2011年1月30日

日立市立大学院大学の構想

日立市に一億の寄附が確約されたという記事があったけど、自分が思う最善の使い道は市立大学院大学などの建設を通して、いわゆる研究者への投資材料にすることだ。特に、工学の素は理学分野の偶有結合なので、できるだけ学際さをもつ理学専攻の大学院づくりが用いるにはいいとは思う。もつ日立市にとって。
がいままでの大発明者は学者タイプではなかった(器用さは知識量に正比例するとは限らない)ことから、職人系や技術者系の一般市民にも気軽に出入りし易いタイプの。セジマ氏の設計は明るく開放的なのでたてもの的には最も向いている。

次の議論は重要な社会学やそれ系の哲学の命題なのだが、「教育への投資は必ずしも経済上の返済へのそれではない」。つまり過剰投資になる場合もある。いわゆるオーバードクター問題もこの典型。
 又、マイケル・スペンスなどの経済学者がシグナリング(符号づけ)を正当化する理論をはやらせている。要は高い学歴への企業側の差別的人事や選り好みは符号が優秀さの目安になる限り合理的だというかなり単純な命題だ。
言うまでもないがこれはそもそも矛盾している。なぜならシグナルはそれ自体が社会的優秀さすなわち有能さの目安ではないからこそ特定の学習成果の証を誇示させるものだからだ。全く学習過程なしに同じ成果を上げる者(事実上はより手際よくということだが)は天性が勝る分だけより優れているといえる。

例。もしアインシュタインが小学校も卒業していなかったら人々は彼の理論を優秀さの証とみなさないか?

実はこのシグナリング理論は上の「教育投資の非十分条件さ」と連環している。結局、符号あれど無能、という場合その文化形質へのえり好みは事実上、無駄にして無益な作業でありいわゆる奇形化への前兆になっていく。
��生物学でいうランナウェイ仮説(暴走仮説)というものがある。孔雀の豪華すぎるとべない羽みたく「使えなさ」も自己目的化されると連続して配偶者側、特に雌からえり好まれつづけてしまうという理論だ。
 もし社会人事にもこの仮説が多少あれ当てはまれば、中身は使い物にならないが一定の学習課程への従順さだけががれた奇種、つまり「科挙種」が形成されそれは同系配偶により加速され、いずれは自身の無能さの故に淘汰され敗退するであろう。官僚主義の暗い面といえる。)

これらの見解は、自分の出すとりあえずの結論をいえば、『社会淘汰に任せよ』ということにおちつく。
法違反者への警告刑罰や、道徳行動の価値を無視はしないが、その根底な規律では特定の理説やイデオロギーへ偏向させず社会内での自由放任状態をまっとうに続けてさえいければ、無能さを覆い隠す偽のシグナリングも自然に奇種化へつながりやがては一連の役立たない習性ごと敗退し消えてしまうものだろう。
裏をかえせば最もよくないのは、群れを司る政治側がなんらかの特定イデオロギーで社会統制やら市場操作、あるいは市民干渉をはじめることだ。公共投資を否むわけではない。公共福祉に反する自由すなわち公害や我侭わがままも規制されねばならない。が単に、いまの菅政権が平気でやっている新卒待遇への贔屓のひきたおしなどわたくし企業間(勿論、学校もいまや法人なのだから)の人事問題へ介入しないことだ。公私分別が必要。
いいかえれば権利に於いて公私混同さえしなければいい。それこそが最も不自然な社会につながる限り最もおろかしい結末をもたらす筈だから。例えば植民地侵略や優生学の実践にかつてみられた類いの特定人種や形質への虐待とか。*1

もし女性に本当のかしこさがあれば、表面的なステータスや立派そうな学歴、こういったごまかしではなく真実の有能さを配偶者選びへの目安にするだろう。そして擬態された符号ではなく真実にすぐれた結果を残す血統書きにその名が入るだろう。
 日立が理学系の大学院大学*2をもし築けばそこへ研究者系の誘因が生じる。最低でも雇用は生まれるわけだから。
しかし、真に重要なのは他を勝る研究結果を残し実績を上げる事だから、世間に流行している学歴による能力擬態と軌一となってはいけない。なぜなら科挙種化による敗退へのわだちでしかないから。故に、自分がいち北茨城市民として思うに「開かれた大学院大学」みたいな先進的なモデル事業を期待する。一億だから気をつけてつかわないとすぐなくなる規模とは思うけど。

