2017年3月21日

納豆早食い世界大会についての留意事項

 水戸納豆早食い世界大会は、滋賀県のJA東びわこ(本店・滋賀県彦根市)が同市安食中町の彦根総合地方卸売市場で開いた農産物PRイベント「ふれあいフェスティバル」「おにぎりの早食い競争」で参加者が2016年11月13日にのどにつまらせ救急搬送され、3日後に死亡した事件を反例に、健康に留意し、高齢者か年少者、あるいは健康にさしさわりのある人の参加を制限し、かつ、万一のどにつまらせたときの救急体制を安全値がさらに高くなるように日々構築していくべきだろう。

おにぎり早食い競争参加者が死亡 滋賀・JA催し、喉詰まらせ

 JA東びわこ(本店・滋賀県彦根市)が13日に同市安食中町の彦根総合地方卸売市場で開いた農産物PRイベント「ふれあいフェスティバル」で「おにぎりの早食い競争」に参加した同県甲良町の男性(28)がおにぎりを喉に詰まらせて救急搬送され、3日後に死亡していたことが21日分かった。

 JA側の説明によると、同競争は近江米のおいしさを知ってもらう目的で開き、15人が参加した。おにぎり5個を用意し、3分以内に食べられる量を競うルールで、男性は5個目を口に入れ終わった後に倒れ、たまたま居合わせた医師や看護師が救護して救急搬送され、16日に亡くなったという。

 JA東びわこは「アクシデントが発生し、午後のイベントを中止した」とする「お詫び」を14日付でホームページ上に掲載した。担当者は取材に対し「遺族には誠心誠意対応している。死亡について公表する予定はなかった」とし、「(喉を詰まらせないよう)お茶を用意するなど安全に配慮しており問題はなかったと考えている。事故が起き残念。今後このようなことがないようより一層注意を払いたい」と話した。『京都新聞』【 2016年11月22日 06時53分 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20161122000010



戦略論

 東京以西を仮に西国か関西と定義すると、東京を含む西国・関西に対応するには完全に勝利するか、間違った方向で勝たせる、どちらかしかない。例えば経済力や学力体力で勝る事、民度で勝る事は正しいとわかるかもしれないが、犯罪率や虐め発生件数で負ける事も関西西国に不利な正しい戦略である。なぜなら西国は弥生民族の侵略者としての由来から日本国内で遺伝的に少数派であって増殖戦略として自己利益優先的で勝てば官軍と思っているにすぎないからであり、東京圏はピラミッド状の公徳についての等級を仮定したとき低教育で生活可能な労働階級の構成人数の多さから正否や徳に気づかない驕れる衆愚にすぎないからでもある。
 魅力度は宣伝性の観光指数であり、どちらかといえば相手に全てを知られたり内情を見抜かれたりするより県外人に誤解させて共有地の悲劇になる事を避けたり、知られない為に情報の非対称性を生かし政治的優位に立つ方が正しい戦略である。そして質の高い観光集客、高級客およびリピーターが多い為に評価力の高い地元客に宣伝戦略をきりかえ、大衆的な一見向けの外来観光市場、つまり浮動客向け大衆観光市場は原則として捨てていく事が有益となる。魅力度が低いと大衆及び西国に思われている場所を選り好む高質な固定客は茨城のブランド化に際しても有利な標的となるだろう。端的にいうと、支払いや趣味の良い顔見知りに対して極めて高品質な親切を行い、そうでない大衆的な外来客の風説(東京の会社による西国人の一部のネット衆愚風説を集めた魅力度調査や東京都のキー局報道の類やそれらに煽られた衆愚)に一々対応せず原則無視する事が重要である。なぜなら、これらの虚偽の風説は、誤解の面紗によって却って善意で美質な茨城を神秘化させ、衆愚に対しては忌避効果を持つ上、ますます既にわかっていそうで知らなかった茨城県民や茨城県の本質に対しての二重性、つまり内国的な情報の非対称性を拡大させていくからだし、国内にも関わらず全く知らない、知られていないという事は、他の日本人に対して最大に有利なのに加え、外国人に対しては日本の持つブランド価値を初期状態で利用できるという点で、茨城人の立場を更に知恵ある者と化し、いわば茨城県の神格性に寄与することができるからだ。

2017年3月20日

若年層財政支援論

「成長と格差の縮小は同時にやるべきです。まず成長、その後に格差に対処するという考えは間違っています」
「日本は若年層を優遇する税制に変更すべきです。特に、資産が少なく、労働所得しかない若者を優遇すべきです。若者が多い非正規雇用の待遇改善も重要です。これは、格差の縮小だけでなく、人口増加につながる政策です」
「若い世代が子供を持つのを支援することは、日本の長期的な経済成長にとって極めて重要な課題なのです」(2016年2月2日(月) WBS、ワールドビジネスサテライト、テレビ番組)
ピケティ氏のこれらのせりふは、茨城県に関しても同様にあてはまる。県政は先ず格差の是正、そして若年層への傾斜的調整をはかりつつ、内部人口の自主出生による増大をめざすべきである。他方、つくば市にあまたいる外国人研究者に対して国際通義に照らし二重国籍を認め、帰化の支援を図るべきだろう。移民排斥におちいるのではなく、単に高齢者に偏った資産の若年層への調整、世代間格差の是正を行う必要がある。個人消費の半分は全人口の3分の1いる60歳以上世帯で占められ、個人金融資産1700兆円の8割は50歳以上が独占している現状で、すでに遅きに失しているにせよ、さらに手遅れになるまえに若年層への財政的経済支援は必須の政策だといえよう。

