2014年11月13日

史学

芹沢 鴨(せりざわ かも、芹澤鴨、文政10年(1827年)? - 文久3年9月16日1863年10月28日)もしくは9月18日10月30日))は、幕末水戸藩浪士で新選組(及び壬生浪士組)の初代筆頭局長。別名は下村嗣司は光幹。本姓桓武平氏家系常陸平氏大掾氏一族である吉田氏族鹿島氏の当主である鹿島成幹の流れを汲むという芹沢氏[1]。父は常陸国行方郡玉造村芹沢の郷士・芹沢外記貞幹で、鴨(光幹)はその3男である。

生涯

出自

常陸国水戸藩芹沢村(現茨城県行方市芹沢)において、中世初期に興起した豪族芹沢氏から発祥し、関ヶ原の戦功により幕臣となり、のちに水戸藩上席郷士士分)となった芹沢家の当主・貞幹の三男として芹沢鴨は生まれた。幼名は玄太。

玄太は15歳で常陸国水戸藩潮来(現茨城県潮来市)の延方郷校[2]において医学を学んだ。このとき後年、和歌理想主義的な行動に発揮された豊かな文才を身につけた玄太はまた武田耕雲斎らの教えを受け、水戸学を修めていった。

やがて玄太は常陸国水戸藩磯原(現茨城県北茨城市磯原町)もしくは一説に同地松井村(現茨城県北茨城市中郷町松井)の神官下村祐斎の娘と結婚、婿養子となり、下村嗣司と称した(継司、嗣次とも)[3]。下村家と同じく神官野口正安(野口哲太郎正安)[4]の家は磯原で近所にあり[3]、のちに勅書返納問題へ関わることになる野口と嗣司はここで出会ったとされる[3] 。又このころ嗣司は戸賀崎熊太郎から教えを受けた神道無念流剣術について、免許皆伝を申し付けられ師範代を務めていた[3]

天狗党時代

嗣司は水戸学尊王攘夷思想を貫徹するため北茨城を出発、安政6年(1859年)頃、皇室から水戸藩へ直に下された戊午の密勅について幕府からの返納の命に応じようとする藩側の策動を阻止するため野口と共に長岡屯集へ関わっていたが(勅書返納問題)、万延元年(1860年)暮れ、彼は更なる尊攘過激派である天狗党の前身、玉造組へ参加した。やがて嗣司は生家のあった玉造村(現茨城県行方市玉造)を新たな拠点とし、横浜での攘夷を随時決行せんがため石岡潮来近辺の豪商豪農を回り、資金集めに奔走した。嗣司は玉造組の頭として約300名の部下を率いていた或いは一説に三万両ほど集めたともされ[3]、また天狗党指導者格の水戸藩士藤田小四郎とも連携していた。後の伯爵で水戸藩士香川敬三もこの時代、勤皇の盟友として嗣司と共に天狗党において活躍したとされる(後述)。このとき玉造組(天狗党)では、のちに嗣司の鉄扇に記されたスローガン(後述)を含む「進思尽忠」「無二無三日本魂」と記載された幟を掲げていた。かつ嗣司はこの頃から後世トレードマークとされた鉄扇(後述)を使用していた記録が残っている(『伊能家文書』)。

しかし、文久元年(1861年)2月、水戸藩領だけでなく天領でも資金集めをしたことや天狗党を詐称して攘夷を口実とする恐喝が横行したことなどから、幕府より水戸藩へ攘夷論者の活動の抑圧が指示され、藩の方針は転換した。天狗党に近い藩首脳が更迭され、代わって反対派の諸生党が台頭すると、玉造組は即時に弾圧された。4月には嗣司も佐原方面での献金強要の罪で捕縛され入獄した(『鈴木大日記』)。この際、死を覚悟した嗣司は絶食、獄中で自ら小指を噛み切り、流れる鮮血で次の辞世の和歌を記した[5][3]

