2021年7月29日

茨城県・北茨城市版、罰則つき憎悪演説解消条例案

主張

1.五輪強行を期にネット世論などでネット右翼の一部がネオナチ(新ナチス)化・暴徒化し集団私刑をおこなっており、戦後日本最悪というべき非常に危険な世相になってきていて、ツイッタージャパン社など倫理崩壊した国内SNSもそちらに流されている

2.茨城県庁や北茨城市役所は、これを鑑みて、国より先に罰則・刑罰つきの憎悪演説解消条例(ヘイトスピーチ解消条例)を作り、県内・市内の外国人や異なる種族に由来をもつ人々(日本国内の諸種族を含む)の人権を保護する必要がある

3.その際、日本人の民族主義者が、特有の片寄った身びいきのため、国内制度の不備などについて公議する権利をも「反日」レッテルで侵害する危険性があるので、この部分で、茨城県・北茨城市版の同条例は、政治その他の制度や遺伝学的・文化人類学的民俗についての議論を憎悪演説に含めない、と但し書きをつける必要がある

上記を考えた理由

 自分は2020東京五輪開会式直前の小林賢太郎氏の解任をみていて、ホロコースト被害者を揶揄する権利がさも英米人の喜劇役者にはあるかの如く述べていたツイッターアカウントに、ヘイトスピーチ(憎悪演説)解消法の文脈で、それはいけないことだと注意した。いうまでもないが、その種の憎悪演説系の言動は、国によっては刑罰つきで違法である(例えばホロコースト否定論に対するドイツの民衆扇動罪。その他の西洋諸国での法律)。
 するとこのアカウント(以下・K)は自分へなぜか人種差別主義者の濡れ衣を着せだした。

 自分としても意味不明だったが、要するにその後の一連の経緯を見ていると、Kは端から悪意で憎悪演説をしていた人物で、さも日本人一般には憎悪演説しうる公然の権利があるかの如く、世論を誤導しようとしていたらしいのである。
 そしてこの理由づけとして、Kは薩長土肥とか天皇家が相変わらずもっているだろう西軍権術主義や天皇帝国主義を延長させ、戦争に負けたから文句をいえなくなっているにすぎず、そこで程度を伴う人権の議論など意味を為さないのだといいたいらしいのである。
 より端的に言えばKは「暴力以外なにもない」という或る種、極端な世界観の持ち主と分析される。暴力至上主義。見方によっては、Kの思想は戦前戦後の世界を含め、人の世に道徳のありかを認めない様なものなのだから、純然たる利己で動く野蛮の極みでもある。また人道の見地を暴力を振るって無視するので、無論、最たる危険思想でもある。

 多分、このKという人物は政治的現実主義と暴力至上主義を混同しているのだろう。戦争や権力行使といった政治の或る面を、多数派または武力による暴力という要素だけに異様なほど単純に還元し、倫理性、思想、文化その他複雑な要素を副次的要素にするなり、暗になかったことにして理解しようとしている、大いに片寄った考えともいえる。一方、当然ながら精神年齢やIQなどの一般論理的思考能力が低い人物にとっては、この暴力至上主義が少年漫画の悪役的で分かり易い面もあるからたちが悪い。