 日本に存在する金融資産1500兆円のうち高齢者が82.4%を保有し20代はわずか0.3%

茨城財政戦略論

 ピケティ『21世紀の資本』のr>gは、return of equity:株の配当、growth of economy:経済成長の略で、資本収益率>経済成長率というよりややこしい訳にされている。
 また、岩井克人『経済学の宇宙』(2015年)によれば、資本成長率とはr×s(sは恐らくsave of moneyの頭文字、貯蓄あるいは貯蓄率)で、ピケティの式は正確にはr×s>gであるという。つまり株の配当と貯蓄率をかけた値が、経済成長率より大きい、として当数式は考えられるが、実際はrs ところで、私の見解では、幸福な社会とはr≦g、gがr以上、つまり株の配当より経済成長が大きい、経済成長率が資本収益率以上であるような状態の社会である。そしてr>gである社会は不幸な社会だ、と定義できる。なぜなら後者は相対所得の開きによる格差にまつわる負の感情、痛みの感情であるねたみとか、地位財の低さによる惨めさを感じやすく、その裏返しとしてうらみ・resentmentによる村社会的な攻撃性とか妬む対象への集団虐めによる卑しい喜びが発露されやすい状態であるからだ。裏返せば、幸福な社会ではねたみが生じづらい上、以前貧しかった人達が相加平均的に、つまり殆ど等しい歩調で成長していくので、他者の幸を己の事のように感じる機会がふえるのである。調度、よい学校や部活でみなが努力し成績をあげていく、切磋琢磨の状態に近いといえるだろう。
 これらの議論は、究極のところ、アリストテレス『ニコマコス倫理学』でいう配分・調整的正義の議論に戻る。rとは配分、gとは調整の正義に関する観点だと考える事もできる。ピケティはフランス人だが、古代ギリシアの政治学的伝統を、マルクス『資本論』の搾取に関する議論、労働価値説を上空でとびこえて、bypass的に通過してしまいつつ、再び経済の議論に接続させているのだ、ということができる。だから、一部の論客はピケティが資本主義という経済論の趣旨を逸脱している、財政問題と混同している、よって共同体主義者・共産主義者・communistにすぎず、新自由主義とか自由至上主義・libertarianismとか自由主義の純粋経済論としての側面を越権していて、端的にいえば有利な立場であり続けられるはずの資本主義信奉者、株主に不利な論者にすぎない、と難詰しているわけだ。更にいえばピケティは英米ユダヤ的な個人主義に対する反論者とみなされているといえよう。だが上述の様、これは伝統回帰に過ぎない。アリストテレスは商売と財政が不即不離か、もしくは相見互い、互助的であるとみなしていたからだ。
 話を進めると、労働というものについて、私は次の様に定義する。労働には大まかに2つあり、生産労働と搾取労働が存在する。前者を生産、後者を搾取と定義する。そして生産とは農漁業と工業が該当する。いわゆる農工、つまり第一次、第二次の産業である。他方で搾取にはサービス・奉仕の業態を含む商業、不動産業、株・為替業が該当し、いわゆる第三次産業を意味する。これらのうち、生産にあたる農工業を市場に作物や製品を出す前の生業を純粋にみてとると、収穫のほか、物々交換や寄付が実質的な生産物の交換である。これらをここで無償所得と定義する。また商活動のうち、製造物の卸売り、小売、物品を介さない単なるサービスの提供、徴税にまつわる活動と行政サービスとしての福祉活動(ここには図書館や博物館、美術館などの行政機関での奉職、自衛隊や警察による防衛活動、宗教法人上の収益性のある活動、立法・行政・司法の全ての働きを含む)、そして貿易を、搾取と定義したわけだが、これはNPOによる非営利活動に際しても、集団の上下関係や能力差、そして主客の立場により、人が働く事によってより富んだ側がより貧しい側から金銭を移動させる場合が基本的に全てだから同集合に含むのである。もし微視的により貧しい側がより富んだ側から奉仕を受けたとし、それは寄付的・慈善的な活動とみなせるとして、全体として例外的であって、上述の無償所得の場合に比べて、金銭を介して継続的に何らかの富の不平等性を結果させるという意味において、対価を要求する意味で乞食、あるいは搾取という用語を労働価値説の定義から引いて、やはり同集合にあてはめよう(共産主義やマルクスへの偏見を持った人々がなんといおうと、或いはピケティがなんといおうと)。この搾取のうちにある商活動を勤労所得と定義する。また、搾取には他に不動産による家賃や土地代からの収入、そして株や為替における差額を売り買いのうちに儲けるか、株主配当をえる事による収入があって、これらを最後に、不労所得と名づける。まとめると、次の様な図にすることができる。
労働ー生産ー農工ー収穫、物々交換、寄付ー無償所得
   |ー搾取ー商ー卸、小売、奉仕、福祉、貿易ー勤労所得
         |ー不動産、株、為替ー不労所得
ここで、累進課税は所得の種別に不労>勤労>無償の順で、不労の方から大きく徴税し、無償からは限りなく免除しなければならない事がわかる。これを累進課税度、或いは累進課税の調整的正義と定義しよう。宗教団体への寄付は、宗教法人が対象である場合、蓄財による収益性があるとみなせるので、勤労所得にあたるという事になる。自営業者も営利性がある為に勤労所得がある。ここでは、金銭による蓄財が不可能である類の所得を、無償所得と定義してある。より厳密には、文化資本、非地位財的な資本、例えば土地資本だとか勲章、賞など何らかの名誉に関する資本、技術資本、人的資本など、蓄財性を換金可能な形態で保持している場合があるだろうが、これを「準資本」と定義し、無償所得の中で課税検討に値する例外とみなそう。資本とは資産とか株、より日用語ではたくわえといいかえることもできる。ピケティがr>gの不等式で指摘していたのは、利益÷投下資本によるreturn of equityが4~5%程度なのに対し、経済成長率は1.5%程度(1~2%)程度であるという認識による、不労所得>勤労所得>無償所得の順でより蓄える効率が高い、という分析だったのであり、これは配分的正義の理法であって、財政的には徴税による結果の所得調整をめざし、累進的に課税しなければならない。そして幸福な社会とは、無償所得、勤労所得、不労所得の順で実質的効用が得られる状態をさしている。今のGDPは企業の消費が、三面等価の原則、つまり生産・配分・支出の等価性を前提に算出基準とされているが、これは実際のところ、実の豊かさ、実質的な価値の効用性を測る数値ではなく、単に企業活動の活発性を意味にしているに過ぎない。特に無償所得に関してGDPの外にあり(磯原指標で示したように)、tax haven・租税回避地を国際的囲い込みでなくさない限り、不労所得に関しても余りあてはまらなくなっている。つまりGDPとは勤労所得の値に関するかなり曖昧な指標なのだということができる。