ちなみに北茨城市民は日立市内の図書館からは書籍を借りれない。早速門戸を閉じられていますね。

*1生物学のはやりでいう群淘汰思想の社会化はきわめて危いということ。
*2理学の土台は数学・物理学・生物学であり、その上の基礎として天文学・化学・社会学がある。新たな発明に役立つ素はこれらにある。故に設計や経営マネジメントなどの開発系の応用要素は先進工業地帯としての日立市場そのものに任せた方がうまくいく。

2011年1月26日

メディアのかたより

やはり東京というか江戸メディアは国際常識からとても外れていて「信用に足らない」。東京系のマスメディアのみで情報摂取している人々のあたまは9割がた狂っており東京偏見で洗脳されているといえる。

旧連合国からみた原爆ネタに激怒している方が笑える。何を深刻に批判したつもりになっている江戸メディア連中なのだろうか。自分らがアジアで何をしたかも、大英帝国やアメリカ人、フランス人らが植民地で何をしたかもわかった上で原爆ネタ返しとかなら真っ当とおもうが。
冗談の才能がないとは恐ろしいことだ。考えに余裕がないということだから。本当に反応すべきなら「で? 捕鯨船は引き返したの」というところだ。之で受けるなら本物だろう。

やはりBBCを入れるべきだ。あきらかにレベルの大変ひくい江戸系マスコミよりはるかにすぐれた見識を示していると言っていい。
 国際的というのは民族史も含めて全てを冷笑できる立場。国を客観視できればあんな些少な問題で大騒ぎするのは馬鹿げており、国際人権規約にまつわる精神的苦痛への遺族保障でも大使館経由で要求したほうがよっぽど為になる。

2011年1月24日

工場への定期検査条例案

以前、旧応援団blogで指摘されていたので市の広報が取材ははじめたみたいだけど、工場の排出物質なり原材料なり排出熱量なりを市の側で計算するか、かなり頻繁に定期検査する義務づけを条例で決めた方がいい。公害物質の定義も独自で決めたらいい。
工場ぬしがわからの提出義務では虚偽も十分可能性があるので駄目だが。
中郷インターチェンジ辺にも誘致したらしいが、一切中が伺いしれない独特な立地の工場も実は市内にはあり、極論すれば「非常に危険」である。

ひとたび事件が起こればもう手遅れだ。負のイメージがついてしまった某公害事件の市と似た轍を踏むわけにはいくまい。これまで共存共栄できていた風にみえたのも、小規模で比較的初歩な技術の産業ばかりだったからだろう。瓦づくり級の。

大体に於いて定期立ち入り検査の人員づくりだって一つの雇用創出なのだからやればやるほどよい。過剰なほどやればいい。安全率があがってもあがりすぎはない。
研究所のたぐいへ民間委託することもできるが、できるだけ癒着の可能性がない県内ナイシ近隣諸地域へ依頼すべきだ。それが誘因となって化学系学術能力の向上へもつながるだろうから。

2011年1月23日

No title

自分の経験からいうのだが、不況の最下点のころは学校の中がすさまじく荒れる。いじめは当然あるし、何より酷いのは教師が抑圧されているそのはけ口を生徒への八つ当たりにするところだ。要するに教師が暴力暴行なりを平気でしてくる。無知な生徒へ。

僕の場合、磯原中学校なるところで密室暴行を受けた。そのときの教師は 八重樫一夫 高野陽子 そしてもう一人は新任の若い体育教員系の男だった。その人物をみれば分かる。
彼らは僕らを一室に閉じ込め、正座させ、暴言を吐き、自白を強要し、脅し、挙句には僕ら生徒の頭などを殴る蹴るの暴行をし、僕を含む生徒の名誉毀損および侮辱をし、スリッパを投げつけ、黙秘権を蹂躙し、嘘をついて難を逃れた生徒を見逃しにし、虚偽含む自白を僕らへ強要させた。冤罪を含む暴行を当の教師から受けてあまりの不条理に涙を流した未成年者の僕らからの反論はすべて封じ、密室でくりかえしくりかえし頭ごなしに怒鳴りつけて少しも恥じていなかった。今も恥じていないに違いない。
彼らが生徒指導という名目でこれらの罪業を犯しながら、僕を含め不安定な思春期にあった我々の心の傷つきすなわち「精神上のストレス障害」へは一分たりとも賠償をしなかった。これは真実だ。