雪霜に色よく花の魁て散りても後に匂う梅が香

このは自らの肉体の死後にも、尊皇大義は残るという嗣司の志を謳ったものといわれる[5][6]。嗣司は処刑を待つ身だったが、文久2年(1862年)、尊攘派の主導する朝廷は幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら(激派)が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。こうして再度天狗党が藩の政権を奪取したことから、12月、安政の大獄に関わった政治犯の釈放を目的に幕府から大赦令が出され、嗣司は水戸藩より出獄を許可された。一命を取り留めた彼はこの際、『常陸国風土記』の「芹沢村を通過する日本武尊が鴨を従えた」とする記述より、己が尊皇心も面目を新たに氏名芹沢鴨(即ち生家のあった芹沢村の鴨)へ改めたという[7][8]

壬生浪士組及び新選組初代筆頭局長時代

文久3年(1863年)2月5日、芹沢は清河八郎が発案し江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加し、六番組小頭に任命された。浪士組には、のちに壬生浪士組(新選組)を結成する水戸新見錦平山五郎野口健司、そして江戸の剣術道場試衛館近藤勇土方歳三沖田総司山南敬助らも加わって、京都まで行動をともにした。

23日、芹沢らは京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退した。この時に残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄根岸友山らも合流した。

3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを御預かりとすることを決めた。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)このとき壬生浪士組(もしくは、壬生浪士隊壬生浪士)を名乗った。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。

ただ、御預かりとはなっていたが当初は給金の支給がなかった為、4月になって芹沢・近藤らは大坂に下って商家から資金の提供を受けた。しかし、このような恐喝まがいの資金集めは会津藩の体面に関わることからのちに藩より公式な手当が支給された。

6月3日、芹沢・近藤ら10人が不逞浪士取り締まりのため大坂へ向かった。途中すれ違った相撲取りが道を譲らなかった上無礼を働いた為、武士の分を重んじた一行は斬り捨てずに打ち倒した。斉藤一が腹痛となり茶屋でその介抱をしていると、先ほどの行為に怒った相撲取りの仲間が樫の木の八角棒を持って茶屋の前へと次々押し寄せてきた。芹沢は表へ出て無礼には容赦なく斬り捨てる旨を言い放ったが、相撲取り側は樫棒で打ちかかってきたため抜刀し、一行乱闘の末相撲取り側に死傷者が出た(大坂力士乱闘事件)。この件は小野川部屋の年寄が詫びを入れ、ことは収まった[9]。その後壬生浪士らが大坂を往来する時相撲取りは道端に寄り挨拶するようになり、壬生浪士組は小野川部屋、熊川部屋の両年寄りと懇意になった[10]

同月、水口藩の公用方が壬生浪士組は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、この義理を欠いた行いに激怒した芹沢は永倉新八井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を強請して謝罪させ、詫び証文を取った。詫び証文は担当者の独断で書かれたものであった為、事の露見を恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得、芹沢は詫び証文返納接待を受ける事となり、嶋原角屋で大宴会が開かれた。ここで芹沢は誅罰のため大暴れをし、店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を申しつけた(角屋での暴挙)。

八月十八日の政変に際して御所の警備の為に近藤・新見とともに芹沢は隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士組を知らなかったためを構えて通そうとはしなかった。「通せ」「通さぬ」と双方が怒鳴りあう中、芹沢が哄笑しながらその只中に進み出て来た。会津藩兵が槍を突きつけると、芹沢は鉄扇でその槍先を悠々と煽いで笑った。兵達もさすがに彼の物怖じしない武士道風の演出に呑まれてしまっていると、会津藩の軍奉行が駆けつけてきて壬生浪士組を通せと藩兵へ命じ、先頭の芹沢は悠然と門を通っていった。人々は芹沢の剛胆さに驚いたという(『新選組遺聞』)。

この出動を機に会津藩は壬生浪士組へ新選組の隊名を与えた。

文久3年(1863年)9月13日、尊皇の義を奉る芹沢は隊員同志15名を率いて有栖川宮家を訪れ、自ら有栖川宮熾仁親王に仕えたい旨を申し出た[11]。なお芹沢の主君筋である水戸家出身(一橋家へ養子)徳川慶喜の母は有栖川宮吉子女王であった。