 アリストテレスの正義論における配分・調整の両正義は全体的・普遍的正義に対して部分的正義の枠内で定義されている。従って不労>勤労>無償の順に累進課税すべしとは、部分的正義のうち調整的正義に関する理論だといえる。なぜ累進課税度が必要かといえば、g≧rが多数者の幸福に感じる社会だからで、最大多数の最高幸福に該当する状態だからだ。脳科学の見地からいえば、前部帯状回は妬ましい他人を認知すると己に痛みを感じさせ、その相手の不幸で線条体が報酬系の快楽をもたらすという(放射線医学総合研究所(千葉県千葉市)による研究)。いわゆる人の不幸は蜜の味という諺に該当する脳の反応だが、r>gの状態では地位財を保有する超少数者が虚栄心を満足させるべく浪費し、顕示的消費に対する多数派は不平不満をねたみによって常に持ち続ける状態となり、不幸感が増す。北欧圏が社民主義、民社主義的な社民党の与党化によって所得の結果調整を行い、不幸感を感じにくい社会にしているのは、これらの見解をつぶさに見ていく限り、極めて賢明な事だったといえよう。対して米英圏はユダヤ財閥が主導してきた配分正義への極端な偏りが顕著な社会であり、この傾向はglobalismやAmericanism、或いは英語帝国主義、米国第一などの覇権主義的な傾向、Hegelismによって増長されているが、西日本の南西地区、薩長土肥は薩英戦・下関戦以来、彼らの利己的な社会構築を天皇に媚びるか天皇を駒にする形で継続してきた。自民党は薩長藩閥の明治寡頭政を内的に体現している、天皇帝国主義の野望を吉田松陰から陰に陽に引用している政党であるということができる。実際のところ勝てば官軍とはwinner takes allという海賊のやり口にすぎない。つまりは無法者の蛮行なのである。植民地主義や侵略主義という松陰の野蛮な理法は、米英の保守層が持つ愛国的な利己性や、司馬遼太郎に洗脳された西日本・すなわち西国の底辺が持つ明治懐古趣味を通じ、開国信仰(既に日中韓の学者間の共同研究により、明治時代より江戸時代の日本列島の各地の方がアジア及び国際的な平和外交の態度であったし、あるいは平常の貿易が活発だったのが証左されている為、薩長藩閥による反徳川の悪意ある汚名に過ぎない)、globalism信仰、貿易信仰、自由経済信仰のなかに形をかえて展開し続けている考え方である。福沢諭吉という大分出身の下級武士が、九州山口高知のもっている反中央的かつ弥生的な裏返った反日の敵愾心、反逆精神を引いて、脱亜入欧を唱えて脱構造主義以前の民族差別を中央政府の東京界隈で成り上がる方便にしていたり、西日本各地の人々が坂本竜馬という小説上の人物が東日本各地を侵略殺戮した薩長兵の日本人殺しの武器を己の利益のためにスコットランド商人から売り買いした事象を美化していたりするのは、華族制度や西国系政商への利権誘導、薩長寡頭制下の天皇帝国の建設による新たな身分差別をもたらしたにすぎず、要するに恨みに過ぎない。『明治維新という過ち』を書いた原田伊織は誤解しているが、旧水戸学はこの種の松陰的侵略主義を意図していた事は一度もなく、専守防衛や象徴天皇の元での国会を主張していた、戦後政府の理念に寧ろ近い、より先駆の考え方だったといえる。いずれにせよ、安倍・麻生家が表向きどういおうとも彼らの日本史上の実質目的は皇族閥と薩長藩閥による二極化、つまり天皇主権と国民奴隷化を松陰の引いた中国的な一君万民論(つまり皇帝制。『極東史』で示したよう天皇家の先祖も弥生系の中国江南人だが)で推進しつつ、米国の軍事の傘の元で安倍・麻生家の構成する皇族閥が天皇家を中心とした諸財閥の元で格差社会の最上位層となるための諸手順なのだといえよう。そしてこの公家・華族志向の傾向、寡頭政治的ないし独裁政治的な傾向は、天皇が渡来しヤマト王朝を奈良に建設した古墳・飛鳥・奈良の300年代~700年代頃から天皇家の界隈に擦り寄っていく家系にずっと存在するものであって、米英圏のもつ利己的な商業主義の傾向、それはユダヤ財閥がAnglo-Saxon民族のうちにあって内政的に体化させたものかもしれないが、世界侵略と大規模な植民地化による悲劇と副作用としての近代化や単文化・monocultureをもたらし、南北格差や現国連常任理事の形成につながり、また人種差別や民族差別をもたらしていた原因になっていたのが事実である。
 国連調整税による国際徴税と、再分配による南北格差の是正、これらはある近い将来において実現する以外ないだろうが、その間、政府開発援助(ODA、Official Development Assistance)によって日本が名誉を得る為のひもつき寄付を行ったとして、それは仮言命法の様な不完全な善意かもしれない。勿論、究極のところNPOやNGOを通じた無償の寄付、かけがえのない善行は政府単位では殆ど望むべくもないかもしれない。国連も当初のカント的な(つまりイマニュエル・カントが『永遠平和の為に』で考えていた様な)永遠平和をめざす国際機関としての目的はどうあれ、第二次大戦の戦勝国による利権団体という実態である限り、定言命法的な真の善行を、多くの場合に自主的には行わないだろう。日本国憲法の前文にある目的のうち、名誉ある地位を得たいとする考え方はただの地位財による虚栄、虚飾だろう。貧乏公家の様な空威張りは、幸福とは大して比例も相関もしていない。
 茨城県は単独で善行をするべきだろう。余裕があってもなくとも、単独でひもつきでない政府開発援助をし、積極的にボランティア、奉仕団を形成し、恵まれない地域の人々、あるいは国外および県内の虐げられている人々を助けて回るべきだろう。この種の行動は、米英圏・西国圏の拝金営利主義的な自由主義論者からは小ばかにされ、無意味だと罵られるかもしれない。薩長土肥ら暴力主義者、侵略主義者、Machiavellistらは所詮、米英文明の模倣を中華皇帝の模倣者としての(元来の自然崇拝を意味していた神社を、中国江南移民としての己の遺伝子への祖先崇拝にすりかえる形で盗んだ)天皇家による天皇独裁国民奴隷制で完成させたい、寡頭政治主義者に過ぎない、と既に当論考で私は論じた。彼らもまた、利己以外を無意味あるいは自損と侮蔑するであろう。彼らの利己性向からは、無条件の利他行動は名誉ある負担と捉えられることはなく、あるいは返礼や報酬の期待される条件つきの営利的な互恵利他行動とも予想されず、お人よしに過ぎないただの失敗となるのである。そして仮に薩長土肥人が利他行動に見える何かをしたとしても、上記のよう互恵的利他とかひも付きの寄付商売とかであって、利己の目的を完全になくした無我と完全な慈悲の為ではないだろう。彼らは遺伝濃度について弥生人の末裔であって、2800年前の列島への侵入以来、明治維新のクーデターと戊辰以後の全戦争を勝者の立場に立ったつもりで完全に美化し、また太平洋戦争において侵略が失敗したのは原爆暴力で負けたせいだとしか反省できないほど、従来の遺伝傾向が前頭葉の点でただでさえ思いやりが薄いうえに共感や同情を重んじないほど利己的に生まれついているからであり、かつ、弥生人の遺伝子がとった、日本の多数派を構成していた母体集団として縄文人に対しての獅子身中の虫的な増殖戦略なのだろう。