 それだけではなく、同時にツイッター上でKのとりまきのTやMらが群れてきて、彼らはさも、空爆の一種だった原爆投下と、人種差別・命の選別に通じるアーリア人至上主義と呼ばれる優生学に由来したヒトラーの思想(ナチズム、ファシズム)によるホロコーストとを、「虐殺」分類で無理に同列に並べ議論上混同させつつ、またも私に複数の冤罪を着せ始めた。
 国連や皇室は、日米両政府と共に、おもに原爆投下は戦時中でやむを得ない措置だったとの見解で、今のところ戦争犯罪説に至らず落ち着いており、例えばSWC(サイモン・ヴィーゼンタール・センター。反ユダヤ主義を監視する米国の民間人権機関)のエイブラハム・クーパー氏も、日本の雑誌インタビュー内でそう語る場面がでてくる。つまり、世界史ならびに国際政治上の通説で、原爆投下が戦争犯罪だったとはまだ学術的に定義されていないのである。そのため、クーパー氏も当インタビュー内で「もし戦争犯罪だったとするならもっと証拠が必要」と述べている(『新潮45』2000年12月号)。もし戦争犯罪と司法面で定義したければ、なぜ原爆投下が戦争犯罪に該当するのかについて国際司法裁判所などへいづれかの国その他の機関が提出する必要があるわけだが、戦争犯罪派の学説は、米兵ら連合国(国連)の兵隊を具体的に殺戮しているさなかに、国連側だけが日本軍へ手加減をして当然だったという極めて恣意的・利己的な立場を全く抜きに論証しないかぎり、国際的支持を集めるのは甚だ難しいだろう。事実国連側が被害最小化の為に原爆投下した結果として第二次大戦が終結したのが歴史上の事実で、もし当爆弾の投下なしにも日本軍が降伏していた筈だ、そしてそれを国連と米国政府・米軍らは事前に予見できたはずで手加減していなければならなかった、さもなければ過失だと述べるのなら、一体何を根拠にそういっているのか我々は知る必要があり、それらの確定的な史料なしに広島・長崎への大規模空爆を単なる虐殺と称するのは無理がある、というのが国際的通念なわけである。民間人を狙った時点で国際法(ベルサイユ条約)違反だという理屈をとる場合、例えば風船爆弾も一般市民を狙ったもので実際に米国側の民間人を殺傷しているとか、南京事件とか、慰安婦事件とか、その他、日本軍側の行いについて戦争犯罪として自ら断罪しなければ理屈が通らない事になるし(「お前だって論法」と言われるかもだが)、要するに、ここでも利己的・恣意的な立場から「日本軍側は正義、国連側は不正義」ととかく幼稚にいいたいだけではないか? と疑われる立場が、この原爆投下戦争犯罪派(原爆戦犯派)には確かにあるのだ。
 科学的・政治学的・世界史的・倫理哲学的に、緻密に原爆投下なるものの戦争犯罪性を論証する事は、知性を駆使すればできない事はない、但し国際通説となるかは定かではないというのが、クーパー氏の仄めかしている事ではないだろうか(私の推測)。もしそうなら私も歴史科学の実証性としてそう思う。だが、その程度の知性を持っていないからこそ、原爆戦犯派は単なる感情論的なナショナリズム(愛国主義、民族主義)の扇動に終わっているのが現状である。

 上記の前提に立つと、TやMらは欺瞞に満ちた日本軍の行いを庇おうとする自己愛妄想、自集団ひいきの妄想の様なものから、不当に国連側を敵視しているとしか受け取れない言動をしていると解釈されるのが国際・国内常識だと言って構わないだろう。実際、昭和天皇以後の皇室すら第二次大戦中の原爆投下について、戦争犯罪ではないという立場、いわば正当防衛空爆論(原爆正防論)で済ませているわけである。
 WGIPが現実にあったのか陰謀論に過ぎないのかはさておき、戦後日本人の一員として、原爆戦犯論と原爆正防論で、世界史・日本史等で後者が常識と習っているのは、決して偶然ではない。我々は国連の一員で、国際協調主義に基づいて新たに平和外交に立ち返って、他国に接する国へ生まれ変わった筈だからである。徳川時代も日本単位で平和外交主義だったわけだが、小御所会議で元将軍で主君であったはず慶喜公をみずからすすんで裏切った浅野長勲ら広島の殿様が、結果として、侵略主義者の吉田松陰や、征韓論者の西郷隆盛、大久保利通、板垣退助ら薩長土(鹿児島・山口・高知)の下士らの動きと共謀し、戊辰戦争で新潟・東北・北海道や関東を侵略、以後、琉球や朝鮮へと植民地獲得の暴走をはじめたのは歴史上の事実が示すとおりである。要するに広島の人達は、この小御所会議以後、みずから進んで西軍の侵略主義に協力してきた。明治政府を構成しながら。だから最終結果として最強米軍のハワイに奇襲して(ハルノート以後の米軍側の釣り込み作戦だとしても)、原爆投下でやっと侵略が止まったことになる。これが歴史的真実であり、広島人達は自分達を犠牲者かのように言うが、実際には、かれら西軍・明治政府の侵略で会津や南京やその他いろいろな場所で犠牲になった人達からすれば、原爆投下は米軍が代わりに復讐してくれた、という解釈になりうるのである。事実、望まぬ皇民化の強要される日帝植民地化から救って独立させてくれたのが米軍であり国連軍というのが動かぬ極東アジアの現実であり、原爆を落とされたから我々は被害者だといくら言おうが、広島の人達を含む西軍・日帝軍から虐殺や抑圧を小御所会議から絶えず受けててきた外ではそうは見ないのだ。これはWGIPとか無視して、冤罪被害をうけた慶喜公や松平容保公及び彼らを正義に基づいて庇ったのに一方的に朝敵のぬれぎぬをきせられいまだに靖国に合祀されていない数多の戊辰死者の立場から見てもほぼ同じではないだろうか。いってみれば広島にかぎっては、西軍に加わっての侵略三昧の因果応報が、最終的に原爆投下として返ってきたのである。幾らその悪果が悲惨なものでも、悪因の積み重ねが返ってきた時には手遅れなのが業というものだ。そしてあの爆撃以前には一度も、広島勢ふくむ西軍・日帝軍からの侵略は各地で一向に止まらなかったのが、歴史上の動かせない事実である。侵略される側からすれば一刻でも早く暴虐な侵略犯の息の根を止めねば家族がころされるのであるから、その手段を選んで相手に慈悲をとか、余程の聖徳の持ち主でもその躊躇の間に自分の身近な人々が悪意しかない侵略犯から殺されていくのだから、正当防衛の主旨で一発で解決できる方法をとろうとするのは、なんら不思議ではないというべきだ。その上で原爆投下が被曝者の現実からしたらほとんど道徳的に正当化できないとしても(自分はその様に思うが)、当時の戦争状態をかんがみ、特攻隊や人間魚雷などを使ったり、沖縄で集団自殺をあおっていた日帝首脳部は人道面で狂っているに等しい状態だったので、彼らの命令機関を完全に無力化するには当時最強の兵器を使わざるを得ないとした米軍側の判断が政治的に間違っていた、とも言い難いものであろう。事実として、原爆投下からさほど時間のたたないうちに、天皇らは降伏したのである。

