2016年6月12日

水戸帝都論

 慶喜公に冤罪をかけ地位を追い、東国ならびにアジア侵略を行い、広島長崎沖縄はじめ日本人を大敗戦に巻き込んだ祟りのある天皇一家には水戸へ大人しく隠居してもらい一般国民とし、また新国会議事堂を全面ガラス張りで偕楽園内に設ける。現在世界2位の偕楽園そのものは、世界一の広さの都市庭園へと拡張、偕楽園皇居としてこれまでどおり、一般人も自由に出入りできるようにするべきである。この際、天皇家を国政からきりはなし、一般国民と同様の人権を付与した扱いとし、国家神道という一新興宗教法人として独立した活計を営んでもらうべきであり、一切の国税をこの水戸皇居に費やすべきではない。また皇宮警察は廃止、自らの身は民間警備会社によって自費で護衛してもらう。これを期に水戸を帝都と改称し、共和政としてわが国を国民の為の国民による政治へと変革せねばならない。国会議員の代わりに全国知事を通じた国会審議を行い、選挙は議会に出る知事をえらぶ地方選挙と行政をつかさどる大統領選挙のみとするべきだ。この2つの選挙は、地方の暴走を大統領が制御し、また大統領の暴走を地方が制御するという相互牽制の体制をとることができる。官僚機構はなくし、代わりにホワイトハウス同様に大統領が民間企業や民間人からその任期ごとに新人物を重用する。
 現在の京都府は以下のリンク先記事『リニアを京都へ』にみられるよう、
http://megalodon.jp/2016-0612-0524-09/kyoto-linear.com/news/about_linear
双京構想の実現

現役の御所があるのは,京都と東京だけです。日本の大切な皇室の弥栄(いやさか)のために,東京だけでなく京都に皇族の方にお住まいいただき,東京と京都が「双京」として並び立ってこそ,日本の未来を拓くことができると考えています。

双京構想とのたまわって東京と京都で今まで同様の中華思想的な独裁、地方蔑視体制を続けようとしている。だがこの構想は全日本国民の平等な地位を確保しなおすためにも、悉くくじかねばならない。それどころか、皇族を国政から追放し、慶喜家のおわす茨城において慰霊の為に家計独立させねばならない。国税に寄生した宗教家が独裁する国が不健全で前時代的なのはいうまでもないが、全県は県で統一、京都は山城県、東京は江戸県、大阪は河内県へ改称させ、他県を名称で格付けするような態度で門地差別できなくさせるべきである。

http://megalodon.jp/2016-0612-0524-27/kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/189/0002/18907030002017a.html
また『第189回国会 内閣委員会 第17号にある様な、京都側の地方蔑視の為の陰謀は是非とも国民が諸手をあげ挫く必要がある。
○泉委員 こういう集積があるということで、やはり京都、これからも真剣に文化庁の移転については考えたいと思います。
 これは当然、国会対応等々は、残る部分は残ったらいいと思うんですね。ただ、本体ですとか部署によって例えば移動できるものというのはたくさんあると思います。そういったことも含めて、ぜひ、関西文化圏ということで、我々も取り組んでいるのもありますので、京都を拠点にしてこの活動は今後もしっかりと取り組んでいきたいと思います。
 最後に、宮内庁にきょうお越しをいただいておりますし、官房長官にもお聞きしたいんですが、双京構想というのがあります。
 この双京構想、やはり京都は皇室と大変ゆかりが深いところであります。そういった意味では、年二回の園遊会の一回は京都で開催していただけないかというふうに思いますし、さまざま、かつて明治まであった行事、例えば五節句、こういったものについては、今はなくなっているわけですが、そういった宮中行事をやはり京都の中で実施していただくということを私はぜひお考えいただきたいというふうに思っております。
 例えば、東京の皇居を清掃すれば、たしか御会釈というんですか、陛下がお姿をあらわしていただくような機会もあると伺っておりますが、京都御所にもそういった清掃の奉仕団というのがございまして、そういった方々と皇族の方々が京都で、例えばそういった形で少しでもお姿を見られるですとか、いろいろなことが考えられると思うんです。
 ぜひ官房長官、この双京構想について御理解をいただいて、そして何らか、宮中行事を京都の方でもやっていただけないかというふうなことを最後に質問したいと思います。
○菅国務大臣 双京構想については、京都の行政、経済界、大学等の関係者より提案されている構想であって、皇室行事の一部を京都で行うなど、それによって皇室の方に京都にもお住まいいただき、政治経済の中心である東京と歴史文化の中心である京都を相並び立たせることを内容とするものであるということは、承知をいたしております。
 そういう中で、園遊会また宮中行事というのは、いずれにしても、これは、天皇陛下または天皇皇后両陛下が催しになります行事でありますので、まずは間近でお支えをしておられます宮内庁で検討すべきことであるだろうというふうに思っています。
 また、京都は、皇室にとって父祖の地であり、歴史的な結びつきが強いことから、天皇及び皇族の方々の京都府へのお出ましも、他の都道府県と比べて非常に多いということを承知しています。行幸啓等の際の御宿泊所として専ら用いられていました京都大宮御所も、耐震化工事が本年三月に完了したということでありますし、さらに京都への御滞在の環境も整ってきているというふうに理解をしています。
 そういう意味で、今後とも引き続き数多く京都にお出ましになられるのではないかなというふうに思います。

