茨城県が他の都道府県と比較してどう、という相対指標ではなく、県民と県自身が昨年、昨日、今日一日と比べてどう成長できたか、という絶対指標でその進捗を観察するがいい。他の評価は他の基準でつくられている以上、その指標を作る人の利害で占められている。茨城県民が東京都民や他の道府県民の評価指標に合致しているかどうかを気にする必要はない。逆に、外部から何らかの違和感のある点で評価されている状態は、それが自己評価とずれている限り、優れた状態とはいいがたい。茨城県が茨城県である、という事自体は、その時点ですでに最高の価値なのである。いいかえると、茨城県の理想とする姿は、必ず、他都道府県がそう思う姿ではないのだ。おそらく、東京都民、あるいは他の日本国民、そしてオリエンタリズムのまなざしから日本にくわしくない外国人は、国内で京都府を理想視している層が多いかもしれない。しかし茨城県がめざす社会は京都とはまったく違う社会なのだ。いうまでもないことだが、東京都とも違う。北海道とも沖縄とも違う。茨城県は茨城県らしくあることが目的なのであり、すでにそれは実現されている。
我々が理想化している理想国の姿は常陸国の時代から、他県民、他国民のうかがい知れない世界であり、現実にわれわれの世界がそうであるよう、すでに部分的に達成されている。それは繊細な自然の中にあるくらしであり、未来をみることのできる場所かもしれない。永久の安定した自治体制であり、最上の君主の最善の徳政による最高度の福祉の達成かもしれない。あるいは外部の影響を受けない独立性かもしれない。美しい芸術とともにある平和や、善意ある勇敢な防衛による誇りかもしれない。豊かな農作物、発展した産業のさらなる合理化かもしれない。だが、これらの理想の部分のどれ1つとっても、他者とは相容れないものだ。
人は他の評価基準と重なる点において偶然に評価されるものである。しかし他の評価基準も当然変わり、それは他人の人生範囲でみた自己中心的な視座でつくられているものにすぎない。したがって、この偶然的評価、つまり他者評価に基準をおくかぎり、その人が自分自身を自分自身が最高の幸福を得る方に向上させる事はできない。幸福追求権とはとりもなおさず、自己評価の基準を他に優先させる判断である。