岡倉天心の著作と、野口雨情の著作を市内にそろえおくべき。書店、駅の観光案内所か売店、市役所、五浦美術館と雨情記念館、雨情生家に。
又、ウィキペディアによれば、実際には芹沢鴨という新撰組初代筆頭局長の人物が養子先の北茨城市中郷育ちであるかもしれない。生まれ、主要な拠点は行方市。芹沢といえば鉄扇が目印なので、中郷駅周辺をこれから再開発するにあたってまちぐるみですでに芹沢を振興している様である行方市と相談のうえ、この鉄扇を地場性のたかい観光物産として特産化などすれば宣伝効果も一理あるか。勤皇の士としての芹沢の実直さに焦点をあてて、小説や映画などをつかい、となりの磯原などあるいは北茨城の風土と関連しているかもしれないが子供好きで、水戸学の影響をうけ善意が深過ぎるゆえ誤解されがちである、物怖じしない勇壮なやんちゃ者、という本来の像へイメージチェンジをはかりつづけることも必要かもしれない。実際、芹沢はきわめて悲劇的な最期であり、むしろ新撰組こと壬生浪士隊の多摩出身近藤らが、芹沢ら実直な志で出発した水戸組をあやまってしりぞけた歴史は、かれらが無意味で自滅的な仲間割れによりすなわち実行力のある勤皇主義をうしない、時勢から脱落していくきっかけになったといえる。事実、のちに「水戸藩士を敵にした報いとして」東山道鎮撫総督府大軍監となり立派に皇軍を継いだ水戸藩士鯉沼伊織が直接、賊軍におちぶれることになった近藤勇を処刑する役になったのをみれば、芹沢と鯉沼との時勢を両面から見る水戸藩士としてのこの悲喜劇的軌跡はあきらかとなり、かれらの本懐である勤皇がどちらからみてさえ正しかったと立証できるだろう。
もしかすれば、オーパーツ(OOPArt: Out-of-place artifact)としての後醍醐天皇のものと想定される菊花紋の発掘物のある古墳などを勤皇の貫徹という文脈に絡めて整備する事も、これに関連しているかもしれない。
また立地的には長久保赤水の家は中郷駅から直進すれば高萩駅よりはるかにちかいので、この事跡を紹介するにあたって高萩市と協力していくことも重要。明治以降の市町村令以前も、事実上南中郷と現高萩市域は行政面でもほぼひとつづきであり、安藤朴翁『ひたち帯』によれば関もなく交通は自由だったのだろうから、赤浜そのものがどちらともいえない立地にある。
茨城県は鰻丼の発祥地だから、水戸藩士大久保今助を出身地の常陸太田市や牛久沼、水戸市の商工会議所は憲章し、地産地消の鰻丼を江戸から逆輸入し、真の特産とすべきだ。