これらのあしき陰謀は、京都と東京という2地域が、天皇という奈良出の独裁血族の宗教権力を背景に全国民を見下す為の中華思想の産物にすぎない。我々にとって重要なのは、全国全県の地位の同等化である。そして帝都水戸の天皇政をさしはさまない全知事らの協議による新国会こそ、慶喜公の目指していた諸侯会議による全国共和政治なのである。
 この新政体にあっては、京都すなわち山城や東京すなわち江戸の文化だけをもちあげたり特別扱いすることは厳に慎まねばならない。全ての県は先史時代から続く独自の文化多様性を持つ。そしてそれらの文化は、天皇一族という独裁者の権威付けだの洗脳力だのとなんら関係なく、独自の意義と尊厳を持つと定めねばならない。


つくばシリコンバレー計画

 アメリカのシリコンバレーが成立している条件を茨城県庁は徹底学習し、つくばをシリコンバレーの欠点を改善した世界一のベンチャービジネス繁栄地帯にしていく事が必要だ。それに成功した暁には、世界のベンチャー企業がつくば市を主として茨城県内に立地しやすい世界最高の条件を徹底して構築し、わが県が世界の産業を指導していく立場につくよう、新興企業を県勢で作り出し又そだてあげていく勢いが必要である。

2016年6月11日

茨城地域主義

 天皇中華思想という関西や東京を毒している桎梏を超越的に無視する事が、今後のわが県の第一義でなければならない。
 茨城すなわち常陸は世界一の国を目指し、いずれ日本から独立する事を大前提に、単独で世界一の経済、学術、政治を実現する様、ひたすら自分より優れた地域から学び続けるべきである。
 国内に関して我々より経済力の低い、西日本のほぼ全ては先ず意見として容れない事。西日本の23県のうちでわが県より経済力のある地域は、福岡、広島、兵庫と大阪の4県しかない。原則として、これらの地域以外の偏見は眼中に入れなくてよい。また東日本の23県のうち、茨城より経済力の高い地域は千葉、埼玉、東京、神奈川、静岡、愛知の6県しかない。西と東をみてわかることは、西19県・東17県の計36県の無知に由来した、身の程しらずの中傷は原則無視し、わが県より経済力の高い地域の商業に関して我々より優れた点を学び取り、しかもそれを我々の県風にあうよう改善して用いることが必要だ。勿論、各地の商慣行に付随している欠点や汚点はさけねばならないが。たとえば悪徳や犯罪すれすれの商業活動で汚く儲ける、という通俗的で下卑ている大衆社会あるいは労働者社会の特性が東京、大阪、愛知等にはあり、千葉、埼玉や兵庫は他の都市圏に依存して商圏を形成している。これらは避けられるべき欠点であり、有徳で犯罪どころか公益になる商いに従事、あるいは茨城県内での企業活動に基づいて事業を行う、といった方へ改善していくべきである。交通網とか、都市構造などの経済合理性に関しては、わが県らしい美質、美しくも崇高な自然や偉大かつ雄壮な田園との調和や最古の縄文・前石器から続く悠久の伝統との関係などを汚さないように工夫しながら、どんどん他県あるいは他国で成功してきている事例を真似るべきである。
 学術に関しては、つくばに科学の集積地、そして今後は北茨城(将来は日立に編入されるかもしれない)に芸術の集積地、水戸に哲学の集積地といった各産業の集積拠点をつくっていくべきである。その際にも、芸術祭といったたぐいの一瞬で失われる祭りに金を費やすのはどぶに捨てる事であるから絶対にやめ、蓄積するほど福利が得られる種類の事業へ確実に投資しなければならない。もしその様な祭りをやりたいのなら、作品の永続性が確保され、わが県どころか世界人類史の遺産となるよう保全可能なものに投資あるいは該当作品を購買し、原則としてわが県で現に暮らす、芸術家自身をもちいるようにするべきだ。それも既に生活が可能になっている人より、まだ無名で、生活ができていない人々を。芸術を奨励するとは、結局のところ、その地域の芸術家が十分に生活できるようにすること、すなわち県民自身が自県あるいは自分の市の芸術家を励まし制作費をあたえ、それどころか積極的に彼らの作品を購買し、褒めて評判にしみなで受賞させ、できるかぎり多様な芸術家が生活に十分なお金をもらえて大量に暮らしていける状態にすることにほかならない。