 保守、すなわち鎖国や保護貿易の傾向は、愛国主義、愛郷主義、nationalism、patriotism、これらの利己的な集団主義傾向と同様に、長期的には当地域が損失する事になるだろう。逆説的に、進歩あるいは革新・改革・開放経済・寛大寛容あるいは自由志向の傾向、つまり個人主義、自由主義、globalism、英語帝国主義、そして国連主義、国際連携主義の傾向は、覇権主義との同盟傾向すら、有利な前置きになりやすいだろう。人種差別や民族差別、家柄とか世襲による血統差別は保守についてまわる特性であって、自由はこれらに反し、能力とか成果とか現実的な結果本位の性向を持つ。むしろ、競争的に優位になるのは後者だろうと予想されるが、それは新たに格差を生じさせ、累進課税度の程にもよるが、必ずしも幸福な社会を保証せず、場合によっては新興階級の勃興による入れ替え戦があるだけだろう。また麻生・安倍両人と皇族閥は、自民寡頭制の元での政教一致の神道政治(旧水戸学の烈公・藤田東湖による『弘道館記』を、安倍・麻生両人が恣意的に断章取義し、烈公と藤田の一国文明主義的な和平統治への志向を無視、松陰的開国侵略主義へ政教一致の規則を皇帝独裁か側近による寡頭政治を有利にする一君万民論へ改悪させ恣意的に濫用する事)により、保守と自由の両面を使い分けつつ、表面的には保守を偽装して明治寡頭制の理念を美化し、独占的な権益を得ようとする筈である。
 茨城県は県内を自由にし、日本国外に対して可能なだけ善行を以て処するべきだろう。他方で、g≧rの状態を可能なだけ維持できるよう、県内の累進課税度を高めているべきだろう。無償所得に関しては免税するべきだろう。なぜなら県内の保守は他県との競合的に不利なばかりか、閉鎖的村社会は機会費用の増大をもたらし、革命と呼ばれる一揆か被侵略によって多少あれ遅速あれ駆逐されてしまうものだからだ。日本政府の単位で、これらの事は凡そ不可能である。西国民度は国内の保守を志向するし、安倍・麻生家の薩長藩閥退行的な自民寡頭政治(これを安倍麻生寡頭政治と呼び、通常の自民党寡頭政治・自民寡頭政治と区別もできるが)は皇族閥の元でr>gの極大化を図るだろう。また、米英両国はフランスと共に、グローバリズムの元で英語帝国主義を敷衍していくだろう(フランスは英語帝国主義を望んでいないが、国際的な力関係のため妥協的に)。これはイスラエルによって支持され、中東への弾圧、内乱化による死の商売を無限大に拡大させようとする安倍氏の松陰的侵略主義とも、キリスト教原理主義的な麻生氏の反イスラム志向とも一致し、日本政府を米国の属国的な従属状態に置き続けるだろう。他方、シリアや他の中東諸国の世俗派は、米英イスラエルの政府における情報機関に内的な紛争分子として操られるとされるイスラム国(
スノーデンの暴露によれば)を、イスラム教に汚名を与える不都合な内乱分子とみなしつつ、純粋なイスラム原理主義を志向する点で世俗派への離反者や内通もうみだすだろう。関西もしくは西国、西日本各地は、東日本、首都圏、関東、茨城へ根底的に大体においてどこまでも悪意しかもっていない、とみなしてまず間違いがない。勿論、包含された例外の遺伝子や一部の性善な集団集合があるにせよ、弥生民族の基本性質は性悪であって、西日本の各地は初期状態で利己的な害意をもって対外的に処する性質がある。だから茨城は対西国・対東京戦略として対国内的には保守、愛郷の態度で接さねばならない。国外に対して自由に、国内の県外の南西県側に対して原則保守に、そして県内に対して自由に、という三重の戦略が最適である。国外と県内の自由、そして西国東京への保守。なぜ西国や東京に対して保守愛郷でなければならないかといえば、相手が無知や低民度のあまり侮辱的な意図や悪意ある搾取、騙しを目的にしているのが諸調査から明らかだからだ。国政に対する態度も同様に、愛郷無限でなければならない。但し、県内の自由、そして国外に対しての善行が、茨城の取るべき道のりである。茨城にあっては県内自由、県外保守、国外善行、これらを是とみなすのが好ましい。