 結局、K、TやMらは、自分のツイッターアカウントを諸々の冤罪を着せて虚偽告訴し、ツイッタージャパン社は彼らの肩を持つ判断をして、私のツイッターアカウントを凍結してしまった。
 その後もツイッターを観察していたが、彼らKらネオナチへ間接的に呼応する様な形で、ホロコースト否定論者(ドイツなどでは実刑つき有罪)のアカウントなどもわいてきている状況だ。
https://twitter.com/Doo401/status/1419080182636302343
https://twitter.com/Doo401/status/1418764649302925322
https://twitter.com/Doo401/status/1419075398562840582

 ホロコースト否認は主に欧州の国において違法とされている。フランス(ゲソ法)、ベルギー (Belgian Negationism Law) 、スイス (刑法261条bis ) 、ドイツ、オーストリア (article 3h Verbotsgesetz 1947) 、ルーマニア、スロヴァキア、チェコ、リトアニア、ポーランド(国家記銘院1998年12月18日議決法第55条)、ルクセンブルク などに存在する。イスラエルでも違法。カナダやイギリスでは、ホロコースト否認を禁止する法律はないが、名誉毀損や民族間の憎しみの助長やヘイトスピーチを禁止する法律がある。
 1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰される。オーストリアにも同様の法律がある。
――ホロコースト否認を規制する法律 - Wikipedia