 政治に関していえるのは、現時点で田中章雄の陰謀で煽られた愚劣な東京マスコミが盛んに茨城へ魅力度差別を行っている事を巧く逆利用し、優に8割を超える茨城の県民の生活満足度と誇りを啓蒙しあおりなすことで内外差別化を激しくしていくべきである。即ち郷土愛を啓発し、茨城地域主義を県民の政治思想の中に最大化するべきである。この種の内外の政治意欲の落差が巨大であるほど、わが県の政治力が強化されるのだ。いばキラTVや県民向けの広報等で茨城の美質を啓蒙し、しかも田中章雄のような外道に騙され県外民がわが県を誤解し、悪意をもてばもつほどに、わが県の政治的結束は高まる。天皇を通した外交、あるいは日本国への忠誠といった時代遅れのかんがえをまったくなくし、現実の茨城県知事がわが県民の最高権力者であり、それ以外の権威一切を認めず、しかも他都道府県はじめ日本国という外部組織からの不都合な干渉を最大限になくしわが県の発展に益する場合のみ日本政府あるいは他地域と少なくとも協調する事が、延いては我々県民市民1人ずつの政治地位を高めるのだ。その際にもわが県に不利あるいは不義をなすりつけるきらいのあるあらゆる悪意には断固として抗い、毅然と拒否する勇気ある県民をつくりあげねばならない。それが郷里を敬う魂、郷土の仲間と家族らをいかなる困難の前にも守り立てる茨城人の矜持、常陸国の独立した地位の威厳というものであり、どれほどまでも退廃した悪意と愚昧に染まった日本国民からも、それどころか他国一切にも触れられない、真の栄位なのである。

旧水戸学と天皇家の分析

 慶喜公の禅譲という聖断が長い目でみて、薩長土肥ら西国の経済的自滅と関西の自業自得の没落を結果したのが明らかである。天皇家の得意な武家を同士討ちさせる陰謀で、島津と混血した天皇一族は徳川一門と彼らを指示する民の領地を侵略した。ここからわかるのは、天皇は本質的にマキャベリストに過ぎず、権力を血族で延々と独裁する事しか頭にない帝国主義の権化ということだ。そして捏造した作り話、疑似科学による祖先崇拝の神話で関西人達を洗脳しきっている。奈良の宗教権力を一手におさめ天皇と中国語で名乗った暴力団一族は、縄文のもつ素朴な自然崇拝を破壊し、弥生式すなわち侵略してきた百済風の人工の社で民を騙した。この暴力団一家こそは中華皇帝あるいはイギリス王室を模し、独裁体制を名目的なものに偽装しつつ、天皇家の繁殖と最大限の贅沢、そして手段を択ばぬ地位の維持しか考えていない。茨城あるいは常陸の歴史は最低でも人がやってきて3万年以上、地形ができてから5億年以上の長さがある。そこからみれば、下らない自己中心的な嘘をかきつけ民をあざむきながら独裁者として侵略軍をおくりつけてくるばかりだった天皇家などは、まことに新参者の、しかも大多数に縁遠い人でしかない。徳川氏もその意味では新参で、こういった武覇をなした人々は少なくとも政権から去った。それが常陸の歴史だった。
 結論できる事は、天皇一門も所詮千年程度の独裁者としての経歴しかなく、遠からず滅ぶだろうものにすぎず、旧水戸学に於ける神道教義は単なる武覇の理論だった、という事だ。茨城は天皇という奈良の独裁一族に侵害を受けた第一の地域である。