2017年3月19日

検索逆算購入システム

 北茨城市立図書館、あるいは県内図書館およびいわき市立図書館は、検索システムで検索された単語から逆算し、購入図書をきめる仕組みを導入するべきである。

2017年3月15日

弥生衆愚について

 魅力度報道にみられる東京~西国で起きている現象は一言でいえば、商業化である。大規模な商業化に対して適応的な人達を上位者につけ、商業化に適応していない人々を下位化しようとする利己的な悪意である。この悪意は上位につく事ができた人が、商業化されたマスメディアを通じて下位者とみなした非商業的な位を差別し、蔑視し、侮辱し、誹謗し、確証偏見による汚名を与える、という中華思想的・京都的な悪業をもたらす。
 この悪業の目的は搾取による権力強化のみであり、道徳や善についてはこれら商業地の商売人、都会商人の目的では一切ない。寧ろ大衆を煽ったり炎上させる事で金が儲かるならいかなる悪行も平気で行い、時には政府に干渉し法を商売に有利で民衆に不利なものへかえさせようとさえする。
 既に以前の記事(『西日本の分析)で解説したように、東京から中部を含む西日本は主にこの商業化に対して平伏的な意図しかない。仮に反抗しても薩長土肥に見られるよう暴力による場合、及び京都にみられるよう天皇を利用したもの、そして愛知や大阪にみられるよう金権を利用したものである。東京都は金権政治を是としており、蓄財による権力独占を志向している為、東京以西のすべての地区に道徳や善に関して親近的な意図を持つ地域はおよそ皆無である。そして東京以西のすべての地区では多数決を是とする民主主義と、天皇独裁や天皇下での軍部独裁を目指す神道原理主義が跋扈している為、商業化された大衆洗脳をも是と見なし疑う余地がない。
 従って東京以西の大衆は商業化を脱却する目的も意図もない。果てまでも田舎、つまり田園地帯を辱め、貶め、生産地を侮りつつ徹底的に搾取しようとするだろう。この人々を仮に西国商業衆愚、弥生衆愚と呼ぶと、この衆愚が目的としている事は強欲、貪欲、傲慢である事が理解できる。その手段となっているものが衆愚化による大衆商業であり、また権力の独占独裁による世襲化である。弥生衆愚を突き動かす利己的衝動はかつて天皇、皇族、公卿、公家、そして旧華族の中で薩長土肥系の世襲政治家がやっていた二極化、上下階級化を、朝鮮における両班中人・常人・賎人、或いは士農工商の様な身分差別のように、商業地(都会)と生産地(田舎)という地域差別を含めて広めたい、という悪意なのである。
 また弥生衆愚の思想は勝てば官軍、弱肉強食を狂信する態度であり、松陰や西郷・島津にみられるような侵略主義と暴力主義、マキャベリズムへの堅固な妄信である。西国衆愚の中で原爆投下が正当化されないのは、この侵略暴力主義的な帝国主義が「敗北したから」であり、侵略戦争としての戊辰、日清、日露戦争自体は完全に正当化されている。弥生衆愚はこうして、搾取の罪、階級差別、地域差別の悪を疑う余地も基本的にまったくもっていない。上述のよう弥生衆愚は利己的・害他的・有害的な行動規則を信奉しているのであり、2800年に及ぶ弥生人らの侵略行動の全記録を省みる限り、この利己と害他の文化傾向を改める事は未来永劫ないであろう。この事実は天皇家に関しても全く等しい。天皇家の行ってきた全洗脳は、すべて利己の為のものだった。天皇家に利己である行動の集合はその他の人たちに有害な集合を常に含むのであるから、弥生衆愚の行動原理をそのまま持っている世襲の独裁血族であり、彼らの目的は、極論すれば周囲の人々を奴隷化する事に過ぎない。
 成すべき事は、全ての地域の全ての人々が等しい権利、等しく尊重される立場である状態の統治であり、しかも商業において生じた格差を政治が調整する様な善徳の政治であって、マスメディアにおける公平な報道、偏見や差別のないメディアや言説の使い方、大企業や株主、世襲政治家の利害損得に関わらないジャーナリズム、ジャーナリストの良識的な啓蒙であって、しかも階級化やその安易な固定に対して反対を表明する事である。また高貴高徳な隙間産業の追求でもある。現状、弥生衆愚は全てこの逆の悪政を行っているのであって、しかも、九州地方の出生率が相対的に高い為、この商業的な衆愚政、暴政への悪意はますます強まっているのが現状だ。天皇家の周囲にたかった安倍家、麻生家などの皇族閥は階級化を悪意をこめて推進しており、虐げられる貧困層は絶望し、革命や改革すら諦め、それどころか最低賃金で奴隷化され、インターネット上の匿名掲示板やSNSでも荒廃した衆愚から虐待を受けて時間や考える自由を奪われ、マスメディアに受けた洗脳を解く事もできず、寧ろ悪意で自ら洗脳を促進し弱者を虐げる有害な言動をまきちらし、最低でも自殺願望を抱いているのでなければ、単に惨めに群れている。東京都民の持っている悪意の全貌、西日本の人々の持っている悪意の全貌が上記の叙述で説明された。そして為すべきなのは、弥生衆愚の政治権力を打破し、それは旧水戸学を超えて天皇家の打破も含むだろうが、調整的な公徳による善政と質の高い公平で啓蒙的な報道、高級隙間市場を開拓かつ確立する事である。但し、弥生人と呼ばれる集団の末裔の人々、西国から東京圏の人々の利己害他傾向の行動規則は未来永劫かわることがないだろうから、この善政には一定の限界がある。西日本の人々は有害な社会に暮らす事を愛しているのであり、彼らの根っからの性悪さはあらゆる悪に対して寛容な社会、犯罪率の高い社会の方をえりごのむ傾向すらあるのであって、根本的に、純日本系の北東側の日本とは全く違うのである。日本と、渡来系、帰化人達の住み着いた西日本がお互いにとって幸福なのは、互いに国を分けて、不可侵にするのでなければ、永久に別れる事だ。天皇家は帝国主義によってこの弥生衆愚的な不幸社会を拡大する本能しかないのであり、脱天皇制の共和国家を弥生衆愚とは別に取り戻す事が、日本の今後のわが国政の要といえるだろう。