これらの人々は、小林賢太郎氏の炎上に呼応して湧いてきたわけだが、ホロコーストがどれだけ悲惨な人道犯罪なのかをおそらく知らないか、知っていてもサイコパシーが高すぎ又は倫理教育が失敗しそれを政治論上容認してしまう(おそらくそのために降伏目的の空爆と、民族・種族絶滅を本気で混同してしまう、又は両者の違いを分かった上で詭弁術の中でわざと自民族中心主義的な一部の日本人を騙すため悪意で混同させる)のを含め、そもそも真偽不明な陰謀論へ容易にはまり易いほど批判的・科学的思考力の育成にも教育上失敗した人物で、極めて反国際社会的ではなはだ危険な分類に入るというべきだろう。
 敢えて彼らを分類すると、元々、自民党ネットサポーターズ・クラブと呼ばれるネット扇動部隊が作られた時から、2chまとめサイトなどを経由して、ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)が国内醸成されていたわけだが、彼らは安倍長期政権下で際限なく増殖し続け、遂には批評界隈ではビジネス右翼(ビジウヨ)、御用学者などと呼ばれる分類と合体しながら、自称愛国者・自称保守の群れとなっていった。この人達の政治思想は、絶対権力者状態だった安倍晋三容疑者(河合夫妻への起訴以前の贈賄罪容疑。戦争法、秘密法、共謀罪、退位法などの違憲立法の疑いが濃厚な立法の主導。その他、虚偽答弁などあまたの違憲・違法行政含む)を権謀術数主義で無罪の教祖として崇め奉るものなわけだが、いわば麻生太郎氏が「ナチスの手口に学んだらどうかね」云々と戦後平和憲法改悪について国民が気づかないうちそっとやっちまえという文脈で述べた強行論もそうだが、自民ファシズムだったのである。左派ははじめから安倍ナチスと呼んで彼らの悪政を非難していた。だがこの賢明な声は自民ファシズムによる戦後最悪の悪政の数々を「野党よりはまし」などと謎の文言で自己正当化しつづける衆愚からかき消されていった。その最終段階として、2020東京五輪にまつわる病的失政の数々が現れてきたのだが、小林氏解任の騒ぎの最中で現れたのが、この自民ファシストの一部がネオナチ化したおそるべき現象だったのである。
 自分は世論のアンテナをはりめぐらせていたので、恐らく日本人でも最も先にこの重大な瑕疵に気づいた。SWCは小林氏の過去の言動を非難し、間接的に五輪に彼を採用し続ける事の問題点という形で、彼らからみて誤った政治思想としての反ユダヤ主義のありかたを指摘したわけだが(ユダヤ系や、ユダヤ教徒側からしたら基本当然そうなる)、自分は、その後の日本語圏ネット世論の動きを見ていて、自民ファシストら極右の一部が暗に国際的極右のうち極悪系というべきネオナチと合流した瞬間に居合わせ、それを恐らく人類でも最初に人道主義ならびに真の日本の文明国たる威厳への貢献の見地から防止しようとまっさきに指摘したがゆえ、冤罪放火されまくったという本当に心底恐ろしい経験をした。
 どうもK、TやMらの主張をみていると、大和民族至上主義の様な優生学を暗に持っている風でもあった。ナチと何ら変わらない。ツイッター上でTらに絡まれぬれぎぬをきせられたので、自分が韓国の或る知人との友情をもちだして主権の相互尊重と侵略防止の義務が我々戦後日本人にはあると説いた所、Tという人物は「でも、あなたは韓国が大っ嫌いですよね?」などとどうもTは京都人の自称保守かなにからしいのだが、明白に悪意からナショナリズムに従わない者は敵とみなすみたいなイケズ系言動をとってきていた。常識的に解釈するとTの言動は意味不明だが、最大限客観的にみて、ネオナチ思想と類した極端な関西民族至上主義の類を持っているので、その大和人種優越論(Tらの中では京都人種優越論?)じみたものを否定してくる様な、一般日本人と韓国人との多国籍・多民族友情論などはT独特の自己愛妄想・仮想敵民族論の中では受けいられなかったということなのだろう。そしてこの種の自民族中心ナショナリズムが現役で生き延びているという時点で、Tは完全に時代遅れの中世社会にみずから取り残されたような状況なわけだ。実際、我々茨城県民からしたら、筑波だの日立だのに行けば無数に外国人研究者たちと交流しているわけだし、外国人労働者ぬきには農家も工場も成立しないわけだし、鹿島までくれば外国人サッカー選手らが神様になっている。攘夷論は過去の思想として水戸弘道館の扁額にしか生き残っていないと言っても過言ではない。植民地化を防止する手段論として、会沢安のいう「国体」、すなわち令制国統一論が今の日本国を作ったのは事実だが、それを超えて、外国人差別目的という風にこの攘夷論を捉えてはならず、単なる祖国の正当防衛理論だったのが、我々、旧水戸藩側としての見地で、実際、『水戸維新』をマイケル・ソントン氏に書かれるまでもなくあたり前にそうなのである。どっちかといえば水戸徳川家はずっと、朝鮮通信使と君子の交わりもしていたし、朱舜水先生も特別に瑞竜山に葬っているし、外国人に対し親切で、かつ平和外交主義だったのが確かである。烈公が米国留学を幕府に願い出ていたのも有名である。攘夷論なるものは、後世の目からは、阿片戦争での清敗北を横目に見ていた時代の、正当防衛論と言い換える方がいいだろう。そしてその種の危機がとりあえず去った今、それ以前からだが、我々茨城県民は、ユダヤ系の人々を当然含み、諸外国の全ての人達を、我々県民自身と同じ人権をもつ者として、同等以上に尊重する人道上の義務があるのだ。