2014年11月15日

茨城哲学

 極悪風説流布者田中章雄の県名執着度調査についてに示した様、極悪人田中章雄の操作した調査における県名と、地域の実態は大いにかけ離れており、たとえ弘道館を世界遺産に登録してもその極悪田中の指標が変化する可能性はほぼないだろう。

 私は2つの事を提案する。

 1つは極悪田中と東京マスコミの悪意ある地方虐めによる茨城県への誹謗中傷、名誉毀損、侮辱、風説流布、そしてそれに連帯した極悪日本衆愚の日々絶え間ないわが県民300万人への犯罪行為に対して、ブッダの様にひたすら耐え抜くという方針だ。そして一切の宣伝費用も打ち切る。これが最も費用がかからず、しかも悪意ある風説への対応として、適応的かもしれない。努力には3段階があり、物理的努力(例えば閉じ込められた動物が動物園の檻を脱しようとする努力)、工夫的努力(例えば開いている檻の隙間をこじ開けようとする努力)、目標的努力(例えば動物園でしあわせに暮らす事にする努力)のうち、我々は3段階目に達したという事だ。福井県出身の関西人である極悪田中章雄の首都圏分断工作の恣意も、また首都圏における経済成長率が第一位のわが県を悪意ある似非調査でけなし何とか極悪田中の関西圏との差を縮めようとしてきた極悪田中の暴威も、極悪田中から幸福な茨城県民・日本国民達を永年侮辱するという地方虐めの典型によって幸福度の最低級な極悪東京の傲慢を更に合理化しようとする悪業も、私は当ブログで解析してきた。今日に至って理解できたのは、この極悪田中の悪行は、なるほど寧ろ茨城県民に対しては何事もできない、単なる悪口による虐めという事である。東京都民の悪癖を世界に示す結果となり、東京への憎悪や怨嗟がますます強化されるという点で、福井県出身の関西人・田中章雄の罪業たるや正一位神階から義烈両公がこの風説に加担してきた全悪日本人達を地獄の底へ引きずりいれるに違いない。そして、公然と堕落した悪徳東京を批判する口実を与えてもらえるという点で、かつ茨城県民の郷土愛をますます愛県心として強固にする面で、極悪人田中の愚昧な醜行こそが我々茨城県民の徳ですらあるのである。即ち、我々の為すべき事は「中傷の無視と超越」である。

 もう1つは、県名を変更するという事だが、もし水戸県や水戸府、水都などにしたとしても、極悪人田中の悪業と悪徳東京民の中傷が終わる事は極悪田中の死亡及び地獄行き後と東京破滅後までありえない事なので、所詮意味がない事でもあるかもしれない。即ち、茨城という称を善美の意味でどれほど喧伝してみても、極悪田中の調査に組する衆愚層には永久に届かないだろう。群馬県と富岡市の関係を理解できないネット衆愚集団に何を言っても無益有害である。逆に、茨城県名の持つと考えられるステルス性を利用し通常の県民がなしえない事にわが県民を導くのが、上述の三段階目、目標的努力といえる。いいかえれば、「無名の自由を謳歌する」のがわが県民の最高徳である。