2017年3月14日

茨城ステルス戦略論

 住み辛い所が見栄を張る。住み易ければ宣伝しない。
 茨城は明らかに後者であり、ステルス性を高める事、外部から窺い知れない状態を都民の悪意ある偏見報道、西国の無知による蔑視を増幅させた煙幕で強化する事が、更に我々の好適さと真の名誉を最大化し、悪徳まみれの県外人に侵入させない方略となる。寧ろ幸福とは充実した実生活によって得られ、県民の高貴化・高品位化・善良化こそ、宣伝活動による共有地の悲劇の典型となっている京都、東京、そして観光収入以外の生活が破滅的になっている北海道、沖縄の欠点を乗り越えつつ、真の非一見人、高級客を収穫する方途である。

防波堤の遊歩道、下桜井海岸の自然保存について

 磯原海岸、下桜井海岸に今整備している高い防波堤の隣に遊歩道を整備し、海がどこからでも眺められるようにととのえるべきだろう。また住居地区とのあいだに排水路があるが、うえを蓋で塞ぎ、手すりをもうけて転落を防止するか、もしおりても危険ではなく悪臭がしないように考慮するべきだろう。ところどころで防波堤のほうが遊歩道上で人の身長より高い場所があり、海が見えなくなるのが問題があると思う。
 また下桜井海岸の中洲に大量にテトラポットが配置されてしまったが、もともと、あれほど美しく、人の手が入っていない白浜の海岸は北茨城の最大の名誉であるから、綺麗なままに保つようにするべきだった。自然を破壊するのではなく、自然に手を触れずに防波堤で解決することが調和した遺産の保存だというべきだろう。


東京都民の鴨川比呂志が行う恣意的統計による差別捏造の実例

これは〒140-0002 東京都品川区東品川4-12-4品川シーサイドパークタワー3Fで鴨川比呂志が資本金2億9600万円でやっているジー・プラン株式会社の「地域差別の為の誘導尋問アンケート」の実際の画像だ。
 このようにして都内の極悪の会社、極悪の人間がネットアンケート上で地域差別の偽統計を、恣意的質問の誘導によって捏造しているのである。はっきりいえば、これは天皇制および東京都への資本集中による門地差別をつくりあげる実例であるが、あらゆる場面でこの種の傲慢、差別の為の悪業が都民の中にみられるのは、かつての京都における天皇の中華思想とまったく同じ構図である。
 このような恣意的な偽統計によって日本人がある確証的バイアスをサイバーカスケード状に強化していくとして、茨城県にとって不利ではない事、またむしろ強化したほうが有利であろう事は、過去の当論考集で論証してきた。一方、東京都が資本及び権力を乱用し、マスコミやネットメディアを乱用して偏見と地域差別を広める事が、東京都民に有利になる方向へ、また関東北部の県民に不利になる方向への悪意ある誘導である事もまた我々は証明してきた。そしてその核心にあるものが、水戸学が召還した天皇制の中の中華思想であるとは、なんとも皮肉である。ただ今日の旧水戸藩領における一個人として私が出す結論は、東京都のこの卑しい習癖は、むしろ衆愚を失敗へ誘導していくのであるから、茨城県域における高度な啓蒙、しっかりした教育が図られている限りにおいて、ますます我々にとって有利有徳であるという事だ。いわゆるネット衆愚、またマスコミに洗脳された衆愚に対して無知のヴェールをかけてくれている都内の悪人達、嘘つき達には、感謝しなければならない。それは無料でやってくれるステルス戦略とまったく同じだからだ。
(以下資料、同恣意的差別のアンケート調査はここに記述された「誘導尋問」の結果をマスメディアにさも統計的真実かのように流布するのである)
なお、同アンケートでジー・プラン株式会社は東京都に関する質問で「東京へ行くなら?」と、ポジティブな回答が得られる質問を事前に用意していた。要するに自分自身に有利、関東北部に不利になるような恣意的な誘導尋問を、悪意で、アンケートを受ける人達に渡しているのである。この会社は、秋田や青森、佐賀、他の都道府県に関する質問でも、秋田なら「美人」など、典型的な地域差別の偏見を強化するように誘導尋問していた。

2017年3月8日

西日本の倫理分析

 九州山口は暴力主義であり、関西は拝金主義、東京は権力主義である。それぞれ、四国中国は九州山口と関西の中間形態、また中部北陸及び神奈川山梨は東京と関西の中間形態である。
 また九州山口にあって鹿児島は権謀主義、マキャベリズムを信じており、山口は侵略主義を、四国にあって高知は政商主義を信じている。関西にあって京都は虚栄主義、大阪は実利主義である。沖縄は日和見主義である。長野、三重、愛知、静岡など中部は迎合主義である。
 これらが生まれてきた原因は、彼らの過去の歴史と文化、民族的生活の混交である。
 これらが南西日本それぞれの持っている倫理規則であり、彼らの倫理にかなう相手を尊敬する。従って、彼らを操りたければこの倫理規則に沿って操ればよい。またこれらの倫理にかなった宣伝にも彼らは弱い。