2016年6月9日

関西・東京分析論

 カンサイ人、西日本人、東京人は、我々が想像するよりはるかに愚かだ。彼らは「建物」や「遊女」しか見えないのである。彼らはどれほど美しい自然を見ても、あるいは立派な田園をみてもそれが何か、何を意味しているかみてとることがない。なぜなら、彼らの地元である都市あるいは西日本人がテレビという紛い物を通じて洗脳された理想の都市であるはず東京と違うからだ。この東京という世界で最も退廃しているといってもいい、蟻地獄的性犯罪・自然破壊地域は、西日本人という低知能集団をまんまと欺き、商売できている為、己の悪意と無知を反省しようとは決してしない。こうして東京民は「自然」や「田園」を有する茨城以北の豊かな、いってよければ崇高な土地をごみ捨て場だとしか考えない。この悪意は天皇一族という中華皇帝を模倣した一家において完全なものとなり、己の住む都市以外を自己中心的に蔑視する。
 これがわが県と東京の報道の間にある齟齬の構図である。一言でいえば我々は驚くほど愚劣な衆愚に、千葉や埼玉を介して南部を接しているのである。そしてその集団の過半は国家神道という奈良発の新興宗教を狂信し且つ当の邪教祖天皇一門を盲目的に崇拝している為、絶対に反省したり、己の間違いを考え直したりはできないのである。
 我々茨城県民はイギリスはじめ西洋諸国における田舎愛好趣味的な考え方、自然と都市の調和を尊ぶ世界史的都市計画潮流と帰一だとはいえ、西日本並びに南関東のほぼすべての集団はそうではないのだ。彼らは相も変わらず、中華皇帝式の天皇崇拝から抜け出せないし、抜け出す理由もない。寧ろますます過密都市化を進め、韓国や中国、そして東京や関西の様な人口過密状態を理想視し続け、その結果として急激に少子化する。どの生物でも過密になると一般に生態異常が生じ繁殖率が下がる。江戸や平安京、平城京がそうだった様に、現東京は最も出生率が激減し続けている。そして殆どすべての貧困とほんの一握りの超富裕層(天皇家だ)へ二極化し、退廃的な生活の中で身売りや奴隷同然の下級労働、あげく浮浪者しかできなくなる。それが現時点の東京都だ。こうしてみていると、西日本人の低知能さはそのまま、必然的結果になり、教育程度の低さからくる過剰出生によって余った人口を東京圏に送り出し、そこで自滅する暮らしをさせ、東京都に金を吸い取らせる、という結果になっている(舛添都知事自身がその象徴だといえよう)。そのさなかで、あらゆる愚昧さをみせて我々はじめ彼らが追い出された田舎に似た特徴を持つ地域を誹謗中傷や蔑視し続ける。東京症候群(理想と現実の東京都のギャップの大きさに衝撃を受け蟻地獄に憧れていた愚かな自分を正当化して精神的平衡をとるため地方蔑視しだす)、田舎上がり合理化(田舎者だと悟られないように地方蔑視発言をして東京都民に同一化しようと偽装する)の2つの蛮行の対象は、どの道府県でもいいのだが、彼ら東京愚民はひたすら天皇家の虎の威を借りて違憲の言動に過ぎない門地差別、地方蔑視の言説を続けるのである。実際のスラムは東京だ。
 この現状を見るにつけ、茨城県のとるべき施策は、ひたすら不動の孤高を貫くことだけだろう。西日本人がどれほど蔑視をしてきたところでそれは彼らの誤解による悲惨な自滅をいざなうだけだし、東京圏人がどれほど差別を行おうとしたところでそれは彼らのスラム生活を少しも改善しないのである。茨城はひたすら己の幸福を追求し、退廃あるいは失敗している西日本、東京圏とは逆に、世界の一等国とその最も優れた地域から学び、南蛮西戎日本の衆愚を反面教師にしていればいい。幸運なことに、あるいは当然というべきか、茨城新聞の調べた通りわが県の子供はいまだ健全で、わが県の尊び守るべき美質を自然だと回答している。その通りでいい。東京や関西のスラム主義は彼らの目には都会人ぶりたいという天皇崇拝の一類型にすぎないが、全人類的世界のまなざしでみれば単なる愚劣なのであるから。
 極論すれば、西日本、東京以南・以西は終わった世界であり、衆愚政治化し、もはや治りようがない。衆愚に支配された敗北者である西日本、あるいは東京以西に対して我々にできるのは、可能なだけ縁を遠ざける事でしかない。茨城は、或いは茨城のみならず栃木と群馬を含め茨城以北すべての地方だが、南蛮西戎に誹謗されている間、寧ろ安全圏にあるということができよう。なぜなら退廃した衆愚が好む土地こそ破滅するからだ。他県からの評価を得ようとする限り、南蛮西戎の衆愚に媚びてしまい、ますますスラム化に近づき、状況悪化の結果しかたどらない。悪罵に対し内に顧みて疚しい処が何もないのなら、完全無視、ガン無視でいいのだ。そしてそれが南蛮西戎ネット衆愚の悪意、すなわち煽りに対する最善の対応なのである。田中章雄という悪徳福井人もこの種の偽統計、疑似科学によるネット衆愚の第一人者なのだという事が結論される。