暗殺

文久3年(1863年)9月、ある酒席での芸妓小寅の無礼講へ義憤を覚えた芹沢は吉田屋へ乗り込み主人を呼びつけ、代わりに立った京屋主人に店破壊との引き換え条件として、職責不行届きの罰で小寅と付き添いの仲居お鹿2名を断髪させた[10]

同文久3年(1863年)9月13日、組局長の近藤勇は同じく局長であった新見錦[12]へ乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた[10]。翌日、吉田屋での事件が問題となり朝廷から芹沢の召し捕り命令が出たとした会津藩は、近藤へこの旨を密命した[13]。新選組幹部らは新選組(及びその前身壬生浪士組)の一創設者でもあり最高指導者たる筆頭局長芹沢捕縛に躊躇したが、近藤は組の主導権簒奪を目的に芹沢捕縛の命を暗殺命令へすりかえたという[14]。この芹沢捕縛命令について、会津藩にとって乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学を修め天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れを汲む芹沢を会津藩側が危険視したという説がある。また同文久3年(1863年)9月13日に芹沢は同志を引きつれ皇族・有栖川宮家を訪れ自ら忠勤を申し入れたことが宮内庁所蔵『有栖川宮家日記』の記載により明らかとなっており、この独断的な勤王行動が八月十八日の政変で尊王攘夷派を御所から駆逐して約一ヶ月しか経っていない、興奮冷めやらぬ中の会津藩を刺激した可能性も指摘されている[15]

9月16日、(「川瀬家文書」による。『新選組遺聞』などでは18日)新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎・平間重助・土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。

大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋へ押し入り、同室で寝ていた平山を殺害した上で、芹沢にも斬りつけた。芹沢は枕許へ鹿角の刀架けを置いていたが、驚いた彼は飛び起きて刀を取ろうとするも叶わず、襖を蹴破って縁側に出、そのまま隣の部屋に逃げ込んだ。そこに置いてあった文机につまづいた芹沢だったが、彼の逃げ込んだ部屋には、八木源之丞の妻と次男為三郎、三男勇之助の3人が床についており、格闘の煽りを受けた勇之助は右足に傷を負った[3]。暗殺者らとの猛烈な格闘の末、芹沢へ刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけ、立ち去った。一連の戦闘行為は相当の激しさを伴ったとみられ、現在残されたこの部屋の鴨居や柱には刺客のつけたとおぼわしき刀傷が生々しく残っている[3]

平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。

『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻・まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の『浪士文久報国記事』によると暗殺は土方歳三・沖田総司・藤堂平助御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方・沖田・山南・原田になっている。

組の実権を握った近藤らにより事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が水戸学の儀礼を重んじた神式へ則り、新選組の屯所を置く壬生村の前川邸にて、盛大に執り行われた。喪主は近藤勇局長が務め、水戸藩に仕える芹沢分家の人物らも駆け付け葬儀へ参列した。芹沢の遺体は紋付袴姿で木刀を差したまま棺に納められ、壬生寺へ埋葬された。壬生寺へ向かう葬列は隊士全員による荘厳なもので、寺にその先頭がついてもなお後方は前川邸を出発するところだった[3]。20日に近藤は事件の一連の経緯を記した手紙を郷里多摩佐藤彦五郎へ送っていた。

芹沢の墓所は京都市中京区壬生寺にある。

暗殺日についての考察

芹沢鴨の暗殺日については墓碑に倣い18日が通説となっていた。しかし明治期に発行された「七年史」や「川瀬家文書」等16日を暗殺日とする史料もあり、現時点においても暗殺日は確定していない。両日の典拠は以下の通りである。

  • 16日説
    • 七年史(北原雅長:啓成社ほか)
    • 川瀬家文書(川瀬教文:茨城県立歴史館所蔵)
  • 18日説
    • 壬生寺建立の墓碑
    • 新撰組顛末記(永倉新八:新人物往来社版)
    • 新選組遺聞(子母沢寛:中央公論社)