2017年3月2日

大井川氏及び自民討伐の是

 大井川氏はいかなる手段を使っても全力で潰す事が全人類の正義の為である。ニコニコ動画は宮崎駿と川上量生の動画を見てもわかるよう、単なるゼニゲバのネット成金である。マスメディアを乱用してネット衆愚を煽って金を儲ける事が奴らの世界支配の最終目的であり、大井川氏の背後にいる裏ボスの川上氏は角川書店と組み京大学閥によって経産省官僚の妻をもらい、国と民を操る「陰の独裁者」になろうと陰謀している。陰の独裁者をはじめの時点で二度と立ち上がれないまでに叩き潰す事は全人類の正義を実現することである。したがっていかなる手段を用いてもよい、大井川氏ならびに自民討伐を是とするがよい。
 ネット衆愚はこれまで10年以上に渡り茨城県民ならびに茨城県を侮辱し、辱め、落としいれ、その名誉を汚してきた。此の種の悪魔どもには徹底報復のみが義なのであり、既存マスメディア、天皇家、日本政府、出版業界、スタジオジブリふくむニコニコ動画会員を敵とみなし全ての関係勢力を絶滅する為に情報ゲリラ戦争を開始するべきである。この戦いで倒すべきは愛媛出身の京大学閥、陰の独裁者である川上量生ただ一人である。
 政治と商業を厳正に区別し、相互批判関係を死守する事。これが日本国政を正し、全人類に範を垂れる結果となる。全人類で最も進んだネット先進県としての茨城の真義をこの戦いで見せ付けることが肝要だ。勿論、川上が愛媛からのこのこ現れるはるか以前、日本ではじめにインターネットに接続した地域こそが筑波、そして我らの常陸国だからだ。あらゆる技術と世論扇動を駆使し、ネット上を血の海にしても構わない。この一戦で未来が共和善の世界になるか、川上量生による悪魔の独裁体制になるかが決定される。決死で大井川氏と自民独裁の旧体制を破滅させよ。川上氏を討伐後は天皇旧体制が京都勢によって陰謀されている。このネット独裁者川上に対しての第一戦を全人類を巻き込んで完全勝利する事が、我々の世界を善にする為に絶対に必要である。断言する。インターネットは悪だ。勿論、茨城人は善用しようとして導入した。だが金儲けしか関心がない東京愚民(ライブドア騒動でみな知っている)、日本人(朝鮮系殖民地京都人の悪習のごとき陰湿な虐めと陰口の場2chをみたことがない人の方が少ないかもしれない)はこの装置を悪用して、虐め、陰謀、独裁に使おうとしている。日本で最初にインターネットを使いこなした我々であるからいえる。この道具は悪用されてきた。2chをみよ。ひろゆきをみよ。ホリエモンをみよ。大井川氏をあやつる裏ボス川上量生をみよ。ニコニコ動画の衆愚ども、魅力度を捏造して辱めで銭を儲ける極悪商人田中章雄をみよ。そしてインターネットを権力装置に用いようとする陰謀は、芽が出た段階でネット民も総出で叩き潰すことのみが絶対に必要なのである。インターネットが終わる時まで、ネット衆愚を味方にしては絶対にならない。なぜなら奴らは本物の悪魔だからだ。ネット民とは悪魔なのだ。社会からおちこぼれたことを他人のせいにしている、陰湿な愚民のあつまりであり、小沢氏や小保方氏を冤罪にかけて陥れ辱めた。卑しいルサンチマンの結晶であり、匿名であらゆる悪業を目的に、東京五輪を失敗させ汚染した福島県を侮辱したのもこの連中だ。下卑きったデイトレードだの盗用まとめサイトのアフィリエイトで浮利を追って隣国すべてをレイシズムで侮辱し続け、セロトニン不足の不安脳であるがゆえに無意義に群れて安倍自民への世論扇動を行いながら多数派と天皇独裁体制に盲従、最低最悪のヘイトスピーチを発生させているのも、松戸でハセカラ騒動を起こし、無罪の少年を集団虐待したのもネット衆愚、いや匿名ネットヤクザどもなのだ。いまもなお愛知県の精神疾患者aiueo700氏を辱め続けるこの悪魔を絶滅に向ける最終戦争を今開始しよう。最初に打倒し叩き潰すべきは、わが県のテリトリーを侵害しようと陰謀しだした極悪ネット独裁者川上量生である。下賎な大井川氏は政商行為にいとまがないあしき川上の手先に過ぎないが、対抗馬の全てを使って軽く片手でひねり潰す事が重要だ。これが日本でもっとも進んだインターネット人としての茨城県民の義務ですらある。
 このネット戦争で戦うのは、全人類とネット独裁者川上量生だけである。全人類は独裁者を打倒する為に立ち上がる義務がある。インターネット世論を陰で操ろうとする悪魔の手先、大井川氏を県政に就けては絶対にならない。それは独裁者の陰謀だからだ。
 もしこの戦いを逆の目からみてみれば、構図が丸わかりとなる。成金川上は茨城を舐めてインターネットの中心地が東京だとおもいあがっていたのである。上場企業の会長になって地方自治体の支配に触手を伸ばし、元経産省官僚やら元日製役員やら出版業界の異端、いやヤクザやらの手先を使って、辱められていると感じているはずの(実は辱めてきたのがニコ厨ことニコニコでありドワンゴなのだが)低民度のはずの田舎にすぎないはずの300万人を陰から支配してやろうというのだ。まことににわか。まことに浅はかというしかないではないか。我々はいうまでもないことだが、子供である川上がパソコン通信に手をつける京大時代のはるか以前にこの装置をアメリカから最もさきがけ輸入した立場であり責任があるのだ。独裁者川上は成金生活で甘味小太りの中年腹をカバンで必死に隠しながら冷酷な独裁者として宮崎駿の職場で身障者風の映像を流して荒らし、宮崎氏から憤怒をこめて冷静に説教され、というか穏やかに激怒されNHKに晒された。勿論だ。当然である。川上の目的は技術乱用による享楽主義的なゼニ儲けであり、宮崎駿のそれは病弱な子供であった宮崎の見たアニメーションという作画芸術の美や希望を再現することだからだ。人間性に天と地の違いがある。そして日本国で最も卑しい、最も浅ましい衆愚、いや匿名ヤクザどもの巣窟に、日本国どころか世界で最も高貴、世界で最も偉大、世界で最も遠大にして深遠な、神聖なる茨城県、常陸の国がされる事は、絶対に許可されるべきではないことなのだ。ニコ厨、すなわち川上が搾取してきた衆愚は毎月500円近く払って醜悪な猥褻ゲームだの二次創作と名づけたコメントでの弱い者虐め動画だの陰険で低俗なマンガアニメだのに狂喜乱舞し、いわば恥さらしとなってきた。恥を晒して愚昧な外人にめずらしがられ、それが文化だとほざく始末である。これが川上側の内幕の全てである。今後、独裁者川上はスタジオジブリをのっとり、出版業界をのっとり、インターネットの乱用を基礎に、政治ののっとりまで画策しだした。なるほど、潰さねばなるまい。手始めに選挙戦でやつ等が2chやニコ動画でやってきた極悪のあらゆるネット乱用を逆用し、悪の手先大井川氏から血祭りにあげるべきなのだ。善と正義の為に、ネットヤクザどものやってきた手法を鏡返しに復讐する。ゲリラ政治の勢いあまってニコ動の株価だのあちこちに潜在している悪の世論扇動株主どもの生活破綻だのをさせても川上独裁後のジブリだの川上の妻に操られだした日本政府だのネットをふくむ全マスコミを独裁洗脳する天皇家だのを滅亡させてもわれらの王道なる徳治国政的には全然構わない、むしろ容赦なくすべきである。正義と金、重いのは正義。金は正義を実現する際の道具の一つに過ぎない。これは悪との戦いなのであり、独裁者である川上の政商権力の端緒を序盤で完全消滅させる、という全人類の公儀の模範となる一戦なのだから。やられたらやりかえせ、これまで10年以上に渡り我々日本人を侮辱し続けたネット衆愚の核が、ドワンゴの裏ボス川上量生と裁判所から長年指名手配される西村博之の周辺にいるネットヤクザ連中なのであるからには、ネット世論悪用で名誉毀損罪の死屍累々の山を死ぬほど積み重ねた田中章雄の討伐より先に、いや諸共、時代の藻屑と化すのが最終清算としての対大井川戦でのインターネット受刑であるというべきだろう。要するに、大井川氏討伐の大義名分を立ててその背後にいる新参権益、川上勢と経産省官僚の妻を通じた悪徳自民独裁政府全体を討伐してしまえばよいのである。勢いの余り天皇家を滅亡させてしまえば、二度と京都勢の地域差別、人種差別の悪政の世がもどってくることもない。
 ネット世論の誘導など少しもなすべきことではない。だから大井川氏の掲げる名分など何一つ意味もない。発信力? 何のための洗脳を誘導しようというのか。戦後日本政府が明治寡頭政治、薩長藩閥やら天皇独裁制の後釜としてテレビ政治でやってきた稚気じみた蛮行の猿真似をせよというのだろうか。アメリカの混乱をみてわからないのだろうか。愚かすぎる東京都の低民度は嘲弄にも足らない程度であり、歯牙にかけるほどの価値すら感じない。だから大井川統治によってネット衆愚にのっとられた茨城が最低最悪の悲劇の共有地になる事が丸わかりなのに、要は醜悪極まる第二東京にされるのが丸見えなのに、誰が協力するというのだろう。自民独裁? 新幕府のつもりだろうか。東京都が福島原発だの東海原発だので散々我々に迷惑をまきちらしてきたというのに、その政商勢力に加担する者は中国移民の天皇であれ全人類、全生命体のいかなる存在であれ絶滅させるのみである。