2016年6月4日

北茨城市政ならびに茨城県政の目的

 世界的評価等に意味はなく、北茨城の市外貨あるいは茨城県外貨を確実に常陸国域内に入れ複利性の高い耐久財(優れて使いやすい蔵書や世界史的価値の高い建造物、美術品等)、なおかつ経年優化していく対象(海浜や渓流、河川、田園等の自然景物も含む)へ投資している事、しかも市内・県内消費量をましていく地産地消の拡張が、富の源泉である。この意味で、国際社会で名誉ある地位を占めようという日本憲法の理念は単なる錯誤にすぎず、なんら追従しなくてよい。同時に、県際あるいは市際社会での名誉というものも、嫉妬深く大和イデオロギーで優越者の足を引っ張る傾向のある大衆の間では、出る杭になるだけでどんどん損害が膨らむ。市政県政の目的を富に定めるべきで、それは幸福の源泉でもある。

2016年6月1日

市民図書館の屋上とテラスを全面開放せよ

 北茨城市立図書館の屋上と地上階のテラスを、絶対に普段からでられるようにするべきだ。市民のための建築であり、市民の憩いの場になることを目的にするべきである。
 屋上で息抜きができるところが最大の長所なのに、なぜ緊急時という百年(ほぼ耐用年数全部)のうち1度くるかわからないときしか解放しないつもりをしているドケチなのか。なぜ市役所員が市民を統制しようとしているのかがわからない。旧式の上意下達の悪弊はすべてぶち壊すべきである。
 そもそも、このような悪弊がはじまったのは、責任をとらないように逃げるお役所仕事、ことなかれ主義が原因である。ユニテ・ダビダシオンや金沢21世紀美術館を見学し、屋上庭園やテラスとの一体化の模範をみてくるべきである。学校の校庭やら市民野球場、市民のための施設がすべてお役所仕事で閉じられ子供が窒息してしまう。すべての公立学校の校庭、市民サッカーラグビー場もみな解放せよ。さもなければ市役所は今すぐ解散せよ。責任を取りたくないなら政府などやめてしまうべきだ。政府は市民の自由が最大になるようにしなければならない。高所から落ちる子供がいるのを心配するなら、川も山も道路も全て封鎖となり、要するに子供の遊び場をつぶす、または子供を産まないことしかできないのである。高い場所の危険を知ることが子供のためなのだ。わざわざ柵を作ってある意味がまるでないではないか。大人の休憩に益する屋上すら封鎖する。はじめから観覧テラス、緑や芝生を植栽し、屋上庭園としてつくればいい。


赤浜地区の再開発計画策

 旧北茨城市消防庁舎跡地には、津波避難用の高台を設けるべきである。メンテナンスフリーに近づけるため、耐海水鋼による建設が合理的といえる。
 また、歯の抜けたようになっている赤浜地区には市の条例で、浸水の見込まれる1階部分に居室を設けないよう、ピロティ(高床)法が有効である。インセンティブとして、ピロティ形式を採用した場合には報奨金を出すこともよい。この赤浜地区は将来的に高級リゾートまたは避暑地として再開発が考えられる為、今のうちに新築住宅向けにピロティ化を促進していくほうがよい。