2015年10月30日

なぜ茨城の上位文化の魅力が低俗な都民には理解されないのかについての考察

 東京マスコミは商業主義で、茨城の主要産業は農工である。こうして東京に適応している人、もしくは東京に近い社会類型を魅力的と感じている人種には、永久に、茨城県側の質の高い幸福や、生活満足度をそうと感じることはできない。これが、東京中心主義の魅力度調査であらわれていることの真相だった。
 そもそも水戸藩主、つまり水戸徳川家が農本思想を引いて現県内で重農主義的な施策を行い、明治以後ならびに戦後もわが県は農工両全化を図った。端的にいえば商業蔑視という新渡戸武士道の原則を、貴族主義の面から、社会倫理的に受け継いだ県なのである。そしてそうである限りは、江戸時代以来、商業主義のみに特化してきた江戸・東京の風儀とは懸隔のはなはだしさを免れえない。
 商業的魅力とされるものは、即ち大衆性であり軽薄で通俗的な人気である。他方、農工的魅力は質実剛健という水戸藩の主義と合致する類の、堅気なハイカルチャー性である。さらに突き詰めると、武士・水戸藩の教養主義(水戸学を代表とする純粋学問)と農民・茨城県の修養主義(立身出世主義)が当県側に残存し、他方で町人・江戸の粋(都市労働者の退廃文化)や山手人・東京のハイカラ(上京者の気取り文化)が都内に存在、こうして茨城はハイカルチャー、東京はローブローあるいはサブ・マスカルチャーに漸近しやすい風土が既存してきたという事だ。それは産業構造がなした社会的相違である限り、双方の産業構造が一致しない限り、民情やナショナリティにも違和を生じさせ続ける。マスコミやサブカルを好む都民は、ハイカルチャー主義の茨城側が尊ぶ事物にはおそらく永久に見向きもしなければ理解も共感もできない。まるでほとんど文化階級のごとくで、今後ともますます開いていく格差となるだろう。
 しかし、我々にとって重要なのは商業化による東京の低俗さの模倣なのではなく、逆に茨城のハイカルチャー性、上位文化性をさらに強化強調し、その個性を強く国際社会に打ち出していく姿勢だろう。なぜならローブロー系は普遍的なものとは限らないからであり、単なる現世利益的な価値づけ、要は金銭至上主義、市場原理主義的なものの集合にすぎない。いわゆる自然をめでる態度とか、自然との調和と尊ぶ態度は田園詩人にみられる、ロマン主義以後の教養人の伝統的態度だったわけだが、これは都会の退廃を憂う知識人の文明批判的意識と対応している。その現代における代表者の1人はイギリス皇太子チャールズなわけだが、わが県わが市にもその先駆者として野口雨情、横山大観、あるいは長塚節や小川芋銭らがいるわけである。ここにはワーズワースを通した田園紳士と田舎武士の文脈の交錯があったのだが(『定本野口雨情』)、他方、もとから都内に住みその大衆文化に浴しきっている者には、自らの退廃に悟りえない。こうしてロマン主義が受け継がれるのは、地方人や田舎者の知識層つまり教養主義や修養主義をもつ郷士・郷紳的階級になるわけだ。さらに分析すると、なぜ都市文化がこういった階級から退廃とみなされるかといえば、東京の様な大都市では人口過密で犯罪率があがるため、風紀全般が当時の法規範やその上部にある倫理と違和する機会が、都心であればあるほど多くなるからである。かつての平安文化への批判が鎌倉文化だったとすれば、『徒然草』に該当記述もあるが、どの時代の大都市的退廃にも意識の鋭敏なモラリストが隠者文学や隠遁者の姿をとってその中心都市圏への文明批評的営為をなし、時代の総体をメタ認知してきたともいえる。
 結局、東京マスコミと連関した魅力度調査とは、この東京の商業主義的マスカルチャーからみた価値づけなのである。そしてそれは東京都の主要産業が商業である事から生じている限り、少なくとも近い将来まで農工主義的な茨城側のハイカルチャー好みと一致することはないだろう。わが県が執るべき施策はむしろ、都民の下賤な好みや退廃した趣味に反旗を翻し、毅然とその真逆の高貴さを探求していく態度の方なのである。さらには、これはむしろ使命といってもいい程のもので、わが国全体ばかりか人類全体の資本主義的マスカルチャーへの総合批判になりうるものだ。そしてイスラム国やイスラム教のテロリズムとは別の形で、旧水戸藩が貴族主義の本質を残存させている、という保守的風土の現代日本文化への援用がかえって、現時代の情報産業段階では適応的となる、と私は予想する。それはクリスアンダーソン『フリー』に書かれている無料の経済体系が情報時代の本質だからであり、これまでの金融資本主義までにみられた搾取的意図をのりこえるには、価値観の根源的変化が必要だからである。すなわち、貴族、われわれでいう武士や侍のなかにみられた無償奉仕や自己犠牲、利他主義といった古き良き精神の復活が現状況で最も社会的に有用である。
 最終的にいうことができるのは、宗教原理主義や共産主義、あるいは社会主義とは別の形で、情報資本主義の中に貴族趣味、つまり利他的奉仕の発露を見つけていくのが、単にそればかりか東京の低俗に媚びず、もとからハイカルチャー主義である茨城県民文化のありのままの姿の世界化、その普遍的流通にとっても最良であるという事だ。またそうであると同時に、この普遍的な意味内容をもつ茨城性は、日本と世界に最大の啓蒙を与える世界史的に意義のある文化となるだろう。