 僕がこういう経験をしたことから、いまの現状の磯原中学校その他の義務教育環境でも、同様よりさらに最悪な罪業が平気で犯されていると自分は確信している。倭人とはその程度の生き物なのだ。閉じた輪にいれこめばどんな罪でも少しも反省せずに行う。だから、我々がすべきことはその「風穴」をつねにあけ続けること、つまり外部批判と内部告発を徹底して続けることだ。

いま現状、あの頃の僕とおなじく磯原中学校その他の市内の義務教育環境で死ぬほど傷つきストレスのあまり自殺しようと感じている子がいるとすれば、その実情をどんな小さなことでもいいので、外部へ表現してほしい。このブログのコメント欄でも当然いい。とかく、親へ告げても駄目なら市や教育委員会へ、それでも通じないなら県へ、県でも駄目なら国へ、国でも駄目なら外国へ、大国へ国連へ、とその風穴を広げて悪邪をあからさまにしてしまうしかないのである。
いまの市でいう
http://www.city-kitaibaraki.jp/modules/government/index.php?content_id=41
このコメント欄へ本当にあったわるいことを書きつけるだけでも少しでも違ってくる。
��1年に3回「広報北茨城」に掲載の「私の提案」専用用紙のほか、
��「市長へのファックス 0293-30-1350」や「手紙」、下記の「メールフォーム」でもお受けしています。
こう書いてあるので手紙でも上告すればその教師への解雇なり厳罰なりが及びうるだろう。

以前の記事でも描いたが以下再掲する
県への相談はこのアドレス
keisoumu2@pref.ibaraki.lg.jp

警察安全総合相談センター
月曜日~金曜日8時30分~17時15分
��土日および祝日は留守番電話対応)
029-301-9110

他にも内閣府の総合相談窓口があった。
http://www8.cao.go.jp/youth/soudan/index.html

最終的にこれらによってあれらの教育機関をつくっている政の方が刑事罰の方面で動かなければ、まちがいなく自ら民事訴訟に及ぶしかない。

 自分はあの頃、その『起こったことを表現する』という行動に思いが至らなかった。だから今まで逡巡してしまったのだが、今となっては確かに分かる。あの頃の自分は無知だった。そして自己表現によって状況が変わるということが、子供らしさのあまり悟れなかっただけだった。

もしあの頃にもどれるなら、あの段階で某教師三人をあいてどって訴訟を起こせばよかったのだ。ただ一人でもその行動を起こせばすべてはもっと善くなったかもしれなかった。しかし自分は強い内向性のためにそれを抑圧して表に出すことはなかった。同じ様な性格をもった市民性に理解は及ぶので、出来る限り表現能力を高める工夫をしてほしい。詩をよむなり文芸を知るなり、あるいは美術音楽そのほか現にある表現の実例をみてまねる。既存の言葉、これをまねて自分の内面を表明するだけで状況は変わるものなのだから。人権として表現の自由は保障されているのであり、特に学校という閉じた社会でなにがあったかを精確に表ざたにしなければならない。あれは時によって、あるいはつねに悪の巣なのだから。

2011年1月22日

工学

 空気撹拌の機能もかねて、既存の扇風機の首をほぼ90°頭上迄あげられる様造るべき。エアーサーキュレイターを別に買うのはあまり合理的でない。

2011年1月20日

磯原経済学

 従来の経済指標では、
1.中古耐久財の取引(仲介業者なし)
2.市場価格のない財や奉仕
3.公共奉仕
4.持ち家の評価(家賃除く)*1
5.質の向上(つまり物量的でない向上)*2

は、算入されない。これらを磯原指標となづける。かねまわり中心社会からの脱却は、このことだったと定義できる。
��域内総生産\域内総所得)-磯原指標以外の価値
この値が高ければ高い程、その社会の実質家計は良い、と言える。こうして家計が豊かになることは必ずしも金回りのよくなることではないのだ。

*1 近代日本の特殊事情として、持ち家は経年劣化しか評価されない。しかし、イギリス等をみれば寧ろ「経年優化」と呼ばれるだろうantiqueの価格の方が優先されている。故に、主観的価格としても、今後の日本の住宅様式に依ろうとも、持ち家への評価は磯原指標に入る。
*2 質というのは、特に装飾や性能。機械や芸術含む。同じ物量をもった品物がこれらの質に於いて向上しても経済指標には算入されてこなかった。

