伝えられる用のしかたであらわしたりする、「道具」でしかない。
 よって言葉、これも道具の一種らしい。記号を言葉の一種としてその部分集合(記号⊆言葉)と定義すれば余計に。