虚構中の芹沢

  • 芹沢の人となりについては昭和時代小説家子母澤寛の“新選組三部作”(『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語[16])等に描かれたよう、いずれもかなりの小説的な創作が入っていると考えられ、史料的な不正確がありえるばかりか明らかに作者側の意図的な偏見が含まれているだろう点で、歴史学的に大なる問題があったことへ留意する必要がある。
    • 芹沢は背が高くでっぷり太っていたとされ、色白で目は小さく描かれた。
    • 芹沢はが好きで昼間から飲んでいたとされ、酔っていないことはなかったとされた。
    • 芹沢を暗殺した当の近藤勇を贔屓した小説テレビドラマの中においては、水戸っぽらしく正義感の強い芹沢は逆に、手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれることが多かった。
    • 会津藩主松平容保へ嘆願に行く時に八木家から紋付を借りることになり、全員同じ家紋になってしまうと(公式の場ではかなり滑稽であると)八木源之丞が心配すると芹沢はまったく意に介せず笑っていたり、八木家から借りた火鉢をこっそり返しに来て火鉢に刀傷があったので問い質したら(隊士たちは酔って八木家の家財を手当たり次第に試し切りの材料にしていた)、「俺だ、俺だ」と頭をかいて逃げてしまうなど気さくな一面もあったとされた。
    • 八木家の幼い娘が亡くなったときには、芹沢は近藤と帳場に立って進んで葬儀を手伝っており、暇潰しに面白い絵を子供に書いてやるなど好かれていたとされた。
    • 新選組にまつわる物語として芹沢が起こしたとされる「本庄かがり火事件」がある。浪士組時代に、京都へ向けて出発した一行が本庄宿で宿泊する際、宿割の近藤勇が芹沢の宿を取り忘れたことに端を発し大篝火を炊く、という話だが、これは近藤の宿割の辞令が14日付ということが判明し単なる創作の可能性が指摘されている(分部家文書~『新選組読本隊士外伝所収』)。


史実上の逸話

  • 芹沢の中では誠に尊王攘夷の念が強く、その大柄な体格と居合い師範級の剣術の腕前で並居る侍中の魁偉と畏れられていた。数ある豪放な逸話群の他方では、尊皇の義を率い維新の先駆けとなった彼の卓越した教養と繊細な芸術感性の側面を示す例として、初代筆頭局長時代に北野天満宮へ額装で献じた、彼の愛唱であり絶唱ともなった和歌雪霜に色よく花の魁て散りても後に匂う梅が香」があげられる。なお、は彼の前半生の主君であった第9代水戸藩主徳川斉昭、及び水戸学の始原でもある水戸黄門こと第2代藩主徳川光圀が殊更愛でたでもあった。
  • 新撰組隊士永倉新八は『新選組顛末記』の中で芹沢について、「猛烈な勤皇思想を抱き、つねに攘夷を叫んでいた。大勢からは先生と呼ばれていた。それほどの才幹で、国家有事の時にむざむざと横死したことは、彼自身のみならず、国家的損害であるとは、当時、心あるものの一致するところであった。」と記している。
  • 芹沢は長身で恰幅が良く豪胆な性格[5]、豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士 芹澤鴨」と刻まれた三百匁(1125グラム、1.125キログラム)の大鉄扇を振るっていた[5]
  • 芹沢の天狗党時代の勤皇同志である、水戸藩士でのちの伯爵香川敬三は、東山道軍総督府大軍監として自ら陣頭指揮を執り、勤皇の志を十分果たせないまま近藤一派により暗殺された無念の芹沢の仇を取った。即ち香川は、自らが先駆けとなった皇軍により、一転追われる身となっていた甲陽鎮撫隊近藤勇流山で襲撃、出頭させたのである。
  • 芹沢の生家は江戸時代以降代々医業を続けており、現在の子孫も茨城県石岡市で診療所を開いている。いまなお家伝薬「筋渡し」が処方され続けている。また茨城県行方市芹沢には芹沢生家が現存している(内部非公開)。
  • 芹沢の生家がある茨城県行方市では、芹沢と平間、お梅の追善供養や、隊士パレード、殺陣演舞などを含む玉造座[17]演劇の公演等を兼ねた「なめがた新選組まつり」が毎年9月に行われている[18]