人生の目的論

この世の目的は、「真理」だと思う。真理とは何かといえば、それは実証的数値だ。

http://file.kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/dd04c9f0.gif (市総人口の統計予測)
http://kabanobutaiura.blog.shinobi.jp/Entry/513/ (『かばの舞台裏』より)

これは一つの真理であり、否定する数値が出ない限り確かにそうなる。
 なぜ真理が目的かといえば、それだけが人類の繁栄の源だから。
この統計を知った者だけが正しい行動を取れる。そして真理の収集に遅れた者が衰退し、或いは絶滅する。

大学というしろものがある。けどその本質は論文制作だ。
大学には栄枯盛衰がある。だから大学やそこでえられる学歴はこの論文制作の付属物でしかない。
論文には形式(つまり書き方)があるが、みて容易にまねできるものでしかないし、守らなくてもよい。それらの書き方には時代の流行はあるが、重要なのは「真理を記述してある」こと。法則や統計など実験でくりかえし検証できる数理の記述方法にはいろんなものがあるが、どれもよくまとまった論文をつくりあげる為でしかない。
つまり、優れた論文を書き上げる為の条件づけ、癖づくりの為だけに大学や大学院へ進むまでの教育機関は本来あるので、決してそれらへの進学行動が目当てではない。優れた論文さえ書ければ、一切の教育機関はなくてもいいと言える。但し、多くの場合は、同種間競争のよい側面を伴いがちなので同じ研究意図をもった人々は集まった方が効率がいいということにすぎない。

結局、真理を探求することが人生の目的。その論文を集める習性こそ、彼らを繁栄に導く。北茨城にあってもやはり同様。


追記・この小論は極論すぎるとおもう向きもあるだろうし、実際にそうかもだが、この小論で書いた人生の目的は「科学の時代」が終わったあとでやっと突き抜けられるものだろう。いまの段階では工学からみちびかれた各種の製品や奉仕をもちいて、より進歩した生態から社会的に搾取される、という資本経済の国際環境があるので、それにのりおくれるか先んじるかの違いしか生存競争のなかみはない。カントがいう『合目的性』はそれ自体が目的である美を一般の他のいきものや生態とおなじくめあてとしているが、残念ながらそれは遅かれ早かれ駆逐される価値観らしい。ただこの進展のなかでつかの間みられるのが美という一種の中庸的極点ということなのだろう。
わかりやすくかけば、川の流れはたえずしてその流れはもとの淀みにあらず、ゆえに川のうつくしさはいまのうつくしさにあらず、ってところだ。この川の流れそのものは「科学の時代」がつくりだしているのであり、その源が尽きる(科学の進歩が終わる、又は計算に限界がくる)ときまで美というものは気のせいでしかない。むしろこの美に気をとられないようにしている生態のほうがかえって目的を穿つ機会がふえてくる。それは上流からながれだしたどんぶらこっこな桃がどこでも桃なのに似ている。重要なのはこの「桃」つまりうえの小論でいう「真理」であり、この真理があればあるほどその川は美にちかづく。
 かなり抽象論ってか形而上論になったが、カンタンにまとめれば勉強せよということなのだろう。
そうすることで川はよりよく流れだし、淀みなく社会的な美としての経済を主導し推進させていく。結局、真理はその社会経済という生態をみちびきくる素であり、この素が沢山あるほど場所が潤う。だからこの小論でいう目的は、学術およびそれをくみたてた社会の素を目的とみたてていることになる。その意味では原理的だ。文明原理的といえる。こういうわけで「非文明主義者・反文明主義者」にはこの論拠へは納得できない点が多いだろうし、実際タヒチに渉ったゴーギャンや奄美大島へ渉った田中一村みたいなかねもちや否定文明人はいたので、仮に従った方がよいか部分的に従わざるをえないにせよ従わなくともよい。
よりよい素をもっているほどそれをつくりあげた姿がゆたかになるのもまた確かなので(但し十分条件ではない。なぜならより大きな集団がなければ当経済がはやる社会の総体は小さいからだ)、プラトンのイデア論に似ているがこの真理目的論は一種の価値観として科学の時代のものだといえそう。そして実際の国際社会な闘争がそうなので、科学の時代がおわるまでは支配的理説になってる可能性が高い。
ということで、次の時代の価値観がこの真理目的論をのりこえていくのを望む。尤もそれには先ず真理目的論をみにつけ、生き残るしかないわけだが。