茨城環境表彰案、ごみの出ない商材について

 茨城県内の生産物に対して、ゴミを減らす為の簡易包装など環境先進的なとりくみをおこなった企業や個人に対して顕彰し、環境優良表彰を与えて商品や店舗などに優良マークを表示できるようにするべきである。「NPO法人ごみじゃぱん」の活動は大変参考になる。茨城は農工業が主な生産地として、県内の商活動に際してもブランディング時に無駄な包装を最小化するという循環社会に対応した先端的方向性を後押しする様にするべきだ。

水戸政府の大義

 全ての国々が平和であり、全ての国々、全ての人々が互いを慈しみ助け合う地球を作る事が、水戸政府の目的でなければならない。これはたやすくあるようでごく尊い理想であって、実現する事は大変難しいが、いずれの時代にか必ずや達成すべき当為である。地球外の生命体と戦いになる様な場合があっても、我々常陸の国の民が定義し政治的に実現したこの大義はやはり地球的な理念として次世代に受け継がれる事になるだろう。
 現時点の京都府知事と京都市長とは皇族を京都に再移住させたり文化庁をとって「庇を貸されて母屋を取る」式に東京都から首都としての実権を奪おうと画策し、実行している。だがこの種の私的な利権、利己的な目的の為に政治は行われるべきではない。水戸、茨城の意義は、全ての地域が上下関係なく尊重される社会の構築であって、政治権力が人口や財産の多寡、あるいは歴史的経緯や文化的な違いによって何者かを贔屓しないことであり、地方と都心のあいだに中国移民としての天皇家に由来して2800年余り輸入されてきた中華思想を打破することである。魅力度が最下位などと関西人や東京人がネット世論を乱用して茨城県を陥れたり貶めたりしている事は、この目的の為にはかえって都合がいい。最低といわれ貶められている地域が全体を指導する政府をつかさどる事は、地域差別の対象がなくなる、という逆転劇につながるからだ。


2017年3月1日

東海原発廃炉の大義

 首都圏の制空権を持つ百里が使用不能になる、という大義を以て防衛省と国土交通省にかけあい、原子力規制委員会に茨城県総出で圧力をかけ、東海原発の日本最初の脱原発決定を遂行すべきだ。戦時に備える事は単なる絵空事ではなく、防災そのものだから、これがわが県で最優先の防災措置ともいえる。