脚注

1 ただし、出自、出生年には諸説ある。たとえば島田魁の『英名録』には「芹沢又右衛門子」とあり、分家の出身ともいわれるが、水戸藩士の系譜を網羅する『水府系纂』に記載される芹沢又右衛門家の記述に該当する文言は見当たらない。なお、芹沢又右衛門家も祖先は芹沢外記家と同じ中世豪族の芹沢氏である。

2 当時、玉造に郷校は開校しておらず、既存の小川か延方の郷校のうち、距離的には遠いが兄が学んだ延方の郷校の方を選んだとされる。新選組水戸志士、芹沢鴨、2014年4月閲覧。

3 a b c d e f g h i 新選組水戸志士、芹沢鴨、2014年4月閲覧。

4 野口正安(野口哲太郎正安)は、日本三大童謡詩人の一野口雨情祖父とその弟西丸帯刀達の従兄弟にあたる。なお、のち玄太(芹沢鴨)の死後、ひと月後に正安も亡くなったとされる。へたな写真も数写せば当たる?、野口雨情生家(磯原)周辺と雨情の一族の話 、2014年4月閲覧。

5 a b c d NHK映像マップみちしる~新日本風土記アーカイブス、水戸弘道館 謎に包まれた男芹沢。2014年4月閲覧。

6 なお嗣司は同じ歌をのちに、京都北野天満宮にも献じた。

7 水戸藩には江戸時代最大の藩校であった水戸弘道館を中心として郷校が多数設置されていたが、玉造村には文武館が存在していた。養子以前の生家のある芹沢村から当該校舎へ通う道筋には梶無川があり、『常陸国風土記』にここを日本武尊が通り掛かり陸に上がった際に鴨を射ると弦の音で直ちにおちた、との記述があり「鴨野」地名の由来となっている。また彼の学んだ潮来の郷校であった延方学校には第9代水戸藩主徳川斉昭へ仕えた宮本元球なる学者が存在していたが、宮本は考証学者でもあり、いくつかの文献を残している。たとえば『常陸誌科』などには『常陸国風土記』の考証研究も含まれている。即ち、天皇の威光にひれ伏すこの鴨にこそ、自分の身を犠牲にしてものために尽くそうとする高い志、透徹したの念を嗣司は見たといわれる。司馬遼太郎も知らなかった芹沢鴨の謎、2014年4月閲覧。

8『常陸国風土記』の日本武尊に関する記述より、玉造町加茂地区には鴨の宮(神社)が存在する。鴨の宮は、もと玉造城北側にあったが、鹿島参宮鉄道(現鹿島鉄道)開業にともなって現在の地へ遷宮した。新選組水戸志士、鴨宮、2014年4月閲覧。

9 しかし大坂町奉行所与力内山彦次郎はこれを問題にして近藤を怒らせ、のちの新選組により暗殺されている。また内山を暗殺した者については異説もある。

10 a b c 永倉新八『浪士文久報国記事』

11 「新選組・芹沢鴨暗殺に新説 会津藩、無断行動に怒り?」共同通信、2014年4月閲覧。

12 ただし、新見はすでにこの時副長へ降格させられていた。

13 ただし芹沢捕縛の朝命とされる沙汰には勅書が存在しないため、真の朝命かそれとも会津藩や近藤側の捏造かは定かではない。

14 偏差値50からの【新撰組年表】、【芹沢鴨暗殺】、2014年4月閲覧。

15「新選組・芹沢鴨暗殺に新説 会津藩、無断行動に怒り?」共同通信、2014年4月閲覧。

16 いずれも中央公論新社から文庫版が出ている。

17 まちづくり市民劇団玉造座、2014年4月閲覧。

18 行方市、第9回なめがた新選組まつり、2014年4月閲覧。行方市、第9回なめがた新選組まつり、2014年4月閲覧。


参考文献