2016年5月14日

東京批判

 西日本人たちは、首都圏のメディアからの距離が遠すぎる為、東京都の流している嘘をそれと見抜けない。そして西日本人の意識はこの東京都内のキー局、記者クラブ、政府と天皇家の思うがままに操作されている。全国学力テストで東高西低の傾向が現れる通り、東京資本に西日本人は欺かれ、その搾取・支配的な偏見を鵜呑みにする。
 茨城県民がもっている類の東京批判的な意識、即ち東京の持つ本質的な欠陥、欠点、汚点、犯罪率、衆愚性、スラム性等の経験則からくる批評観は、未来永劫、西日本人の多数派が得る事のできないものなのだ。東京圏に通勤している人々は、神奈川、埼玉、千葉にみられるようその退廃的衆愚制度に一体化してしまう。逆にこの蟻地獄へ一定より遠すぎ、都心を出入りするのに一苦労するほど遠い地域の人々も、偏見メディアを経てしか情報をいれなくなる為、批判意識を持ちづらい。
 結局、茨城は東京批判的な真の都市を構想してきたし、今後もしていく。他の関東地方において、栃木や群馬が似た条件にあるとはいえ、水戸という副将軍的意識の残存する地域をもつわが県が東京への批評的な意識では世界で最も強いといえるだろう。この東京の欠点をのりこえている、のりこえようと常に考える条件にあるという面において、茨城の際立った特徴があるのだ。そしてこの個性は、我々の今の意識と比べれば、千年以上遅れている西日本人側には、理解しがたいものなのである。西日本人の脳内では、東京は憧れの首都であり、そのすべては理想であり、ねたみでない意味での批判や否定など想像もつかないものなのだ。なぜなら、彼らの見ているものは現実の都市ではなく、彼らの脳内にある、各種の都内商業メディアによって作られた妄念だからだ。この為、東京の欠点、しかもあらかたの地方都市が似かよいがちな点を、意図的に最大限なくそうと努力している茨城を、先進的なものと認めるどころか、想像外の意図不明な存在、即ち彼らの憧れである妄想の脳内東京なるものから遠く、魅力がないもの、という烙印、スティグマにあてはめることしかできないのである。そしてこの反応は、西日本人にとっては彼らの理想としている、彼らの貧困や惨めさからの解放であるはず妄想の東京を否定して不安に陥らせるものであるから、防衛機制的で、酸っぱいぶどうの論理、即ち都内の商業マスコミに偏見づけられた西日本スティグマの合理化でしかないのだ。海外から客観視してみれば、或いは都市計画学からみて、東京が誇大化したスプロール都市モデルとして失敗なのは一目瞭然にもかかわらず、である。
 また逆に、首都圏民においては、特に地方人の掃きだめ、余剰人口の捨て場としての下層階級スラム地区ともいえる東京圏へ自主的に集まっている人々にとって、妄想の理想生活を現実の汚い不条理大都市に裏切られた腹いせに、彼らが捨て去ってきた田舎、地方らしさをもつ対象を犠牲、いけにえ、スケープゴートにする需要がある。この悪辣な目的にとって、田園性を維持する、という西洋的な幸福ないし生活福祉主義的価値観は邪魔でしかない。東京人は勿論、殆どが貧困で最悪の生活環境において常に絶望し、或いは不幸を甘受しているが、そこから抜け出す事など到底できない。金がないのである。彼らのしたがる特殊な仕事は、その中には犯罪的なものも、あまりにガラパゴスなものも含まれるが、第一次や第二次産業内にはないのである。こうして、そもそも彼ら地方からはきだされた人々が文明とはみなしていないがゆえに優越感を安心してもてる「自然」を除き、或いは東京の心理中心である天皇という暴力団長が住んでいたという名義をもつ「京都」を除き、都市的ではないばかりか自然そのものでもない、という田園都市性をもつ中間地帯とみなした地域を、あらゆる確証偏見で嫌がらせ、いわば地方蔑視ハラスメントという皇室系中華思想お得意の門地差別犯罪で公的・メディア偏見的犠牲にしたてようとする。しかもここで重要なのは、その田園都市の最終目標物が地域全体のGDP比の最も高い東京である、という誤った前提に基づいて、「遅れた田舎」「やがて東京においつこうとしている、劣った地域」とその偽東京人、田舎あがりの人々はみなそうとする。勿論背後には、奈良出身の教祖天皇一門を尊師とした神道による洗脳がある。いうまでもないが、GDPが1位である事など、大抵の人々にはなんの目的でもない。政治に関心のない人間もいる。さらに、商業文化に対して嫌悪感しかない者がわが県民の殆どではないか。結局、皇室や旧公家、薩長等の旧大名や西東京人をはじめ、田舎上がり組はこの誤った前提すなわち経済・政治・学術の一極集中独裁という奈良時代以来の天皇中華思想へ周縁として一定の距離を置き(ここでは旧水戸学の尊王論をメタ認知している事をつけくわえておく。その宗教ないし倫理体系は旧水戸藩士系にとっては自明でも、他国ふくむ全人類的にはそうではない)、反東京、東京批判的という、どうやら地方から騙されて上京した彼らをばかしている茨城、栃木、群馬等の首都圏内における賢者集団を標的にしようとしていくのだ。
 なるほど、この試みはむなしい。上述の2つの類型、即ち西日本人であるか、または地方あがりの東京人であるか。この2つにあてはまり、しかも妄想の場所とあまりに現実の過酷なみにくさが違い過ぎた為に鬱状態になる東京症候群に陥り、東京圏に暮らしながら適応障害を起こした人々が、魅力度調査という名目で「東京批判的な茨城」を必死に陥れようとしていたのである。これは、二重の無知、二重の犯罪、二重の蛮行である。第一に、西日本人が東京マスコミに欺かれたのは自業自得である。東京都民は善人どころか単なる狡猾で悪質な商売人なので、宣伝活動は全て強欲、貪婪に基づいた傲慢な営利にすぎない。第二に、現実の東京を知った後で、先に現実を知りながら賢明な態度で世を処している茨城から素直に学ぼうとするのではなく、かえって自らの愚かさを正当化するためわが県や関東北部を無理に犠牲に仕立てようとするのは、まさに愚行である。この南蛮性は彼ら東京不適応症候群集団自身の救済どころか、自滅や自死を決定づけるばかりではない。真実を知らせない故郷の人々を欺き続ける結果、ますます世界人類を誤解させ、彼らの遠い田舎人達も東京模倣や東京スラムへの上京という愚劣極まるふるまいを継続してしまうのだから。
 我々はいうことができる。だからといって、西日本人や地方上がりの東京人達がその惨めなふるまいを反省などしないだろうと。恵まれた茨城を陥れ、退廃した東京を正当化し続ける結果、彼らの西日本も東京も最悪の結果になっても、破滅してさえ、この確証偏見を続けるだろうと。それほど、彼ら衆愚の悪と闇は深い。救済などしようがない。天皇家という縄文文明からみれば新参者である奈良のとある宗教権力者の、この島国への独裁一族としての野望は根深く、茨城県民にできる唯一の事は、衆愚を反面教育にする事、彼らのねたみや偏見や冤罪等のメディア、現実を通した愚行を完全無視し、或いは彼らの過ちの逆に進む、という当たり前の事でしかありえない。